ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <書 抜き書きメモ 55>

松本竣介
人間風景
中央公論美術出版、昭和57年

人はイデオロギーを公表する為に幾多の機関を持ってゐる。しかも、芸術によって表現する事の出来るイデオロギーは、芸術によってのみ存在化されるのだ。又、芸術の中に於て絵画によってのみよく表現化し得るイデオロギーがあるのだ。
マルクスは決して芸術の概念の「意味」を否定してゐない。芸術の起源、社会性、歴史性について理解してゐたのだ。「史的一元論」的に見ても、芸術の独自性(言ふ迄もなく独立性ではない)を認める事は決してそれに反してゐないのだ。もしも、それがゆるされなかったなら、それ等(芸術)は皆、生産機関の変化につれて、唯いたづらに動くロボットに過ぎないであらう。
「咋今の絵画と明日の絵画 (一)」(「線」第二号 昭和六年九月)  (p. 14)

私は肉体の自由と、青春を剥奪される事によって、かすかに神の息吹きに接する事を知った。
人生は決して偶然の堆積ではない。
歴史は物によって導かれて来たものではなかった。表面のみを見る時、歴史は人間の迷妄の姿であり、奥深く見る時そこに一直線に生長する生命の姿を見るであらう。
「釈」(「生命の藝術」第一巻第二号 昭和八年十月)  (p. 38)

終りにモヂリアニが一点かかってゐる。驕児モヂリアニ程最近の若い画家の間に好まれたのはない。モヂはデカタンでいけないと言って批難しながらも画集を手にしてゐたのがあった程である。また古い画家の批難は、自然の形を自己の信念のまゝに強烈に変形して了った事に対してなされる。だがデフオルマシヨン(変形)の画にとって常に重大であるといふ事をこれ程画面に決定させた画家は少い。
「ピカソ、マチス等の作品を見て」(「生命の藝術」第一巻第三号 昭和九年三月) (p. 46)

ピカソをほめすぎたかも知れない。がピカソの最近の作品の中にヨー口ッパの崩壊してくる感じの出て来てゐる事を知ってゐる。最近のピカソの作品には熟れきって今にも崩れようとしてゐる西洋文化が強く浮んでゐる。文明的デカタンと虚無が最近のピカソの作に多く含まれて来た。こうしてピカソは終るだらうか。だが私はピカソが青年期の幻のやうな表現から立体派を開きそして健康な古典的作品を作った事を思ふと、明日に対してまた新しい健康な飛躍を望む事が出来るやうにも思ふ。
だがアジアは若い、そして日本の芸術はこれからなのだ。心は腐ってはゐないと思ふ。生長の家の芸術家達よ、僕達には精神復興といふ大きな任務があるのだ。良いものをみるとたゝこれだけを思ふ。
「ピカソ、マチス等の作品を見て」(「生命の藝術」第一巻第三号 昭和九年三月) (p. 48)

最も優れたものは単純な姿をしてゐるものである。才にはしった人間は多くそれを軽蔑するか、敬遠し勝ちなものである。併しそれは軽薄な小我にすぎない。無能からくる単純と本然の生命から来る純粋な単純とをよく見分けなければならない。無能から来る単純には純粋さはないが、尊ばるべき単純には生命の純粋な顕れがある。
「芸術の信仰」(「生命の藝術」第二巻第一・四号 昭和九年一・四月) (p. 58)

セザンヌは現実を現実として愛してはゐなかった(それは東洋画に於ける如く)、だが写実に徹してゐた。現実を描かなかったが真実を描いたのがセザンヌである。このやうな意味から無政府主義的絵画と見られたのであらう。
セザンヌは天文学者が天体の運行を見つめる如く視覚に映じるものを通して自然の真実のみを見つめてゐた。真実の前に世間的人間の感情、慾望は「無」に過ぎないのである。それは正しい感情の統一である。それは東洋の芸術家の信念「無我」と同一なものである。これを正しく心から理解する事なしにはセザンヌを解する事は出来ない。
「芸術の信仰」(「生命の藝術」第二巻第一・四号 昭和九年一・四月) (p. 64)

画家の仕事は形象があってデッサンを知り行ふのではない。デッサンがあって形の創造される処に画家としての仕事がある。視覚的現象は画家にとっては方便にすぎない。物象を描く事は現象を切り開く事である。
俺は最近、現象を切るには、人間的自我を切る事の出来ない間は、不可能である事を知った。
自我を可愛がつてはいけない自分に惚れてゐるうちは自我を切る事は出来ない。自我の切れぬ人間は決して現象を切る事は出来ないのである。
現象といふ化物の正体は自我の中にある。背後を切る、これが化物を切る秘訣なのだ。
執着はするが真実に愛する事を知らないのが人の生活の常である。この愚かさが生活を退歩させる。
「でつさん」(「生命の藝術」第二巻第六号 昭和九年六月) (p. 69)

改めて東京に住むやうになった六年前の頃は、あのいらくした街の線も何か新鮮な感覚を持ってゐた。ガソリンの臭ひにも魅力があった。そのくせその頃私は頭痛がして一時間と街を歩く事が出来なかった。だが私は今、街の雑踏の中を原つばを歩く様な気持で歩いてゐる。私の回想の中にある自然は現在どこにも求める事は出来ないだらう。トタン屋根とガソリンは田舎の隅まで行き渡ってゐる現在である。
私は自然をさがそうとは思はない。いつでも持ってゐる。私は田園を愛するやうに都会を愛してゐる。どちらも私には今では同じだ。そしてまた両方がなくとも困らない。只現在すベてのものが都会化して行きつゝある。現在の都市は都会に住みなれてゐるものでも、本心に息苦しいものを感じてゐるだらう。原っぱを歩いてゐるやうな気持で、都会の雑踏を歩く事の出来るやうになった心に、私は何か生命の創造のある事を感じ出してゐる。
「でつさん」(「生命の藝術」第二巻第六号 昭和九年六月) (p. 70)

常識的な調子は創造性を減じる、新鮮さがない。
習性は退屈な作品を作りだす。
他の作家からの影響を淳化しつくさなければならない。
知識は反省の方法を知らしてくれるけれども、撰択し創造するものは心の律動、調子に外ならない。メチュを撰択するのも自己の調子以外ではない。
頭で理解されただけの思想は何の役にもたゝない。
すべての生活に於て一歩前進するには過去のあらゆる規範から脱した、創造の調子を持つ事だ。人為的な習性、執着を一つ一つ脱して行く事によって自然の純粋に近づいて行く、無我とはこのやうな境地を指していふのであらう。
「画室の覚え書き」(「NOVA」2昭和九年十二月)  (p. 82)

近代思想のもっとも大きな誤解は、分析を尊ぶ余り、統一的想像の飛躍を蔑視してゐる事ではないだらうか。頭脳的理解を僕は余り信用しなくなった。
"人間は非常に馬鹿げたものだ。彼等は自分が持ってゐる自由を利用しないで、却って自分が持ってゐない自由を要求する。彼等は思想の自由を持ちながら、言論の自由を要求する。――キエルケゴールのこの短い言葉は凡ゆる現代の人々に反省する事を教へてゐる。
僕達凡ゆる人間が、常に無限大な自由の中に住んでゐると云ふ事は、主知的習性が肯定するのを拒んでも、本能はそれをよく察してゐる。純粋な本能は常に無限大に自由なのだ。
「でつさん」(「生命の藝術」第三巻第一号 昭和十年一月) (p. 85)

僕が最も嫌悪を感じるものは人間である。そして最も好んでゐるものも亦人間なのだ。例へて人生を五十年とするならば、僕はその半数を経験しょうとしてゐる、その間に接した人々を考へるなら実に多数のものを回想することが出来る。路傍で一瞬にすれ違った人々でさへ僕の意識にとゞまって居るだらう。彼等は皆異つた個性を持って居た。ひとつひとつ色彩の変ってゐる生活の経緯をその感情の上に現してゐた。よく注意して見るならば、凡ゆる人々の相貌からその過去を想像することが可能であり、一顰一笑はよく現在の心を語るものである。虚偽や真実をこきまぜた状態で行為してゐるのが僕達なのだ。これ等の或状態に置かれた人間の生活姿態を僕は何物よりも嫌悪してゐた。しかし絶対な好意を人間の或状態に持つことによって、嫌ふべき人間性を気にとめる必要がなくなつた。
「人間風景」(「生命の藝術」第三巻第四号 昭和十年四月) (p. 94)

デカダンが人間の良さを見せてくれたのは決して逆説ではなかった。

頽廃の芸術は美徳を手段にして悪徳が跋巵したその反対を行って、人間性の純粋を知らしめたといふべきである。
「雑記帳」(「雑記帳」3 昭和十一年十二月) (p. 138)

私は芸術家に於ける科学精神を重視する。それと同時に科学者に芸術的な進展の意欲-芸術行為-の烈しいことを望んでゐる。
かういろいろ考へると、寺田寅彦はあきらかに、大きな示唆を後人に.I.寸へてゐるし、宮澤賢治の名も記憶すべきものになって来る。リアルと云ひ、ロマンと主張するが、科学と芸術の烈しい交流の前に、私達は主義、主張を暫く忘れたいものだと思ふ。
「雑記帳」(「雑記帳」4 昭和十二年一月) (p. 143)

モヂリアニを知ったのは、かれこれ十年も昔のことになる。美術雑誌の物語の中に小さな写真版となって紹介されてゐた馬のやうに長い顔の女の絵。
モヂリアニの作品は、長いこと私を飜弄した。実際困った程だった。それは私一人に限ったことではない、多くの若い友人達が同じやうに彼の作品に憑かれてゐた。為替相場でぐんく洋書の価が上りつゝあった時にも高価なフランス版のモヂリアニ画集が飛ぶやうに売れてゐた。
「雑記帳」(「雑記帳」6 昭和十二年三月) (p. 149)

 

他人の怒りで怒った時代があった。他人の喜びで喜んだ時代があった。所謂借著の文化である。明治から最近迄の日本の「人間的動き」はたしかに甘かった。人間的叫びが思想や文芸の中に滲み出た ものよりも、思想や文芸が人間的心情を衒ったといふ感じがその大部分を占めてゐるからである。かうした作品に影響された、文芸的心情を衒ふものも多くあつた筈である。思想や宗教にしても同様に。蒙昧な広い層に入りこんでいった、人が衒ふ真理のポーズは驚くべき狂信層を作ってゐるのだ。かうしたものが民族的自惚を作り上げてしまふことを恐れる。
「雑記帳」(「雑記帳」7 昭和十二年四月) (p. 154)

韜晦することは1つの教養である、すべてのものを愚かな美しさの中に隠してしまふ蓑であるところの。嘗て原始人のもってゐた、あの激しい単一な信仰の持ち得ようもない今日の人々にとつては、非常に好都合な安心の地となる。
「雑記帳」(「雑記帳」9 昭和十二年七月) (p. 162)

西洋的知性に昏迷してゐる頭だけの人間のやうな或種の知識人には、非合理性の最たるものである禅などの復活があってもいゝかも知れない。だが、こんにち、日本人の最も苦しんでゐるのは、永い伝統である東羊的非合理性の過剩にあることを思へば、かうしたことを云ふさへ惧まなければならないのだ。、
「雑記帳」(「雑記帳」10 昭和十二年八月) (p. 170)

ほんの一寸でも気に入ったものがあると、何から何迄好きにならずにはゐられない人情といふものを、いやらしいと思ふ。その八、九割は自分をも欺いてゐるし、逆に一寸でも嫌なものがあると全てを嫌って了ふ。人々の交り、国々の交り、信用とはかうしたものから成立ってゐるのであらうか。だからジイドのあの旅行記には感心したものだ。
「孤独(雑記帳)」(「雑記帳」12 昭和十二年十月) (p. 178)

色彩だけの絵は如何にも晦渋が感じがして、普遍的な共感と深い生命をさへ錯覚する。しかし非常に淡い存在であることを否定は出来ない。
同様の意味で、人情の世界に立籠ったとき、おそろしく不敵な、逞ましいものになつて、非合理な生活も合理的なもの以上の真実さをもってくる。
「独栽(ママ)(雑記帳)」(「雑記帳」13 昭和十二年十一月) (p. 188)

絵画の仕事は非常に自由で恵まれてゐる、それがまた最大の困難の原因になってくる。ギリシャ芸術のもってゐるあの完璧さは、僕達にとってそれ程不思議なものだとは思はない。困難なのは現代人の感情があゝした単純素朴な形式の中に均衡を保つことが極めて難かしいといふことである。
「独栽(ママ)(雑記帳)」(「雑記帳」13 昭和十二年十一月) (p. 191)

常態な意識をもった感覚は、かうした条件のもとに出発する。常の意識を持たぬ狂人や痴愚の、或種の感覚だけが異状に鋭くなつた場合と、現実を強度に意識した上に研ぎ澄された感覚の場合とは、表現形式が類似してゐても、極端な等差のあることは言ふまでもない。例へばゴッホの作品にはヒューマンな愛情が満ちてゐるのに反し、清少年の作品は、怖ろしい程人間的に空虚だ。自然のやうに虚無だ。神のやうに虚無だ。現実と連繋する尻尾なしに生れたからだ。只一人で暗黒の空に無限に飛昇するこのやうな精神は僕達のものではない。
「アバンギヤルドの尻尾」(九室会機関誌「九室」第二号 昭和十五年二月七日) (p. 217)

絵を描くことが好きでありながら、画家になる望みを一度も持たなかった僕が、十四歳の時に聴覚を失ひ、この道に踏迷ひ十五年の迂路を経た今日、やうやく、絵画を愛し、それに生死を託することの喜びを知り得たといふこと。それが、今、言ひ得る唯一の僕の言葉です。
「古典に際して」(「日動画廊の個展案内」昭和十五年十月) (p. 218)

考へてみると線は僕の気質なのだ。子供の時からのものだった。それを永い間意識できず、何となく線といふものに魅力を感じながら油絵を描いてゐた処に僕の仕事の甘さがあった。今にしてそれらのことがいろいろと思ひ当るのだが。モヂリアニが好きになったのも理由の一つは、量を端的に握んでゐる天下一品の線の秘密にあった。線は僕のメフィストフェレスなのだが、気がつかずにゐる間僕は何も出来なかった。この無意識を意識の上にひき上げる為に僕はどんなに混乱してゐるかもしれない。このメフィストフエレスが僕から出ていって変な悪戯をしたのがあの頃の事である。「線」は左傾ではなく、赤豆つまりモヂリアニの方向をとることによって、二号だけで中止になった。議論だけは相変らずだった。
「思出の石田君」(「石田新一迫悼誌」昭和十五年十月五日) (p. 221)

宗教ぎらひで、田舎の気風がすっかりなくなり、今では都会の錯乱の中に踏み迷ひ、詩を愛しながら詩の書けない僕であるけれど……。
「黒い花」(「三藝」昭和十五年十二月) (p. 235)

……フランスの出店だと称はれ通してゐた我国の油絵、明治から今日迄の作家二十人なり三十人の作品を、一堂に会して観るならば、それらは、みな厳とした日本人の感性によつて作られ、日本の肉体を持ってゐるものであることを、如何に近代美術に無縁の人にでも感じられると思ふ。だが尚一般がそれを異国的なものとして好奇な眼で観、更に日本伝来のものを敬遠したがる風潮もみえるところに、今日日本の文化的危機といふものが深く根ざしてゐると思ふ。何々主義といふ言葉が実に軽々しく俗流してゐるが、要するにわが国にはョ— 口ツバ的な自由主義や個人主義などと称はれるイデオロギーは類型的抽象論としてしかなかったといふこと、そのまゝには在り得ないといふことをここに確言して置きたいのである。
「生きてゐる画家」(「みづゑ」第四三七号 昭和十六年四月) (p. 239)

アジアの民族が、文化を求めるに、日本に来らず、アメリカ乃至ヨー口ツパに奔つたとするならば、武力的にアジアの統一ができても高度国防を本質的に形成することは不可能であらう。嘗て、或一支那人が、日本に留学するのは手軽にヨーロッパを学ぶことができるからだと言ったさうであるが、この一事でも私達は私達はヨーロッパを噛砕き、ヨーロッパを超えなければならぬことを思ふ。国家の外延量を本質的に考へなければならないことを思ふ。
芸術に於ける普遍妥当性の意味を、私達は今日ヒューマニティとして理解してゐる。作品そのものに於て、ヒューマニティは、国家民族性とともに表裏をつくり、その内包量となるものであるが、芸術一般に於けるヒューマニティは普遍妥当性を持った外延量となるのである。この意味で、ヒューマニズムのみを固執するとき、芸術の超国家性、超民族性が成立つのであるが、それは抽象的論理上の存在であり、民族国家に於て具体的に在り得ないことは屢々述べた通りである。
「生きてゐる画家」(「みづゑ」第四三七号 昭和十六年四月) (p. 243)

戦争画は非芸術的だと言ふことは勿論あり得ないのだから、体験もあり、資料も豊かであらう貴方達は、続けて戦争画を描かれたらいいではないか、アメリカ人も日本人も共に感激させる位芸術的に成功した戦争絵画をつくることだ。勿論権力の後だてや、ジャーナリズムの賞讃を単純に得られることはあるまいし、時流も歓迎してはくれまい、しかし、さうした中で描き続け優れた作品を完成したならば、心あるものは貴方達に脱帽するであらうが。
「芸術家の良心」(昭和一一十年十月朝日新聞へ投稿したが採用されなかった) (p. 252)

敗戦して、美術家としての在り方も実は複雑だ。戦争犯罪者として聯合国から指摘されるものもでてくるかも知れぬ。国民としての立場から指摘されねばならぬ場合もあらう。責任を問ふならば、権力の前にほかむりで通してしまったものにもやはり責任はある箸だ。芸術家は政治の実際には迂遠であるといっても、芸術家としての直感でこの戦ひの裏面に喰ひ入り、敢然とした態度のとれなかつたことは恥ぢていゝことだ。戦争画を描いた描かなかったといふやうな簡単な問題ではない。「臭いものには蓋」式の態度はこれからの我々は絶対に排さなければならぬ。自らの肉を衝き、骨を削る態度をもって、ここ幾年間かの日本の美術界の動きを研究し、究明して、すべての事情を明確にすることが必要だ。
「全日本美術家に諮る」(昭和二十一年元旦) (p. 257)

日ざしやはらかな一日
蹌踉として野犬はゆく
とりのこされた一本の国道
食ひ捨てられた蜜柑の皮
「詩 C」(昭和二十一年一月八日) (p. 261)

だが、生涯忘れることのできないものがある。星空を、頭の上で機体を照空燈に反射させながら、几帳面に次々と旋回してゆく B29の印象的な姿。何ら遅疑するところなく、 奔流のやうに家々をなめつくしてゆく巨大な焔。猛火に一掃された跡のカーッとした真赤な鉄屑と瓦礫の街。それらを美しいと言ふのには、その下で失はれた諸々の、美しい命、愛すべき命に祈ることなしには口にすべきではないだらう。だが、東京や横浜の、一切の夾雑物を焼き払ってしまった直後の街は、極限的な美しさであった。人類と人類が死闘することによって描き出された風景である。
「残骸東京」(「東北文庫」第一巻第二号昭和二十一年二月一日)  (p. 263)

鴎外のものをしかと読んでみるといい、長谷川の叔父さんなんか持ってゐるだらう。どこかにある筈だ。芥川には教育はある、才もある芸術的な天分もある、しかし何かゞ欠けてゐて物足りない。これは別にどうといふわけではないけれど、彼の短い文章を読んでゐてそんな風に感じた。兎に角日本の近代のものでは鷗外をしつかりと読みさへすればそれでいい様な気がする。
「妻.禎子宛書簡昭和二十・二十一年」(昭和二十年七月二十日付)  (p. 276)

戦争も実につまらぬものになつてしまったものだと思ふよ、武士や騎士といはれるものの美しさは勿論、軍人といふものもなくなつてしまふ、現代のこの戦ひは軍人の戦ひではなく政治家の戦ひなのだ。それなのに日本だけが真正直に軍人だけの戦ひをしてゐる。この間までのB29の放火にはまだ危険を侵して正面から挑んで来る正直な美しさもあつたし、無差別に焼夷弾をわれわれの頭上にばらまいていったとしても、まだ、われわれとして戦ふ余地もあったのだ、だが、どこからともなく原子爆弾の如きものが飛んで来て一切を破壊するやうなことになつたら(それはもうできることだ)戦争のために、人を鍛へるといふやうなことも意味をなくして了ふだらうね。産業と資本だけが人間をおさへてしまふことになるだらう、美しさ等どこにもありやしない世界になる。
「妻.禎子宛書簡昭和二十・二十一年」(昭和二十年八月十四日付)  (p. 278)

兎に角僕は、来年三十五になるといふ昨今、どんな本を読んでも意味がよく解るといふやうになつた。せっせと勉強してゐる。雑誌をやり出したらもっと勉強するやうになるだろう。語学力のないのが、一番困るが、これも何とかするつもりだ。
「妻.禎子宛書簡昭和二十・二十一年」(昭和二十年十二月十一日付)  (p. 281)

 

(2012/4/30)