宇佐美承 |
プロローグ・著者のいざない
1イーハト—ヴォ 絵筆をかついで
2アリコルージュ 東京にくる前、竣介はふとパリにいきたいと思った。彬にうちあけると、気のいい兄はついその気になって「ふたりでいこう。おれがシユンの世話をしょう」といった。彬は小説家志望で、中学のころに新聞社主催の弁論大会で優勝するなど弁論部のスターでもあった。論客で、友だちをみればやたら議論をふつかけていたのに、弟の面倒をみることに生きがいを感じるようになるにつれて議論癖はやみ、弟を"シユン"と呼ぶとき表情がやわらぐのだった。 そのころみんなはモディリアーニにぞっこんだった。仲間のひとりは大奮発して画集を買ってきて"モジ"と呼ばれたし、竣介も「モディリアーニの線は量を端的につかんで天下一品だ」といっていて、その人物画に似せて卵型の裸婦を描くこともあった。でも竣介たちはモディリアーニの絵そのものに夢中になったというよりも、この異才の生きように参つているようだつた。竣介はよく「かれはなんという人間的な男だ。ほかのやつらは全部嘘っばちじやないか」といっていた。
3ラヴ |
4エディター 『雑記帳』の廃刊は急にきまった。一九三七年も冬になって、十二月号は発送ずみだった。竣介は追っかけるように読者と執筆者に手紙を書いた。理性貧困のイま、なんとかしなければと思ってこの雑誌をはじめたのに、といった意味のことを書いたあと、こうつづけた。
5ペインター やがて野田英夫ふうの絵を描きはじめた。野田はいかにもアメリカ帰りらしくモダンな都会風景を描いていて竣介の好みにあつたし、その絵にも細い線が引かれていた。 野田の絵をみてほどなく、竣介は赤荳アトリエのころを思いだして『雑記帳』に書いた。 以前『生命の藝術』にこんなことを書いたことがあった。
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「黒い花」を描いたのは一九四〇年二月で、その年は"紀元二千六百年"といわれた。すでに政府の音頭で国民精神総動員運動がはじまっていた。大演説会がひらかれ、中央連盟ができ、「国家総動員法」が公布された。これからの戦争は総力戦だから物も人も動員するのだ、政府の力で新聞の発行を停止することもあるのだ、という法律だった。そうしたことが積み重なつたうえでこの年、政府は神話を史実だとして、今年は日本の建国から二千六百年目にあたるのだといい"初代神武天皇"を祀る橿原神宮を中心に大祭典を繰りひろげた。つぎの戦争の序曲を奏でているようだった。ほとんどの新聞・雑誌がそれをはやしたてたから国中がわきたち、人びとはただ酔っていた。そんなときに竣介は、自分を「黒い花」になぞらえたのだろうか。 (p. 108) 銀座の個展では、「黒い花」のように野田英夫ふうに架空の都会を描いた絵と、「ニコライ堂」のように、まるで実際の風景のようにみえる絵と、大きくわけて二種類の絵があった。野田英夫ふうの絵は架空の都会なのに妙になまなましかつた。実際の風景のようにみえる絵はそれと対照的に生活の匂いがまったくなかった。故郷の展覧会では、そこに盛岡の風景もまじっていて、ひとりの絵描きが描いたものとはとても思えなかつた。 心のなかに何がおこっているのか、だれにも明かさぬままにそのころ、竣介は街を歩きまわっていた。まえには日記に「芸術家とは居ながら凡ゆる現象を想ひ且つ実感として感覚できるものでなければならぬ」と書いたのに、このころは「アトリエにこもっていてはいい絵は描けない」というようになっていた。 (p. 114) 二科の会友に推された一九四一年の十二月八日。朝のラジオは軍艦マ—チにのせて真珠湾の勝利を報らせた。それからしばらくは歓呼のなかに勝利の報道がつづき、街中が酔っていた。翌年五月、ミツドウェイ海戦を境に報せの雰囲気は少しずつ変わっていき、やがて悲報もつたわるようになると、人びとはたけりたった。でも竣介は黙ってひたすら街を歩きつづけていた。 東京や横浜のスケッチをもとに風景画を完成させていった。そのなかには神田の「ニコライ |
その沈黙の絵のなかに、竣介はひっそりと人を添えた。横浜の桟橋のちかく、カナダの船会社の前には、客を待つでもなくただ憩う人力車夫を描いた。竣介はたぶん西洋に出あいたくなって山下町にきていたのだ。議事堂の前には黙々と荷車を曳く男をおいた。丸の内にも、池袋の工場の前にも、横浜の月見橋にも、御茶ノ水の聖橋にむかう坂道にも人を描いたけれど、人はひとりぽつんと、ほんとに淋しそうに立っていたり、歩いていたりした。人はひそやかな道を、どこからきてどこへいくのか、とぽとぽと歩いていた。ときには証人のように立ちどまっていた。この人たちは竣介だったのだろうか。 (p. 122)
6 “レジスタンス”
7レクイェム 少し日をおいて神田にいってみた。二コライ堂はのこっていたけれど、あたりは瓦礫の山だった。道路の舗装は剥げ、焼夷弾が突きささったままになっていた。それもスケッチした。二か月前には禎子にむかって"断じて退かない"と高らかに宣言したものの、あれから日がたって街に出て、こうして焼けただれた建物や打ちひしがれた人びとをみると、あらためて画家の目が開かれてきて故郷の雑誌に書き送るのだった。 出品作は二十点もあって、なかの一点が四作目の「Y市の橋」だった。戦争中に描いた三点の「Y市の橋」はどれも静まりかえっていたけれど、こんどの「Y市の橋」は、みる人の心を引き裂くようだった。緑、そう、あのイーハハトーヴォの緑はもちろんなかった。赤、そう、つい七、八年前には野田英夫のモンタ—ジュにならって街を描き、そのなかで若い女性を赤で彩ったものだけれど、その赤も消えていた。ほかの風景画「落陽」や「市内の橋」や「O工場地帯」はどんな絵だったのだろう。散ってしまっていまは知る由もないが、焦土のイメージだったにちがいない。 (p. 172) 禎子が「もつとお休みになつていてください」といつてもきかず、熱がさがるとアトリエにこもった。二月の自由美術の新作展に出品しなければならなかったし、五月には第二回連合展があるからだった。 |
松本俊介の死に寄せて 水晶のような男だった 享年三十六歳 |
エピローグ・松本禎子の述懷 皆様がたいへんお褒めくださるものですから、なにも知らない京子などは、"いやだ、人間じゃないみたい、神様みたい"と申すんでございますが、竣介はいたって平凡な、平凡すぎる常識人でございました。わたくしは以前、芸術家といえば飲んだくれたり、暗い顔して悩んでいたり、女房を顧みなかったりといった人たちのことだと思っておりましたが、まるで逆で、この人ほんとに芸術家かなと思ったほどでございます。(p. 190) でもやつばり竣介は挫折したのでございます。麻生さんや難波田さんなど竣介が親しくしていただいたかたたちは、いままだいい仕事をなさっておられます。そんなかたがたの個展を拝見するにつけ感無量の思いがいたします。そして、もし竣介がまだ生きていたなら、このようなすばらしい仕事をしたろうか、ひょっとしたら絵筆をもたなくなっていたかもしれない、などと思ったりいたしまして……。竣介はやっと何かをつかみかけたところで亡くなってしまいました。中途半端で死んでしまいました。哀れでございます。 (p. 194)
(2012/4/29) |