ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <書 抜き書きメモ36>

大澤真幸
逆説の民主主義
――格闘する思想
角川書店、2008年

第一章 北朝鮮を民主化する――日本国憲法への提案①

(……)彼ら〔ユルゲン・ハーバーマスとジャック・デリダ〕の議論にはある閉塞がある。それは両者の相互的な批判によって明るみに出されることになる。ハーバーマスは、自由で合理的な討議=コミュニケーションのための先験的で普遍的な規則――初期範のためのメタ規範――を定式化しようとしてきた。それに対して、デリダは、どんな具体的な規範にも回収されない絶対的な他者を、妥協することなく受け入れることを要求する。
デリダの観点から見ると、「普遍的な規則」と称するものによって、自己と他者のコミュニケーションを規制することは、他者の他性を特定の範囲内に限定していることになる。それでは、十分に開かれた関係とは言えない。だが、ハーバーマスの観点からすれば、自他関係を規制する一切の規範やルールがなければ、いかなる積極的な関係も構築されず、結局、「他者の尊重」という倫理は空疎なものに転ずる。合理的な討議に応ずるつもりもなく、暴力に訴えてくるような他者とは関係することができないだろう、というわけだ。
どちらの批判もまったく正しいと言わざるをえない。言い換えれば、デリダとハーバーマスは、相互に、相手の負の真実(欠陥)を映しあっているのである。(p. 14)

 ハーバーマスとデリダの合意点は、「他者(性)の尊重」であるということの確認が、われわれの出発点であった。だが、アメリカは、デリダ派の裏面の真実であるという先に確認した論点を背景にしてみるならば、「他者(性)の尊重」という方針は、政治の実際の場面では、逆に、他者の一般的な排除へと、全面的に反転してしまうのである。
このとき出現する世界は、どんな様相を呈することになるだろうか。冷戦期に、われわれは、世界を破滅に追いやる最終戦争を恐怖した。しかし、それは、常に、それこそ不確実な可能性にとどまり続けた。最終戦争は、決して始まらなかったのである。
その後の十年間、つまり一九九〇年代のおよそ十年間、アメリカの政治学者フランシス・フクヤマに導かれて、われわれは「歴史の終わり」に到達したのではないか、という幻想を抱くことになる。九・一一テロは、歴史の終わりがすでに終わっていたことを白芹形象であった。気がついたとき、われわれは「テロへの戦争」にコミットしている。それは、原理的に終わらない戦争である。それは、究極的には、他者一般への排除へと指向しているからである。
始まらない最終戦争の代わりに得たものは、終わらない戦争だったのである。(p. 20-21)

始まらない最終戦争の代わりに得たものは、終わらない戦争だったのである。(p. 20-21)

 ここで、あの『裸の王様』の寓話のことを考えてみよう。王が裸であるということを知らないのは誰なのか? 任意の個人が、本当は王が裸であることを知っている。王自身すらも知っているのである。それにもかかわらず、彼らは、皆、王が裸であることを知らないかのように振る舞うのだ。どうしてか? どの個人も、「他の者は、王様が服を着ていることを知っている(皆は、王様が裸であることを知らない)」という認知を持っているからだ。知らないのは、だから「皆」である。それは誰なのか? それは、王国を構成する個人たちの総和では断じてない(何しろ、どの任意の個人も「知っている」のだから)。私が「第三者の審級」と呼んできた、超越的な他者こそは、任意の個人から独立して機能するこの「皆」である。(p. 34-35)

第二章 自衛隊を解体する――日本国憲法への提案②

資本主義の謎の核心は、余れば余るほど足りなくなるという逆説である。富の余剰と貧困とを相互累進的に産み出すシステムが、資本主義である。つまり、資本主義は、富の圧倒的な不平等をもたらす。それと並行して、資本主義という社会システムは、捨て置かれる人々を、つまりこのシステムの中で――自己のアイデンティティを構成するどの要素に対しても――最小限の肯定的な意味をも配分されることのない一群の身体たちを、析出することにもなる。民主的な合意への一切の希望を捨てた凶暴な熊が指示される温床は、こうして育ってくる。
草であるとすれば、資本主義というシステムをいつの日にか乗り越えることを指向しない解決は、どれも中途半端なものだと言わざるをえない。(p. 50)

日本人を拉致し、またその事実を隠蔽しようとしている北朝鮮に、食料や薬品を援助すべきではない、と主張する人がいる。それどころか、経済制裁を加えるべきだ、と主張する者すらいる。だが、日本での報道が正しいとすれば、北朝鮮の農村部の人々の多くは、まさに絶対的貧困にあえいでいる。北朝鮮への食料援助を拒否することは、溺れている子供は悪い子なのだから、死んでしまってもかまわない、と主張しているに等しい。北朝鮮への支援の方法に問題がある、という主張であれば、根拠がある。しかし、援助そのものを一般に否定すべきではない。
だが、そもそも、われわれが、最貧国の貧困に責任がないということは、ほんとうであろうか? (p. 60-61)

一方で、通貨危機にまでいたるほどの投機によって、経済的な弱小国を混乱に陥れながら、他方では、カール・ポパー流の「開かれた社会」を標榜しつつ、「第三世界」や「旧社会主義国」への気前のよい慈善家としても振る舞う人物、つまり投資家、ジョージ・ソロスのような人物が、資本主義のこうした二面性を具体化している。
あるいは、――「テロとの戦争」こそが資本主義的な搾取の最終的かつ悲劇的な帰結であることを思うと――、アフガニスタンに爆弾と援助物資を同時に空から投下した、2001年の九・一一テロ後のアメリカの「空爆」は、あまりに象徴的であったというべきではないか。(p. 62)

中立が可能であるという想定こそ、現代社会にあっては、最大の欺瞞であろう。思想家のスラヴォイ・ジジェクはペルーのセンデロ・ルミノソがある村を支配下においたときに、最初に処刑したのは、兵士や警察官ではなく、そこに駐留していた合衆国や国連の関係者だった、というエピソードを挙げている(スラヴォイ・ジジェク『イラク』河出書房新社、二〇〇四年)。中立を装って活動する彼らこそ、「帝国主義」の尖兵だからである。
贈与の直接性ということが含意していることは、中立とは、まったく逆のことである。つまり、それは、すべての陣営から距離をとろうとする、ということとは反対のことである。それは、ときに互いに敵対しあう、あらゆる陣営への、無限のコミットメントをこそ含意しているのである。(p. 77)

第三章 デモクラシーの嘘を暴く――まやかしの「美点」

私は、日本国憲法を改変しないために――少なくとも最大の争点となっている第九条を改変しないために――、われわれが為すべきことを二つ、提案してきた。第一に、北朝鮮に自発的な民主化を誘発する独特の戦略。第二に、自衛隊に代えて、海外での直接的贈与を任務とする特殊な部隊を創設すること。憲法の非改正と聞けば、消極的な守勢を、あるいは行為の否定を連想するかもしれない。だが。ここで述べてきたことは、非改正こそが、決然とした行為を、最も徹底した実践を含意する、ということである。(p. 82)

(……)真の許しは、――デリダがあるインタヴューの中で述べているように――、未だに謝罪していないものへの赦し、赦しえないものへの赦ししかない、ということになろう。他者を「赦しえない」とわれわれに判断させた原因(他者の悪人性)を、その他者が未だに解消していない段階での赦しのみが、真の許したりうるのである。
さて、もしここに(北朝鮮に関して)提案してきたように事態が進行するのだとすれば、われわれは、こう結論することができる。〈他者〉が変容し、われわれの方へと歩み寄るのだとすれば、それは、われわれ自身が、その〈他者〉と化していたときだ、と。(p. 86)

キリストが死んだということは、超越的な神(キリスト)が、内在的な人間だということであろう。その結果は、何か? 人間は、信仰において、神と関係する。人間は、超越的な彼岸にいる神と関係しようとするのだが、その神は死んでしまい、もはやそこにはいないのだから、人間の(神に)関係しようとする行為は、人間へと、つまり信者たちへと環流してくるほかない。
このとき、つまり神が人間に置き換えられたとき、神の場所に、原理的には、人間の――あるいは信者の――普遍的な共同性(教会)が出現することになるだろう。この共同性を成り立たせる紐帯こそが、キリスト教徒のいうところの「聖霊」(あるいはキリストの身体)であろう。
神の許しが、キリストの磔刑死という、迂遠な回路を必要としたのは、赦しが、人間の側でのこうした変移――普遍的な共同性への移行――を伴わなくてはならないからではないか。
この構成は、対北朝鮮政策に定位して述べたことの、大規模な反復である。赦しにおける神=キリストの自己否定(消滅)が、同時に、他者(人間)の変容を伴っているのだから。(p. 90-91)

第三者の審級(神)の同一性(アイデンティティ)に――つまり第三者の審級に帰せられる規範的な判断の整合的な集合に――、連帯の根拠を求めようとすれば、それにたまたまコミットしえた人々による、特殊に限定された共同性を得るほかないだろう。キリスト教が利用しようとしている原理は、これとは反対のことである。
その原理とは、こうだ。すなわち、第三者の審級(神)が自らに対して孕む差異(他者性)を媒介にしたとき、つまりそうした差異の上へと人々が自らを投射しうるという事実を連帯のための媒介として活用としたとき、どこまでも包括的で普遍的な共同性が拓かれるはずだ、と。(p. 94)

〈私〉が〈私〉自身に対して〈他者〉であること、そして同じように、〈他者〉が〈他者〉自身に対して他者性を孕むこと、結局、すべての人の内に、自/他の根本的な葛藤が貫かれているということ、これだけが、普遍的な共同性への鍵となりうる。これこそキリスト殺害の含意である。(p. 94-95)

民主政の支持者は、しばしば、支配への合意を民主制のメリットとする、だが、法哲学者、井上達夫が指摘するように、これは「便利な嘘」である。民主制は、多数者による少数者の支配制度であって、決して、すべての被支配者の合意によって支えられているわけではない。
井上は、民主制のメリット、民主制の正当化根拠を、むしろ、「合意(による統治)」とはまったく逆の点にこそ見るべきだ、と指摘する。すなわち、民主制の正当化根拠は、社会内で対立する諸力の解放にこそある、と。
社会内には、多様な利害や価値観がある。民主制は、それらの利害や価値観の存在と自己主張を赦し、むしろ奨励しさえする。非民主的な体制にあったように、ある種の利害関心や価値観をア・プリオリに抑圧したり、排除したりする、ということがないのだ。民主的な政治過程の核心的な特徴は、合意の創出にあるのではなく、非合意の可能性を留保している点にこそある。(p. 103)

〔サイモン・〕クリッチリーは、どのような支配の体制もヘゲモニー的で、その点では民主制も異ならないが、ただ民主制のみが、そのヘゲモニー性を自覚しており、またそれをあからさまにしている、と論ずる。
ここで「ヘゲモニー的」と言われているのは、原理的には偶有的contingentであるような価値観が、強制されている状態である。実体的な真理の存在を前提にしないとすれば、どのような価値や理念に基づいて支配がなされていようとも、その支配は偶有性を免れない。つまり「他でもありうる」という可能性を除去できない。支配を正当化している価値や理念は、結局、真理に基礎づけられていない、恣意的な選択の産物でしかないからだ。(p. 106)

民主主義に基づく権力行使も、偶有的でヘゲモニー的であることには変わりがない。しかし、民主主義以外の統治のシステムは、偶有性が露呈することを自らにとっての危機と見なし、それを隠蔽しようとする。つまり、その統治が、真理に基づく必然性であるかのように装う。それに対して、クリッチリーによれば、民主主義だけが、自身の権力行使の偶有性を自覚しており、それを公言している。
クリッチリーのこうした論は、民主主義の多元主義的な性格を称揚する議論の独特の言い換えである。民主主義的な権力行使が偶有性を標榜していると言うことは、このシステムが「支配に対する少数派の非合意」を留保している、ということと同じことだからである。
(……)その偶有性を自覚しつつ、信念を保持している者たちを、ローティは「アイロニスト」と呼んでいる。(p. 107)

(……)人は、討議において、どの特定の意見も、そしてまたどのような結論に至ろうとも、それは、偶有的なものであると認識してはいる。だが、他方で、まさに討議するという行動において、人は、必然的な真理の存在を前提にしてしまっているのである。だから、合意事項は、真理であるかのように扱われることになる。
偶有性は、認識の水準では自覚されているが、行動の水準では、否認されている。このような認識と行動の逆立ちによって定義される状態を、私は、「アイロニカルな没入」と呼んできた(「わかっているが、止められない」という態度)。
すると、民主制と他の支配の制度との差異は、クリッチリーが言うほどには大きくないことがわかる。偶有性の否認が、認識の水準から行動の水準に移っただけだからだ。民主主義は、偶有性の隠蔽の仕方が、より一層狡猾だと言ってもよい。隠していないふりを通じて、まさに隠しているのだからだ。(p. 109)

投票の場合も、結局、真理の存在そのものは、仮定されているのである。投票を成り立たせているのは、次のような態度である。
真理の内容は、結局はわからない。それは、永遠にわからない。が、しかし、真理が存在している以上は、それは、何かではあるはずだ。それは、何か実定的な内容をもっているはずだ。
第一に、真理は、原理的には――つまり十分に理性的であれば――全員が合意するはずのものであること、第二に、真理が存在していることは確実であるということ、これら二つの条件から、全員ではないにせよ、できるだけ全員に近いものが同意したものを、真理の近似物として使用しよう――それを暫定的に真理であるかのように扱おう。
これが、投票を成り立たせている態度だ。したがって、投票においても、偶有性は、行動的に否認されているのだ。(p. 110-111)

民主主義は、討議によるそれであれ、投票によるそれであれ、第三者の審級の知として真理の存在を前提にしている。「われわれ」は、その真理が何であるかを知らない。だが、それを知っている人がいる。
誰か? 第三者の審級である。第三者の審級の(「われわれ」にとっては不可知の)知を前提にすれば、討議や投票を機能させることができる。その知が、討議や投票が、そこへと収束し、または漸近するための虚の焦点となるからである。
だから、民主主義は、単一の第三者の審級の存在を前提にしているに等しい。民主主義が、多元主義を表面上は標榜しながら、結局は、排除を伴わざるをえない理由は、ここにある。単一の第三者の審級を前提にした途端に、真理(という名前の虚偽)による支配を容認したことになるからだ。(p. 111-112)

ある選択が民主主義てきに正当化されていれば、後で、その選択が失敗であると判明したとき、その選択が「真理」とは大幅に乖離していることがはっきりしたとき、「皆」で責任を取ることができる――ということは誰も責任を取らなくてもすむ。つまり、民主主義にわれわれがしがみつくことの背景には、もしかするとわれわれの安全性、われわれの生存に最終的な責任をもってくれる超越的な形象――第三者の審級――が存在していないのではないか、という不安がある。
だから、一方で、民主主義というシステムは、論理的には単一の第三者の審級の存在を前提にしているのに、他方で、人がそれに強迫的にしがみつくとき、その衝動を支えている心理は、まったく逆に、第三者の審級はもはやどこかに消えてしまっているのではないかという不安である。
ともあれ、現代社会における価値観や利害の真の多元性に対応した集合的な意志決定の方法は、(既存の)民主制とは異なったシステムでなくてはならない。(p. 113-114)

第四章 「正義」を立て直す――「みんなのルール」のつくり方

〔ロールズの〕正義の第一原理は、「全成員が平等に、基本的な諸自由(政治に参加する自由、言論の自由、集会の自由、思想や良心の自由等)を、他者の同様な自由を疎外しない限りにおいて、最大限享受することができる」というものである。(……)ロールズによると不平等が支持される場合が、二つある。
それが正義の第二原理を構成する。(……)正義の第二原理は、「機会均等の原則」と「格差原理」の二つの項より成る。(p. 123-124)

しかし、ソフィーの選択のような事態に対しては、ロールズの論理は、所期の方針を貫くことはできない。
しかも、われわれは、ソフィーが直面させられたような状況は、今日では、決して例外的なものではないということ、これは、決して、無理やりつくられた不自然な状況ではないということ、このことに気づかなくてはならない。
たとえば、人口問題や環境問題は――誰も声高には言えないことだが――、ソフィーの選択と同じ構造を持っている。すべての人間、すべての生物種が生き延びようとすれば、この地球は狭すぎて、かえって全員が滅びるしかないだろう。だれかが生き延びることができるのは、他の多くが犠牲になった場合に限られるかもしれないのだ。
あるいは、社会福祉的な再分配にも、類似の問題がある。すべての障害者や高齢者に最低限度以上の生活を保障するためには、われわれの税金や年金の総額は小さすぎるかもしれないのだから。
『正義論』が提起する論理的な貴女は、今日では、非常に一般的なこれらの課題に対して、すべて無力なのである。(p. 127-128)

(……)人は、選択不可能な自由、選択不可能な選択という形式で、共同体に参入する。なぜ、選択不可能なのか。その選択は、常に、すでに完了してしまったものとしてのみ扱われるからである。
この「すでに完了してしまった」という様相を帯びてのみ現れる選択、こうした選択に注目したのはフリードリヒ・シェリングである。われわれは、これを、シェリングに倣って「先験的選択」と呼ぶことにしよう。(p. 133-134)

この世界の深い葛藤を超克するためには、われわれのそれぞれが、価値観や善の観念を規定している共同体から離脱できなくてはならない。だが、常に、自分自身を、この種の共同体に「すでに参入してしまったもの」として見出すほかない。
他方で、何らかの方法で、たとえば現象学的な還元のような哲学的努力によって、「無知のヴェール」を被った状態へ移行できたとしても、このときには、われわれは、(制度や原理の)選択の能力そのものを失ってしまうだろう。言い換えれば、われわれは、未だ、われわれのアイデンティティや性格を規定している何らかの共同体やきょうどうせいに内属したままなのだ。 (p. 135-136)

こうした「開かれた態度」は、創始者のことばに無条件に拘泥する者よりも、真理の探究にとって有利なように見える。ところが、実際には、そうはならないのだ! そうした「開かれた研究」は、たいてい、悲惨なまでにつまらないことしか論証できない。それよりも、マルクスやフロイトのテクストに教条主義的に拘泥する、「偏狭な研究」の方が、はるかに深い心理を導き出してきたのだ。
これは、どうしたことだろうか? これは、ハーバーマスのいう「合理的な討議」なるものの生産性や効力に疑問を投げかけるに十分な事実ではないか。
ここで、前項の議論との関連を付けておけば、次のことが言えるだろう。後続の古典研究者にとっては、創始者による発見が――たとえばマルクスやフロイトによる発見が――、先験的選択としての意義を担っているのではないか、と。それに対して、「開かれた態度」の基づく研究社は、言ってみれば、ロールズの「起源の位置」に発っているようなものだ。(p. 140-141)

可能なことが、まさにその概念内容に一致するためには――つまり可能になるためには――、それが、同時に現実性へと直結していなくてはならないということ、これである。壁を越えるような記録が事実(現実)になったということ、まさにその事実を現認したということ、これによって、(他のアスリートにとって)可能性が、現実性としての資格を得る。
可能性が、まさに可能性の水準にとどまりつつ、現実性でもあるとき、初めて、それは、真になしうることになるのだ。(p. 143)

(……)「可能性」という語は、二つの反対語に引き裂かれるようにしてしか使われない。不可能だという意味での「可能性」と、現実的だという意味での「可能性」である。そのどちらでもない、純粋な可能性というゾーンは存在しないのだ。
突然、記録を突破した者は、「可能性」という語に孕まれている二つの意味の間の越境を担ったのだと言ってよかろう。すなわち、彼(または彼女)は、空虚な可能性――可能性=不可能性――を、充実した可能性――可能性=現実性――へとカタストロフィックに反転させる触媒としての機能を果たしているのである。(p. 144)

先験的選択とは、あるタイプの他者の存在を前提にした社会的効果ではないか(……)。
それの反復となりうる他者が存在しているとき、先験的な選択が可能になる。選択が先験性を帯びるのは、私の経験的な選択に対して、その他者が、構造的・論理的に先行性をおびたものとして立ち現れるからである。
「あるタイプの他者」とは何か? それこそ、私が「第三者の審級」と呼んできた、超越(論)的な他者にほかなるまい。(p. 145-146)

(……)第三者の審級は、諸身体の精妙な相互作用を通じて、規範の選択性に帰属先として生成され、投射される。
その際、第三者の審級は、独特の時間性を帯びて投射される。すなわち、第三者の審級は、諸身体の経験的な現在に対して、論理的に先立つ場所へと、それゆえ決して現在であったことはないような過去へと投射されるのだ。
このような投射のメカニズムを、私は、「先行的投射」と呼んできた。先験的選択の本体とは、結局、第三者の審級の先行的投射にほかならない。(p. 146)

先験的選択とは、他者(第三者の審級)の現前を前提にした社会的効果である(……)。人は、他者が選択したという事実に、他者の行為に、応答してしまうのである。言い換えれば、先行的投射にあって、人は、他者から要求され、そしてそれ以上に、、問われているように感受している、ということだろう。(p. 147-148)

ラカン的な用語を用いれば、「原抑圧」(第三者の審級の先行的投射)は、――ちょうど「量子力学の波動関数の崩壊」のように――「対のシニフィアン(意味或るもの)の崩壊」を伴う。つまり、それは、二つあった可能性の一方を、最初から脱落させてしまい、選択を事実のように見せかける。その先行的投射をゼロから反復することで、人は、崩壊前の状態、純粋な「波動関数」を体験するのである。
だから、水平的な他者たちの間の「合理的」な討議(だけ)ではなく、垂直的な他者(媒介者)との関係を組み入れることによって、民主主義は、真にその名にふさわしいものとして再生するだろう。すなわち、それは、真に多様性を保証しうる政体として機能し始めるに違いない。(p. 151)

ロールズの論理が、「ソフィーの選択」のような犠牲的な状況に対して無力だった根本的な理由もはっきりした。人が、そもそも選択の主体になるためには、犠牲(対のシニフィアンの崩壊)が――根源的に他なる可能性に排除が――前提だったからである。
ある種の犠牲は、選択の結果ではなく、前提なのである。(p. 151-152)


第五章 歴史問題を解決する――隣国とのつきあい方

歴史(学)は、過去の事実の単なる複写的な記述ではない、といったことは、今日では常識であろう。つまり、歴史を構成する文は、言語行為論の用語を用いれば、事実確認文よりも、執行文に近い。だが、それは、どのような形式の執行文なのか?
哲学者アーサー・ダントの歴史の物語文をめぐる分析が、回答になる。ダントによれば、歴史の物語文は、時間的に隔たった二つの出来事――E1とE2――を考慮に入れながら、直接には、E1のみを明示する文である(アーサー・ダント『物語としての歴史』国文社、一九八九年)。(p. 163)

(……)四五年八月一五日(E1)が戦争の終わりだったとか、まして、その時こそが戦後史の始点であって、このとき事実上革命が起きていた(「八月革命」説)とする認識は、五五年以降の時点(E2)を暗黙の前提にしているのだ。
一般に、出来事E1は、それ自体としては、何ものでもない。E1が何ものか(つまりE1)であるためには、E2が必要となるのだ。歴史が、このような構成をとった言語行為であるとすると、それは、すこぶる重要な含意を伴っている。歴史を捉えるということは、常に、後からの視点を前提にしている、ということが、その含意だ。言い換えれば、歴史を書くとき、人は、すべてが終わってしまった地点にいるかのように振る舞っているのである。歴史は、「最後の審判」の視点から書かれるのだ。(p. 164-165)

争われているのは、書かれる内容ではない。書かれる客体ではない。誰が歴史を書くのか、誰の視点で歴史を書くのか、最後の審判の視点は何か、が争点なのだ。
日本も中国(韓国)も、自らが勝者となるような歴史認識の視点を欲している。ところが、そこから見たときに両者がともに勝者としてたち現れるような視点は存在しない。葛藤が、原理的で、深刻なのはそのためである。(p. 166)

ここで、想像してみるのである。それならば、もし〔映画『カサブランカ』で〕別の結末が撮られていたら、われわれは、それを変だとか、不自然だとか感じたのだろうか、と。ジジェクがあるところで断言しているように、決して、そんなことはあるまい。われわれは、今度は、別の結末を自然なものとして受け取ったに違いない。
こうした想像が示唆していることは、事後において出来事を「すでにあったこと」として捉える視点からは、どうしても、出来事の連鎖は、自然で有機的なものとして、つまりは必然性を有するものとして立ち現れるほかない、ということである。
ヘーゲルの「理性の狡智」のからくりも、この点にこそある。理性が、初めから目的を決めておいて、人間の活動をあれこれと調整しているわけではない。そうではなくて、事後に視点を設定したとき、まるで、それ以前の出来事が最終的な地点を目的として連なっているように見えるのだ。(p. 167-168)

(……)事後の視点にとっては、歴史は、「ここ」へと至る必然の連鎖だが、渦中にあっては、つまり歴史の過程に参加していたものにとっては、それは、必然とはほど遠い。そこでは、「他でもありえた」中にあって、「これ」が実現し、また選ばれていく、連続だったのだ。後からの歴史の中には登録されることがない、「他でもありえた」という可能性、こうした可能性に荷担した人々、こうした可能性のなかでしか意味を与えられない人々、これが歴史の敗者である。歴史の生成のなかに参与するならば、任意の地点に、敗者の可能性が隣接している。
誰もが、敗者たりえたという可能性があるのだ。敗者でありえたということこそが、歴史の渦中にあって、人は自由な選択の主体であったということの何ものでもあるまい。(p. 168-169)

〈歴史〉は、「歴史」が捨て去ったゴミのような敗者を意味づけ、救済するのである。ここで重要なことは、ゴミ、つまり敗者は、勝者の偶有的可能性だということである。 (p. 171)

(……)ベンヤミンはこうも述べる。「もし敵が勝てば、死者さえも安全ではない」と。ベンヤミンの歴史哲学テーゼの冒頭のアレゴリーは、こうした事態を前提にしてこそ、理解することが可能だ。常に、他なる最後の審判を導入することによって、敗者を勝者へと転換することができる。すなわち、神学は、史的唯物論を操って、常にチェスに勝利する。 (p. 176)

(……)過去の中には、現在がその救済であるような、あるいは逆に裏切りであるような、(過去にとっての)未来への期待が孕まれているのである。ベンヤミンが「メシヤ的な歴史」と言ったのは、過去の内にありながら、多くの場合、約束を果たされずに消えていった、こうした期待をも含めた時間のことであろう。
現在は、そうした期待の産物であり、そして過去の約束の(不)履行として解さなくてはならない。(p. 178)

〈歴史〉を確立すると言うことは、最後の審判を、この不定のXという形式において措定することである。つまり、回想や想起のモードとしての「歴史」ではなく、生成のモードにおける〈歴史〉とは、最後の審判が、本来、このような不定性であったことを体験することなのだ。(p. 179-180)

「代表」という機制から独立して、「国民」や「人民」の統一性はありえない。王の支配においては、臣民(の承認)という現実が、王という虚構を産み出していた。民主主義においては逆に、虚構は、被支配者の側にある。すなわち、民主主義的な権力者が存在しているということ、それが、被支配者が――代表という機制を受け入れうる――統一体として存在しているという虚構を生み出しているのだ。(p. 182-183)

「国民」や「人民」を、代表のメカニズムを経由して統一体として生み出す民主主義は、実は、まだ不徹底な民主主義、民主主義の潜在的な可能性を汲み尽くしていない民主主義ではないか。
本来の民主主義――「民主主義」を超える〈民主主義〉――においては、権力者の場所、代表者が占めるべき場所は、空虚で不定でなくてはならないはずだ。誰かが、代表者として、権力の席を占めること、――したがってそのことによって「人民」や「国民」にありえない統一性を与えること――は、それだけで、本来、(統一体としては存在しえない)〈人民〉に対する裏切りである。(p. 183-184)

「民主主義」を〈民主主義〉の方へと乗り越えるということの意味について述べた。「民主主義」を、逆方向に「乗り越える」ときに得られるのが、全体主義である。どういうことか? 述べてきたように、人民や国民を代表する、民主主義の指導者の存在が、「人民」や「国民」を統一体として逆規定する。この帰結をさらに強く取って、指導者を、(まさに自らの代表として)承認しない者は、定義上、「人民」ではないと見なして、「人民」から排除することになれば、そこに得られるのは、全体主義である。通常の「民主主義」においては、「現実には指導者を承認しない少数派が存在している」ということを意識しつつ、それを、一種の制度的な虚構として無化する。その「無化」が制度的な虚構であることを超えて、現実的な排除として機能し始めれば、全体主義になる。(p. 185
)


第六章 未来社会を構想する――裏切りを孕んだ愛が希望をつくる

政治哲学者ハンナ・アーレントは、二つの条件〔自由と開放性〕がともにみたされている社会のあり方を公共的空間と呼んだ。彼女は、対独レジスタンスの活動家でもあった詩人ルネ・シャールの美しい言葉を借りて、公共的空間の特徴を表現している。それは、こういうことばだ。「私たちが一緒に食事を取るたびに自由は食席に招かれている。椅子は空いたままだが席はもうけてある」(ハンナ・アーレント『過去と未来の間』みすず書房、一九九四年)。テーブルに譬えられた公共的空間には、常に、空いたままの席が用意されている。誰もが、その席に就くことができ、そこで歓待されるのである。(p. 190)

(……)少なくとも本質的に重要な自由と、困らぬ程度に十分な開放性との間には、適当なバランスがありうる、と長い間信じられてきた。しかし、こうした信頼の崩壊こそが、現代のグローバル化した社会の特徴なのである。(p. 190)

ドナルド・ラムズフェルト米国務長官(当時)は、アフガニスタン空爆の目的を問われて、「できるだけ多くのタリバン兵を殺すことだ」と答えている。これは、まるで害虫を駆除するときの態度であって、通常の軍事目的を超えている。このことばが表現しているように、アル・カイダやタリバンといったテロリストたちは、「われわれ」から物理的に遠いだけでなく、心理的にも圧倒的に乖離している――ほとんど「同じ人間」と見なされていない。(p. 195)

テロが起きたとき、アメリカ人が最も恐れたことは、テロリストがアメリカ社会に深く浸透し、アメリカ市民と区別がつかない状態で潜んでいるのではないか、ということである(テロ直後の「炭疽菌騒動」のことを思い起こせばよい)。
「われわれ」と「彼ら」の対立は、外的なだけではない。「われわれ」と「彼ら」の対立は、「われわれ」自身に内在してもいるのだ。極論すれば、「われわれ」は、同時に「彼ら」でもあるのだ。(p. 196)

恐怖の政治の賭け金になっているのは、まさに、「われわれ」――「彼ら」でもあるような「われわれ」――である。
われわれの最も基本的な規範を受け入れない極端な他者が、われわれの共同体に深く内在し、われわれ自身と不即不離の関係にあるのではないか。このような不安をかきたてる他者、われわれから大きく乖離していながら同時にわれわれと合致するまでにわれわれと近接している他者、この他者の位置に、恐怖のさまざまな対象が代入され、恐怖の政治が構成されている。(p. 199)

(……)コミュニタリアン(交響圏)とリベラリズム(公共圏)のそれぞれに関して、実践的な展開形態ともいうべき極端化が生じうる、ということを確認しておく必要がある。
コミュニタリアンが、自身の交響圏の価値や規範への同一化を徹底させ、それらを直接に普遍的な正義や真理として提起したとしたらどうなるだろうか。それこそが原理主義である。
他方、リベラリズム(あるいはリバタリアニズム)の実践的なインプリケーション(含意)は、今日では、多文化主義ではないだろうか。多文化主義の特徴は、諸文化の寛容なる共存を謳うが、それらを統括する普遍的な規範に関しては、積極的には何ものも語らず、無記のままにとどめておくところにある。
自由と開放性を要請する者にとっては、多文化主義は、こうした要請にかなった思想だが、ときにテロリストの温床ともなってきた、排他的な原理主義は克服されるべき思想に見える。(p. 210-211)

たとえば、沖縄の少女の場合を考えてみよう。第一に、女性への暴力が基地問題として公認されてはこなかった(排除)。第二に、レイプは、他者からの同情や理解を徹底的に拒む、個人の内的な核への冒涜である(特異性)。盗賊たちと混じって、苦しみと悩みの内に殺された惨めなキリストの姿もまた、共同体の秩序から排除された特異性を表現している。彼らは、共同体の階層序列の底辺ということですらなく、その内部で位置づけられない排除された一点である。
このような排除された特異点だけが、〈無としての他者〉を直接に具体化することができる。それは、本性上、どのような特殊化された限定をも受け付けることがない――何者でもないというほかない――からである。
普遍的な公共性は、人々が、排除された特異点と関係し、これと同一化することで果たされる。普遍性は、人々が――すべての交響圏が――、彼らから排除された特異性と関係する仕方の内にあるのだ。 (p. 231-232)

(……)制度化された社会秩序のなかで位置づけをもたず、公認の誰の意志をも直接には代表しない、排除された他者を、普遍的な開放性を有する社会の全体性と妥協なく同一視してしまうこと、これが、以上の考察から暗示される、来たるべき民主主義の基本的な構想である。これは、すべての意志の平均的な集計という、通常の意味での民主主義のまったくの否定である。
しかし、他方で、これは、民主主義の本義への回帰とも解釈できる。というのも、民主主義democracyとは、demos――つまり都市国家の階層秩序の中に位置づけを持たない排除された民衆――の支配のことに他ならないからである。(p. 232-233)

最後に、今日における最大の社会問題、地球環境問題に即して、まさに、開放性のよりどころとなる、「排除された他者」とは何かを考えておこう。それは、たとえば、「第三世界」の貧民や農民だろう。さらに、何よりも、それは、声なき未来世代、来たるべき他者ではないか。未だ生まれざる他者の要求を、妥協することなく、社会の全体性を代表する普遍的な意志と見なすこと、これが、エコロジカルな破局へ対抗する民主主義だ。 (p. 234)

 

 (2011/12/20)