伊達之都 香の前物語
     こうのまえものがたり
 豊臣秀吉の側室に容姿艶美坐作静粛と謳われた女性がおりました。この女怯は本名をお種と言い、京都伏見の侍高田次郎右衛門の娘です。
 豊臣秀吉の軍勢が朝鮮に出兵したのは文禄元年(1592)1月です。奥州の雄、伊達政宗も家臣を引き連れ海を渡りましたが、政宗は出陣に際し重臣茂庭綱元を秀吉の本陣、肥前名護屋城下に留守居役として残しました。秀吉は綱元の人柄とオ能を見込んで、自分の重臣に取り立てようと出仕の都度誘っていました。しかし、鋼元は政宗に対する忠誠心が強く、これを固持し続けました。諦めきれない秀吉はある日、碁の対局で決着を付けるよう迫りました。綱元が負ければ首を差し出すか家臣になるかの何れかであり、綱元が勝てば秀吉の十六人の側室の中から好きなひとりを選んでよいとの条件でした。幸いに綱元が勝利を得たので、秀吉は快く兜をぬいで約を果たすことになりました。秀吉はこの美姫達を盛装させて綱元に選ばせました。すると綱元はこれらの美姫には目もくれず、部屋の清掃に当たっていた質素な支度の女性を所望しました。実はこれが秀吉の寵姫でありました。綱元はこの寵姫を貰い受けて伏見の別館に住まわせ、後に政宗に引き合わせました。この美姫がお種です。
 そして、政宗とお種の間に娘津多、息子又次郎が生まれます。その後、娘津多は伊達家代々の宿老を努める名家、原田家に嫁し、寛文事件(伊達騒動)の主役、原田甲斐の母となります。一方、息子又次郎は伊達家重臣であった涌谷領主亘理重宗の養子となり、名も亘理宗根と改め、高清水亘理家を興します。(その後領地替えにより佐沼に移る)そして、お種もこの地に暮らし、一生を終えます。
 仙台に移ったお種は『香の前』と称されるようになります。お種は梅の花の香りをこよなく好んだためとか、文化の中心京都に暮らしたお種は「香道」を嗜み、仙台へ移る際に沈香や白檀などの香木、丁子や安息香などの香料を待ち込み部屋でたいていたため、いつしか『香の前』の名が生まれたなどの諸説があります。何れにしても、お種は生来の美貌と艶美静淑な立ち居振る舞い、そして雅な京言葉と相まって『香の前』と称されるに相応しい女性でありました。
『香の前』が生きた時から四百年の月日が流れ、その証を見いだすのは困難となりました。しかし、早春に咲く梅の花のけっして派手ではないけれど、今なお人々の心をひきつける美しさは『香の前』に最も適した花でありましょう。そして、目を閉じて梅の花の香りを聞くと、『香の前』の姿があざやかに浮かんできます。
 御香「香の前」は、後女が生まれ育った京都の雰囲気と、そして不思議な定めの人生を送った陸奥の地に咲く梅の花の香りを併せ持った御香です。

    ― つつましく 華やいで ―
          香の前の面影をあなたに・・・
香の前
KW-1
政宗公ゆかりの香 香の前
2,160円

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