ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <川5>


〔水行・広瀬川 5〕 早坂淵から仲の瀬橋


早坂淵(左方)から大橋(右方)へ右岸側をパンした。歪んでいるがほぼ直線の流れである。 (2009/7/8)

MAP:早坂淵~仲の瀬橋
A~Tは写真の撮影位置と方向を示している。赤字フォントのカッコ書きの地名は、昔の呼称であり、現在ではあまり意味がないと考えられる。淵などの呼称、位置については、「仙台地図さんぽ」 [1]、「昭和24年版復刻JTB仙台市街圖」 [2]などを参考にした。.地図のベースは、「プロアトラスSV4]である。


Photo A  (2010/5/5)  早坂淵を上流右岸から。


Photo B  (2010/5/5)  下流右岸から早坂淵への落ち込みを見る。

山女まだ鉤を知らざる瀬の深さ   阿波野青畝 [3]

  早坂淵は、釣り場としてはどうなのか、私にはよく分からない。岸へのアプローチが楽ではないので、様子が分からないのである。Photo A で見るように左岸は崖の上に個人の住宅があって、上から眺めることもできない。右岸の岸寄りは、最初の柳の木あたりで胸くらいまでの深さがある。
  Photo B に見るように淵への落ち込みは、すばらしい荒瀬になっていて、吸い寄せられるように近づいてみるのだが、これがうまくない。瀬は岩盤瀬で、魚が定位するには難しいうえ、流れが適勢になる頃には流れが対岸によってしまって竿が届かない。少なくとも私には、アユもヤマメもここでは何もできないのである。
  
  落ち込みの上の瀬は、所々に溝がある岩盤で、アユでもヤマメでも意外にポイントが少なく、私は苦戦する場所である。それでも、遠目ではほれぼれとする大場所に見えるので、5年に1度くらいは引き寄せられて、同じ過ちを繰り返している。

Photo C
(2010/10/17)

銭形不動から早坂淵を見おろす。

  その大場所の雰囲気を持つ早坂淵への落ち込みの瀬を、上流堤防の上の銭形不動尊の脇からから眺めたのが、Photo C である。淵の下流部が見えなくなるほど大きい淵なのである。銭形不動は、広瀬川の左岸の堤防の中段の狭い通路に祭られている。通路が狭すぎて、魚眼レンズでもないと全体像が写せないのである。右の石版に不動様が彫られていて、石碑は後ろの石積堤防に張り付いているのである。この見えない石碑の背面に伊達政宗による仙台藩専用貨幣のための銭形が彫られているとのことであるが、現在は見ることができない [4]

 銭形不動尊
    (2010/10/17)

崖の中腹の狭い通路にある銭形不動の石碑(右)。崖に張り付いていて、背面を見ることができない。

  早坂淵への落ち込みの瀬の上流の全体の写真が、Photo D である。以前は、右岸側に大石が入っている深平瀬から、柳の木の対岸あたりから、深く変化のある岩盤溝(中に大きな石を抱えていた)を見せながら、左岸側に流れを移し、早坂淵の落ち込みの瀬につながっていた。
  残念ながら、寄り州、中州の撤去工事にともなって、全体を広く浅い瀬に変えられてしまった。あの大石群は埋まってしまったのか、もうどこにも見えないのである。波立ちがあって、一見変化があるように見えるが、小石と岩盤の浅瀬が続く。ヤマメ釣りで入ってみたが、写真で見通せるこの広いエリアで、小さなヤマメが2尾だけであった。


Photo D  (2010/10/17)  銭形不動から上流、大橋方向を見る。

Photo E
(2010/5/5)

左岸から上流大橋方向を見る。

  Photo E は、ヤマメ狙いで大橋の上流から入ったのであるが、増水と濁りのためか、全く反応が無かった日のものである。写真の左岸寄りは、平水ではかろうじて水をかぶっている平らな小石底である。
  Photo E の下流を対岸から写したのが、Photo F である。増水なので、白泡が大きく、よく見えるが、横に小さな段差が走っているものの、変化は小さい。大橋の上から見ると、この辺に釣人が立っていることが多い。釣果のほどは分からないが、天候や時合いによっては良い場所なのかも知れない。


Photo F  (2010/5/5)  川の真ん中から下流、銭形不動方向を見る。

  その対岸、右岸側は、やや深い平瀬になっていて、小ヤマメが釣れたのはここである(Photo G)。かつての大石の深瀬はこの辺である。川の中央付近の石の頭が見えるあたりが柳の生えている中州で、岸寄りの柳の木の下に大アユが付いていたものである。
  昔と較べれば広瀬川の流量は落ちていて、人間の手が加わった川が、その川にふさわしい自然の姿に戻るには、以前よりずっと時間がかかるだろうが、いずれ現在の広瀬川にふさわしい形に戻るのだと思う。昔この辺りは広い瀬だったからといって、ブルを入れて手を加えても、流量が多かった昔の広瀬川の形にはならないのは目に見えている。

Photo G
(2009/7/9)

Photo Fより上流の川の真ん中から下流、右岸を見る。

  Photo HPhoto G の上流である。かつてPhoto G のあたりが深平瀬になっていた頃、そこへの落ち込みの瀬になっていて、もう少し流れがきつい面白い瀬だったところである。いまは、川を広くした分、浅いチャラ瀬になってしまった。
  さらにその上は、平らな岩盤底で古い堰跡がある(Photo I)。この堰跡は、大橋の上から見た全景でも分かるように、しっかりと両岸に渡って造られている。堰下にいくつかの白泡が見えるが、そこは岩盤がえぐられていて、下流に向かって溝が走っているところである。少し石も入っていて、良型のアユが付いていることがある。ただ、入れ替わりが少ないようで、釣果にムラがあるようである。

Photo H
(2010/6/2)

Photo Gと同地点から上流右岸を眺める。

 
  Photo I  (2009/5/24) 下流、川の中からの大橋の全景。古い堰跡が現れている。左岸の流れは中州で見えない。

 
大橋上から下流を眺める (2010/10/17)

 
大橋上から上流を眺める (2010/10/17)

  大橋は、その単純明快な名称からわかるように、広瀬川の代表的で象徴的な橋である。仙台城趾には、この大橋を渡っていくのである。よそから來仙された人たちの多くは、広瀬川をこの大橋から見ることになる。前述の、大橋下流の寄り州、中州の撤去工事も、そういう人たちのために、名前にふさわしい広い瀬のある川に造り変えようという意図があったらしいのである [5]
  右岸側の半分を蔦が覆う大橋は、下から眺めないと、蔦がもたらす風雅を感受することができない(Photo IJ)。大橋の下は、両岸とも川通しで歩ける。私は、ほとんどの場合、右岸側の崖の下を歩くので、Photo J のように橋を見あげることになる。橋の真下も、アユの付き場だが、アユ竿の先が橋にぶつかる程度の高さである。

Photo J
(2010/6/2)

大橋上の右岸より、大橋を見あげる。橋の右岸側半分は蔦に覆われている。

   大橋の上は、五間淵となる。淵とはいうものの、下の写真に見えるように、右岸側の三分の一は浅い岩盤底である。それが中央部で切れ落ちて深くなっているが、左岸側のほとんどは砂、小石底である。アユに関していえば、大橋のすぐ上と、写真最上流部の五間淵への流れ込み付近が釣り場になっていると思う。

  三枚組の写真の上、渇水時の写真に釣人が真ん中付近に写っている。これは、渇水で淵に集まったアユを狙っているコロガシである。土用の瀬の垢腐れの時期や、渇水で淵に集まったアユをコロガシで狙う釣法に、チュウビキ(中引き、宙引き?)がある。他の河川にもあるかどうかわからないのだが、これは、錘の上にかけバリを5本ほど連ねて、中層にいるアユを引っかける方法である。
  写真の釣人が、普通のコロガシか、チュウビキかは判断できない。2010年のこの時期、他の淵ではチュウビキが行われていたのだが。

 五間淵の三態
 
(大橋から見た右岸)

 上:渇水 (2010/9/5)

 中:平水 (2010/10/17)

 下:増水 (2010/9/13)

川幅の右岸側は浅い岩盤底で、ふだんは川通しで歩ける。中央付近で急に落ち込み、淵となっている。

Photo K
(2009/7/14)

上流から見る五間淵。撮影地点の左岸側は、砂と小砂利の底である。


Photo L
(2009/7/14)

Photo Kと同じ所から上流、五間淵への落ち込み尻を見る。

  大橋は、私がその年のアユの数の多寡や、成長の具合を観察する場所の一つである。 ただし、その観察がいつも成功して、その年の傾向が分かるというわけではない。大橋のすぐ上は岩盤底で、中心部にいくらか石が入っている。アユの数が少なく、水あたりの最良の場所だけを食(ハ)んでいるときは、ハミ跡は際だって目だつ。ところが、縄張りアユと、遊びアユとが混在していて、さらに天然アユも遡上時期のばらつきがあってサイズがまちまちのアユが混じっているとき、川が全面的に食(ハ)まれていて、変化を見落とすことがある。つまり、ハミ跡がないように見えるのである。
  アユが少ないときにハミ跡がくっきりと見えて期待をふくらまし、アユがいっぱいいてハミ跡が判然としないときにがっかりしていたりするのである。 ましてや、本人は鮎をいっぱい釣りたいという欲にまみれた主観を抱えて、橋から眺めているのだから、なおさらである。
  釣人が、「欲と二人連れ」という境地を脱却するのはむずかしいのだ。

2009年7月8日のアユ
    (2009/7/8)

大橋近辺での釣果。小さいのもいるが、解禁当初としては大きい。13:30~16:00で16尾。


Photo M
(2010/5/5)

川の真ん中で五間淵と大橋を見る。立ち位置は腰くらいの深さ。

 

 
Photo N  (2009/7/14) 五間淵の上流部のパノラマ。右端が淵の最上流部で、左岸から右岸を写す。

 
Photo O (2009/7/9) 仲の瀬橋から大橋までのパノラマ。右岸から写す。ピアすぐ上から撮影地点くらいまで瀬が続き、下流で五間淵に落ち込んでいく。

 
Photo P (2010/7/6) 上流から見る地下鉄ピア前後の瀬。右岸側が少し深い。

秋ふかき河の小石(さざれ)もまさやかに水明かりつつ流るる音はも    原阿佐緒 [7]

 タヌキラン(狸蘭)
   (2010/5/5)

 蘭とはいうもののカヤツリグサ科でスゲの仲間である。高地の沢沿いに植生するといわれるが、広瀬川では市内の崖によく見られる。大橋の下での写真。

  五間淵の下部は大橋直上の岩盤平瀬で終わり、上部は地下鉄ピア前の瀬からの流れ込みで始まっている。その始まりと終わりの部分は、アユの良い付き場になっている。淵の中頃のトロ場は、深さは1~1.5mくらいで、岩盤ヘリに良型が付いている可能性もあるが、竿を出してみたことがない。
   現在、建設中の地下鉄東西線は、この地点、大橋と仲の瀬橋の中間で広瀬橋を越える。そのピアが川中に建設されつつあり、この付近はしょっちゅう川相が変わっている。以前は深い溝を持つ岩盤瀬と大石の組み合わせで、この近辺では最大に近いアユが付く場所であった。
  工事で、川の半分くらいがせき止められるような工事が2度ほどあったが、幸いなことに、形は変わっているが、良い瀬であることは変わりない。そのため、毎日のようにコロガシが張り付いている場所でもある。
  川の工事ではよくあることだが、最後の仕上げに川底を平らに均してしまわないで欲しい。
どうも、こういう工事関係者というのは、川には排水路としてのイメージしかないのではないか、なにかあると川底を平らにしようとする強い職業的本能が働くのではないかと思う。

Photo R
(2010/7/6)

下流右岸から見るピア回りの瀬。


  地下鉄のピアが建設されているこの付近を「市民プール下」と呼ぶ釣人が多かったが、地下鉄建設にともない市民プールは廃止された。市民プールの上は、西公園のなかにある桜ヶ丘神社なので、これからは「桜ヶ丘神社下」とでも呼ぶのであろうか、などと思っていたが、私の知人たちにあいだでは、単純に「地下鉄ピア前」とか「ピア下」とか呼ばれているようだ。

  桜ヶ丘神社の脇には、芭蕉の句碑がある。その流麗な草書体は、私にはほとんど読めないのだが、「田植うた」がかろうじて読み取れたので次の句であると思われる。

  風流の初(はじめ)やおくの田植うた   松尾芭蕉 [6]

この句は、福島県須賀川市あたりで詠まれていて、仙台とは特に関係があるわけではないが、「みちのく」の句ではある。

  俳句と言えば、西公園のこのあたりで近代俳句の二人の巨人が、広瀬川越しに仙台城趾の灯火を見ていたらしいのである。

 

  碧梧桐君も余もだんだん学校へは足を向け無くなつた。余は東京で買つた文学書類に親しんだり、文章を書いて見たりした。碧梧桐君も同じやうな事をしてゐた。日暮になると二人は広瀬橋畔(ひろせけうはん)に出て川を隔てて対岸の淋しい灯火(ともしび)を見ることを日課にしてゐた。其灯火をぢつと見てゐることは腸(はらわた)を断つやうに淋しかつた。
  其灯火もだんだんと寒くなって来た。我等は行李から袷(あわせ)を出し綿入を出して着た。銭湯の裏座敷に並べた机の上の灯火も寒い色が増して来た。
  仙台に留まることは三月許(ばか)りに過ぎなかつた。二人は協議の上又退学といふ事に決した。

 

と、高浜虚子が書いている [8]。 明治27年、学制改革があって、高浜虚子と河東碧梧桐が旧制二高に転入したときの話である。全く同じ時期のことを碧梧桐も回顧している [9]。
 

……学校に在ること僅に三月、無謀にも退学を敢てして、仙台を去つたのは丁度この月のけふであつた(11月6日[引用者注])。……(中略)……
広瀬川を隔てて青葉の城趾に対する公園に来て、虚子と毎夜のやうに納涼(すヾ)んだ。城趾に見ゆる一点の灯火を見て、灯火の美といふことを虚子が説いた。余は非常に感服して聴いた。

 

   虚子21才、碧梧桐22才のことである。 当時、二人はすでに正岡子規門下の双璧として注目された存在であった。後に「写生」を唱える彼らが、その後も長く旧制二高に在学していたら、広瀬川にとどまらず、仙台の地を詠う多くの写生句が生まれたことであろう。すこし惜しかったな、という気がする。

Photo S
(2009/7/14)

ピア上流部、川中央から、上流右岸を見る。

  Photo S は地下鉄ピア前の瀬の上流、右岸の分流の最下部である。右岸に立っている釣人はコロガシだと思う。友釣りであれば、反対の川中からヘチを釣るはずである。釣人が立っている場所がアユの付き場で、竿先は小砂利と砂ばかりのはずである。

  釣人の背後、柳の茂みのさらに後ろは、野球場のある河川敷公園である。その場所は、昔、「女淵」と呼ばれた淵のあったところである。五間淵の右岸の崖は、五間淵の上で西に曲がって、河川敷公園の向こう側に連なっている。
  私が広瀬川で釣りを始めた頃は、写真の柳の茂みを分流が流れていて、釣人の立ち位置あたりが中洲の岸であった。その分流は狭くて、誰も釣らなかったのだが、深さのある平瀬で、試しに竿を出したら良型アユの入れ掛かりだったことがある。こういう良い話は、なぜかいつも単発で終るのである。

  下の写真(仲の瀬橋からの下流の眺め)で、上述の釣人が立っているのは、右の狭い分流の下部の岸である。左岸側の流れは広く、仲の瀬橋直下から瀬が始まり、次第に深くなって、ピア前の瀬の上では腰ほどの深さになる(Photo T)。ここは、以前、よいアユ釣り場であったが、私はここ三,四年は良い釣りをしていない。ただ、よく通ってくるアユ釣り師がいるので、釣れている可能性もある。


仲の瀬橋上から下流を望む。  (2010/10/17)  


(2010/11/15)
  1. 「100年前の仙台を歩く---『仙台地図さんぽ』」(せんだい120アニバーサリー委員会 2009年)。
  2. 「昭和24年版 復刻 JTB仙台市街圖」(風の時編集部 2008年)。
  3. 「阿波野青畝全句集」(花神社 平成11年) p. 328。
  4. 水環境ネット東北(編集代表 新川達郎)「もっと知りたい! 杜の都・広瀬川」(ぎょうせい 2005年) p. 39。
  5. 江刺洋子、佐藤忠幸、江刺洋司「広瀬川ルネサンス」(本の杜 2005年)。
  6. 松尾芭蕉「おくのほそ道」『日本の古典 55 芭蕉文集 去来抄』(小学館 昭和60年)p. 58。
  7. 「原阿佐緒全歌集」(至芸出版社 昭和53年) p. 122。
  8. 高浜虚子「子規居士と余」『現代日本文學大系19 高浜虚子・河東碧梧桐集』(筑摩書房 昭和43年) p. 310。
  9. 河東碧梧桐「三千里」『現代日本文學大系19 高浜虚子・河東碧梧桐集』(筑摩書房 昭和43年) p. 361。
 
Photo T (2010/5/5) 下流左岸からの仲の瀬橋全景。立ち位置は股下くらいの深さ。