大澤真幸 |
第一章 北朝鮮を民主化する――日本国憲法への提案① (……)彼ら〔ユルゲン・ハーバーマスとジャック・デリダ〕の議論にはある閉塞がある。それは両者の相互的な批判によって明るみに出されることになる。ハーバーマスは、自由で合理的な討議=コミュニケーションのための先験的で普遍的な規則――初期範のためのメタ規範――を定式化しようとしてきた。それに対して、デリダは、どんな具体的な規範にも回収されない絶対的な他者を、妥協することなく受け入れることを要求する。 |
第二章 自衛隊を解体する――日本国憲法への提案② 資本主義の謎の核心は、余れば余るほど足りなくなるという逆説である。富の余剰と貧困とを相互累進的に産み出すシステムが、資本主義である。つまり、資本主義は、富の圧倒的な不平等をもたらす。それと並行して、資本主義という社会システムは、捨て置かれる人々を、つまりこのシステムの中で――自己のアイデンティティを構成するどの要素に対しても――最小限の肯定的な意味をも配分されることのない一群の身体たちを、析出することにもなる。民主的な合意への一切の希望を捨てた凶暴な熊が指示される温床は、こうして育ってくる。 日本人を拉致し、またその事実を隠蔽しようとしている北朝鮮に、食料や薬品を援助すべきではない、と主張する人がいる。それどころか、経済制裁を加えるべきだ、と主張する者すらいる。だが、日本での報道が正しいとすれば、北朝鮮の農村部の人々の多くは、まさに絶対的貧困にあえいでいる。北朝鮮への食料援助を拒否することは、溺れている子供は悪い子なのだから、死んでしまってもかまわない、と主張しているに等しい。北朝鮮への支援の方法に問題がある、という主張であれば、根拠がある。しかし、援助そのものを一般に否定すべきではない。 一方で、通貨危機にまでいたるほどの投機によって、経済的な弱小国を混乱に陥れながら、他方では、カール・ポパー流の「開かれた社会」を標榜しつつ、「第三世界」や「旧社会主義国」への気前のよい慈善家としても振る舞う人物、つまり投資家、ジョージ・ソロスのような人物が、資本主義のこうした二面性を具体化している。 中立が可能であるという想定こそ、現代社会にあっては、最大の欺瞞であろう。思想家のスラヴォイ・ジジェクはペルーのセンデロ・ルミノソがある村を支配下においたときに、最初に処刑したのは、兵士や警察官ではなく、そこに駐留していた合衆国や国連の関係者だった、というエピソードを挙げている(スラヴォイ・ジジェク『イラク』河出書房新社、二〇〇四年)。中立を装って活動する彼らこそ、「帝国主義」の尖兵だからである。 |
第三章 デモクラシーの嘘を暴く――まやかしの「美点」 私は、日本国憲法を改変しないために――少なくとも最大の争点となっている第九条を改変しないために――、われわれが為すべきことを二つ、提案してきた。第一に、北朝鮮に自発的な民主化を誘発する独特の戦略。第二に、自衛隊に代えて、海外での直接的贈与を任務とする特殊な部隊を創設すること。憲法の非改正と聞けば、消極的な守勢を、あるいは行為の否定を連想するかもしれない。だが。ここで述べてきたことは、非改正こそが、決然とした行為を、最も徹底した実践を含意する、ということである。(p. 82) (……)真の許しは、――デリダがあるインタヴューの中で述べているように――、未だに謝罪していないものへの赦し、赦しえないものへの赦ししかない、ということになろう。他者を「赦しえない」とわれわれに判断させた原因(他者の悪人性)を、その他者が未だに解消していない段階での赦しのみが、真の許したりうるのである。 キリストが死んだということは、超越的な神(キリスト)が、内在的な人間だということであろう。その結果は、何か? 人間は、信仰において、神と関係する。人間は、超越的な彼岸にいる神と関係しようとするのだが、その神は死んでしまい、もはやそこにはいないのだから、人間の(神に)関係しようとする行為は、人間へと、つまり信者たちへと環流してくるほかない。 第三者の審級(神)の同一性(アイデンティティ)に――つまり第三者の審級に帰せられる規範的な判断の整合的な集合に――、連帯の根拠を求めようとすれば、それにたまたまコミットしえた人々による、特殊に限定された共同性を得るほかないだろう。キリスト教が利用しようとしている原理は、これとは反対のことである。 〈私〉が〈私〉自身に対して〈他者〉であること、そして同じように、〈他者〉が〈他者〉自身に対して他者性を孕むこと、結局、すべての人の内に、自/他の根本的な葛藤が貫かれているということ、これだけが、普遍的な共同性への鍵となりうる。これこそキリスト殺害の含意である。(p. 94-95) |
民主政の支持者は、しばしば、支配への合意を民主制のメリットとする、だが、法哲学者、井上達夫が指摘するように、これは「便利な嘘」である。民主制は、多数者による少数者の支配制度であって、決して、すべての被支配者の合意によって支えられているわけではない。 〔サイモン・〕クリッチリーは、どのような支配の体制もヘゲモニー的で、その点では民主制も異ならないが、ただ民主制のみが、そのヘゲモニー性を自覚しており、またそれをあからさまにしている、と論ずる。 民主主義に基づく権力行使も、偶有的でヘゲモニー的であることには変わりがない。しかし、民主主義以外の統治のシステムは、偶有性が露呈することを自らにとっての危機と見なし、それを隠蔽しようとする。つまり、その統治が、真理に基づく必然性であるかのように装う。それに対して、クリッチリーによれば、民主主義だけが、自身の権力行使の偶有性を自覚しており、それを公言している。 (……)人は、討議において、どの特定の意見も、そしてまたどのような結論に至ろうとも、それは、偶有的なものであると認識してはいる。だが、他方で、まさに討議するという行動において、人は、必然的な真理の存在を前提にしてしまっているのである。だから、合意事項は、真理であるかのように扱われることになる。 |
投票の場合も、結局、真理の存在そのものは、仮定されているのである。投票を成り立たせているのは、次のような態度である。 民主主義は、討議によるそれであれ、投票によるそれであれ、第三者の審級の知として真理の存在を前提にしている。「われわれ」は、その真理が何であるかを知らない。だが、それを知っている人がいる。 ある選択が民主主義てきに正当化されていれば、後で、その選択が失敗であると判明したとき、その選択が「真理」とは大幅に乖離していることがはっきりしたとき、「皆」で責任を取ることができる――ということは誰も責任を取らなくてもすむ。つまり、民主主義にわれわれがしがみつくことの背景には、もしかするとわれわれの安全性、われわれの生存に最終的な責任をもってくれる超越的な形象――第三者の審級――が存在していないのではないか、という不安がある。 |
第四章 「正義」を立て直す――「みんなのルール」のつくり方 〔ロールズの〕正義の第一原理は、「全成員が平等に、基本的な諸自由(政治に参加する自由、言論の自由、集会の自由、思想や良心の自由等)を、他者の同様な自由を疎外しない限りにおいて、最大限享受することができる」というものである。(……)ロールズによると不平等が支持される場合が、二つある。 しかし、ソフィーの選択のような事態に対しては、ロールズの論理は、所期の方針を貫くことはできない。 (……)人は、選択不可能な自由、選択不可能な選択という形式で、共同体に参入する。なぜ、選択不可能なのか。その選択は、常に、すでに完了してしまったものとしてのみ扱われるからである。 この世界の深い葛藤を超克するためには、われわれのそれぞれが、価値観や善の観念を規定している共同体から離脱できなくてはならない。だが、常に、自分自身を、この種の共同体に「すでに参入してしまったもの」として見出すほかない。 |
こうした「開かれた態度」は、創始者のことばに無条件に拘泥する者よりも、真理の探究にとって有利なように見える。ところが、実際には、そうはならないのだ! そうした「開かれた研究」は、たいてい、悲惨なまでにつまらないことしか論証できない。それよりも、マルクスやフロイトのテクストに教条主義的に拘泥する、「偏狭な研究」の方が、はるかに深い心理を導き出してきたのだ。 可能なことが、まさにその概念内容に一致するためには――つまり可能になるためには――、それが、同時に現実性へと直結していなくてはならないということ、これである。壁を越えるような記録が事実(現実)になったということ、まさにその事実を現認したということ、これによって、(他のアスリートにとって)可能性が、現実性としての資格を得る。 (……)「可能性」という語は、二つの反対語に引き裂かれるようにしてしか使われない。不可能だという意味での「可能性」と、現実的だという意味での「可能性」である。そのどちらでもない、純粋な可能性というゾーンは存在しないのだ。 先験的選択とは、あるタイプの他者の存在を前提にした社会的効果ではないか(……)。 (……)第三者の審級は、諸身体の精妙な相互作用を通じて、規範の選択性に帰属先として生成され、投射される。 |
先験的選択とは、他者(第三者の審級)の現前を前提にした社会的効果である(……)。人は、他者が選択したという事実に、他者の行為に、応答してしまうのである。言い換えれば、先行的投射にあって、人は、他者から要求され、そしてそれ以上に、、問われているように感受している、ということだろう。(p. 147-148) ラカン的な用語を用いれば、「原抑圧」(第三者の審級の先行的投射)は、――ちょうど「量子力学の波動関数の崩壊」のように――「対のシニフィアン(意味或るもの)の崩壊」を伴う。つまり、それは、二つあった可能性の一方を、最初から脱落させてしまい、選択を事実のように見せかける。その先行的投射をゼロから反復することで、人は、崩壊前の状態、純粋な「波動関数」を体験するのである。 ロールズの論理が、「ソフィーの選択」のような犠牲的な状況に対して無力だった根本的な理由もはっきりした。人が、そもそも選択の主体になるためには、犠牲(対のシニフィアンの崩壊)が――根源的に他なる可能性に排除が――前提だったからである。
歴史(学)は、過去の事実の単なる複写的な記述ではない、といったことは、今日では常識であろう。つまり、歴史を構成する文は、言語行為論の用語を用いれば、事実確認文よりも、執行文に近い。だが、それは、どのような形式の執行文なのか? (……)四五年八月一五日(E1)が戦争の終わりだったとか、まして、その時こそが戦後史の始点であって、このとき事実上革命が起きていた(「八月革命」説)とする認識は、五五年以降の時点(E2)を暗黙の前提にしているのだ。 |
争われているのは、書かれる内容ではない。書かれる客体ではない。誰が歴史を書くのか、誰の視点で歴史を書くのか、最後の審判の視点は何か、が争点なのだ。 ここで、想像してみるのである。それならば、もし〔映画『カサブランカ』で〕別の結末が撮られていたら、われわれは、それを変だとか、不自然だとか感じたのだろうか、と。ジジェクがあるところで断言しているように、決して、そんなことはあるまい。われわれは、今度は、別の結末を自然なものとして受け取ったに違いない。 (……)事後の視点にとっては、歴史は、「ここ」へと至る必然の連鎖だが、渦中にあっては、つまり歴史の過程に参加していたものにとっては、それは、必然とはほど遠い。そこでは、「他でもありえた」中にあって、「これ」が実現し、また選ばれていく、連続だったのだ。後からの歴史の中には登録されることがない、「他でもありえた」という可能性、こうした可能性に荷担した人々、こうした可能性のなかでしか意味を与えられない人々、これが歴史の敗者である。歴史の生成のなかに参与するならば、任意の地点に、敗者の可能性が隣接している。 〈歴史〉は、「歴史」が捨て去ったゴミのような敗者を意味づけ、救済するのである。ここで重要なことは、ゴミ、つまり敗者は、勝者の偶有的可能性だということである。 (p. 171) (……)ベンヤミンはこうも述べる。「もし敵が勝てば、死者さえも安全ではない」と。ベンヤミンの歴史哲学テーゼの冒頭のアレゴリーは、こうした事態を前提にしてこそ、理解することが可能だ。常に、他なる最後の審判を導入することによって、敗者を勝者へと転換することができる。すなわち、神学は、史的唯物論を操って、常にチェスに勝利する。 (p. 176) (……)過去の中には、現在がその救済であるような、あるいは逆に裏切りであるような、(過去にとっての)未来への期待が孕まれているのである。ベンヤミンが「メシヤ的な歴史」と言ったのは、過去の内にありながら、多くの場合、約束を果たされずに消えていった、こうした期待をも含めた時間のことであろう。 |
〈歴史〉を確立すると言うことは、最後の審判を、この不定のXという形式において措定することである。つまり、回想や想起のモードとしての「歴史」ではなく、生成のモードにおける〈歴史〉とは、最後の審判が、本来、このような不定性であったことを体験することなのだ。(p. 179-180) 「代表」という機制から独立して、「国民」や「人民」の統一性はありえない。王の支配においては、臣民(の承認)という現実が、王という虚構を産み出していた。民主主義においては逆に、虚構は、被支配者の側にある。すなわち、民主主義的な権力者が存在しているということ、それが、被支配者が――代表という機制を受け入れうる――統一体として存在しているという虚構を生み出しているのだ。(p. 182-183) 「国民」や「人民」を、代表のメカニズムを経由して統一体として生み出す民主主義は、実は、まだ不徹底な民主主義、民主主義の潜在的な可能性を汲み尽くしていない民主主義ではないか。 「民主主義」を〈民主主義〉の方へと乗り越えるということの意味について述べた。「民主主義」を、逆方向に「乗り越える」ときに得られるのが、全体主義である。どういうことか? 述べてきたように、人民や国民を代表する、民主主義の指導者の存在が、「人民」や「国民」を統一体として逆規定する。この帰結をさらに強く取って、指導者を、(まさに自らの代表として)承認しない者は、定義上、「人民」ではないと見なして、「人民」から排除することになれば、そこに得られるのは、全体主義である。通常の「民主主義」においては、「現実には指導者を承認しない少数派が存在している」ということを意識しつつ、それを、一種の制度的な虚構として無化する。その「無化」が制度的な虚構であることを超えて、現実的な排除として機能し始めれば、全体主義になる。(p. 185
政治哲学者ハンナ・アーレントは、二つの条件〔自由と開放性〕がともにみたされている社会のあり方を公共的空間と呼んだ。彼女は、対独レジスタンスの活動家でもあった詩人ルネ・シャールの美しい言葉を借りて、公共的空間の特徴を表現している。それは、こういうことばだ。「私たちが一緒に食事を取るたびに自由は食席に招かれている。椅子は空いたままだが席はもうけてある」(ハンナ・アーレント『過去と未来の間』みすず書房、一九九四年)。テーブルに譬えられた公共的空間には、常に、空いたままの席が用意されている。誰もが、その席に就くことができ、そこで歓待されるのである。(p. 190) (……)少なくとも本質的に重要な自由と、困らぬ程度に十分な開放性との間には、適当なバランスがありうる、と長い間信じられてきた。しかし、こうした信頼の崩壊こそが、現代のグローバル化した社会の特徴なのである。(p. 190) |
ドナルド・ラムズフェルト米国務長官(当時)は、アフガニスタン空爆の目的を問われて、「できるだけ多くのタリバン兵を殺すことだ」と答えている。これは、まるで害虫を駆除するときの態度であって、通常の軍事目的を超えている。このことばが表現しているように、アル・カイダやタリバンといったテロリストたちは、「われわれ」から物理的に遠いだけでなく、心理的にも圧倒的に乖離している――ほとんど「同じ人間」と見なされていない。(p. 195) テロが起きたとき、アメリカ人が最も恐れたことは、テロリストがアメリカ社会に深く浸透し、アメリカ市民と区別がつかない状態で潜んでいるのではないか、ということである(テロ直後の「炭疽菌騒動」のことを思い起こせばよい)。 恐怖の政治の賭け金になっているのは、まさに、「われわれ」――「彼ら」でもあるような「われわれ」――である。 (……)コミュニタリアン(交響圏)とリベラリズム(公共圏)のそれぞれに関して、実践的な展開形態ともいうべき極端化が生じうる、ということを確認しておく必要がある。 たとえば、沖縄の少女の場合を考えてみよう。第一に、女性への暴力が基地問題として公認されてはこなかった(排除)。第二に、レイプは、他者からの同情や理解を徹底的に拒む、個人の内的な核への冒涜である(特異性)。盗賊たちと混じって、苦しみと悩みの内に殺された惨めなキリストの姿もまた、共同体の秩序から排除された特異性を表現している。彼らは、共同体の階層序列の底辺ということですらなく、その内部で位置づけられない排除された一点である。 |
(……)制度化された社会秩序のなかで位置づけをもたず、公認の誰の意志をも直接には代表しない、排除された他者を、普遍的な開放性を有する社会の全体性と妥協なく同一視してしまうこと、これが、以上の考察から暗示される、来たるべき民主主義の基本的な構想である。これは、すべての意志の平均的な集計という、通常の意味での民主主義のまったくの否定である。 最後に、今日における最大の社会問題、地球環境問題に即して、まさに、開放性のよりどころとなる、「排除された他者」とは何かを考えておこう。それは、たとえば、「第三世界」の貧民や農民だろう。さらに、何よりも、それは、声なき未来世代、来たるべき他者ではないか。未だ生まれざる他者の要求を、妥協することなく、社会の全体性を代表する普遍的な意志と見なすこと、これが、エコロジカルな破局へ対抗する民主主義だ。 (p. 234)
(2011/12/20) |