ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <川6>


〔水行・広瀬川 6〕 仲の瀬橋から澱橋
 
仲の瀬橋上から上流、六兵衛淵方向を見下ろす。 (2010/10/28)

MAP:早坂淵~仲の瀬橋
A~Tは写真の撮影位置と方向を示している。青字、青記号は堆積土砂撤去工事前の写真であることを示す。赤字フォントのカッコ書きの地名は、昔の呼称であり、現在ではあまり意味がないと考えられる。淵などの呼称、位置については、「仙台地図さんぽ」 [1]、「昭和24年版復刻JTB仙台市街圖」 [2]などを参考にした。.地図のベースは、「プロアトラスSV4]である。

  仲の瀬橋は二階建ての橋である。上の橋は、中心市街と東北大学や仙台第二高等学校などのある川内地区を結ぶ。下の橋は、青葉山丘陵の下をトンネルでくぐる東北道へのアクセス道路であり、国道48号線(作並街道)と並行し、愛子地区で合流する、いわば国道のバイパスとなっている。今は、こちらが国道48号かもしれない。

  仲の瀬橋の上は川幅が広く、平らな岩盤と小石の浅瀬である。かつては、左岸側に1~1.5mの深さの場所や、段差のある瀬があった。ここも、河川工事で真っ平らにされてしまったのである。数年前、仲の瀬橋の耐震補強工事があって、川中のピアの工事は、川を一部堰き止めて行われた。何故か工事の仕上げ時期に、耐震補強工事と関係がない50mほど上流までブルが入って平らに均したのである。
  どうも、この手の工事関係者は、川を底の真っ平らな立派な排水路に仕上げたいという情熱に駆られているらしい。橋の耐震補強予算は河川改修予算とは異なると思うのだが、もしかして、彼らは「ついでの善意」としてブルを入れ、川底をかき回したのかも知れない。

  17,8年前、旧建設省河川局の関正和さん [3] という人が中心になって自然豊かな川づくりをしようと提唱していた。全国の何カ所かで「河川環境シンポジウム」を開催し、仙台会場の時には私も要請されて釣人の立場でパネラーの一人として参加したことがある。
  淵も瀬もある、岸もまたコンクリートなどではない自然の川へと戻すべく工法を変えようという運動は、環境先進国ドイツから始まったらしい。日本でも建設省が主導して自然環境の豊かな川、多様な人々が利用できる川にしよう、という趣旨のシンポジウムであった。
  当然のことながら、私は、これからは河川工事があるたびに次第に河川環境は良くなっていくだろう、と期待したのである。けれども、広瀬川で何度も見ることになるように、相変わらず、川は排水路としてのみの存在意味を付与されているようである。勤務代わりに(あるいは勤務として)週日開催のあのシンポジウムに出席していた県や市町村の建設、河川工事関係のお役人たちはどこへ行ったのだろう。

Photo A
(2009/7/25)

仲の瀬橋上の小石と岩盤の浅瀬を狙っている。

   仲の瀬橋も、私が解禁前にアユを観察する場所の一つである。二階橋の上から見るので、アユの姿はよく見えないが、広い浅瀬が、アユに食(は)まれて、1日1日と色を変えていく様子を見ているのは、楽しいものだ。
   この広い浅瀬は、基本的には遊びアユ、群アユの場所である。まず、岩盤底から食(は)みはじめ、しだいに小石底の方へ広がっていくようである。たまには川中をくまなく歩いてみるが、この広い浅瀬でしっかりした縄張りを持っているのは5~6カ所の8~12尾くらいである。もちろん、群アユも、ちょっと追い気の立ったアユもいるので友釣りは成り立つだろう(難しいだろうけど)。Photo A の人が立っている川の中央部分は足首くらいの深さ、狙っている右岸側でも20cmくらいの深さであろう。


Photo B
(2010/7/13)

六兵衛淵下部左岸から下流、仲の瀬橋を見る。


Photo C
(2010/7/13)

Photo Bと同じ所から上流、六兵衛淵、市民会館方向の眺め。

  広い浅瀬は、上流へ行くにしたがって、次第に深みを増し、六兵衛淵となる。六兵衛淵も大きく広い淵らしい淵である。左岸、崖側は岩盤の棚があり、平水であれば川通しで歩ける。35年間で2,3度ほど、わが身で確かめた(確かめたくてやったわけではないが)かぎりでは、水深は深いところで 1.5~2m くらいであろう。
  この淵も、盆過ぎにはチュウビキ(コロガシの1種)の人が並ぶ場所の一つである。

 ミヤマカワトンボ
  (深山川蜻蛉)
   (2010/7/20)

上流域に生息するカワトンボとされているが、この辺でたくさん見られる。

  左岸の上は西公園で、花見の時期には酔っぱらいが崖を落ちかけて、消防車が駆けつけるなどと言うこともあるが、眺めの良い岸ではある。秋には、崖の中腹に生えている何本ものモミジの紅葉が美しい。川水の温度のためか、紅葉の発色がすばらしいのである。冬になると岩からしみ出る地下水が太い氷柱になっていくつも並ぶ。左岸の崖は東南を背にしているので、日中でも氷柱は融けないで、次第に太っていくようである。


六兵衛淵下流のカルガモ親子  (2010/7/16) 
11尾もの仔ガモが親と同じくらいの大きさまで元気に育っていた。

即かず離れずといふ知恵軽鳧の親子にも   安住敦 [4]

 
六兵衛淵左岸(西公園側〉の紅葉 (2009/11/20) 

 
Photo D  (2009/7/15) 六兵衛淵上の岩盤深瀬。

  六兵衛淵という名前を使っているけれども、じつは、私は1度もこの名前を釣人からじかに聞いたことはないのである。昔は「公会堂下の淵」(現在の市民会館は前に市公会堂だった)、最近は「赤門の淵」(右岸河川敷に赤門自動車学校がある)と呼ぶ人が多い。理由はよく分からないが、せっかく古来の名前があり、名前にふさわしい淵も残っているのに、もったいないことではある。
  六兵衛淵(赤門の淵)と括ってしまうけれども、実際は、淵は2段になっている。Photo EPhoto C の淵の上端付近からさらに上流を写したものである。手前の波立ちは、Photo D に写っている淵への落ち込みの深い岩盤瀬である。その上流にもう一つの淵があって、コロガシの人がその上端で竿を出している。この人は、ここ2,3年、3日に2日は同じ場所に立っている。釣り人の上が「赤門の瀬」である。この釣り人の後ろの崖上に、市民会館が建っている。
  六兵衛下淵(仮にこう呼んでおく)に落ち込む岩盤瀬は、大アユ場所である。流れの押しが強いうえ、岩盤底は複雑で、横壁や、瘤岩の頂きを食(は)んでいて、友釣りとしては難しいが面白い場所である。

Photo E
(2009/7/15)

下流から赤門の瀬の方を見る。瀬落ち、六兵衛淵上の淵頭にコロガシの釣人が見える。


仙台市民会館
 (2010/10/17)

西公園に隣接する川岸に立つ。右の建物の上階は住宅になっている。

  この六兵衛淵を、私はずっと「女淵」というのだと思っていた。アユ釣りを始めた頃の話である。漁協の理事でもあったご老人が、市民会館直下の岸辺で竿休めをしながら、「女淵」の由来を話してくれたのである。
  かつて、市民会館の付近は元常磐丁といって、一帯は遊郭だったそうである。ある時、そこの遊女がわが身を儚んで、崖上から広瀬川に投身して果てたという(心中と言ったかも知れない)。その身を投げた淵を「女淵」と呼ぶようになった、と聞いた。背後の崖から身を投げたら助からないだろう、と思いながら聞いていた私は、目の前の淵が「女淵」だと思い込んでしまったのである。本当の女淵があったところは、今や子供たちの野球場であり、そこの崖は散歩の途中で登ったり降りたりしていて、投身自殺など思いもよらないことであった。

  精霊流しがあるように、川には死者につながるイメージがある。私の生まれた田舎には小さな川しかなかったが、盆棚の供物などをまとめて川に流す風習があった。川は海へゆき、海は補陀落浄土につづく。私は一度も見たことはないが、広瀬川でも、下流、広瀬橋付近でイベントとしての灯籠流しが行われているという。

 

とうろうを
ほっかりあかるませているのは
幼くしてみまかった
いもうとの精霊です

岸で見おくる
わたしを寂しがらせまいと
あのように
ほがらかなようすで帰ってゆくのです

アユよ やさしい川の娘よ
いもうとの火に
つきそって行ってやってください
ひろい海に
出られるところまで

          新川和江「火のオード 7」全文 [5]

 


   「アユが精霊を守りながら、付き従って川を下っていく」のである。こんなにも長い間、川で遊び暮らしながら、私は一度もそんなことを思い浮かべもしなかった。

    下り鮎一聯過ぎぬ薊かげ     川端茅舎 [6]

この鮎たちも精霊守りなのであろうか。
  長い年月、じつに多くのアユを殺してきた私は、川を下って常世の国にみまかることはない。間違って広瀬川にでも流されようものなら、私に殺されたアユの末裔たちにつつき殺されて、2度目の死を死ぬに違いない。


Photo F  (2010/8/13)  赤門の瀬の片から下流、六兵衛淵の方を眺める。

  赤門の瀬については、どのように説明したらよいのか、感情的には微妙である。30年くらい前、赤門の瀬は、上流の胡桃淵から下の六兵衛上淵 に続く大石の詰まった長い1級の瀬であった。釣り人が両岸に20人ほどずつ並んでも平気だった。上下は淵なので鮎の供給も十分なのである。その瀬は、右岸の赤門自動車学校の敷地ぎりぎりを流れていた。
  ある年の台風による出水の後、赤門の瀬は大きく変貌した。流れは左岸に移り、胡桃淵の下に新しい淵ができ、その分、赤門の瀬は一気に短くなったのである。短い瀬の左岸側は、岩盤底で上流側の三分の一くらいにある溝にアユは付いた。右岸には溝状に流れる石の瀬となっていたが、いかんせんその溝は狭く、付くアユの数は限られていた。
   さらに2009
年秋から翌年にかけて、右岸の寄り州の土砂の撤去工事で、胡桃淵からの2段の淵はほとんど消えてしまい、赤門の右岸の石の瀬の上半分は小石が詰まってしまった。その工事の様子を下の写真に示す。短い赤門の瀬の上が淵だったことが分かる。さらにその上が胡桃淵である。写真右側に移っている寄り州の土砂を撤去する工事なのだが、問題は川幅を広げただけではなく、左岸ぎりぎりを残して、小砂利で浅くしてしまったことである。水通しは確かに良くなったが、アユ釣り場は大きく減少した。
  自然は必ずその自然に見合った形に落ち着くので、何回かの大水の後にはアユにもヤマメにも良い形状になるだろうと思うが、私がそれまで生きながらえているかが問題なのである。


(2009/4/10):西公園北端からの赤門の瀬付近(堆積土砂撤去工事前)、

右上 (2010/4/17):土砂撤去工事中、
右下
(2010/5/10):土砂撤去工事終了後。


Photo G  (2009/7/16) 
今は消えた赤門の瀬の肩、右岸の大石の平瀬。

  Photo G は工事前年の赤門の瀬肩、右岸の様子である。この瀬肩は胡桃淵の下の淵の淵尻に相当する。岩盤底の真ん中に立ち、右岸の柳の際を狙うのが、このあたりに入川したときの私の決まりであった。数はあまりでないが、必ず大アユが来る場所であった。今は、浅い小石底で見る影もない。アユの供給源であった淵も消えている。
  赤門の瀬は、アユポイントが少ないけれども、下流部は六兵衛淵からの供給が途絶えないので、釣り荒れてだめになるということが少ない。上流の淵を失った赤門の瀬の上の部分は入れ替わりがあまりない。Photo F に見える左岸側の岩盤溝の狭いポイント狙いが上流部分のアユ釣りだが、30分ほどで終わってしまう。アユがいれば、追い気は激しいので勝負はあっという間である。
  赤門の瀬から六兵衛上淵への落ち込みは砂か小石底で、期待できない。ただし、左岸の岩盤壁には付いているが、コロガシが毎日のようにへばりついている。このあたりの渡渉ポイントは、かつては赤門の瀬肩だけ、それも腰くらいまでの流れを横切る必要があったが、いまは、瀬の上流半分から上は胡桃淵までどこでも渡れるようになった。大変歩きやすいが、魚には迷惑な話ではある。

上:アジサイ(紫陽花)
  (2009/7/14)

下:キンシバイ(金枝梅)
(2009/7/14)

赤門の瀬の上の左岸の崖に生えていた。ともに園芸種で、下はヒペリカム属の別種かもしれない。

 


 

 Photo H  (2010/8/13) 

 左岸よりの川中から上流、胡桃淵方向を見る。

 

Photo I  (2010/8/13) 

右岸(Photo Hの左の岸の先端あたり)
から上流、胡桃淵を見る。


Photo J  (2009/7/2) 淵らしい淵だった2009年までの胡桃淵。
Photo I の右寄り中央部分に相当する。

  胡桃淵は、Photo J に見るようにここも2009年までは淵らしい淵であった。 上流の右岸からの瀬落ち脇は砂だったけれどもその下は右岸側のいい石が詰まっていて、左岸側は大アユの付く岩盤であった。昔は、この淵を「佐久間さんの淵」と呼ぶご老人が何人かいた。これは、Photo J の右手の崖上に、日清戦争時代の第二師団長であった佐久間左馬太陸軍大将の屋敷があったことによる。いまは、「佐久間さんの淵」と呼んでいたご老人たちのなつかしい顔々を思い浮かべている私の記憶だけになってしまった。
  そういえば、広瀬川の西、仙台城趾の麓、川内地区は戦前は帝国陸軍第二師団、戦後は駐留米軍キャンプ、現在は東北大学キャンパスとなっている。私が東北大学に入学した頃、米軍兵舎を改造した教室で講義を受けたし、、かまぼこ型の屋根の兵舎や二階建ての木造兵舎をそのまま運動部や文化部の部室として使っていたのである。

   以前の胡桃淵の下半分では、竿を立て、泳がせ釣りで静かに大アユを狙っていたのである(Photo K)。淵尻は、2段の下淵へ流れ込む瀬肩である。瀬肩も瀬も大淵で挟まれたアユの供給の絶えない場所で、釣り人も絶えないのであった。

Photo K
(2009/8/6)

Photo Jのようなときの胡桃淵下部で泳がせ釣りをする釣り人。


胡桃淵付近のアユ

(2009/7/15):
 8:30~11:00、22尾。

(2010/8/13):
 10:00~12:00、13尾。

 


Photo L  (2010/7/5) 半分は小石の浅瀬になった胡桃淵。


Photo M  (2010/10/30) 本流と左岸分流の出会いと胡桃淵。

  工事後の胡桃淵は、Photo JK Photo LM でよく分かる。Photo Hは、赤門の瀬の瀬肩から胡桃淵の下の淵だったところを写したものである。写真中央から左側に見える川中の石群はかつての右岸だったところ。その上流の川の中に見える岩盤は、その前後左右とも深くて背が立たなかった所である。今は、右岸側が小石で埋められていて、中央の岩盤に立って左岸の岩盤溝を釣ることができる。かつては竿が届かなかった場所ではあるが、それができるようになって喜んでいるわけではない。
  Photo I は、2段の淵の間の瀬だったところと胡桃淵(だったところ)を下流側から写したものである。上流奥、左岸側に岩盤溝があるが、ほぼ全体がチャラ瀬となってしまった。Photo LM も胡桃淵付近を異なった場所から見たもので、いずれもこの場所が小石底の浅瀬に変わったのが見てとれる。
  「おかげでハヤ(ウグイ)の良い産卵場所がたくさんできたね」と皮肉を言う釣り人がいたが、ハヤ釣りをする人は今はほとんどいない。ところが、当たり前のことだが、ウグイの産卵場所は、サケの産卵場所としても良いことが証明された。2010年の秋、かつての胡桃淵の右岸では、20尾ほどのサケが産卵のために群れていた。小石底のすてきな産卵床ができていたということなのである。

  さて、それでは胡桃淵付近はアユ釣り場として壊滅したのかというと、そうでもないのである。写真の2009年と2010年の釣果の差は偶然である。アユの付き場は圧倒的に減ってしまったが、アユそのものは同じようにいるのである。何人も入れる場所ではなくなったが、人がいなければ、けっこう釣れるのである。
  群アユ釣りが好きな人なら、ある程度数を上げることもできると思う。私はあまり好きではないので、群アユが掛かれば止め時ということにしていた。この川の形状では、やはり、縄張りを形成するのは困難で、2010年はやたらに群アユがいたのである(大渇水もその理由の一つだったと思うが)。

Photo N
(2010/7/18)

左岸分流の下部は深い。岩盤付きのアユを狙うコロガシ。

Photo O
(2010/7/5)

本流の下部、胡桃淵方向を上流から写す。

  胡桃淵への流れ込みは、二手に分かれている。やや広く、流量の多そうな右岸、河川敷公園側の流れを本流としておく。左岸は、狭いが流れが強く、その下流部は胡桃淵の始まりを思わせて、切り立った岩盤をえぐるように流れている。
  Photo O は、右岸の本流の中頃から下流を見たものである。立ち位置は中段の緩やかな流れになっているが、基本的には本流全体が瀬である。ここも工事の影響があって、写真に見るように小砂利が平に敷き詰められた傾斜の緩やかな浅い瀬となっている

   本流側の上部は、Photo PQ に見られるように、やや傾斜のきつい瀬になっていて、石も大きい。ここまでが工事の影響が残っているところである。 かつては右岸には柳が生えていて、その岸際に流れの筋があって良型のアユやヤマメが位置していた。写真に見るように柳は亡くなり、流れは平板になった。ただ、この瀬は、大水で容易に元の形に復元するような気がしている。

Photo P
(2010/7/5)

Photo O と同じ所から上流を見る。



Photo Q (2010/7/5) 本流左岸の瀬頭から下流(Photo P と同じ付近)を見る。

胡桃淵左岸の紅葉 (2010/11/20) 右上端に「千年杉」の古木が見える。

風塵となりて瀬をとぶ紅葉かな   阿波野青畝 [7]

  ここの瀬は本来、好釣り場だったが、なぜか入れ替わりが弱い場所なのである。2010年は下流の胡桃淵がたまり場の機能を失ったのでやむを得ないが、二つの淵に挟まれていた以前でも解禁当初の好釣が続かないことが多かった。瀬肩とそのごく近くの瀬の始まり部分は、上の澱橋の淵がアユの供給源になっているので、安定している。
  左岸の分流は荒い瀬でよいアユが付くが、残念ながら、川幅が狭いうえに左岸の柳の木が覆い被さっていて釣りづらい。このあたりで釣るときは、一応竿を出すのだが、対岸の木の根にアユが引っ掛かったりすることが多い。

   澱橋の上下は、大きな淵になっている。淵の最下流、分流の始まる上の部分(瀬肩)は、石も大きく、深さも30~100cmと変化があって、アユもたくさんいる。いつもは、泳がせ釣りの好場所であるが、大渇水の2010年はやたらと群アユが多く、縄張りアユは限られていた。
  私の好きな場所だが、2010年の夏は2度ほどで止めにした。20cm強のアユが2~3尾きた後に、12cmクラスが来るのである。オトリとして泳がないわけではないが、今の私の釣りは、そのクラスが来たときにはその小アユをリリースして、その場は終るのである。粘りも執着心も、もうないのである。年を重ねる、ということは、諦めることに慣れてしまうこと(か?)。若いときは、歯ぎしりをしながら諦めた。次には、諦めるけれども、逡巡し、立ちすくむ。今では、諦めるのにためらいもないのである。
  
  さっさと川を上がった私は、暑ければビール、涼しければワインを少し、そして、本を手にしてひっくり返るのである。

      釣魚大全枕にしたり三尺寝   山口青邨 [8]

  釣魚大全を書いたアイザック・ウォルトン
[9] は鮎を釣ることはなかったし、私はメドー・ストリームに憧れながらもフライ・フィッシングをしたことはない(テンカラには一時夢中だったけど)。ウォルトンは、たくさんの詩を引用しながら釣りを説く。日本では、釣りを愛する詩人たちに出くわすことが少ない。小説家にはけっこういるのだけれども。
  

(2010/11/20)


  1. 「100年前の仙台を歩く---『仙台地図さんぽ』」(せんだい120アニバーサリー委員会 2009年)。
  2. 「昭和24年版 復刻 JTB仙台市街圖」(風の時編集部 2008年)。
  3. 関正和さんは当時、建設省河川局河川計画課河川環境対策室長であった。彼の先進的な河川環境に対する考えは、関正和「大地の川 -甦れ、日本のふるさとの川-」(草思社 1994年)にまとめられている。残念なことに、関さんはこの本の出版間もなく、病を得て早世された。
  4. 「安住敦全句集」(春燈俳句会 平成12年) p. 213。
  5. 新川和江「詩集 火へのオード18」『新川和江全詩集』(花神社 2000年) p. 259。
  6. 現代日本文學大系95「現代句集」(筑摩書房 昭和48年) p. 98。
  7. 「阿波野青畝全句集」(花神社 平成11年) p. 236。
  8. 斎藤夏風編・著「蝸牛俳句文庫32 山口青邨」(蝸牛新社 2000年) p. 65。
  9. アイザック・ウォルトン(森秀人訳)「釣魚大全」(角川書店 昭和49年)。
 
 
Photo R (2010/10/30) 上流右岸から分流分岐を眺める。

 
Photo S (2009/7/9) 下流右岸から写した澱橋全景。

 
澱橋上から眺める下流の風景 (2010/10/18)