ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <書 抜き書きメモ34>

大澤真幸
美はなぜ乱調にあるのか
――社会学的考察
青土社、2005年

序 美における乱調 芸術と社会学


I 視覚の近代史

〈精神=身体〉のパースペクティヴ

二つの技法[写真と印象派]の対立的な性格は、「遠近法」を準拠においてみると、ただちに見えてくる。写真は、「リアリズム」の一形式であって、遠近法からの直接の単純な発展の上にある装置に見える。それは、やがて映画へとつながっていく。他方、印象主義は、それまでの主流の視覚のモデルである遠近法からの明白な離脱を画した、最初の運動であると、一般に認定されている。それは二〇世紀の前衛美術の直接の祖先である。(p. 20)

遠近法をまさに遠近法たらしめているのは、視点の厳密な単一性である。視点、つまり眼は、区間的に単一であると同時に、時間的にも単一であった。つまり、それは、時間的な厚みをもたない不動点として仮定されていたのである。(……)しかし、このような単一の視点からとらえた像が、実際の視像と一致するということは、単純に考えてみただけでも、明らかに間違っている。(……)にもかかわらず、遠近法が正確な視像の再現であると見なされたのは、もちろん、それが「制度」だからである。 (p. 24)

単一的な視点の存在が含意していることは、遠近法的な態度において、対象がまさにそれに対して現前しているような、視る作用の帰属先が、個体の身体の最奥の一点に凝縮している、ということである。視線の帰属先は、いかなる空間的な拡がりも指定できない、たった一つの点なので、どこまでも個体の内部にとどまり続けることになる。延長性をもたないのに個体の内部にあるとされる、志向作用――この場合には視る作用――の担い手とは、その非空間性に反して、一般に「内面」と比喩的に呼ばれている領域にほかならない。遠近法とは、この内面から、――デューラーの定義に述べられているように――〈好かして見る〉ことなのである。 (p. 25)

パノフスキーは、「古典古代の芸術は、純粋な立体芸術であった。」と論じている。古代においては、「物体」と「(諸物体間の)空隙」とは質的にまったく異なるものと見なされており、前者のみが見られる対象であり、後者は取り残された残余として、消極的な意義しかもっていなかった。つまり、物体と空隙とをともに同じ「空間」と位置づける見方が欠落していたのだ。 (p. 28)

 遠近法が可能であるためには、単一的な視点のほかに、もう一つの別の視点が必要なのである。「もう一つの視点」とは、空間を均質的な全体として把握する視点である。空間の内部に特異性を構成せずに、全体に均等に関与できる視点とは、どこになくてはならないか。もちろん、それは無限遠点である。 (p. 30)

空間内属的な視点から奪われている能動性を占有しているのは、もう一つの外的な視点だということもできるだろう。その視点が、遠近法の中心となる視点が作動するための条件を完全に準備する。そうであるとすれば、空間に内属する視点に対して、超越(論)的なものだと、いうことができるだろう。経験の可能性の条件を提供するものである、という意味合いにおいて。 (p. 31)

 遠近法は、世界の内部のただひとつの点を特権化する。もちろん、それが(世界にない属した)視点である(そして、この特権化の反作用として、他の部分を平等化するわけだが)。この特権化の方法において、カメラ・オブスキュラは、より徹底している。あるかないかの小さな穴によって、外部と内部を分かつカメラ・オブスキュラは、見るものの座を、自余の外部から明白に切断するからである。 (p. 33)

 カメラ・オブスキュラのモデルは、身体を単に個体化するだけではない。それは、身体を、いわば脱身体化してしまうものだ。つまり、身体の固有の能動性を、徹底的に消去してしまうのである。
 (……)見る営みは、もはや、直接の身体の働きから不関与な理想化されたモデル(機械)をもつことになるからだ。単純な遠近法においては、それでも、見る作用は、直接の身体に最終的には担われていたのだが。 (p. 35)

リチャード・ローティに啓発されながらコレーリーが述べているように、デカルトにとっては、知覚は、外的な世界の観察であるよりも、精神による(自己)探査である(Rorty, Richard 1979 Philosophy and the Mirror of Nature, Princeton Univ. Press, 49-50, Crary, Jonathan 1990 Techniques of the Observer: On Vision and Modernity in the Nineteenth Century, The MIT Press, 43)。人は世界を、ただ精神による知覚を通じて知るのであり、空虚な孤立した空間(カメラ・オブスキュラのような)の内部に自己をしっかりと位置づけることは、外的な世界を知るための前提条件となる。
 (……)[フェルメールが描いた]天文学者も地理学者も、外的な世界の探求を使命としている。しかし、外的な世界は、感覚器官によって直接に探査することで知られるわけではない。そうではなく、部屋の内部で、判明な表象(天球儀や海図)を精神によってサーヴェイすることによってこそ、外部の世界は知られることになるのである。 (p. 36)

カメラ・オブスキュラによって隠喩的な表現を与えられる個別の視覚や個別の認識が諸事物の秩序の普遍的な空間(タブラ・サラ、世界図、タブロー)に直面し、そこにおいて比較や区別を行っていると想定されているのは、個別の視覚や認識に先だって、その普遍的な空間を措定する超越的な視覚や認識が、(潜在的に)仮定されているからだ(……)。(p. 41)

経験的な人間の眼と超越的な眼(神の眼)との関係は、カメラ・オブスキュラとそれを観察する人間の眼との関係に等しい。カメラ・オブスキュラとして視覚を外化したとき、神の眼の座を、不可避に人間が占拠することになるのだ。しかし、その人間の視線を、(カメラ・オブスキュラを使って)対象化しようとすると、その時には、必然的に、「神の眼を占めるもの」としてのその性格は消え去り、単なる経験的な受動的な視線に陥っていく。神の眼(超越的な眼)と人間の眼(経験的な眼)とは、決して同時化されないが、しかし、潜在的には交錯しているのである。 (p. 43)

(……)視覚と精神のカメラ・オブスキュラ・モデルは、王の二つの身体についての教説が完成し、社会的な実効性を保持していた、同じ時代に流布している、ということである。われわれは、カメラ・オブスキュラのモデルが、経験的な領域から分離された超越的な視線の存在を前提にしているということを確認してきた。それは、自然的身体か分離された政治的身体の在り方と等しい。政治的身体は、自然的身体という経験的な痕跡をのこすことによって、実在性を確保できる。それが、超越的な視線の「消極的な」実在性にちょうど対応している。 (p. 45)

ここで、われわれは、地図は、無限遠からの――無限遠の上空からの――像に合致することに注意しよう。つまり、地図こそは、超越(論)的な視点から捉えたときに立ち現れるはずの均質空間の像にあたるのだ。そうだとすると、超越(論)的視点に対する像と経験的視点に対する像とを、ともに絵画の中に明示的におさめようと画家が努力した場合に、しばしば、地図が描かれることになる、と推論できるのではないか。「地図」は、そのタブローに描かれた遠近法的な表象が可能になるための、超越論的な条件を提示しているのだ。(p. 50)

(……)超越論的視点と、それが可能にする経験的視点とを、同一のものとして統合しようとする、強烈な願望があるのだ。ここでは、前者の視点が、このタブローを制作する画家ないよって、後者の視点が、タブローに描かれた画家によって、それぞれ代表されていることになる。しかし、古典主義時代は、こうした統合に成功せず、むしろ逆に、両者が異なる分離された層であることをこそ示している。 (p. 56)

 さて、今や、次のように結論することができる。一九世紀の初頭に視覚についての新しい理論が、カメラ・オブスキュラの比喩を放棄したときに発見していた事柄は、見る(経験的な)身体の主体性である、と。ゲーテやショーペウハウアーが認識していたことは、対象を何物かとしてみるということが、見る(経験的な)身体に能動的な選択の作用を帰属させることができる出来事だということである。見る身体が、見るということを能動的・選択的に構成する主体的なものとして発見されたのである。 (p. 66)

 もし、経験的な視覚が主体的なものであり、自分自身の可能性の条件をトータルに与えるような超越(論)的な選択をも含意しているのだとすれば、原理的には、視覚は社会的な規範やそれと相即して作動する権力の制約に対しても超越しうるはずだ。実際、一九世紀の画家たちは、このような規範的な制約に毒されていない「無垢な視線」を、あからさまに要求している。 (p. 73)

印象派以前の絵画は、主として、事物には、それぞれ、それ本来の「固有色」があるとする理解に基づいて描かれている。それに対して、印象派は、事物に付着した固有色などはなく、事物の色と見えるものの主要な規定要因が光であること――とりわけ太陽の光であること――に自覚的であった。印象派は、事物の色を構成する光そのものを、画面の上に定着させようとしたのである。 (p. 74)

印象派の固有性は、光という超越(論)的条件を、経験的な視覚の対象としたところにある。このことを徹底させれば、見るという経験の前提になるべき超越(論)的条件自身が、経験的で能動的な(視覚による)構成の作用の所産である、と見なすところまで到り着くだろう。実際、色の混合を網膜の活動に委ねたとき、印象派は、このような地点に立っていたのである。 (p. 75)

印象主義の絵画は、超越的な視点と経験的な視点との重合としてみる身体の主体性が確立したのに応じて生ずる衝動に基づく絵画表現なのだ(……)。 (p. 76)

それら[写真と印象派の絵画]は、どちらも、「特定の現在」の現在性を永遠化するものだと言うことができる。変化していく対象のある一瞬を対象として選ぶことで、それが「特定の現在」であることが強調される。ここには、ある視点が、経験的であると同時に超越(論)的であることの交錯が、一挙に表現されているのである。経験的な視点である以上は、それは、特定の現在に内属しているほかない。他方で、超越(論)的な視点は、世界の時間的・空間的な拡がりを同時的に捉えることができる視点であり、無時間的な秩序に属している。この両方の要請を一緒に満足させようとすれば、特定の現在をそれ自身で無時間的な永遠性の相で提示するしかないだろう。 (p. 80)

[ベネディクト・]アンダーソンによれば、傑作であるか否かにかかわらず、標準的な小説は、ある一つの語によって集約されるような独特の技術によって、特徴づけられているという。それは、「この間meanwhile」という語を用いて、異なる出来事の間の同時性を提示する技術である。小説は、「『この間』という言葉についての複雑な注釈」だということすらできる(Anderson,Benedicy 1983 Imagined Communities, Verso.=白石隆・白石さや訳『想像の共同体』、リブロポート、44)。 (p. 83)

 主体性は、逆投射の始発点となるべき実体的な超越性の存在を不可避の前提としている。しかし、逆投射の過程は、その前提であるべき超越性の存立そのものを浸食するはずだ。この過程の極限には、当然、完全に超越的な他者を欠いた世界が待っているだろう。この帰結は何か? もちろん、このとき、視覚を主体化する機制は、もはや発動しない。のみならず、このとき、身体の個体としての同一性すらも危険に陥るだろう。視覚に関してわれわれが想定してきたように、身体が内的に他者性を孕む傾向性を有すると考えてみよう。その他者性は、超越的な存在へと投射されることによって、除去され、改めて身体の個人としての同一性が再措定されるのである。そのような投射の宛て先を欠いたとき、身体は、それ自身、自らを否定する根本的な差異(他者)と直接に等置され、その同一性を無化せざるをえないだろう。 (p. 107)


二人の天使 『複製技術時代の芸術』再論

複製技術以前のオリジナル作品が有するアウラに関して、ベンヤミンは、こう述べている。「いま、ここにあるという事実が、その〔オリジナルの〕真正性の観念を形成している」のだ、と。ここには、すでにひとつの洞察が含まれている。アウラ、すなわち作品が醸し出す、作品の内容的な同一性の内に解消しがたい「それ以上の何か」、何ともいえない超越的な崇高性は、作品の置かれた「いま、ここ」に依存して派生しているという洞察が、である。端的に言えば、アウラを生み出しているのは、作品=対象が置かれている場所なのである。(p. 115)

芸術作品の芸術作品としての所以は、道具連関の内に、その同一性を還元しつくすことができない、という過剰性にこそ由来している。 (p. 116)

便器が芸術作品になるのは、それが適切な場所を占めているからなのだが、それが適切な「場所」となるのは、他ならぬその「便器」の現前そのものによるのだ。この場所と対象(芸術作品)との同時分節性は、ベンヤミンのアウラに関する規定の内にも、含意されている。先に引用したように、ベンヤミンによれば、オリジナル作品のアウラは、それが「いま、ここにあるという事実」に根拠をもっている。ここで、アウラが、「いま」と「ここ」という最も基本的な――空間と時間をめぐる――シフター(話者によって指示対象が変わる語)によって定義されている点が重要だ。これらの語は、個物としての対象(作品)を指し示すと同時に、間接的には、その個物が置かれている場所を、その個物の「近傍」として指し示しているからだ。(p. 117)

芸術作品は、超越的なものがあるべき空白の場所を、首尾よく占めることができたときに、まさにアウラを帯びた礼拝物として構成されるのである。 (p. 119)


工芸的な過剰としての美術

道具的内見において規定される事物の本質存在essence――事物が経験にとって何物かであるということ――に、事物の事実存在existence――その事物があるということ――を解消し尽くすことはできないのである。この結論は、さまざまな方途で、たとえばソール・クリプキの固有名に関する有名な議論の含意として、弁証することができる。クリプキが示したことは、固有名を個体の性質についての記述に置き換えることはできない、ということである。 (p. 138)

対象がそれぞれの固有な現前性において表現を構成しつつ、まさにその現前性を否定し、その現前性の彼方の実体の存在を肯定する屈折を産み出すに至ったとき、その対象は、美術作品として成立することができる。それは、それぞれに特殊な現前の形式を直接提示することにおいて、現前を超越した事物の次元を間接提示するわけだ。
美術(芸術)作品は、だから、必然的に、外的な目的に奉仕する対象としては現れない。外的な目的に奉仕している限りでは、事物は、常に特有な性質の現前においてしか、関心の対象とはなりえず、その彼方を示唆することはできないからだ。 (p. 140)

美術(芸術)が工芸よりも格が高く見える根本的な理由は、ここにある。述べてきたような超越的な事物の次元(内在的な合目的性)は、諸性質の現前の次元(外在的な合目的性)にとって、論理的な前提になっているのであり、存在の仕方として、より本源的なのである。すなわち、諸性質が現前するためには、諸性質が帰属させられる無内容な抽象的個体それ自身(物自体)の存在が、前提になる。美術(芸術)作品は、この本源的な次元に表現を与えようとする試みなのだ。要するに、美術/工芸の間の価値的な序列は、存在の在り方の論理的な位階を反映しているのである。 (p. 140)

美術作品は、経験的な現前を超越した物自体を表現しなくてはならない。それは、不断に、ある相剋に直面せざるを得ない。美術作品は、それ自身、一個の経験的な対象でもある。だから、それは、経験的に現前している諸性質の複合へと解消されようとする傾向に抗して、自身を定礎しなくてはならない。その最も効果的な方法は、経験的な現前の可能性を、端的に否定してしまうことで、決して現前しない領域として、自らが表現する真の対象を措定することである。 (p. 143)

 現象のそれ自身に対する過剰性を、超越的な事物の事実存在へと転倒させず、それ自身として直接に肯定するということは、積極的な同一性をもって現前する諸事物の(本質)存在の「地」の部分を享受することである。存在の「地」とは何か? それは、「自然(性)(ピュシス)」の領域である。
(……) 自然(性)とは、人為的な選択に統御されない自発的な生成性である。事物は、それが現象せしめるどのような本質によっても規定されつくさない、という過剰性は、(人間に所属する選択から疎遠な異和的な場所で)不断に変容する生成性として、つまり自然(性)として現れるほかない。(p. 146)

ハイデガーに従いつつ付け加えておけば、ニーチェの「力への意志」は、自然(性)の生成性をあらためて復活させようとする試みだったのである。(p. 147)

 さらに、生成性をそのものとして純粋に抽出しようとすれば、それは「時間」という形式を取るだろう。(……)時間は、現象の過剰性が、現象を担う超越的な事物の(事実)存在へと実体化されたときに、その反作用のようにして産み出される。時間は、現前する現象の過剰性を、超越的な事物の積極的な存在の内に還元しようとしてもなお解消されつくさない残滓なのである。つまり、時間は、現象の規定不能な過剰性が最終的に取る形式であり、それを還元しようとする態度がどうしても支払わなくてはならない補償である。時間を現象の過剰として表現しようとする、ほとんど不可能な試みは、芸術の領域を、工芸という在り方の内在的な自己否定性の方に還元させる作業と同時進行していくはずだ。 (p. 148)


闇 描くことの条件


II 映画と連帯主義の逆説

連帯と愛の特異な可能性 ロブ・ニルソン

私は私ではない ジョン・カサヴェテス

理想自我徒事が理想とは、自己の同一性(アイデンティティ)が構成される際に動員される、二種類の規範的な理想性を表現している。理想自我Idealichとは、――あらためて定義しておけば――自己にとって、好もしく、かつまさにそのようになりうるものとして現れているがゆえに同一化の対象となっているような(他者)像のことをいう。理想自我を定義している条件は、理想性と模倣可能性である。しかし、理想自我への同一化ということによってのみでは、自己同一性(アイデンティティ)は獲得されない。模倣の対象となる理想自我の理想性はアプリオリに決定されているわけではないからだ。それゆえ、規範的な政府の判断を構成するような超越(論)的な純拠点が必要になる。自我理想Ich-Idealとは、この超越(論)的な準拠点のことである。それは、自己が、そこから観察され、規範的な位置が観察されるような視点を構成する。自己同一性の確立のためには、誰でも、このような視点を我が物にしなくてはならない。(……)自我理想に対応した理想性は、超越(論)的なものなのである。理想自我は、模倣可能性によって、それゆえ自己との本質的な類似性を基礎にして、機能する。それに対して、自我理想が、超越(論)的な準拠として機能できるのは、自己にとって、模倣不可能・実現不可能なものとして与えられている場合に限られる。言い換えれば、自我理想の理想性は、自己の現実との懸隔によって意味を獲得するような理想性なのである。 (p. 177)

ところで、死んでいるものの殺害という冗長な反復を、われわれは、少なくとも一例は知っている。キリスト(神)の殺害がそうである。神は、その抽象的な超越性のゆえに、ことの初めから死んでいる、ということができる。キリストという神の殺害は、そのすでに死んでいる物に再び死を与えることである。(p. 179)

キリスト(神)の死は、神の消滅ではなく、それ自身、新たな神の形式であった。(p. 181)


Ghost in the Patlabor  押井守

(……)映画に反映している「現実」をなぞるだけであれば、戦争やテロについて、何か深いことがわかるわけではない。虚構(フィクション)を経由することなく、直接に「現実」を見て、解釈すればよいのだ。しかし、ここで立ち止まって考えてみなくてはならない。虚構がいかにも現実にありそうな構成をとっているときには、かえって警戒しなくてはならないのだ。そのとき、しばしば、虚構は現実を透明に映し出すどころか、逆にかえって、何かを――真の現実を――隠す遮蔽幕として機能しているからである。 (p. 186)

この映画〔『攻殻機動隊』〕でGhostとよばれているものは、われわれが通常、「魂」と呼んでいるもののほぼ等しいだろう。それは、ある個人をまさに生ける固有の個人たらしめている根拠、〈私〉を〈私〉たらしめている根拠である。しかし、それに、”Ghost”という独特の名称が与えられているときに前提になっている感覚は、〈私〉に〈私〉としての固有性を与えるそれが、〈私〉にとってどうしようもなく外在的なものとして感じられるということではないだろうか。コンピュータ化され、ネットに直接につながっている脳(電脳)とか、人工的に作られ、取替え可能な身体部分としての義体とか、さらには、「人形」といった、ときにはSF的な諸アイテムに訴える誇張によって、何とか表現しようとしていることは、〈私〉であることの、〈私〉の存在の、〈私〉自身に対する外在性の感覚であるように思える。 (p. 191)

 だが、”Ghost”という名を「魂」に与えるときの感覚は、〈私〉が考えているとき、〈私〉が感じているとき、〈私〉が見ているとき、〈私〉が「ここ」ならざる他所(幽霊)に(も)存在しているという感覚である。 (p. 192)

考えたり、見たりする作用が、「ここ」だけではなく、「そこ」にも帰属していると感受されるとき、重要なことは。「そこ」はまさに「そこ」と呼ぶべき距離を保ったままでいるということ、「ここ」にいる〈私〉からは絶対に到達しえない〈他者〉であるということ、この点にある。言い換えれば、「そこ」にいるところのもう一つの〈私〉=〈他者〉は、「ここ」にいる〈私〉に対しては消極的にしか現れない。〈他者〉は、「ここ」の〈私〉によっては対象化して把握されえず、〈私〉がついに到達(認識)しえないという限界によってしか存在を直感できないのだ。 (p. 193)

この〈私〉の魂を直接に植民地化し、〈私〉を操り人形にしてしまうような他者は、規範の妥当性を保証している超越的な他者――つまり「第三者の審級」――が崩壊したときに登場する(蓋然性がある)のではないか。第三者の審級は、〈私〉に対して、超越的な距離を保ちつつ、〈私〉を支配する。つまり、第三者の審級は、〈私〉に対して選択の自由度を残しつつ、そして反抗したり、密かに侵犯したりする自由をも残しつつ、支配するのだ。それに対して、第三者の審級の権威が崩落したときに生ずる危険は、密着性によって〈私〉を支配する超越的な他者の登場である。それは、いかなる自由の余地も残さず窒息しそうな閉塞の中で〈私〉を操り人形のように支配する他者だ。(p. 194)

『パト2』の空想は、それゆえわれわれが「現実」を了解するときの図式や枠組みは、もっと恐ろしい〈現実〉を隠蔽しているのではないか。恐ろしい〈現実〉とは、現代社会を集団的に襲っている自己意識の矛盾、〈私〉が内的に分裂し、〈私〉が内側から簒奪されているのではないかという不安だ。われわれは、〈私〉を内側から植民地化している他者を、外部に投射し、テロリストや外敵と見立てているだけなのかもしれない。そうだとすれば、軍備を整えたり、セキュリティを強化したとしても、絶対に、われわれの困難は解消しないだろう。 (p. 195)


III 音楽と合理主義の逆説

突然の転調 モーツァルトの弦楽五重奏曲ト短調

まさに短調であることがその存在理由であるようなこの作品は、しかし、最も肝心な部分で長調へと劇的に転調する。すなわち最終楽章はト短調のアダージョで始まりながら、突如として明るく単純なト短調のアレグロに転換してしまうのである。アンリ・ゲオンなどは、「モーツァルトの気まぐれ」とこの転調を厳しく批判している。だが短調のあまりにも深い哀感から、きわめて表層的な印象を与える長調の楽想への転換は、それ自身、固有の感動を与える。 (p. 199)

 モーツァルトの長調は、「鳥」のイメージである。彼の飼っていた鳥はト長調で鳴いたという。鳥は、自由に動こうとする生命であり、また超越的な高みにおいて飛翔するものの象徴である。他方、短調が表現しているのは「死」である。 (p. 200)

(……)短調は、生の経験的な内在性を、モーツァルトが希求したような高次の超越性へと接続することの表現なのだ(……)。高次の超越性は、古典派的な音楽の完成には、どうしても必要だったに違いない。だが、経験的な生とこの超越性との接続には、どうやら、「死」を連想させるような逆立が孕まれているらしい。この逆立が短調を要請するのだ。短調が媒介した超越性を、まさにその高みにおいて提示すれば、長調の重厚な響きを得る。だが、生の内在性を、超越への逆立を孕んだ接続という課題から解放し、直接に表現してしまうこともできるはずだ。思うに、弦楽五重奏曲ト短調の最終部の転調は、それまで、超越への苦渋に満ちた上昇が課せられていた音楽が、突然、その任を解かれ、ちょうど籠から放された小鳥のように自由に飛び跳ねていく瞬間なのだ。この曲が、古典派的な緊密な調和を表現する弦楽四重奏ではなく、そこに異和を混入させた弦楽五重奏であるということが、このような自由な逸脱への可能性を示唆している。(p. 201)

合理化の反転像としての現代音楽 

他者とは、原理的には、架橋不可能な絶対の差異である。つまり、他者とは、より上位の包括的な同一性の水準に下属させることができない差異である。このような他者の他者性の要件である「純粋な差異」として顕現する限りでの他者を、〈他者〉と表記しよう。(……)〈他者〉(たち)の絶対の差異性を言わば跳躍板と利用して、「超越的な他者=第三者」を擬制し、これをもって経験の可能性の一般的な条件――つまり先験的な条件――として作動させる一連のダイナミズムが存在している(このダイナミズムが、同時に、〈他者〉の他者性を背景化する機制でもある)。表現としての規範性は、行為が創出した事象のあり方・配置を、こうして生成される超越的な第三者の選択性に帰属するものとして定位することができたときに、まさにその事象のあり方・配置の内に孕まれるのである。つまり、行為がもたらす事象の特定のあり方が、超越的な第三者の帰属する選択に従うものとして――つまり超越的な第三者に肯定的に承認されている様態として――現象しているとき、一個の表現として機能するのだ。 (p. 210)

 一九世紀から二〇世紀の初頭にかけての西洋音楽の展開は、先にも述べたように、主観性=主体性を備えた個人の集合として社会構造が構築されたことの、音楽の上での反響であった。実は、二〇世紀の終盤の音楽の内に見出される以上のような変容は、一九世紀以来の近代という社会の基盤であった主観性=主体性が、その内的な逆説生のゆえに被りつつある変質を、きわめて先鋭な形で映し出しているのである。音楽と同じように、現代の社会もまた、自らの否定的条件――を媒介にして、それを新たな可能性の条件へと転換することで持続しているのだ。音楽は、その社会の論理の骨格を、代表しているのである。(p. 216)

IV スポーツと資本主義の逆説

サッカーと資本主義

中村〔敏雄〕によると、サッカーの起源は、前近代的な共同体の祭でもあったマスフットボールである。それは、村全体を競戯場とする村人全員参加のゲームであり、一点先取で決着が付いた。一方のチームが一点を取れば、祭そのものが終わってしまう。つまり、祭を長く楽しむためには、得点は遅いほどよい。オフサイドは、この精神を受け継いでいる。それは、得点への過程を引き延ばすためのルールだったのである。(p. 222)

 ウォーラーステインは、資本主義化の速度に驚くべきではなく、資本主義尾は誕生して何百年も経ているのに、完全には資本主義化していない地域があるということにこそ驚かなくてはならない、と述べている。つまり、資本主義化の遅さこそ驚異だと。資本主義は、必ず、相対的な後進部分を残す。先進部分と後進部分の落差こそ、利潤の源泉だからだ。サッカーは、資本主義を――その後進性において――代表しているのだ。 (p. 223)


イチローの三振する技術

 

 

 (2011/12/9)