ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <書 抜き書きメモ35>

大塚英志
「伝統」とは何か

ちくま新書、2004年

序章 ベティさんは、何故、秘密結社にいたのか

「フリーメイソン」を含め奇妙な儀式を行なう結社の類は19世紀末のアメリカに大量発生し、その数は一八九六年の時点で数百はあったと推計され、その時点で成人男子の総人口一九〇〇万人に対し、五五〇万人余はこれらの秘密結社の加わっていたという。
(……)
中には古代ローマを舞台としたベストセラー小説を、そのまま著者の了解のもと儀礼化した「ベン=ハー騎士団」なる「結社」や、儀礼を版権登録する結社まで現れるに至ったという。すでに「儀礼」が伝統の基づくものだという発想が崩れていることがわかる。
実をいえば、この時、作られた「結社」の「儀礼」が、現在ではオカルトの領域で本当に古代や中世の起源のある本物と信じられるという錯誤を産むに至る。しかしオカルト雑誌を今も賑わす秘密結社は、たいていこの時、その伝統もろとも「作られた」のである。
(……)それが「確立された階級制度や伝統」を有しない国家において、市民たちが自作自演の「伝統」を自らの依り処として求めたことを示唆している。(p. 12)

新しい階級である彼らは、自分たちのための「伝統」を望んだのだといえる。その結果、多くの「イニシエーション」が作られ、それは「ベティさん」のアニメのプロットに採用されるほどの当時の人々の「生活」の一部をなしたのである。とはいえ「ベティさん」のアニメが作られた二〇世紀初頭には、結社はすでに衰退の傾向にあった。 (p. 15)

個のことから「伝統」は、それを望む人々によって「作られて」行く側面があることをまず、ぼくたちは理解すべきだ。「伝統」とは、しばしばその担い手たちによって「作られる」ものなのである。 (p. 15)

 たとえば広場に巨大なクリスマス・ツリーを掲げる光景は日本でも見られる。これを僕たちは西欧の「伝統」となんとなく思っている。しかし、それは二〇世紀初頭のアメリカのマジソンスクエア・ガーデンに始まり、そして、それが普及したのはナチズム下のドイツで、指定された地方から巨木を切り出し、首都ベルリンのナチ党本部の前に飾りつけて立てられるようになって定着したものだ。 (p. 16)

 (……)「日本人としての私」として「私」を意識するためには「日本」という共通の枠組やイメージがなくてはならず、それを満たすために「天皇」やさまざまな「伝統」が持ち出され、それらを実体のある、歴史的根拠のあるものだと思わせる必要が出てきた。
そうやって「近代」という時代の中で創られてきた「伝統」を、今の僕たちはただ無批判に、すでにそこに「ある」ものとして信じている。 (p. 18)

 「伝統」を求めるがゆえに、それを「ある」ことにしてしまい、そしてそれを根拠にして、ぼくたちはしばしば社会的政治的な判断をしようとする。つまり「伝統」は、ぼくたちの志向のあり方としてはいささかマッチポンプ的であり、しかし「伝統だから」と一度、根拠にしてしまうと、ぼくたちはそれをもはや冷静に検証できなくなる。
そのためにも「伝統とは何か」と、一度、考え込んでみる手続きは決して無駄ではないはずだ。 (p. 21)

第一章 「母性」をめぐる伝統はいかに作られたか

民俗学者は何故、架空の血筋を求めたのか

折口〔信夫〕が幼少期、里子に出されたという仮構の体験をしばしば語っていたことも、折口の評伝的記述の中ではしばしば指摘される。そしてその里子体験を、さまざまな形で書き遺してもいる。そこには繰り返し、里子に出された先の「母」の記憶が捏造され阿、やがて、折口民俗学の中心仮説である「妣(はは)の国」へと連なって行くであろうことは想像に難くないのである。
そこで興味深いのは、「妣の国」のごとき「異郷」を「現実」の上に接ぎ木された「空想」として捉えていることだ。
(……)
ここには明らかに、折口が想像力を持って「現実」を書き換えうるものとして意識していることが見てとれる。そして、このような空想の出自、空想の血統を見出していくことがハーン、柳田、折口を貫く、彼らを民俗学者たらしめていた想像力の質であったことがわかる。彼らは父母との関係の不安を、民俗学を創出することで贖おうとしている。想像力によって自分たちが帰属する血統を作り出そうとしているのである。(p. 37)

(……)少なくとも民俗学者たちが仮構の来歴を欲する、私的な動機として、この「貰い子妄想」はどうやらある。そのことは確かである。
それにしても、彼ら民俗学者が皆、同じ傾向の「妄想」的想像力を持っていたのはまったくの偶然だろうか。
そもそも、木村敏が「貰い子妄想」が日本固有であると仮定する前提として、「日本固有の家制度」があることをあげていることにぼくは疑問である、とすでに記した。というのは、たとえば今日の「夫婦別姓」をめぐる論議などで持ち出される「日本の伝統としての家制度」が、実は近代に新たに作られたものであることは、初歩的な歴史学の書物で容易に知ることができるからである。(p. 40)

(……)江戸時代には実は「捨て子」さえもめずらしい習慣ではなく、むしろ公認されていた。そのような社会では、自分の親が本当の血統上の親であることは決して絶対的ではなかった。けれども新しい戸籍制度からなる社会は、人に「実父母の子である私」を求める。その結果、自分が本当の父母の子ではないという葛藤が明治の若者たちに生まれるのである。
血統に屈託をもったハーンが日本に流れ着いたのは偶然にしても、折口や柳田の屈託は、曖昧でよかった父母との血統を無理に確信しなくてはいけない時代がもたらした不安だといえる。そのような「不安」が、「民俗学」という「伝統」を語る言説の創始者に彼らをなさしめたのである。
この不安は、だから当然、民俗学者にとどまらない。
夏目漱石が一度養子に出され、そして再度、養家から生家に引き取られたことは知られている。しかも、生家に戻ってきた漱石はおいた父母を「祖父母」と思い込んで育った。
(……)
漱石もまた、その来歴が混乱した子どもだったのである。(p. 44)

 柳田たちとは違い、たいていの人たちは幼児期のファンタジーとして「血統」を疑い、自身が帰属する「大きな物語」をわざわざ自前で用意はしない。しかし、この国の近代において、国民の「伝統」を立証しようとする民俗学という言説の語り手にとって「血統妄想」は都合のよい資質であった。
子供が成長していく過程において、「家族」と自分との関係を疑うファミリーロマンスが人間に普遍的なものであることは「継子」をモチーフとする物語が昔話や児童文学の古典の定番であることからも疑いようもない。だから「貰い子」妄想や「拾い子」として子育てをする習慣の背景にあるものはけっして「日本」に「固有」の「伝統」ではない。そして、そもそもこのような幼児のファミリーロマンスを回収するものとして「孤児」をめぐる甘美な昔話や児童文学があったわけである。(p. 50)

(……)柳田は、「貰い子」としての彼の不安定な自意識を回収する「血筋」としての「山人」の血脈を「想像」=「創造」しなくてはならなかった、といえる。そして、そのような「民俗学」という衣をまとったファミリーロマンスが「伝統」化したところに、この国の近代が作り出した「伝統」の最大の特徴がある。それはこの国の「伝統」が「父」ではなく、実は「母」の創造に傾斜していったことでも明らかである。何故なら「母」との分離不安に脅える子供の、母恋いの物語として「貰い子妄想」はあるからだ。(p. 52)

日本人は母性が強い民族だから母子心中をするのか

(……)「生類憐れみの令」が、捨て子を禁じるのではなく、捨て子を庇護するように求めているように、捨て子は必ずしも罪悪ではなかったようだ。拾われて誰かが育てることが前提になっていたから、気安く捨てもしたことがうかがえる。むしろ捨て子に養育費を付した捨て子制度が発生したように、捨て子とは一種の養子制度であった。
そうでないと、芭蕉の以下のような俳句も理解のしようがない。
霜を着て風を敷き寝の捨子かな
芭蕉にとって捨て子とはもののあわれを誘う風景の一つでしかなく、彼はいくつか捨て子を題材にした俳句を残しているが、それらは、捨て子が俳句のモチーフ以上の意味をもっていないことを伝えているのである。(p. 65)

(……)重要なのはこのような二つの「貰い子殺し事件」、そして「母子心中」の急増が同じ昭和初頭という時代の現象としてあることの意味だ。それは戸籍制度の浸透で捨て子が困難になり、他方で堕胎は禁じられたままなので怪しいと思いつつも「貰い子」斡旋業者に委託するか、あるいは「親子心中」しか選択がなかった、ということのみに帰結しない。
やはり、これらの事件は「母性」という新しい「伝統」が創られていく過程と、表裏一体の関係にあるとぼくは考える。(p. 69)

 この時代、つまり、日本がいわゆる「一五年戦争」に突入する一九三一(昭和六)年前後、「伝統」が新たに必要とされた背後には、世界大恐慌の影響で農村が決定的に荒廃していったことが大きい。こういった農村の荒廃は、二・二六事件に参画する青年将校の危機意識とも重なるのだが、そもそも「家長制」という武家社会の「家」制度にヨーロッパの家族法を接ぎ木した「家」を、農村の「家」に重ね合わせることにさえ無理があったのに、それをかろうじて支えていた地方の村々が恐慌によって破綻していったのである。
つまり、近代に作られた「伝統」が早くもその足場を失った時、それを支える新たな「伝統」を必要としたのだ。
その一つが「母性」であった。(p. 69)

 たとえば「母の日」がそうだ。
さすがにこれは日本の「伝統」とは思われていないだろうが、「母の日」が日本で始まったのは一九三一(昭和六)年のことだ。同年三月六日の皇后誕生日「地久節」を祝うものとしてはじまった。この日、大日本連合婦人会が発足、国家による「母性」の伝統化が始まったという点で象徴的な日であった。
しかも、たいていの人が西欧の「伝統」的行事となんとなく思い込んでいるこの「母の日」は、もともとは第一次世界大戦後に夫を失った母子家庭のためのイベントだったものが、一九二二年に、ドイツのワイマール共和国時代の花屋のキャンペーンとして利用されたものが実は原形である。
当時のドイツにおいて女性の社会進出に批判的なグループがこのキャンペーンを利用し、第一次世界大戦後の経済的危機の原因を出生率低下をもたらしたこの女性ホワイトカラー層としての「新しい女」に求め、化に女たちを否定し、「母性」を強調することで「問題解決」を演出しようとしたという。
これがたった今、日本の政治家たちが行おうとしている動きとそっくりであるのは偶然ではない。「母性」とは、そのように国家によって政治的に求められるものである。(p. 70)

柳田國男が社説で論じ、そして、幾度となく「母子心中」を問題にしていくことも、戦時体制に向かっていく国家の「母性」キャンペーンとともに、やはり一つの時代に空気を作っていったはずだ。
その中にあって「母性」の危機を強調する「母子」心中の記事、あるいは「貰い子」殺しという「伝統」的犯罪の記事が注目を集めないわけはないのである。これらの記事が国家によってすべて主導されたとまではいわないが、しかし「母性」を国家が強調しようとした時代であるがゆえに、「母子心中」が新しい「習慣」として浮上したことは確かである。
そして、今、多くの人々はそのことを忘れ、なんとなく根拠もなしに日本人は「母性」が強く、そして、それゆえに母子心中もまた日本人に特有な現象だとうっかり思いかねない。

しかしそれはあくまでも昭和初期に強調された「母性」の副産物にすぎないことを忘れてはならない。そのことに気づかないと、政治家たちが「母性」を強調することの意味をぼくたちはただ「伝統」の一言で、無批判に受容してしまいかねないのである。(p. 72)


第二章 「妖怪」とはいかに語られたか

多民族国家論としての「妖怪」論

しばしば政治家の代表的な「失言」として、「日本人は単一民族である」という発言があるが、これが正しくないのは、単にアイヌ系の人々や朝鮮系の人々に配慮を欠くだけではない。
そもそも、このような「思い込み」が定着したのは、小熊英二が指摘するようにむしろ戦後のことであり、日本に住む我々が太古からこの列島にたどりついた人々の多様な混合であることが、戦後になるとさっぱりと忘れ去られている。柳田の先の引用は「伝統」を「国の辱」か否かによって判断する人々に対して、わざわざ多民族国家説を持ち出して、「伝説」の愛国心的解釈を牽制するのだ。(p. 83)

(……)ここで「天狗」の正体とは、日本列島に神話時代の神武東征以前に住んでいたとされる先住民族の、今も生存する姿であると柳田は言い出すのだ。そして、「大人」「山男・山女」「山童」といった、これら「「お化け」の列に加え」られてきたものの正体もまた「山中の蛮民」「異人種」であると主張する。このようにして、「天狗」論は多民族国家論として語られるに至るのだ。(p. 90)

植民地帰順論としての「妖怪」論

漢民族は、この台湾に後からやって来て同地を支配、彼らは先住民の帰順政策を行なう。その中で「生蛮」や、これにたいして帰順の進んだものを意味する「熟蛮」という語などが作られる。そしてこれら植民地用語は「隘勇線」という語とともに、清朝から台湾の新しい支配者としての日本が引きついだのである。(p. 93)

柳田山人論はその始まりから他人種、他民族の同化、帰順論として成立してきたのであり、だからこそ「山人考」の中で山人の「帰順朝貢」を「堂々たる同化」と形容しうるのである。
柳田は自らの山人論の総決算である『山に人生』の巻末に「山人考」を掲載し、そこで柳田は「山人の絶滅」に「同意」する、と述べる。それは山人実在説の放棄ではなく、同化政策の完遂を追認し、肯定する発言であったとさえ言える。
このように「天狗」への関心として始まった「妖怪」論は、異民族の統合という政治的課題を新たに抱えた明治国家の官僚・柳田國男の手にかかり、「台湾」という植民地への政策を、日本列島におけるまつろわぬ民の帰順の歴史と接続するものへと大きく書き換えられる。(p. 112)


「幽霊」の国家管理

(……)こういった「怪談」への関心は、ただ明治期の科学的啓蒙への反動としてあるわけではない。そこには日露戦争という、「日本人」が初めて体験した本格的な近代戦争の影響が大きい。死傷者一五万人、出征した歩兵の一〇人に一人が戦死した日露戦争は、それゆえに「死者」を否応なく大衆が意識せざるをえない時代としてあった。
一九〇五(明治三八)年~一九一〇(明治四三)年にかけて靖国神社にまつられた日露戦争の戦死者は八〇〇万一二四三人に及ぶ。「日本人」はは否応なく「死者」について考えざるをえなくなるのである。
その中で、戦死者を靖国神社に祀ることで「幽霊」を国家管理していく思考が制度化される。「死者」への感情は、国家が管理に乗り出さなくてはならないほどに人々の中に広がっていったのである。それは日露戦争下に多くの幽霊譚が語られたことでうかがえる。 (p. 119)

 戦死者の霊が遠く離れた故郷に現れるという第二次世界大戦でも繰り返し語られる説話のかたちが、この時に成立しているのである。この場合は戦死者ではないが、日露戦争によって大量の死者に直面することで、人々は「幽霊」を迷信として否定するのではなく、それを受け止める新たな制度や言葉を、国家レベルでも民衆レベルでも必要としたのである。「怪談」はそのような要請の中で、大衆レベルで復古した「伝統」としての側面がある。(p. 122)

 だからこそ、この時期の「怪談」とは多くが「幽霊」ないしは「霊」にまつわるもので、明治に初めに新聞を賑わした「妖怪」についての記事は、明治三〇年代後半にはほとんど見られなくなる(湯本豪一編『めいじようかいしんぶん』)。つまり、いわゆる「妖怪」ではなく「死者の霊」の方に、「怪談の時代」の関心は向かったのである。(p. 123)

 個のように「幽霊」について考えることは、本当であれば、「死者」と「国家」の関わりについて考えることでなくてはならなかった。だが、「幽霊」と「国家」の関係は回避され、文士たちの「怪談趣味」としてかろうじて記憶されるのである。つまり、文士たちの「怪談の時代」とは、文学者たちのこの問題からの逃避としてあったと考えられる。(p. 125)


第三章 「愛国心」は「郷土」と「ムー大陸」へ向かった

「ユダヤ人」から「公民」へ

近代の日本において語られた起源論の一つに「日ユ同祖論」があった。日本人の瀬瀬ンはユダヤ人と同じだ、とするもので、この奇妙な起源論は、「ユダヤ人の大家」として戦前知られた酒井勝軍などが代表的なように、あらゆる政治的事件の陰にユダヤ人がいるというユダヤ陰謀説を一方で主張しつつ、一転して親ユダヤ主義者となり、日本のどこかにモーゼの十戒石がある、と言い出すような不思議な人物が跋扈していた。(p. 132)

 柳田は「民俗学」の方法を「古代史」に対してではなく現在に向けたいと述べ、それを古代にいたずらに向けると「日本人は希臘(ギリシア)より来るという説」さえもともすれば闊歩させかねない、という。明治末から大正を通じて日本人の先住民説という形で起源論を唱え、山人との関わりで関心をもった中世の傀儡がジプシーの末裔ではないか、と一度は考えた柳田の言葉とは思えないほどの豹変ぶりである。(p. 135)

(……)農村の崩壊と都市という新しい生活空間の成立は人々を「家」として孤立させ、その結果、「家」単位で、「孤立貧」の中で自らに決着をつけるよう追い込まれるのが一家心中だと柳田は考えるのである。柳田は近代の「家」制度を、「家」にいわば自己責任が求められる一方で、救済策が示されていないと批判するのである。(p. 139)

 柳田は、人々が「孤立貧」に陥っているのはそこに公共性が不成立だからだ、と考える。むろん、公共性という語は用いていない。しかしこの時、柳田が考えていた共同性は前近代的な「村」ともナショナリズム的な「国家」とも違う、パブリックな何かであった。
それを実現するのが「選挙」である、と柳田は説く。(p. 140)

 柳田國男の民俗学の本質を山人や被差別民といった「非常民」から、代表的日本人としての稲作民たる「常民」への研究対象の転換と見るのは、ほとんどの柳田論の定説というか大前提だが、その二つにはさまれるかたちで、まだ、この時点では「民俗学」を名乗ることを躊躇する柳田の民俗学に束の間、「公民の民俗学」があったことは、やはり柳田の可能性として評価すべきだとぼくは考える。
しかし、大恐慌による経済の破綻は、人々に「個」として自立した「公民」たることより、「群の快楽」に身を委ねることを選択させてしまう。
そして「公民の民俗学」は、そのような風潮に否応なく呑みこまれて後退してゆくのである。(p. 142)

「郷土人」の気持ちは「外人」にわかるか

「公民の民俗学」へと向かうかに見えた柳田國男の民俗学は『世相篇』刊行後、昏迷しつつ、変質していく。その時代背景としては、「恐慌」を経て「戦時下」へと向かっていく流れがある。その中で「個」としての「公民」という柳田の目指すものもまた、変質を余儀なくされるからである。
政府か恐慌対策として一九三二(昭和七)年より農村漁村経済更生運動を推進した。これは農村を中心とする一種の「構造改革」で、その方法として「農村部落ニ於ケル固有ノ美風タル隣保共助ノ精神ヲ活用シ其ノ経済生活ノ上ニ之ヲ徹底セシメ」ることでその「産業ノ経済ノ計画的組織的制約」(「農村漁村経済更生計画に関する農林省訓令」)を課そうとするものであった。
バブル崩壊、大震災、不況、選挙への不信、強い指導者の大望、そして構造改革とどこかで聞いたような筋道を、この時期の日本がたどっていくのは偶然ではない。社会はナショナリズムや伝統を欲する時、そこにはやはり一定の筋道があるのだ。ただし、それは必然ではないから、ぼくたちは歴史を学ぶことで立ち止まり、引き返したり、別の選択をすることができる。(p. 144)

 このように日本人が日本のことをやる民俗学を、一国民俗学という。柳田が『民間伝承論』の中で示したこの「一国民俗学」を、この後の戦時下で相応に遵守したことで、それを植民地政策や侵略戦争に批判的だった理由と好意的に見てとる人もいる。しかし「一国民俗学」は、あくまで「日本人のことは日本人にしかわからない」という「日本人」という共同性の主張だった。
つまり民俗学は明治期の植民地帰順論と他民族起源説が交錯する思考から、束の間、「公民の民俗学」を経て、「日本人」という共通意識を創り出す方法へと変質したのである。(p. 153)

 「郷土研究」とは「郷土を」研究するのではなく、「郷土」で「日本人」「民族」の研究をすることである、と「郷土」を「日本人」「民族」という上位概念に至る回路としている。つまり「郷土」とはナショナリズムの「郷土」単位の自発的構築を求める概念であって、だからこそ「愛郷心」は「愛国心」に容易にとって替わるのである。教育基本法「改正」をめぐる論議で、「愛国心」と記すのははばかられるので「郷土愛」くらいにしておこうという論議の前提には、「郷土」をめぐるこのような歴史を思い出さなくてならない。
このように「郷土研究」とは「公民の民俗学」から見た時、やはり決定的な変化であった。(p. 155)

 「伝統」にまとわりつく政治性を、柳田は何よりも嫌っていることがうかがえる。柳田はいたって政治的な人間でありながら、あるいはだからこそ、こういった政治性の忌避の態度をしばしば示す。たしか「常民」に関しても、「人民」のようなマルクス主義的なニュアンスを伴う語を使いたくなかったからだ、と発言していたはずだ。
ちなみに、この時期の慎重な非政治性が実は民俗学を戦後、その政治性を無批判なまま生き延びさせる理由の一つにもなるとぼくは考える。(p. 159)

 つまり「伝統」という考え方そのものが、歴史的所産なのだと説くのである。
ここまでは、柳田の考え方は本書の「伝統」への立場と全く変わらないのである。
しかし、残念ながら柳田の「伝統」への懐疑はそれ以上、進展しない。柳田論の中には、この全段までの「伝統」批判で柳田を擁護しようとするものもあるが、やはりその限界は同時に見ておかなくてはならない。
(……)
柳田は「伝統」というのはあくまでも「善いもの正しいもの」であり、そうでないものを含めた場合、「伝承」というべきだといった言葉遊びに陥るのである。「伝統」とは良いものだけをいうが、自分たちは良いものも悪者も研究するので、これを総称するものとして「伝承」というのである、というのだ。「伝統」を無批判に信奉することを批判しながら、「伝統」が「社会の理想」であることには全く疑問をはさまないのである。(p. 161)

 「伝統」なる語を避け、「伝承」という語を採用し、「国民」や「日本人」ではなく「常民」や「郷土人」を用いたので同じで、「伝統」や「愛郷心」といったその時点でもかなりあからさまなものとしてあったナショナリズム的政治用語を忌避しつつ、しかし、その内実を彼の民俗学が作り出していくことには柳田はむしろ積極的なのである。

こういったナショナリズム用語を忌避しつつ、日本人の同質性を所与のものとして疑わない戦後にあからさまになる価値意識は、実は柳田の「郷土人の民俗学」の中にすでに形作られていた、といえる。それが柳田民俗学が戦後、左右双方の陣営の拠り所となり生き延びた理由でもあるのだ。(p. 164)

ナチズムと民俗学

柳田や折口にナチズムと民俗学の関わりについて、どの程度の自覚があったのかを正確に判断する材料はそう多くない。しかし、柳田と折口という二人の民俗学の創始者のこのような発言は、戦時下の民俗学が、ナチズムの政策科学としてあったドイツの民俗学をはっきり意識していたことの裏付けにはなる。(p. 166)

 そもそもナチズム下のドイツにおいては、「フォルク」(Volk)という語が好んで用いられた。民俗学(Volkskundle)Volkと同じであり、これを「民俗」と訳すとその政治的意味は見えにくくなる。これはやはり「民族」と訳すべきである。
もちろん、「民俗」の語もまた政治的意味合いを日本では持っていたという指摘はある。「民俗」とは近代に入って中央集権国家としての明治政府が地方住民を「統治」しようとする時、現れたもので、それゆえ、「民俗」とは西欧的慣習に教化されえない自国民の愚習を示すものだったと指摘される(岩本通弥「「民俗」を対象とするから民俗学なのか」)。「民族」の政治性の方がやはりあからさまであった。(p. 169)

民俗学を抱え込んだ二つの機関のうち「祖先の遺産」とは、ナチズムとオカルティズムの関わりを論じる際、しばしば言及される研究機関である。この「祖先の遺産」なる組織は、転生やカルマを信じるオカルティズムに傾倒していたヒムラーの掌握する研究機関として何より知られる。 (p. 171)

 「祖先の遺産」は「民族」への探求から「人種」についての形質人類学的関心に向かい、収容所の中で多くの生体実験や、ユダヤ人の骨格標本作りにさえ励んだおぞましい組織としても記憶されている。ホロコーストを科学的に支え、根拠づけた機関でもあった。(p. 172)

 こういったオカルト的書物〔『ウラ=リンダ年代記』〕が政治に作用したことを、今の我々にはにわかに信じがたいが、ナチズムにオカルト思想が流入したことはすでに見たように検証されつつある。また、その時代背景には、サブカルチャーとしてのSF、オカルト小説の反乱があったことも今日、ようやく指摘され始めている(ヨースト・ヘルマント『理想郷としての第三世界』)。
余談だが、「オタク文化」のある部分がナチズム起源であることを、サブカルチャーの作者であるぼくは、やはり真剣に受けとめなくてはならないと考える。その問題は、必ず一つの書物としてまとめる。(p. 177)

(……)〔『竹内文献』や天津教などの〕オカルティズム的な起源論が政治の現場の隣り合わせに一瞬でもあったことは、戦時下の「伝統」の作られ方を理解する上で無視できない。
さてこの『竹内文献』は、先の「モーゼの十戒石」が好例のように、求められれば次々と新しいオカルト的素材を取り込んでいく。その中で、一九四〇(昭和一五)年頃から同文書のなかに出現するのが「ミヨイ・タミアライ」なる太平洋上の陥没大陸である。
これは、自称イギリス陸軍大佐ジェームズ・チャートワードがインドに駐留した折に、門外不出の資料からその存在を知ったと主張する「ムー大陸」説の借用である。チャーチワードの『失われた大陸』は一九三一(昭和六)年、ニューヨークで刊行されている。失われた大陸説そのものは19世紀末から知られており、柳田がインドネシアに傾倒した大正期に発表した「机上南洋談」の中では、太平洋諸島の住民の起源説として「沈降大陸説」に触れている。
無論、柳田はそれを信奉していたわけではないが、「ムー大陸」が日本で受容される下地はあったのである。
そもそもムー大陸が存在したとされるのは、日本の委任統治地域であるミクロネシアである。日本の南洋支配の出発の地である。そのミクロネシア研究をふり出しに、「天孫族」の故郷としての「高天原」を求めてしまったのが松岡静雄だが、とはいえ彼は「ムー大陸」説にまでは、さすがに傾かなかった。(p. 179)

 ナチズム下のアトランティス伝説に比しても、ムー大陸説がどこまで「日本民族」の「起源論」として政治的説得力を持ったかといえば疑わしい。しかし、民俗学者ではないが松岡静雄、そして藤沢親雄といった柳田と相応に縁があった人々が「高天原」や「ムー大陸」を求めてしまったことと、柳田が「日本」への回路としての「郷土」を唱えたことは、やはり対の現象として見なくてはならない。
藤沢はいささか逸脱したとはいえ、そして、柳田は「伝統」という語そのものは忌避したとはいえ、やはりそれらは戦時下の政策科学として機能しうる、広義の民俗学的思考による「伝統」の創造にほかならなかったはずだ。(p. 183)

 柳田自身が戦時下に危ういバランスをとったとはいえ、周辺の者たちはやはり相応にファシズム下の政策科学としての民俗学を生きてしまっている。折口の「国学」、つまり折口民俗学が戦時下で果たした役割や、折口が日本神話をモチーフとして多くの詩を作っていることは、村井紀が『反折口信夫論』の中で指摘している。折口のナチズム発言は、その点で思うところがあってのことだったはずだ。(p. 185)

民族研究所が敗戦によって解体した後、占領軍のもとめで占領政策に岡〔正雄〕や石田英一郎そして関敬吾といった民族学者/民俗学者が関わったことが語られている。
岡のウィーン時代の日本文化に関する論文を、占領軍がわざわざウィーンから取り寄せた「行為」の「意図」は、日本人に対する民俗学・民族学的研究が「日本民族」の占領統治として有効だからにほかならず、かくして、一九〇七(明治四〇)年前後、近代日本の初めての植民地たる台湾への視線を「妖怪」と重ね合わせることで立ち上がったこの国の民族学は、占領政策科学として戦時下の罪を問われることもなく、戦後を生き延びたのである。(p. 186)


終章 可能性としての「公民の民俗学」

(……)この柳田と成城学園教師たちとの対話は、成城教育研究所『社会化の新構想』としてまとめられている。柳田社会化の構想は、「社会」という語に対して「世の中」なる語を対案として提示することから始まる。
(……)
ここでも、用語にまつわる政治性を忌避する柳田がいる。しかし、柳田が政治性を回避する時は、しばしば政治的であることを忘れはならない。(p. 191)

このように、人々が「私」を回収する所与の「構造」を用意した時、それは、かつて戦時下の民俗学が構想しようとした「日本」の代替物にほかならない。つまり、柳田は「社会」が外来語だから、あるいは社会主義を連想させるから忌避したのではない。占領下で使用不可能となった「国家」の代わりに、「世間」を実は使っているのだ。(p. 197)

 柳田はその理由として、他の教師の、まず新入生はクラスで他の友人との関係を学んだ方がいいのでは、という問いに、そのように「自分と他との差別」を学ぶ前に、「もう少し自分という方を研究」する必要があるとして「おつかさん」の学習を、自らの社会化の初まりに置くことを主張する。「国家」を失った柳田は、「私」の拠り所として「おつかさん」を持ち出すのである。
ここで、読者はようやく、本書の第一章で民俗学という言説が、「仮構の母」を求めてしまいかねないところが本質としてあることを、指摘しておいた意味がわかっていただけるだろう。「国家」を失った柳田の民俗学=社会科は母恋いの民俗学に対抗するのである。(p. 199)

(……)「個」を確立させ、それぞれが自分の「心意」をことばとして表出する技術を持ち、それぞれの差異を踏まえて公共性を立ち上げようとするかつての「公民の民俗学」と、一方では「国家」の、「他方では「母」の代償としての「世間」の中で、すでにある秩序に合わせることで「正しい選挙民たれ」と説く「世間の民俗学」の差はあまりに大きい。
だから個度、ぼくは「公民の民俗学」の可能性をあらためて主張する。「群を慕う」感情の断念から出発し、名付けられていない、定かでさえないが、しかし、それぞれの「私」を出発点とし、互いの差異を自らのことばで語りあい、それらの交渉の果てに「公共性」があるのだと考えた、昭和初頭に束の間出現した「公共の民俗学」こそが、ぼくたちが「日本」や「ナショナリズム」という近代の中で作られた「伝統」に身を委ねず、それぞれが違う「私」たちと、しかし共に生きうるためにどうにかこうにか共存できる価値を「創る」ための唯一の手段であると考える。
「創る」のは「伝統」ではなく、「個」から出発する「公共性」である。
その時、ぼくたちには「伝統」も「ナショナリズム」も不要となるはずである。(p. 200)


                                        (2011/12/13)