ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <書 抜き書きメモ 41>

西谷修、酒井直樹、遠藤乾、市田良彦、酒井隆史、宇野邦一、尾崎一郎
トニ・ネグリ、マイケル・ハート

非対称化する世界
――『〈帝国〉』の射程
以文社、2005年

救済の夢と抵抗――『〈帝国〉』によせて    西谷修
      
一九七〇年代以降、マルクス主義はその地歩をなし崩しに失ってきた。この凋落は単に、七〇年代半ばのソルジェニツィン事件などによる共産主義の決定的な信用喪失のせいばかりではなかった。マルクス主義の理論的かつ戦略的枠組みだった階級闘争が、とりわけ、先進諸国における「消費社会」の出現によって霧散してしまったからである。(p. 6)

(……)彼ら〔ネグリ&ハート〕の観点からすれば、西洋的な経済システムやそれに伴う法システムなどが世界に展開するのは、ほかでもないそれが「普遍的」でどこにでも適格だとみなされているからだ。けれども実際には、西洋的なものが「普遍的」ないしはスタンダードとなったのは、西洋があらゆる力(とりわけ軍事力)によってそのシステムを世界に通用させたからにすぎない。力で押しつけて、あるいは「効率」の原理を押しつけて他にシステムを駆逐しうることと、先験的に普遍的だということは別のことだろう。(p. 16)

それ〔〈マルチチュード〉の系譜的イメージ〕は、産業社会における人間の一般的様態に照応するハイデガーの〈ダス・マン〉に発し、それを強制収容所という「反世界」で反転させたレヴィナスの〈イリア〉を介して、モーリス・ブランショが『文学空間』を通じて非人称的なざわめきの空間として展開し、後に『明かしえぬ共同体』で、六八年「五月革命」の無名の群集のあり様に重ねた〈オン(誰でもない人)〉の観念である。『〈帝国〉』の支持者たちの多くは、「六八年」に階級闘争あるいは社会運動の大きな転換点をみており、とりわけそれが「党」や「権力奪取」を目指さない運動だったということに注目している。戦後世界のある共時性を示しつつ、先進国のいたるところで街頭を埋める群集として出現したこの運動の担い手たちが、おそらく〈マルチチュード〉のイメージに最初の具体性を与えているのだろう。つまり権力に憑依することで「人民〈国民〉」化するのではなく、むしろそのような政治的一体化を拒みながら、「帝国権力」に対して「差異と欲望」の表出主体であり続ける〈マルチチュード〉、それはこれまでの政治的思考のなかでポジティヴには描かれにくかった「集団性」のイメージである。(p. 20)


共犯性としてのスーパー国家性     酒井直樹

     
日本占領とイラク占領が並列に考えられているという事実が日本国民の多くにあからさまに伝えられたとしたら、合州国の指導者の日本へのまなざしは、テレビや新聞の報道からかいま見られる合州国の官僚や軍人のイラクへのまなざしと同じ種類のものであったことが一目瞭然になってしまうだろう。(……)歴然と残っている征服者と被征服者の間の非対称な関係を、合州国の指導者が日本占領を語る仕方はあからさまに露呈させてしまった。(p. 24)

 私は日本帝国の崩壊は歴史のなかで起こる数少ない正義の実現の一つと考えてよいと思っている。しかし、日本帝国の崩壊を肯定することは合衆国の国民主義の是認でも賞賛でもありえない。この日本占領にまつわる合衆国国民のナルシシズムに対する無批判な態度には、この二年間合衆国のマスメディアで横行してきた恥知らずな国民主義的狂乱を引き起こしてきたものと通底するものがある、と感じるのは私だけではないだろう。
つまり、日本占領が合州国の世界戦略において理念の働きをしてしまう裏には、(1)帝国主義的な文明化の使命の実行例としての性格と、(2)合衆国の国民主義のナルシシズムを慰撫する事例としての性格とが、共存していたのだった。(p. 27)

当時少壮の東アジア学者エドウィン・ライシャワーは、合州国戦争省への提言のなかで天皇制を基軸にした日本占領を構想している。「慎重に計画された戦略にしたがって、我々は思想闘争に勝利する必要がある。その第一歩とは、当然のことながら、日本国内の協力的な集団を我々の側に引き入れることである。この集団が仮に、日本国民の少数部分を代表するものであるならば、それはある意味で傀儡政権ということになろう。日本はこれまで傀儡政府を戦略として幅広く利用してきたが、利用した傀儡が十分に機能しなかったために大きな成功をおさめることはできなかった。しかし、我々の目的にとっては、最良の傀儡を日本自身が産み出しているのだ。我々の側に喜んで協力させることができるだけでなく、中国における日本の傀儡がつねに欠いていた、膨大な重みをもった権威をかれ自身備えもつ、そのような傀儡が産み出されてきたのである。私が言わんとするのは、勿論、日本の天皇のことである」。
傀儡として利用するためには、天皇裕仁に戦争責任を帰してはならない、と一九四二年の段階でライシャワーはすでに提案していた。(p. 30)

 ここに見えるのは日本の戦後史にだけ特有の事態だろうか。むしろ、資本の国際化と軍事力の警察化が同時に世界各地の国民主義の隆盛に伴われているといった、私たちがグローバリゼーションの徴候と考えている状況が、日本占領にはすでに素描されていたのではなかったか。日本占領は、〈帝国〉がしだいに姿をあらわにしてくる歴史の重要な一里塚ではなかったか。(p. 35)

合州国軍に代表される連合国軍はあくまで占領のための軍事力であり、駐留合州国軍の肩代わりのために警察予備隊が創出される。ということは、警察予備隊も占領のための軍隊であって、その潜在的な敵は米軍基地や米軍の兵站基地を襲う日本人民、あるいは日本人民のなかの反米反体制勢力だったはずである(当たり前のことだが、彼らの銃口は米軍基地周辺住民や日本人に向けられていたのであり、沖縄や砂川で周辺住民と米軍基地との関係が泥沼化するのは当然のことであった)。

後にこの軍隊が「自衛隊」と呼ばれることにはある種の皮肉を感じざるをえない。進行する歴史的事実を冷ややかに見ることのできる人なら、この軍隊を「他衛隊」と呼んだとしてもおかしくはない。しかし、基本的には日本における合州国の植民地軍にすぎないものを、あえて「自衛隊」と呼んだその見事なヘゲモニー的配慮を軽視することはできない。(p. 38)

 第二次大戦後、合州国はほぼ一貫して東アジアの他の地域でも、このような合州国の支配に迎合するような国民=民族主義を作り上げようとしてきた。この点で合衆国政府が、第二次世界大戦後の早い時期に、イギリス政府が大英帝国を回復しようとする試みにたいして、反植民地主義のアメリカの伝統の確認を行ったことは驚くにあたらない。それは、合州国が植民地主義の常に反対してきたということの証左などであるのではなく、大英帝国の植民地政策より、より有効な帝国の支配の形態を求めていたからであり、古い形の植民地主義の終焉がただちに合州国に対抗する主権国家の成立を意味するのではなく、合州国の支配に迎合するような実質的には主権を簒奪された国家群を作り出すことができるはずだ、というヴィジョンに裏づけられていたのである。日本〔に〕おいても、韓国においても、フィリピンにおいても、さらに一九六〇年代には南ベトナムにおいても、合州国はできるだけ現地人によって構成された軍隊にその警察=軍事暴力を委ねることによって、原住民の憎悪の対象にならないように努めてきたのである。政策的に破綻したとき、例えばベトナム戦争時に見られたように、合州国軍は原住民の前に直接姿を現し、日本軍が中国戦線でしたように、非戦闘員の虐殺に手を染めるだろう。(p. 42)

(……)グローバリゼーション批判をアメリカ合州国の拡大に対する諸国民の反米抗争と考えることが誤っているように、地球規模の市民社会の幻想と国民性(=民俗・言語同一性)の対決として地球的な〈帝国〉の時代を診断することも基本的な誤りなのである。それはグローバリゼーションの批判が、国境を越えて移動する資本や移民に対して定住している国民を擁護するといった、まったく的外れな事態に転移されてしまうことだからである。むしろスーパー国家性的人間主義を通じて最も暴力的に機能するのである。国民主義とスーパー国家性は、いわば、同じ貨幣の二つの側面のように、相反しつつ、同じ事態を指し示すのである。スーパー国家性は個々の国民国家と共犯性の関係を結びつつ、国民国家の主権を簒奪してゆくのだ。(p. 45)

 現在の日本で有事法制を積極的に支持する大衆層は、東京都知事石原慎太郎のようなファシストに鼓舞されて、北朝鮮が戦争しかけてきたときに、挑戦からの難民を追い返すことのできる軍隊、朝鮮半島に攻め込むことで日本の安全を確保できるような軍隊、つまり「他衛隊」がなることを空想しているかもしれない。だが、実質は、有事法制の成立は、合州国の綜合指令の下で自衛隊が朝鮮半島や他のアジアの地域にも展開できるようになる、ということにすぎないだろう。(p. 47)



主権、帝国(主義)、民主主義――『〈帝国〉』の射程    遠藤乾
     
『〈帝国〉』の本論は、国民国家の主権的権利を出発点として体系化された、国際法という学問を否定するところから始まる。それは、ルーマンのシステム論とロールズの正義論の混成体のごとき「〈帝国〉パラダイム」のなかで埋没する知の体系というわけである。また、矛先は、「人民(ピープル)」と「国民」を等置する国民国家イデオロギーとそれに基づく知のあり方のも向けられている。(p. 57)

 〈帝国〉主権は、国民国家の主権という近代の産物と明確に対比されたポスト近代における「新しい権力のパラダイム」である。そこでは、
「ポストモダンな主権が近代的なパラダイムや支配にとって代わり、これらの理論が礼賛する異種混交的(ハイブリッド)で断片化された主体性を差異化する階層秩序をすっかり支配する」(一八四頁)。(p. 57)

 (……)コミュニケーション産業を基盤とした市場と生産様式のグローバル化により、人間のなかに根ざした欲望が領域内で囲い込み不能となった。そこで差異が拡散し危機が増殖した結果、近代的主権のパラダイムが依拠していた内部と外部、敵と味方、といったマニ教的二分法が希薄になった。それに応じて有効性を失ったのが、国民国家主権による危機のマネージメントなのである。(p. 62)

 自分(たち)が入れ替え可能な客体であるという感覚は、入れ替え不能な主体(神話)を提供するナショナリズムの教義を通じて、国民国家の境界を強化する方向にも作用する。さらにいえば、〈帝国〉の主体が――ネグリやハートが論じるように――特定できないものであればあるほど、「わたし」や「われわれ」を確認(錯覚)できる存在として、国民国家は重宝されよう。
そしてこれらが、次の問題を用意する。つまり、ナショナリズム経由で近代的な国家主権が強化されるという、現実によく見られるシナリオである。そのシナリオが、国家内における抑圧をもたらしうるというネグリとハートの議論に同意した上でなお、〈帝国〉支配の進行の結果、実現してしまう可能性がある。とすると、筆者たちが言うほど、現代に世界は微視的な差異と紛争が充溢した「平滑世界」ではない。それは、近代じゅうリアルな存在だった国民国家が、ポストモダンな危機をモダンな危機に解釈しなおし、〈帝国〉内で強靱に差異を再生産し、生き残る可能性を指し示している。(p. 66)

その〔米国の帝国主義性がヴェトナムとともに終焉したか、というオープンな〕問いが、鋭利なかたちで突きつけられているのが、二〇〇一年九月一一日に起きた同時多発テロ事件以降の現況であろう。「われわれの側にいるのか、テロリストの側にいるのか」という繰り返し引用される第四三代大統領ブッシュの演説は、まさにマニ教的な善悪二元論の発露である。その即自的な帰結は、差異の〈帝国〉的包摂の死であり、悪と断定された広範な差異への警察行動である。
「悪(イーヴィル)」は拡散し、「敵(エネミー)」は「いたるところに」いる。〈帝国〉の潜在的な中心は、たしかに攻撃しやすくなったし、現に攻撃された。その意味で、ネグリとハートのいうポスト近代的状況は、たしかに到来した。しかし、その邪悪な敵を定義し抑圧し、ときに叩きのめすのは、権力配置と理念形成から独特に重複した「帝国主義的」〈帝国〉たる米国と、それを中心に形成される「有志連合」なのである。(p. 75)

 (……)この〔グローバル化を解放の契機を含む運動とする〕新しい民主主義の戦略を語り始めると、途端にネグリとハートは、抽象的な議論に終始する。「なんらの媒介もなしに直接に〈帝国〉に 対峙するマルチチュード」(四八九頁)という代替案を提示するのはいいが、その内実がそのようなものか、かならずしも明確ではない。『〈帝国〉』の末尾に出てくる政治的なプログラムは、

  1. グローバル化市民権――自分自身の空間的移動を管理するという一般的な権利の再領有
  2. 万人に対する社会的賃金と保証賃金――家族や失業者を含む生産主体としてのマルチチュード全体への賃金保証
  3. 生産手段再領有の権利――生政治的生産のための主要な手段である知、情報、コミュニケーションそして情動への自由なアクセスとそれらへの統御

の三要素に要約できる。しかし、(③に典型的なように)どれも抽象度の高いもので、(②に見られるように)実現可能性に照らして吟味されたものとは言いがたい。しかも、(①の例にもあるように)よくみると、〈帝国〉の構成に沿ったものであるものも含み、どのような意味でマルチチュードが「対峙」するのかは、必ずしも判然としない。(p. 79)

 ともあれ、これらの「政治的プログラム」をふまえて、「活動性としての力を表わす動詞」として「ポッセ」というラテン語を提示し、それをもってマルチチュードの主体性確立のためのエンパワー装置とする。そして「社会労働者や非物質的労働を組織化」し、マルチチュードにより運営、組織、指揮される「生政治的統一体としての生産的かつ政治的な権力を組織化する」という構成を企図し、それを「絶対的なデモクラシー」(五〇八頁)と置き換えるとき、目も眩むような抽象言語の光線のなかで、置き去りにされた気分になる。(p. 80)

 こうして、『〈帝国〉』は、人間の内在性に依拠すると言明しながら具体的な行動の指針をあくまで具体的な事例や傾向からつむぎだすのではなく、予言の超越的な機能にゆだねている。そうであるとき、この壮大な知的試みが、「理論的エクスタシー」に訴えかけているのではないかという疑念を、どこか払拭しきれない。(p. 82)


貨幣の帝国的循環と価値の金融的捕獲    市田良彦

     
誰でも知っていることではああるのだが、この時代〔八〇-九〇年代〕の日米関係は、世界最大の債権国(日本)が世界最大の債務国(アメリカ)に資金を環流させてその世界的なヘゲモニーを支えるというあり方をしていた。言ってみれば、経済的に強いはずの国が弱いはずの国を、「助ける」どころか自分よりも強い位置に押し上げていたわけであり、自分の経済力を「人質」に差し出す国辱的無能ぶりを発揮していた。(p. 88)

アメリカ経済の力とは借金する力、負債を累積させる力であり、この力は言うまでもなく軍事力に支えられている。実際、合衆国への投資がきわめて安全である事実は、アメリカの軍事的ヘゲモニーの安定性によって説明されるだろう。しかしレーガン政権における財政赤字の巨大さを考えてみれば、アメリカへの証券投資を安全にするような借金能力こそが、アメリカの軍事的ヘゲモニーとその維持を支えていたともいえるだろう。軍事的安全と証券の安全は相互に支え合っているのであり、帝国循環とはこの相互性の表現にほかならない。(p. 92)


〈帝国〉における包摂と排除――「生政治」についてのノート
                                
 酒井隆史
     
「貧民」は無数の排除のメカニズムにもかかわらず絶対的に包摂されているという逆説的な関係のうちにある。このことがまさに、貧民が敵である理由となる。それ以前は、貧民とは生産の外部にあるものでもあった。例えばマルクスにとって、貧民は生産的でも不生産的でもないのである。ところがポストフォーディズムの現在において新しい点は、貧民も社会的生産に完全にふたたび参入していることである。「法的・経済的な資本の諸形態をとおして排除されている者は、にもかかわらず社会的・生政治的な生産の回路のうちに包摂されている」。法的・経済的次元と社会的・生政治的な生産の次元で、それぞれ排除と包摂の異質な引力があるというのだ。
あるいはより正確には、包摂のなかの排除であり、絶対的包摂の徴候である排除ともいえるかもしれない矛盾ぶくみの状況を表現している。「価値に関してコミュニティにおいて設立されるものと把握される一般的条件から排除されている」。これが貧民の危険性なのである。(p. 106)

ネグリは、『講義』において次のような問いを発している。「……統治の活動から派生する生権力の総体として生政治を考えるべきなのか? それともその反対に権力が〈生〉を備給したその程度に応じて、〈生〉も権力になるのだろうか?
この問いに対する応答は、ドゥルーズによるフーコーの議論の展開についての注釈に要約されているといえるだろう。

生は権力がその対象として生を捕獲するとき、権力への抵抗となる。権力が生権力となるとき、抵抗は生の権力〔力〕、生きた権力〔力〕となる(Quand le pouvoir deviant biopouvoir, la resistance deviant pouvoir de la vie, pouvoir vital)。

『〈帝国〉』を理解するときの一つの要になる、一つの転倒が、この一節にひそんでいるといえる。その転倒を、ここでは、生権力から生政治への反転と呼んでおきたい。(p. 113)

 アガンベンは「歴史のなかへの生命の登場」というフーコーの分析から、「剥きだしの生」というベンヤミンの概念を再活性化させる。「剥きだしの生」とは、まさに生きるだけの存在にまで切り縮められた生物学的な生である。「生物学的近代性」の閾が超えられて、歴史のうちに生命が登場するとき、剥きだしの生は、国家のいわば大地的な基盤となる。国民国家(Nation-State)とは、生まれ(nascita)、つまり剥きだしの生をみずからの政治的共同体の土台に据えたものである。これは「歴史のなかへの生命の登場」についてのアガンベンなりの注釈なのである。(p. 116)

 「剥きだしの生」とは、このように生が政治のなかに包摂された時代のなかで、あらゆる権利を剥奪され、主権、つまり生殺与奪の権力、フーコーの言葉で言えば「生かす権力」という生権力とは対照的な「殺す権力」という性格をもつ主権的権力と無媒介に向きあうことになる生のことである。だからこそアガンベンにとって、近代性の範例をなすのは、制度で言えば、フーコーのように工場や学校ではなく、強制収容所となるのであり、対象でいえば、囚人や生徒ではなく難民となるのである。(p. 117)

ネグリたちにとって〈帝国〉の表面において、社会的協働を構成するものは剥きだしの生にほかならない。この事態はポストフォーディズムの段階に至ってはっきりするものである。つまり実質的包摂の段階において、生そのものが価値源泉として措定され、資本によって包摂されるという事態である。(p. 117)

 重要なことは、この自己統治という軸の挿入にともなって、抵抗は創造と等しくなることだ。抵抗とは拒否することだけではない、とフーコーは語っている。拒否は抵抗の最小限でしかない。それは「創造の過程」という、「より決定的な抵抗の形」と化さなければならない。(p. 123)

「私は、六〇年代及び七〇年代初頭に起こったことを守っていく必要があると思います。守られるべきものの一つは、大政党の外で、正常や通常のプログラムの外部で行われた政治的革新、創造、実験の存在だと思います。人々の日常生活は六〇年代の初頭から今日の間に変化し、それは私自身の生活の変化が物語ってもいます。その変化が正統ではなく、数多くの運動に負うものであることは明らかです。それらの社会運動は私たちの生活、メンタリティ、態度とともに、この運動に加わっていなかったそれ以外の人々の態度やメンタリティをも本当に変化させたのです。これこそが、極めて重要で、積極的な意味を持つものです。」(Foucault, M. 1994(西兼志訳「ミシェル・フーコー、インタヴュー」『ミシェル・フーコー思考集成X』筑摩書房、二〇〇三年、二六八頁)  (p. 126)

(……)労働は価値源泉としては副次的なものとなり、労働時間は富の尺度であることをやめ、それゆえ資本主義自身によって価値法則が否定されるのである。「直接的形態における労働が富の偉大な源泉であることを止めてしまえば、労働は富の尺度であることを止める」(『マルクス 資本論草稿集:1857-58年の経済学草稿 第二分冊』大月書店)。富の生産という観点からするなら、労働はもはや無視できるエレメントである。それに代わって主要な生産力になるのは、生産(機械やのちには組織)に応用された科学的抽象的知、固定資本に客体化された「一般的知性(general intellect)」である。(p. 129)

(……)オペライスモの原則にそって、ポストフォーディズムを規定している非物質的労働のサイクルは、さきに「労働の拒否」のスローガンに結実した労働者の抵抗、あるいは六八年以降のさまざまな諸主体の抵抗と創造の実験によって構成されていた、とされる。むしろ資本は、いま、この自己価値化の過程を外的に捕獲するにすぎない。「非物質的労働のサイクルは、社会的で自律的な労働力によってあらかじめ構成されている」。この闘争がもたらした「自律的労働」は、「非物質的労働」として、ポストフォーディズム的生産様式のコアを構成するようになるのである。(p. 130)

無期限契約を手にしているいまや「特権的」な労働者にしても、企業内部の空気の変動や多様な受容が産み出す生産の上下に完全に適応しなければならないし、テクノロジーの変動にあわせてつねにみずからを教育し直していく必要がある。ヨーロッパにおいて、失業率の増大と、超過労働時間の延長が同時に伸びているのは、こうした条件が背景にある。
このような点からして、ポストフォーディズムにおいては、主体性が、あるいは全体的力が、限定抜きで資本によって包摂される場合に、テイラー主義よりもはるかに全体主義的な性格をあらわにするのである。(p. 134)

 アンチ・ホッブス主義者であり、晩年には友愛の系譜学と実践的重要性を説いていたフーコーには、恐怖と自由をともに開こうとする、あるいは自由を恐怖によって制限しようとするリベラルの発想はまったく無縁であるといえるだろう。たしかに、リベラルが繰り返してきたように、セキュリティなき自由はないし、保障なき生産も存在しない。しかし、保障に賭けられた主要な問題は、フーコーの一分の弟子たちのいうような、リスクを、ということは恐怖を配分することではない。むしろ、創造と協働を発展させるために、権力関係を支配状態へと固定させる恐怖から解放された地平を開く保障を構想することである。自立と両立し、また支配の持ち分を制限するだろう保障こそが、この世俗における「生の技術」を発展させるための条件となるのである。(p. 136)


隠れた生産の場所に降りて行くこと    宇野邦一

     

ネグリ/ハートにとって、このような変化はすべて、二〇世紀末の世界でますます顕著になった生産、労働、消費における「非物質化」に先行する者であり、情報、情動、サーヴィス等々を主要な要素とする非物質的な生産と消費こそが、ポストモダン的な段階の特徴である、ということになる。彼らは、一方ではポストモダン的な段階が新たな管理と抑圧(生政治学)を生み出したことを指摘しながら、しかも同時に、新たな個人と集団(協同、マルチチュード)、新たな生の様式(移動性と柔軟性)が登場したこと、この両義性を絶えず指摘するのである。(p. 148)

 この本は、ドゥルーズとガタリによって書かれた『千のプラトー』なしでは考えられないが、一方この本ほど、『千のプラトー』の提出した思考と概念を現代史に照らし合わせ、歴史的現実に対して機能させることで、それらをテストし新たに生気づける、という試みを実現した本はまれだろう。「帝国」とは限りなく領域を脱していく運動(絶対的脱領土化)そのものである。その運動が同時に、諸領域を再構築し復活させながら、さまざまな領域の間を新たな横断線によって結びつける。「リゾーム」と呼ばれるような、中心もなく階層ももたない組織は、ただ無秩序ではなく、横断的なネットワークであり、まさに帝国のモデルとして採用されている。(p. 152)

 ネグリ/ハートにとってマルチチュードは、二〇世紀末に新たな様相をもって再構成されたにしても、それはもともと、ルネサンス期にマキアヴェッリの政治学という表現をとったような、集団的な生の「みなぎる力」にまでさかのぼる。マルチチュードの移動性と柔軟性、非中心性と非等質性は、そもそも近代の出発点にあった、「この世界にみなぎる力を肯定する」意志と不可分なのだ。ネグリ/ハートは、西欧近代の第一の本質をなすのは、理性でも、科学でも、資本主義でも、あるいは世俗化でもなく、この世界をなす生の力を、神にも国王にも教会にも、それらの超越性に依存することなく、ただ内在性として肯定しようとする知と意志であったというのだ。西欧近代とは、このような内在的な力の肯定と、これを制限する新たな体制、理性、超越性との抗争の歴史にほかならなかった。マキアヴェッリの政治学から、スピノザの哲学まで貫いているのは、ネグリにとって、すでに実在し歴史を動かしてきたマルチチュードによる内在的な生の肯定の、もっとも先鋭な思想的表現にほかならなかった。(p. 154)

マルチチュードの(不)可能性    尾崎一郎
     
(……)ボランティア、まちづくり、地域通貨、NPOといった「個性ある活動」が、一種の平準化、陳腐化の様相を呈し、また時としてスペクタクル化してしまい、さらには、国家や市場の機能不全を補完しそれらが本来担うべき機能を代替するものとして、「ガバナンス」の一ファクターに矮小化され収斂してしまう傾向が存在する。運動が、特に都市に居住する(あるいは都市的生活様式を実践する)高学歴者により主として担われ、ミニコミ、マスメディア、インターネットなどを介して積極的に情報収集/発信が行われている場合、その傾向は顕著になる。(p. 172)

(……)われわれは、既存の形而上学的図式、特に弁証法的な図式、あるいは超越論的図式、予定調和的図式にとらわれずに、あくまで「内在性の平面」に定位しつつ、多様な人びとからなる「マルチチュード」としての「構成的権力(立憲権力)(constituent power)」、すなわち、多様なるわれわれの、みずからを生政治的に組織し(五〇九頁)、構築し、力づけ(四九二頁)、自己を特異性として生産し再生産し(四九〇頁)、「価値の尺度の彼岸」にある「潜在的なもの(virtual)」を「可能的なもの(possible)」を介して「現実的なもの(real)」とする(四四七-四五一頁)ありよう、「活動状態にある絶対的なデモクラシー」(五〇八頁)に、〈帝国〉に抗する可能性、「代表するのではなく構成する活動(not representational but constituent activity)」の可能性(五一一頁)、ネットワーク的「協働」の可能性を見出すことができる。否、そもそも順番が逆なので、むしろ帝国こそそのようなマルチチュードの活動に「寄生」(九一頁)するものである。(p. 177)

(……)マルチチュードが地球を包摂するネットワークを作りあげ言語や貨幣を通じてコミュニケーションしている、その営為こそが〈帝国〉を生み出しているのである。「たしかに、〈帝国〉は植民地主義と帝国主義に引導を渡すのに一役買ったかもしれないが、にもかかわらず、多くの点からみてそれは、自分自身が破棄したものよりももっと過酷な搾取に基づく独自の権力諸関係を打ち立てているのだ」(六五頁)。とはいえ、「マルチチュードが有する脱領土化を推進する力は、〈帝国〉を下から支える積極的な力であると同時に、その破壊を呼び求め、必然的なものとする力でもある」(九〇頁)。「〈帝国〉システム秩序の内部で噴出するあらゆる叛乱的な出来事は、システム全体を揺さぶる衝撃を引き起こすのである」(八八頁)。(p. 178)

 このような〈帝国〉において「マルチチュード」がそれに抗して「闘争」するということは次の二つのことをさしあたり意味するであろう。第一に、マルチチュードは、闘争することで闘争の対象たる〈帝国〉を現前させるしかないということであり、第二に、闘争するという営為自体が〈帝国〉という強力な「捕獲装置」の絡め取られてしまう危惧があるということ、つまり、自己を駆り立てる原動力を欠いた捕獲装置に過ぎないのでなく寄生する捕獲装置だからこそ、あるいはマルチチュードが下から支えている捕獲装置だからこそ、そこから逃れられない危惧があるということである。(p. 180)

 二つめの構えは、ネグリ&ハートが展開するものである。すなわち、マルチチュードの「むき出しの生(naked life)」(四五七頁)がもつ、既存の価値の尺度に収まらない、「馴致できない力」に、「存在の新たな意味」への突破口を開く希望を託すというものである。彼らは、「〈帝国〉が、社会的・経済的諸関係のグローバル化という新しい現実に適合した権利の体系を、その努力もむなしく構築できないでいる」、その「不可能性の原因は、マルチチュードの革命的性質に求められる。マルチチュードの闘争こそが、自己のイメージの逆立像としての〈帝国〉を生み出したのであり、いまや彼らはこの新しい情勢のなかで馴致できない力、いかなる権利と法にも収まらない価値の過剰を表現しているのだ」(四九〇頁)とする。(p. 187)

ネグリ&ハートの議論の危うさはまさにそこにある。〈帝国〉の一層の侵入を回避するためには、自分は力に満ちていると感じただ述べ立てるのではなく、自分は無力であるという認識を厳然として維持しつつ、運動を行わねばならない。言うなれば、自己欺瞞、自己矛盾を熟知し引き受けることのぎりぎりの肯定性に投企すること、これは無前提のペシミズムと無前提のユートピアニズムとの間で引き裂かれながら〈帝国〉に生きる人間のリアリティではなかろうか。マルチチュードとしての力の限界を熟知しつつ、マルチチュードとしての自己規定を引き受けること。これは『〈帝国〉』というテクスト、ネグリ&ハートの宣言を盲目的に信じることではなく、むしろ徹底的に批判的に読むことで引きつぐということである。それはマルチチュードの(不)可能性の実践である。(p. 191)


マルチチュードの存在論的定義に向けて
                    トニ・ネグリ(箱田徹
訳)
     
ローザ・ルクセンブルクは第二インターナショナル内の狭量な労働者主義に反対し、労働貴族理論に反対する論陣をはったが、これはマルチチュードの名を先取りするものだった。労働貴族を批判したローザの主張が、当時の労働運動内部に勃興していたナショナリズムへの批判と相まっていたのは偶然ではない。
マルチチュードを階級概念として措定すると、搾取協働に対する搾取として定義される。ここでいう協働とは諸個人ではなく特異なものたちが担う協働であり、搾取とは、特異なものたちの集まりの搾取、その集まりを構成するネットワークの搾取、そのネットワークを包含する集まりの搾取、その集まりの……と続くような搾取である。(p. 200)

 マルチチュードは力能の概念である。協働についての分析を行いさえすれば、特異なものたちの集まりが過度なるものの生産を行うということがわかる。この力能は自らを押し拡げようとするだけでなく、なによりも身体を得ようとする。つまりマルチチュードの肉体は、全般的知性General Intellectの身体へと変化しようとするのだ。この移行、さらにいえば力能のこうした表現のあり方は次の三本の力線に素って考察することができる。

aモダンからポストモダンへと移行する(フォーディズムからポスト・フォーディズムへの移行としてもよい)マルチチュードの系譜。この系譜を構成するのは、「近代」的規律社会の諸形態を解体した労働者階級の闘争である。
b 全般的知性への傾向。マルチチュードを構成するこの傾向性は、つねに非物質的で知的な度合を強める生産の表現形態を志向し、生きた労働のなかへの全般的知性の全面的統合という形をとろうとする。
c この核心的な移行がもたらす自由と喜び(と同時に危機と苦しみ)。これはその只中に連続性と非連続性を、特異なものたちが組みなおされる際の収縮と膨張のようなものを包含する。 (p. 202)

非常に一般的な意味でいうと、マルチチュードは代表を信用していない。なぜならマルチチュードは通訳不能な多様性であるからだ。人民はつねに一つの単位・まとまりとして代理されるが、マルチチュードのほうは代理不能である。マルチチュードは、目的論的で超越論的な近代合理主義にとっては怪物であるからである。 (p. 203)

非物質的労働力と生きた協働労働のヘゲモニーによってもたらされた根底的な生産様式の変更、語の十全な意味で存在論的で生産的で生政治的な革命が、「よき統治」のパラメーターを完全に転倒してしまった。そして、資本家がつねに欲してきた、資本蓄積のために機能する共同体という近代的な観念を破壊してしまった。 (p. 204)

 つまりわれわれはマルチチュードの存在論への橋渡しとなる二つのことを主張している。まず「主権的権力の生産は障害を乗り越えるが、主権の関係が構成する限界を消去することができない。」ということ、そして「反対に、マルチチュードのパワーは主権の関係を消去することができる。なぜならマルチチュードの生産によってのみ存在は構成されるから」ということだ。この存在論が表現され始めるのは、マルチチュードによる生産に帰される存在の構成が実践的に規定されたときである。 (p. 211)


主権、マルチチュード、絶対民主制――『〈帝国〉』をめぐる討議 
                  マイケル・ハート

                  インタヴュアー:トマス・ダム(水島一憲 訳)
     
ハート ドゥルーズ+ガタリが、『アンチ・オイディプス』は多数によって書かれたと述べたさいに言わんとしていたのは、まさにこのことだと思います。協働作業がもたらす錬金術は、二人の著者を単一の声へと溶けこませるものではなく、彼/彼女ら二人を増殖させることを通じて、マルチチュードのコーラスを創造するものなのです。(p. 220)

ハート
 マルクスの一般的知性という概念が好もしいものと思われるのは、このような知見を、個人的な用語というよりは社会的な用語で提示しているからです。われわれはみな、さまざまの概念と知識を生産する一般的知性または集団的知能の一部をなしているのです。(p. 221)

ダム
 (……)近年試みられた他の理論における介入――例えば、ハーバーマスのコミュニケーション的行為の理論、デリダの脱構築、フーコーの規律社会と統治性の系譜学、そしてまたドゥルーズ+ガタリのノマドロジーでさえも――が、政治の問題のある側面、すなわち、あまりに還元主義的な呼び方かも知れませんが、規範化=規格化(ノーマライゼーション)の技術と結びついた問題と呼ぶことのできるものに焦点を合わせているのに対して、あなたとネグリは、その極めて重要な批判的な活力と構築的な努力を、主権に抵抗するための方法を理解し提供することの集中させているように見うけられます。(……)あなた方の仕事は、超越的というよりは内在的な方式で政治を思考しようとする、ジョルジュ・アガンベンのような他の思想家たちの仕事と同じく、運動としての歴史という観念を復活させ、ヘーゲルを依然として用いつつもヘーゲル主義に抵抗するものであるように思われます。(p. 222)

ハート アガンベンは、カール・シュミットが提示した例外状態における決定という概念や、支配の近代的機能がそこにおいては永続的な例外状態となる緊急状態などの概念に依拠しながら、近代的主権の概念構成を見事に練り上げています。そのうえで彼は、いつものようにその華々しい学識を駆使しながら古代ローマ法にまで遡り、この近代的主権の概念構成を、追放または排除された人物の形象とリンクさせているのです。そういうわけで、近代的主権の頂点にして、その完全な実現形態は、ナチの強制収容所にほかならないということになります。(……)こうした見解に対するぼくのためらいを口にするなら、強制収容所という極限的なケースを主権の核心として措定することによって、近代的主権が揮うさまざまの日常的暴力――そのあらゆる形態における――が覆い隠されてしまうことになりはしないか、ということになるでしょう。(p. 225)

ハート
 (……)ぼくらのプロジェクトとアガンベンのあいだのもっとも際立った差異は、次の点にこそあるのです。すなわち、アガンベンが近代的主権にこだわっているのに対して、僕らは、近代的主権はいまや終焉を迎え、〈帝国〉の主権とぼくらが呼ぶところの、新しい種類の主権へと変容した、と主張しているという点です。〈帝国〉の主権は強制収容所とは何の関係もありません。もはやそれは、大文字の自己と大文字の他者のあいだの弁証法という形をとることはありませんし、そのような絶対的排除を通じて機能することもまったくないのです。(p. 226)

ハート
 アガンベンは、人間性のあのリミット、強制収容所でさらされた実存のあからさまな最小限(ミニマム)を名指すために、「剥き出しの生」という言葉を用いています。彼の説明によれば、つまるところ、近代的主権は剥き出しの生を支配するのであり、生権力とは生そのものを支配するこの権力のことである、ということになります。(……)アガンベンの(そしてまたフーコーの)生権力の概念に対するぼくらの批判は、それが上からのものとしてのみ構想されているという点にあります。そこでその代わりに、ぼくらが定式化しようと企てたのが、下からの生権力という概念、すなわち、マルチチュード自身がそれによって生を支配するような権力だったのです(……)。(p. 227)

ハート ホミ・バーバの仕事は豊かで複雑なものですが、でも、それに接した多くの読者たちは、次のような印象を抱いてそこから離れていくことになります。すなわち、異種混交性は、それをとおして権力が機能する、白人/黒人、黒人/女性といった諸々の二項対立に公然と反抗するものであるのだから、異種混交性それ自体に開放的な力が孕まれているのだ、と。けれどもぼくらが主張しているのは、〈帝国〉の主権は、異種混交的な主体性によっては些かも脅かされない。じっさい、〈帝国〉は、フレキシブルなヒエラルキーの内部で諸々の異種混交的アイデンティティを管理運用しながら、まさに一種の差違のポリティクスをとおして、支配力を行使しているのです、したがって、こうした見地からすると、異種混交性のポリティクスは、いまや廃れてしまった主権の近代的形態に抗するうえでは有効なものであったのかもしれませんが、現行の〈帝国〉の形態に抗するには無力なものでしかない、ということになります。(p. 230)

 (2012/1/28)