小熊英二、上野陽子 |
第一章 「左」を忌避するポピュリズム 小熊英二 |
この〔小林の従来の歴史教科書に対する〕ような、既存の「戦後民主主義」の言語体系への(誤解を含んだ)違和感の表出は、近年に始まった現象ではない。かつて一九六〇年代には、やはり若年層から「戦後民主主義」が微温的かつ体制内的な言葉になってしまったとみなされ批判されたとき、よりラディカルな「左」よりの学生運動の言葉が生産され、若年層の支持を集めていった。すなわち六〇年代から七〇年代までは、人びとが既存の言語体系に違和感を抱いたとき、その受け皿となっていたのは、「左」の言葉のほうだった。(p. 36)
「史の会」の参加者たちを観察して強く感じたのは、「価値観を共有している」ことを示すためにある特定の言葉が繰り返し用いられるということだ。「アサヒ」「北朝鮮」「サヨク」という言葉は、非常に心地よいフレーズとなって参加者の耳に響いている。朝日新聞にもさまざまな記者がいるだろうし、記事も同じ論調で揃っておりことはありえないが、「史の会」では「朝日」を批判すれば、隣に座っている年齢も社会的立場も異なる人とも、とりあえず話のキッカケがつかめる、そんな風に感じ取れた。 |
(……)「戦中派」とそれ以外の若い世代とがお互いにうちとけていないという現状は、「古き良き保守」の主張から考えてもかなり皮肉な状況なのではないか。「史の会」の参加者を見ていて思うのが、皆個人主義」であるということだ。「史の会」以外でメンバーに連絡を取り合うことはほぼない。自分自身の「史の会利用目的」が存在して、それを満たすために時間を作って公民館に勉強しに来るのだ。 (p. 142) 客観的に見れば、全国平均の購読率が四パーセントほどである産経新聞を、半数以上の参加者が購読している「史の会」は、平均的な集団とはいいがたい。それにもかかわらず、彼らは「普通」を自称する。だがその「普通」がどんな内容のものであるのかは、彼ら自身も明確に規定することができていないのだ。 |
かつて社会学者の宮台真司は、「つくる会」が掲げる歴史観を批判して、「オヤジの慰撫史観」と形容した。しかし上記のような二層構造を踏まえるならば、「史の会」で共有されている歴史観は、年長者の「慰撫史観」であると同時に、〈若者の癒し史観〉でもあるといえる。そして両者は、必ずしも交わることのないまま、後者の優位のもとに同床異夢の連合を形成しているのだ。(p. 209) もともと「保守」という立場は、「伝統」や「普通」といった、既成事実を基盤とする感覚に根ざしている。そうであるだけに、「保守」が体系的な思想を形成することは困難である。思想史の流れをみても、ほとんどの保守思想は独自の体系を築いたものではなく、もっぱら近代的な理性や「主義」に懐疑をつきつけ、「常識に還れ」「伝統に還れ」などと主張するものであった。 このように、もはや依拠するべき「伝統」を失い、「主義」として「保守」を構築しなければならなくなった立場のことを、西部は「真正の保守」である「コン」と区別して「ポップコン」とよぶ。まさに「戦中派」を除く「史の会」参加者たちの「保守」は、こうした性格のものであるといえるだろう。(p. 211) (……)「史の会」の参加者たちの特徴を総括してみよう。総じて参加者たちは、他者と結びつきたいと願いながら、相互の距離が破れることを恐れている。彼らは「サヨク」を「自己中心的」だと批判するが、そう述べる彼ら自身が「個人主義」的だ。参加者たちは、「最近の若者」を「おとなしい」「弱い」「根無し草」などと批判するものの、彼ら自身は受動的な「良き観客」にとどまっているのである。 「ふつうの市民」という言葉を社会運動のなかで広めたのは、ベ平連の旗揚げ役を担った小田実である。しかしその「ふつう」は、「異常」を排除するものではなかった。小田は一九六五年のベ平連のデモに集まった「ふつうの主婦、ふつうの教師。ふつうの少年。ふつうの失業者」など雑多な人びとを「『ふつうの市民』としかいいようないしろもの」と形容し、「ぼくはふつうの会社員ですが」と声をかけられたとき、「ぼくもふつうの作家です」と回答している。そこでいう「ふつう」とは、既存の認識枠組みや党派性、そして排除の構造を拒否した、分類不能で種々雑多な人びとを形容するための言葉だった。 |
そして彼らが考える〈普通でないもの〉が、彼ら自身の内面の投影であるのなら、それは決して消滅することはなく、永遠に発見され続ける。最初は「サヨク」が、そして「アサヒ」や「北朝鮮」が、次には「フェミニズム」や「夫婦別姓」が、そしていつかは「在日」や「外国人労働者」が、排除すべき〈普通でないもの〉として発見されるだろう。(p. 219) だが問題なのは、以下のようなことである。すなわち、そうした「普通の市民」たちが、石原慎太郎などの右派ポピュリストを当選させる基盤となり、結果としてマイノリティへの抑圧や国際関係の悪化を招いていること。一人ひとりは「普通の市民」である彼らが、自分の不安を持ちよって集まることで、排除の暴力を内包した右派集団が形成されるということ。そして、こうした不安を抱えた「普通の市民」が今後も増加してゆくであろうことである。もし彼らが異常な少数派であるのなら、問題はむしろ少ない。問題は、彼らがあまりに「普通」であり、現代日本社会に広範に見られる特徴の一部を、極大化しただけの存在であることなのだ。(p. 220) (2012/1/24) |
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