ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <書 抜き書きメモ 54>

宇佐美承
求道の画家 松本竣介――ひたむきの三十六年
中央公論社、1992年

プロローグ・著者のいざない

 

1イーハト—ヴォ

絵筆をかついで
とぼとぼと
荒野の中をさまよへば
初めて知った野中に
天に続いた道がある
自分の心に独りごといひながら
私は天に続いた道を行く
松本竣介「天に続く道」『岩手日報』一九二八・十二・十七 (p. 7)

 

2アリコルージュ

東京にくる前、竣介はふとパリにいきたいと思った。彬にうちあけると、気のいい兄はついその気になって「ふたりでいこう。おれがシユンの世話をしょう」といった。彬は小説家志望で、中学のころに新聞社主催の弁論大会で優勝するなど弁論部のスターでもあった。論客で、友だちをみればやたら議論をふつかけていたのに、弟の面倒をみることに生きがいを感じるようになるにつれて議論癖はやみ、弟を"シユン"と呼ぶとき表情がやわらぐのだった。
彬はさっそく両親にたのんでみたが、兄弟はまだ十八歳と十六歳だったから両親は、家にはそんなお金はないよ、と笑っていってとりあわなかった。金のことはさておき親にしてみれば、耳がきこえぬ宝息子をパリはおろか東京へ出すのも、たいへん勇気のいることだった。 (p. 29)

そのころみんなはモディリアーニにぞっこんだった。仲間のひとりは大奮発して画集を買ってきて"モジ"と呼ばれたし、竣介も「モディリアーニの線は量を端的につかんで天下一品だ」といっていて、その人物画に似せて卵型の裸婦を描くこともあった。でも竣介たちはモディリアーニの絵そのものに夢中になったというよりも、この異才の生きように参つているようだつた。竣介はよく「かれはなんという人間的な男だ。ほかのやつらは全部嘘っばちじやないか」といっていた。
モディリアーニはエコル・ド・パリの呪われたる芸術家といわれていた。貧乏と病いとアルコール中毒に悩まされながら、十年ほど前に三十余年の命を終えていた。その破滅の一生が二十歳前後の画家の卵たちにこのうえなく口マンティックに映つてもふしぎはなかつた。現にみんなはモディリアーニに劣らぬ性格破綻の画家長谷川利行にも敬意を払っていた。(p. 44)

 

3ラヴ

4エディター

『雑記帳』の廃刊は急にきまった。一九三七年も冬になって、十二月号は発送ずみだった。竣介は追っかけるように読者と執筆者に手紙を書いた。理性貧困のイま、なんとかしなければと思ってこの雑誌をはじめたのに、といった意味のことを書いたあと、こうつづけた。
「……今、迷信と狂気と蒙昧の荒蕪の地に放り出されてゐるに等しいと思ふのです。……ぢっとしてゐられない思ひに駆られます」(p. 92)

 

5ペインター

やがて野田英夫ふうの絵を描きはじめた。野田はいかにもアメリカ帰りらしくモダンな都会風景を描いていて竣介の好みにあつたし、その絵にも細い線が引かれていた。
竣介が野田の絵をみたのは禎子を知ってまもなくの一九三五年秋だった。二科に初入選した自分の絵を禎子にみせたくて上野の美術館にいったとき、そこに野田の「帰路」と「夢」があった。竣介はそれまでこのような絵をみたことがなかった。ただの風景画ではなくて、作者の心にのこった人物や風景や静物を組みあわせて、つまりモンタ—ジュして、なにかをかたりかけているようだつた。 (p. 100)

野田の絵をみてほどなく、竣介は赤荳アトリエのころを思いだして『雑記帳』に書いた。
「モヂリアニの作品は、長いこと私を翻弄した。実際困った程だった」
竣介は開眼したのだ。そしてそのあとしばらく野田の絵を追いつづけた。
野田は竣介より四つ年上で農業移民の子だった。カリフォルニアの美術学校で学んでいたとき見いだされ、ニューヨーク郊外のウッドストック芸術村に住んでいくつかの賞を受けていた。「帰路」を二科に出品した前年の一九三四年暮れに突然日本にやってきたのだが、それまで日本の絵描きや評論家はフランスの絵ばかり追っていてアメリカの新傾向の絵を知らなかつたから、いっせいに注目しはじめた。野田はまもなく小磯良平や猪熊弦一郎たちの新制作派協会展に「牛乳ワゴン」「サーカス」などを出品し、協会賞をうけて会員に推され、個展もひらいた。名声はあがるいっぽうだった。 (p. 101)

以前『生命の藝術』にこんなことを書いたことがあった。
「昨夜半迄人間達を呑吐してゐた大劇場も、大きな鎧戸を下して、飾窓の写真が間のびのした顔を並べてゐるに過ぎない。その窓のガラスに額を付けて呆然としてゐるルンぺンが一人ゐた。一夜をアスファルトの上で過したのであらう。退屈なその男一人が、この街に、生彩を与へてゐる」(p. 105)

 

「黒い花」を描いたのは一九四〇年二月で、その年は"紀元二千六百年"といわれた。すでに政府の音頭で国民精神総動員運動がはじまっていた。大演説会がひらかれ、中央連盟ができ、「国家総動員法」が公布された。これからの戦争は総力戦だから物も人も動員するのだ、政府の力で新聞の発行を停止することもあるのだ、という法律だった。そうしたことが積み重なつたうえでこの年、政府は神話を史実だとして、今年は日本の建国から二千六百年目にあたるのだといい"初代神武天皇"を祀る橿原神宮を中心に大祭典を繰りひろげた。つぎの戦争の序曲を奏でているようだった。ほとんどの新聞・雑誌がそれをはやしたてたから国中がわきたち、人びとはただ酔っていた。そんなときに竣介は、自分を「黒い花」になぞらえたのだろうか。 (p. 108)

銀座の個展では、「黒い花」のように野田英夫ふうに架空の都会を描いた絵と、「ニコライ堂」のように、まるで実際の風景のようにみえる絵と、大きくわけて二種類の絵があった。野田英夫ふうの絵は架空の都会なのに妙になまなましかつた。実際の風景のようにみえる絵はそれと対照的に生活の匂いがまったくなかった。故郷の展覧会では、そこに盛岡の風景もまじっていて、ひとりの絵描きが描いたものとはとても思えなかつた。

心のなかに何がおこっているのか、だれにも明かさぬままにそのころ、竣介は街を歩きまわっていた。まえには日記に「芸術家とは居ながら凡ゆる現象を想ひ且つ実感として感覚できるものでなければならぬ」と書いたのに、このころは「アトリエにこもっていてはいい絵は描けない」というようになっていた。 (p. 114)

二科の会友に推された一九四一年の十二月八日。朝のラジオは軍艦マ—チにのせて真珠湾の勝利を報らせた。それからしばらくは歓呼のなかに勝利の報道がつづき、街中が酔っていた。翌年五月、ミツドウェイ海戦を境に報せの雰囲気は少しずつ変わっていき、やがて悲報もつたわるようになると、人びとはたけりたった。でも竣介は黙ってひたすら街を歩きつづけていた。
竣介はもっぱら建物を追っていた。新宿では公衆便所を、御茶ノ水ではニコライ堂や聖橋や昌平橋や東京高等歯科医学校、つまりいまの東京医科歯科大学を、一ッ橋では一ッ橋講堂や如水会館や共立女専やゴミ処理場やカトリック教会などを、そして桜田門では国会議事堂をスケッチした。(p. 115)

東京や横浜のスケッチをもとに風景画を完成させていった。そのなかには神田の「ニコライ
堂」、横浜のY市の橋」、それに「議事堂のある風景」など、ああ、あそこだなと、だれにもわかる場所もあれば、だれもが気づかない場所や、建築家の目からみれば、とるにたりない建物のスケッチを寄せあつめて一枚の油絵に仕あげたものもあった。けれどそれらの絵はみんな、野田英夫ふうの架空の世界ではなくて現実の風景を思わせた。
すっかりご時勢が変わって都会に夢がもてなくなったので、逆に目にする風景を見きわめようとしていたのだろうか。いずれこの街はアメリカ軍の爆擊で焼きはらわれるから、いまのうちに描きとどめておこうと思っていたのだろうか。竣介は禎子にいっていた。
「この戦争はたいへんなことになるぞ。いまに化物のようなものが飛んできて、戦争の美などなくなるぞ。日本がなくなるぞ」(p. 120)

その沈黙の絵のなかに、竣介はひっそりと人を添えた。横浜の桟橋のちかく、カナダの船会社の前には、客を待つでもなくただ憩う人力車夫を描いた。竣介はたぶん西洋に出あいたくなって山下町にきていたのだ。議事堂の前には黙々と荷車を曳く男をおいた。丸の内にも、池袋の工場の前にも、横浜の月見橋にも、御茶ノ水の聖橋にむかう坂道にも人を描いたけれど、人はひとりぽつんと、ほんとに淋しそうに立っていたり、歩いていたりした。人はひそやかな道を、どこからきてどこへいくのか、とぽとぽと歩いていた。ときには証人のように立ちどまっていた。この人たちは竣介だったのだろうか。 (p. 122)

 

6 “レジスタンス”

 

7レクイェム

少し日をおいて神田にいってみた。二コライ堂はのこっていたけれど、あたりは瓦礫の山だった。道路の舗装は剥げ、焼夷弾が突きささったままになっていた。それもスケッチした。二か月前には禎子にむかって"断じて退かない"と高らかに宣言したものの、あれから日がたって街に出て、こうして焼けただれた建物や打ちひしがれた人びとをみると、あらためて画家の目が開かれてきて故郷の雑誌に書き送るのだった。
「猛火に一掃された跡のカーッとした真赤な鉄屑と瓦礫の街。それらを美しいと言ふのには、その下で失はれた諸々の、美しい命、愛すべき命に祈ることなしには口にすべきではないだらう。だが、東京や横浜の、一切の夾雑物を焼き払ってしまった直後の街は、極限的な美しさであった。人類と人類が死闘することによって描き出された風景である」(p. 166)

出品作は二十点もあって、なかの一点が四作目の「Y市の橋」だった。戦争中に描いた三点の「Y市の橋」はどれも静まりかえっていたけれど、こんどの「Y市の橋」は、みる人の心を引き裂くようだった。緑、そう、あのイーハハトーヴォの緑はもちろんなかった。赤、そう、つい七、八年前には野田英夫のモンタ—ジュにならって街を描き、そのなかで若い女性を赤で彩ったものだけれど、その赤も消えていた。ほかの風景画「落陽」や「市内の橋」や「O工場地帯」はどんな絵だったのだろう。散ってしまっていまは知る由もないが、焦土のイメージだったにちがいない。 (p. 172)

禎子が「もつとお休みになつていてください」といつてもきかず、熱がさがるとアトリエにこもった。二月の自由美術の新作展に出品しなければならなかったし、五月には第二回連合展があるからだった。
自由美術の展覧会がすんだころのある日、竣介は突然禎子にむかって「思いきってぼくたち一家でパリに住もう。おかあさまと栄子にはもう二人で暮らしてもらってもいいだろう。日本を脱出しなければだめだ」と、めずらしく強い調子でいった。楨子はそのとき子を宿していた。そのことは竣介も知っている。それなのにこんなことをいうのは、松本家のしがらみから逃れようとしているのかもしれないと禎子は思った。そうではなくて、体調を回復して絵を飛躍させるために新天地を求めていたのかもしれない。(p. 177)

松本俊介の死に寄せて

水晶のような男だった
透明な結晶体のような男だった
適確な中心をえて円満であり
しかもその稜は十分に切れる鋭さをそなえてゐた
類いなく冴えた画家だった
美について底の底まで掘り下げて語り合えるこれは得難い友であった
言葉尠なに意味深く、切るように話しの出来る友であった
自らの仕事を鋭く解剖し、絶えず吾が身を鞭うって、精励する真の作家であった
その俊介が
突然、死んでしまった
(中略)
水族館のように静かな青い光のアトリヱには飽くことない探求の記録、数々の素描
油絵の習作が輝いてゐた
心ある画家、文芸家達にほんとうに愛されてゐた俊介「が、なんといふことだ
死んでしまうとは
「アトハキミガヤレ」
と死んだ俊介はいうにちがいない
イヤだ、も一度生きかえって、あの橋の絵を描いてくれ
(後略)
船越保武『岩手新報』一九四八・六・十四

享年三十六歳
浄心院釋竣亮居上、いま松江の眞光寺に眠る。(p. 186)

エピローグ・松本禎子の述懷

皆様がたいへんお褒めくださるものですから、なにも知らない京子などは、"いやだ、人間じゃないみたい、神様みたい"と申すんでございますが、竣介はいたって平凡な、平凡すぎる常識人でございました。わたくしは以前、芸術家といえば飲んだくれたり、暗い顔して悩んでいたり、女房を顧みなかったりといった人たちのことだと思っておりましたが、まるで逆で、この人ほんとに芸術家かなと思ったほどでございます。(p. 190)

でもやつばり竣介は挫折したのでございます。麻生さんや難波田さんなど竣介が親しくしていただいたかたたちは、いままだいい仕事をなさっておられます。そんなかたがたの個展を拝見するにつけ感無量の思いがいたします。そして、もし竣介がまだ生きていたなら、このようなすばらしい仕事をしたろうか、ひょっとしたら絵筆をもたなくなっていたかもしれない、などと思ったりいたしまして……。竣介はやっと何かをつかみかけたところで亡くなってしまいました。中途半端で死んでしまいました。哀れでございます。 (p. 194)

 

(2012/4/29)