ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <書 抜き書きメモ 44>

毛利嘉孝
ストリートの思想
――転換期としての1990年代
NHK出版、2009年

序章 「ストリートの思想」とは何か    

本書のねらいは、新しく生まれてきた若者たちに運動を、「ストリートの思想」という観点から捉えなおすことにある。蹴れども、こうした動向を左翼思想史や社会運動史のなかに回収しようとしているわけではない。むしろ、そこからこぼれおちていくものとして「ストリートの思想」を位置づけようとしているのだ。あるいは伝統的な「左翼的なもの」に対して距離をとりつつ、それを乗り越えるものとして「ストリートの思想」を構想しようとしているのである。 (p. 12)

「左翼」(やネット上で見られる「サヨ」)という言葉によって、具体的な問題にかかわっている重要な社会運動や市民運動が一括りにされて、必要以上のバッシングを受けていることも事実である。
しかし、そうしたことをふまえたうえでも、伝統的な左翼政治の戦略がはっきりと破綻してしまったことは否定できない。これは、新自由主義の流れの中で姿を変えながらも社会民主主義が根づいたヨーロッパや、反グローバリズムの潮流の中で独自の政治文化を形成しているラテンアメリカと比較しても、顕著に日本的な特徴である。少なくとも「左翼」という言葉は大衆の支持を失ってしまった。 (p. 15)

 なぜこうなってしまったのだろうか。いくつかの理由が挙げられるが、とりあえずここでは二つだけ指摘しておきたい。
ひとつは、九十年代から二〇〇〇年代にかけて、産業構造が変化するにしたがってマルクス主義的な左翼運動を規定してきた「階級」の概念がすっかり変容してしまったことである。(……)それどころか左翼の支持基盤は、拠り厳しくされた新しい「階級」の敵になってしまった。
第二に、左翼の最大の武器であったイデオロギー批判が機能しなくなったということがある。イデオロギー批判とは、時代を支配しているイデオロギー(虚偽意識)によって表面上は覆い隠されている社会の矛盾や問題を指摘することである。(……)
二〇〇〇年代の小泉政権以降の政治のスペクタクル化、ワイドショー化は、イデオロギー批判の有効性の限界を露呈したのである。(p. 16)

 ポストモダンの時代の大学知識人は、かつて近代的な啓蒙のプロジェクトを遂行した知識人のように、イデオロギーの外側、社会の外側から発言することができない。大学知識人は、その発言がいかに政治的にラディカルであれ、旧来の制度に守られた特権的な存在にすぎなくなったのだ。
大学知識人によるフリーターやニートの議論がどことなく胡散くさく見えるのは、彼らが状況をうまく分析することはできても、結局分析対象を代弁することはないからである。今日の左翼政治の主体になるかもしれない、新しい階級の人々もそのことにすっかり気がついているので、大学知識人はかつてのように指導的な役割を果たすことができなくなってしまった。
さらに根源的な問題を挙げれば、普遍的な真理の追究を(建前とはいえ)理念として掲げる大学から生まれる言説は、先に述べたイデオロギー批判の限界のために政治文化のヘゲモニー闘争に勝つことができない。端的に言えば、小林よしのりに代表されるような保守論壇のおもしろさに勝つことができないのである。政治的言説のゲームのルールが決定的に変わってしまったのだ。 (p. 18)

 この「ストリートの思想」の特徴を大きく四つのまとめておこう。
第一に、「ストリートの思想」とは、点と点をつなぐ「線」の思想である。ストリートとはなによりも移動の場なのだ。(……)
第二に、「ストリートの思想」とは、ボトムアップ型の実践から生まれる思想である。(……)したがって、「ストリートの思想」は大学のような既存の権威と無縁であるだけでなく、人々を統一し、動員しようとする指導的な思想や党派的な思想とも対抗的な関係にある。
第三に、この「ストリートの思想」は、複数の思想である。伝統的に思想には、一人の名前が冠されることが多い。(……)複数の無名の人々が作り出す思想。あるいは、特定の固有名が冠されるときでさえも、その思想は、複数の人々をつなぎ合わせたり、組織化したりすることを通じて生み出されたものだ。ストリートの思想家とは、オーガナイザーであり、一種のプロデューサーなのだ。
最後に、「ストリートの思想」は、伝統的な思想のように書籍や、論文、活字テキストによってのみ表現されるわけではなく、音楽や映像、マンガ、あるいはダンスカルチャーなど非言語的実践を通じて表現されることも多い。(p. 20)

 (……)政治軸を参照すると、ここで私の言う「ストリートの思想」と最初に区別すべきなのは、広告やメディアが振りまいている一見「ストリート的」なイメージだ。ナイキからA BATHING APEまで、一般に「ストリート的」と思われているものの多くは、無事寝スである。つまり、アメリカのアフリカ系アメリカ人の若者文化からパンクやアナキストの文化までの――あるいは貧困さえも――さまざまな先鋭的文化を商品化することでビジネスを成立させている。けれども、それはあくまで「ストリート的」なイメージにすぎない。企業は、本来のストリートが持っている政治的・経済的背景を消去することによって商品化しているのである。ここでいう「ストリートの思想」は、むしろファッションイメージとしての「ストリートらしさ」が消し去っているものを見出すことである。(p. 24)

 「ストリート的」なイメージ以上に、「ストリートの思想」と対照的なのは、「オタク的な思想」である。ここで、「オタク的」と私が呼んでいるのは、アニメやライトノベル、テレビゲーム、コンピュータやインターネットなどを中心に社会のあり方を論じる一連の若手批評家の議論である。ポストモダン理論理論をしばしば援用しているという点では共通の基盤がないわけではない。また少なからぬ若手批評家が、大学という権威に頼らずに言論活動をしている点は、新しい時代に対応した言説の実践として積極的に評価したい。
けれども、「ストリートの思想」と「オタク的な思想」は、二つの点で対立している。ひとつは、同じく文化を参照軸にしながら、そもそも見ている「文化」が決定的に異なっている点だ。「オタク的な思想」が、アニメやライトノベル、ゲームを「文化」の中心にしているとすれば、「ストリートの思想」は、音楽やファッション、そして、日常生活の経験――人としゃべったり、料理をしたり、歩いたりといった身体的な営み――をもとにしている。(p. 25)

 もうひとつは、政治に対する意識である。「オタク的な思想」の批評家は、政治的な問題に触れることはあまりない。多くの議論において、情報が高度に集約された「オタク的」な風景が、社会や現代人のアイデンティティ一般の問題へと飛躍するのだが、そこには自分たちとは違う世界を見ている人がいるという想像力がいっさい欠けているのである。

こうした政治意識の違いが如実に表れるのは、国家と暴力に対する認識においてである。「オタク的な思想」にとって、国家とは自然で不可視の存在である。「ストリートの思想」にとって、国家とは問題含みの概念である。というのは、一度でもデモに参加したり、政治的集会に行ったりしたことがある人なら、国家とはなによりも抑圧的な暴力装置として認識されるからだ。(p. 26)


第一章 前史としての80年代――「社会の分断」とポストモダン    

 たとえば、音楽評論家の竹田賢一は「音楽のオルタナティヴ」と題した文章の中で、カセットを初めとするインディーズの音楽制作やライヴのネットワークを紹介し、その創造的な力にオルタナティヴな「運動」を見出そうとしている。あるいは、ラジオ・ホームランの中心的なメンバーである福士斉は、小さな電波が作り出す双方的な対話空間の可能性について語っている。こうした議論は、DiY(Do it Yourself)的な文化の創発性を積極的に支持しようとするものである。
おそらく、これは二項対立を三角形へと変貌させるものだ。そして序章でも述べたように、「ストリートの思想」は、この「ポストモダニズム」(思想)と「愚鈍な左翼」(政治)と「DiY文化」(文化)の三辺が作り出す三角形のなかに存在している。 (p. 38)

(……)原〔宏之〕も述べているようにバブル文化は、時代区分でいえばあくまでも八〇年代後半の文化である。原の時代区分にしたがえば、七〇年代に「政治の季節」が終焉したあと八三年までは「戦後」の混沌期を引きずっており、八四年から八六年の間に「戦後」と「ポスト戦後」との決定的な断絶期がある。八六年から八八年のバブル文化への移行期を経て八八年から九三年までがバブル文化期であり、「ポスト戦後」の時代ということになる。
けれども、八〇年代の前半に焦点を当てると、八〇年代の風景は実はずいぶんとちがったものになる。原と同じように、香山リカは、『ポケットは八〇年代がいっぱい』の中で、八〇年代を「プレプラザ」と「ポストプラザ」にわけたうえで、彼女自身にとっての八〇年代とは「プレプラザ」のほうだと述べている。(p. 42)

香山が東京にいたころ、私は関西にいたにもかかわらず、『ポケットは八〇年代でいっぱい』の中に驚くほど同時代のにおいを感じた。これは、八〇年代が、地域や世代別にある程度の均質性を見出すことができたそれまでの文化のあり方が断片化し、それぞれの文化が交錯することなく独自の展開を始める時代だったことを意味しているのだろう。 (p. 44)

 今から振り返ってみるとこのニューアカデミズムは、八〇年代に集約される一時の流行というよりも、学生運動がピークを迎えた六八年以降ずっと続いてきた大学制度の変容と、それにともなって生じた人文学的知識人の変容を象徴するものだった。「大学解体」をスローガンにした全共闘運動は、大学のキャンパスでは一部の党派を除き衰退していったが、実際のところその「大学解体」は、とりわけ人文学や社会科学においては予想しない形でゆっくりと浸透していったのだ。(……)これは、日本固有の出来事ではなく、世界的な潮流だった。六八年まで批判理論のチャンピオンだったマルクス主義的な人文科学も同様である。フランスの構造主義、あるいはポスト構造主義と呼ばれた一連の思想家、アルチュセールやフーコー、デリダたちは、どれも六八年パリ五月革命の経験をふまえたうえで、新しい人文学を再構築しようとしたのだった。 (p. 48)

 日本においてこうした新しい潮流が、大学制度の中でいくぶん周縁化されていた人々によって導入されたのは、けっして偶然ではない。山口昌男は、その当時人文額の中では主流といえなかった文化人類学者であり、柄谷行人や蓮見重彦も主として語学や教養教育を担当しており、必ずしも人文学の中心にいたわけではない。裏を返せば、それまで人文学の中心と信じられてきた哲学・歴史学・文学は、こうした新しい動向についていくことができなかったのである。
ニューアカデミズムにおいても、浅田彰は経済学、中沢新一は宗教人類学という、いわゆる人文学の外部、または周縁から登場した。そして、さらに言えば、中沢が八八年に東京大学の助教授に推薦されたのにもかかわらず否決されたことや、浅田が京都大学の人文科学研究所や経済研究所といった組織において最後まで中心的な役割を果たさなかった(あるいは自ら周縁に身を置いていた)こととも密接に関連しているだろう。ニューアカデミズムは、アカデミズムの周縁として生まれたのである。 (p. 49)

(……) こうしたニューアカデミズム的なフランス・ポストモダンの受容は、日本固有の文脈でなされた。とりわけその理論的な源泉であるポストモダン理論やポスト構造主義と呼ばれている思想と比較すると、無残なまでに政治が脱色されてしまった。
先に述べたように、アルチュセールやフーコー、デリダやドゥルーズ=ガタリは六八年の学生運動「五月革命」の「失敗」――ここでカッコをつけたのは、評価がわかれるからだ――の衝撃から理論を組み立てた。それは伝統的なマルクス主義や批判理論の限界を示す契機となったのである。(……)
日本のポストモダン理論は、結局のところこうした「政治」という問題を最後まできちんと立てることができなかった。この傾向は、ポストモダン理論が、広告や出版といった文化産業との蜜月時代である八〇年代を経て、大学の中で制度化されていく九〇年代に、よりはっきりとしていく。政治活動家としてのフーコーやデリダ、ガタリを、思想家としての彼らと区別しようという、日本流に脱政治化された、不思議な議論が大手を振ってまかりとおるようになるのである。(p. 50)

 イタリアの哲学者パオロ・ヴィルノは、ポスト・フォーディズムが生んだこうした生活様式を六八年の学生運動に対する一つの回答として捉えている。世界的に広がった六〇年代末の学生運動は、基本的には急激に増加した高学歴ミドルクラスの叛乱だったが、それは同時に産業構造の変化に対応する構造改革の要求だった。六八年の学生運動は、学生の側から見れば挫折に終わったが、かといって国家側が勝利を収めたわけではない。実際に勝利を収めたのは、七〇年代を通じて本格化するポスト・フォーディズム的な生産様式とそれに続く新自由主義である。
つまり、ポスト・フォーディズム的生活様式とは、皮肉なことに一方で六八年に代表される学生運動が勝ち取ったものでもある。(……) まさにこの団塊世代が七〇年代以降の新しい日本経済を支えていくことになる。(p. 58)

 さらに興味深いのは、六八年のラディカルな政治意識が、むしろ狭義の「政治」とは異なった、別の領域に流れ込んでいったことである。それは、いわゆる「サブカルチャー」という領域だ。すでに、大塚英志や北田暁大が指摘しているように、一連の連合赤軍の事件には、同時代的なサブカルチャー、コミックなどの影響を容易に見て取ることができる。それ以上に重要なのは、六八年の全共闘運動にかかわった少なからぬ人々が七〇年代に、出版や広告産業(その中にはエロ本業界に代表されるさまざまなアンダーグラウンドな文化産業も含まれている)に流入し、八〇年代後半のバブル文化を準備しつつも、彼らなりの「革命」を継続していたことだろう。ポスト・フォーディズム体制は、六八年が取り残した人々にあらためて活動の場を供給したのである。 (p. 59)

 さらに言えば、コンビニエンスストアの登場(諸説あるが、「セブン・イレブン」の一号店の登場が七四年なので、いずれにしても七〇年代後半から八〇年代に拡大した)に端的に示されるような、勤務形態がフレキシブルなポスト・フォーディズム的労働条件は、プロフェッショナルとして生活できなくても、音楽や演劇、芸術などにコミット可能な、潜在的な――プロとアマとの中間的な――表現者の存在を可能にした。これは、ポスト・フォーディズム体制の発展に対応したものだが、同時に六八年をめぐる政治が獲得し、七〇年代から八〇年代にかけて見えてきた政治的・文化的条件だったのだ。 (p. 60)

(……)この漫画〔岡崎京子の『東京ガールズブラボー』〕は、七〇年代末から八〇年代初頭にかけて、インディーズ文化が国内のいたるところに浸透していたことをはっきりと示しているのだ。それは多くの八〇年代論者が、東京ローカルにしかすぎなかったフジテレビ的なテレビ文化を、自省することなく日本の八〇年代を象徴するものとして描いていることときわめて対照的である。(p. 66)

 『スペクタクルの社会』を著した思想家ギー・ドゥボールをはじめとするシチュアシオニストたちは、商品経済とメディアによって徹底的に支配された現代社会を「スペクタクル(見世物)の社会」と名づけ、この社会では私たちの生が徹底的に受動的なものとして封じ込められていると考えた。
こうした時代に、伝統的な「政治」の領域だけで権力闘争を行うことは不可能だし、ロマンティックな未来の革命を思い描くこともできない。その代わりに彼らは、資本によって奪い取られている都市空間やメディアを自分たちの手に奪還することで、一時的であれ自分たちの生き生きとした「生」を取り戻すことを試みたのだった。
シチュアシオニストの活動は、必ずしも一般的に知られたものではなかったが、六八年のパリ五月革命の際に、「けっして労働するな」や「死んだ時間なしに生きること、制限なしに楽しむこと」「君たちの欲望を現実とみなせ」と書かれたビラや落書きが町に溢れたことによって、一躍注目を集めることになった。これらはみな、シチュアシオニストのスローガンである。(p. 72)

 おそらく、二つのダンスカルチャーが存在しているのだ。ひとつは、資本の流れにそって人々を集め組織し、身体の規律と訓練をはかり、人々を物質的な塊(マス)へと閉じ込め、結果的に今ある権力と資本を維持し、拡大させるような「反動的ダンスカルチャー」である。もうひとつは、人々を集めるものの、けっして統一することはせず、無数の方向へと欲望や身体を解放していくための緩やかな「群」を形成しようとする、「対抗的ダンスカルチャー」である。(p. 77)

 今日八〇年代が語られるときに取り上げられるのは、音楽であればYMOとそれ以降のテクノやニューウエイヴであり、それを取り巻くサブカルチャーやファッションであり、浅田彰や中沢新一といった新しい知のスターの登場とともに現れたニューアカデミズムである。
(……)

けれども、八〇年代初頭の雰囲気の一つの特徴は、先述したように、メインストリームとインディーズとの境界がそれほど明確ではなく、アナーキーで混沌とした様相を呈していたことである。ここ〔『朝日ジャーナル』の「若者たちの神々」〕で取り上げられている「神々」が登場したBGMとして、私がこの章で紹介したようなフリーキーでジャンクなパンク/ニューウェイヴが流れていたことは、いくら強調してもしすぎることはない。(p. 78)

第二章 90年代の転換①――知の再編成

(……)八〇年代から九〇年代にかけて一気に進んだ大学キャンパスの脱政治化の要因を、大学制度やアカデミズムの変容だけに求めるのはフェアではないかもしれない。そもそも、かつて大学の政治運動を担っていた大学生の政治に対する関心のいぇいかも、ここでは決定的な要因だったからだ。そして、ここには全共闘運動以降、党派中心主義的かつ男性中心主義的、そして暴力主義的な内向きの闘争を繰り返して自壊してしまった左翼運動一般の問題もある。
こうしたラディカリズムの制度化と包摂、そしてそれに付随したあらゆる敵対性の排除の過程で、左翼的なものからリベラルなものまでを規定していた「戦後の民主主義」そのものが、大学アカデミズムの主流派となり権威になった事実を、私たちはもっと深刻に受け止めるべきだろう。それは九〇年代になると、ポピュリズムを基盤としたナショナリズムと右派的なものの台頭も同時に生み出したのである。(p. 96)

 湾岸戦争は、この冷戦構造が終焉し、グローバルな資本主義経済が唯一の原理として広がり始めた時代の最初の戦争だった。イスラム教国がターゲットにされたのはけっして偶然ではない。それはグローバルな資本主義経済の新たな外部として、設定されたのである。
しかし、その力関係はもはや「戦争」と呼べるほど拮抗したものではない。それは圧倒的な不均衡として現れる。湾岸戦争においては、いざ戦争が始まると、かたやアメリカは絶対的な軍事力を有し、イラクはそれに対抗する術をほとんど持っていない。この不均衡はグローバルな規模での情報操作にも現れる。アメリカを中心とする多国籍軍は絶対的に正義であり、そこに対抗するような議論は封じ込められてしまう。(p. 98)

湾岸戦争という壮大なスペクタクルのタイムかうには、その〔湾岸戦争に対する知識人の反対声明〕動きには広がりがなく、指導料にかけ、声は弱々しく、生真面目すぎるように感じられた。その一方で、大衆を積極的に組織し、動員するには、あまりにも「啓蒙的」に思われた。「啓蒙」が機能するためには、啓蒙する側がされる側に正しく物事を判断できるような普遍的な知識を与え、人々を正しく導く必要がある。公的知識人とはそのような、「啓蒙」という活動ができる人のことである。けれども、こうした「啓蒙」は、全員が最終的に合意できる理念があるという了解のもとで可能なものだ。今日のように世界が複雑化、多元化してしまうと、そうした「啓蒙」的なふるまいは機能しないだけでなく、いささか自意識過剰な、滑稽な営為にさせ見えてしまう。
結局、「湾岸戦争の反対声明」が提起した公的知識人の正しいあり方は、その後二つの方向に分裂することになる。ひとつは、政治のスペクタクル化に対抗する知識人のスペクタクル化、具体的には、テレビなどマスメディアへの積極的な進出、つまり後述する「朝生文化人」に代表される討論番組や情報番組のコメンテーター的な知識人の路線である。
もうひとつは、政治のスペクタクル化に対抗するために、より緊密な人間関係に基づいたボトムアップ型の関係性を構築しようとする路線である。それは、かつてのように理論から出発するトップダウン型・啓蒙型の方向ではなく、政治の現場に身を置いて、組織の形成や維持に積極的にかかわりながら具体的な運動を形成しようとするものだ。(p. 99)

(……)八〇年代から九〇年代にかけて一気に進んだ大学キャンパスの脱政治化の要因を、大学制度やアカデミズムの変容だけに求めるのはフェアではないかもしれない。そもそも、かつて大学の政治運動を担っていた大学生の政治に対する関心のいぇいかも、ここでは決定的な要因だったからだ。そして、ここには全共闘運動以降、党派中心主義的かつ男性中心主義的、そして暴力主義的な内向きの闘争を繰り返して自壊してしまった左翼運動一般の問題もある。
こうしたラディカリズムの制度化と包摂、そしてそれに付随したあらゆる敵対性の排除の過程で、左翼的なものからリベラルなものまでを規定していた「戦後の民主主義」そのものが、大学アカデミズムの主流派となり権威になった事実を、私たちはもっと深刻に受け止めるべきだろう。それは九〇年代になると、ポピュリズムを基盤としたナショナリズムと右派的なものの台頭も同時に生み出したのである。(p. 96)

 湾岸戦争は、この冷戦構造が終焉し、グローバルな資本主義経済が唯一の原理として広がり始めた時代の最初の戦争だった。イスラム教国がターゲットにされたのはけっして偶然ではない。それはグローバルな資本主義経済の新たな外部として、設定されたのである。
しかし、その力関係はもはや「戦争」と呼べるほど拮抗したものではない。それは圧倒的な不均衡として現れる。湾岸戦争においては、いざ戦争が始まると、かたやアメリカは絶対的な軍事力を有し、イラクはそれに対抗する術をほとんど持っていない。この不均衡はグローバルな規模での情報操作にも現れる。アメリカを中心とする多国籍軍は絶対的に正義であり、そこに対抗するような議論は封じ込められてしまう。(p. 98)

湾岸戦争という壮大なスペクタクルのタイムかうには、その〔湾岸戦争に対する知識人の反対声明〕動きには広がりがなく、指導料にかけ、声は弱々しく、生真面目すぎるように感じられた。その一方で、大衆を積極的に組織し、動員するには、あまりにも「啓蒙的」に思われた。「啓蒙」が機能するためには、啓蒙する側がされる側に正しく物事を判断できるような普遍的な知識を与え、人々を正しく導く必要がある。公的知識人とはそのような、「啓蒙」という活動ができる人のことである。けれども、こうした「啓蒙」は、全員が最終的に合意できる理念があるという了解のもとで可能なものだ。今日のように世界が複雑化、多元化してしまうと、そうした「啓蒙」的なふるまいは機能しないだけでなく、いささか自意識過剰な、滑稽な営為にさせ見えてしまう。
結局、「湾岸戦争の反対声明」が提起した公的知識人の正しいあり方は、その後二つの方向に分裂することになる。ひとつは、政治のスペクタクル化に対抗する知識人のスペクタクル化、具体的には、テレビなどマスメディアへの積極的な進出、つまり後述する「朝生文化人」に代表される討論番組や情報番組のコメンテーター的な知識人の路線である。
もうひとつは、政治のスペクタクル化に対抗するために、より緊密な人間関係に基づいたボトムアップ型の関係性を構築しようとする路線である。それは、かつてのように理論から出発するトップダウン型・啓蒙型の方向ではなく、政治の現場に身を置いて、組織の形成や維持に積極的にかかわりながら具体的な運動を形成しようとするものだ。(p. 99)

(……)八〇年代から九〇年代にかけて一気に進んだ大学キャンパスの脱政治化の要因を、大学制度やアカデミズムの変容だけに求めるのはフェアではないかもしれない。そもそも、かつて大学の政治運動を担っていた大学生の政治に対する関心のいぇいかも、ここでは決定的な要因だったからだ。そして、ここには全共闘運動以降、党派中心主義的かつ男性中心主義的、そして暴力主義的な内向きの闘争を繰り返して自壊してしまった左翼運動一般の問題もある。
こうしたラディカリズムの制度化と包摂、そしてそれに付随したあらゆる敵対性の排除の過程で、左翼的なものからリベラルなものまでを規定していた「戦後の民主主義」そのものが、大学アカデミズムの主流派となり権威になった事実を、私たちはもっと深刻に受け止めるべきだろう。それは九〇年代になると、ポピュリズムを基盤としたナショナリズムと右派的なものの台頭も同時に生み出したのである。(p. 96)

 湾岸戦争は、この冷戦構造が終焉し、グローバルな資本主義経済が唯一の原理として広がり始めた時代の最初の戦争だった。イスラム教国がターゲットにされたのはけっして偶然ではない。それはグローバルな資本主義経済の新たな外部として、設定されたのである。
しかし、その力関係はもはや「戦争」と呼べるほど拮抗したものではない。それは圧倒的な不均衡として現れる。湾岸戦争においては、いざ戦争が始まると、かたやアメリカは絶対的な軍事力を有し、イラクはそれに対抗する術をほとんど持っていない。この不均衡はグローバルな規模での情報操作にも現れる。アメリカを中心とする多国籍軍は絶対的に正義であり、そこに対抗するような議論は封じ込められてしまう。(p. 98)

湾岸戦争という壮大なスペクタクルのタイムかうには、その〔湾岸戦争に対する知識人の反対声明〕動きには広がりがなく、指導料にかけ、声は弱々しく、生真面目すぎるように感じられた。その一方で、大衆を積極的に組織し、動員するには、あまりにも「啓蒙的」に思われた。「啓蒙」が機能するためには、啓蒙する側がされる側に正しく物事を判断できるような普遍的な知識を与え、人々を正しく導く必要がある。公的知識人とはそのような、「啓蒙」という活動ができる人のことである。けれども、こうした「啓蒙」は、全員が最終的に合意できる理念があるという了解のもとで可能なものだ。今日のように世界が複雑化、多元化してしまうと、そうした「啓蒙」的なふるまいは機能しないだけでなく、いささか自意識過剰な、滑稽な営為にさせ見えてしまう。
結局、「湾岸戦争の反対声明」が提起した公的知識人の正しいあり方は、その後二つの方向に分裂することになる。ひとつは、政治のスペクタクル化に対抗する知識人のスペクタクル化、具体的には、テレビなどマスメディアへの積極的な進出、つまり後述する「朝生文化人」に代表される討論番組や情報番組のコメンテーター的な知識人の路線である。
もうひとつは、政治のスペクタクル化に対抗するために、より緊密な人間関係に基づいたボトムアップ型の関係性を構築しようとする路線である。それは、かつてのように理論から出発するトップダウン型・啓蒙型の方向ではなく、政治の現場に身を置いて、組織の形成や維持に積極的にかかわりながら具体的な運動を形成しようとするものだ。(p. 99)

オウム真理教事件を契機にして、警察権力に代表される、安全性(セキュリティ)の向上をはかる権力が浮上してくる。オウム真理教的なものを絶対的な「悪」として設定することで、監視カメラからごみ箱の管理にいたるまで、「治安維持」的なあらゆる技術が導入され、対抗的な政治活動をあらかじめ封じ込める動きが活発化する。
やはり景気の悪化があからさまになり、「フリーター」を代表とする流動的階級が社会的な問題になりつつあった九五年に、こうした状況が生じたことは改めて確認されるべきだろう。オウム真理教事件を口実に、敵対的な政治運動全部を視界の外部に追い出そうという戦略だったのである。次章で扱う新宿のホームレスに対する排除はその典型的な例だろう。重要なのは、こうした対策がセキュリティの向上を名目とし、社会の圧倒的な合意形成のなかで行われたことである。
思想的には、社会学的な、より正確にいえば、社会工学的な知識が上昇する。ここで社会工学的な知識と私が呼ぶのは、そもそも社会学が制度化されていく過程において一つのイデオロギーとして登場した固有の考えのことだ。(p. 102)

(……) ここで社会工学的というときは、社会に対するある固有の思考法を示している。社会全体を詳細に(しばしば統計的に)把握し、社会全体を設計し、適切な構造へと調整するという発想に立つ、一種の総合学である。
しかし、ここで把握されるべき対象は、工学的な操作に先立って存在しているわけではない。むしろ工学的な操作――最初のステップとしては、社会調査として現れる――によって作られるものである。社会工学的な操作は、このような作業をとおして、不可視勝つ説明不能であるものを、可視化し説明可能なものに変えていく。だが、それはどうじにトートロジックな操作でもある。というのも、まさにこの社会学的な知識の生産こそが、説明可能な対象を作り出しているのだから。(p. 103)

テレビの場合、スポンサーとそれを獲得するための視聴率が最優先される。時間の制約もある。田原総一朗の才能は、もともとテレビ的な空間に馴染みにくかった政治や経済、社会問題を、一定の時間内にエンターテインメントとしてパッケージ化した点にある。
けれども、そのためには彼は議論の枠組みを常にあらかじめ準備せざるをえない。枠組みからはずれたものは、しばしば「現実的ではない」議論として一蹴される。そして、その枠組みそのものが基本的に現実の社会における既存の力関係を反映しているものなので、「だれが現実的でだれが現実的でないか」はあらかじめ決まっているのである。結果的には一見多様に見える議論も、既存の力関係を再生産し強化するだけなのだ。(p. 106)

(……)テレビとは記録のメディアではなく、基本的に忘却のメディアである(だれが三ヶ月前のテレビのニュースを覚えているだろうか)。多くの視聴者は、テレビに出ている評論家に自己同一化し、その主張を真似てもっともらしいおしゃべりをするようになるが、テレビ的な議論の外部に出ることができない。テレビによる政治のスペクタクル化は、視聴者に一次的で仮のカタルシスを与えることで、徹底的に視聴者を受動的な存在へと貶めるのである。
「ストリートの思想」は、メディアのスペクタクル化と結びついた社会工学的知識の円環の外部に存在する。けれども、これは回収できない外部として、あらかじめ存在するのではない。むしろ、政治のスペクタクル化や社会工学的な知識の前景化は、「ストリートの思想」を成立させる条件である。というのは、スペクタクル化は別の対抗的なスペクタクルを呼び起こしてしまうし、社会工学的な知識はその成果よりも、むしろその限界をよりはっきりと浮かび上がらせてしまうからだ。(p. 107)

九〇年代の日本と比較する際に重要なのは、構造主義とポスト構造主義の英語圏における受容である。というのも、とくにイギリスでは、ロラン・バルトらの記号論やジャック・デリダの脱構築、ジャック・ラカンの精神分析、ミシェル・フーコーの権力論や言説理論などフランスの人文学の理論は、形而上学的な哲学や文学の純粋理論としてではなく、それまでの西洋中心的=男性中心的=ロゴス中心的な知識を批判する社会理論、つまり応用理論として用いられた結果、文化研究やポストコロニアリズム理論、フェミニズムとして発展することになったからだ。またそれは、人文学的な知識の社会科学における応用であり、社会学や文化人類学など隣接領域にも大きな影響を与えることになった。つまり、マルクス主義的・西洋中心主義的・階級中心主義的理論を批判的に行進する政治実践の言説として登場したのである。
このことは、構造主義やポスト構造主義が本来持っていた、ポスト六八年という政治的文脈にほとんど触れられずに、人文学という従来の大学の領域にとどまったまま導入された日本の状況と好対照をなしている。日本では、ポストモダン理論はなによりも仏文学・仏語を中心とする外国文学・外国語研究の一環として導入され、その大部分はニューアカデミズムの喧噪が終わると、前述したように、たとえば「表象文化」という名のもとで大学の中で制度化された。それは単に、西洋の理論を日本語で紹介、解説する作業となってしまったのである。ポストモダン理論は普遍的で純粋な「理論」として扱われ、政治の実践に応用されることはほとんどなかった。 (p. 114)

(……)なぜ、この時期、「カルチュラル・スタディーズ」が導入され、それが驚くほど積極的に受容され、しかも、同時に過剰なバックラッシュにあったのだろうか? ここまで述べてきたことをふまえて次の三つの要因にまとめてみよう。
第一の要因は、当時、高等教育、とくに大学と大学院の人文学の再編に際して、伝統的に人文学の中心を占めてきた哲学・歴史学・文学に代わる新たな枠組みが必要とされていたことである。(p. 122)

今から振り返ってわかるのは、この「カルチュラル・スタディーズ」導入のプロジェクトが、その後の大学における知識の生産の質的な変容に、はっきりと対応したものだったということである。狭義の「カルチュラル・スタディーズ」は、その後期待したほどの広がりを見せなかったが。講義の「文化の研究」――映画やアニメ、テレビ、演劇などの研究――は、九〇年代の大学の再編、とりわけ優秀な学生をより多く獲得しようと競争する私立大学の中で広く制度化されていった。(p. 123)

第二の要因は、大学における左派政治の変容である。冷戦構造の終焉とそれに続く社会主義的・共産主義的イデオロギーの影響力の相対的な低下は、それまで人文系アカデミズムにおいて一定の勢力を保っていたマルクス主義や左派勢力の質を変容させた。「カルチュラル・スタディーズ」に対して当初見られた過大な期待と過剰なバックラッシュは、この当時の左翼の不安に対応している。(p. 124)

スチュアート・ホールの日本におけるカウンターパートとして花崎〔皋平〕を選んだことは、大学のなかに収まることのなかった「政治」をふたたび大学の中で考えたい、という「カルチュラル・スタディーズ」導入のひとつの方向性を示したものだった。けれども、そこには当初から両義的な側面があった。つまり、「カルチュラル・スタディーズ」の導入は、大学のキャンパスからリアルで同時代的な政治を追い出すことと引き換えに、政治のラディカルさを大学の中に制度化する――あるいはあえていやみな言葉を用いれば「飼い慣らす」ことでもあったのだ。(p. 125)

(……)第三の要因として、「カルチュラル・スタディーズ」の導入が、九〇年代に一気に進んだ大学のグローバル化の効果のひとつであることは指摘しておきたい。(p. 126)

(……)コンに遅行した国民国家の枠組みに縛られた大学という概念が終わりつつある。アメリカではすでに八〇年代に留学生が急増し、多文化・他民族状態は教室の日常的な風景になってしまった。イギリスでもこうしたグローバル化が九〇年代に進行し、人気のある学部ではイギリス人が数パーセントしかいない、という光景も珍しくなくなっていた。「文化」という曖昧なカテゴリーは、人文学のグローバル化に対応する新しい領域だったのである。(p. 128)

おそらく文化研究のひとつの成果は、あらゆる理論的な実践を再び政治的な実践として捉えなおすきっかけをつくったことである。その中でももっとも重要だったのは、八〇年代には高度消費社会のポストモダン理論として紹介されたフランスの構造主義、ポスト構造主義をあらためて政治的な文脈で位置づけなおしたことだ。(p. 131)

バブル経済の崩壊とそれに続く社会情勢の悪化は、八〇年代のニューアカデミズムの流行とそれに続く大学の制度化の中で隠蔽されていた、ポスト構造主義理論の政治的な側面に再び光を当てることになった。(p. 131)


第三章 90年代の転換②――大学からストリートへ

新自由主義経済のひとつの特徴は、主婦から学生まで(そして、場合によっては高齢者や児童、そして障害者にいたるまで)ありとあらゆる人間をフレキシブルで安価な労働力として編成するところにある。たとえば、大学生は飲食業や流通業、サービス業の人的資源の根本を形成しているという点で、今では重要な労働者である。大学生の存在抜きには、こうした産業は成立しないだろう。働く主婦についても同じことが言える。そして、大学生や主婦という労働力の低賃金と流動性、さらにはグローバルな規模でのさまざまな形の搾取労働が、フリーターの国内労働市場のあり方を決定している。それは、単に若年フリーターだけの問題ではなく、構造的な問題なのだ。 (p. 138)

 代々木公園とレイヴシーンをめぐっては、もうひとつ補助線を引くことができる。それは湾岸戦争である。イラン人が八〇年代末から日本に増加するのは、イラン・イラク戦争が一九八九年に終わったことが強く影響している。復興期のイラン人たちが、バブル期の日本に職を求めてやってきたのだ。そして、九〇年代の日本にレイヴシーンが導入されるにあたっては、やはり外国からのトラヴェラー、とくに湾岸戦争の前後に兵役を逃れて世界中を旅していたイスラエルの若者たちの存在が大きかった。代々木公園の変容には、グローバルな経済と戦争が反映していたのである。
こうしたことをふまえると、前章で紹介した湾岸戦争反対声明を出した知識人たちは、身近な問題に触れることなく、遠くの何やら安全な場所から発言していたように感じられてならない。グローバリゼーションの時代とは、中東問題が代々木公園の問題と直結する問題と直結する時代なのだ。 (p. 145)

九〇年代中盤までは、いのけん〔九二年から渋谷で活動を始めた「渋谷・原宿生命と権利をかちとる会」〕の運動と代々木公園のレイヴシーンやフリーコンサート、オーバーステイするイラン人とイスラエルの人のDJ、そしてブルー点とに暮らす野宿者たちは、それぞれ別の時間を生きていた。けれどもここで偶然の交錯点が生じたことは、「ストリートの思想」を生み出す基本的な前提となったのだ。
そこでは「空間」の共有、すなわち新しい公共圏が目指されていたのである。 (p. 148)

 公共圏が、新聞や論断し、大学から、テレビやインターネット、ストリートへと移行することで、二つの重要な変化が生じた。
第一に、公共圏を構成する主体が変わった。新聞や論壇誌、大学が中心的な役割を果たしていた時代は、職業的な評論家や思想家、大学人や学生以外の人たちが議論を構成することは難しかった。せいぜい投稿欄を通じて、読者として議論に参加するほかはなかった。(……)
その代わりに、広範囲な政治が議論されるようになったのがインターネットとストリートにおいてである。とくにストリートは、実際に、フェイス・トゥ・フェイスでコミュニケートするというその特性のために、対抗的な政治を議論する重要な場となった。そこで中心になるのは、私が「フリーター的」と呼んだ人たち、狭義のフリーターやニート、大学生や大学院生、野宿労働者、外国人たちである。ストリートは彼らが議論することができる数少ない場として浮上したのである。(p. 148)

 もうひとつ重要な変化は、コミュニケーションの様式である。新聞や論壇誌、大学が議論の中心だった時代は、活字メディアによる文字コミュニケーションが議論の中心的な様式だった。このことは、議論の発話者や読者にとって一定のハードルとなり、誰が発言するかを選別した。基本的な読み書き能力(リテラシー)がなければ、議論の中に入ることができなかったのである。
テレビやインターネット、そしてストリートに公共圏の中心が移動したことによって、コミュニケーションのモードも変化した。活字メディアの重要性が相対的に低下し、映像や音楽といった視聴覚メディアがコミュニケーションの中心になった。テレビにおいては、話す内容以上に、容姿や話し方、わかりやすさといったことが合意形成の重要な要素となった。ストリートにおいても、口語のコミュニケーション(おしゃべりやトーク)、そして、そこで流れている音楽やファッション、ちらしやビラ、写真や絵といった視覚メディアが、議論や合意形成の重要な要素となったのである。そしてこのことは、これまでの狭義の「政治」から排除されていたさまざまな人が、別の形の政治に参加する契機となったのである。 (p. 150)

 九〇年代を俯瞰すると、八〇年代がバブル以前とバブル以降にわけられるように、九五年を時代の転換期として捉えることができる。九五年は、立て続けにいろいろな出来事が起こった。一月の阪神淡路大震災と、前章でも述べたオウム真理教による地下鉄サリン事件だけではない。国際関係を考えるうえでも九五年は重要な年である。九月の沖縄県少女暴行事件は、これまでの日米関係のあり方や沖縄の基地問題の矛盾が露呈した事件だった。そして、皮肉なことだが、これをひとつの契機として、東アジアにおける軍備の再編が開始された。また九五年はWTO(世界貿易機関)の設立の年でもある。WTOは、グローバルな規模での自由貿易を徹底的に推し進め、世界中の労働者を恒久的に不安定な状況に陥らせた。私たちが、今日前提としている統一的な世界市場とグローバルな規模の軍隊=警察組織の整備が具体的な形をもって登場したのが九五年だといえる。 (p. 151)

 この文章〔橋本政権の「六大改革」のメッセージ〕には、現在の新自由主義路線のレトリックが、ほとんどすべて出揃っている。まず特徴として見られるのが、戦後の社会が「国民や地域の平等性を求めながら、豊かな国民生活」を目指すという目標にそって形成されてきたという認識である。ここでは「平等性」と「豊かな国民生活」という理念が過去のものとして葬り去られている。それに取って代わる理念が「努力次第でそれ(夢や目標)が実現できる社会」「創造性とチャレンジ精神」、つまりは徹底的な競争原理の導入である。この競争原理のためのキイワードになるのが、「個人の選択の自由と自己責任」であり、そのために必要とされるのが、「抜本的な規制の撤廃・緩和」と「財政構造改革」「行政のスリム化」、そして最終的には国民が「しばらくの苦しさを我慢」することが必要だと言うのだ。 (p. 154)

 ダンボールハウス絵画は、単に文化やアートの問題にとどまらず、政治的に重要な問題と結びついている。新宿駅西口は、しだいに路上生活者を排除しようとする東京都や警察との政治的な抗争の場となっていく。九六年には、「動く歩道」を建設するという理由で、地下通路からダンボールハウスが強制撤去される。その後ダンボールハウスじゃ、インフォメーション広場に集中するような里、東京都や警察と緊張関係を保ちながらも、あたかも村のようなコミュニティを形成していく。一番多いときには三〇〇軒もの「家」があったという。
結局、このダンボールハウス村は九八年二月一四日に自主撤去することになる。二月七日にダンボールハウス村に火災が起こり、そこで暮らしていた四人が死亡したことがきっかけだ。希望者約一七〇名が東京都との話し合いで施設に入り、約三〇名が新宿中央公園に移動してテント村を作ることになった。 (p. 157)

 新宿のダンボールハウス絵画をめぐる出来事は、ひとつの時代の終わりを示している。それは、八〇年代半ばに始まったバブル文化の完全な終焉である。西新宿に屹立する新都庁は日本のポストモダン建築の象徴であると同時に、短期的にはポストモダンを育んだバブル経済、長期的には公共事業によって牽引されてきた日本の高度成長の象徴でもあった。その経済を支えた労働者たちが景気の後退によって職を失い、新宿駅西口に流入したのがダンボールハウス村なのである。

ダンボールハウス村をめぐる闘争が続いた九五年から九八年までは、「政治改革」という路線が開始する時期に対応している。それは都市空間からオルタナティヴな公共空間が次々と奪われていく時期でもある。経済において支配的なイデオロギーとなるのはグローバリゼーションと新自由主義経済であるが、都市空間の管理において支配的になるイデオロギーは、私有化(プライヴァタイゼーション)の徹底と安全性(セキュリティ)の上昇である。 (p. 159)

 もちろん、結果的に警察によって撤去されてしまったダンボールハウス村を、過剰にユートピア的に捉えるのは危険だろう。けれども、新宿という都市の真ん中で、政治と文化が拮抗しながら、ある対抗的な軸を作ろうとした新宿ダンボールハウスアートのプロジェクトは、その後生まれてくるさまざまな「ストリートの思想」の先駆けだったのではないか。それは、二〇〇八年の日比谷公園の「年越し派遣村」まで幾度となく繰り返される集合的表現の始まりだったのである。(p. 161)

伝統的な公共圏では、議論は生産的なものとして重要視されたが、おしゃべりはノイズと考えられていた。けれども、私たちは、多くの情報をおしゃべりから得ているのではないか。今日の権力は巧妙なやり方で、おしゃべりを無駄なものとして排除しようとする。とすれば、新しい公共性は騒がしいおしゃべりに中から生まれるはずだ。 (p. 166)

第四章 ストリートを取り戻せ!――ゼロ年代の政治運動

(……)「対テロ戦争」で、アメリカをはじめとする多国籍軍が戦ったのは、少なくとも国家ではなく、国境を越えて広がっていたとされるテロ組織である。その輪郭ははっきりせず、「戦争」は一方的に始まったので、交渉する相手さえおらず、終了することができない。それは、徹底的に不均衡で一方的な攻撃なのである。このように、九・一一テロとその後の「対テロ戦」は、戦争がもはや例外的な状況ではなく、「内戦」として常態化していること、そして、世界秩序を制御しているのが、国民国家の集合体ではなく、グローバルな産軍複合体である〈帝国〉であることを露わにしたのである。
二〇〇一年から二〇〇八年までは、〈帝国〉的な権力が新自由主義的な政策に支えられたグローバルな資本主義の拡大と手をつなぐことによって、なんとか世界を統治することができるかのように見えた時期だった。 (p. 172)

 二〇〇三年のイラク反戦運動において、中心的な役割を果たした知識人はいない。もちろん大江健三郎を代表とする、岩波・朝日知識人と呼ばれる人たちは積極的に発言していた。こうした伝統的な知識人の影響はなくなったわけではないが、少なくとも現在の若者文化の中では限定的である。
その代わりに登場したのが、ミュージシャンやDJ、作家やアーティスト、あるいは匿名性の高い無数の運動を組織するオーガナイザーである。こうした人々は、岩波・朝日知識人のようにマスメディアを通じてしか知ることができない有名人ではない。むしろ身のまわりのちょっとした「 有名人」であり、目に見える交友関係の延長線上にいる。また政治運動を組織するだけではなく、同時に文化的実践者であることもその特徴だ。
こうした新しいタイプのオーガナイザーを、「伝統的な知識人」に対して「ストリートの思想家」とでも呼んでおこう。(p. 176)

 シアトルのWTO反対運動は、日本ではそれほど大きく取り上げられなかった。WTOの会議をシャットダウンしようとするこの反グローバリズム運動は、次の三つの点で二〇〇年代を予見していた。
第一に、この運動を通じて九〇年代の日本で拡大した貧富の差が、グローバルな規模で展開した市場経済の変容の結果であり、構造的な問題であることがわかった。
第二に、その一方で、格差をもたらすグローバリズムに対する反対運動がかつてないほど高まりを見せ、反対運動の有効性が実証されたことはこの運動の大きな成果となった。(……)
第三に、こうした運動の組織化にあたって、文化的な実践やインターネットやヴィデオなど、新しいメディアテクノロジーが有効に機能したことは、その後の運動のあり方を特徴づけることになった。
シアトルの反WTO運動の手法は、二〇〇三年の世界的なイラク反戦運動のなかでも積極的に活用されることになったのである。(p. 178)

一貫して非暴力を掲げてきた反グローバリズムの運動と、前時代的な九・一一の無差別テロは、その思想からしても相容れない。しかし、二〇〇年代の西側先進国は、グローバルな行政・治安管理という観点から、九九年のシアトルの反対運動と二〇〇一年の九・一一テロをあえて一緒くたにすることで、権力体制を再編することになった。
それは対外的には、イラク戦争に代表されるような軍事力の強化であり、国内的には治安維持を目的とした警察力の強化である。この二つは資本主義経済のグローバル化を受けて、しばしば交錯し、この章の冒頭に述べた〈帝国〉と呼ぶ新しい権力体制を形成した。(p. 180)

 フランスの政治哲学者ルイ・アルチュセールは、有名な論考「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置」の中で、主体がいかに「呼びかけられるか」説明するにあたって、その注釈で警官の「おい、おまえだ、そこのおまえだ!」という呼びかけを例として挙げている。主体(subject)とは、臣下であり「従属するもの(subject to)」であるが、それは何よりも「呼びかけ」によって構成されるものである。国家の呼びかけに応じたものは国民になり、社会の呼びかけに応じたものは市民になる。けれども、この呼びかけは必ずしも成功するものではない。「言うこと聞くよな奴らじゃない」連中は、そうした呼びかけの臨界点として常に立ち現れるのだ。それは国家権力の呼びかけを逆手にとって、身体が対抗的な主体を作り出す具体的な例なのであるストリートに置かれた身体のあり方は、このように両義的なのだ。(p. 186)

 イギリスに始まり、九〇年代を通じて広がった文化社会運動に「ストリートを取り返せ(リクレイム・ザ・ストリート)(RTS)」というのがある。これは、もともと高速道路建設に反対して、建設予定地の道路を占拠し、レイヴパーティやカフェを開くことで抵抗しようとした運動だったが、そのうちにロンドンなどの大都市の都市空間を一次的に占拠し、巨大なストリートパーティを開催するという大がかりなパーティ文化へと拡大した。(p. 189)

 ECDと並んで二〇〇〇年代の「ストリートの思想家」として重要なのは、小田マサノリである。小田マサノリは、イルコモンズという名義でアクティヴィストとして活動するほか、「なりそこないの文化人類学者」「元現代美術家」を自称している。先に紹介したイラク戦争の反対運動の際には、美術評論家の椹木野衣たちと一緒に「殺すな」という反戦運動を組織した。その後も多くのデモに参加するとともに、自ら運動を組織し、二〇〇〇年代のパフォーマンス的な政治運動の一つの形を作ってきた。(p. 191)

 文化人類学のポストコロニアル的な、あるいはポストモダン的な状況とは、こうしたことを読み込んだうえで、民族史的な記述はどのようにして可能なのかという問いが浮上したことだったのである。それは、調査者とフィールドとの再帰性――調査者は、フィールドを不動のものとして扱うことができないばかりか、絶えずフィールドを変容させる行為者でもあるという問題――をどのように捉えるかということが決定的に重要になった。
もちろん、この文化人類学のポストモダン的な問いに対する普遍的な答えは存在しない。フィールドは均質ではなく、すべて固有の問題をはらんでいるから、それぞれのフィールドに対応して回答を出していくほかはない。
文化人類学者の小田昌教が、こうした問いに九〇年代に真摯に向かい合ったのは、まちがいがない。そして、それに対する回答が、フィールドを東京に移しつつアクティヴィストになるという選択だったのだ。(p. 195)

 振り返ってみれば、こうしたフィールド概念の認識論的転回は文化人類学者のみが直面している問題ではない。現代では「未開の地」など存在しないように、都市においても新しい出来事が起こる余地はもはや存在しない。九〇年代の半ばに宮台真司は、それを「終わりなき日常」と呼び、「まったりと生きること」を若者たちに呼びかけた。一見すると、文化人類学のポストモダン的な状況と同じ認識を共有しているように感じられるかもしれない。
けれども、宮台と小田マサノリでは「フィールド」の意味はまったく異なっている。宮台は、九〇年代半ばにブルセラ少女の「フィールドワーカー」として登場した。その手つきは、伝統的な社会学者・文化人類学者のものであり、そこには八〇年代以降のフィールドの概念の展開は組み込まれていない。フィールドは固定された実体でしかなく、宮台自身は客観的で外在的な存在でしかない。そこには、調査者/インフォーマントの関係性も「フィールド」そのものの変化も想定されていない。(p. 198)

 その一方で、小田マサノリのフィールドは組み変え可能なものとして存在している。けれども、変化は、かつてのマルクス主義者が描いたような、外部や未来から到来する「革命」として現れるものではなく、いま目のまえにある出来事を器用仕事人(ブリコルール)として組み変えることによって現れる。小田マサノリ/イルコモンズが雑誌『オルタ』に連載しているエッセイのタイトルではないが、「もうひとつの世界はいつでもとっくに可能」なのである。
小田マサノリを「ストリートの思想家」だという時、それは、彼がストリートをフィールドとして選んでいるということにほかならない。通常、フィールドは囲われた面で捉えられるのに対し、ストリートは線で示される。そこにはとどまるべき場所はなく、常に移動が要請される。ストリートとは、家を持たない人(ホームレス)のものである。だが、かつてニーチェが述べたように、近代人とはすべからく故郷喪失者(ホームレス)である。フィールドワーカーとは、ホームレスという例外状態を自らの常態として引き受ける存在を指すのだ。(p. 198)

(……)マルクス主義的な弁証法の中には、矛盾が激化すればするほど次の解決策が生まれる、という認識が潜んでいる。そもそもマルクスは資本主義を単に否定するのではなく、資本主義を高度化させ矛盾を激化させることを革命への積極的な要因と捉えていたはずだ。
けれども近代の歴史の教訓は、矛盾の激化から生まれる新しい段階は、必ずしも何らかの解決ではなく、しばしばより残酷な政治を生み出すということである。八〇年大から九〇年代までに、旧社会主義国家が次々と崩壊した。かつて「革命」と名づけられたものの辿った末路を見れば、「革命」の多くが幻想にすぎなかったことがわかる。「革命」に対して過剰に期待してはいけない。(p. 200)

 その一方で、反対運動に対して、すぐに安易な代替案の提出を要求する主流の政治の思考法にも注意を払わなければならない。代替案を求める議論では多くの場合、あらかじめ議論自体の枠組みが設定されている。根本的な問題は議論されることはなく、すべては選択肢の問題へと還元される。
九〇年代を通じて広がった政治のスペクタクル化、ワイドショー化はこの傾向に拍車をかけた。「郵政民営化、賛成か反対か」にせよ「自民党か民主党か」にせよ、多くの人たちの本意は「どちらでもない/どちらでもいい」なのだが、選挙などの政治装置を通じて、どちらかひとつが選択されることによって、あたかも国民が何かを積極的に選び取ったような演出がなされていく。
このような二項対立の擬似的な政治家ら逃れる方法は、安易な問題設定から逃れて、自立した政治の空間を先におくり、そこにさまざまな政治的事象について語り始めることである。二項対立から逃れそれに先んずること、それが「ストリートの思想」の可能性なのだ。(p. 200)

 オープンソースの概念が面白いには、知識を共有し、共同で作業することに対する一種の合意が形成されているところである。その結果、もちろんトライアル・アンド・エラーはあるものの、誰かが指導的な役割を果たすこともなく、最終的には一定の方向性が生まれてくる。これは、私が集団的知性と呼んだ「群れ」の行動とよく似ている。その知識は、誰にも属することのない、「共」なるものとして発展しているのだ。

二〇〇〇年代に登場した「ストリートの思想」は、こうした「ウィキペディア」的な知識や「オープンソース」的な技術発展に基づいた情報インフラに支えられている。このことは、コンピュータ関連で行われているだけではない。こうした技術的発展は、日常生活にも刺激を与え、新しい知識の生産のあり方が模索されているのである。「ストリートの思想」は、こうした背景から登場したのだ。(p. 214)

第五章 抵抗するフリーター世代――10年代に向けて

二四六表現者会議が発足したのは、二〇〇七年一二月のことだ。そのきっかけとなったのは同年一〇月、渋谷駅の国道二四六号線に面した高架下に壁画を展示している「渋谷アーチギャラリー二四六」が、高架下壁面をギャラリースペースとして利用するという理由で、そこで野宿生活をしている人々に「移動のお願い」をしたことである。これを問題視したアーティストの小川てつオと武盾一郎が、二四六表現者会議を結成した。 (p. 225)

 二四六表現者会議のブログには、この二人が、表現者会議発足の動機について書いている。小川は、「アートの名において、「追い出し」をかけるなんて、あまりにもアートを馬鹿にしている」と感じ、「ここで、アートとは何かを問わなければ、アートが危ない感じがした」から、この会議を始めたという。それに対して、武は、「何かとても見えにくい、言葉にしづらい、「薄気味の悪さ」を感じ」、「なぜ僕は薄気味悪く感じたのだろう?」という問いからスタートする。
武は何を「牛気味悪く感じたのか」。

恐らくここ(引用者注:渋谷アートギャラリー二四六)にたずさわった方々は本当に「良い事」を「善意」を持って、笑顔で一生懸命やっているのだろう。行政も学校も大企業も「地域」と呼ばれる人たちも、みんな力を合わせて一緒になって街づくりをしているのだろう。/爽やかな笑顔で精一杯善行をしているのだろう。/……、そして野宿している人たちがかき消されている。まったくすっぽりと消えている。人間の存在が消されている。/「アートの名において」。/最初、なんだか言葉が見つからなかった。(p. 226)

ここ〔宮下公園の「ナイキ公園化」とそれにともなう有料化〕には、渋谷アートギャラリー二四六と同じ論理が働いている。渋谷区は、単純に公園がきれいになり、使いやすくなると考え、その一方でナイキは比較的安い値段で効率的にターゲットとしている若者にアピールできると考えたのかもしれない。けれども、この行政と企業の共存共栄的な「ウィンウィン」の発想からは、そこで生活する人やこれまで使っていた人に対する視線が抜け落ちてしまっている。
(……)ナイキをはじめとする多くのスポーツメーカーがこれまで発信してきた「ストリート感覚」とは、消費者向けにアレンジされた「不良の感性」という商品にすぎないのではないか。そこからは「生活者」の始点が抜け落ち、「消費者」のそれに特化している。街を特権的に楽しむことができるのは「消費者」だけ、ということだ。ここにも、また「貧困のスペクタクル化」に通じる商業論理が紛れ込んでいる。(p. 230)

 赤城〔智弘〕に限らずロスジェネ世代の論客が、それまでの伝統的な左翼知識人と決定的に異なるのは、多くの場合自分の立ち位置が主張の出発点になっていることだ。雨宮処凜もまた、この点で代表的な論者だろう。雨宮の場合、高校時代のいじめや不登校、家出や自殺未遂、リストカット、そして東京に出て来てからのアルバイトの過酷な経験が、その発言や行動の源泉になっており、また彼女が共感を集めるひとつの要因になっている。雨宮だけではなく、『ロスジェネ』創刊号に登場した杉田俊輔や増山麗奈なども、たえず自らを参照点として論を展開しているが、この「自分語り」の多様は、ロスジェネ論壇のひとつの傾向だろう。(p. 238)

 秋葉原通り魔連続殺人事件の唯一の「敵」として、非正規労働者に過酷な条件を押しつける国家や資本を名指しすることは、一見わかりやすい物語だが、危うさをはらんでいる。そこには、本来多様な欲望をひとつの方向へとまとめあげ、動員しようという全体主義的な思考がまぎれ込んでいるのではないか。個人的な「怒り」を媒介とし、共通の「敵」を特定することによって、本当に「右と左は手を結ぶ」ことができるのか。そこで「手を結ぶこと」からこぼれおちてしまうものがあるのではないか? (p. 240)

 個人的な「怒り」は出発点にはなるが、そこには限界もある。「怒り」が個人的なものにとどまる限り、「怒り」を共有できる自分たちと、そうでない他者との間に境界線が引かれてしまう。共有できない存在は、単に他者として排斥されるだけではなく、「敵」として名指しされる。この個人的な「怒り」が特定の集団によって特権的に占有されると、日本の左翼政治にしばしば見られるように、「内ゲバ」という救いのない出来事が生じる。
ロストぎぇんっれーションの議論が、「自分たちの世代」から出発するのは必要なことかもしれない。けれども、どこかで「自分たち」という枠を超えない限り、そうした「怒り」は必ず党派的な分断と結びつく。
「ストリートの思想」とは、徹底的に個人的でありながら、同時にそれを多種多様な人々に開いていく思考法である。ストリートは、あらゆる背ダウに、あらゆる階級に、あらゆる世代に開かれている。「ストリートの思想」が闘うべき相手は、そうした開放性を脅かす存在である。(p. 241)

 ネグリとハートは、人々を運動へと駆り立てる「愛」や「情動」を、「ポッセ」という語で表現している。ポッセとはラテン語で「活動性としての力」を意味する。ルネッサンスの人文主義において、この語は「知と存在をともに編み込む機械」として、「存在論的動性の核心部」に位置づけられていた。
ネグリとハートがおもしろいのは、この古い哲学用語をヒップホップ用語の「ポッセ」と重ね合わせているところだ。「ポッセ」はヒップホップ文化では、「集団」「仲間」「連中」「奴ら」というニュアンスで用いられる。ヒップホップ用語と重ねられることで、この古い哲学用語は、現在のマルチチュードの存在様式の核として再生するのである。ここで発見された「ポッセ」とは、いかなる対象をも超えていくような「公共性とそれを構成する諸々の特異性を持った個の活動」」であり、「新しい政治的なものの現実の起源に存在する」とされる。
ここで重要なのは、「ポッセ」が、何かに対抗して生まれるもの――たとえば、資本主義の不当な搾取に抗して生まれる反対運動のようなもの――ではないということだ。それは、労働を通じて人間が自らの価値を決定する力であり、ほかの人とコミュニケーションをはかりながら協働する力であり、究極の自由を求める力である。(p. 243)

 「ストリートの思想」にとって「自由」や「自立」は重要な概念である。そしてこの二つが、「ストリートの思想」を、ほかの同時代的な政治運動・思想と隔てるポイントとなっている。たとえば、フリーターや派遣労働者の運動の一部には、不安定な雇用形態をやめてより多くの正規雇用を、という主張が見られる。けれども、「ストリートの思想」は必ずしも伝統的な形態での正規雇用を求めているわけではない。フリーターや派遣労働者が正社員と同じ仕事をしているのに、正社員よりもはるかに不安定な雇用関係のもと、低賃金で働かされている不公正さを問題にしているのであって、高度成長期の日本のサラリーマンのように、会社に人生そのものを捧げるような生活を手に入れたいと言っているわけではないのだ。(p. 245)

 二〇〇〇年代のストリートの叛乱は、名人芸を身につけたポストモダン・プロレタリアートが、名人芸を国家や資本に回収させずに、自分たちで使いこなすことで起こった。(p. 248)

                                (2012/2/17)