ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <書 抜き書きメモ37>

ジャック・デリダ
火ここになき灰

梅木達郎訳、松籟社、2003年

プロローグ

一五年以上も昔になるが、一つの文が、望んだわけでもないのに、わたしにところにやってきた、というより、むしろ立ち戻ってきた。それは、独特で、特異なまでに短く、ほとんど無言だった。
(……)これ以上ありえない控えめさと簡潔さで、しかし宣告文のような権威を持って、有無をいわさず私にやってきたのである。「そこに灰がある(イリヤラサンデル)」[il y a là cendre]と。(p. 13-14)

だが、「もう一つの別の声」という言葉は、人間の複数性のみを喚起しているのではない。それはもうひとつ別の声を呼び求め要求しているものだ。「別の声、もっと、もっと別のもう一つの声」と。それは欲望、命令、祈りであり、あるいは約束ととってもかまわない。「もうひとつ別の声、このときに、もう一度、もっと別の声が到来するように……」。ある命令なのか約束なのか、それとも祈りの欲望なのか、私にはわからない、まだ。(p. 23-24)


火ここになき灰

 (「」内は、『ディセミナシオン』、『弔鐘(グラ)』、『郵便はがき』からの引用)

「自己自身から遠ざかりつつ、そこにおのれの全体を形成しつつ、ほとんど残余なく、エクリチュールは一気に、負債を認め、かつ否認する。署名が最終的に崩壊する。中心から遠く離れて、さらには中心にあって分有されるもろもろの秘密から遠く離れて、それらの灰と化すまで散逸する。(……)」 (p. 27)

- そこに灰がある。この文は、もう十年近くも前からあったのだが、それが自分自身から遠ざかっていったんだ。みずからの内に、この文は遠い隔たりを宿していた。文が置かれた場所にもかかわらず、その見かけにも反して、それは署名されるがままにはならなかったし、どこかに帰属してもいなかった。なにか理解可能なものを意味するわけでもなく、あたかもずっと遙か遠くからやってきて、その署名者と推定されている者とこの文が出会ったかのようなんだ。 (p. 29)

- ねえ、こう考えたらどうかしら。この銘文はただ合図を送っているだけで、自分のことしか述べていないのだと。われは灰の合図なり。われ、なにかを、あるいはだれかを呼び起こしつつも、そのものについては黙して語らず。目に見えるこの描線は、なにも言わないがためにあり、そこで言われていることを、それを言う行為によって抹消してしまうべし。言われた内容を火に投じ、炎に包んで滅ぼすほかはなし。火なきところに灰はなし。 (p. 33)

「燃やし尽くすものは――それはただ一度生起し、しかし無限に反復する――あらゆる本質的一般性からかくも遠く隔たっているがゆえに、絶対的な偶発事の単なる差異に類似してくる。戯れであり、また単なる差異であること、これこそが感知できない燃やし尽くすものの秘密であり、おのずから燃え上がる火の奔流である。みずから白熱しつつ、この純粋な差異はじこと異なっており、ゆえに無差別的である。差異の純粋な戯れはなにものでもなく、おのれ自身の火災にも自己を関係づけさえしない。光は主体となる以前に闇に染まる」 (p. 42-43)

「ここに感じられるのは、意味の、媒介の、否定の勤勉な労働の仮借なき力である。燃やし尽くすものが、それであるところのもの、つまり戯れの、差異の、燃え尽くしの純粋さであるために、それはその反対物の移行しなければならない。つまりみずからを保持し、みずからの喪失の運動を保持し、その消滅そのものとして現れなければならない。」(p. 44-45)

「純粋な光の差異と戯れであり、パニックをもたらし火を放つ撒種でもある。燃やし尽くすものは、対自にみずからをいけにえ[holocaust]として捧げる[gibt sich dem Fürsichsein zum Opfer]。それは自己を犠牲にするが、しかしそれは残るため、自己の保持を確保するためであり、自己自身と結びつき、緊密になって、自己自身となり、自己の傍らで対自となるためである。自己を犠牲に供するために、それはみずからを燃やす。」 (p. 46-47)

「戯れ[jeu]それ自体のホロコーストにおいて賭けられている[enjeu]ものはなにか?  おそらくはこのことだ。贈与、犠牲、あらゆるものを戯れや火に投じること、つまりホロコーストは存在論を生み出すことができる。[ホロコーストは存在論をもたらし、かつそれをはみ出すが、それは存在論を誕生させずにはいない。] ホロコーストがなければ、弁証法の運動も存在の歴史も開かれえなかったのであり、それら運動や歴史がみずからの記念日の輪の中に参入することもなければ、東から西への太陽の運行を生み出しつつみずからを無化することもなかったのである。」(p. 47-48)

「……(交換以前の)贈与の過程は、過程といっても過程ではなく、一つのホロコーストであり、ホロコーストのホロコーストなのだが、それは存在の歴史を開始させる[engage]が、その歴史には属さない。贈与は存在しない。ホロコーストは存在しない、たとえ少なくともそうしたものがある[il y en a]としても。だがそれが燃えるやいなや(火災は存在者ではない)、それはみずから燃えあがりながら、燃やすおのれの操作を燃やさねばならず、存在し始める。この反省、このホロコーストの反射は、歴史を開始させ、、意味の弁証法、存在論、思弁的なものを起動させる。思弁的なもの[le speculative]は、ホロコーストのホロコーストの反射[speculum]であり、火災が鏡の硝子=氷によって反映され冷やされたものである。」 (p. 49-50)

おまえが言葉の骨壺を紙に託したとしても、それはおまえをいっそう燃え立たせるためなのだ、わが子よ、そしてすぐにおまえは衰えてしまう。いいや、それは、彼が夢見たような墓碑ではない。つまり、人も言う喪の作業をたっぷり時間をかけて遂行するためにある墓碑ではないのだ。この文の中に見えるのは、墓碑の墓碑だ。それは不可能な墓の記念碑なのだ――それは禁じられた墓で、ちょうど遺骸を納めぬ墓[cénotaphe]の記憶のようなものだ。そこでは忍耐強い喪の作業が拒否されている。それに、緩慢な解体作業もまた拒否されている。 (p. 54-55)

 

 (2011/12/21)