ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <書 抜き書きメモ 47>

椹木野衣
日本・現代・美術

新潮社、1998年

第一章 閉じられた「円環の彼方」は?

わたしは、彦坂〔尚嘉〕のエッセイのタイトル〔「閉じられた円環の彼方は――〈具体〉の軌跡から何を……」〕を、この意味で理解する。われわれが「歴史」の名のもとに語ってきた当のものこそが、なべての「歴史」を去勢してしまうような「悪い場所」ゆえの「閉じられた円環」なのであり、われわれが最初から歴史を語りうるという権利を既得権のように主張するのとは別の隘路を通じなければ、この円環の「彼方」に至ることはできないのだというふうに。(p. 12)

ここで改めて確認するまでもなく、「敗戦後日本民主主義の安定」とは、より巨視的に見れば、まず第一に世界におけるアメリカの覇権の確立と、それに唯一拮抗し得たソ連とのあいだに繰り広げられた冷戦下の核の傘下にあって、下層の無風状態である「抑止」ゆえに日本が吹きさらしの「世界史」から守られていた時期であることを意味している。しかし、より本質的な意味で、世界史なき「場所」に、はたして美術の歴史が成立するものであるか否かは、一度は真剣に考えてみるに値する問いではある。
「一九五五年」以後、六〇年代の「反芸術」運動、七〇年代の「もの派」からの流れ、八〇年代の「ポストモダン」と並べてみれば、そこには何か歴史的な「展開」があったように見えるかもしれない――しかし、そこに大文字の「歴史」を見てしまうということ自体が、その人がいっそう強固に、この「閉じられた円環」に繋ぎ止められていることを意味する。(p. 14)

(……)われわれの不幸は、いまだにジャンルがジャンルとして機能しておらず、それゆえの最初からそれらが渾然一体となって現れざるをえないような「悪い場所」に生きることを余儀なくされていることにある。そのことを考慮に入れずに、欧米なみにジャンルを横断することがなにか特別な冒険であるかのように誤認してしまうことは、どうにも滑稽にすぎる。必要なのはむしろ、超越的な価値が成立することを自ら禁じた「近代」におけるジャンルの自立の問題、すなわち諸芸術間にわたる一種の「プライバシー」を早急に確立することなのであって、成熟したジャンルも成立しえない「場所」に、隣組的な筒抜けの無媒介な横断があったとしても、そのようなたかだか生来の慣習でしかないものが、なにか危険であったり冒険であったりするはずがないのである。真に危険で刺激的な「横断」が国境のような権力の固着した境界を前提とすることは、あらためていうまでもない。(p. 12)

(……)根拠を要することなく生きていくことが近代人の条件であるというのは嘘で、正確にその条件とは、根拠を要することなく生きていくことが近代人の条件であるにもかかわらず、だれもそのような宙づりに耐えることができないという二律背反なのである。しかしだとしたら、どのような無根拠を根底に据えることになるかもしれず、そのような無根拠の根拠への反転が、民族や国家、そして場合によってはファシズムという巨大な本来性の回復運動に必然的に繋がったとしても、なんの不思議もない。どのような無根拠も根拠に据えうるという体系の複数性/恣意性こそが、近代の本性であるかぎり。(p. 19)

「西欧近代」が、ときに王の断頭という歴史的暴力をその起源にはらみ、したがってそれ以降の市民社会の構成員は、一致団結してこの暴力を振るったことの記憶を、権利の獲得の明文化である法の担い手としての自覚において「忘れえない」のに対して、「戦後の日本」を支配するのは、反対に、この「現実」を成立させるためにある「暴力」が打ち振るわれたことに対する、集団的な忘却であるようにすら思われる。この「暴力」とは一体なにか?(p. 20)

(……)六〇年代後半の新左翼の台頭や、やや相前後するものの美術における「美共闘」の活動が、文字どおりの暴力をもって、この「閉じられた円環」の彼方、すなわち偽の歴史の外部としての「歴史」に介入しようとする運動であったことも事実であろうが、それも、「具体」が活動を終え、そのような「暴力」が国内から一掃される七〇年代中頃までには、「万博」以後の「平和」の内面化が国民全体に急速に推し進められることによって萎えてしまう。そして、この無血の「閉ざされた円環」が完全無欠のかたちで達成されたのが、物質的な暴力とはまるで対極的にある、仮想の空間(ヴァーチュアル・リアリティ)としての「バブル」な八〇年代であったというわけである。(p. 21)

(……)日米戦争に敗北した日本は、「平和憲法」を受け入れることによって武装解除を強いられると同時に、米ソの二極支配のもとで、世界史という「歴史」に参入することの権利を半永久的に剥奪されることになる。また、そのことによって得られた歴史から隔絶された閉鎖的、同質的空間が、その後の驚異的な経済成長の原動力となったことも、忘れてはならない。そして、繰り返すことになるが、こうした「忘却」が、種々のメディア・テクノロジーに補強されることによって現れた、記号の戯れ――それこそが、「ポストモダン」と呼ばれる事態だったのであり、そしてまた、それは「閉ざされた円環」の「彼方」を創出しようとするあらゆる意思と行動を、「暴力的」に排除する(日本の「平和」が、対外的には「暴力」でしかなかった例は、枚挙にいとまがないし、そのようなことは対「内」的にも変わらない)。(p. 24)

 

第二章 九〇年代日本の「前衛」

むしろ「日本の前衛」から浮かび上がってくるのは、近代を未完のまま継続せざるをえなかった者特有の悲哀とか、破壊とはいっても八方破れの開き直りとか、絶望に由来するアナキズムとか、アイロニーに救いを求める知性とかであり、しかしそれゆえにわたしたちは「日本の前衛」にあれほどまでの郷愁を感じてしまうのではないだろうか。そしてそう考えるならば、「日本の前衛」が欧米のそれとは一風変わった、「奇妙な前衛」として海外からの視線を受けるに値するというのも、あながち納得できないことではない。(p. 30)

そもそも西欧における前衛芸術それ自体が、「芸術」という近代的な体系の恣意性を再確認する試みであって、その意味では近代の近代性に対する基礎論的なニュアンスをもつものであった。しかし、未完の近代を抱え込まざるをえなかった日本のように、そのような体系の恣意性以前に体系それ自体が定着せず、個々人が己れの存在の不安を中和する偽の大伽藍すら手にすることができなかったとしたらどうだろう。そのとき彼の「前衛」は、壊れた自我を抱えたまま、いったいどこへと向かってしまうのであろう。(p. 32)

(……)モダンの終焉とポストモダンの到来という、それ自体モダンな歴史的展開の図式は、日本の社会においてはそのままあてはまるものではない。何度も繰り返しているように、そのような歴史の展開は、成熟し、爛熟し、もはや腐敗しかかるほどのモダンを抱え込んだ西欧にあってはしかるべき展開であったかもしれないが、そのようなモダンを抱え込むどころか、はりぼての未完の近代しか懐にないような「悪い場所」においては、そのような展開を欧米なみに語ってしまうことそれ自体が、すでにポストモダン的なのではないのか。また、だとしたら、冷戦構造が崩壊し、九〇年代に入ってにわかに世情があわただしくなると、それ自体八〇年代のツケでしかないそのあわただしさを、歴史の回帰とリアルさの到来とばかりに誤認してしまう「あわただしさ」こそが、本来の意味での泡沫的なバブル的心性が、いまだに終わっていないことの証左なのではないのか。(p. 34)

だれもがすでに忘れたがっているであろう、もしくは忘れつつあるこの悪しき犯罪集団(オウム真理教)の名をここで唐突に出すことは奇異の印象を免れないかもしれない。しかし、それというのも、反日本を掲げるこの集団の「悪しき」正確こそが、ほかならない日本という「悪しき場所」によって規定された者であり、そうである以上、西欧の大文字の宗教からは奇妙としかいいようのないそのあり方と、西欧の大文字の芸術からは奇妙としか言いようのない日本の前衛のあり方とが、どこかで通底しているのではないかと思えて仕方がないのである――その前近代的共同体への郷愁と、超近代的すなわちポストモダン的なヴィジョンとの奇妙な癒着という意味において、彼らの繰り広げた幾多の荒唐無稽が、どこかで「日本の前衛」を思い起こさせるのだ。(p. 36)

「ピカソが来ればピカソ流、マチウが来ればマチウ流が大流行する日本で、残酷物語の大ヒットにあやかろうと日本版を作ったとしても悪いはずがどこにある。柳の下にどじょうは二匹いる。というのが現代の常識なのだ。(中略)
ミロのビーナス観たさに上野の山を行列で取り巻く一方、都美術館ではネオダダイストが美術館破壊を企てる。しかしこれも、一九二〇年代のダダイストのエッフェル塔破壊が下じきであることは否めない。
新宿百人町の好村益信宅通称芸術のホワイトハウスに集合したネオダダイストらが、二〇年代を下じきにした文学青年的あこがれを多少もっていたとしても最初は仕方がない。芸術と名のつく無償の行為に含まれる精神的自由は、しかし過去のものだ。だからぼくはグループを常に二〇世紀のマスコミのスポットライトの中に強く押し出してきた。」(p. 45)
篠原有司男「前衛への道」(『美術手帳』一九六六年六月号)

 

第三章 スキゾフレニックな日本の私 I

(……)ここで注目してみたいのは、村上隆に代表される今ひとつのポップが、美術とその外部の双方から等しく攻撃されることの「意味」のほうである。これは、彼らがアーティストであることとオタクであることとの双方に、多分に分裂症的に引き裂かれていることを意味し、それは同時に、彼らがファイン・アートとサブカルチュア、世界と日本、唯一性と複製性といったさまざまな次元において分裂症的に引き裂かれていることを意味する。逆にいえば彼らは、美術の質にせよオタクの質にせよ、「質」を一意的に決定できるようなシステムに所属せず、システムとシステムとの間に自らの生の条件を見出そうとしているのだといってもよい。(p. 54)

「あいまい」であることは、日本が西洋近代とアジアの伝統との間に分裂して存在しているという、いわばシステムとシステムとの間に引き裂かれていることを意味する。もっとも、引き裂かれているということ自体が犯罪的なわけではない。日本を「アジアにおける侵略者の役割に彼〔大江健三郎〕自身を追い込み」、さらに「アジアにおいて、日本は政治的にのみならず、社会的、文化的にも孤立することになった」のは、むしろそのような「あいまい」なみずからの生の条件を「美」化することによって解消し、統合しようとしたことに由来するのではないだろうか。(p. 58)

もともと、数多くの外来語ばかりか、数式や記号といったもろもろの要素を排除することによっては近代の言説が成立しないことを考えれば、それが文学であっても、横書きのほうが機能的であることはいうまでもない。にもかかわらずそこで近代文学の風景(字面)として縦書きが選ばれることによって、算用数字や化学式、外来語や記号の数々といった雑多な要素を抱え込まざるをえなかった近代以降の「日本(語)」が、「未完の近代」ゆえの雑多さや「あいまい」さを隠蔽し、そこに統一的な「美」を立ち現わせることができたということは、容易に予測できるのである。(p. 65)

(……)「日本近代文学」という形式は、近代以降の日本の分裂症(スキゾフレニー)(スキゾフレニックな日本の私)を、暴力的に「美」(美しい日本の私)へと回収するための一種のイデオロギー装置なのである。そこでは、多種多様な生存や、外からのさまざまなものの移入や定住、移動や摩擦、矛盾や分裂といったことは覆い隠されてしまう。(p. 67)

第四章 スキゾフレニックな日本の私 II

日本が近代化されるためになんとしても必要とされざるをえない、国民の国民による国民のための文学の言葉は、批評においてすら、このようにして、「まず何かを想定しなければならない。それが日本の近代批評の始発点であった」という、底なしの無謀さからその一歩を歩みだしたのである。言い換えれば、この無根拠をいかにして忘却し、いかにして制度的に透明化し、そのことによって国民全体に共有される内面として「整地」していくかというプロセスそれ自体が、日本という国民国家を、だれも疑いようのない自明のものとするために必要不可欠の課題であった。この課題がいつ頃までに克服されたのかはここでは議論の対象ではない。しかし、少なくともはっきりしているのは、この課題はおおむね成功を収めたということであり、そのことは現代を生きるだれもが、「自然」であるとか「世界」であるとかいった概念が、不自然で支離滅裂な使われ方をしているとは思わないことひとつ取ってみても明らかだろう。(引用は、野口武彦「近代日本文学と『批評の』発見」から)(p. 72)

前章に引いた例に即していえば、「滅茶苦茶、ばらばら、アンバランス」に「創出」された日本の近代文学の言語を内面的に統一するためにはいかにもふさわしくない半濁音を含む、北海道におけるアイヌ起源の地名は、漢字を充てられ、強制的に日本語の、それも縦書きの風景のなかに回収され、「美しい郷土」へと姿を変えていく。逆にいえば、美とは忘却に基づくものだといってよい。多様の物事が生起する共生常態を忘れること、おのれの内面のとば口に刻まれた深い分裂の傷を忘れること、自分が生まれ、食らい、死ぬ場所が群島であるということを忘れるまさにそのとき、それら「醜」の要素に代わって「美」が立ち現れるのだ。いずれにせよそれは、トンネルを抜ければそこに、別の人、別の文化、別の言語ではなく、雪国という仮想現実(ヴァーチャル・リアリティ)を捏造してしまう「美しい日本の私」を生み出すことになるだろう。(p. 73)

 

(……)〔六〇年代のポップの認識を反復する九〇年代の還元のポップが現れた〕その際に作品にあしらわれた悪ふざけに近い悪意の発露、その破廉恥さは、現代に日本において「美術」が成立することの無根拠さ、すなわち「現代美術」に内面化された「美」の無底を露呈させるための、確信犯的な仕掛なのである。彼らが漫画と絵画、芸能と芸術、美術とサブカルチュアといったふうなジャンルの間隙に、いかにもいかがわしく作品を成立させようとするのは、そのようなジャンルの壁が近代において歴史的に構築された西欧と違い、すでに触れたように、そのようなジャンルの存立が、みずからの存在が無根拠であることを忘却することによって内面的に定着された、いわば張りぼて的な未完の近代であったことを「体現」するためといったほうがよいだろう。(p. 83)

「ニッポンのポップ」は、ただたんに東京の新たな消費生活に由来するだけの「反映」のポップではありえない。反対に、アメリカに骨の髄まで置かされた心と身体の滅茶苦茶さを、ばらばらさを、そしてアンバランスさを、現代美術という、いまでは自然で自明なものとなってしまい、ほっておけば一人前に歴史すら語りかねない美辞麗句に、その隠された悪い素性を呼び戻すためのひとつのゆがんだ方法なのだといってよい。こういう言い方は悪意に満ちているだろうか?(p. 84)

(……)村上がもくろむのは、いまや日本のオリジナリティを代表するといっても過言ではないオタク文化を、ただたんに現代美術の領域に引水し、美術の概念を拡張すると称してそれを植民地主義的に搾取するのではなく、オタク文化それ自体が戦後日本のアメリカによる「植民地化」を土壌に生まれたものであり、このことに関していえば戦後日本、とりわけ一九五五年以降、アメリカによるこの植民地化が急速に進むことによって生まれたいわゆる「現代美術」もなんら変わることがない――いかなる高品質の「現代美術」であっても、その「最高品質性」は田宮模型同様、その下地に「アメリカの国旗」を敷いている――ことを示すために、美術作品とオタク製品との相同性を、しかしあくまで「あいまい」に、しかしときに破廉恥ととられることも辞さぬほど「スキゾフレニック」に明示するというものだからだ。(p. 86)

わたしたちが生きているこの場所は、それが複数の焦点をもつがゆえに錯乱している。「美しい日本」の「美しい」「美」じゅつとは、だから、ときにあいまいで、ときにスキゾフレニックなわたしたち自身の現実を制度的に忘却し、政治的に捏造した同一性という人工的な郷土に絡め取った表象の別称にほかならない。わたしたちにいま必要なのは、そのように美しく粉飾された「美しい日本」が、政治的に、かつまた人工的に構成された内面的な虚像であり、しかしそれゆえにもはやいかなる意味でも根拠を失った近代人を惹きつけてやまず、だからこそ恐れるべき、しかしまたその恐れの渦中においてこそその「美」が蜃気楼のごときものであることを「認識」し、可能ならばその美の桎梏を解き、かわって「あいまい」で、「スキゾフレニック」な現実の自分を直視することであろう。(p. 90)

第五章 日本・現代・美術

(……)「スキゾフレニックなニッポンのポップ」は、世界に名だたる自国のサブカルチュアを「反映」した美術作品を誇ることによって、新しい時代を迎えたかに見える日本を、美術においてもまた、新たにアイデンティファイしようとしているわけではない。そうではなく、まったく反対に、いつの頃からか「現代美術」という謎めいた身分保証を与えられ、まがりなりにも安定していた自分たちの「アイデンティティ」そのものに、「日本」という不吉な次元を滑りこませることによって亀裂を生じさせ、この亀裂からいまいちど、「美術」そのものが明治以来の倒錯(開国による未完の近代化)に出自をもつことを、昭和という不吉な時代にいまいちど生じたこの倒錯の変容された反復(敗戦による未完の植民地(ポップ)化と、「一九五五年」以降に完成するその内面化)になぞらえながら、実践的に問い直そうとしているのだといったほうがよい。(p. 95)

高橋由一の描いた奇妙な豆腐が、いまだに「現代美術」などよりもずっと、日本における近代の美術の現代性を生々しく体現しうるのは、そこで対象化された視覚が、近代という認識を生きざるをえないかぎり抱え込まざるをえないわたしたちの中の「劣勢の遺伝子」によって描かれ、まさしくそのことによって普遍的に構造化され、時を超えて現代に「反復」されているからにほかならない。こうした「達成」を前にしては、「発展」も「水準」もありはしない。
近代に生かされているのではなく、現代を生きていると勘違いしているわたしたちは、とかく、抽象表現主義なりミニマリズムなりポップなりといった共通のフィールドを、歴史的にも領域的にもあらかじめ自明のものとして想定し、その盤上でゲームを争っているのだと思いがちである。しかし、そのようなフィールドは、美術の現在においてたえまなく書き換えられており、その実在は事後的に決定されるほかない。(p. 96)

さて、このような「反映のポップ」を潜在的に支えたバブル経済の瓦解が、その基盤をより大きい枠組みにおいて決定されていた冷戦構造の崩壊と相前後して起こり、外部に対する緊張関係が露呈したとき、日本における現代の美術に、いまさらのように「日本」という問題系が姿を現したことは、一種の必然であったといってよい。(p. 100)

浅田彰によって「吉本」的と揶揄された森村〔泰昌〕の諸作は、たしかに浅田の指摘どおり、国内的に見れば「吉本興業」的に見えるかもしれないが、それは、彼の作品を吉本的に見ることができるものが日本列島に生活を営む一握りの人でしかなく、多くの場合、外部の眼からは別の見方をされるであろうことをあらかじめ構造的に組み込んだ作品であり、それゆえに「日本」という問題系を外部との緊張関係において対象化しえた、当時にあって稀な「達成」であった。西洋名画に活人画を思わせるやり方で侵入した森村という華奢な日本人の肉体は、西洋絵画という美の殿堂の内部に文字どおり身体ごと侵入することによって、そこに解消不可能なズレが存在することを視覚化すると同時に、近代というシステムの中で貧しい肉体を引きずりながら、他者からは悪趣味ともとられかねない「デロリとした美」をひたすら追求してきた明治以降の洋画の歩んだ道を、集約的に反復するものであった。(p. 101)

(……)〔「美共闘」が提出した問いである〕「美術の根源的な制度性の告発と、制作概念そのものの喪失の認識」は、日本画国民国家として未完の近代に生を受けて以来ずっと潜在的に抱え込んできた、つくることそのものの「無根拠」と同義であり、その意味ではいかにそれが美共闘によって極限的に突き詰められたかのように見えたとしても、この問いが日本における近代の「無底」で発せられる以上、わたしたちはしれに容易には解答することができない。(p. 105)

注目すべきなのは、この〔戦後の観念的な披瀝し空間に物質的な歴史を回復しようとした七〇年代の〕「暴力」の後退とほぼ同時に、「知」が語られはじめるということだろう。具体的には、『エピステーメー』(朝日出版社)、『遊』(工作社)といった新興のメディアに代表される知の総合雑誌による、いわば知の博物学の登場である。これらのメディアが、それまで各ジャンルによって個別に担われていた「知」を一挙に総合しえたことの背景には、なによりもまず、各ジャンルで歴史的に担われてきた、日本における近代の文学の、美術の、映画の、音楽の現在性という、「あいまい」かつ「スキゾフレニック」な固有の問いが、政治の季節の決定的後退と時を同じくして姿を消し、そのことによってジャンルの均質化、非歴史化が急速に進行したことが挙げられる。そして、このかりそめの総合性という「知」の新たなプレイ・フィールドにおいて、ありとあらゆるジャンルは歴史的な抵抗感なくたがいに交換可能な知の原子素に還元されたのである。これこそが、日本においてポストモダンと呼ばれた事態であった。(p. 107)

(……)〔一九八九年の〕「プライマル・スピリット」展には、「現代美術が、具現化している日本文化の深い精神性を集約し、明確に力強く表わす展覧会」との言葉がみえるが、これは、「現代美術を日本・現代・美術に分解して再構成し、そこで具現化されていると思われる日本文化の深い精神性が日本における未完の近代に由来するスキゾフレニーを覆い隠すイデオロギーであることをあいまいに記述する評論」という本書のモティーフに、真っ向から対立している。そもそも、木に代表される日本列島の「自然」が、明治における近代化と、敗戦後の高度成長至上主義によっていかに醜く破壊されたかを対象化すべきところに、自然と共生する東洋の深い精神性を見てしまうのは、歪んだ本質主義以外のなにものでもない。ここでは、「美共闘」以後の問題設定は再検討されるどころか、無残に粉砕されている。(p. 110)

 

第六章 バリケードの中のポストモダン

(……)日常と非日常を、生活と闘争を、アメリカと日本を、弛緩と緊張をなまなましく浮かび上がらせるための装置ともいうべきバリケードの内側にもまた、避けがたく「日常」があるほかなかったのは、もはやそのような単純な二元論によって浮かび上がらせることができないくらい、現代の日本における境界線という概念が複合化し、透明化し、遍在化しつつあったからなのではなかっただろうか。バリケードはしたがって、そのような「境界線」がいまや、いつでもどこにでも仮設し、取り壊すことが可能で、日本の至るところに遍在する、実体を失った心理的なものと化してしまっていることを、逆説的に浮かび上がらせる働きをした。(p. 120)

 

わたしがこういうとき、そこには、どこにも辿り着かず、ことあるごとに「欧米」に相談してまわり、しかもその営みが「暗く」あるほか内近代日本の芸術家の、いや、そこに生を享けたすべての人びとの宿命を、小沢〔剛〕の作品に重ねて読んでいる。しかしそれは、そのような「くらさ」を通じてしか、「近代」が見えてこない、「特殊な場所」(サイト・スペシフィック?)の問題を扱うがゆえのことであり、けっして近代の外部としての日本固有の問いを見出そうとしているのではない。(p. 130)

わたしがここでいうポップは、いうまでもなく、アメリカのポップ・アートの亜流を意味しない。そうではなく、日本の「いまここ」に緊張感をもつすべての表現は、みずからのなかのアメリカに対するいびつな境界線をどこかに残しているはずであり、その境界線の描く、日本にもアメリカにも、世界にも地方にも、自己にも他者にも、偶然にも必然にもけっして回収不可能な歪んだ軌跡のことをポップと呼ぶのである。「日常」といい大量物資といい機械製品といい、これらはすべて常套句的にはポップ・アートに関わるものであった。それは否定しない。しかし、スキゾフレニックなニッポンのポップが関わる「日常」が孕む素性の暗さと不透明さ、そしてその悪循環と歴史性を無視するならば、いかなる意味でも日本のポップ・アートは成立しない。彦坂という高山といい原口といい、彼らがとりわけ興味深いのは、それぞれが固有のあり方でこの「日常」にかかわりあうその形式と構造であり、そのかぎりにおいて、いかにそのイメージから程遠かろうとも、ポップ・アートの更新された可能性の種子を孕んでいる。(p. 139)

 

第七章 「もの派」と「もののあはれ」

近代の限界を打ち破る「新しい世界」を提示するとされた「もの派」の背景にあったのは、近代の矛盾が集積された日本という「悪い場所」の歴史的規定性でもあった。その意味では、彦坂尚嘉によってなされた、李〔禹煥〕の言説の非歴史主義的なイデオロギー性に対する徹底的な批判は、いまから振り返ると、当時の情況に由来すると思われる文体をはじめとして、あまりに攻撃的のすぎるきらいがあるにせよ、近代の近代頴娃を判断保留することによって開示される「もの派」の「世界」が、同時にそのような「世界」の歴史的規定性、すなわち「日本における近代の美術の現代性」を忘却することによって得られた、「逃げ場を求める」ものの余儀なくされた数少ない可能性のひとつであったかもしれないことを鋭く突いていた。(p. 149)

菅〔木志雄〕の思考のおおむねの見取りは以下の通りである。
まず、日常の用途に従うところの「物」と、「沈黙の方向」にあり、その意味では「人間の言葉に還元できない」ところの、「無名」にして「相対する何物もない」ような「もの」を明確に区別したうえで、実体である個々の「物」によって構成される「広さ」としての空間が「関係」によって据えうるのに対して、「もの」が開示するのは「広がり」としての「状況」であり、それは「つくる」ことも「見る」こともできない。「状況」はつくられるのではなく「放置」されるほかないのであって、それは同時に「見る」のでも「見られる」のでもなく「ながめ・る」ほかない。したがって、そのような「もの」の「状況」を「制作」することはできない。そのような「状況」を「放置」するのが、菅の「作品?」ということになる。(p. 151)

 

(……)ハイデガーは、物についての西欧的な「伝統」のよってきたる隠蔽的な翻案に由来する「物」の理解に対しても、「有るものをただそれである有るものにしておく」ことに沿って経験される芸術作品のあり方を、「まこと」と呼ぶ。この場合の「まこと」とは、「有るもののかくれなさ」という意味での、ギリシャ語でいうところの「アレーテア」に該当するとハイデガーは語る。「アレーテア」を「真理」というローマ・ラテン的な思考方法にならって認識するのではなく、「有(存在)のかくれなさ」としての「まこと」の経験に沿って復活させること――これが、「物」から出発して「もののまこと」に至るハイデガーの思索/詩作の道程である。(p. 156)

(……)「あはれ」も「もののあはれ」も同じことだという宣長の真意は、それでは「あはれ」を合理的に分析すればこと足りるではないかということではなく、逆にだからこそ、合理という漢意に従って「あはれ」を分析するのではなく、和歌のなかにおいて「もののあはれ」を全的に経験するしかないのだということにあると考えられるのである。これまた、ハイデガーが、「物」の基底としての「まことのかくれなさ」を経験するためには、「存在者」をローマ・ラテン的な合理に沿って思考するのではなく、詩作においてギリシャ的に経験するしかないのだというのと、たいへんよく似てはいないか。(p. 160)

ハイデガーの思索/詩作は、近代においてあらゆる根拠を失ったわたしたち近代人は、国家であるとか民族であるとか家族であるとか恋愛であるとか階級であるとかいった「イデオロギー」一般と要約され〔る〕よう〔な〕さまざまな「想像」によって、かろうじて生を繋ぎ止めているにすぎないのであり、もしも近代人がその条件付けの次元ですでに根拠を失い、それゆえにどうしようもなく「不安」なのであれば、いまや存在者としての「不安」を先駆的に決意し、「不安」をして「存在のかくれなさ」へと脱自的に読み替えることによって、脱存在者的に生成するその根源的時間性の地平、すなわち存在へと向けて歩みだすべきである、と語るのである。(p. 166)

(……)「シビれる」「ドキッとする」「ゾクッとする」といった「つくらない」作家たちの言葉にならない嘆息は、「つくること」の呪縛からの「解放」に対して発せられたのではない。おそらく、「つくらないこと」の対語は、近代の日本においては「つくること」ではなく「つくらなければならない」であろう。あの嘆息の数々はもしかすると、近代において「つくらなければならな」かった生の呪縛から、たった一瞬でも「解放」されることに由来したのかもしれない。しかし、この「解放」が「つくらなければならないこと」の否定という受動的なかたちをとらねばならないかぎり、「つくらなければならない」ことに支えられることなくしては、「つくらないこと」すら可能にはならない。したがって作家たちが「つくらなければならないこと」に戻っていったのは、ある意味で当然だった。「つくること」ではなく「つくらねばならないこと」、さらには「つくらされること」――それが、日本における近代の美術の現代性という砂漠の別のなにほかならないのだから。(p. 170)

近代の近代性が徹頭徹尾、無根拠であることについてはたびたび触れてきた。そこに生を享けたわたしたちは、目的もないまま「歩まなければならない」。したがって、近代のこの「歩み」のなかで近代の美術の現代性を立ち現そうとする者は、やはり「つくらなければならない」。「あてどなく歩むこと」と「あてどなくつくること」は、近代においてはほとんど同義である。ただし、日本においてこの定式は、「あてどなく歩まなければならないこと」と「あてどなくつくらなければならないこと」の同義性に変形される。そしてそこに「つくらないで済む」ことが蜃気楼のようにときたま顔を出し、「前衛」と呼ばれて喝采を受ける。
近代人の特徴は、とぼとぼ歩くことである。期せずして彼は「もの」と出会い、いったいなにを心に抱いたのか。「物でないもの」を前にしてわたしが、そしてあなたが「出会」うのは、わたしたちがそう「在ったし、今も在ると〈感得〉出来る素の〈今〉」(石子)の「生の解放」への、しかしあくまでそれについての憧憬にほかならない。しかし、憧憬なくしては、いかなる抵抗も闘いもありえないと、わたしは思う。(p. 170)

第八章 裸のテロリストたち

(……)実際には「裸」は、ハプニングを中心とする六〇年代後半の芸術的前衛を代表する要素であって、ダダカンはそうした動向を象徴する存在ではあっても、「裸」という一点においてはけっして特異な存在だったわけではない。ばかりか、六〇年代後半における「肉体の叛乱」に先立つ日本の前衛的諸動向、すなわち大正期新興芸術から戦後の「具体」「読売アンデパンダン」に至るまで、「裸」は「日本の前衛」に影のようにつかず離れずの関係を保持したまま、現在に至っているように思われるのである。(p. 176)

(……)高橋〔新吉〕は、「ダダは仏教の亜流にすぎなかった」としたうえで、「ダダの再燃は、仏教の復活を意味する」という結論にまで至るのである。
すなわち、未曾有の世界大戦のあとで、近代的伝統に対する全面的な否の精神としてにわかに立ち現れたダダが、ここ極東の地においては、まったく文脈を異に、こともあろうに伝統を復興させるものとして受容されたのである。たしかにダダには、壊滅的な破壊を導いた、彼らの内なる西洋に対する全面的な呪いに由来するところはあるだろう。しかしそれは、ならば西洋ではなく東洋に救いの道を見出そうというようなものではなく、むしろあらゆる可能性と救いを、そのようなものを求めてしまう人間の弱い本性もろとも破壊し尽くそうとする極限的なニヒリズムの運動であり、その意味においてはいかなる意味でも伝統の復興に結びつきようのないものなのだが、それゆえ一層徹底的な攻撃を加えられた、西洋的論理を裁断し、その合理を圧殺するダダの語法が、極東の高橋にとって、いかにも東洋的な非合理の精神と、あるいは西洋合理主義によって抑圧されてきた「伝統」の「仮想」とその解放に結びつくことは、いかにもありそうなことなのである。(p. 182)

(……)九六年夏に東京ビッグサイトを拠点に開催され、その後もさまざまな点にわたって物議を醸している展覧会「アトピック・サイト」の展示中、「オン・キャンプ/オフ・ベース」と題されたパートにお目見えしたシェリー・ロスによるインスタレーション「ボバルーン」の李出した性器をかたどった部分に、、公衆衛生上の観点を考慮したのであろう、主催者の判断によって、こともあろうにオムツがつけられ、キュレイターの反対によって一時はオムツが外されるも、直後に今度は警察からの通告を受けるというドタバタを演じるにいたっては、日本における近代の美術の現代性がオムツのつけはずしをめぐる抗争に終始するという、もしかすると明治期における「布」や「紫色幔幕」のほうがよほど上品であり、その意味では明治からの開化であるどころか閉塞でしかないような顛末には、笑いを通り越して日本という「悪い場所」に由来する修復不可能な汚染地帯の果てしなさに、肌寒さすら覚えるのである。(p. 186)

すでに分析したように、「もの派」とは、未加工の「物」でしかないものに「物でないもの」を「仮想」し、そこから近代を超克的に批判する原理を抽出しようとする、それ自体近代に深く呪縛された苦悩と解放の「形式」であった。そしてまた、「ハンパク芸術」における裸体もまた、いかに文脈を異にするとはいえ、未加工の裸体であるとか、通俗的な日常でしかないものに、近代を超克し、それを批判しうるにたる原理を、しかし「原理」それ自体が近代的な思考でしかないという自己矛盾のさなかに提示せざるを得なかったのではなかったか。そこで注目すべきなのは、「もの」の醸す知覚であるとか、「裸体」の与えるインパクトなどではない。そうではなく、そのようなただの「もの」や「裸」にそれ以上のなにものかを「夢想」してしまう、「悪い場所」に繋ぎ止められた私たちの生の様式と歴史的規定性のほうなのだ。(p. 188)

社会学者の筒井清忠は、橋川文三による昭和ナショナリズム研究に触れた文章の中で、橋川のナショナリズム研究の原点は、明治の伝統的国家主義がそのまま連続して昭和の超国家主義へとつながったとする丸山真男による日本ファシズム論の批判にあったとしたうえで、その骨子を「大正中期の頃から、明治のそれとは違う新しい種類のナショナリズムが台頭してくるのであって、それが昭和の超国家主義となる」と要約している。「身分意識を母体とした旧士族・豪農層的明治ナショナリストから下層中産階級型の大正・昭和ナショナリズムへ」という視点の変動を、橋川は確立したというのである。そして、この視点から橋川を読む作業は、「一九三〇年代におけるこの現象のひとつの特性としてプレモダンとポストモダンの独特の結合をそれは随伴していた」ことに向かいうるという。(p. 190)

(……)わたしは、「裸体」という帰郷すべき前・反近代の場所を「想像」することによって近代を「撃とう」とするこの芸術的テロリズムに、やはり同様の道筋を辿って近代を、しかしこちらは近代を象徴する人物を抹殺しようと企て、またそれを決行した昭和のテロリストのメンタリティと、どこかで響き合うのを感じないではいられないのである。(p. 194)

「もちろん、テロリズムは、国家主義にのみ結びつく行動ではなく、政治にのみ特有の現象でさえない。それは、人間存在のもっと奥深い衝動と広く結びついた行動であり、一般的にいえば、人間の生衝動そのものに根源的にねざした行動とさえいえるはずである。人間という恐るべき生物が、絶対的な自己表現にかりたてられる場合に、しばしば選択する手段の一つといってよい。そして、人間が絶対の意識にとらえられやすい領域の一つが宗教であり、他の一つが政治であるとするなら、テロリズムは、その二つの領域に同時に相渉る行動様式の一つとみることもできるであろう。そしてまた、それが人間行動の極限形態として、自殺と相表裏するものであることが認められるとするなら、その両者の様式を規定するものとして、テロリズムの文化形態(カルチュア)ということを言ってもかまわないであろう。」
……………橋川文三「昭和超国家主義の諸相」 (p. 195)

「日本の前衛」の端緒は、けっして近代芸術上の「革命」力ではなかった。それは、決定的に、伝統化した明治国家の要請する「近代芸術」からの断絶をめざしたものであったとしてとらえようと思う。その際、明治国家の伝統の構造変化と、明治=大正期において拡大した社会的緊張の構造という要因が、「苦悩と法悦」を求めるカリスマ的形象への敏感さを引き起こしたものという仮説を立ててみたい。もっと端的にいえば、この時期において、「美術」を考える一般の青年たちは、それ以外の道を閉ざされていたという過程である。(p. 197)

一九七〇年十一月二十五日、作家の三島由紀夫は、自衛隊市ヶ谷駐屯地の建物に、超国家主義を標榜する「盾の会」を率いて閉じ籠もり、バルコニーで国を憂えクーデターの必然を説いた後で、割腹自殺した。大阪万博が開催されたまさにその年の秋に起こったこの事件のなかには、テロリズム、ナショナリズム、ハプニング、裸体、そして日本浪漫派のすべてがあった。それが政治的前衛であったのか芸術的前衛であったのか決定不可能になるような次元において、三島の腹は切り裂かれ、首はオブジェのようにゴロリと床に転がった。(p. 198)

 

第九章 芸術である、だけど犯罪である

ここで注目してよいのは、ハイレッド・センターの活動が、それまでの「反芸術」的動向とは比較にならないほど、美術館の外の領域としての都市空間を活動の舞台としたことです。なにをしてもけっきょくのところ芸術になってしまう美術館の内部と違って、街はまさしく、「芸術がどのようなものでありえ、また、どのようなものも芸術たりうるとしても、なお芸術がすべてであり、すべてが芸術であるわけではない」と公的権力の支配する場所です。言い換えれば、美術館という母体を離れた都市の環境の中でこそ、「芸術と非芸術とのあいだの決定的な交流」に端を発しながらも、そうであるからこそいっそう、ある行為は芸術とされ、他方は非芸術とされてしまうような「不在の芸術」をめぐる「芸術と非芸術との断絶」が、なまなましく立ち現れてくるはずだからです。(引用:宮川淳「反芸術――その日常性への下降」(『美術手帖』一九六四年四月号))(p. 206)

(……)芸術といい犯罪といい、それらの領域を確定するのは一種の権力行使によってのことであって、なにをやっても原理的には芸術になってしまう美術館の内部とは異なって、街中の路上は、ひとたびそれが芸術的行為だとみなされないということになれば、警察の方々や街行く人びとはそれを「非芸術」などと呼んでくれようはずはなく、端的に「犯罪」と見なすことになるだろうからです。この意味では、ハイレッド・センターに活動が立ち現そうとしていたのは、「芸術と非芸術との間の断絶」というよりは、「芸術と犯罪との断絶」に由来するあわいの領域をめぐる「不在の芸術」であったとすらいえるのです。(p. 207)

「 犯罪であることは、芸術であることを保障しはしないが、弁護側の論旨のように、芸術であることが、犯罪でないことを保障するかのような発想が、芸術の〈近代〉を、安全に国家体制内に温存させた。それは表現の自由などというものは、そもそも人間にあるものだから憲法に規定されているのだという自明の理を、憲法に規定されているから、ぼくらには表現の自由があるのだ、みたいな転倒と見合っている。」
………石子順造「殺人はなぜ〈表現の自由〉として許されていないのか」(p. 214)

「 先に表現の自由は無制限であるべきだと書いたが、それはあるべきだという志向に老いてであり、現実には禁制との無制限な戦いにおいて自由でありうるのだ、と言い換えるのが本当だろう」
………石子順造「殺人はなぜ〈表現の自由〉として許されていないのか」(p. 217)

いま少し砕いていうならば、まったく同じ既製品であるところの便器が、作家のサインを施し、美術館の壁の内側に空間的に移動しただけで、たちまち高価きわまりない「美術作品」と化してしまうというその「魔法」を、デュシャンは「手品」に還元したのです。それが魔法であるならば、美術館はなにか神聖なもの、美を保証された実体以外は立ち入り禁止の神秘的領域になるのですが、もしも、美術館に入ることを認められたものが事後的に美術作品になるのであれば、もはや美術館は魔法の箱ではなく、美術館の壁の外から内へと、ある物体を移動させ、認知させることのできる非実体的な「権力」こそが、芸術作品とそうでないものを決定するのだということがわかるはずです。(p. 219)

(……)もしも、芸術作品の定立が、社会における生々しい政治経済的次元の渦中において、暫定的に規約される権力の所在に左右されるのであるならば、デュシャンの提示した美術館の外と内という、いまだ空間的な実体性に魔法の余韻を残す領域から、さらに政治経済的文脈そのものが、ある物体が芸術作品であることを事後的に決定するという意味で、美術市場の問題を対象とせざるをえなくなるからです。この場合、デュシャンの文脈であれば、美術館に入った物体が、事後的に美術作品であることを保証されることから一歩進んで、美術市場において、美術作品として扱われた物体が、事後的に美術作品たらしめられるのは、なんでもよい、美術市場において左から右へと移動されたもの、つまりは売る・買うという非対称的関係におかれたものが、事後的に美術作品であることを保証される、ということになるわけです。(p. 220)

もしも紙幣の最終的価値を保証するのが、内在的な価値実体ではなく、その紙幣を取り巻く規約的文脈であるならば、その上にはへたくそな数字を一万とか千とか、買い込んだだけでもかまわないはずなのです。しかし、そんないかにも価値のなさそうなものを使ったのでは、デュシャンがかつてそうしたように、紙幣に体現された象徴的価値が、じつはまったく根拠のないものだということがたちどころにばれてしまいます。これはまずい。国家のいちばん見せたくない恥部が、公然と丸出しになってしまうわけです。デュシャンは美術についてそれを行おうとしましたが、国家はそれではたいへん困る。そこでデュシャンとはまったく反対に、いかにも価値のありそうなものを、紙の表面に刷り込んだのです。そう、国家がいかにも価値がありそうだと考えた「官許のデザイン」とは、偉人の肖像画と、風景画という、美術作品の典型でありました。(p. 222)

さて、赤瀬川原平氏による千円札の模型は、わたしに、どこかで高橋由一の「鮭」を連想させるのです(異例に縦長と横長というサイズの点においても、似ています)。由一の「鮭」を目にしたときに感じる、一種病的なまでに迫真的な描写には、赤瀬川氏による千円札の模型同様、写実的に描かれた鮭それ自体とも違う、そこに担われた近代のあり方を感じないではいられません。彼らはそのとき、わたしたちの内なる近代の、その歪んだあり方そのものを、知らず知らずのうちに模写していたのではなかったでしょうか。(p. 230)

第十章 日本の熱

そもそも、「アンデパンダン」という制度自体が、旧来様式に対する異議申し立ての熱を持って誕生したことは、よく知られている。
一九世紀の終わりにフランスで誕生した「アンデパンダン」展は、元来、官設のサロンを権威に頂く画壇にあって、落選につぐ落選を余儀なくされていた、後の「印象派」や「後期印象派」に連なる作家たちが、旧態依然とした審査の可否を世に問うために自主組織した「落選者展覧会」に端を発しており、無審査・自由出品をうたったのも、その反権威性、民主制、機会均等(平等)性に由来する。(p. 237)

(……)自由と平等は原理的に矛盾しているから、この矛盾を解決し、その権利を「すべての市民」に浸透させるためには、必然的に社会主義革命を要請せざるをえない。しかしそれは、ブルジョワ階級の望むところでない。なぜならブルジョワ階級の「富」は、国内においては「資本家・労働者」、国の内外においては「宗主国・植民地」というふうに、この矛盾を一国の内(外)部に構造化することによって、はじめて確保されるからである。(p. 238)

(……)中西〔夏之〕や高松〔次郎〕の作品のかたちを成り立たせた「システム」が、「建築」的であるよりもいっそう「都市」的であるのだとしたら、両者に赤瀬川を加えたハイレッド・センターが、「読売アンパン」崩壊後に、都市と路上をその主要な活動の拠点に据えたことも、しごく納得がいく。あるいは、東京という「都市」と、「読売アンパン」それ自体が、共通のシステムによって成立していたのかもしれないし、その意味で「反芸術」は、美術館と都市とを、さらには美術とその外部とを、差異と反復をもって同型的に媒介していたのかもしれない。(p. 254)

 

第十一章 アンフォルメル以前

 それにしてもなぜ、アンフォルメルは之までに多大な衝撃を、しかもほんの短期間に、かくも多くの人びとに与えることができたのだろうか。(……)具体に対するタピエの賞賛に見られるように、暗中模索でやってきた自分たちの美術が、ふたたび世界的水準にまで「復興」しつつあることが証明されたという、純粋な喜びもあったかもしれない。
しかし、まったく逆のことも考えられはしないのだろうか。すなわち、「アンフォルメル旋風」とは、日本の作家たちが、「世界 今日の美術」の仲間入りができるまでに「豊かさ」を回復したことを意味するのではなく、「世界 今日の美術」をまったく無抵抗で受け入れることができるほどに、自らの依って立つ根拠を失いつつあったことに起因するのではないか、と。そのようなものを抵抗なく受け入れることができるまでに、内面の空白化を推し進めはじめていたのではないか、と。そしてそれが、わたしたちが無意識に「現代美術」というときの、「現代」に、どこかで通底しているのではないか、と。(p. 260)

問題なのは、ある一定の思考の枠組みにおける個性や完成度の追求などではなく、数ある枠組みの中で、なぜ特定の枠組みが選び取られたのかということであり、そのことを問わない限り、いくら「高水準」の絵画を描こうとも、その営みはどこにも行きつくことはないし、そのことに気づくこともできない。根拠を問うという営みのないところでは、逆にいえばいかなる様式や方法を選択しようとも、すべては恣意的であるにすぎない。「サロン・ド・メ」と「アンフォルメル」とが、その外見のあり方のはなはだしい違いにもかかわらず、ひとしなみに「世界 今日の美術」として受け取られたとき起こったのは、まさにそのようなことであった。そのとき、両者の根源的な亀裂は、相対的で規約的な差でしかなくなってしまう。この意味で「現代」とは、「近代」の根源的な矛盾を、操作可能な相対差に還元することによって、非歴史的に見出されたというべきだろう。(p. 265)

相次ぐ世界大戦は、いわば近代の人間中心主義の必然的帰結としての戦争状態であり、その根源である近代主義、人間主義に対する原理的な対策を持ちえないまま戦争が終わった以上、「人間」と「近代」の核心部に生まれた戦争とホロコーストは、今後とも構造的に反復されるほかない。だとしたら、よほど素朴でないかぎり、わたしたちは「人間」や、その表現であるところの「作品」や、その創造性を担うとされる「作家」を手放しに謳歌することは不可能なはずなのであり、かといって、とりわけフランスにおいて根強い伝統を持ち、一定の芸術文化上の成果をあげてきたとはいえ、ドイツによる占領期に多くの対独協力者を生み出した「犯罪的」反近代主義、アンチ・ヒューマニズムに、いまさらながら与するわけにもいかない。フォートリエやデュビュッフェの絵画に現れる、フォルムというよりはマティエールそのものに還元された非・人間の数々は、いずれに転んでも破壊とか殺戮か、偽善と隷属にまみれるほかない「人間」に対する激烈な否定であり、そこにあるのは、自分たちに先立つすべての近代の成果が、結局は戦争と破壊を回避しうるどころか、その主催者となった人間そのもののありように切り離しがたく連なっていたということに対する、やむにやまれぬ呪詛、そして猛毒にも似た絶望にほかならない。(p. 273)

いまではあまりにも陳腐に響きかねないが、「近代美術」とはなによりもまず、神から解放されて自由となった人格者により「主体」的に体現されるものであり、したがって「作品」とは、その主である「作家」の兼ね備えた豊かな教養と高貴な品性から自律的に発露するものでなければならない。しかしいかに陳腐に聞こえるとしても、依然としてこれは密やかな真実でありつづけている。にもかかわらず、それがこれほどまでに陳腐に聞こえるのは、わたしたちがいかに「現代」という「人間」なき時代の呪縛されているかを裏側から教えてくれる。(p. 283)

ふたたびアドルノを引こう。「アウシュビッツのあとで、詩を書くことは野蛮である」とは、いいかえれば「もし野蛮であれば、アウシュビッツのあとでも、詩を書くことができる」ということにほかならない。戦後、世界中で多くのすぐれた絵画、彫刻が制作されたが、いくら精緻であったとしても、それらが可能であったのは、近代の野蛮を超克したからではなく、たんに忘却したからにすぎない。宮川淳が「アンフォルメル以後」で示したのは、そのような「野蛮」を回避することによって、近代とは独立に「現代・美術」を定立することによって、「超克」とも「忘却」とも異なる道を、かろうじて提示することであったが、そのあまりにナイーブな提案は「現代社会の野蛮」にあってはほとんど理解されず、結果として「以後」現れたのは、宮川のかいまみた過渡期としての「現代」ではなく、巨大な野蛮を湛えた現代社会の野放図とした傲慢と、そこに腰を据え、忘却に由来する「超克」の遊戯に終始する「現代美術」という亡霊にほかならなかった。(p. 286)

第十二章 芸術は爆発だ

モダニズムとは元来が、神による絶対的かつ固定的な秩序から解き放たれ、かわって異質な物同士を自由な交換の過程に投げ込み、絶えまなく新しさを創出することによって自律的に価値を生み出していく運動である。だとしたら、ここで長谷川〔三郎〕が示したような東洋と西洋を互いに等価なものとして比較検討し、両者の歴史的経緯を還元しても、そこになんらかの交通を見出そうとする視点は、あきらかにモダニストのそれにほかならない。にもかかわらず、モダニズムといえば舶来の「型」である程度の理解しかなかった周囲の俗流モダニストたちが、日本における抽象絵画の推進者の一人であり、理論的にもはやくから明解な視点を打ち出していた長谷川によるこのような奇妙な「伝統回帰」を、奇異の目で受け止めるほかなかったであろうことは、容易に想像がつく。(p. 293)

結局のところ、欧米からやってくる最新流行のスタイルを絶えまなく消費することも、その虚しさに気がついて浮き足立った日本回帰を唱えることも、同じコンプレックスの表裏でしかない。太郎が示そうとしたのは、西洋近代を選べば根拠を失って虚ろでしかなく、日本の伝統を選べば重苦しく封建的でしかない不毛な二律背反のいずれにも属さない、引き裂かれているがゆえに自由が獲得できるような運動のあり方そのものであった。そしてそれが、太郎にとっての「前衛」の立場にほかならない。(p. 300)

西洋の最新流行であれ日本の伝統であれ、そのような「型」すら定着できないような、激しく分裂した、にわかに西洋的なものとも日本的なものとも区別できない、日本という「現実」――そこにおいてはじめて、太郎の唱えた対極主義は意味をもつ。日本と西洋(ないしは西洋と東洋、もしくは日本と東洋、さらには日本と世界)といった二律背反の両極を揺れ動くことと、そのような不毛な二律背反を批判的理性の駆使によって仮象問題として退け、そのことによって得られる超越論的視座を、しかし、どこにも所属しない仮想の中立地帯として確保するのではなく、目前の現実である「日本」に設定すること――それが太郎の立場であった。(p. 301)

(……)いざ一枚の絵画の批判をということになれば、個別絵画の妥当性は、最終的には超絵画的言語によってその妥当性を保証された個別絵画によってしか保証されない。そして実際、一枚の絵画に価値があるとされるとき、わたしたちが暗黙のうちに行っているのは、その絵画が超絵画的な一般規則を満たしているか否かということではありえず、先立って超絵画的な言語によって身分保証を受けているとされる個別絵画との正当な関係を、「形式的に」想定できるか否かを検討する以外に方法はない。そして、こうして新たに妥当だとされた個別絵画が、別の個別絵画の妥当性を保証するための現実的な超絵画的規則となるのである(いってみれば、吸血鬼に噛まれた人間が吸血鬼になるようなもので、おおもとの吸血鬼も、調べてみたらどこかの吸血鬼に噛まれていたことがわかるようなものである)。(p. 310)

なによりも巨大で、なによりもへんちくりんだということだけで憧れていた太陽の塔を万博会場で見られなかったわたしが、その実物を見たのは、つい数年前のことである。二〇年あまりが経過してはじめて訪れた万博記念公園は、かつて雑誌で穴があくほど見たあの非現実的な夢の祭典の痕跡をあとかたも残していなかった。成長するにつれ、あの万博についてのさまざまな批判と問題点を理解するようになり、あこがれは消え失せ、私も遅ればせながら一人前に万博批判者を気取ったこともある。しかし、直接見た太陽の塔は、それらの後追いの浅智恵を「爆発」させるに十分なくらい、依然としてなによりも巨大で、なによりもへんちくりんであった。人はあの巨大な造形物を、記念碑的であるとか、象徴的だといって批判する。しかし、正直にいってわたしには、見れば見るほど、あれがいったいなんの記念で、なんの象徴であるのかがいっこうにわからないのである。このことは、今後どれほど時が経とうとも、いや、時が経てば経つほど、わからなくなっていくだろう。たしかなことは、太陽の塔に付着した複数の顔が、いずれも笑っていないことくらいである。(p. 318)

第十三章 暗い絵

戦前戦中と戦後との間の、過度に本質主義的な線引きに深い疑義を感じるわたしとしては、犯罪性や解放といった「社会的意義」から価値の固定をしてしまうことによって覆い隠されてしまう、近代以降の「くらさ」の持続において、はじめて「日本」と「現代」と「美術」はその相貌をあらたにするのだと考えたい。このような観点からすれば、美術史でも文学史でもなんでもよい、ほとんどすべての「戦後史」はむしろ、そのような意識の持続を政治的に断ち切る役割を果たしているのではないか。本書が、戦後の日本の現代美術を扱うことを主な目的としながら、その最終章を、終戦の日に遡ることによって戦後の出発点としないのは、そのためである。「戦後」という仮想空間の起源は、おそらくは「戦前」にある(p. 320)

考えてみれば、戦争中にあっても、なお「聖戦」という大文字の意味とは関係なく、ニコライ堂は景色としてあったろうし、その傍らには生きる意味を喪失したまま、それでもやりすごすしかない「くらし」があったこと、そしてそれらの「景色」を、「くらし」を、まるであの八月十五日の晴れ渡った空のように、そしてその空の下での「くらし」の再発見のように、あるがままにとらえた松本の現象学的な「同じ目」をこそ、評価したいとも思う。「挺身」であろうと「抵抗」であろうと、それらが大文字の「意味」であるかぎり、時局の進展の具合によってはそれらの価値もかわってしまう相対的なものにすぎない。もしも日本があの戦争に勝っていたら、今日の「抵抗の画家」は、どうなってしまっただろう? 「戦犯美術」は、どうなってしまっただろう? 「抵抗」も「挺身」も「聖戦」も「戦犯」も「国体」も、すべてはこうした近代以降の価値の規約性、交換可能性、翻訳可能性をかりそめに消去することによってしか成立しない。だとしたら、こうした意味に翻弄されない唯一の方法は、たとえそれが「自由」や「民主主義」といった「輝かしい」理念であろうとも、意味を固定して一方の価値観を絶対化するのではなく、意味の喪失から目をそむけず「くらし」のあてどなさを受け入れることでしかないだろう。あの八月十五日の太陽の空虚を、何度でも反芻するしかないのだ。したがってあの空虚は、戦後の出発点などではない。あの空虚を、「自由」や「民主主義」、そして「文化国家」といった意味に塗り込めたとき、「戦後」というフィクションはその妙に「明るい」足どりを開始したのだといってよい。(p. 345)

洲之内〔徹〕が「ニコライ堂」によって象徴させた松本〔竣介〕の都市絵のなかには、そうした意味の「あかるさ」にはけっして還元することのできない、反対の意味の漂白と、「くらし」の無根拠さが、確実に定着されているように思うのである。(p. 346)

……そういえば思い出した。「日本・現代・美術」の二つの「・」が、拾いもののジャンクから組み立て直された「日本現代美術」であることの、永遠に埋められないすき間のようなものであったことを……。そして、たとえ「日本」や「現代」や「美術」がこのすき間を通じて回復不可能なほど歪んでしまったとしても、この歪みを通じて、ありとあらゆる異質なもの同士が、そこで自由に出会うことができるように、あえてそれは放置されたのだということも……。(p. 349)

 

(2012/3/18)