ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <書 抜き書きメモ 42>

ローザ・ルクセンブルク
獄中からの手紙
――ゾフィー・リープクネヒトへ
大島かおり編訳、みすず書房、2011年

I ライプツィヒから
      

II ベルリンから

     

III ヴロンケから

     
                   ヴロンケ監獄 一九一七年一月一五日
ああ、今日は辛さを感じた一瞬がありました。三時一九分、機関車の汽笛がマティールデの出発を知らせたときです。わたしは檻の中のけもののように、いつもの塀沿いの「散歩道」を行きつ戻りつしていました。心臓が痛みに締めつけられました、わたしもここから出てゆきたいのに出られない、ここを出られさえしたら! だいじょうぶですよ、わたしの心臓はすぐにぴしゃりと平手打ちを喰らって、おとなしくなりました。もう慣れっこになっているんです、よく躾けられた犬のように命令に従うことに。こんな話はもうやめましょうね。(p. 27)

                    ヴロンケ監獄 一九一七年二月一八日
プフェムフェルト〔出版人〕にゴールズワージーのお礼をお伝えください。うれしいことに昨日、最後まで読みおえました。ただこの小説は『資産家』ほどは気に入りません。この作品のほうが社会小説的な傾向が強いにもかかわらずではなくて、その傾向のせいです。わたしが小説に求めるのは傾向ではなく、芸術的価値です。この点から見ると『友愛』ではゴールズワージーが才気走りすぎているのが気になります。妙なことを言うとお思いでしょうね。でもこれはバーナード・ショーやオスカー・ワイルドと同じタイプ、いまイギリス知識人のあいだにとても広まっている一類型ですよ、とても利口で洗練されてはいるけれど倦怠している高慢な人たちで、この世のすべてを懐疑的な苦笑を浮かべて眺めている。(p. 32)

                    ヴロンケ監獄 一九一七年五月二日
聞いてくださいな、昨日、五月一日に出会ったのは――だれかおわかり?――輝くばかりに活きのいいヤマキチョウですよ! うれしさのあまり胸がふるえました。チョウは飛んできてわたしの袖に止まり――ライラック色の上着を着ていたので、その色に惹かれたのでしょう――それからゆらゆらと塀の向こうに消えてゆきました。午後には三種類のきれいな小さい羽毛を発見、ジョウビタキのくすんだ灰色の羽毛と、ホオジロの金色の、それにナイティンゲールの灰色がかった黄色のと。ここにはナイティンゲールがたくさんいて、はじめての歌声はもう復活祭の日曜日の朝早くに聞こえましたし、それからは毎日わたしの庭の大きなウラジロハコヤナギに来ます。三枚の羽毛は、きれいな青い紙箱に入れたわたしのささやかな蒐集品に加えます。この箱にはバルニム街監獄の中庭でみつけた羽毛も入っているんですよ――ハトとニワトリの、それにズュートエンデで拾ったすばらしくきれいな青いカケスの羽も。「コレクション」はまだとてもわずかですが、ときどき眺めて愉しんでいます。どれをだれに贈ろうか、もう心づもりをしているんですよ。
ところが今朝、塀のほうに近寄ってみると、なんと塀ぎわにそっと隠れるようにしてスミレが咲いているのを見つけました! わたしの小さな庭全体で一輪きりのスミレ。ゲーテはなんと詠っています?

すみれが一輪、野に咲いていた、
頭を垂れて、だれにも知られずに、
小さな、可憐な花すみれ!
〔Das Veichen, モーツァルトがこれに曲を付けている〕 (p. 48)

                    ヴロンケ監獄 一九一七年五月二日
それともご存じかしら? わたしは自分がほんとうは人間ではなくて、なにかの鳥か動物かが出来損ないの人間の姿をとっているのじゃないかと、感じることがよくあるのです。心のうちでは、ここのようなささやかな庭とか、マルハナバチやかこまれて野原にいるときのほうが、はるかに自分の本来の居場所にいる気がする――党大会なんかに出ているときよりも。あなたになら、なにを言っても大丈夫ですね、すぐさまそこに社会主義への裏切りを嗅ぎつけたりなさいませんものね。にもかかわらずわたしは、あなたも知るとおり、自分の持ち場で死にたいと願っています。市街戦で、あるいは監獄で。けれども心のいちばん奥底でのわたしは、「同志」たちよりずっとシジュウカラたちの仲間なのです。(p. 52)

                    ヴロンケ監獄 一九一七年二月一八日
ゾニューシャ、あなたはわたしの長い拘禁に憤慨してお訊きですね、「どうしてこんなことになるのでしょう、人間がほかの人間の運命を決定することが許されるなんて。いったいなんのために?」と。ごめんなさい、これを読んで思わず声をあげて笑ってしまいました。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に、まさしくそういう質問をいつもするホフラコーヴァ夫人というのが出てきますね、彼女は社交の場にいる面々を困ったように見回すのですが、だれかがなんとか答えようとしたときにはもう別の話に飛び移っている。わたしの小鳥さん、人類の文化史は控え目に見積もっても二万年あまり続いていますが、その全体が「人間がほかの人間の運命を決定する」支配関係に基づいていて、それは物質的な生活諸条件に深く根ざしているんですよ。この先、苦難に満ちた一つのさらなる発展が、はじめてこれを変革できるのであって、わたしたちはまさしくいま、この苦難に満ちた章の一つを目撃している証人なのです。(p. 67)

                    ヴロンケ監獄 一九一七年六月三日
日曜日の朝
雨はすっかり小降りになって、木々の葉を同じ間隔で軽く叩く。稲妻がいま一度、鉛色の空にたてつづけに赤紫の光を放ち、雷の遠鳴りがなおも、岸壁に砕ける最後の弱まった波のように聞こえてくる。するとこの禍々しい雰囲気のまっただなかで、わたしの窓のまえのカエデの木のうえで突如、ナイティンゲールが声を張りあげたのです! 雨のなか、稲妻と雷鳴のさなかに、その声は明るい鐘のように響きわたりました。陶然と、取り憑かれたようになって、雷鳴を歌い負かそう、夕闇を追い払って光を取りもどそうとしているかのように――これほど美しい歌声をわたしは聴いたことがありません。その歌は、かわるがわる鉛色と紫に色を変える空を背景にきらめきゆれる銀色の閃光さながらでした。じつに神秘的で、じつに捉えがたい美しさ、わたしはわれ知らずあのゲーテの詩〔「愛する人の身近に」〕の最後の句を繰りかえし口ずさんでいました。「おお、いまここにあなたがいれば!」…… (p. 77)

                    ヴロンケ監獄 一九一七年六月八日
このあいだあなたの手紙にあったあのモーパッサンの詩、確かにわたしのものの見方に合致しています。けれども彼の短編や長編の小説となると、もうとても読めません。こういうご婦人私室向き文学はぜんぶ、過去に属す世界と同様、わたしにはもうけりがついているのです。それが時代のせいなのか、わたしのせいなのかは、わかりません。わたしたち、このことでは意見が一致しないかもしれませんね。あなたはたいへんなフランス人贔屓ですもの。(p. 87)

                    ヴロンケ監獄 一九一七年七月二〇日
昨夜、九時ごろのこと、また一つすばらしい光景を見ましたよ。ソファーに座っていると、窓ガラスにバラ色の反射光がきらめいているのに気がつきました。空はすっかり灰色だったので、びっくりして窓に駆けよると、そのまま魂を奪われたように立ちすくんでしまいました。一面どこも灰色の空の東の方に、この世ならぬ美しさのバラ色をした大きな雲が、塔のように聳え立っているではありませんか。ただひとり、あらゆるものから自分を解き放ってきらめいているその姿は、まるでほほえみのように、人知れぬ彼方からの挨拶のように思えました。わたしは開放感に満たされて深く息を吸うと、思わず両手をその魔法の姿のほうへ差し伸べました。このような色、このような形姿があるからには、人生は美しい、生きる価値がある。ね、そうでしょう? わたしはそのかがやく姿に吸い付くように視線を据えて、バラ色の光のひと筋ひと筋を体内に取りこみましたが、そのうちふいにそんな自分がおかしくて笑い出さずにはいられなくなりました。だってそうでしょ、空も雲も、人生の美しさも、ヴロンケにじっと留まっているわけじゃない。それらに別れを告げる必要はない。どれもわたしといっしょに来るのです、わたしがどこにいようと、生きているかぎり、わたしといっしょにいてくれるのです。(p. 93)


IV ブレスラウから

     
                ブレスラウ 一九一七年九月九日
                                 日曜日
ゾニューシャ、あなたは想像できるかしら、小鳥、たとえば、スズメよりまだかなり小さいコマドリが、春に南(南エジプト)からヘルゴラント〔北海にあるドイツ領の島〕までの旅を一晩でやってのけるなんて。こんな小さな生き物が、北へ再び帰りたいと、これほど驚くべき熱い思いを抱いている。南へ渡る秋にはこれとはちがって、おおかたの渡りの群はためらいがちにしか飛んでいかず、途中で何度も旅を中断して休みます。それほど故郷を去りがたいのです……(p. 110)
     
                ブレスラウ 一九一七年一一月一六日以後
これまでどんなに長いあいだ、あなたとせめて紙の上ででもおしゃべりする習慣を諦めてきたことか! そうするしかなかったのです。手紙はわずかな回数しか書くのを許されなくて、その機会は手紙を待っているハンス・D〔ディーフェンバッハ〕のためにとっておかざるをえませんでした。いまではそれももうおしまい。わたしの最後の二通はすでに死んだ人宛に書いていたのです。一つはもう返送されてきました。いまでもまだその事実をどうしても呑みくだせない。でもその話をするのはやめておきましょう、そういうことは自分ひとりでけりをつけるのがいちばんいい。だれかがわたしを「いたわって」、悪い知らせを聞く心の準備をさせようとしたり、(クララのように)自分の悲嘆を語ることで「慰め」ようとしたりすると、わたしは言いようもなく苛立ってしまいます。いちばん親しい友だちさせ、いまだにわたしをこんなにもわかってくれず、こんなにも過小評価して、こういう場合にいちばん言い、いちばん優しいやり方は、わたしにすぐさま、でも簡潔に、さらりとひと言、「彼は死んだ」と言ってくれることだとは理解してくれない――このことはわたしを傷つけます。でももうこの話はおしまい。 (p. 114)

                ブレスラウ 一九一七年一一月二四日
わたしが根っからの現代詩人ぎらいだなんて、あなたの思いちがいですよ。一五年くらいまえには〔リヒャルト・〕デーメルを感激して読みました――なんとかいう散文作品――愛する女性の死の床に侍って――ぼんやりとしか覚えていませんが――これには陶然となりました。アルノ・ホルツの『ファンタズス』連作はいまでも暗唱できます。ヨーハン・シュラーフの「春」(散文詩)は当時のわたしを夢中にさせました。でもその後はそういう詩人たちから離れて、ゲーテとメーリケへ帰っていったのです。ホーフマンスタールは理解できません、正直なところまるでわからない。ゲオルゲは読みません。ほんとうですよ、彼らのものはおしなべて、形式、つまり詩的表現手段の名人技的で完璧な駆使が見られるのに、偉大で高貴な世界観が欠けているのが、いささか気になるのです。この分裂はわたしの魂にとても空虚な音をひびかせ、おかげでその美しい形式がかえって茶番になってしまう。彼らの詩はたいていすばらしい気分を再現しています。でも人間は気分だけでできているわけじゃありませんからね。(p. 126)
     
                 ブレスラウ 一九一七年一二月二四日以前
昨夜はこんなことを考えました。わたしが――特別な理由もないのに――いつも歓ばしい陶酔のうちに生きているのは、なんと奇妙なことだろう。たとえばここの暗い監房で石のように固いマットレスに横たわり、周囲は教会墓地なみの静けさの満たされていて、自分も墓のなかにいるような気がしてくる。窓からは、獄舎のまえに夜どおし灯る街灯が毛布の上に反射光を落としている。ときおり聞こえてくるのは、遠くを通りすぎてゆく鉄道列車のごく鈍いひびき、あるいはすぐ近く、窓の下で歩哨が咳払いし、こわばった脚をほぐすために何歩かゆっくりと重い長靴で歩く音だけ。踏まれた砂が絶望のきしみ声をあげ、その音は出口なき囚われの身の全寂寥感をひびかせて、湿った暗い夜へと吸い込まれていく。そこにわたしはひとり静かに、闇、退屈、冬の不自由さというこの幾重もの黒い布にぐるぐる巻きにされて横たわっている――それなのにわたしの心臓は、燦々たる陽光をあびて花咲く野辺を行くときのように、とらえがたい未知の内なる歓喜に高鳴っている。そしてわたしは人生に向かってほほえむ。まるでなにか魔法の秘儀を心得ていて、悪いこと悲しいことはぜんぶ嘘だと罰して、純粋な明るさと幸福に変えてしまえるかのように。そうしながらも自分でこの歓びの原因を探ってはみるけれど、何ひとつみつからず、またしても――われとわが身が可笑しくて――ほほえんでしまう。わたしの思うに、魔法の秘儀とは生きることそれ自体にほかなりません。 (p. 133)
     
                 ブレスラウ 一九一八年一月一四日
――「ペットリア」というのは知りません。あなたはアカシアの一種だと書いていますね? いわゆる「アカシア」に 似た羽状複葉と蝶形花冠だからそう思ったのかしら? ご存じでそうが、この国で一般にその名で呼ばれている木は、まるっきりアカシア属ではなくて、「ロビーニア」〔ニセアカシア〕です。ほんとうのアカシア属は、たとえばミモザ。これの花は硫黄色で、陶然とするほどの香りを放ちますが、熱帯性植物ですからベルリンの野外で育つとはとても思えません。(p. 153)

               ブレスラウ 一九一八年一月一四日
わたしは自分に空しく言い聞かせます、そんなことを気に病むなんて笑止千万、わたしは世の中の飢えたカンムリヒバリすべてに責任があるわけじゃないし、ここの中庭に毎日荷を運んでくる野牛のように、殴られてばかりいるすべての野牛のために泣くことだってできはしない、と。そう言ってみてもまるで効き目はなく、わたしはそういう場面を見聞きすると見聞きすると文字どおり病気になってしまう。そしてホシムクドリが、いつもはうんざりするほど日がな一日どこか近くで興奮したおしゃべりを繰りかえしているのに、ふっと黙りこんでしまったまま何日かが過ぎると、なにか悪いことが起きたのではないかと、これまた心配になり、またくだらぬおしゃべりが始まって無事だとわかるまで気を揉みながら待つのです。こうしてわたしは獄房から四方八方へ伸びるかすかな糸でもって、大小無数の生き物とじかに結ばれ、あらゆることに不安と苦痛と自責をもって反応する……あなたもやはり、私が遠くからその身を案じて心おののかせているこれらの鳥や動物たちすべての同類なのですよ。(p. 156)

                                      (2012/2/7)