大澤真幸 |
序 「現実」への逃避 その戦後という一つの時代を、現実を意味づけている中心的な反現実のモードを規準にして眺めたとき、見田宗介によれば、その反現実のモードは、「理想→夢→虚構」と遷移してきた。すなわち、戦後は、さらに、「理想の時代」「夢の時代」「虚構に時代」の三つに内部区分できる、というのだ。見田がこのようなテーゼを打ちだしたのは、戦後四五年目に当たる一九九〇年のことである。彼は、その四五年を三つに等分したとき、その一つひとつが、ちょうど、「理想の時代 一九四五-六〇年」「夢の時代 六〇-七五年」「虚構の時代 七五-九〇年」のそれぞれに対応している、と主張した(見田『社会学入門』)。(p. 2) 柳田は、敗戦がもたらした空白を埋めるものを、日本社会の堅固な――と彼が信ずる――伝統の中に見出そうとした。それは、日本社会の過去の伝統の中に、すでにある、と。だが、この解決策には、明らかに問題がある。戦争の死者たちは、別に、家のために死んでいったわけではないからだ。少なくとも、「主として家のために死んだ」とはいえないからである。(p. 18) |
折口や柳田の構想が暗に示していることは次のことだ。「敗戦」とは、われわれの「現在」がそれに対して有意味であり、それによって正当化されるような超越的なまなざしを喪失することであった、と。柳田は、そのようなまなざしを、家の伝統の延長線上に再確認しようとした。折口は、それを、半ば捏造された古代の伝統の中に見出すことで、むしろ革新的に構築しようとした。 |
こうして「理想の時代」が始まった。「理想」とは、端的にいってしまえば、(日本人が想定した)アメリカの視点にとって、肯定的なものとして現れる、社会や個人の状態のことである。アメリカを準拠とし、そのまなざしに対してポジティヴに映現する――と日本人が想定した――社会状態を、日本人は、「戦後民主主義」と呼んだ。アメリカという超越的な他者を受け入れ、措定することに成功しなかったならば、理想は機能しなかっただろう。(p. 29-30) |
II 虚構の時代 (……)約三〇年の時を隔てた二つの少年犯罪においては、ほとんど何もかもが対立している。犯罪を条件づける、あるいは犯罪を構成する諸要素を取り出してみるならば、両事件は対称的で、互いに互いを逆立ちにさせたような関係にある。 理想の時代の末期に現れたのが、一九六〇年代の全共闘運動である。全共闘運動は、社会の革命・改革を求める運動であった以上は、理想の時代に属する出来事であったと、とりあえずは言わなくてはならない。だが、この運動がめざしていた理想、指向されていた理想社会とは、どのようなものだっただろうか? 全共闘運動に参加した若者たちがめざした理想は、しかし、具体的・実質的な内容をほとんどもっていなかった。それはただ、従来の権威、従来の理想を否定するということ以外の内容をもってはいない。理想の否定だけが理想であるとするならば、この運動は理想の時代の末期的なしょうじょうであると見なさざるをえない。(p. 74-75) |
連合赤軍事件に関して、笠井潔や大塚英志は、次のような面白い観察を披瀝している。すなわち、連合赤軍には、二つの価値観がせめぎあうようにして共存していた、というのである。「かっこいい」という価値観と「かわいい」をよしとする価値観が緊張関係を保っていた、というのだ。「かっこいい」とは、内容を無化され、純粋な形式にまで還元された「理想」ではないだろうか。それに対して、「かわいい」は、すでに虚構の時代に属する感覚であろう。要するに、連合赤軍事件の中に、理想の時代に由良瑀するベクトルと虚構の時代へと向かおうとするベクトルとがともに作用していたのである(大塚「サブカルチャー/文学論」。(p. 75)
オタクを専門家や一般の趣味人から区別する特徴は、意味の重さと情報の密度の間の極端な不均衡である。一般には、意味の重さと情報の密度の間には、比例的な関係がある。要するに、有意味なことだから情報が集積されるのである。だが、オタクに関しては、こうした法則が成り立たない。情報は、有意味性への参照を欠いたまま、つまり意味へとつながる臍の緒をもたないまま、それ自体として追求され、集められていくのである。(……)「情報」は、そうした外側のコンテクストへの参照を欠いている。オタクは、自らが関心を向ける情報的な差異に関して、それをより包括的なコンテクストに位置づけて、その重要度を説明することができないのである。(p. 87-88) |
一九八〇年代初頭の若者とは、一九六〇年前後に生まれたコーホートであることを意味する。これは、メディア論的には、注目してよい事実である。というのも、これは、日本では、「生まれたときにテレビがあった――あるいは少なくともテレビがない家庭についての記憶がない――最初の世代」にあたるからである。テレビが我が家に入った日のことを記憶しているような世代は、オタクにはならない。(p. 88) |
オタクによるオタク論を読むと、しばしば、わずか二〇年程度の「歴史」が、ちょっと行き過ぎではないかと思わせるほど細かく段階区分され、些細な出来事が大げさに言挙げされる。たとえば、まるで西洋史の「古代/中世/近代」のように、オタクの「第一世代/第二世代/第三世代……」などと区分され、テレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の最終回が、第二次世界大戦の終結と同じくらい一大事であったかのように語られるのだ。端的に言えば、多くのオタクは、個々の主題領域に関してだけでなく、オタクという現象自身についてのオタクである。(p. 101-102) 先に、オタクにおいて、普遍性が特殊性へ反転する、と述べた。この項で見出したもう一つの逆説、もう一つの反転は、アイロニカルな距離化から、絶対化する没入への、急転直下の転換である。あるいは、第三者の審級を徹底して抽象化し、不可視化したとき、それが、具象的で、内在的な他者として、突如として回帰してくると言う、逆説である。(p. 109) |
マスコミ・ギョウカイトハ、シロウトたちを上から見下ろし、社会全体を見通すことができる普遍的で超越的な視点が帰属する場所である。アイロニカルな態度を取るためには、人間の諸類型を相対化し、俯瞰するようなメタ的な視点を必要とする。そうしたメタ的な視点の帰属の場として想定されたのが、まずは、ギョウカイだったのだ。いわば、ギョウカイに精通し、ギョウカイの只中にある(と想定されている)視点から眺めて、さまざまな現象や態度がアイロニカルに批評されるのである。北田によれば、今日では、そのようなギョウカイへの信頼は失われ、ギョウカイは、内輪空間を盛り上げる素材(話題、ネタ)へと失墜した。とはいえ、われわれとしては、2ちゃんねるの内輪空間――オタク的な趣味にアイロニカルに没入する者たちの共同性――に、ギョウカイからの転態を見るべきではないか。(p. 113) IV リスク社会再論 『L’Enfant』は、はっきりと救済の場面を描いているのに、それにはリアリティが欠け、主人公が救済されたようには感じられない。それに対して『三丁目の夕日』は、登場人物たちの誰も明示的には未だ救済されていないのに、観客は、彼らがすでに救済されているかのような安心感をもつことができる。すでに救済された者が本当は救済されておらず、未だ救済されていない者こそ実はすでに救済されているのだ。 |
だから、リスクの一般化は、アンソニー・ギデンズが近代の本質的な特徴としてあげている「再帰性reflexivity」を必要条件としている。どのような行為も規範を前提にしている。ギデンズによれば、近代社会においては、その規範への反省的・再帰的な態度が浸透し、常態化している。すなわち、規範を「変えることができる/変えるべきである」との自覚を前提にして、規範が不断にモニタリングされ、修正や調整がほどこされるのが、近代社会である。リスクは、再帰的近代に至らなければ、ここかしこに見出されるような状態にはならない。(p. 129-130) |
彼ら〔ビル・ゲイツやホリエモン〕は、われわれとよく似た俗っぽい欲望にまみれた、欠点の多い人物として、自己を提示している。そして、この事実は、彼らのカリスマ性に対して逆接しているのではなく、むしろ順接しているのだ。一般には超越性を浸食するような事実によってこそ、彼らの超越性は維持されている。このような、逆説的な第三者の審級の、日本における最もあからさまな例は、「俗物」と揶揄された麻原彰晃であろう。 裏口から回帰する第三者の審級は、インターネットの世界にも棲息している。先に、グーグルに言及しながら、ネット自身についての知的判断を、民主的自己決定的に導き出す、と述べておいた。しかし、やがて、「民主的」とされるそうした集計結果が、ネットそのものの現実とは自立した、「ネットの意志」と見なされ、ネットの世界に神のように君臨するようなる。(p. 148-149)われわれは、監視されていることを恐れ、そのことに不安を覚えているのではなく、逆に、他者に――われわれを常時監視しうる「超越的」ともいうべき他者に――まなざされていることを密かに欲望しており、むしろ、そのような他者のまなざしがどこにもないかもしれないということにこそ不安を覚えて覚えているのではないだろうか。私生活をただ映すだけのサイトや、「ブログ」のような私的な日記を公開するサイトが流行る理由も、こうした欲望や不安を前提にしないと説明できまい。あるいは、若者が、ケータイへの着信やメールを待ち焦がれるのは、自らがだれかのまなざしと配慮の下にあることを確認し、安心するためであろう。(p. 151) 伝統的には、一方で、主体の側に、欲望や快楽への衝動があり、他方で、そうした欲望や快楽の直接の発露としての自由を抑制したり、制限したりする、権力の側の監視がある、こういう構図で、われわれは考えてきた。しかし、ここまで述べてきたように、私生活における自由な行為が、(超越的な)他者のまなざしを織り込み済みの前提としており、さらに、そうしたまなざしは、自由であること、自由に欲望したり快楽したりすることを要求し、命令してさえいるのだ。この(超越的な)他者こそ、先に述べた、「裏口から回帰した第三者の審級」であろう。(p. 152) フーコーのパノプティコンの監視者は、まだ予定説の神と同じである。彼は何を禁止しているのかははっきりしないが、その存在(の確実性)によって、実質的には(何かの)禁止として機能する。そして、人を、規律訓練し、従順な主体へと成形する。このとき、監視は、まだ自由への制限として機能している。だが、この後にやってくる、もうひとつのタイプの第三者の審級がある。それは、自由を触発し、強制する。だが、まさにそのことでかえって、自由は萎えるのである。(p. 153)
ここまでの考察が含意していることは、虚構の時代は、まったく相反する方向に分かれている二つの傾向の間で分裂し、解消されているように見える、ということである。一歩では、準拠点の「反」現実度が次第に高まっていくという、戦後史のこれまでの傾向に反するかのように、「現実」への回帰、「現実の中の現実」への回帰が見られる。他方では、虚構の時代に胚胎していた傾向が限度を越えて強化され、現実に現実らしさをあたえる暴力性・危険性を徹底的に抜きとり、現実の相対的な虚構化を推し進めるような力学が強烈に作用している。現実への回帰と虚構への耽溺という二種類のベクトルの中で、虚構の時代は引き裂かれることで、消え去ってきた。次章で詳しく論じるように、思想的には、前者が原理主義、後者がルベラルな多文化主義に、それぞれ対応しているだろう。 |
(……)ただちに気づくことは、両者はまったく正反対をむいており、あまりにも完全にバランスを取っている、ということである。このことは、逆に、これら二つが、同じことの二側面ではないか、と考えさせるものがある。実は、ここまでの考察の中で、すでに、こうした説明を示唆する事実の一つである。あるいは、虚構の世界に耽溺していたオウム教壇が、ハルマゲドンという「現実」へと逃避しようとしたという事実もまた、こうした説明を支持しているように見える。(p. 156-157) |
戦後史のスパンで捉えた場合に、青少年による犯罪は、この時期にとくに増えているわけではない。法務省の『犯罪白書』によれば、一九六〇年前後の方が、九〇年代よりも少年犯罪の件数は多い。少年の凶悪犯罪(強盗、殺人)の数は、一九六〇年前後をピークに、激減している。が、しかし、本節の冒頭に掲げた河内長野市の事件のような不可解な犯罪は、九〇年頃より、突如、登場し、その後、毎年のように繰り返されるようになった。こうした犯罪があまりにも注目されたため、九〇年代に少年犯罪が急増したとの錯覚が蔓延したが、注目すべきは、反罪数の変化ではなく、そうした錯覚を誘発するほどに人々を驚かせた、犯罪の質の変化である。 |
ここで想起されるのが、この国で、二〇〇三年頃よりしばしば起こる、いわゆる「ネット心中」である。互いに見ず知らずの若者たちが、インターネットを通じて呼びかけあい、一緒に自殺するのだ。自殺に至った背景や理由に冠して、自殺者たちが互いに何かを共有しているわけではない。従来、心中は、結束の固い家族が行うものだった。言い換えれば、ネット心中は、家族による心中を代替するものとして登場してきたことになる。ネット上の呼びかけに――まさに説明されるべき理由もなしに――呼応してきたという事実が、彼らの間に、家族以上に本来的で原初的な関係が成立していたことの証左になっているのではないか。無論、客観的には、だれかがネット上の呼びかけに応じたということこそ、偶然的・偶有的な事実である。ここでは、純粋な偶然性が、当人たちの感覚では、逆のものとして、つまり家族のつながりを越える強い必然性として現れていることになる。(p. 185) |
こうした傾向に抗して、「終わり」を徴づける感覚を取り戻そうとすれば、どうなるのか?第三者の審級が摩耗していく(相対化されていく)傾向に対抗して、あえて第三者の審級を再構築しようとすれば、どのようなことがなされるだろうか? 「終わり」ということを真に徹底したものにすること、要するに、全的な破局をもたらすこと、これが解答である。なぜか? 第三者の審級が相対化されてしまうのは、それが、何ごとかを「善」として、あるいは「理想」として措定し、肯定しているからである。どのような積極的な善や理想も、より包括的な枠組みの中では、相対化されてしまう。だが、一切の肯定的な善をも措定せず、すべてを否定したとすれば、これを相対化することはできない。このとき、この破壊の力の担い手として、徹底した否定の作用の帰属点として、超越的な第三者の審級が回帰してくるだろう。まさに、すべてが破壊され、すべてが否定されるがゆえに、かえって、何かが、超越的な何かが残るのである。(p. 211-212)
「現実」から逃避するのではなく、「現実」へと逃避する者たちがいる。現代社会を特徴づけているのは、伝統的な前者(「からの逃避」)ではなくて、後者(「への逃避」)である。このように論じてきた。この場合、「現実」というのは、日常のそれではない。それは、現実の中の現実ともいうべきもの、つまり激しく、ときには破壊的でもある現実である。現代の大衆文化の中では、このような破壊的な「現実」への嗜好や期待が、広く共有されている。そのような嗜好の最も分かり易い形態が、「世界最終戦争(ハルマゲドン)」をめぐる幻想である。(p. 218) |
(……)具体的な例を少しばかり思い起こすだけで、多文化主義がそれほど結構なものか、疑問が湧いてくる。たとえば、二〇〇〇年に、味の素が、インドネシアでイスラム教徒の激しい抗議を受け、二〇〇一年には、今度は、マクドナルドが、インドでヒンドゥ教徒に非難された。前者は、味の素の製造過程で豚の成分を使い、後者は、ポテトチップスを牛脂で揚げていたからだ。味の素もマクドナルドも、それぞれ問題の成分を使わないことを約束したので、今では両教徒ともに、安心して、味の素を使ったり、チップスを食べたりしている。これぞまさしく、多文化主義的配慮とも言うべきものだが、これらの例が教えてくれるのは、多文化主義がグローバル資本主義にきわめて適合的な主張だということだ。ラディカルな左翼に好まれる多文化主義は、資本主義の今日的な発展の関数かもしれないのだ。(p. 224-225) |
(……)第二次大戦中、ナチスのユダヤ人強制収容所には、隠語で「ムーゼルマン」と呼ばれた人たちがいた。ムーゼルマンとは、収容所のあまりに過酷な環境の中で、人間性の零度にまで到達してしまったユダヤ人たちのことである。気力も体力も完全に失い、一切の人間的な反応を示さなくなった――それどころか動物的な反応すらも見せなくなった――、文字どおりに「生ける屍」の状態を呈するユダヤ人が、ムーゼルマンである。(p. 239) |
第三者の審級への関係を優先させることで、親密な特殊な〈他者〉たちを無視し、相対化することが可能になる。第三者の審級を媒介にしてもたらされることで、正義には「普遍性」が宿ることになるのだ。固有な意味での「普遍性」は、ここに登場する。(p. 260) (……)「現実」への逃避へと人を駆り立てる閉塞からの解放の鍵は、もうひとつの暴力に、「純粋暴力」と呼ばれてもいる神的暴力に求められなくてはならない。ベンヤミンは、神的暴力について、「法を否定するrechtsvernichtend暴力」であると言っている。すなわち、これは、法や規範という形式で、われわれの行為と体験の領域を限定することから、われわれを一般的に解放する暴力だというわけである。(p. 269) |
要するに、神的暴力とは、その形容詞とはまったくまったく逆のことを、つまり神(第三者の審級)の不在やその無力をこそ含意する行動である。従って、神的暴力は、純粋な無神論のもとにある暴力である。われわれは、第VI章で、『物語る権利』と『真理への執着』の間の相互依存的な対立の閉鎖からの出口は、真の無神論であると結論した。神的暴力こそ、まさに、その無神論に対応する実践の形態であることと解することができるだろう。また、神的暴力と法措定暴力との相違は、この点にこそある。法措定暴力は、法とともに、法に妥当性を与える第三者の審級(神)を措定することになるからだ。(p. 271) |