ジャック・デリダ |
『招待』 アンヌ・デュフールマンテル 亡霊が生者におのれを思い出させ、忘却されることを認めないように、hostisは歓待に応答する。カントの平和的な理性に、デリダは主体の最初の強迫観念を対立させる。他者性は、主体が安らかに閉じていくのを妨げるからだ。 (p. 4) 彼はハンナ・アーレントを引用する。「ナチズムがあったにもかかわらず、なぜあなたはドイツ語に忠実でありつづけるのですか」というジャーナリストに答えて、アーレントは次のように言うのだ。「どうしようもないではないですか、いずれにせよ、狂ったのはドイツ語ではないのですからね!」さらに彼女は付け加える。「なにものも母語の代わりをすることはできません。」[「何が残ったか? 母語が残った」矢野久美子訳『思想』一九九五年第8号、一五二-175頁]。 隠れ=墓所(クリプト)が思い出させてくれるものは、封印された穹窿(voûte)である。これは幻惑(envoûtement)する蒼穹だ。魔術が語りを歌に変えるのに対して、幻惑は墓所のごとき閉鎖をもたらす。十七世紀の初頭に世界は脱魔術化され、たとえばもはや読み得ない世界にいるドン=キホーテのように表徴の中に迷い込んでしまったが、二十世紀には言葉(パロール)こそがより根源的な次元で脱魔術化してしまった。オイディプスはテセウスに宣誓させる。だがショアー以後、誓いはなお可能なのだろうか。ショアー以後になってはじめて、言葉はたんに民族の殲滅を合理的に正当化するだけではなく、誓いの意味そのものを破壊するのに役立ったのだ。 (p. 32) 私の考えでは、現代におけるほど物質の重みを受けている時代はなく、ひとは視覚的なものであれ、触覚的なものであれ、ものに支配され、現実界の泥沼にはまりこんでしまっているのだ。Webのネットワークに逃げ込んだとしても、ますます限定された場と時間に包囲され、そこに書き込まれてしまうだけのことだ。その証拠に遊牧民族などのあらゆる移動が迫害されていることを挙げてもよい。遊牧民族や季節移動する住民たちがいたとしても、今日では戦争のために余儀なくされた人たちばかりである。 (p. 35) (……)人間は他人、あるいは他の女性や子供にしか歓待を与えることができないということ、それは動物という種を一種の他者とみなすことだ。デリダは指摘する。「反対に、人間の特性は、動物に対して、植物に対して歓待を開くことができることなのではないか……そして恐らくは神々に対しても。」(p. 38) |
異邦人の問い:異邦人から来た問い われわれは前に述べておきました。異邦人の問いがある。この問いに――それとして――取り組むことが緊急事項なのだ、と。 ここで生じる大問題のひとつに、異邦人が話す言葉の問題があります。異邦人は言葉を話すのが苦手なので、彼を迎え入れたり追放したりする国の法(droit)を前にすると、つねに無防備になってしまうおそれがあります。異邦人は、まずは法の言語にたいして異邦人=無縁なのです。ところが、まさにこの法の言語において、歓待の義務、庇護権、その限界、規範、治安(ポリス)などが表明されているのです。彼は、定義からして自分のものではない言語で、歓待を要求しなければなりません。家の主、もてなす主人、王、領主、権力、国(ナシオン)、国家(エタ)、父などがこの言語を課し、自分対の言語への翻訳を要求してきます。これが最初の暴力です。(……)言語によって共有されるものすべてを、われわれと彼がすでに共有していたとしたらそれでも異邦人は異邦人なのでしょうか。彼について庇護だとか歓待だとかを語ることができるでしょうか。われわれがこれから明確にしようとしているのは、こうしたパラドックスなのです。(p. 56) 私が提供しようとする絶対的ないし無条件の歓待は、通常の意味での歓待、条件付きの歓待、歓待の権利や契約などと手を切ることを前提としています。そうは言ったものの、この場合でも堕落(=倒錯)の可能性(pervertibilité)をなくすことはできないことは考慮に入れておかなくてはなりません。歓待の掟、歓待という一般的な概念を支配する形式的な掟は、逆説的な掟であり、堕落(=倒錯)の可能性を持ち、また堕落(=倒錯)させる可能性を持つような掟として現れてきます。それは、絶対的な歓待が、権利あるいは義務としての歓待の掟と手を切り、歓待の「盟約」と手を切ることを命じているように思われます。別の言葉で言い換えるならば、絶対的な歓待のためには、私は私の我が家(マイホーム)(mon chez-moi)を開き、(ファミリー・ネームや異邦人としての社会的地位を持った)異邦人に対してだけではなく、絶対的な他者、知られざる匿名の他者に対しても贈与しなくてはなりません。そして場(=機縁)を与え、来させ、到来させ、私が提供する場において場を持つがままにしてやらなければならないのです。彼に対して相互性(盟約への参加)などを要求してはならず、名前さえ尋ねてもいけません。(p. 63) |
お前の名前は何か。お前の名前を私に言いなさい。お前を何と呼べばいいんだい、お前を呼ぶ私、お前を名前で呼びたいと思っている私は、お前をなんと呼ぼうか。これはひとが優しく、子どもや愛する人に対して訊ねる言葉でもあります。それとも歓待とは、問いなき迎え入れから始まるものなのでしょうか。二重の抹消における迎え入れから、つまり問いと名前の消失における迎え入れから始まるのでしょうか。より正しく、より愛に満ちているのは、問い尋ねるほうでしょうか。それとも問い尋ねないほうがよいのでしょうか。名前で呼んだほうがよいのか、それとも名前なしに呼んだほうがよいのか。名前を与えたほうがよいのか、それともすでに与えられた名前を知るべきなのか。ひとが歓待を与えるのは、主体に対して、同定(アイデンティファイ)可能な主体に対して、名前によって同定可能な主体に対して、法的な主体に対してなのか。それとも他者が自己を同定する以前から、さらには他者が主体となる(主体として定立され、あるいは主体として想定される)以前から、つまり法的な主体、ファミリー・ネームで名付けることができる主体となる以前から、歓待は自ら他者に向かい(=おのれを他者に返し)(se render à l’autre)、おのれを他者に与えるのか……(p. 65) おのれの無罪を証明するために、いわば弁護のために、オイディプスはたしかに告発はします。誰も告発することなく、告発します。誰かというよりは、何かを告発するのです。まさにテーバイの町という形象を告発します。有罪なのはテーバイです。知らず知らずのうちに罪の責任を負っているのはテーバイであり、無意識のテーバイ、年としての無意識(l’inconscient-cité)であり、都市の中心にある無意識であり、ポリスpolisであり、政治的=ポリス的な無意識なのです(だからこそ告発は、罪をかぶせることなく、罪をかぶせるのです。無意識や都市の裁判などできるでしょうか、どちらもおのれの行為の責任を取る(répondre de)ことなどできないのに)。テーバイという(テーバイの)無意識が、オイディプスの近親相姦と父殺しと法-外-存在(l’être-hors-la-loi)について、おのれを赦しがたいものとして、罪あるものとしたのでしょう。 「我が家」が侵犯されるところではどこでも、いずれにせよ侵犯が侵犯として受け取られるところではどこでも、私有化を求める反動、あるいは家族主義的な反動さえも予想されます。さらに範囲が広がって、反動は民族中心的か国家主義的なものとなり、潜在的には外国人嫌悪(xenophobe)となるわけです。これは異邦人としての異邦人に向けられるのではなく、逆説的なことに、匿名の技術的な潜在能力(家族や国家のみならず、言語や宗教に対しても無縁な潜在能力)に向けられます。これが、「我が家」とともに歓待の伝統的な条件を脅かすのです。自分自身の歓待、そして自分自身(プロプル)の歓待を可能にする固有な(プロプル)我が家を保護したり、あるいは保護すると称することによって潜在的に外国人嫌いになりうるということ、これこそがこの掟(歓待の掟でもある掟)の倒錯(perversion)であり、堕落の可能性(pervertibilité)にほかなりません。(p. 82)
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国家が私的な領域=普通財産(domaine privé)(これはdomaine[狭義では国や公共団体の財産を指す]のひとつです)を保証したり保証すると称することができるのは、それを確保するために管理したり、そこに侵入しようとすることによってのみなのですから。管理することは否定的で抑圧的に見えるかもしれませんが、そうすることによって同時に国家はそれを保護し、通信(コミュニケーション)を可能にし、情報とその透明性を拡大するのだと称することができるのです。情報の民主化と治安=警察(ポリス)の領域が同じ広がりを持つことによって、じつに痛ましい逆説が生じます。民主的なコミュニケーション、浸透性、透明性などがおのれの空間を拡張し、おのれの現象性、つまり白日の下に現れること(apparaître au jour)を拡張すればするほど、警察権力や政治化も拡張してしまうという逆説が。(p. 84) 歓待の原理の無限の理念は、法=権利そのものに抵抗しなければならない――いずれにせよ、この理念は、まさに法=権利を支配している場において、それを超過し(excéder)なければならないでのでしょう。にほかなりません。(……)殺人者が、彼が殺そうとしている者が私の家にいるかどうか尋ねてきたら、私は嘘をつくべきでしょうか。カントの答えは「そう、真実を言わなければならない」というものであり、彼は苦労してではありますが、しっかりした方法で論証しています(……)。その通り、この場合にも真実を言わなければならない。従って、嘘をつくくらいなら、むしろ客hôteを死なせる危険をおかさなければならない。誠実さという絶対的な義務を放棄するくらいなら、歓待の義務を放棄したほうがましだ。誠実さの義務は人間性と人間の社会性一般の基礎なのだから、と。(p. 92)
到来者にはウィ(oui)と言おうではありませんか。あらゆる限定以前に、あらゆる先取り以前に、あらゆる同定(アイデンティフィケーション)以前に。到来者が異邦人であろうとなかろうと、移民、招待客、不意の訪問者などであろうとなかろうと、他国の市民であろうとなかろうと、生者であろうと死者であろうと、男であろうと女であろうと、ウイと言おうではありませんか。(p. 98) この二律背反の二つの対立する項が対称的でないこと、このことは悲劇そのものです。というのはそれが歴運的な悲劇であるからです。そこには奇妙なヒエラルキーがあります。唯一無二も掟はもろもろの掟の上にあります。だからそれは、アノミー的な掟nomos a-nomos、もろもろの掟の上にある掟、掟の外の掟(anomos, 覚えていらっしゃることと思いますが、オイディプス、父-息子であり、父としての息子であり、娘たちの父でも兄でもあるオイディプスはこのように特徴づけられていました)として、違法であり、侵犯的であり、掟の外にあるのです。ところが、歓待の無条件な唯一無二の掟は、歓待の掟の上にありながら、もろもろの掟を必要とし、それを要請します。この要請は構成的なものです。唯一無二の掟は、もし実際的で具体的な限定されたものにならなくてはならないことはないのであったら、このようなことが当為としての存在であるのでなかったら、実際には無条件なものではないことでしょう。それは抽象的でユートピア的で仮象的なもの、つまりその反対物に戻ってしまうおそれがあるでしょう。唯一無二の掟は、それがあるところのものであるためには、もろもろの掟を必要としますが、もろもろの掟は唯一無二の掟を否定し、少なくともおびやかし、時にはそれを堕落させ、悪化させます。(p. 99) |
「強制移住させられた人々(personnes déplacées)」すなわち亡命者、強制収容所の被収容者、追放者、故郷喪失者、遊牧民などは二つの願い、二つのノスタルジーを持っています。それはおのれの死とおのれの言語(ラング)です。一方で、彼らは殉教の地としてでもよいから、埋葬された死者たちが最後の住まい(=墓所)(la derniére demeure)を持つ場に戻りたいと考えています(家族の墓所とは、基準となるエートスや住居の位置を定めてくれるものであり、これを起点に我が家、都市、国などを規定することができるのです。そこでは親戚や父や母や祖母が休息して横たわっており、その不動の場からあらゆる旅や距離を計ることができるのです)。他方で、亡命者、強制収容所の被収容者、追放された人々、故郷喪失者、無国籍者、無法の遊牧民など絶対的な異邦人たちは、言語、いわゆる母語をおのれの祖国、さらには最後の住まいと認めることが多いのです。これがある日のハンナ・アーレントの答えでした。彼女は言語に関して以外は、自分がドイツ人だという気がしなかったそうです。(p. 105) |
このようにしてオイディプスは、住まいを、おのれの最後の住まい(=墓所)を選ぼうとします。彼はそれを選ぶ唯一の者、それを決定すべき唯一のものになろうと願い、墓所のための唯一の者、命令に署名する者としての唯一のものになろうとします。ある選択を布告し、おのれの死と埋葬の場所に一人で赴くことに固執するがゆえに唯一の者に。彼はおのれ自身の葬儀を秘密裡に遂行します。 (p. 110) (2011/11/18)
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