毛利嘉孝 |
序章 「ストリートの思想」とは何か 本書のねらいは、新しく生まれてきた若者たちに運動を、「ストリートの思想」という観点から捉えなおすことにある。蹴れども、こうした動向を左翼思想史や社会運動史のなかに回収しようとしているわけではない。むしろ、そこからこぼれおちていくものとして「ストリートの思想」を位置づけようとしているのだ。あるいは伝統的な「左翼的なもの」に対して距離をとりつつ、それを乗り越えるものとして「ストリートの思想」を構想しようとしているのである。 (p. 12) |
この「ストリートの思想」の特徴を大きく四つのまとめておこう。 |
こうした政治意識の違いが如実に表れるのは、国家と暴力に対する認識においてである。「オタク的な思想」にとって、国家とは自然で不可視の存在である。「ストリートの思想」にとって、国家とは問題含みの概念である。というのは、一度でもデモに参加したり、政治的集会に行ったりしたことがある人なら、国家とはなによりも抑圧的な暴力装置として認識されるからだ。(p. 26) たとえば、音楽評論家の竹田賢一は「音楽のオルタナティヴ」と題した文章の中で、カセットを初めとするインディーズの音楽制作やライヴのネットワークを紹介し、その創造的な力にオルタナティヴな「運動」を見出そうとしている。あるいは、ラジオ・ホームランの中心的なメンバーである福士斉は、小さな電波が作り出す双方的な対話空間の可能性について語っている。こうした議論は、DiY(Do it Yourself)的な文化の創発性を積極的に支持しようとするものである。 |
日本においてこうした新しい潮流が、大学制度の中でいくぶん周縁化されていた人々によって導入されたのは、けっして偶然ではない。山口昌男は、その当時人文額の中では主流といえなかった文化人類学者であり、柄谷行人や蓮見重彦も主として語学や教養教育を担当しており、必ずしも人文学の中心にいたわけではない。裏を返せば、それまで人文学の中心と信じられてきた哲学・歴史学・文学は、こうした新しい動向についていくことができなかったのである。 |
さらに言えば、コンビニエンスストアの登場(諸説あるが、「セブン・イレブン」の一号店の登場が七四年なので、いずれにしても七〇年代後半から八〇年代に拡大した)に端的に示されるような、勤務形態がフレキシブルなポスト・フォーディズム的労働条件は、プロフェッショナルとして生活できなくても、音楽や演劇、芸術などにコミット可能な、潜在的な――プロとアマとの中間的な――表現者の存在を可能にした。これは、ポスト・フォーディズム体制の発展に対応したものだが、同時に六八年をめぐる政治が獲得し、七〇年代から八〇年代にかけて見えてきた政治的・文化的条件だったのだ。 (p. 60) |
第二章 90年代の転換①――知の再編成 (……)八〇年代から九〇年代にかけて一気に進んだ大学キャンパスの脱政治化の要因を、大学制度やアカデミズムの変容だけに求めるのはフェアではないかもしれない。そもそも、かつて大学の政治運動を担っていた大学生の政治に対する関心のいぇいかも、ここでは決定的な要因だったからだ。そして、ここには全共闘運動以降、党派中心主義的かつ男性中心主義的、そして暴力主義的な内向きの闘争を繰り返して自壊してしまった左翼運動一般の問題もある。 湾岸戦争という壮大なスペクタクルのタイムかうには、その〔湾岸戦争に対する知識人の反対声明〕動きには広がりがなく、指導料にかけ、声は弱々しく、生真面目すぎるように感じられた。その一方で、大衆を積極的に組織し、動員するには、あまりにも「啓蒙的」に思われた。「啓蒙」が機能するためには、啓蒙する側がされる側に正しく物事を判断できるような普遍的な知識を与え、人々を正しく導く必要がある。公的知識人とはそのような、「啓蒙」という活動ができる人のことである。けれども、こうした「啓蒙」は、全員が最終的に合意できる理念があるという了解のもとで可能なものだ。今日のように世界が複雑化、多元化してしまうと、そうした「啓蒙」的なふるまいは機能しないだけでなく、いささか自意識過剰な、滑稽な営為にさせ見えてしまう。 |
(……)八〇年代から九〇年代にかけて一気に進んだ大学キャンパスの脱政治化の要因を、大学制度やアカデミズムの変容だけに求めるのはフェアではないかもしれない。そもそも、かつて大学の政治運動を担っていた大学生の政治に対する関心のいぇいかも、ここでは決定的な要因だったからだ。そして、ここには全共闘運動以降、党派中心主義的かつ男性中心主義的、そして暴力主義的な内向きの闘争を繰り返して自壊してしまった左翼運動一般の問題もある。 湾岸戦争という壮大なスペクタクルのタイムかうには、その〔湾岸戦争に対する知識人の反対声明〕動きには広がりがなく、指導料にかけ、声は弱々しく、生真面目すぎるように感じられた。その一方で、大衆を積極的に組織し、動員するには、あまりにも「啓蒙的」に思われた。「啓蒙」が機能するためには、啓蒙する側がされる側に正しく物事を判断できるような普遍的な知識を与え、人々を正しく導く必要がある。公的知識人とはそのような、「啓蒙」という活動ができる人のことである。けれども、こうした「啓蒙」は、全員が最終的に合意できる理念があるという了解のもとで可能なものだ。今日のように世界が複雑化、多元化してしまうと、そうした「啓蒙」的なふるまいは機能しないだけでなく、いささか自意識過剰な、滑稽な営為にさせ見えてしまう。 |
(……)八〇年代から九〇年代にかけて一気に進んだ大学キャンパスの脱政治化の要因を、大学制度やアカデミズムの変容だけに求めるのはフェアではないかもしれない。そもそも、かつて大学の政治運動を担っていた大学生の政治に対する関心のいぇいかも、ここでは決定的な要因だったからだ。そして、ここには全共闘運動以降、党派中心主義的かつ男性中心主義的、そして暴力主義的な内向きの闘争を繰り返して自壊してしまった左翼運動一般の問題もある。 湾岸戦争という壮大なスペクタクルのタイムかうには、その〔湾岸戦争に対する知識人の反対声明〕動きには広がりがなく、指導料にかけ、声は弱々しく、生真面目すぎるように感じられた。その一方で、大衆を積極的に組織し、動員するには、あまりにも「啓蒙的」に思われた。「啓蒙」が機能するためには、啓蒙する側がされる側に正しく物事を判断できるような普遍的な知識を与え、人々を正しく導く必要がある。公的知識人とはそのような、「啓蒙」という活動ができる人のことである。けれども、こうした「啓蒙」は、全員が最終的に合意できる理念があるという了解のもとで可能なものだ。今日のように世界が複雑化、多元化してしまうと、そうした「啓蒙」的なふるまいは機能しないだけでなく、いささか自意識過剰な、滑稽な営為にさせ見えてしまう。 |
オウム真理教事件を契機にして、警察権力に代表される、安全性(セキュリティ)の向上をはかる権力が浮上してくる。オウム真理教的なものを絶対的な「悪」として設定することで、監視カメラからごみ箱の管理にいたるまで、「治安維持」的なあらゆる技術が導入され、対抗的な政治活動をあらかじめ封じ込める動きが活発化する。 (……) ここで社会工学的というときは、社会に対するある固有の思考法を示している。社会全体を詳細に(しばしば統計的に)把握し、社会全体を設計し、適切な構造へと調整するという発想に立つ、一種の総合学である。 テレビの場合、スポンサーとそれを獲得するための視聴率が最優先される。時間の制約もある。田原総一朗の才能は、もともとテレビ的な空間に馴染みにくかった政治や経済、社会問題を、一定の時間内にエンターテインメントとしてパッケージ化した点にある。 (……)テレビとは記録のメディアではなく、基本的に忘却のメディアである(だれが三ヶ月前のテレビのニュースを覚えているだろうか)。多くの視聴者は、テレビに出ている評論家に自己同一化し、その主張を真似てもっともらしいおしゃべりをするようになるが、テレビ的な議論の外部に出ることができない。テレビによる政治のスペクタクル化は、視聴者に一次的で仮のカタルシスを与えることで、徹底的に視聴者を受動的な存在へと貶めるのである。 |
九〇年代の日本と比較する際に重要なのは、構造主義とポスト構造主義の英語圏における受容である。というのも、とくにイギリスでは、ロラン・バルトらの記号論やジャック・デリダの脱構築、ジャック・ラカンの精神分析、ミシェル・フーコーの権力論や言説理論などフランスの人文学の理論は、形而上学的な哲学や文学の純粋理論としてではなく、それまでの西洋中心的=男性中心的=ロゴス中心的な知識を批判する社会理論、つまり応用理論として用いられた結果、文化研究やポストコロニアリズム理論、フェミニズムとして発展することになったからだ。またそれは、人文学的な知識の社会科学における応用であり、社会学や文化人類学など隣接領域にも大きな影響を与えることになった。つまり、マルクス主義的・西洋中心主義的・階級中心主義的理論を批判的に行進する政治実践の言説として登場したのである。 (……)なぜ、この時期、「カルチュラル・スタディーズ」が導入され、それが驚くほど積極的に受容され、しかも、同時に過剰なバックラッシュにあったのだろうか? ここまで述べてきたことをふまえて次の三つの要因にまとめてみよう。 今から振り返ってわかるのは、この「カルチュラル・スタディーズ」導入のプロジェクトが、その後の大学における知識の生産の質的な変容に、はっきりと対応したものだったということである。狭義の「カルチュラル・スタディーズ」は、その後期待したほどの広がりを見せなかったが。講義の「文化の研究」――映画やアニメ、テレビ、演劇などの研究――は、九〇年代の大学の再編、とりわけ優秀な学生をより多く獲得しようと競争する私立大学の中で広く制度化されていった。(p. 123) 第二の要因は、大学における左派政治の変容である。冷戦構造の終焉とそれに続く社会主義的・共産主義的イデオロギーの影響力の相対的な低下は、それまで人文系アカデミズムにおいて一定の勢力を保っていたマルクス主義や左派勢力の質を変容させた。「カルチュラル・スタディーズ」に対して当初見られた過大な期待と過剰なバックラッシュは、この当時の左翼の不安に対応している。(p. 124) スチュアート・ホールの日本におけるカウンターパートとして花崎〔皋平〕を選んだことは、大学のなかに収まることのなかった「政治」をふたたび大学の中で考えたい、という「カルチュラル・スタディーズ」導入のひとつの方向性を示したものだった。けれども、そこには当初から両義的な側面があった。つまり、「カルチュラル・スタディーズ」の導入は、大学のキャンパスからリアルで同時代的な政治を追い出すことと引き換えに、政治のラディカルさを大学の中に制度化する――あるいはあえていやみな言葉を用いれば「飼い慣らす」ことでもあったのだ。(p. 125) |
(……)第三の要因として、「カルチュラル・スタディーズ」の導入が、九〇年代に一気に進んだ大学のグローバル化の効果のひとつであることは指摘しておきたい。(p. 126) (……)コンに遅行した国民国家の枠組みに縛られた大学という概念が終わりつつある。アメリカではすでに八〇年代に留学生が急増し、多文化・他民族状態は教室の日常的な風景になってしまった。イギリスでもこうしたグローバル化が九〇年代に進行し、人気のある学部ではイギリス人が数パーセントしかいない、という光景も珍しくなくなっていた。「文化」という曖昧なカテゴリーは、人文学のグローバル化に対応する新しい領域だったのである。(p. 128) おそらく文化研究のひとつの成果は、あらゆる理論的な実践を再び政治的な実践として捉えなおすきっかけをつくったことである。その中でももっとも重要だったのは、八〇年代には高度消費社会のポストモダン理論として紹介されたフランスの構造主義、ポスト構造主義をあらためて政治的な文脈で位置づけなおしたことだ。(p. 131) バブル経済の崩壊とそれに続く社会情勢の悪化は、八〇年代のニューアカデミズムの流行とそれに続く大学の制度化の中で隠蔽されていた、ポスト構造主義理論の政治的な側面に再び光を当てることになった。(p. 131) 新自由主義経済のひとつの特徴は、主婦から学生まで(そして、場合によっては高齢者や児童、そして障害者にいたるまで)ありとあらゆる人間をフレキシブルで安価な労働力として編成するところにある。たとえば、大学生は飲食業や流通業、サービス業の人的資源の根本を形成しているという点で、今では重要な労働者である。大学生の存在抜きには、こうした産業は成立しないだろう。働く主婦についても同じことが言える。そして、大学生や主婦という労働力の低賃金と流動性、さらにはグローバルな規模でのさまざまな形の搾取労働が、フリーターの国内労働市場のあり方を決定している。それは、単に若年フリーターだけの問題ではなく、構造的な問題なのだ。 (p. 138) |
九〇年代中盤までは、いのけん〔九二年から渋谷で活動を始めた「渋谷・原宿生命と権利をかちとる会」〕の運動と代々木公園のレイヴシーンやフリーコンサート、オーバーステイするイラン人とイスラエルの人のDJ、そしてブルー点とに暮らす野宿者たちは、それぞれ別の時間を生きていた。けれどもここで偶然の交錯点が生じたことは、「ストリートの思想」を生み出す基本的な前提となったのだ。 |
この文章〔橋本政権の「六大改革」のメッセージ〕には、現在の新自由主義路線のレトリックが、ほとんどすべて出揃っている。まず特徴として見られるのが、戦後の社会が「国民や地域の平等性を求めながら、豊かな国民生活」を目指すという目標にそって形成されてきたという認識である。ここでは「平等性」と「豊かな国民生活」という理念が過去のものとして葬り去られている。それに取って代わる理念が「努力次第でそれ(夢や目標)が実現できる社会」「創造性とチャレンジ精神」、つまりは徹底的な競争原理の導入である。この競争原理のためのキイワードになるのが、「個人の選択の自由と自己責任」であり、そのために必要とされるのが、「抜本的な規制の撤廃・緩和」と「財政構造改革」「行政のスリム化」、そして最終的には国民が「しばらくの苦しさを我慢」することが必要だと言うのだ。 (p. 154) もちろん、結果的に警察によって撤去されてしまったダンボールハウス村を、過剰にユートピア的に捉えるのは危険だろう。けれども、新宿という都市の真ん中で、政治と文化が拮抗しながら、ある対抗的な軸を作ろうとした新宿ダンボールハウスアートのプロジェクトは、その後生まれてくるさまざまな「ストリートの思想」の先駆けだったのではないか。それは、二〇〇八年の日比谷公園の「年越し派遣村」まで幾度となく繰り返される集合的表現の始まりだったのである。(p. 161) 伝統的な公共圏では、議論は生産的なものとして重要視されたが、おしゃべりはノイズと考えられていた。けれども、私たちは、多くの情報をおしゃべりから得ているのではないか。今日の権力は巧妙なやり方で、おしゃべりを無駄なものとして排除しようとする。とすれば、新しい公共性は騒がしいおしゃべりに中から生まれるはずだ。 (p. 166) |
第四章 ストリートを取り戻せ!――ゼロ年代の政治運動 (……)「対テロ戦争」で、アメリカをはじめとする多国籍軍が戦ったのは、少なくとも国家ではなく、国境を越えて広がっていたとされるテロ組織である。その輪郭ははっきりせず、「戦争」は一方的に始まったので、交渉する相手さえおらず、終了することができない。それは、徹底的に不均衡で一方的な攻撃なのである。このように、九・一一テロとその後の「対テロ戦」は、戦争がもはや例外的な状況ではなく、「内戦」として常態化していること、そして、世界秩序を制御しているのが、国民国家の集合体ではなく、グローバルな産軍複合体である〈帝国〉であることを露わにしたのである。 |
フランスの政治哲学者ルイ・アルチュセールは、有名な論考「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置」の中で、主体がいかに「呼びかけられるか」説明するにあたって、その注釈で警官の「おい、おまえだ、そこのおまえだ!」という呼びかけを例として挙げている。主体(subject)とは、臣下であり「従属するもの(subject to)」であるが、それは何よりも「呼びかけ」によって構成されるものである。国家の呼びかけに応じたものは国民になり、社会の呼びかけに応じたものは市民になる。けれども、この呼びかけは必ずしも成功するものではない。「言うこと聞くよな奴らじゃない」連中は、そうした呼びかけの臨界点として常に立ち現れるのだ。それは国家権力の呼びかけを逆手にとって、身体が対抗的な主体を作り出す具体的な例なのであるストリートに置かれた身体のあり方は、このように両義的なのだ。(p. 186) |
その一方で、小田マサノリのフィールドは組み変え可能なものとして存在している。けれども、変化は、かつてのマルクス主義者が描いたような、外部や未来から到来する「革命」として現れるものではなく、いま目のまえにある出来事を器用仕事人(ブリコルール)として組み変えることによって現れる。小田マサノリ/イルコモンズが雑誌『オルタ』に連載しているエッセイのタイトルではないが、「もうひとつの世界はいつでもとっくに可能」なのである。 |
第五章 抵抗するフリーター世代――10年代に向けて 二四六表現者会議が発足したのは、二〇〇七年一二月のことだ。そのきっかけとなったのは同年一〇月、渋谷駅の国道二四六号線に面した高架下に壁画を展示している「渋谷アーチギャラリー二四六」が、高架下壁面をギャラリースペースとして利用するという理由で、そこで野宿生活をしている人々に「移動のお願い」をしたことである。これを問題視したアーティストの小川てつオと武盾一郎が、二四六表現者会議を結成した。 (p. 225) 恐らくここ(引用者注:渋谷アートギャラリー二四六)にたずさわった方々は本当に「良い事」を「善意」を持って、笑顔で一生懸命やっているのだろう。行政も学校も大企業も「地域」と呼ばれる人たちも、みんな力を合わせて一緒になって街づくりをしているのだろう。/爽やかな笑顔で精一杯善行をしているのだろう。/……、そして野宿している人たちがかき消されている。まったくすっぽりと消えている。人間の存在が消されている。/「アートの名において」。/最初、なんだか言葉が見つからなかった。(p. 226) |
秋葉原通り魔連続殺人事件の唯一の「敵」として、非正規労働者に過酷な条件を押しつける国家や資本を名指しすることは、一見わかりやすい物語だが、危うさをはらんでいる。そこには、本来多様な欲望をひとつの方向へとまとめあげ、動員しようという全体主義的な思考がまぎれ込んでいるのではないか。個人的な「怒り」を媒介とし、共通の「敵」を特定することによって、本当に「右と左は手を結ぶ」ことができるのか。そこで「手を結ぶこと」からこぼれおちてしまうものがあるのではないか? (p. 240) |