仲正昌樹 |
序論 「アーレント」はどういう人か? アーレントは、一つの世界観によって、不安に駆られた大衆を何らかの理想へと「導く」かのような姿勢を見せる政党を、マックス・ウェーバーに倣って「世界観政党」と呼び、その典型がナチスやボリシェヴィキ(ソ連共産党)だとしている。(p. 16) 『全体主義の起源』(一九五一)は、(……)「全体主義」を、西欧近代が潜在的に抱えてきた矛盾の現われとして理解することを試みる著作である。「全体主義」は、前近代的な野蛮の現われではなくて、むしろ西欧社会が近代化し、大衆が政治に参加する大衆民主主義社会になったことに起因する問題だと見たわけである。(p. 33) |
陰謀論的な物語というのをもう少し広い意味で取ると、自分の政策に反対する者たちを全部ひっくるめて「抵抗勢力」と名指しして、それを打倒することが、日本の経済を立て直し、明るい未来を切り開くことに繋がると主張して、人気を集めた小泉元首相等の種hごうもそれに含めることができるかもしれない。その逆に、小泉元首相や竹中平蔵元経済財政政策担当大臣、財界首脳などから成る「新自由主義者」たちが、市場原理主義的な“改革”の犠牲者であるはずの若者たちを「改革」とか「自己責任」「愛国心」などのマジック・ワードで洗脳して、現実を見させないようにし、戦争に向けて動員しようとしている、と主張する左派の言説も、かなり陰謀論的である。(p. 56) |
第二章 「人間本性」は、本当にすばらしいのか? ドイツで人文主義的な教育を受けて哲学で博士号を取り、古典文学や古代の哲学に造詣の深いアーレントは、当然のことながら、「フマニタス」的な「人間」観の影響を強く受けていた。そして、(彼女の師であったハイデガーを含めて)戦前のドイツの知識人たちの大半は、フマニタス的な強要を身につけ、西欧的な「人間性」の理想を信奉していたはずである。しかし彼らは結果的に、ナチズムの「人間本性」破壊に加担することになった。「ヒューマニズム」の伝統は、ナチズムの野蛮に対する防波堤にはならなかった。アーレントは『人間の条件』を通して、西洋的な「人間」観の根底にあった「フマニタス」的なものを、その起源にまで遡って明らかにしようとしたのである。(p. 75) |
アーレントの影響を受けながら、独自のコミュニケーション理論を展開した現代ドイツの社会哲学者ユルゲン・ハーバーマス(一九二九-)は、近代市民社会においてそれぞれの商売上の利益を追求する――基本的には自己中心的な--市民たちが、公権力=絶対主義国家による専制支配に対抗するため、読書サークルや喫茶店などで意見交換を行い、新聞や雑誌などのメディアを媒介にして、「世論public opinion」を形成するようになったことを高く評価している。そのように私的利害を起点としながらも、市民全員に対して開かれた討論を通して、市民社会全体の利益を考えるようになった市民たちのネットワークを彼は「市民的公共圏」と呼び、それが近代における新たな公共性として機能することに期待を寄せている。 |
第三章 人間はいかにして「自由」になるか? アーレントは、各人の自由を、ポリス的な意味での「政治」と一体のものとして考える。単に他人の権利を侵害しないというだけでなく、「政治」や「公共善」に関心をもち、「公的領域」での「活動」の従事することを通して初めて、「自由な人格」として他の市民たちから認められるようになる。単に、誰からも物理的な拘束を受けていないというだけなら、野生の動物と同じであり、それはアーレントにとっての自由ではない。「自由」は、「活動」を通して生み出される、人と人の「間」の空間の中にこそあるのである。(p. 118) |
「公的領域」での「活動」と、それに基づく「複数性」の増殖という視点から、政治・社会的現象を評価するという姿勢に関してアーレントの議論はかなり一貫している。その視点から「評議会」や「「市民的不服従」をポジティヴに評価するわけだが、それらが特定の党派の目的にのみ奉仕して、裏の――その党派でのみ通用する――論理で動いているように見えるや否や、評価を逆転させて、批判し始める。(p. 161) 第四章 「傍観者」ではダメなのか? マルクス主義にとって、人々が同じように「労働」することによって、ライフスタイルや価値観を共有し、連帯することのできる共産主義社会はユートピアであるが、アーレントからしてみれば、物質的な利害によって均質化された、非「人間」的な世界である。マルクス主義もアーレントも、個人の「内面」に引き籠もる傾向にある近代「哲学」の硬直性を打破して、「人間」を再発見しようとする批判的姿勢は共有しているものの、肝心の「人間」像が反対であるため、目指しているところは真逆である。(p. 171) |
一つの国家の中で、すべての市民を巻き込むような大きな政治的出来事が進行している時は、誰も厳密な意味ではその出来事の「外部」に立って、「公平な観客」の役割を果たすことはできない。出来事が終わった後になってようやく、市民たちは「公平な観客」の視点を取ることができるようになる。言い換えれば、政治的共同体=ポリスを構成する市民たちの政治的判断力は、現在進行中の出来事の評価よりも、その共同体が過去に経験したこと、「歴史」の評価において、本領を発揮するのである。哲学者ヘーゲル(一七七〇-一八三一)は、「ミネルヴァ(智恵の女神)の梟は黄昏になってようやく飛び立つ」という有名な格言を残しているが、これはアーレントの「市民=観客」論にそのまま当てはまる。(p. 211) |
終わりに 生き生きしていない政治 (……)彼女が古代のポリスをモデルとして再発見した「政治」は、私たちが通常“政治”だと思っているものと大きく異なっている。彼女の「政治」には、経済的・社会的利害の追求、支配/被支配、暴力といった要素は含まれていない。むしろ、それらの物質的な要素を超越した、言語を介しての人格間の相互作用=「活動」にこそ、「政治」の本質があると彼女は考える。(p. 216) (2011/12/6) |