ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <川7>


〔水行・広瀬川 7〕 澱橋から牛越橋

 澱み橋上から上流、松淵の方向を眺める。 (2010/10/18)

MAP:澱橋~牛越橋
A~Xは写真の撮影位置と方向を示している。淵などの呼称、位置については、「仙台地図さんぽ」 [1]、「昭和24年版復刻JTB仙台市街圖」 [2]などを参考にした。.地図のベースは、「プロアトラスSV4]である。


   「広瀬川」でネット検索をかけると、利根川支流の広瀬川もたくさん引っ掛かる。群馬県前橋市を流れる川である。「広瀬川 文学」の検索では、上位の8割くらいは前橋の広瀬川になる。萩原朔太郎が前橋生まれで、彼と室生犀星に師事した伊藤信吉がいるというのが大きい。
  土井晩翠の詩に「広瀬川」が登場するのは2編しか私は知らないが、朔太郎ではたった1編だけを知っている。

 

廣瀬川白く流れたり
時さればみな幻想は消えゆかん。
吾の生涯(らいふ)を釣らんとして
過去の日川邊に糸をたれしが
ああかの幸福は遠きにすぎさり
ちいさき魚は眼にもとまらず。
          萩原朔太郎「廣瀬川」全文 [3] 

 

  川辺に釣り糸を垂れて「人生」を釣ろうと思ったことは、私にはない。「こんなことをしていていいのか」と焦れるような感情におそわれたことは何回もある。仕事が忙しくなって川から遠ざかると、そんなことを思っていたことも忘れて、「釣りもできない人生でいいのか」と焦れるのである。凡庸なものは、どこまで行っても凡庸なのである。その時、その場所、その情況に応じた覚悟というものがないのだ。
  さて、ここで問題。「広瀬川を詠んだ島崎藤村の詩ならびに土井晩翠の詩と上記の萩原朔太郎の詩を比較して、日本における近代詩から現代詩への時代的変容を示す文学的表現の差異を論ぜよ。
」 これらの三編だけでも時代に応じた差異がそれなりに見られるのは面白い。


澱橋上の遠景  (2010/9/26) 
この時期に4人の友釣り師がいるのは珍しい。

澱橋上の岩盤瀬の渇水  (2010/9/5) 
石が詰まっている溝もあるが、長い岩盤瀬である。

  澱橋の上下は、一つの大きな淵である。淵尻は良い瀬肩と続いている。橋上の淵の上部は、トップ写真に見るように鏡のようになっているが、岩盤と石が入っていて、時としてよいアユ釣り場となる。ただし、右岸寄りは高低差のある岩盤溝が複雑で、沖まで静かに泳がせてやるにはある程度の技術の高さも必要だろう。
   この淵への落ち込みでは、もちろんヤマメも狙える。ただし、この辺はニジマスがうるさい。この澱橋から上流の牛越橋の間は、春のゴールデンウィークのころ、広瀬名取川漁協がニジマスを放流して釣らせている場所の一つである。淵の左岸最上流(柳の木が生えているところの下)で左岸の分流が合流している。MAPのようには広くなくて細い分流である。この分流に放流したニジマスは子供たち専用である。
   このときの残りマスが、ヤマメ釣りの邪魔をする。邪魔と思わない釣り人もいるだろうが、どうも私にはうるさい。広瀬川ではニジマスは漁業権魚種であって、放流することには法的な問題はない。しかし、外来魚であることは変わりない。日本の河川、湖沼での繁殖力は小さく、ヤマメなどのサケ、マス類の淡水魚の生態的地位を脅かすほどでもないというのが、許容されている理由だろう。しかし、外来魚には違いない。
   私の場合は、ニジマスが掛かれば完全に"catch and eat"である。ヤマメももちろん食べるが、それは釣れ具合による。家族に1尾ずつ(つまり、現在は3尾)を持ち帰るには少なくともその三倍くらいは釣りたい。5尾しか釣れないのに3尾を持ち帰るのは、明日も明後日も釣りをしていたい私には気が引ける。
   こんなことを言うと、たいていの釣り人に恨まれるに決まっているが、体長制限に「~cm以上」も加えたらどうかと思っている。私だって大物は釣りたい。しかし、大物になるまで生きのびた魚の血筋は大事だ。それに大物ほど良い親魚になる。幸いなことに、ヤマメは20cm強くらいが一番おいしい、と私は思っている。私自身はあまり大物は釣れないのだが、それでも尺クラス以上とその日の最長寸は必ずリリースと決めている。
  私のヤマメ釣行では、24,5cmを頭に14,5尾という釣果が平均的なパターンである。そこから20~22cmクラスを3尾リザーブして、残りはヤマメの少なかったポイント付近にリリーしながら川を下るという場合が多い。最大が22,3cmクラスにとどまったときは、それをリリースする気分は微妙に複雑だけれども。


澱橋上流の早朝の冬景色  (2009/1/17)
 
生きていれば意志は後から従きくると思いぬ冬の橋渡りつつ
 道浦母都子 [4]
 

Photo A (2009/5/26) 

上流右岸から澱橋を見る。

 

 Photo B  (2009/5/26) 

 Photo Aと同地点から上流、岩盤瀬を眺める。
 古地図では、中洲に大きな柳が生えているあ
 たりが松淵だが、ほとんど 淵の面影はない。

  MAPに示した淵名と位置は、大正元年発行の「仙台地図さんぽ」 [1] に記されているものである。澱橋のすぐ上には「澱瀬」という言語矛盾の甚だしい瀬があったそうである。少し位置が上流側にずれるが、強いて言えば、澱の淵(これは同義反復だが)への落ち込み付近(Photo A の手前の波立ち)と言えなくもない。問題は松淵の位置である。上流に新兵淵、観音淵と示しているが、最近これらの名称は使われていないようだ。松淵という名称がもっぱら使われていて、それはMAP上の新兵淵を指しているようである。
  アユ解禁前の調査釣りの際、私が入った班は、最初は松淵を調べろという指示であった。その指示に従って、最初にみんなが入ったのはMAPで新兵淵と記した場所の淵への落ち込みの瀬である。古地図では松淵はずっと下流(Photo C のあたり)であることを知っていた私は、万が一のことを考えて釣り下りながら調査を終えた。しかし、ほとんどの釣り人は、MAPに「新兵淵」と記した大淵を松淵と呼んでいるようである。

Photo C
(2009/5/26)

右岸上流から岩盤瀬の下部を見る。古地図の松淵付近。



Photo D  (2009/5/26) Photo Cと同地点から上流を写す。
 
   Photo C、D はMAPに「松淵」と記したあたりで、岩盤瀬である。立ち位置のあたりは、長い瀬の中では岩盤の溝が1番深いところで、これが淵の名残かもしれない。特に右岸側はずーっと岩盤なのだが、上も下も極端に浅い岩盤であることを考えれば、そうらしいのである。
  柳が生えている左岸は、厳密には中州である。柳の林の向こう、河川敷公園の間に細い分流がある。左岸の藪岸に比べれば、右岸の崖沿いは、上の淵まで浅い岩盤の上を楽に川通しで歩ける。
  ここも瀬が長すぎて、アユの入れ替わりが遅い場所である。私自身は解禁すぐに入ったことがないので確信はないが、解禁直後とか、出水の後の場所ではないだろうか。私はそう思うのだが、ここはいつでも入川者の多い場所である。 
  

Photo E  (2009/7/14) 
岩盤瀬上流部右岸より下流を見る
。釣人の立つ中州寄りがやや深く、変化がある。


Photo F  (2009/7/14) Photo Eの上流。

  Photo E、F は瀬の最上流部である。右岸寄りは浅い岩盤で釣りの対象外である。釣り人が二人立っているように、左岸側に石が詰まっていて、そこが狙い場である。余計なことだが、私なら写真の立ち位置から左岸を釣る。そうすれば草付きのヘチも釣ることができる。
  写真を撮った当日、私はこの瀬を下りながらPhoto C、D のあたりで2尾かけただけである。写真の二人はこの後、仲の瀬橋下流に移動していた。そこで聞いたら、Photo E、F のところでは1尾も出なかったとのことである。7月14日(解禁2週間後)の話で、やはりなかなか入れ替わりが遅いような感じの場所なのである。
  この瀬にはヤマメももちろん入っているが、長い瀬の割にはヤマメの大場所と呼べるようなポイントはほとんどない。いわゆるヤマメポイントらしく見えても岩盤底が多いので、底の形状によっては見かけ倒しということが結構あるので、疲れる割には釣果が伸びない(あくまでも私の場合である)。

アオダイショウ君
  (2009/5/26)

アオダイショウにしては小柄。岩盤瀬の右岸にいた。岩盤には白い貝の化石が見える。

ゆきむかふ蛇に荒瀬はむせびつゝ
       山口誓子 [5]

 

 Photo G  (2009/5/26) 

 岩盤瀬の瀬肩。「新兵淵」の淵尻。

 

Photo H  (2009/5/26) 

Photo Gと同じ場所から上流「新兵淵」を眺める。

  長い岩盤瀬の瀬肩に相当する場所は、浅く広い瀬である(Photo G)。さらにその上の広い淵尻(Photo H)は、土用過ぎの暑い盛りのアユの狙い場ではないかと、ずっと思ってきた。30年も前に何度か通ったが、良い結果は1度もなかったところである。小石と岩盤底で、似たような他の場所と較べても、いつも食(は)み跡が少ない。岩盤質が違うのかも知れない。アオダイショウの写真に見られるような化石を含む柔らかい岩盤が沖まで広がっているのかも知れない。

   Photo GH を写したあたりは地図上では「新兵淵」に相当するが、淵の頭は観音堂にもっとも近いので、「観音淵」だと思っていた。かつての観音淵の近辺は淵の面影がなくなっていることもあって思い違いをしていたのである。、
  新兵淵というのは、かつて左岸崖上の川内地区にあった旧陸軍第二師団の新兵がよく水遊びをしていたことに由来するという。

   二師団の垣長々と木の芽吹く
   安部みどり女 [6]

  この句は、「蓬生雨(小宮豊隆)先生と広瀬河原を歩みて三句」という前書のある一句である。昭和21年まで東北帝国大学教授であった小宮豊隆については、仙台ではあまり話題にならないようだ。夏目漱石の門弟の一人ということはあらかたの人は知っていると思うが、学者の仕事というものは、世間では話題にならないのである。

Photo I
(2009/7/14)

新兵淵(松淵?)への落ち口。コロガシが3人もいた。


Photo J
(2009/7/14)

Photo Iと同じ場所を上流から。

  Photo IJ は新兵淵(通称松淵?)への落ち込み付近である。この日はコロガシが三人いて、さらに後からもう一人が加わっていた。写真で見るとおり、アユ釣りには絶好の場所である。そのため、最近はここで友竿を出せたことがない。昔は良かったなどと言うのは意味がないけれども、これだけ張り付いているのだから現在も良いはずである。
  観音淵は、「仙台33番観音札所の1番で修験の寺。仙台城内にあったものをものを政宗がこの地に移す。現在はお堂のみ。」 [7] と説明される観音堂がここの崖上の川内亀岡地区にあることに由来する。しかし現在では、広い平瀬、あるいは浅いトロ瀬となっていて、とても淵があったとは想像しにくい。古地図上の観音淵はもう少し下流に位置しているように記され、実際に観音堂は新兵淵に一番近いので、新兵淵と観音淵が合体して現在の大淵になったと想像できないこともない。


2009年5月26日の
ヤマメ

24cmを頭に7尾。内1尾はニジマス。

 

  シーズン初めに、最初のオトリを手にするとき、その手が震えるという話をよく聞く。私もそうである。それに加えて、私は釣りの最後に、リザーブしたヤマメやアユを絞めるとき、後頭部から背中にかけて寒気のようなものが走るのである。殺すことが怖くて震える脆弱な神経のせいなのだ。情けないことだが、臆病なのである。ライオンがガゼルを捕まえるシーンなどもとても見ていられない。どうしたってライオンではない私は、ガゼルにわが身が重なるのである。羽仁進が嫌いになった理由である。
  かといって、私は、鶏肉も豚肉も牛肉もたべられない、ということは全くない。売られてさえいれば逡巡もなしにありとあらゆる肉を食べるのである。それでも、それらの生きものを殺すことは、たぶん、私にはできない。必要に迫られれば殺すことができる、というほどの覚悟もない。私は、それらを屠殺し、食物として提供する人々に極度に依存して生きているのだ。どう考えても、欺瞞的なのである。
  せめて魚ぐらいは、自分の手で殺して、自分で料理して食べたい。花のためには虫は殺せる。だから、虫と魚は殺せる、というあたりが、この社会に対する私の生存の最低限のエクスキューズになってくれないかな、と情けないことを考えたりしているのである。

 

にんげんたちは もう
じぶんの殺す一匹を通じてしか
魚を 自然を 世界を
愛せないのだ
……(中略)……
世界の
両端でたしかめあふ
このふるへ かすかな手ごたへ

                吉原幸子「釣 I」部分 [8]  

 

 

 Photo K  (2009/5/26) 

 新兵淵の上の瀬。水あたりの強い
 
この付近の崖は護岸されている。
 上流から新兵淵方向を写している。

 

Photo L  (2009/5/26) 

Photo Kの上を同じ地点から。
瀬は二段落ちに なっていて、
護岸の上端付近も 深くなって
いる。


 

Photo M  (2009/7/14) 

新兵淵への瀬の上は広く 
長い 平瀬になっている。 
観音淵があったあたりである。
下流左岸から。 

 

 Photo N  (2009/7/20) 

 下流右岸(Photo Mの左端付近)から
 上流を見る。流れは緩やかだが、石
 の大きい瀬が続く。

  新兵淵へは2段の瀬で落ち込む(Photo KL)。下の瀬落ちは、前述のようにコロガシがよく張り付いているが、上の瀬落ちはヤマメ釣りがよくいる。2009年の春には、早朝に近くの堤防を散歩したときはいつもこの場所に同じ釣り人が立っていた。その背落ちの右岸、護岸寄りは深くて水が巻くところもあって、確かにヤマメには良さそうである。彼がさんざん釣った後で、竿を出してみたら2尾掛かったことがある。だいぶ溜まっているような感じであった。その釣り人は、アユの時期にはなぜか地下鉄東西線のピア付近にいつもいる人である。

  新兵淵の上は、瀬落ちに続く長く広い石底の瀬がある。友釣り狙いの典型的な場所である(Photo M)。さらにその上流は、広く浅い瀞瀬で友釣りもヤマメ釣りも、私の場合は、急ぎ足で通り抜けるところである。1度、遠くから眺めた時、右岸の柳の岸寄りにコロガシが立っていたことがある。すぐに見えなくなったので、そんなに掛からなかったのだろう。けれども、その瀞瀬に緩やかに落ちる瀬(Photo NO)で、解禁当初は入れ掛かりであったという。下の瀞瀬が供給源と考えれば、コロガシ人の狙いはそんなに間違っていないはずである。


Photo O (2009/7/20) 広く長い平瀬の上は緩やかな瀬落ちになっている。

2009年7月20日の
アユ
   (2009/7/20)

9:30~11:30、12尾。

  さらにその上は、大石がごろごろ入っていて、流れも変化に富む絶好の瀬である。したがって、ここから三居沢発電所の放水溝までの間は、鮎釣り人が集中する(Photo PQ)。上の写真の釣果は、その付近に私も含めて七人の友釣りが入っていたときのものである。みんなで分け合ってもこの程度は釣れるのである。ただ、短時間で止めてしまう私の釣り方では、一日中釣れ続くかどうかは定かではない。

Photo P
(2009/7/20)

大石の好場所。さらに上には、発電所の吐き出し口が見え、深場になっている。



Photo Q (2009/7/16) Photo Pと同地点から下流を見る。


  発電所放水溝の下流は、大石と岩盤の淵があって Photo R のように泳がせが適している。底はかなり複雑になっていて、泳がせ釣りが楽しいところでもある。ここはもちろんヤマメの大場所でもある。釣りを見物に来た近所のおじさんによれば、アユのコロガシに尺ヤマメがよく掛かるということである(ヤマメ釣りのときの私には今のところ来てはいないけれども)。

Photo R
(2009/7/16)

発電所の吐き出し口の下で上飛ばしで泳がせている。

 
牛越橋上から下流を眺める (2010/10/21) 左岸の草木が切り払われ、川底も浅くなっている。右岸の白波は三居沢発電所の放流口。

世の中は何か常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬になる   読人知らず (古今和歌集) [9]

  藤助淵(牛越淵)というのも、どこかは判断が難しい。近辺で淵らしいのは発電所放水溝の下流である(Photo STU)が、地図上の位置は、放水溝合流点か、その上流が相当しているように見える。確かに、合流点の本流側の上流にかつては淵ではなかったかと思わせるやや深い平瀬があった(Photo W)。
  ただし、牛越橋の上から下流を写した2010年10月には、川底がいじられてだいぶ様子が変わってしまった。このような議論をするには、広瀬川が自前の力でそれ自体にふさわしい形に戻るまで、もう5~10年ほどの時間を要するかも知れない。その間にまた川底をいじられてしまえばどうにもならないが。
  最近は人間が川の様子を変えてしまうので、淵や瀬にまつわる伝説、言い伝えを郷土史家や教育関係者が一生懸命調べ、まとめ上げても、いったいどこの話か、戸惑ってしまうことになりかねないのである。少なくとも、2009年にはPhoto STU の場所は、淵と呼んでも差し支えない場所である。ところが、その場所も含めて、2010年には、藤助淵の面影は完全に消えてしまっている。


Photo S (2009/7/16) 左岸下流から見る本流と発電所放水口の出会い付近。


Photo T (2009/5/28) 右岸下流から見る本流と発電所放水口の出会いと牛越橋。


Photo U (2009/5/28) Photo Tと同地点から下流を見る。

  発電所放水溝の合流点の上流は、当然のことながら流量は少なくなる。それでもかつては、大石の平瀬が牛越橋直下まで続いていたのである。ヤマメにもアユにもとても良い場所に見えていたのだが、じつのところ私自身は余りよい思いをしたことはない。魚は、どうしても下流の大きい場所の方に寄るのではないかと思う。
  今は、小石底の浅瀬になってしまった。澱橋の下流、胡桃淵の頭は工事のために小石底になって、2010年の秋はサケの良い産卵場になっていたが、ここにもまたサケが産卵に集まり、牛越橋の上からよく観察できて、楽しんだ市民が結構いたはずである。


Photo V (2009/5/28) 牛越橋のやや下から下流の本流を見る。



Photo W (2009/5/28) Photo Vと同地点の右岸。深みがあって、藤助淵の名残か。



Photo X (2009/5/28) Photo Vと同地点から、牛越橋の下から上流を覗く。

  牛越橋は、仙台城築城の際、石垣用の石を運ぶために橋を架け、この橋を牛に引かせて渡ったところから、その名が付いたそうである [10]

     釣れぬ日の魚籠に摘みため土筆籠     鷹羽狩行 [11]

(2010/11/26)
  1. 「100年前の仙台を歩く---『仙台地図さんぽ』」(せんだい120アニバーサリー委員会 2009年)。
  2. 「昭和24年版 復刻 JTB仙台市街圖」(風の時編集部 2008年)。
  3. 萩原朔太郎「純情小曲集・氷島・散文詩」(新潮文庫 昭和30年) p. 45。
  4. 「道浦母都子全歌集」(河出書房新社 2005年) p. 116。
  5. 「季題別 山口誓子全句集」(本阿弥書店 1998年) p. 18。
  6. 「定本 安部みどり女句集」(駒草発行所 昭和41年)p. 32。
  7. 仙台市「広瀬川自然植物園ガイドブック」(仙台市健康都市建設推進事務局 昭和58年) p. 9。
  8. [吉原幸子詩集 オンディーヌ」(思潮社 1974年) p. 59。
  9. 「日本の古典 別巻2 古典詞華集二(小学館 昭和63年) p. 122。
  10. 仙台市「広瀬川自然植物園ガイドブック」(仙台市健康都市建設推進事務局 昭和58年) p. 9。
  11. 鷹羽狩行「句集 十二紅」(富士見書房 平成10年) p. 88。