ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <書 抜き書きメモ 46>

ギー・ドゥボール
スペクタクルの社会についての注解
木下誠訳、現代思潮新社、2000年

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1968年の騒擾〔フランスの五月革命〕は、その後の数年間にさまざまな国に広がっていったが、いかなる場所でも、それがいわば自然発生的にそこから生まれ出てきた既存の社会組織を打倒するにはいたらず、すなわち、あらゆる方向に極端に広がり、中心においてはその密度を増し続けてきたのである。攻撃を受けた権力にとってよくあるように、スペクタクルは新たな防衛手段を学びさえした。(p. 11)

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スペクタクルについての――すなわち、世界の所有者たちが作り出すものについての――中身のない議論は、こうしてスペクタクルそれ自身によって組織されている。スペクタクルの偉大な手段が強調されるのは、その偉大な使途について何も言わないようにするためである。しばしばそれは、スペクタクルよりもむしろ、メディア的なものと呼ぶことを好まれる。(p. 15)

商品の論理が、あらゆる商人の競争原理に基づいたさまざまな野望を凌駕しているのと同様に、あるいは、戦争の論理が、頻繁になされる武器の変更を常に支配しているのと同様に、スペクタクルの冷徹な論理が、常軌を逸したメディアの暴走の有り余るほどの多様性をいたるところで統御しているのである。(p. 17)

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単純な理論的な面においては、私がかつて明確に述べたことに対して、ただ一点だけ付け加えればよいだろう。しかしその一点は極めて重要なことである。一九六七年に、私はスペクタクル的な権力の二つの形態――継起的であると同時に競合的でもある――を区別していた。すなわち、集中した形態〔la concentrée〕と拡散した形態〔la diffuse〕である。どちらの形態の権力も、現実の社会を、自らの目的であると同時に自らの虚偽として、超然と上から眺めていた。前者は、一人の独裁者の人物のまわりに凝縮されたイデオロギーを前面に押し立てるものだが、それは、全体主義的な反革命や、ナチスにもスターリン主義にも同じように付随していたものである。後者は、互いに衝突し合う非常に多彩な新しい商品のなかから賃金労働者が自由な選択を行使するよう駆り立てるものだが、それは世界のあのアメリカ化というものを代表していた。このアメリカ化はある面では恐怖を抱かせるものであったが、同時に、伝統的なタイプのブルジョワ民主主義の諸条件をより長く維持することができていた国々を魅了してもいたのである。それ以降、先の二つの形態を合理的なやり方で組み合わせ、より強力であることが明らかになったもの――すなわち拡散した形態――の勝利という一般的基盤の上に第三の形態のものが作り出された。つまり、統合されたスペクタクルle spectaculaire integré〕であり、それは今や世界中に力ずくで押しつけられようとしている。(p. 18)

(……)この現実は今や、スペクタクルを前にして、何か異質なものとして立ち現れることはもはやなくなってしまっている。スペクタクルが集中されていた時には、周縁的社会の大部分がその支配を逃れていた。スペクタクルが拡散していた時には、そのわずかな部分しかその支配を逃れていなかった。そして、今日では、その支配を逃れるものは何もない。理論的に容易に予見できたように、商品理性の意思の歯止めなき完遂という実践的経験は、捏造の世界-化が世界の捏造-化でもあったということを、すぐに、なんの例外もなく、示すことになるだろう。(p. 20)

今や生産のみならず知覚の全体まで捏造するあらゆる手段を手にしたスペクトルの政府は、過去の記憶の絶対的支配者であるのと同様に、はるかな将来を組み立てる諸計画を支配する統御できない支配者でもある。この政府は、独りで、あらゆる場所に君臨している。それは自らの即決の判断を実行するのである。(p. 21)

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統合されたスペクタクルの段階にまで現代化された社会は、次の五つの主要特徴を組み合わせた効果によって性格付けられる。すなわち、テクノロジーの絶えざる交換、経済と国家の融合、一般化した秘密、反駁を許さぬ虚偽、永遠の現在、である。(p. 23)

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既に近年の歴史をすべて非合法な存在に押しやり、社会における歴史的精神を非常に広範に忘却させることに成功したこのような歴史の非合法化からスペクタクルが引き出してきた貴重な利益とは、まず何よりも、スペクタクル自身の歴史、すなわち、その最近の世界征服の運動そのものを覆い隠すことである。スペクタクルの権力はすでに、あたかもずっと以前からそこに存在してきたかのように、親しいものとして現れている。簒奪者というものはみな、自分が到来したのはつい最近のことであるということを忘れさせたいと願ってきたのである。(p. 29)

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あらゆるエキスパートはメディア的かつ国家的であり、それを通してしかエキスパートとして認められない。どんなエキスパートも自分の主人に仕えるが、それは、かつて存在した独立の可能性のどれもが、現在の社会の組織条件によってほとんど無に帰せられてきたからである。最も役に立つエキスパートとは、もちろん、嘘をつくエキスパートである。エキスパートを必要とする者たちとは、その動機こそ違え、捏造を行なう人間と無知な人間である。個人が自分の力によってはもはや何も見分けることのできないところでは、エキスパートによって形式的に安心するのである。(p. 31)

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スペクタクルの観客は単に、磐司について無知であり、何にも値しないと見なされているにすぎないのである。ことの続きを知るために常に眺めているだけの者は、けっして行動しないだろう。それこそがスペクタクルの観客のあるべき姿である。(……)イタリアのある政治家は(……)このような言葉を発していた。「かつてはスキャンダルがあったが、今はそのようなものは存在しない。」(p. 38)

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マクルーハンはスペクタクルの最初の擁護者であり、今世紀で最も確信に満ちた愚か者だと思われていたが、その彼も、一九七六年についに、「マスメディアの圧力は非合理にまで強まり」、その用途を変更することが緊急の課題となったことを発見して、その意見を変えた。このトロントの思想家は、かつて、万人が瞬時にして苦もなく入り込むことのできるあの「地球村」によってもたらされた多様な自由に感嘆して、何十年という時をすごしてきたのである。村は、都市とは逆に、これまで常に、順応主義や孤立、危険な監視、退屈、いくつかの同じ家族によって常に繰り返し語られる陰口によって支配されてきた。それこそまさに、今やスペクタクル的な地球の卑俗さが呈している姿である。(p. 53)

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偽物が趣味をつくり、本物を参照する可能性を故意に消し去ることによって偽物自体を強化する。可能になるとすぐに、偽物に似せるため本当のものを作り直すことさえ行われる。アメリカ人は、最高に金持ちで最高に現代的であるために、この芸術における偽物の取り引きにおいて常に騙される役を演じてきた。そして、まさにその同じアメリカ人が、ヴェルサイユやシスティナ礼拝堂の修復作業に資金援助をしているのであるこうした理由で、ミケランジェロのフレスコ画は漫画のように甦った色彩をまとい、ヴェルサイユの本物の家具は、高い値段でテキサスに輸入されたルイ一四世時代の偽の家具とそっくりになるように、きらびやかな金箔で飾られねばならなくなるのである。(p.76)

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もうずっと以前から、あらゆる種類の人々が即決で処刑されるのを見ることに誰もが慣れている。有名なテロリスト、あるいはそう見なされているものが相手の場合には、公然とテロリスト的なやり方で戦われる。モサド〔イスラエルの諜報機関〕は遠くまでアブ・ジハードを殺しに行くし、英国のSASはアイルランド人を、〈GAL〉〔スペインの反テロリスト解放集団〕の秘密警察はバスク人を殺しに出かける。テロリストと想定された人間によって殺される者も、理由なく選ばれたわけではないが、その理由を確実に知ることは一般に不可能である。(p. 81)

権力はあまりにも謎に満ちたものとなったため、合州国大統領がイランに対して非合法に武器を売却した事件の後では、民主主義的といわれる世界でも最強の勢力である合州国を本当に指揮しているのは一体誰なのか、そしてそれゆえ、民主主義世界を指揮しているのは床の誰なのか、と自問することもできるようになった。(p. 84)
[註]合州国大統領がイランに対して非合法に武器を売却した事件――一九八六年一一月に発覚した、レーガン政権のいわゆる「イランゲート事件」。

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愚かな人間は、テレビが見事な映像を見せ、鉄面皮な嘘でそれにコメントを加えれば、すべてが明解であると思ってしまう。中途半端なエリートは、ほとんどすべてのことが曖昧で、両義的で、未知の暗号に従って「仕組まれて」いると知ることだけで満足する。より意志の固いエリートは真実を知りたいと考えるが、彼ら専用のデータや彼らだけが知っている内容の話をもってしても、個々のケースを判断することは非常に困難である。それゆえ彼らは、どれほど普通、報われないままであっても、真理の方法を知りたいと願うのである。(p. 89)

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蒙昧主義と貧困の飢えに築かれるマフィアは、当時、北イタリアの土地には根を下ろすことさえできなかった。それは、近代国家の前では、どこででも、消滅することを余儀なくされているように思えた。それは、都市生活の外の、ブルジョワジーの合理的な警察や法の支配が入り込めない場所にいる遅れたマイノリティーの「保護」下でしか発展できない組織的犯罪の一形態であった。マフィアの防衛的戦術とは、警察と裁判所を無力化し、自分たちの活動範囲内で自分たちにとって必要な秘密に支配させるために、証拠の隠滅を行うこと以外のものでは決してありえなかった。その後、マフィアは、拡散したスペクタクル、ついで統合されたスペクタクルの社会の、新たな蒙昧主義のなかに新しい分野を見出した。秘密の完全な勝利、市民の全面的断念、論理の完璧な喪失、世界中での金銭ずくと卑劣さの信仰、彼らにとって好都合なこれらの条件がすべてあわさって、マフィアは近代的で攻撃的な一勢力となったのである。(p. 96)

マフィアと国家を対立させることによって何かを説明しようとするたびに、間違いが犯される。彼らは決して競合関係にあるのではないのである。実生活においてあらゆる噂があまりにも容易に示していたことを、理論は簡単に証明する。マフィアはこの世界にとってよそ者なのではなく、そこを完全に我が家としている。統合されたスペクタクルの時代には、それは実際、あらゆる先進的商社のモデルとして支配しているのである。(p. 98)

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大衆が考えること、あるいは好むことはもはや重要ではない。それこそがまさに、多くの世論調査や選挙、近代化のための再編成などのスペクタクルによって隠されていることである。誰が勝者であろうと、優しい支持者たちが手に入れるのはいちばんひどい人物である。というのも、その人物こそ彼ら用に作られた人物となるからである。(p. 103)

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販売促進(プロモーション)-管理支配(コントロール)のネットワークから、誰も気がつかないうちに、監視-情報歪曲のネットワークへといつの間にか移行している。かつては、陰謀を企てる相手は既成秩序以外のものでは決してなかった。今日では、既成秩序のために陰謀を企てることが、大きく発展しつつある新種の職業となっている。スペクタクルの支配の下では、その支配を維持し、その支配者だけが順調と呼びうるものを確実にするために、陰謀が企てられる。この陰謀は、スペクタクルの支配の働きそのものの一部なのである。(p. 108)

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スペクタクルの社会の首尾一貫性は、ある意味で、革命家の正しさを証明した。というのも、そこでは、全体を壊さなければどれほど小さな細部も改革できないことが明らかになったからである。だが同時に、この首尾一貫性は、組織的な革命潮流が多かれ少なかれ自己を表現できていた社会的領域――組合から新聞まで、都市から書物まで――を切り捨てることによって、それらの革命潮流をすべて切り捨ててきた。それと同じ動きによって、こうした潮流がまったく当然にも有していた無能力と無思慮も明らかになった。また個人の面でも、この支配的な首尾一貫性は、時たま出現するいくつかの例外的個人を排除し、あるいは買収するきわめて大きな能力を示している。(p. 116)

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現代の社会は、一九六八年までは成功に成功を重ね、自らが愛されていると確信していたが、それ以来、それらの夢を断念せざるをえなくなり、今や疑われることの方を好んでいる。この社会は「無垢な姿でいられることは、もう二度とないだろう」ということをよく知っている。(p. 119)

『スペクタクルの社会』イタリア語版第四版への序文

あるフランスのジャーナリストが最近分厚い本を編集し、その本はあらゆる思想論争を一新するのに最適であると予告されていたが、数ヶ月後に彼は、思想が不足していたからというよりも読者が不足していたために失敗したと説明した。そして彼は、われわれは本を読まない社会にいるのであり、もしマルクスがいま『資本論』を出版していたら、ある夜、テレビの文学番組に自分の意図を説明しに行くだろうが、翌日にはもう誰もそのことを話題にしなくなるだろう、と明言していた。この滑稽な誤りには、彼が出てきた環境(ミリュー)の匂いが強く香っている。今日、誰かが真の社会批判の本を出版すれば、その人物はテレビや他の同種の討論会に出席することは当然差し控えるだろう。その結果、十年後でも二十年後でもまだ、その本は話題になっているのである。(p. 134)

 

(2012/3/2)