西谷修、酒井直樹、遠藤乾、市田良彦、酒井隆史、宇野邦一、尾崎一郎 |
救済の夢と抵抗――『〈帝国〉』によせて 西谷修 |
当時少壮の東アジア学者エドウィン・ライシャワーは、合州国戦争省への提言のなかで天皇制を基軸にした日本占領を構想している。「慎重に計画された戦略にしたがって、我々は思想闘争に勝利する必要がある。その第一歩とは、当然のことながら、日本国内の協力的な集団を我々の側に引き入れることである。この集団が仮に、日本国民の少数部分を代表するものであるならば、それはある意味で傀儡政権ということになろう。日本はこれまで傀儡政府を戦略として幅広く利用してきたが、利用した傀儡が十分に機能しなかったために大きな成功をおさめることはできなかった。しかし、我々の目的にとっては、最良の傀儡を日本自身が産み出しているのだ。我々の側に喜んで協力させることができるだけでなく、中国における日本の傀儡がつねに欠いていた、膨大な重みをもった権威をかれ自身備えもつ、そのような傀儡が産み出されてきたのである。私が言わんとするのは、勿論、日本の天皇のことである」。 第二次大戦後、合州国はほぼ一貫して東アジアの他の地域でも、このような合州国の支配に迎合するような国民=民族主義を作り上げようとしてきた。この点で合衆国政府が、第二次世界大戦後の早い時期に、イギリス政府が大英帝国を回復しようとする試みにたいして、反植民地主義のアメリカの伝統の確認を行ったことは驚くにあたらない。それは、合州国が植民地主義の常に反対してきたということの証左などであるのではなく、大英帝国の植民地政策より、より有効な帝国の支配の形態を求めていたからであり、古い形の植民地主義の終焉がただちに合州国に対抗する主権国家の成立を意味するのではなく、合州国の支配に迎合するような実質的には主権を簒奪された国家群を作り出すことができるはずだ、というヴィジョンに裏づけられていたのである。日本〔に〕おいても、韓国においても、フィリピンにおいても、さらに一九六〇年代には南ベトナムにおいても、合州国はできるだけ現地人によって構成された軍隊にその警察=軍事暴力を委ねることによって、原住民の憎悪の対象にならないように努めてきたのである。政策的に破綻したとき、例えばベトナム戦争時に見られたように、合州国軍は原住民の前に直接姿を現し、日本軍が中国戦線でしたように、非戦闘員の虐殺に手を染めるだろう。(p. 42) |
(……)グローバリゼーション批判をアメリカ合州国の拡大に対する諸国民の反米抗争と考えることが誤っているように、地球規模の市民社会の幻想と国民性(=民俗・言語同一性)の対決として地球的な〈帝国〉の時代を診断することも基本的な誤りなのである。それはグローバリゼーションの批判が、国境を越えて移動する資本や移民に対して定住している国民を擁護するといった、まったく的外れな事態に転移されてしまうことだからである。むしろスーパー国家性的人間主義を通じて最も暴力的に機能するのである。国民主義とスーパー国家性は、いわば、同じ貨幣の二つの側面のように、相反しつつ、同じ事態を指し示すのである。スーパー国家性は個々の国民国家と共犯性の関係を結びつつ、国民国家の主権を簒奪してゆくのだ。(p. 45)
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その〔米国の帝国主義性がヴェトナムとともに終焉したか、というオープンな〕問いが、鋭利なかたちで突きつけられているのが、二〇〇一年九月一一日に起きた同時多発テロ事件以降の現況であろう。「われわれの側にいるのか、テロリストの側にいるのか」という繰り返し引用される第四三代大統領ブッシュの演説は、まさにマニ教的な善悪二元論の発露である。その即自的な帰結は、差異の〈帝国〉的包摂の死であり、悪と断定された広範な差異への警察行動である。
の三要素に要約できる。しかし、(③に典型的なように)どれも抽象度の高いもので、(②に見られるように)実現可能性に照らして吟味されたものとは言いがたい。しかも、(①の例にもあるように)よくみると、〈帝国〉の構成に沿ったものであるものも含み、どのような意味でマルチチュードが「対峙」するのかは、必ずしも判然としない。(p. 79) |
アメリカ経済の力とは借金する力、負債を累積させる力であり、この力は言うまでもなく軍事力に支えられている。実際、合衆国への投資がきわめて安全である事実は、アメリカの軍事的ヘゲモニーの安定性によって説明されるだろう。しかしレーガン政権における財政赤字の巨大さを考えてみれば、アメリカへの証券投資を安全にするような借金能力こそが、アメリカの軍事的ヘゲモニーとその維持を支えていたともいえるだろう。軍事的安全と証券の安全は相互に支え合っているのであり、帝国循環とはこの相互性の表現にほかならない。(p. 92) 生は権力がその対象として生を捕獲するとき、権力への抵抗となる。権力が生権力となるとき、抵抗は生の権力〔力〕、生きた権力〔力〕となる(Quand le pouvoir deviant biopouvoir, la resistance deviant pouvoir de la vie, pouvoir vital)。 『〈帝国〉』を理解するときの一つの要になる、一つの転倒が、この一節にひそんでいるといえる。その転倒を、ここでは、生権力から生政治への反転と呼んでおきたい。(p. 113) |
「剥きだしの生」とは、このように生が政治のなかに包摂された時代のなかで、あらゆる権利を剥奪され、主権、つまり生殺与奪の権力、フーコーの言葉で言えば「生かす権力」という生権力とは対照的な「殺す権力」という性格をもつ主権的権力と無媒介に向きあうことになる生のことである。だからこそアガンベンにとって、近代性の範例をなすのは、制度で言えば、フーコーのように工場や学校ではなく、強制収容所となるのであり、対象でいえば、囚人や生徒ではなく難民となるのである。(p. 117) |
無期限契約を手にしているいまや「特権的」な労働者にしても、企業内部の空気の変動や多様な受容が産み出す生産の上下に完全に適応しなければならないし、テクノロジーの変動にあわせてつねにみずからを教育し直していく必要がある。ヨーロッパにおいて、失業率の増大と、超過労働時間の延長が同時に伸びているのは、こうした条件が背景にある。 この本は、ドゥルーズとガタリによって書かれた『千のプラトー』なしでは考えられないが、一方この本ほど、『千のプラトー』の提出した思考と概念を現代史に照らし合わせ、歴史的現実に対して機能させることで、それらをテストし新たに生気づける、という試みを実現した本はまれだろう。「帝国」とは限りなく領域を脱していく運動(絶対的脱領土化)そのものである。その運動が同時に、諸領域を再構築し復活させながら、さまざまな領域の間を新たな横断線によって結びつける。「リゾーム」と呼ばれるような、中心もなく階層ももたない組織は、ただ無秩序ではなく、横断的なネットワークであり、まさに帝国のモデルとして採用されている。(p. 152) ネグリ/ハートにとってマルチチュードは、二〇世紀末に新たな様相をもって再構成されたにしても、それはもともと、ルネサンス期にマキアヴェッリの政治学という表現をとったような、集団的な生の「みなぎる力」にまでさかのぼる。マルチチュードの移動性と柔軟性、非中心性と非等質性は、そもそも近代の出発点にあった、「この世界にみなぎる力を肯定する」意志と不可分なのだ。ネグリ/ハートは、西欧近代の第一の本質をなすのは、理性でも、科学でも、資本主義でも、あるいは世俗化でもなく、この世界をなす生の力を、神にも国王にも教会にも、それらの超越性に依存することなく、ただ内在性として肯定しようとする知と意志であったというのだ。西欧近代とは、このような内在的な力の肯定と、これを制限する新たな体制、理性、超越性との抗争の歴史にほかならなかった。マキアヴェッリの政治学から、スピノザの哲学まで貫いているのは、ネグリにとって、すでに実在し歴史を動かしてきたマルチチュードによる内在的な生の肯定の、もっとも先鋭な思想的表現にほかならなかった。(p. 154) |
マルチチュードの(不)可能性 尾崎一郎 |
ネグリ&ハートの議論の危うさはまさにそこにある。〈帝国〉の一層の侵入を回避するためには、自分は力に満ちていると感じただ述べ立てるのではなく、自分は無力であるという認識を厳然として維持しつつ、運動を行わねばならない。言うなれば、自己欺瞞、自己矛盾を熟知し引き受けることのぎりぎりの肯定性に投企すること、これは無前提のペシミズムと無前提のユートピアニズムとの間で引き裂かれながら〈帝国〉に生きる人間のリアリティではなかろうか。マルチチュードとしての力の限界を熟知しつつ、マルチチュードとしての自己規定を引き受けること。これは『〈帝国〉』というテクスト、ネグリ&ハートの宣言を盲目的に信じることではなく、むしろ徹底的に批判的に読むことで引きつぐということである。それはマルチチュードの(不)可能性の実践である。(p. 191) aモダンからポストモダンへと移行する(フォーディズムからポスト・フォーディズムへの移行としてもよい)マルチチュードの系譜。この系譜を構成するのは、「近代」的規律社会の諸形態を解体した労働者階級の闘争である。 |
非物質的労働力と生きた協働労働のヘゲモニーによってもたらされた根底的な生産様式の変更、語の十全な意味で存在論的で生産的で生政治的な革命が、「よき統治」のパラメーターを完全に転倒してしまった。そして、資本家がつねに欲してきた、資本蓄積のために機能する共同体という近代的な観念を破壊してしまった。 (p. 204) |
ハート アガンベンは、カール・シュミットが提示した例外状態における決定という概念や、支配の近代的機能がそこにおいては永続的な例外状態となる緊急状態などの概念に依拠しながら、近代的主権の概念構成を見事に練り上げています。そのうえで彼は、いつものようにその華々しい学識を駆使しながら古代ローマ法にまで遡り、この近代的主権の概念構成を、追放または排除された人物の形象とリンクさせているのです。そういうわけで、近代的主権の頂点にして、その完全な実現形態は、ナチの強制収容所にほかならないということになります。(……)こうした見解に対するぼくのためらいを口にするなら、強制収容所という極限的なケースを主権の核心として措定することによって、近代的主権が揮うさまざまの日常的暴力――そのあらゆる形態における――が覆い隠されてしまうことになりはしないか、ということになるでしょう。(p. 225) |
ハート ホミ・バーバの仕事は豊かで複雑なものですが、でも、それに接した多くの読者たちは、次のような印象を抱いてそこから離れていくことになります。すなわち、異種混交性は、それをとおして権力が機能する、白人/黒人、黒人/女性といった諸々の二項対立に公然と反抗するものであるのだから、異種混交性それ自体に開放的な力が孕まれているのだ、と。けれどもぼくらが主張しているのは、〈帝国〉の主権は、異種混交的な主体性によっては些かも脅かされない。じっさい、〈帝国〉は、フレキシブルなヒエラルキーの内部で諸々の異種混交的アイデンティティを管理運用しながら、まさに一種の差違のポリティクスをとおして、支配力を行使しているのです、したがって、こうした見地からすると、異種混交性のポリティクスは、いまや廃れてしまった主権の近代的形態に抗するうえでは有効なものであったのかもしれませんが、現行の〈帝国〉の形態に抗するには無力なものでしかない、ということになります。(p. 230) (2012/1/28) |