ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <書 抜き書きメモ 53>

中野淳
青い絵具の匂い
――松本竣介と私
中央公論新社、1999年

1享年三十六歳

 

2「運河風景」

 

3生きている画家

アトリエに自分の絵をひろげるとき、私はいつも恥ずかしい思いをした。ゴテゴテと絵具を塗り重ねるばかりの自作にくらべ、松本さんの絵は深く透明である。アトリエに入るとき、狭い入口に立てかけた大作「画家の像」が顔とすれすれになるが、近くで見るその絵肌の美しさにいつも魅きつけられてしまう。褐色で透明な色相の下に堅固なマチエールや描線が透けていて、微妙で繊細な表現が詩的である。その描法に私はひそかな好奇心を抱いた。ヨーロッパ古典絵画技法である。
当時、油絵の技法書は少なく、古典技法や絵画組成を教える施設は美術学校、研究所に全く無く、西欧絵画に触れる機会も少ない。多層性のグラッシ法(透明描法)の卑近な実例を私は戦争画、特に藤田嗣治の絵のなかに見たが、この人だけは紛れもなく油絵技法の深奥を体得していると思つたので、あるとき松本さんにそのことを筆談で訊いてみた。
「君はグラッシ法とかマチエールとか専門的な用語をどこで覚えたのか知らないが、そういうことは二義的に考えて、いまは基礎的な写実の勉強を身につけるベきだな」
とたしなめながらも、グラッシ法の実際について平明に語ってくれた。下塗りの必要性から始まり、単色による中塗りとマチエールの調整、仕上げ段階での透明色の選択など、松本絵画の方法論を具体的に語りつづける口調は、次第に熱気をおびていった。
それにしても渡欧経験のない松本さんは、どうやって西欧の古典技法を体得したのだろうか。 (p. 21)

藤田絵画のさまざまをユニークな角度で推理し語る。あるとき、
「藤田の絵には音楽が無い」
と松本さんが眩いたことがあつた。聴覚を失っている松本さんの言葉として不審に思ったが、少年期まで音楽を愛したであろう心底に音が存在しても不思議ではない。音のない静寂な世界だけど心に音楽のある絵なんだと納得した。 (p. 24)

 

4戦時下の一画家の信念

5俊介から竣介へ

「画家松本竣介が一貫してたどった道は、近代的ヒューマニズムの道であった。彼もまた戦争時代に戦争画を描いたが、それは苦汁にみちた、あきらかに反戦的な意志を示したものであった。その意志をもつた作家でも多くは韜晦したり自己欺瞞したりしていたのにくらべて、彼はたぶん積極的意力をもつてそれを描いたのだと思う。そういう戦争画の描き方もあった、というよりも、画の上で反戦的な意志を示すとすればこれが一つの正しい道だったはずである。ピカソがフランコやファシストたちの諷刺画を描いたのももちろん一つの道だが、それにはピカソがフランスにいたから描けたという別の条件がある。『航空兵群』を描いた彼と、『生きている画家』を書いた彼とのあいだには、いさゝかの矛盾もなかったのである。」(水沢澄夫「生きている画家――松本竣介遺作展を見て」(昭和二四年))(p. 38)

 

6空襲と本郷洋画研究所

 

7東京大空襲

ただいうまでもなく松本竣介の風景画は、何処と何処をモンタージュしたからできるという絵ではない。むしろ、現場の実景の感銘が発想の動機となり、造型化するために如何に他の構成的要素を加えるかの知的選択だと思う。更に絵画としての美しさを成立させるために、形、色彩、明暗、線が実景から離れるほど自由に駆使されている。それは内面の詩的世界を醸成するための精神労働とも言えようか。 (p. 54)

 

8生涯で一番長い日

 

9絵具がない!

 

 

10油絵具の秘法

溶き油の混合について、私は松本さんから何ひとつ聴いていない。記述もないと思う。アトリエでは、テレビン油、リンシード油の瓶を見かけたが、「画家の像」の画面にはポピー油の瓶が描き込まれている。けれどパレットの二つの壺に、小さな柄杓が入れてあつたのをみると、松本さんが油の混合に神経をつかっていたことを感じる。
松本さんの「自画像」などの絵を見ると、グラッシ法のときの溶き油に、ダンマル樹脂を混入しているように、私には思えて仕方がない。それほど松本さんの自力の研究の成果は、今日解明されている正統性に近いのだ。(p. 81)

 

11戦争画の眠っている場所

戦争画家たちは戦争画をずっと描き続けるベきだということを松本さんは戦後たびたび言っていた。
「戦争が終わったからといつて、何もかも捨て去るのは嫌だね」
と笑い、外出のときには戦時中の戦闘帽を少し改造して被ったりしていた。(p. 89)

 

12絵の精神

 

13一点だけの版画

 

14国画展の懇親会

「梅原龍三郎、安井曽太郎とならび称されますが、どちらの画家が好きですか?」
と訊くと、
「僕は安井の方だ」
と、即座にはね返ってきた。
そう言われて、松本さんの線について考えると、線が物象の立体を把握し、量感を表
現している点で「たしかに安井とは無縁と言えない」と私は思ったものだ。(p. 112)

 

15第一回美術団体連合展

 

16第十一回自由美術展の初日

17思い出の芝生会議

ところで、二科は松本さん自身が長く出品していた会なので、あれこれ言ってみたものの、私がそこに入選したのはやはり嬉しいらしく、早速、一緒に見に行き、「道と煙突」というその入選作を良い絵だと喜んでくれた。帰路、公園のベンチで休み、遠い空見つめながら、絵のこと、人生のことをしみじみと語っていた。そして、
「七十歳まで生きて描きたいな」
と、眩くように言っていた。が、その一ヶ月後、松本さんを思いがけない不幸が襲ってしまう。(p. 130)

 

18師•阿以田治修

 

19自由な精神

 

20鶴岡政男の大福餅

 

21塊の裸婦

 

22最期の微笑み

数日後、私は松本さんの病気見舞いを思い立ち、初夏の微風が吹きぬける午後の街を歩いた。途中、新宿の果実店で新鮮な枇杷が目にとまり包んでもらった。
没後のあるとき、禎子夫人が、
「中野さんがくださった枇杷を、毎日楽しみに食べていましたが、食べ終わった日に亡くなりました」
と話されたので、私は胸が熱くなる思いだった。(p. 158)

 

23竣介没後

 

(2012/4/22)