大澤真幸 |
序 美における乱調 芸術と社会学
〈精神=身体〉のパースペクティヴ 二つの技法[写真と印象派]の対立的な性格は、「遠近法」を準拠においてみると、ただちに見えてくる。写真は、「リアリズム」の一形式であって、遠近法からの直接の単純な発展の上にある装置に見える。それは、やがて映画へとつながっていく。他方、印象主義は、それまでの主流の視覚のモデルである遠近法からの明白な離脱を画した、最初の運動であると、一般に認定されている。それは二〇世紀の前衛美術の直接の祖先である。(p. 20)遠近法をまさに遠近法たらしめているのは、視点の厳密な単一性である。視点、つまり眼は、区間的に単一であると同時に、時間的にも単一であった。つまり、それは、時間的な厚みをもたない不動点として仮定されていたのである。(……)しかし、このような単一の視点からとらえた像が、実際の視像と一致するということは、単純に考えてみただけでも、明らかに間違っている。(……)にもかかわらず、遠近法が正確な視像の再現であると見なされたのは、もちろん、それが「制度」だからである。 (p. 24) 単一的な視点の存在が含意していることは、遠近法的な態度において、対象がまさにそれに対して現前しているような、視る作用の帰属先が、個体の身体の最奥の一点に凝縮している、ということである。視線の帰属先は、いかなる空間的な拡がりも指定できない、たった一つの点なので、どこまでも個体の内部にとどまり続けることになる。延長性をもたないのに個体の内部にあるとされる、志向作用――この場合には視る作用――の担い手とは、その非空間性に反して、一般に「内面」と比喩的に呼ばれている領域にほかならない。遠近法とは、この内面から、――デューラーの定義に述べられているように――〈好かして見る〉ことなのである。 (p. 25) パノフスキーは、「古典古代の芸術は、純粋な立体芸術であった。」と論じている。古代においては、「物体」と「(諸物体間の)空隙」とは質的にまったく異なるものと見なされており、前者のみが見られる対象であり、後者は取り残された残余として、消極的な意義しかもっていなかった。つまり、物体と空隙とをともに同じ「空間」と位置づける見方が欠落していたのだ。 (p. 28) 遠近法が可能であるためには、単一的な視点のほかに、もう一つの別の視点が必要なのである。「もう一つの視点」とは、空間を均質的な全体として把握する視点である。空間の内部に特異性を構成せずに、全体に均等に関与できる視点とは、どこになくてはならないか。もちろん、それは無限遠点である。 (p. 30) 空間内属的な視点から奪われている能動性を占有しているのは、もう一つの外的な視点だということもできるだろう。その視点が、遠近法の中心となる視点が作動するための条件を完全に準備する。そうであるとすれば、空間に内属する視点に対して、超越(論)的なものだと、いうことができるだろう。経験の可能性の条件を提供するものである、という意味合いにおいて。 (p. 31) |
遠近法は、世界の内部のただひとつの点を特権化する。もちろん、それが(世界にない属した)視点である(そして、この特権化の反作用として、他の部分を平等化するわけだが)。この特権化の方法において、カメラ・オブスキュラは、より徹底している。あるかないかの小さな穴によって、外部と内部を分かつカメラ・オブスキュラは、見るものの座を、自余の外部から明白に切断するからである。 (p. 33) |
ここで、われわれは、地図は、無限遠からの――無限遠の上空からの――像に合致することに注意しよう。つまり、地図こそは、超越(論)的な視点から捉えたときに立ち現れるはずの均質空間の像にあたるのだ。そうだとすると、超越(論)的視点に対する像と経験的視点に対する像とを、ともに絵画の中に明示的におさめようと画家が努力した場合に、しばしば、地図が描かれることになる、と推論できるのではないか。「地図」は、そのタブローに描かれた遠近法的な表象が可能になるための、超越論的な条件を提示しているのだ。(p. 50) |
それら[写真と印象派の絵画]は、どちらも、「特定の現在」の現在性を永遠化するものだと言うことができる。変化していく対象のある一瞬を対象として選ぶことで、それが「特定の現在」であることが強調される。ここには、ある視点が、経験的であると同時に超越(論)的であることの交錯が、一挙に表現されているのである。経験的な視点である以上は、それは、特定の現在に内属しているほかない。他方で、超越(論)的な視点は、世界の時間的・空間的な拡がりを同時的に捉えることができる視点であり、無時間的な秩序に属している。この両方の要請を一緒に満足させようとすれば、特定の現在をそれ自身で無時間的な永遠性の相で提示するしかないだろう。 (p. 80)
複製技術以前のオリジナル作品が有するアウラに関して、ベンヤミンは、こう述べている。「いま、ここにあるという事実が、その〔オリジナルの〕真正性の観念を形成している」のだ、と。ここには、すでにひとつの洞察が含まれている。アウラ、すなわち作品が醸し出す、作品の内容的な同一性の内に解消しがたい「それ以上の何か」、何ともいえない超越的な崇高性は、作品の置かれた「いま、ここ」に依存して派生しているという洞察が、である。端的に言えば、アウラを生み出しているのは、作品=対象が置かれている場所なのである。(p. 115) |
便器が芸術作品になるのは、それが適切な場所を占めているからなのだが、それが適切な「場所」となるのは、他ならぬその「便器」の現前そのものによるのだ。この場所と対象(芸術作品)との同時分節性は、ベンヤミンのアウラに関する規定の内にも、含意されている。先に引用したように、ベンヤミンによれば、オリジナル作品のアウラは、それが「いま、ここにあるという事実」に根拠をもっている。ここで、アウラが、「いま」と「ここ」という最も基本的な――空間と時間をめぐる――シフター(話者によって指示対象が変わる語)によって定義されている点が重要だ。これらの語は、個物としての対象(作品)を指し示すと同時に、間接的には、その個物が置かれている場所を、その個物の「近傍」として指し示しているからだ。(p. 117) 道具的内見において規定される事物の本質存在essence――事物が経験にとって何物かであるということ――に、事物の事実存在existence――その事物があるということ――を解消し尽くすことはできないのである。この結論は、さまざまな方途で、たとえばソール・クリプキの固有名に関する有名な議論の含意として、弁証することができる。クリプキが示したことは、固有名を個体の性質についての記述に置き換えることはできない、ということである。 (p. 138) |
現象のそれ自身に対する過剰性を、超越的な事物の事実存在へと転倒させず、それ自身として直接に肯定するということは、積極的な同一性をもって現前する諸事物の(本質)存在の「地」の部分を享受することである。存在の「地」とは何か? それは、「自然(性)(ピュシス)」の領域である。
連帯と愛の特異な可能性 ロブ・ニルソン 私は私ではない ジョン・カサヴェテス 理想自我徒事が理想とは、自己の同一性(アイデンティティ)が構成される際に動員される、二種類の規範的な理想性を表現している。理想自我Idealichとは、――あらためて定義しておけば――自己にとって、好もしく、かつまさにそのようになりうるものとして現れているがゆえに同一化の対象となっているような(他者)像のことをいう。理想自我を定義している条件は、理想性と模倣可能性である。しかし、理想自我への同一化ということによってのみでは、自己同一性(アイデンティティ)は獲得されない。模倣の対象となる理想自我の理想性はアプリオリに決定されているわけではないからだ。それゆえ、規範的な政府の判断を構成するような超越(論)的な純拠点が必要になる。自我理想Ich-Idealとは、この超越(論)的な準拠点のことである。それは、自己が、そこから観察され、規範的な位置が観察されるような視点を構成する。自己同一性の確立のためには、誰でも、このような視点を我が物にしなくてはならない。(……)自我理想に対応した理想性は、超越(論)的なものなのである。理想自我は、模倣可能性によって、それゆえ自己との本質的な類似性を基礎にして、機能する。それに対して、自我理想が、超越(論)的な準拠として機能できるのは、自己にとって、模倣不可能・実現不可能なものとして与えられている場合に限られる。言い換えれば、自我理想の理想性は、自己の現実との懸隔によって意味を獲得するような理想性なのである。 (p. 177) |
ところで、死んでいるものの殺害という冗長な反復を、われわれは、少なくとも一例は知っている。キリスト(神)の殺害がそうである。神は、その抽象的な超越性のゆえに、ことの初めから死んでいる、ということができる。キリストという神の殺害は、そのすでに死んでいる物に再び死を与えることである。(p. 179) (……)映画に反映している「現実」をなぞるだけであれば、戦争やテロについて、何か深いことがわかるわけではない。虚構(フィクション)を経由することなく、直接に「現実」を見て、解釈すればよいのだ。しかし、ここで立ち止まって考えてみなくてはならない。虚構がいかにも現実にありそうな構成をとっているときには、かえって警戒しなくてはならないのだ。そのとき、しばしば、虚構は現実を透明に映し出すどころか、逆にかえって、何かを――真の現実を――隠す遮蔽幕として機能しているからである。 (p. 186) |
この〈私〉の魂を直接に植民地化し、〈私〉を操り人形にしてしまうような他者は、規範の妥当性を保証している超越的な他者――つまり「第三者の審級」――が崩壊したときに登場する(蓋然性がある)のではないか。第三者の審級は、〈私〉に対して、超越的な距離を保ちつつ、〈私〉を支配する。つまり、第三者の審級は、〈私〉に対して選択の自由度を残しつつ、そして反抗したり、密かに侵犯したりする自由をも残しつつ、支配するのだ。それに対して、第三者の審級の権威が崩落したときに生ずる危険は、密着性によって〈私〉を支配する超越的な他者の登場である。それは、いかなる自由の余地も残さず窒息しそうな閉塞の中で〈私〉を操り人形のように支配する他者だ。(p. 194) 突然の転調 モーツァルトの弦楽五重奏曲ト短調 まさに短調であることがその存在理由であるようなこの作品は、しかし、最も肝心な部分で長調へと劇的に転調する。すなわち最終楽章はト短調のアダージョで始まりながら、突如として明るく単純なト短調のアレグロに転換してしまうのである。アンリ・ゲオンなどは、「モーツァルトの気まぐれ」とこの転調を厳しく批判している。だが短調のあまりにも深い哀感から、きわめて表層的な印象を与える長調の楽想への転換は、それ自身、固有の感動を与える。 (p. 199) |
合理化の反転像としての現代音楽 他者とは、原理的には、架橋不可能な絶対の差異である。つまり、他者とは、より上位の包括的な同一性の水準に下属させることができない差異である。このような他者の他者性の要件である「純粋な差異」として顕現する限りでの他者を、〈他者〉と表記しよう。(……)〈他者〉(たち)の絶対の差異性を言わば跳躍板と利用して、「超越的な他者=第三者」を擬制し、これをもって経験の可能性の一般的な条件――つまり先験的な条件――として作動させる一連のダイナミズムが存在している(このダイナミズムが、同時に、〈他者〉の他者性を背景化する機制でもある)。表現としての規範性は、行為が創出した事象のあり方・配置を、こうして生成される超越的な第三者の選択性に帰属するものとして定位することができたときに、まさにその事象のあり方・配置の内に孕まれるのである。つまり、行為がもたらす事象の特定のあり方が、超越的な第三者の帰属する選択に従うものとして――つまり超越的な第三者に肯定的に承認されている様態として――現象しているとき、一個の表現として機能するのだ。 (p. 210) |
IV スポーツと資本主義の逆説 サッカーと資本主義 中村〔敏雄〕によると、サッカーの起源は、前近代的な共同体の祭でもあったマスフットボールである。それは、村全体を競戯場とする村人全員参加のゲームであり、一点先取で決着が付いた。一方のチームが一点を取れば、祭そのものが終わってしまう。つまり、祭を長く楽しむためには、得点は遅いほどよい。オフサイドは、この精神を受け継いでいる。それは、得点への過程を引き延ばすためのルールだったのである。(p. 222)
(2011/12/9) |