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タヌキラン(狸蘭)
(2010/5/5)
蘭とはいうもののカヤツリグサ科でスゲの仲間である。高地の沢沿いに植生するといわれるが、広瀬川では市内の崖によく見られる。大橋の下での写真。 |
五間淵の下部は大橋直上の岩盤平瀬で終わり、上部は地下鉄ピア前の瀬からの流れ込みで始まっている。その始まりと終わりの部分は、アユの良い付き場になっている。淵の中頃のトロ場は、深さは1~1.5mくらいで、岩盤ヘリに良型が付いている可能性もあるが、竿を出してみたことがない。
現在、建設中の地下鉄東西線は、この地点、大橋と仲の瀬橋の中間で広瀬橋を越える。そのピアが川中に建設されつつあり、この付近はしょっちゅう川相が変わっている。以前は深い溝を持つ岩盤瀬と大石の組み合わせで、この近辺では最大に近いアユが付く場所であった。
工事で、川の半分くらいがせき止められるような工事が2度ほどあったが、幸いなことに、形は変わっているが、良い瀬であることは変わりない。そのため、毎日のようにコロガシが張り付いている場所でもある。
川の工事ではよくあることだが、最後の仕上げに川底を平らに均してしまわないで欲しい。どうも、こういう工事関係者というのは、川には排水路としてのイメージしかないのではないか、なにかあると川底を平らにしようとする強い職業的本能が働くのではないかと思う。
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Photo R
(2010/7/6)
下流右岸から見るピア回りの瀬。 |
地下鉄のピアが建設されているこの付近を「市民プール下」と呼ぶ釣人が多かったが、地下鉄建設にともない市民プールは廃止された。市民プールの上は、西公園のなかにある桜ヶ丘神社なので、これからは「桜ヶ丘神社下」とでも呼ぶのであろうか、などと思っていたが、私の知人たちにあいだでは、単純に「地下鉄ピア前」とか「ピア下」とか呼ばれているようだ。
桜ヶ丘神社の脇には、芭蕉の句碑がある。その流麗な草書体は、私にはほとんど読めないのだが、「田植うた」がかろうじて読み取れたので次の句であると思われる。
風流の初(はじめ)やおくの田植うた 松尾芭蕉 [6]
この句は、福島県須賀川市あたりで詠まれていて、仙台とは特に関係があるわけではないが、「みちのく」の句ではある。
俳句と言えば、西公園のこのあたりで近代俳句の二人の巨人が、広瀬川越しに仙台城趾の灯火を見ていたらしいのである。
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碧梧桐君も余もだんだん学校へは足を向け無くなつた。余は東京で買つた文学書類に親しんだり、文章を書いて見たりした。碧梧桐君も同じやうな事をしてゐた。日暮になると二人は広瀬橋畔(ひろせけうはん)に出て川を隔てて対岸の淋しい灯火(ともしび)を見ることを日課にしてゐた。其灯火をぢつと見てゐることは腸(はらわた)を断つやうに淋しかつた。
其灯火もだんだんと寒くなって来た。我等は行李から袷(あわせ)を出し綿入を出して着た。銭湯の裏座敷に並べた机の上の灯火も寒い色が増して来た。
仙台に留まることは三月許(ばか)りに過ぎなかつた。二人は協議の上又退学といふ事に決した。 |
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と、高浜虚子が書いている [8]。
明治27年、学制改革があって、高浜虚子と河東碧梧桐が旧制二高に転入したときの話である。全く同じ時期のことを碧梧桐も回顧している [9]。 |
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……学校に在ること僅に三月、無謀にも退学を敢てして、仙台を去つたのは丁度この月のけふであつた(11月6日[引用者注])。……(中略)……
広瀬川を隔てて青葉の城趾に対する公園に来て、虚子と毎夜のやうに納涼(すヾ)んだ。城趾に見ゆる一点の灯火を見て、灯火の美といふことを虚子が説いた。余は非常に感服して聴いた。 |
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虚子21才、碧梧桐22才のことである。
当時、二人はすでに正岡子規門下の双璧として注目された存在であった。後に「写生」を唱える彼らが、その後も長く旧制二高に在学していたら、広瀬川にとどまらず、仙台の地を詠う多くの写生句が生まれたことであろう。すこし惜しかったな、という気がする。
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Photo S
(2009/7/14)
ピア上流部、川中央から、上流右岸を見る。 |
Photo S は地下鉄ピア前の瀬の上流、右岸の分流の最下部である。右岸に立っている釣人はコロガシだと思う。友釣りであれば、反対の川中からヘチを釣るはずである。釣人が立っている場所がアユの付き場で、竿先は小砂利と砂ばかりのはずである。
釣人の背後、柳の茂みのさらに後ろは、野球場のある河川敷公園である。その場所は、昔、「女淵」と呼ばれた淵のあったところである。五間淵の右岸の崖は、五間淵の上で西に曲がって、河川敷公園の向こう側に連なっている。
私が広瀬川で釣りを始めた頃は、写真の柳の茂みを分流が流れていて、釣人の立ち位置あたりが中洲の岸であった。その分流は狭くて、誰も釣らなかったのだが、深さのある平瀬で、試しに竿を出したら良型アユの入れ掛かりだったことがある。こういう良い話は、なぜかいつも単発で終るのである。
下の写真(仲の瀬橋からの下流の眺め)で、上述の釣人が立っているのは、右の狭い分流の下部の岸である。左岸側の流れは広く、仲の瀬橋直下から瀬が始まり、次第に深くなって、ピア前の瀬の上では腰ほどの深さになる(Photo T)。ここは、以前、よいアユ釣り場であったが、私はここ三,四年は良い釣りをしていない。ただ、よく通ってくるアユ釣り師がいるので、釣れている可能性もある。
仲の瀬橋上から下流を望む。 (2010/10/17)
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- 「100年前の仙台を歩く---『仙台地図さんぽ』」(せんだい120アニバーサリー委員会 2009年)。
- 「昭和24年版 復刻 JTB仙台市街圖」(風の時編集部 2008年)。
- 「阿波野青畝全句集」(花神社 平成11年) p. 328。
- 水環境ネット東北(編集代表 新川達郎)「もっと知りたい! 杜の都・広瀬川」(ぎょうせい 2005年) p. 39。
- 江刺洋子、佐藤忠幸、江刺洋司「広瀬川ルネサンス」(本の杜 2005年)。
- 松尾芭蕉「おくのほそ道」『日本の古典 55 芭蕉文集 去来抄』(小学館 昭和60年)p. 58。
- 「原阿佐緒全歌集」(至芸出版社 昭和53年) p. 122。
- 高浜虚子「子規居士と余」『現代日本文學大系19 高浜虚子・河東碧梧桐集』(筑摩書房 昭和43年) p. 310。
- 河東碧梧桐「三千里」『現代日本文學大系19 高浜虚子・河東碧梧桐集』(筑摩書房 昭和43年) p. 361。
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