ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <書 抜き書きメモ33>

仲正昌樹
今こそアーレントを読み直す

講談社現代新書、2009年

序論 「アーレント」はどういう人か?

アーレントは、一つの世界観によって、不安に駆られた大衆を何らかの理想へと「導く」かのような姿勢を見せる政党を、マックス・ウェーバーに倣って「世界観政党」と呼び、その典型がナチスやボリシェヴィキ(ソ連共産党)だとしている。(p. 16)

(……)「政治」(と「人間」)の本質は、経済的な利害関係の調整でも、特定の世界観の下での善への邁進でもなく、(共同体にとっての)「善」をめぐる果てしなく続く「討議」である、というのがアーレントの考え方だ。 (p. 17)


第一章 「悪」はどんな顔をしているか?

『全体主義の起源』(一九五一)は、(……)「全体主義」を、西欧近代が潜在的に抱えてきた矛盾の現われとして理解することを試みる著作である。「全体主義」は、前近代的な野蛮の現われではなくて、むしろ西欧社会が近代化し、大衆が政治に参加する大衆民主主義社会になったことに起因する問題だと見たわけである。(p. 33)

(……)イタリアの政治学者ネグリ(一九三三-)とアメリカの比較文学者ハート(一九六〇-)の共著で、二一世紀における共産党宣言として一時もてはやされた『〈帝国〉』(二〇〇〇)の〈帝国Empire〉は、こうした普遍的に開かれた法=権利体系としての『帝国』を指している。(p. 46)

アーレントはこのように、『他者』との対比を通して強化される「同一性」の論理が、[国民国家の形成→国民国家をベースにした資本主義の発達→帝国主義政策]という現実の流れと相まって、全体主義の起源になったと見ている。正し、「同一性」の論理に基づく自己拡張運動としての帝国主義が、ストレートに全体主義に繋がったわけではない。帝国の基盤になっていた「国民国家」の衰退に伴う危機意識こそが、全体主義の直接的な起源になったというのである。(p. 48)

(……)資本主義的な生産・消費体制がさらに発展し、大都市に様々な階層、地域出身の人々が集中し、混在して居住するようになり、職業的・階級的な流動性が高まってくると、人々を政治制度に結びつけていた労働組合などの媒介的な諸組織が機能しなくなる。根なし草になった人々は、自らが「国民国家」の主人公であり、その発展に積極的に寄与しなければならないという意識を失い、アトム(原子)化していく。これは、一九世紀末から二〇世紀初頭にかけ西欧世界全般に見られた現象である。(p. 50)

全体主義は、現実の世界の不安や緊張感に耐えられなくなった大衆が、逃げ込むことのできる、文字どおり「トータル(全体的)」な空想世界を構築する。そのトータルな空想世界のなかでこそ、大衆はアットホームに感じることができるのである。ただし、この空想的世界は全面的に現実世界から切り離されているわけではなく、現実をかなり歪曲した形で加工したものが、全体主義的な空想の基盤になる。
例えば、アーリア人の純潔を汚し、世界を支配しようとするユダヤ人の陰謀と、それを打破すべく闘うナチスの歴史的使命のような話は、第三者的に見れば荒唐無稽である。しかし第一次世界大戦後、(ユダヤ系の資本が栄えている)英米仏によって軍事的・経済的に締め付けられ不安で厳しい生活を送っていたドイツの「大衆」にとって、それは、自分たちの“現実”(の一部)を巧みに説明し、納得させてくれる一貫性のある物語だった。スターリン主義のソ連は、(ユダヤ系の富農の子として生まれた)トロツキー等の党内反党分子による反革命の世界的陰謀という物語を利用して、党内・国内の粛清を正当化した。(p. 52)

陰謀論的な物語というのをもう少し広い意味で取ると、自分の政策に反対する者たちを全部ひっくるめて「抵抗勢力」と名指しして、それを打倒することが、日本の経済を立て直し、明るい未来を切り開くことに繋がると主張して、人気を集めた小泉元首相等の種hごうもそれに含めることができるかもしれない。その逆に、小泉元首相や竹中平蔵元経済財政政策担当大臣、財界首脳などから成る「新自由主義者」たちが、市場原理主義的な“改革”の犠牲者であるはずの若者たちを「改革」とか「自己責任」「愛国心」などのマジック・ワードで洗脳して、現実を見させないようにし、戦争に向けて動員しようとしている、と主張する左派の言説も、かなり陰謀論的である。(p. 56)

他州社会における知識人は、本を書いたり、講演をしたり、“一般の人”の相談にのることによって、つまり世界的な物語を示すことによって、その地位を確保しているわけだから、一般大衆以上に、分かりやすい物語に敏感である。「時流に乗りたい」という欲求に駆られやすい。よほど自制心がなければ、流行りものになりそうな物語に真っ先に飛びつきたくなる。
だから私も含めて、知識人の警告のようなものは、ほどほどに聞いておく、くらいの感覚でよい。「△△宣誓に出会って、世界が変わった」と臆面もなく語り、他人を勧誘するようになると危ない。(p. 59)

(……)収容所は、人々の「人格」の個別性を破壊・抹消し、首尾一貫した世界観によって支えられるシステムの一部にしてしまう全体主義の特徴を凝縮している、と言える。(p. 61)

(……)法廷に立たされたアイヒマンの内にアーレントが見たのは、決められたことに従うだけのあまりにも平凡な市民だった。命令に従わなければ、自分の身が危ないというのであれば、まだ分かるが、アイヒマンはそうした恐怖と良心の呵責の間で葛藤していたわけではなく、命令に従うのは当然のことと思っていたように見える。「人間性」すばらしさを信じてきた西欧の知識人にとっては、あまりにも困惑させられるような事態だった。アーレントは、平凡な生活を送る市民が平凡であるがゆえに、無思想的に巨大な悪を実行することができる、という困惑させられる事態を淡々と記述したのである。(p. 65)

(……)“悪の根源”追求は、そのキワだった「悪者」との対比を通して、「私たち」の正常なアイデンティティを確認し合うことにも繋がる。容赦なく「悪」を攻撃する姿勢を示す「私」たちは、健全な理性を持った“まともな人間”なのである。際だって異なっている「他者」との対比を通して、「私」あるいは「私たち」のアイデンティティを確認するというのは、まさにアーレントが『全体主義の起源』で論じた、全体主義が生成するメカニズムである。全体主義という、いわば“究極の悪”とも言うべきものを糾弾しようとする「私(たち)」の営みが、全体主義に似てくるというのは非常に皮肉な現象である。(p. 67)

全体主義のメンタリティを分析したアーレントは、西欧近代の哲学・政治思想が前提にしてきた「人間」像、「自由意志をもち、自律的に生きており、自らの理性で善を思考する主体」というイメージが現実から乖離していることを認識するに至った。そうした「主体」観を前提にして、普遍的な「正義」を確立しようとする近代の論理は、「「アイヒマン裁判」のような問題に直面した時、自己矛盾に陥ることになる。『全体主義の起源』を書いた後のアーレントは、西欧的な「人間」像の歴史的起源を探求する作業に従事することになる。 (p. 70)

第二章 「人間本性」は、本当にすばらしいのか?

ドイツで人文主義的な教育を受けて哲学で博士号を取り、古典文学や古代の哲学に造詣の深いアーレントは、当然のことながら、「フマニタス」的な「人間」観の影響を強く受けていた。そして、(彼女の師であったハイデガーを含めて)戦前のドイツの知識人たちの大半は、フマニタス的な強要を身につけ、西欧的な「人間性」の理想を信奉していたはずである。しかし彼らは結果的に、ナチズムの「人間本性」破壊に加担することになった。「ヒューマニズム」の伝統は、ナチズムの野蛮に対する防波堤にはならなかった。アーレントは『人間の条件』を通して、西洋的な「人間」観の根底にあった「フマニタス」的なものを、その起源にまで遡って明らかにしようとしたのである。(p. 75)

「労働」と「仕事」が基本的に個人の営みであり、必ずしも他の人と直接的に関わりをもたないでも遂行できるのに対して、「活動」は、自分と同じように思考しているであろう他の「人格」を前提にし、それに働きかける営みだ。言い換えると、「世界」には自分一人がいるわけではなく、複数の人格が存在していることを理解したうえで、(直接的に知覚することのできない)お互いの人格に影響を与え合おうとする営みである。
アーレントは、こうした「活動」の前提に「複数性plurality」があると考える。(p. 78)

アーレントにとって、ナチスやスターリニズムに端的に見られる「陳腐なる悪」の本質は、多くの人を殺したことそれ自体よりも自分たちと考え方が違う異なったものを抹殺することによって、「活動」の余地を無くし、「複数性」を消滅させようとしたことにある。「複数性」を喪失した“人間”は他者との間でほんとうの意味での対話をすることができなくなるのである。(p. 80)

(……)厳密な哲学概念や用語法を探求して、哲学全体を言語の面から再構築しようとする潮流を一般的に、「分析哲学analytical philosophy」と呼ぶ。(……)個々の言語体系や伝統ごとに物の見方がどう異なるのかを調べようとする潮流は、分析哲学との対比で非分析系と呼ばれたり、「解釈」に重きを置くことから「解釈学hermeneutics」と呼ばれたりする――教義の「解釈学」は各種の古典文献を読解するための方法論であるが、それと関連づける形で、言語の違いによる世界解釈の違いを問題にする哲学を広い意味で「解釈学」と呼ぶことがある。 (p. 84)

師であるハイデガーがドイツ語で思考する者にとっての「真理」に拘っていたのに対して、アーレントは特定の言語共同体に限定されない、「人間」の条件としての「複数性」を探求しようとしたのである。「複数性」を生み出し、ヒトを「人間」らしくする「活動」に注目することによって、全体主義的な閉鎖性から離脱しようとするところに、アーレントの言語観の特徴がある。(p. 87)

(……)アーレントが古代の「ポリス=政治共同体」にその原形を求めている「政治」とは、そういう物質的な利害関係やしがらみから「自由」な市民たちが、自分のためではなく、「ポリス」全体にとって何が善いことであるか(=共通善)について討論(活動)し合う営みである。この「政治」の「活動」において、各市民は言語を通してお互いを説得する技を磨くと同時に、他者のパースペクティヴから「物を見る」ことを学ぶ。相手の視点から物を見ることができなかったら、相手を説得できないからである。「政治」の討論という形で進行する「活動」に従事することで、「複数性」の余地が広がり、「市民」たちは「人間らしさ」を身につけるのである。(p. 89)

アーレントの影響を受けながら、独自のコミュニケーション理論を展開した現代ドイツの社会哲学者ユルゲン・ハーバーマス(一九二九-)は、近代市民社会においてそれぞれの商売上の利益を追求する――基本的には自己中心的な--市民たちが、公権力=絶対主義国家による専制支配に対抗するため、読書サークルや喫茶店などで意見交換を行い、新聞や雑誌などのメディアを媒介にして、「世論public opinion」を形成するようになったことを高く評価している。そのように私的利害を起点としながらも、市民全員に対して開かれた討論を通して、市民社会全体の利益を考えるようになった市民たちのネットワークを彼は「市民的公共圏」と呼び、それが近代における新たな公共性として機能することに期待を寄せている。
それに対してアーレント自身は、「社会的領域」において人々が私的利害を中心に、共同で行動するようになったことをかなり否定的に見ている。アーレントにとって、「人間」らしい「活動」はあくまでも、物質的利害関係から切り離されて、討論の技の洗練に専念できるポリス的な「公的領域」においてのみ成立する。「社会的領域」では、自らの利益だと思うものを追求する各人の行動は、次第に均一化していき、「活動」の不可欠の要件である「複数性」は失われる傾向にある。 (p. 104)

アーレントにいわせれば、一九世紀から二〇世紀にかけて、行動心理学や統計学をベースにした社会科学が発達したのは、人々の行動が、「経済」的利害を中心に均一化されるようになったからに他ならない。(p. 106)

「経済」的利害を中心に画一的にふるまうようになった市民たちは、思考停止し、自分にとっての利益を約束してくれそうな国家の行政機構とか世界観政党のようなものに、機械的に従うようになっていく。それはまさに、『全体主義の起源』でアーレントが描き出した、全体主義の母体としての大衆社会の母体としての大衆社会の在り方に他ならない。「社会的領域」が拡大し続ける近代の市民社会は、ほぼ不可避的に大衆社会的状況を到来させることになる。そして大衆社会は、人々が動物の群のように“一体”となって動く全体主義てき体制を生み出す潜在的可能性を秘めている。(p. 107)

アーレント自身、『人間の条件』の中で発達した資本主義社会、大衆社会における人々の非人格化・個性喪失を説明する文脈で、マルクス主義の疎外論を参照している。違うのは、ルカーチ等のマルクス主義者が「労働」のプロセス全体を労働者階級の手に“取り戻す”ことによって疎外を克服しようとしたのに対し、アーレントは、「労働」に市場の価値を置く共産主義社会のようなものを作り出したら、まさにスターリン時代のソ連がそうであったように、組織化された生産体制の下で人々の行動様式がさらに均一化され、疎外=人間性の崩壊がさらに進むと考えた、ということである。(p. 108)

アーレントはむしろ、そうした「人間性」に過剰な期待を寄せるヒューマニズム系の思想をいったん解体したうえで、全体主義に通じる恐れのある「思考の均質化」だけは何とか防ぐというミニマルな目標を追求した控えめな政治哲学者ではないかと私は考えている。(p. 116)

第三章 人間はいかにして「自由」になるか?

アーレントは、各人の自由を、ポリス的な意味での「政治」と一体のものとして考える。単に他人の権利を侵害しないというだけでなく、「政治」や「公共善」に関心をもち、「公的領域」での「活動」の従事することを通して初めて、「自由な人格」として他の市民たちから認められるようになる。単に、誰からも物理的な拘束を受けていないというだけなら、野生の動物と同じであり、それはアーレントにとっての自由ではない。「自由」は、「活動」を通して生み出される、人と人の「間」の空間の中にこそあるのである。(p. 118)

アーレントは、抑圧や貧困からの「解放」を、「自由」それ自体と混同する近代のヒューマニズム思想の根源は、フランス革命にあるという見方を示している。生物的な営みである「労働」を人間の本質と見なすマルクス主義も、フランス革命的な「解放=自由(liberty)」観から生まれてきたわけである。それに対して、「自由」が、「共通善」を共に探求する政治共同体の存在と不可分の関係にあることを見抜き、市民たちの「政治」への参加を重視した市民革命として、アメリカ革命を挙げている。『革命について』は、近代の自由主義を生み出した『近代市民革命』の伝統として通常は渾然一体で理解されているものを、「解放=自由(リバティー)」志向のものと、「自由(フリーダム)」志向のものに区分したうえで、その違いを哲学的に掘り下げて論じたテクストである。(p. 125)

アーレントは、「活動」のためには「偽善」や「仮面」は必要だという立場を取る。“良識あるヒューマニスト”の直感に反するような考え方である。彼女は、「偽善」と「仮面」についての語源的な解説を加えている。「人格」を意味する英語の〈person〉の語源になったラテン語〈persona〉の原義は、古代の演劇で役者(actor)が着用する「仮面」である。「仮面」は当然、その枝梅の中で役者が演じる「役割part」を表示する。先に述べたように、アーレントは、『人間の条件』で、「政治」における「活動action」を演劇における「演技action」と関連づけて記述しており、「仮面=人格」は、「活動」とも意味的に繋がっている。(p. 138)

近代の哲学者が、「人間」存在の根底にある最も本質的なものを追求してきたのに対し、アーレントは「見せかけ=現れ」を重視する。「政治」の本来の場である「公的領域」は、「現れの世界」である。「現れ=見せかけ=仮象」などを意味する英語の〈appearance〉に対応するドイツ語〈Schein〉には、「輝き」という意味もある。各人が、生のままのヒトとして振る舞う私的領域ではなく、「人格」という「仮面」を被って自らの「役割」を演じる「公的領域=現れの世界」に置いてこそ、「人間性」が「輝く」のである。(p. 142)

アーレント的に考えると、問題なのは、公/私の境界線の感覚がどんどん曖昧化して、「心の闇」に押し込めておくべきことが、表出してしまうことであって、「闇」があること自体ではない。「闇」は誰の内にも常にあるのである。(p. 146)

[アメリカの建国の父たちは]旧秩序を破壊して人々を抑圧から「解放」するだけでなく、同時に自分たちで、人々が共に活動することを可能にする新しい「自由な空間」を創設する必要があることを理解していたのである。「建国の父たち」は、「解放」さえすれば、ヒトの“自然本性”に根ざした秩序が“自然”と立ち上がってくるなどとは考えていなかったのである。(p. 152)

「公的領域」での「活動」と、それに基づく「複数性」の増殖という視点から、政治・社会的現象を評価するという姿勢に関してアーレントの議論はかなり一貫している。その視点から「評議会」や「「市民的不服従」をポジティヴに評価するわけだが、それらが特定の党派の目的にのみ奉仕して、裏の――その党派でのみ通用する――論理で動いているように見えるや否や、評価を逆転させて、批判し始める。(p. 161)

第四章 「傍観者」ではダメなのか?

マルクス主義にとって、人々が同じように「労働」することによって、ライフスタイルや価値観を共有し、連帯することのできる共産主義社会はユートピアであるが、アーレントからしてみれば、物質的な利害によって均質化された、非「人間」的な世界である。マルクス主義もアーレントも、個人の「内面」に引き籠もる傾向にある近代「哲学」の硬直性を打破して、「人間」を再発見しようとする批判的姿勢は共有しているものの、肝心の「人間」像が反対であるため、目指しているところは真逆である。(p. 171)

(……)「自由意志」が最初から存在せず、単なる幻想だとしたら、「自由意志」に由来する「責任」という観念も崩壊し、道徳哲学や法哲学が成立しなくなる恐れがある。日本の刑法三九条で心神喪失の者の刑事責任は問えないと定められているが、それは、心神喪失の人は「自由意志」で自分の身体を制御できないと考えられているからだ。「自由意志」がなく、物理的な刺激に対して因果法則に基づいて機械的に反応しているだけだとしたら、機械や動物と同じであるので、「責任」という観念は無意味になる。だから、「自由意志」が欠如しているように見える人は、「責任」を問われないのである。(p. 180)

アーレントは、「共通感覚」と「拡大された思考様式」とを合わせて、「拡大された心性enlarged mentality」という言葉で表現している。「拡大された心性」とは、自分と同じような感覚器官を持ち、同じような思考様式をもっているであろう「他者」を想像し、そのヴァーチャルな「他者」の視点と調和するように、自分の精神の働きを調節する能力である。この「拡大された心性」のおかげで、「私」たちはお互いの考えを伝達し合いながら、共通の価値観や思考様式を形成することができる。(p. 199)

「共通感覚」と、それに根ざした「判断力」を全面的に開化させるには、各人がいかなる物理的制約も受けることなく、自由にコミュニケーションすることができる「公的空間」、更には「公的空間」を舞台裏から支える「私的領域」をも備えた「政治的共同体」が必要なのである。それが、(仲正流に再構成した)カント=アーレントの政治哲学の中心的テーゼである。[判断力→共通感覚→拡大された思考様式→活動→公共性]というラインで、カントの三批判とアーレントの政治哲学、観想的生活(精神の生活)と活動的生活(政治的生活)とが繋がっているのである。やや強引にまとめると、人が独りよがりに陥ることなく、またアイヒマンのような思考停止に陥ることなく、他者の視点から自己の精神の働きをチェックし続けるには、アーレントの意味での「政治」が必要なのである。(p. 203)

直接的には表舞台に加わらない、「観客」が存在し、様々な視点から問題を注視していることによって、「政治」に「複数性」がもたらされるのである。私個人にとっての必然性もないのに、特定の立場にコミットして、無理に積極的なアクターになろうとする必要はないし、アクターになろうとしない人を、安易に卑怯者呼ばわりすべきではない。(p. 211)

一つの国家の中で、すべての市民を巻き込むような大きな政治的出来事が進行している時は、誰も厳密な意味ではその出来事の「外部」に立って、「公平な観客」の役割を果たすことはできない。出来事が終わった後になってようやく、市民たちは「公平な観客」の視点を取ることができるようになる。言い換えれば、政治的共同体=ポリスを構成する市民たちの政治的判断力は、現在進行中の出来事の評価よりも、その共同体が過去に経験したこと、「歴史」の評価において、本領を発揮するのである。哲学者ヘーゲル(一七七〇-一八三一)は、「ミネルヴァ(智恵の女神)の梟は黄昏になってようやく飛び立つ」という有名な格言を残しているが、これはアーレントの「市民=観客」論にそのまま当てはまる。(p. 211)

『カント政治哲学講義』のある個所でアーレントは、(「活動的生活」の裏面としての)「観想的生活」を「注視者的な生き方(spectator’s way of life)」と読み替えている。「注視者=観客」として、「歴史」を公平=非党派的に注視し、判定しようとするまなざしが、孤独に陥っていく傾向のある「私の思考」を、政治的共同体を構成する他者たちのそれと結びつけ、かつ、その共同体を存続させているのである。(p. 213)

終わりに  生き生きしていない政治

(……)彼女が古代のポリスをモデルとして再発見した「政治」は、私たちが通常“政治”だと思っているものと大きく異なっている。彼女の「政治」には、経済的・社会的利害の追求、支配/被支配、暴力といった要素は含まれていない。むしろ、それらの物質的な要素を超越した、言語を介しての人格間の相互作用=「活動」にこそ、「政治」の本質があると彼女は考える。(p. 216)

前期のアーレントにおいては、「活動」は、内面的な世界に引き籠もっての「思考」と対比されていたが、後期のアーレントにおいては、「政治」と「活動」はむしろ「観想的生活=精神の生活」と密接に結びつけられている。「滑動者=演技者」として「公衆」の前で自己主張し、パフォーマンスすることだけでなく、少し離れた位置から「観客」として事態を「公平=非党派的」に判定する能力を身につけることも、アーレント的な「政治」の重要な要素である。(p. 217)

アーレントは『全体主義の起源』によって“反全体主義(=自由)の闘士”としてアメリカの思想論壇に登場し、大きな期待を受けたわけだが、彼女は、「人間の自然な本性」をナイーヴに信じ、抑圧からの「解放」によって、人間本性が開化すると楽観的に考える当時の思想界の風潮に逆らった。彼女の「政治」哲学からすれば、右であれ左であれ、「人間の自然な本性」を一義的に規定し、人民を最終的な「解放」へと導こうとするような思潮は、「複数性」を破壊し、全体主義への道を開くものに他ならない。そうした「人間の自然な本性」に対する過剰な期待、幻想に抵抗して、「複数性」を回復すべく、彼女は「政治」「人間性」「自由」の意味するところを、哲学的に掘り下げて考えようとしたのである。(p. 219)

 (2011/12/6)