ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <川4>


〔水行・広瀬川 4〕 霊屋橋から早坂淵


霊屋橋上からの上流の眺め。 (2010/10/17)

鮎釣りの岩にはさまり見ゆるかな     高浜虚子 [1]
 

MAP:霊屋橋」~早坂淵
A~Vは写真の撮影位置と方向を示している。赤字フォントのカッコ書きの地名は、昔の呼称であり、現在ではあまり意味がないと考えられる。淵などの呼称、位置については、「仙台地図さんぽ」 [2]、「昭和24年版復刻JTB仙台市街圖」 [3]などを参考にした。.地図のベースは、「プロアトラスSV4]である。

  まず、地名の話である。霊屋橋の上下は大きな淵になっている。この淵を「源兵衛淵」とする場合がある [4]。しかし、明治45年発行の地図 [2] ではこの場所に「元三文渡」とある。「渡し」なのだから、一定の深さがある場所で、少なくとも瀬ではなかったろう。
  「源兵衛淵」は、「元三文渡」と「馬の背淵」との中間に記されている。「馬の背淵」も淵らしくなくなっているが、旧分流との出会いなので位置の同定は容易である。したがって、ここでは、古い表記を信用することにする。戦後、急激に川は変容し、呼称にふさわしい形態を失った場所は多く存在する。昔の地図が間違っている可能性もないでもないが、それでも、昔の呼称は昔の場所に固定しておきたい。その呼称にふさわしくない現状こそが、呼称と相まって川の歴史を表象するものだと考えるからである。

  霊屋橋の淵は、すなおに「霊屋淵」と呼ぶのがよいかも知れないと思うが、余計なお節介は止しておこう。川が変化して、新しい淵、新しい瀬が出現したら、そこで暮らす人々、そこで遊ぶ人たち、特に川遊びする子供たちなどから自然発生のように呼び名が生まれるといい。できることなら、行政サイドのお役人なぞがエイッヤッという感じで命名しないで欲しいと思う。伊達政宗の仙台城築城を仙台の始まりとすれば、広瀬川にまつわる地名は、400年をかけて次第に命名されたものであろう。今、新しくできた地形の呼び名も何百年かけて落ち着くのが自然でよいのではないかと思うのである。

Photo A
(2010/6/2)

右岸側から下流、霊屋橋を見る。立ち位置は80cmくらいの深さ。

Photo B
(2010/6/2)

Photo Aと同じ所から上流を見る。


Photo C
(2010/6/2)

下流から馬の背淵方向の眺め。

  霊屋橋上流は、下流とは逆に左岸が崖になっている。 淵の上から、源兵衛淵、さらに馬の背淵にかけては、左岸が深さのある平瀬になっていて、いつ見ても好もしい感じがする。ただし、私にはヤマメはともかく、アユはいい記憶がないのである。20年ほど前、ある釣り雑誌に広瀬川・名取川の釣り場ガイドを書いたことがある。その中に評定河原橋近辺も含めたのだが、馬の背橋から下の説明は、微妙に誤魔化して触れなかった記憶がある。友人、知人たちの情報も込みで書いた原稿で、釣ったことのない場所も含まれていたのに、ここだけはなまじ入川の経験があり、かつ 自分では釣れなかったため「良く釣れる」などとは書けなかったのである。少なくとも、当時、釣友諸氏は良く釣れると言っていた場所である。その後、私は敬して遠ざかっていたので、現在の様子はわからない。ヤマメは面白い。

 どこから?
    (2010/6/2)

Photo A,Bを写した付近の左岸にあるコンクリート製の古い階段。今では、直に川に落っこちてしまう。


  上の写真は、MAPで源兵衛淵としたあたりの左岸の崖に掛かっていた階段である。崖上の片平市民センターの川沿いに公園があり、その北端あたりから下ってくるようだが、以前は岩盤底が露出していたのであろうか。 釣りのためにわざわざコンクリート製の階段を造るとは考えられない。私はその用途を想像できないが、ここでも、川へのアプローチの手段が一つ消えていることはわかる。

Photo D
(2010/6/2)

馬の背淵のカーブ内側から下流、源兵衛淵方向の風景。

  馬の背淵は、いまやすてきな岩盤瀬という風情であるが、ここが淵であっただろうことは頷ける。かつて馬の背淵は、二つの流れの合流点にできた淵であった。いまは、カーブの上流左岸に堤防ができているが、下流から見たら崖沿いにまっすぐに伸びる流れがあったのである。MAPで言えば、花壇自動車学校の下流で別れた流れが東北大学運動場の西を流れ、評定河原球場の北をぐるりと回って、馬の背淵で合流していた。いまはないその流れは、その流れの形に残っている崖(河岸段丘)から良く想像できる。二つの流れの合流点には、しばしば淵が形成されるのである。


Photo E  (2010/6/2)  上流から馬の背淵のカーブを見る。

   Photo F は、馬の背淵付近から上流、評定河原橋方向を写したものである。評定河原橋から眺めると、その季節には左岸側にずーっとアユの食みあとが見られるところである。 評定河原橋の上流側より変化は少ないが、好場所である。

Photo F
(2010/6/2)

馬の背の上流から、さらに上流、評定河原橋方向を見る。

Photo G
(2010/6/2)

評定河原橋下手右岸から下流の眺め。

   Photo F の辺を上流から眺めたのが、 Photo G である。柳の生えている左岸側の流れは平らに見えるが、底に変化はあって、下流の白泡が立っている浅瀬より、アユの付きはよいように思う。

  前に、島崎藤村を引き合いに出したが、仙台といったら、仙台出身の詩人、土井晩翠を欠かせない。広瀬川が登場する土井晩翠の詩は、私の知るかぎりでは2編ある。どちらも詩集「天地有情」におさめられている。

   都の塵を逃れ來て
   今わが歸る故郷の
   夕涼しき廣瀬川
   野薔薇の薫り消え失せて
   昨日の春は跡も無き
   岸に無言の身はひとり

              土井晩翠「廣瀬川」部分 [5]

   同じ昨日の深翠り
   廣瀬の流替らねど
   もとの水にはあらずかし
   汀の櫻花散りて
   にほひゆかしの藤ごろも
   寫せし水はいまいずこ。
              土井晩翠「哀歌」部分 [6]

  これらも七五調の古格の詩である。藤村とは異なり、この地を故郷とする詩人らしい。「都の塵」と「故郷の/夕涼しき廣瀬川」の対比とか、「廣瀬の流替らねど/もとの水にはあらずかし」とあるのは、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にはあらず」 [7] という古典「方丈記」を下敷きにしていることなど、高い教養を共有する時空で表現が成立しているように見えるのは、明治近代詩の特徴なのかも知れない。あるリアリティ表現があって、そこから突き抜けて(昇華して、あるいは抽象化作用があって)間主観的な時空を形成するのが、文芸表現なのではないかと思っている私には、このような格調高い詩は、若干、苦手なのである(単に私の教養の問題ではあるのだけれども)。
  「岸に無言の身はひとり」とあるのは、時には仕事も忘れて、広瀬川で一人釣りをしていた身と重ね合わせると、いくぶん物悲しいものがある。

  時を得てむかしの友は榮ゆらん釣する翁見れば悲しも
                                                      正岡子規 [8]

この翁は、きっと私だ。

   
評定河原橋上からの下流、馬の背淵方向の眺め。  (2010/10/17)
 

   
評定河原橋上からの上流、元虚空蔵方向の眺め。  (2010/10/17) 

街なかの川に釣する人ありてとりとめもなく橋にたたずむ     野誠夫 [9]

 

Photo H
(2010/6/2)

Photo Gと同じ地点で、評定河原の下から上流を覗く。

  Photo H の右手、左岸の堤防に階段があって(手前の大きな柳のところ)、その前は岩盤底である。この区間の初めてのヤマメ釣りのとき、その階段から入川して、川虫を捕ろうとして石がないので困った記憶がある。写真の左手に見えるように、右岸には小石が詰まっていて、川を渡ってしまえば川虫もいっぱいとれたのではあるが。
  下のPhoto I の手前が、その川虫ポイントである。川に入って、すぐにも川虫が採取できないと、なにかしら急に心細くなるのは私だけなんだろうか。以前は、あらかじめ前の日に川虫を捕っておかないと落ち着かなかったのだが、最近やっと当日現場で捕ることに慣れてきた。

Photo I
(2010/6/2)

評定河原橋の右岸下をくぐって行く。

  下のPhoto J は、上記の階段を降りたあたりから上流を見たものである。川中の大石は昔からあったものと同じ石だと思うが、確かではない。35年くらい前、「あの大石は、毎年少しずつ上流に移動しているんだ」という人がいて、アユ釣りの合間の昼食時、河原で話が盛り上がったことがある。
 「そんな馬鹿な。大水の時に、前の石は流されて、別の石が少し上流に落ちてきただけだよ。」
 「大水でそんなに変わるなら、いつも同じあたりにあるのはおかしい。」
 「いや、この辺の岩盤は柔らかいから、そういうことが起きるんだよ。大石の上流部に水が当たると乱流ができて、少しずつ上流側の底を削るんだよ。適当なところで、大石は削られて低くなった上流側へ傾くわけだ。」
 「そうしたら、間もなく大石は上流の方に移動しながら、地球にどんどん沈みこんでいくわけだ。ずいぶん前からあるけど、全然沈んでないのはどういうわけだ。」

Photo J
(2010/6/2)

右岸コンクリート堤防にある階段を下りた付近からの上流の眺め。

 「少しずつ転がるというのは、石が丸くないと無理だよね。もともと丸かったら、ちょっとした増水で下流へ転がっていってしまうさ。丸くもない石がまだそこにあるしね。」
  暇つぶしの馬鹿話ではある。それでも馬鹿なりに感心なのは、誰も神秘の力なぞをもち出さなかったのだ。しかし、こんな句もあるのだ。

    鮎釣るや奔流に岩さかのぼる     秋本不死男 [10]

流れに立って、岩をじっと見つめていると、私が岩と一緒に遡っているように錯覚するのは自然なことではある。

Photo K
(2010/6/2)

上流からの大石付近の瀬を見る。


  この大石の辺から評定河原橋への左岸側は、石もあり、岩盤底も変化があってヤマメもアユも楽しい場所である。ただし、下の Photo L のような浅い岩盤底の場合、アユやヤマメの付き場がごくごく限られていることがあって、広い場所の割りには釣果が伸びないことがあった。こういうところでは、通い慣れた人には敵わないのである。
  釣友の一人がアユ釣りに目覚めた頃(30数年前)、釣り道具一切合切、この辺の左岸の河原に置きっぱなしで、ここに通い詰めたというのである。友釣りのハウツー本を片手に釣りをしたと笑っていた。広瀬川は友釣りの川ではなかったので、その頃友釣りを始めた人が良い先生に出会うのはそんなに簡単ではなかったのである。
  また、その当時、ここにはテンバ名人がいて、アユを商売にしていたとのことであった。このあたりの石の詰まり具合い、岩盤の溝を知悉していて、たいそうな漁を誇っていたらしい。それでも、商売上約束した釣果に達しないときは、暗くなるまで竿を振るっていて、結局、無理がたたって若死にした、という話はその釣友に聞いたものである。

Photo L
(2010/6/2)

大石のうえ、左岸の瀬の様子。


2010年6月2日のヤマメ
    (2010/6/2)

大石付近での釣果。25cmを頭に5尾。他に泣き尺サイズが1尾、引き舟に入れずにリリース。

Photo M
(2010/6/2)

大石脇の右岸から下流、評定河原橋方向の眺め。


Photo N
(2010/6/2)

Photo Mと同地点から上流、元虚空蔵淵を望む。

  大石あたりから元虚空蔵淵のある評定河原大露頭の中頃にかけて、川幅が広くなっているが、Photo L Photo O のような浅い岩盤底である。左岸側は、上流にかけて次第に石が増えてくる。
  この辺は、アユでもヤマメでも、私は通りすぎてしまう場所なのだが、ある日の散歩の時、堤防から眺めると、Photo O の右上に見える大石の下流で、コロガシをしている人を見かけた。じっと動かず、竿を振っていたので、アユの溜まりでもあるのかと思って、 後日、確認に入ってみたことがあるが、何故こんなところでと、どうにも分からなかったことがある。このあたりに入る回数がたりないのだろう。解くべき謎はまだたくさん残っているようではある。

Photo O
(2010/6/2)

元虚空蔵下流部の岩盤底の様子。

評定河原大露頭
 (2010/6/2)

チョウゲンボウの巣で有名な崖。崖上は経ヶ峰で、伊達家三大の廟、瑞鳳殿がある。崖下が元虚空蔵淵である。

  
  評定河原大露頭は、小型の猛禽類であるチョウゲンボウが繁殖する場所として昔から有名な場所である。上の写真を撮った日、大露頭の対岸、左岸の岸寄りを上っていくと、薮のなかに望遠鏡を据えた二人の探鳥家がいた。「チョウゲンボウですか」と声をかけると、何となく口ごもったあとに、「チョウゲンボウはもういない」という。それでは何を見てるのか、あらためて尋ねるとハヤブサだという。そして、それは内緒なのだという。
  東北の山を歩いていると、ときどきそんな話に出会う。まず一つは、「この山にはクマゲラがいる」という人がいて、やはり内緒だという。40年近く前の話だが、クマゲラがいるか否かは、当時であっても、環境や開発行政の大問題になるのは決定的で、騒動を心配したものだろう。登山者が決して少ない山ではないので、本当にいるのであれば、いずれ明らかになるだろうと思っていたが、それっきりであった。
  もう一つはイヌワシが生息しているという山があった。そこでは、山の斜面を悠然と滑空しながら下っていく大きな猛禽類を私も見ている。私がこれまで見た猛禽類では最大だったのは間違いないが、私の知識ではそれがイヌワシであるかどうかは判断できなかった。クマゲラの話と違って、そこはイヌワシが生息していても不思議な地域ではない。
  チョウゲンボウとハヤブサの話はどうなっているのか、確認できていない。仮に、ハヤブサに変わってしまったとしても、秘密にしなければならない理由は私には分からない(ので書いてしまっている)。確かにハヤブサは希少野生動植物種(絶滅危惧II類(VU))に指定されているので、チョウゲンボウに較べて扱いは慎重であるべきだとは思うが、市内なので、むしろ公然化してみんなで観察、監視するほうが安全ではないかと考える。

  元虚空蔵淵は、そんなに深くもないけれども、淵と言えば淵と言える風情は十分にある。ここは、南流してきた流れがその向きを北に変えるところで、当然のように変化が大きい場所である。大露頭の最上流部付近は1.5mくらいの深さのところがあり、その上流は荒瀬になっている。
  

Photo P
(2010/6/2)

元虚空蔵淵と呼ばれていたが、上流部(写真右端)にその面影がある。


元虚空蔵淵上流部の右岸、大石、岩盤の流れ。 (2009/8/18)

  上の写真は、元虚空蔵淵への落ち込みのあたりをパノラマで写したものである。白泡や、大石の瀬、深い岩盤の溝など、釣人の気分がハイになる場所ではある。

   おれにはわかっている。
   岩のむこうで
   じっとしんぼう強く
   水のようにしんぼう強く
   待ちつづけるあいつ。
   おれにはよくわかっている
   暗い岩かげ。
   あいつ。
           安永稔和「魚」部分 [11]

  この「あいつ」は、けっして私の前には出てこないのである。私を待ち続けているわけではないのだ。

Photo Q
(2010/6/2)

上流から元虚空蔵をみる。白波の下あたりがやや深い。


Photo R
(2010/6/2)

Photo Qと同じ地点から上流を見る。流れは大きくカーブを始める。


Photo S
(2010/6/2)

Photo Rの上流、まだカーブが続く。対岸(右岸)の上はかつて人家があった。


Photo T  (2009/8/18)  元虚空蔵へのカーブを上流から眺める。

  広瀬川がほぼ180゜、その流れの向きを変えるこの付近は、Photo QTに見られるように、アユ釣りでもヤマメ釣りでも、良い川相になっている。惜しむらくは、元虚空蔵淵が、淵とはいえ、本当の深み、ふところを有していないことである。この淵が、淵の名に値するほどの深いふところを持っていれば、その上に続く瀬は、安定した魚の付き場になるはずである。
  アユでもヤマメでも、就餌する瀬のような場所と、身を隠す安全な深みを必要とする。上流に、早坂淵という大淵があるが、少し距離があるうえに、魚は下流を向いては暮らさないのである。

  MAPで見ると、ここのカーブの南端近くで南から入る沢がある。Photo S の右手、護岸の上端に相当する場所である。護岸の上にはつい最近まで人家があったところである。市の公園計画か何かで移転したのではないかと思う。
  流れ込む沢は、竜ノ口渓谷から来る流れである。竜ノ口渓谷は狭いけれども、高く切り立った崖となっていて、仙台城の南を流れて、城の自然要害の一部となっている。仙台城跡からこの渓谷を渡る橋は八木山橋で、その高さゆえに昔から自殺の名所として知られている。もちろん、最近は高い防止柵が張り巡らされていて、ほとんど自殺の話は聞かれなくなってはいるが。

  下の写真は、Photo R 手前で合流する分流の岸で写したものである。仙台は寒い東北に位置するとはいえ、タニウツギが市内のこの付近で見られるのは珍しい(上流に行けばたくさん見られるけれども)。竜ノ口渓谷には植生しているそうである。竜ノ口渓谷は狭く深い谷のために、谷底は谷水に冷やされて気温が低いのではないかと思われる。栄養繁殖か、種子繁殖かは分からないが、たぶん、竜ノ口渓谷に生えていたものの分岐であろう。以前、竜ノ口渓谷は快適なハイキングコースだったのだが、現在は立ち入り禁止となっている。
  ヤブデマリは、どちらかと言えば、たくさん付く赤い実が印象的な小灌木である。そんなに珍しい木ではないと思うが、この付近ではこれだけであった。流れを背景に咲いていると、波よりも白い小花の集まりは、やはり目を引く。
  写真は取り損ねたが、この辺の河原にはまだ小さなニセアカシア(ハリエンジュ)の木がたくさん生えていて、六月の初めはちょうど白い花が満開で、ずいぶんと花の香りを楽しむことができた。上流の公園にあるニセアカシアの大木がほとんど伐採されているのは、この木が好きな私には残念なことではある。この木は外来種で、繁茂を嫌う人もたくさんいるのは確かである。


元虚空蔵へのカーブ付近で  (2010/6/2)
左:タニウツギ(谷空木)

右:ヤブデマリ(薮手毬)

 投網を打つ人
(2009/8/18)

3人で行動していた。「さっぱりアユがいない」と歎いていた。

  上の写真は、Photo S のあたりで投網を打つ瞬間である。縛り地蔵から牛越橋のあいだの区間は、7月1日の解禁から8月15日までは投網禁止となっている。盆になれば、投網が入るようになる。
  35年ほど前、土地のご老人の推薦があって、広瀬・名取川漁協の組合員、それもいきなり正組合員にしていただいた。そのとき、その先輩組合員が、私に投網を持って行けと言う。投網をやるつもりはなかったのだが、親切は断れないのである(ただし、後できっちりと代金は請求されたのだが)。 せっかくのなので、一,二度、川で打ってみたのだが、写真のようには広がらず、広げるように努力することもなく、私の投網経験のすべてがそこで終わったのである。

Photo U
(2010/6/2)

カーブの上流部。

  大きくカーブしたところから上流は、良い平瀬のように見えるが岩盤底である。岩盤底は、いろんな意味で難しい。流れがきつく、岩盤溝が流れに並行であれば、魚が定位するのが困難であることもある。また、広瀬川の岩盤は、場所によっては、非常に柔らかい場合があって、鮎がコケを食むような条件になっていないこともある。

  早坂淵はこの辺では、最大の淵であろう。左岸は崖で、右岸もPhoto V に見るように柳などの大きな木がびっしりと生えているが、岸は深くて、ここだけは川通しで行けないのである。早坂淵の上流をホームにする私にとって、この早坂淵の存在は、ここから下流を遠くに感じさせるのである。川を歩くことも、楽しみの一つである私にとって、ここも川通しで歩ければ、どんなに良いだろうと思う。
  この右岸の上にホームレスの人たちの集落(?)があって、一度、挨拶をしてそのあいだを抜けて早坂淵の下に降りたことがある。


Photo V  (2009/8/18)  上流、早坂淵を見る。


(2010/11/13)
                                        
  1. 現代日本文學大系19「高浜虚子・河東碧梧桐集」(筑摩書房 昭和43年) p. 43。
  2. 「100年前の仙台を歩く---『仙台地図さんぽ』」(せんだい120アニバーサリー委員会 2009年)。
  3. 「昭和24年版 復刻 JTB仙台市街圖」(風の時編集部 2008年)。
  4. 仙台市「広瀬川自然植物園ガイドブック」(仙台市健康都市建設推進事務局 昭和58年)。
  5. 土井晩翠「天地有情」『世界名詩集大成16 日本I』(平凡社 昭和34年) p. 109
  6. 土井晩翠「天地有情」『世界名詩集大成16 日本I』(平凡社 昭和34年) p. 101。
  7. 「日本の古典 37 方丈記 徒然草」(小学館 昭和61年) p. 17。
  8. 正岡子規「子規歌集」(岩波文庫 昭和3年) p. 21。
  9. 現代日本文學大系95「現代歌集」(筑摩書房 昭和48年) p. 410。
  10. 「季語別 秋本不死男全句集」鷹羽狩行編(角川書店 平成13年) p. 97。
  11. 「現代詩文庫21 安永稔和詩集」(思潮社 1969年) p. 49。