ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <書 抜き書きメモ 52>

酒井忠康
早世の天才画家
――日本近代洋画の十二人
中央公論新社、2009年

まえがき

人生と芸術との混同というのは視点を変えれば、それは日本の近代美術それ自体が、人生や牛活感情から自立する力に欠けていたことを示している。したがつて人生と芸術とを混同するところに生じる「美しき誤解」を避けなければ、真の意味の評価を得ることはできない。わたしはこの種の誘惑に端然としていられない性質だが、だからといって、人生的、文学的解釈をもってよしとするわけにはいかない。ある種のロマンの効験をあてにした「ささやかな願い」が入り交じって、多少、感傷的な気分を誘発させているエッセィもなくはない。まあ、勝手な言い草とうけとられるだろうが、画家たちの短命はもとよりそのこと自体が価値なのではない。(p. iv)

 

一 雲のある自画像――萬鉄五郎

ことに「自画像」は、それを描く画家自身の内部から発する自己検証の欲求を隠すことはできない。自分を他人のようにみる眼は、同時にいちどならず他人化してみた自分を、また自己同一化しなければならず、その意味でも「自画像」という主題は永遠に自他の分裂を意識させる。唐突な印象をあたえるかもしれないが、このふたつの対立の意識を自己の内省的な精神界において同一化する傾向は、レンブラントに代表されるように、「北の画家」にこそ顕著な傾向なのである。それは、表現された世界のもつ造形性のなかにひとつの完結をみるというより、自己の思想形成つまり人間形成を重視するところに根拠をおくからなのであ
る。(p. 6)

 

二 写実の森のなかで――岸田劉生

 

三 運命の画家――中村彝(つね)

 

四 心象の回路――小出楢重

五 宿命の十字路――村山槐多

かつて森鴎外は、短命の画家原田直次郎にかわつて黒田清輝の登場におけるその性急な交代――官僚的な美術政策とつれだって、官展ァ力デミスムを用意――を痛恨したが、不思議なことに短命の画家たちの多くは、情実を含む画壇的な世界の外に身をおき孤立していた。その典型的な例が青木繁である。若くして画壇の脚光をあびるが、画壇の腐敗ぶりに抗して悲惨な道を歩み、短い生涯を閉じている。青木は短命の画家が、呪われた天才の衣裳をきられて、いわゆる「異端」の画家となる第一号といっていい。関根正二や村山槐多は、二十歳代なかばにも達せずに、彗星のごとく去り、この「異端」の画家の星座に連なっている。靉光ゃ松本竣介もまた暗い戦争の谷間で、実存的な己れの生のあり方を問いつめていた――というように、それぞれ短い生涯を賭して表現しょうとしていたことの意味は、きわめて重
いといわなければならない。 (p. 94)

槐多は対象を合理化することを本能として知つていながら、自己の内部からあふれるばか
りに噴出する詩魂を、その合理の儀牲にできなかった――ここに槐多の詩と絵画の宿命があ
ったというのが、わたしの考えである。
宿命は自分の手で検証できるものではない。あばくことはできないのである。したがってたえず槐多を予感のなかでおびやかすものとなる。槐多もまた自己の宿命に強迫されていた
からこそ、第三者は緊迫した描線の背後に、槐多の画像の源泉ともなっている詩魂の熱気に
打たれるのである。 (p. 104)

余談になるが、二科展出品作のうちの一点を横山大観が当時の金十円で買い、《カンナと少女》は後に槐多の墓石の代金となった。有島武郎が一九二〇(大正九)年に百円で買いとってくれたからである。
この二点の水彩画は、槐多が小杉未醒のもとに寄宿し、再興された日本美術院の研究生と
なっていた時期のものである。(p. 116)

かつて高村光太郎は、槐多にささげる詩のなかで「強くて悲しい火だるま槐多」とうたったが、これは見方をかえれば、大正期という時代を特徴づけていた個人主義にもとづく近代の思想を対自的なものとなしえないまま、まさに「火だるま」のごとく格闘して「野たれ死
にした若者」ということを意味しているのかもしれない。(p. 127)

六 幻視の画家――関根正二

「ふいに『死』が彼らの作品の額縁となる」(亀井勝一郎)としても、その死への予感をはらんだ燃焼に、一種の敗北をみるのであれば、少なくとも関根の場合にはあてはまらない。末弟をモデルにしたというプリヂストン美術館の《子供》の眼差し、あるいは近所の少年をモデルにして一輪の花をもたせた横向きの《少年》があるけれども、いずれのモデルの眼差しにも死への予感や敗北感はない。それは永遠なる未完のなかで、この幻視の画家の無垢な魂を救済している。 (p. 143)

いずれにせよ、十九歳の《自画像》は《三星》のなかで、はじめて生彩をはなつ。地上では、ついにあがなわれぬと知った自己の願いを、ひたすら星にたくして描いている。それはまた、青春の愛において、ひとつとして成就することのなかった画家が、死を予感して描いた自画像を、男と女が逢うときの「星象」として、オリオンでの「三星」のひとつにしたというのはきわめて暗示的である。画家というよりは詩人の発想といっていい。
「三星」は「三大星(サンダイショウ)」が訛って「三大師」の意味となったものらしく、東北の一部では「サンダイシ」とよばれていたらしいが、題名はそのことと無縁ではあるまい。(p. 151)

 

七 造形の思索者――前田寛治

 

八 半開きの戸口――佐伯祐三

一九二三年に東京美術学校を卒業。同年に妻子をつれて渡欧。翌一九二四年から二五年の暮までパリに滞在。一時、日本に帰国し、再び一九二七年秋からパリに滞在して翌二八年夏、ヌイイ・シュル・マルヌのエヴラール精神病院で死亡。画家としての制作期問は、わずか四年数ヶ月のことである。宿痾の結核をかかえた身で、たえず死の不安とたたかつていた画家であるが、晩年の生き方には、まさに壮絶な印象をあたえるところがあって、口本の美術愛好者たちは、深い愛惜の情をもって、彼のことを追想する。
それはちょうど、ファン・ゴッホの生涯とその芸術が投与する、何か悲劇的な運命を想起させる場合とも似ていて、いわば天才にこそふさわしい、ある劇的な行為の姿を、そこにみるからである。晩年の佐伯もまた、ほとんど狂気と身を接して生きていた。その狂気が彼の死を早めたことは事実である。しかし、狂気が画家の想像的エネルギーと密接なものであったとすれば、それはあきらかに創造行為と別のものではありえない。少なくとも短い生涯の間に、四百点を超える作品を描いているのであるから。また、その作品の緊迫した造形の内側から放射する想像的エネルギーには、この画家の、きわめて強靭な意忐の反映を感じさせるものがある。(p. 195)

九 抒情詩圏の画家――古賀春江

時代の美術動向のなかの古賀の存在ということになると、こうした古賀自身の個人的な問題は地均しされてしまつて、これは既存の自然主義的な体質をもつた画壇の桎梏からの解放でもあったということになる。シュルレアリスムがまさに超自然主義であると同様に、反情緖的であるという意味で、古賀のもっとも本質的な詩情が、ちょうど左翼文学(「プロレタリア派」)の隆盛によって、内部崩壊を招くことになった新感覚派文学(「芸術派」)のケースに似ているのではないかと想像させる。 (p. 219)

一点の作品をめぐって、このように自分の見方や感じ方あるいは考え方を、詩の領域につなぎとめようとしたのは、おそらく (あくまで推測の域を出ないが)、絵画はあくまでも「つくられた世界」としてあるけれども詩というのは生成の過程を示すものだからであろう。一端、描かれてしまえば、こんどは絵それ自体がものがたることになる。しかし詩はちがう。古賀の「観念の素材」のままに、詩というのは思惟と結びつくものだからである。
おそらくシュルレアリスムにおけるコラージュ技法のなかに、古賀が「観念の素材」すなわち詩というのは「ことばの素材」なのだということを実感として感じ取ったところに、絵画と詩の両方を、むしろ積極的な自己表現の具とした理由があつたのではないだろうかとい
うのが、わたしの解釈である。 (p. 223)

 

十 透明な響きを――三岸好太郎

 

十一 呪術師の部屋――靉光

 

十二 暗い歩道に立つ――松本竣介

飛躍した言い方をすれば、内に宮沢賢治の詩を、そして外に盛岡の硬質な市街図をもつことによって、画家松本竣介の誕生は用意されていつたといえる。(p. 316)

わたしは威圧的な議事堂と、この人物とが対照的に表現されていることを強調したくはない。散文的な眼でみれば、たしかに画面の対照的な配置は時代の様相を批判したようにみえるかもしれない。諷刺の画面ととるひともいる。それはまた第三者の解釈としてゆるされるのであるが、わたしは楕円を描く舗道を画家の記憶の世界にみたてるのである。竣介の作品にしばしば描かれる道や川もまたそうである。これは画家の心のなかにしか通じていかない道や川である。現実の再現ではない。だから画家は現実を仮託した小さな点景人物を配するのである。画面のなかの人物が画家の記憶の橋をわたっていく――竣介の心のなかに姿をあらわすヒュ—マニズムの影であつたろうというのが、わたしの解釈である。 (p. 321)

時代がつつむ険悪な空気のなかで、小さなヒュ—マユズムの影にかわって自分の肉体をまるごと侵すことよりほかに方法がなかったとすれば、当然、画家自身が明日に向かってふく風の前に立たざるをえない。わたしは《立てる像》をみるたびに、画家が現実という名のさまざまな鉄拳で打たれることを覚悟していたように思う。それは恐ろしいまでに矛盾をはらんだ現実である。(p. 322)

わかりやすい作例をあげれば、《街》(一九三八年)と《運河風景》(一九四三年)との間にみられる竣介の都市風景にたいする対応のちがいである。ずいぶん変化している。別のことばでいえば、モンタ—ジュの手法で描かれた《街》が、あくまでも都市の全体的な相貌とかかわっているとすれば、《運河風景》のほうはより具体的で現実的な場所と結びついているということである。前者はパノラマ的な手法にもとづいて描かれ、画家は都市の外貌を気にしているが、しかし、いまだ都市の内部への眼は獲得されていない。後者はそうではなく、画家の立っている位置がはっきりしていて、心象の鏡にくっきりとした画像を映し出している。 (p. 327)

「東京にすむやうになつた六年前の頃は、あのいらくした街の線も何か新鮮な感覚を持ってゐた。ガソリンの臭ひにも魅力があった。そのくせその頃私は頭痛がして一時間と街を歩く事が出来なかった。だが私は今、街の雑踏の中を原っぱを歩く様な気持で歩いてゐる。
私の回想の中にある自然は現在どこにも求める事は出来ないだらう。トタン屋根とガソリンは田舎の隅まで行き渡つてゐる現在である。
私は自然をさがさうとは思はない。いつでも持ってゐる。私は田園を愛するやうに都会を愛してゐる。どちらも私には今では同じだ。そしてまた両方がなくとも困らない。只現在すベてのものが都会化して行きつゝある。現在の都市は都会に住みなれてゐるものでも、本心に息苦しいものを感じてゐるだらう。原つばを歩いてゐるやうな気持で都会の雑踏を歩く事の出来るやうになった心に、私は何か生命の創造のある事を感じ出してゐる。」(松本竣介「でつさん〈都会・田園〉」(『生命の藝術』一九三四年六月号)(p. 328)

岐れ道や交叉点、そして橋や建物の背後へまわり込んでゆくような道沿い――などを後介は好んで描いている。そのほとんどは人気がない。ほんらい、ひとの往来が頻繁にあってしかるべき場所でありながら、ひっそりと静まりかえっている。不思議な都市空間となっている。《塔のある風景》(一九四二年)などもニコライ堂を描いた一連の作品のひとつであるが、ここにも人気はない。竣介はニコライ堂をあらゆる角度から描いていて、建物の構造に興味をもつていたのではないかと思わせるけれども、それだけではないような気もする。
飛躍した言い方になるが、日本の近代絵画史の「近代」は、風景の遠近法における中景の欠落を、いかに充足させるかという宿願のようなものを担わされていたという見方を、わたしはもっている。江戸の後半期からずっとそうなのである。これはいうならば中景そのもの が「近代」を意味していたからである。
画家が実質的な「近代」の生活空間を視覚の上で獲得するまでは、いつの時期においても中景は不在の対象でしかなかったのである。自己をいたるところに投影しても、それは拡散するだけで、はっきりとした実像を結ばない。しかし竣介の描く《Y市の橋》(一九四二年)あるいは《連河風景》二九四三年)などをみると、画家はむしろ中景に自覚的に身を寄せていることがわかる。 (p. 331)

都市の風景と直面することによって、固有の不在圏を画布に塗り込めた松本竣介でありながら、それはついに断念の思いにもつながっているという逆説をもこの《並木道》はものがたっている。声をかけてみたいという衝動は、けっして画布を告発の戦場にはしなかった画家の、本当の理由を訊いてみたいとの思いにかられるからであるが、おそらく添景の人物は無言のままに通りすぎてゆき、川沿いの一隅で都市の廃墟を予感し、橋の上で日の暮れるのをまっているのにちがいない。(p. 333)

(2012/4/22)