ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <書 抜き書きメモ 48>

加藤典洋
可能性としての後以後

岩波書店、1999年

スタートのライン -日の丸・君が世・天皇-

わたしはスタートの報がゴールより大事だと思う。スタートの中には無限がある。一番手前からスタートを切る時、わたし達が、一番遠くまでいくことができるのは、そのためである。(p. xii)

I

「日本人」の成立

「日本人とは何か」という問いには、「(われわれ)日本人とは何か」という問いと「(かれら)日本人とは何か」という問いと、二つの問いが含まれている。そしてこの二つは、それを問うのが“日本人”である限り、同じではない。ここには、即自・対自的に自己のアイデンティティにかかわってくる「わたし(達)とは何か」と翻訳されうる問いと、対自・対他的に、客観的・普遍的な水準で合理的に問われうる「「日本人」とは何か」という問いとが併存しているが、この両者の間にあるのは、自己の問題を内在的に考えると外在的に考えるといいうる種類の、無視することのできない問いの本質の違いだからである。いわゆる学問的な考察が、この設問に内在している二重性に気づき、これを繰り入れるということをしていないことが、あの日本論、日本文化論、日本人論の二分されたあり方の原因なのである。(p. 13)

本居宣長に代表される国学が日本の「われわれ」の意識におけるいわば自意識の発生時点を特定しているとすれば、「日本人とは何か」という問いは、まさしくこの「日本人」が「われわれ」のことか「彼ら」のことかで意味を変えるのではないか、という一点をめぐる、自意識の問いとなっているからである。
わたしとしては、このような意味での対立点の露頭を、一八世紀後半の本居宣長と上田秋成の論争にはじまり、戦後の柳田国男と石田英一郎の対立、さらに近年の吉本隆明の小林秀雄批判へと続く、一連の稜線として考えたい誘惑にかられる。(p. 17)

吉本は、その近著「柳田国男論」の中で、(柳田の方法を次のように述べるが、これを小林の宣長像への一つの反措定の試みと受けとることができる。柳田は、日本を考察するにあたって外在的な視点に立つ考察の力についてはこれを十分に知悉していたが、にもかかわらず、その外在的視点に立った記述を「自分に禁じ」、内在的に見ればこれはどのように見えるか、これをどのように語りうるか、という点に、自分の方法の核心を置いた。(……)柳田は、(……)外部の視線を自分に禁じることで、いわば内部の視線を内部のまま、外部化することをめざすのである。(p. 23)

「日本人とは何か」という問いは、「われわれ」と「彼ら」に分離され、その両者の本質、モチーフと学的確実性をあわせもった設問へと鍛え上げられた。しかし、「(われわれ)日本人とは何か」という問いを、学的な位相で問うとはどのようなことなのか。その問いに答えようとして、その課題は、「日本人とは何か」という問いを、ひとまずいったん、「日本人」とは何か、という問いへと、“差し戻す”のである。(p. 25)

ちなみにいえば、夜の「日本人論」ブームが、ブームというよりはゲームといえる程に、とどまるところを知らない理由は、この「日本人とは何か」という問いが、そもそも「正答」をもたない性質の問いだからなのである。(p. 27)

広く、わたし達が「日本人の起源」を考えるようになるのは、モースら明治新政府が招いた「お雇い外国人」が、これを論じるようになってから、つまり明治以降のことである。
考えてみるなら、これはなんら不思議なことではないので、「日本人の起源」を論じるためには、「日本人」という概念が成立していなければならない。(p. 37)

以上、「日本人」の形成を、その起点の問題点を指摘するところまで追ってきた。ここまで辿ってきたことの骨子を整理しておこう。
第一に、「日本人」という概念は天与のものでもなければ、自然に生成されてきたものでもない。人為的な意図に立つ、制作物であり、それ自身としての形成過程を辿ることのできる概念である。
第二に、これがそのような形成物であることは、過去に対する史的考察が遠近法的倒錯に陥らないことを必要条件とすることをわたし達に教える。なお、この倒錯は、歴史化の専門的な学識とは独立に存在し、いまなお戦後の歴史家の間にあまねく観察される。
第三に、「日本人」概念の成立は、差別主体の形成と同義である。そのため、この概念の形成の考察は、差別に関する根本的な理解を必須とする。(p. 93)

II

失言と癋見 -「タテマエとホンネ」と戦後日本-

小熊〔英二〕は、日本人の単一民族説が実は思われているほど古くから日本で語られているのではなく、戦前は植民地支配のもと、蔭にひそんでおり、日本が植民地と植民地人口を失った戦後になって、一挙に前面に現れた、戦後日本に特有のイデオロギーにすぎないと述べた。タテマエとホンネについても、同じことがいえるのではないかというのがわたしの考えである。つまり戦前には、このような「思考様式」は、存在していなかったとわたしは考えている。(p. 112)

なぜ失言政治家が、前言撤回しても、それほどそのことを恥じないかといえば、彼の中に、一つの確信があるからである。彼は何も恣意的に自分の思いを吐露したのではなかった。彼は彼の属する共同体の考えを代弁しているので、その思いは、むろん彼の「同志」たちに共有されている。「同志」たちは、外からの非難をよそに、彼の発言を蔭ながら「よくぞいった」と評価しているのである。しかし、彼の確信の中身はそれにとどまらない。さらに、それは次のような内容をもつ。彼の前言撤回がコトバの上でのこと、つまりタテマエにすぎず、ホンネでは彼の考えは変わっていないことは、たんに彼個人あるいは彼の属する小共同体の中の認識なのではない。そのことは、日本の社会によっても了解されている。つまり彼の意見に賛成であろうが反対であろうが、誰もが、この前言撤回がタテマエ上のものすぎないことは、これを知っている。そう確信できていればこそ、彼は、前言撤回しても、さほど恥に感じず、心の底で、そのことによって自分の信念がまげられたとは考えずにすんでいるのである。(p. 132)

このもう一つの共同性の特徴は、これがほとんど誰にも自覚されていないことにある。少なくとも日本のメディアはまったくこの共同性に気づいていない。このことを疑う人は、なぜ日本のメディアが、失言者の失言内容を非難するとともに、彼が、自分の発言をたちまち撤回してしまったことを、批判しようとしないかを考えてみるのがよい。まるでその前言撤回がなかったかのように、その発言内容への批判だけが語られるのは、メディア自身が、前言撤回などタテマエのものすぎないというホンネの共同性に、自分では気づかないまま、染まっているからである。(p. 133)

失言には二つの共同性がある。一つは社会的了解の共同性である。これについては、これを公共化することがこれを解体・昇華することになる。しかし、もう一つ、このホンネの共同性がある。この共同性は、語られない(語られればタテマエになる)。公共化されないことが、この共同性の本質であり、これについては、わたし達は、そのカラクリを明るみに出す以外に、解体の方法が、ないのである。
なぜ、ホンネの共同性は、排されなければならないのだろうか。
それがある限り、わたし達に、言葉を語ることの意味は、覆われたままだからである。つまり言葉が力をもつ社会はわたし達のものとはならない。その理由から、わたし達は、このタテマエとホンネという考え方を、踏み抜かなければならないのである。(p. 136)

ホンネとタテマエは、それがホンネとタテマエの関係におかれている限り、無限に入れ替わり可能である。そのような関係に置かれたホンネが本心でないことは、だれの目にも明らかであろう。しかしわたし達はその違いに気づかない。あの失言と前言撤回とその社会による容認が語っていたように、これまで私たちはなぜか、このホンネと信念、口にされない本心(ホンネ)と口に出された本心(信念)とを同一視し、このタテマエとホンネの欺瞞性に気づかずにきたのである。(p. 156)

自分の考えを心にとどめおかずに発語すること、そしてほかの人間からの批判と賛辞に迎えられること、そのような空間を作り、そのような空間に生きることをさして、彼女は自由(フリーダム)と呼んでいる。彼女によれば、人間の生きるもっとも大きな意味は、この自由の創造と享受である(ハンナ・アーレント『人間の条件』『革命について』)。(p. 159)

タテマエとホンネとは、その戦後の起点の切断の記憶を隠蔽するため、わたし達が無意識に編みだした、いわばわたし達戦後日本人の、詮議日本人による、詮議日本人のための、自己欺瞞の装置なのである。(p. 161)

なぜこのようになるのか。
一つにこのことは、たぶんわたし達の敗北のすさまじさを語っている。象徴的にいえば、戦後日本の担い手たちは、まっさきに責任をとるべき天皇だけを免責するという勝者の悪意を前に、有効な対抗手段を作り出せなかった。天皇自身が判断を誤り、側近が判断を誤り、また、国民が、このような天皇にどう対すべきか、その考え方をまとめきれなかった。そのために、いわゆる誰にもある「道義」の問題は戦後の日本社会でかつてない危機に瀕した。日本国民は、それまで天皇の神威にほぼ完全に帰依していただけに、その天皇が「道義」の根幹から大きく外されると、いわば地滑り的な規模で、道義感覚の崩壊を、経験せざるをえなかったのである。(p. 164)

ここまで述べてきたことを戦後の問題として考えれば、「面従腹背」とは、本心をウチに隠し、敵を欺き、オモテ向き、敵に従うことである。これに対し、「タテマエとホンネ」とは、いったん完全に優者に屈服、帰依した劣者が、その優位が立ち去った後、自分のぶざまな完全敗北を認めまいとして行なう自己の籠絡の試みにほかならない。しかし、もし心から勝者の力と道義と論理に“脱帽”し、前面屈服した場合、そういう人間に残された道は、そのことを自他に対し、隠蔽し続けるか、そうでなければ、勝者への屈服を引きずり、そのことを内心後ろめたく思い続けるかのいずれかだけなのだろうか。そこにはもう一つ、あの[べし見」が教える抵抗の道が残されている。(p. 179)

タテマエとホンネを批判するのに、このアーレントの公共性の考えをもってくるとして、そこに、すきま風がすぎるような腰高な感じが否めないのは、なぜだろうか。タテマエとホンネという考え方は、なるほど浅薄な劣者の自己欺瞞装置かもしれないが、あの最低の場所、前面屈服の経験から生まれている。それは、ギリシャ人のいうバルバロイ、野蛮人の愚劣な考えかも知れないが、しかし、その愚劣さを通じ、いわば正しい者の正当性がもつ政治性、何が正当であるかをみずから定義する力の非正当性ともいうべきものを逆照しているのである。(p. 180)

「瘠我慢の説」考 -「民主主義とナショナリズム」の閉回路をめぐって-

わたし達はこの対項関係の中で、民主主義に外来の普遍的な価値を代表させ、ナショナリズムに土着の特殊固有な価値を代表させている。この二つは、それぞれこうした役割分担を行うことで、戦後についていえば、革新派と保守派の対立を代弁してきた。“代弁”されるその当のものが本来鏡像的な一対の概念であることを反映して、空の入れ物としてその二つを代弁するこの戦後型の対項関係は、これもやはりそれをなぞり、鏡像的一対の対項関係になり終わっているのである。(p. 191)

いわば自力で「敗戦革命」を果たしたのではないわたし達の戦後においては、そのことの直視の回避という無意識の欲望にも動かされて、民主主義もナショナリズムも、ともに国民国家と自分を関係づけたがらない傾向をその特徴としてきた*。そのため、この二つのイズムの対項は、ますます鏡像的となり、これまで長い間、戦後社会の言説を、その深刻な袋小路に閉じ込める結果を将来してきたのである。(p. 192)

* 民主主義は戦後、その底に国家の廃絶を展望するマルクス主義的展望を持つものとなり、ネイションと自分を切断したし、ナショナリズムは戦後、復古的主張へと退行し、構成員の平等の実現といった国民国家との関係をやはり見失うことになった。その背景には、そのことを評価するにせよ、評価しないにせよ、とにかく、敗戦によって戦前の体制から戦後の体制に変わったことをどう自分に繰り込むか、という努力が確信は、保守派の双方によってなされずにきた事実があることを、否定できない。(p. 226)

わたし達は、戦後、本当は民主主義にも、ナショナリズムにも、出会わないできたのではないだろうか。わたし達が民主主義と思ってきたものはナショナリズムの前面の鏡に浮かぶ対立鏡像にすぎず、一方、ナショナリズムと思ってきたものは、民主主義の前面に鏡に浮かぶ対立鏡像にすぎなかった。(p. 192)

元来ナショナリズムと民主主義は、自由主義、個人主義、資本主義と同様、一六世紀イングランドあたりにはじまる中世から近代への動きの中から現われ、革命をへて国民国家の成立によって現実化する、ほぼ同時期生まれの近代概念だが、これがいったん西欧という出生の地を離れ、よその国に輸出されると、二つのうち、一つ、ナショナリズムは土着かつ特殊、もう一つ、民主主義は外来かつ普遍と、それぞれ非西欧後発近代化国の近代の範型に沿って「棲み分け」る。(p. 195)

たとえば、現在の西欧における民主主義をめぐる問題設定を枠づけているのは先に述べたように民主主義対自由主義という対項関係である。カール・シュミットは、一九二三年に書かれた『現代議会主義の精神史的地位』で、民主主義が民衆に同質性を要求するのに対し、自由主義は異質性を要求すると述べ、両者の対立する所以を明らかにしている。(シュミット-一九二三、二一―二二頁)。また、一九三二年の『政治的なものの概念』では、ヤーコブ・ブルクハルトなどの民主主義観に触れ、民主主義が「国家と社会の間の境界を消し」「すべてを絶えず論議可能かつ変更可能なものとして留保することを欲」する世界観であるのは、政治的なものへの治外法権の領域はないとする国家総動員体制の全体主義への第一歩だという、これもいまのわたし達からして意表をつく見方を披瀝している(シュミット-一九三二,一〇-一一頁)。この点に関しては、政治的立場に置いてシュミットの対極に立つハンナ・アーレントも例外ではない。彼女は一九五一年に書かれた『全体主義に起源』で、民主主義の「条件の平等」の追求が構成員の集団的同質性を高める一方、今度は逆に人種という集団間の異質性を浮上させる結果になったと述べ、シュミットと逆の立場から、やはり民主主義の逆説の根拠を、こう説明している。(……)(アーレント-一九五一,一〇一-一〇二頁)。(p. 197)

〔福沢諭吉がいっているのは〕ほんらい支配者集団の、ではなく、「人間の」私情が立国の要めとなるのは、それが立国の「公道」と重なるからではなく、「公道」とは違い、それが国の存亡により消滅した後も「国破れて」なお残る、「公道」以上に普遍的なものだからである。国は国に帰属する以外のものに支えられるほかない。しかし、そのことを徹底的に吟味すると、どういうことになるか。
国は忠君愛国にささえられない。国が滅びれば忠君愛国はささえを失い、消尽する。国にささえられるナショナリズムなどというものは浅薄なものだ。「公」によりかかるナショナリズムは中途半端だ。福沢はむしろここで、その後近代日本を領導することになるナショナリズムのともづなを、前もって断ちきっているのである。(p. 214)

アーレントによれば、国民国家により法的・政治的な身分の差が撤廃されてはじめに起こったことは貴族社会の「ヒエラルキー的な構成」の内向化、だった。貴族の特権が消えた代わりに、プルーストが『失われた時を求めて』で活写したように、社会が内的なヒエラルキー構成を逆に強めるスノッブ社会(擬似貴族社会)が現れるのである。しかしこれも、大きく見れば二〇世紀的な画一的大衆社会に向かう平準化の一様態であり、この社会の均一化の果て、何が起こるかといえば、「史上はじめてすべての人間が境遇や生活条件の差違という防壁なしにすべての人間と相対峙」する事態が生じ、ユダヤ人虐殺を結果する近代の人類妄想は、この冒険的事態の結果、「すべての人を自分と同じものとして認めることを要求する」世俗的な平等概念への反動として、生じてくるとされるのである。(p. 219)

西欧の文脈に照らすなら、この福沢の「立国は私なり、公に非ざるなり」には、すべてのもとにあるのは「力への意志」であり、世界解釈はその結果にすぎないという、ニーチェ的な響きがある。(p. 220)

わたしの見るところ、アーレントの指摘を含め、西欧の文脈を通じてみられるのは、「神」の死後、それに代わる形で浮上した「社会的なるもの」の覇権を、どう解体できるか、というモチーフである。
その「社会的なるもの」は、アーレントにおいては世俗的・相対的な平等概念という現われを持ち、それがかつて神のいた座を占めるものだが、シュミットにおいては、その神に代わる超越的なものが、国家であり、「政治的なもの」であり、つまり、「公的なもの」である。(p. 221)

ここに見られるシュミットの考えが、後に「万人の敵」であるユダヤ人を作りだす、ナチス流の人種妄想の理論的支えとなるだろうことは誰の眼にも明らかだろう。民主主義は、シュミットによれば、社会から非政治的、非国家的なものを駆逐し、社会を「政治的なもの」一色にする全体主義の先触れの思想であり、神に代えて国民国家に万能を与えることで、その外に局外者の存在を許さない問答無用の敵を生みだす政治原理にほかならない。そしてその敵の本質は、それが「私」の敵ならぬ「われわれ(国民)の」敵であること、「公的なるもの」だということである。(p. 224)

この「公的なるもの」の万能を破る価値を、わたし達は人間の何に求めるべきなのか。
広くいえばここでわたしは、むしろ「私」の原理を深く掘ることでそこに「人間の私情」の源泉ともいうべき普遍的原理(力への意志)を見出すニーチェの考えに示唆される形で、私利私欲を出発点として、その上に能動的な公共性を新しく作りあげる、「落ちて〈下方に穴を抜けて〉出る」“下からの超越”(加藤-一九九四,七頁)の可能性に思いをいたしたい。
これは日本の戦後の文脈に戻せば、民主主義をいったんナショナルな視点からとらえ返し、さらにそのナショナルなものを「私」をテコにとらえ返す一個のシャフリング(攪拌)の運動であり、このような民主主義とナショナルなもののシャフリングによる民主主義の蘇生なしに、日本が戦時に犯したさまざまなアジア隣国への戦時および戦後の責任は、果たされえないというのが、念のためにいっておくなら、私のこの論の手前にある前提である。(p. 224)

チャールズ・ケーディスの思想

 

III

二つの視野の統合 -見田宗介『現代社会の理論-情報化・消費化社会の現在と未来』を
手がかりに-

冷戦構造における社会主義陣営の依拠した「資本主義の基本的矛盾」は、恐慌の必然性という論理を支柱としていた。「拡大しつづけることでしか存続しえない資本主義的な生産力が、市場(需要)の有限性の前に、周期的に破綻するほかはない」という論理である。しかし、資本主義体制は、その後、消費者の欲望を喚起することを通じて、需要の根拠を消費者の「必要」から「欲望」にシフトし、この「市場の有限性」を変えることで、この限界を突破する。これにより、古典的な資本制システムの前に、システムではどうすることもできないその「外部」として現れていた「市場」は、その「内部」にくり込まれることになる。以後システムは、自分で市場(需要)を創出し、自給自足の体制を確立する、つまり、自己準拠化する。(p. 260)

戦後的思考の原型 ―ヤスパース『責罪論』の復刊に際して-

かつて江藤淳は占領軍による日本の言論統制を「不当」と考え、その結果、日本の言説空間は骨抜きにされたという占領政策批判を行った。ここにあるのはそれとちょうど逆の認識であり姿勢である。ヤスパースによれば、非占領国民である自分たちに言論の自由がないのは当然である。本書の分類する罪の概念でいえば、これは敗戦国の「政治上の罪」に該当している。この罪を裁くのは「戦勝国の権力と意思」であり、いやしくも生を賭した国家間の実力行使である戦争で負け、しかも生き残ることを選んだものは、それがどのようなものであれ、「戦勝国の権力と意思」が定めるこの罪を甘受しなければならない。
ヤスパースの志向では、この政治的自由の拘束はそれへの抗議へとは向かわない。しかしそこでの思想的営為が必ずしも権力への迎合になるほかなく、不可能だとされるのでもない。彼は逆に、この敗戦が、思考が公正であることによってしか生き延びられない環境であることに注目する。これは、思考にとって一つの「好期」だと考えるのである。
(……)
こう考えてみればわかるが、『責罪論』を書くヤスパースこそ、わたし達の戦後がもってよかった戦後知識人の祖型なのである。(p. 314)

しかし、美濃部、津田が敗戦の課題に十分に応えたかといえば、そうもいえない両者は、ともに一九七三年の生まれ、ヤスパースの十歳年長にあたる。彼らは敗戦という経験にある「ねじれ」を見たが、その「ねじれ」を生きることが、彼らを天皇への信従へと導いた。つまり、「ねじれ」はヤスパースにおけるように彼らをいま逆境にある思想行為の唯一の活路としての「公明正大」へと向かわせる代わりに、逆境にある「天皇」への信従へと、導いているのである。
戦後思想の「公明正大」への道は、丸山ら彼らよりだいぶ若い大正生まれの知識人の手に委ねられ、そこから、戦後思想の公共性への道が開かれるが、その起点は、「敗戦という経験」とそれほど強くは結びついてはいなかった。日本の戦後思想には、まだそのときの弱点が色濃く影を落としている。それが、その脆弱さの根本原因だが、ではどうすればよいのか、という反問の答えとして、ここにヤスパースがいるのである。(p. 316)

ヤスパースの中では、いってみれば丸山が美濃部に肩車されて立っている。そこに対話があり、関与がある。その対話と関与に、その結果として、生き生きした「ねじれ」と「開口部」のあることが、ヤスパースの戦後に切り開いた新しい思想の地平だったのである。 (p. 317)

『責罪論』の冒頭に、ヤスパースが「語りあうこと」の大切さを述べているのも、こう考えてくればゆえないことではないことがわかるだろう。ヤスパースとはわたし達の戦後にあって、あの相交わらない美濃部と丸山の交点、「語りあい」の場の別名だからである。
彼はこういっている。
「われわれは語り合うということを学びたいものである。つまり自分の意見を繰り返すばかりでなく、相手方の考えているところを聞きたいものである。……反対者は、真理に到達する上からみて、賛成者よりも大事である。反対論のうちに共通点をとらえることは、互いに相容れない立場を早急に固定させ、そういう立場との話し合いを見込みのないものとして打ち切ってしまうよりも重要である」
賛成意見よりも反対意見を尊ぶこと。
こういう姿勢が日本の戦後の思想から消えたのはいつ頃からだろう。わたしは、その頃から戦後がわたし達に結晶させたあの可能性としての戦後的思考の核心が、溶けはじめた、という印象をもつ。いま回復させられるべきは、この感覚、それが溶けてわたし達の手にない、という感覚である。戦後にも戦後的思考というべきものがあった。それをどのようなものとして取り返すか、そのことがいま、思想的な課題としてわたし達に求められている。(p. 319)

(2012/3/24)