大塚英志 |
序章 ベティさんは、何故、秘密結社にいたのか 「フリーメイソン」を含め奇妙な儀式を行なう結社の類は19世紀末のアメリカに大量発生し、その数は一八九六年の時点で数百はあったと推計され、その時点で成人男子の総人口一九〇〇万人に対し、五五〇万人余はこれらの秘密結社の加わっていたという。 |
第一章 「母性」をめぐる伝統はいかに作られたか 1 民俗学者は何故、架空の血筋を求めたのか 折口〔信夫〕が幼少期、里子に出されたという仮構の体験をしばしば語っていたことも、折口の評伝的記述の中ではしばしば指摘される。そしてその里子体験を、さまざまな形で書き遺してもいる。そこには繰り返し、里子に出された先の「母」の記憶が捏造され阿、やがて、折口民俗学の中心仮説である「妣(はは)の国」へと連なって行くであろうことは想像に難くないのである。 |
柳田たちとは違い、たいていの人たちは幼児期のファンタジーとして「血統」を疑い、自身が帰属する「大きな物語」をわざわざ自前で用意はしない。しかし、この国の近代において、国民の「伝統」を立証しようとする民俗学という言説の語り手にとって「血統妄想」は都合のよい資質であった。 (……)「生類憐れみの令」が、捨て子を禁じるのではなく、捨て子を庇護するように求めているように、捨て子は必ずしも罪悪ではなかったようだ。拾われて誰かが育てることが前提になっていたから、気安く捨てもしたことがうかがえる。むしろ捨て子に養育費を付した捨て子制度が発生したように、捨て子とは一種の養子制度であった。 |
たとえば「母の日」がそうだ。
1 多民族国家論としての「妖怪」論 しばしば政治家の代表的な「失言」として、「日本人は単一民族である」という発言があるが、これが正しくないのは、単にアイヌ系の人々や朝鮮系の人々に配慮を欠くだけではない。 |
(……)ここで「天狗」の正体とは、日本列島に神話時代の神武東征以前に住んでいたとされる先住民族の、今も生存する姿であると柳田は言い出すのだ。そして、「大人」「山男・山女」「山童」といった、これら「「お化け」の列に加え」られてきたものの正体もまた「山中の蛮民」「異人種」であると主張する。このようにして、「天狗」論は多民族国家論として語られるに至るのだ。(p. 90) 漢民族は、この台湾に後からやって来て同地を支配、彼らは先住民の帰順政策を行なう。その中で「生蛮」や、これにたいして帰順の進んだものを意味する「熟蛮」という語などが作られる。そしてこれら植民地用語は「隘勇線」という語とともに、清朝から台湾の新しい支配者としての日本が引きついだのである。(p. 93) (……)こういった「怪談」への関心は、ただ明治期の科学的啓蒙への反動としてあるわけではない。そこには日露戦争という、「日本人」が初めて体験した本格的な近代戦争の影響が大きい。死傷者一五万人、出征した歩兵の一〇人に一人が戦死した日露戦争は、それゆえに「死者」を否応なく大衆が意識せざるをえない時代としてあった。 |
だからこそ、この時期の「怪談」とは多くが「幽霊」ないしは「霊」にまつわるもので、明治に初めに新聞を賑わした「妖怪」についての記事は、明治三〇年代後半にはほとんど見られなくなる(湯本豪一編『めいじようかいしんぶん』)。つまり、いわゆる「妖怪」ではなく「死者の霊」の方に、「怪談の時代」の関心は向かったのである。(p. 123) 1 「ユダヤ人」から「公民」へ 近代の日本において語られた起源論の一つに「日ユ同祖論」があった。日本人の瀬瀬ンはユダヤ人と同じだ、とするもので、この奇妙な起源論は、「ユダヤ人の大家」として戦前知られた酒井勝軍などが代表的なように、あらゆる政治的事件の陰にユダヤ人がいるというユダヤ陰謀説を一方で主張しつつ、一転して親ユダヤ主義者となり、日本のどこかにモーゼの十戒石がある、と言い出すような不思議な人物が跋扈していた。(p. 132) |
2 「郷土人」の気持ちは「外人」にわかるか 「公民の民俗学」へと向かうかに見えた柳田國男の民俗学は『世相篇』刊行後、昏迷しつつ、変質していく。その時代背景としては、「恐慌」を経て「戦時下」へと向かっていく流れがある。その中で「個」としての「公民」という柳田の目指すものもまた、変質を余儀なくされるからである。 |
つまり「伝統」という考え方そのものが、歴史的所産なのだと説くのである。 3 ナチズムと民俗学 柳田や折口にナチズムと民俗学の関わりについて、どの程度の自覚があったのかを正確に判断する材料はそう多くない。しかし、柳田と折口という二人の民俗学の創始者のこのような発言は、戦時下の民俗学が、ナチズムの政策科学としてあったドイツの民俗学をはっきり意識していたことの裏付けにはなる。(p. 166) |
民俗学を抱え込んだ二つの機関のうち「祖先の遺産」とは、ナチズムとオカルティズムの関わりを論じる際、しばしば言及される研究機関である。この「祖先の遺産」なる組織は、転生やカルマを信じるオカルティズムに傾倒していたヒムラーの掌握する研究機関として何より知られる。 (p. 171) |
民族研究所が敗戦によって解体した後、占領軍のもとめで占領政策に岡〔正雄〕や石田英一郎そして関敬吾といった民族学者/民俗学者が関わったことが語られている。 (……)この柳田と成城学園教師たちとの対話は、成城教育研究所『社会化の新構想』としてまとめられている。柳田社会化の構想は、「社会」という語に対して「世の中」なる語を対案として提示することから始まる。 |