ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <川3>


〔水行・広瀬川 3〕 縛り地蔵から霊屋橋
 

霊屋橋からの下流の眺め
    (2010/10/17)

 水にそうていちにちだまつてゆく
              種田山頭火 [1]


MAP:愛宕堰~霊屋橋
A~Kは写真の撮影位置と方向を示している。赤字フォントの地名は私が書き加えたものである。カッコ書きの地名は、昔の呼称であり、現在ではあまり意味がないと考えられる。淵などの呼称、位置については、「仙台地図さんぽ」 [2]、「昭和24年版復刻JTB仙台市街圖」 [3]などを参考にした。.地図のベースは、「プロアトラスSV4]である。

   2010年の春は異常だった。四月に大雪が降り、奥羽山地には遅くまで雪が残っていた。五月の山歩きでは、ほとんどの山頂で今まで見たこともないような残雪の量を、私としては少し楽しんだりはしたものの、雪代がいつまでも流れるのは、広瀬川のヤマメ釣りはもちろん、アユの遡上、生育への悪影響が心配されるほどであった。それでも、解禁前の調査では、広瀬川、名取川とも順調な生育でが確認されていた。
   7月1日の解禁日は、増水で不調であったが、翌日からは好釣が続いた(そうである)。私のアユ釣りは、水の落ち着いた7月5日が初日であった。解禁当初、広瀬川でもっとも賑わったのは霊屋橋下流だった、という友人の報告があった。連日、50尾を越える釣果の釣人が出ていたというのである。

Photo A
(2010/7/8)

下流左岸に縛り地蔵[3]、右岸崖上に愛宕神社。

  この地区は。愛宕大橋~霊屋橋という区切り(MAPではそうしている)がすっきりするのだが、愛宕橋(愛宕大橋のすぐ下の橋)の下流にある愛宕堰のため、縛り地蔵付近まで大淀になっている。昔から漁協の遊漁規則にも「縛り地蔵より上流……」という地区切り表現にあるように、アユ釣りでは愛宕堰~縛り地蔵はほとんど対象とならない。昔は、この間に西光院淵や松源寺淵と呼ばれた淵があったらしい。瀬というほどのこともないが、Photo A には矢込瀬の名残の波立ちが見える。
  左岸にある縛り地蔵尊は小さなお堂で、伊達騒動のときに斬罪に処せられた武士の供養に建てられた [4] とか、大橋のところで水責めで殉教したスペイン人神父の墓とする説 [5] がある。3kmほど上流の澱橋上の左岸、角五郎丁には「縛り不動明王」がある。地蔵菩薩を縛るのと、不動明王を縛るのでは、信仰の強度や意味合いにどんな差異があるのか、興味深いけれども、私には全く見当がつかない。

  愛宕堰の下には郡山堰があって、この二段の堰は天然アユの遡上の障害になっている。最近は郡山堰の改良があって、そこでの遡上も増えているといわれている。ただし、愛宕堰はまだ問題がある。それでも二段の堰を越えてくる天然アユは結構いて、この区間が1番濃いのである。そのため、近年の「種苗混合無差別方式」による放流アユと天然アユの競合が厳しいので、自ずと縄張り意識の強いアユが多くなって、近年のこの区域の好釣につながっている、という説がもっともらしく言われているが、本当はもっと簡単なことではないか。もともと、広瀬川は鮎が多い川ではない。縄張りが崩壊するなどの複雑なことは起きていない。鮎が少なければ、釣果は鮎の密度に比例するだろう。そのような線型性が崩れるほど、鮎は多くないということである。

Photo B
(2010/7/8)

Photo Aの反対、上流方向。浅瀬が続き、静かに静かにアユを待っている釣人が遠くに見える(T君)。

  Photo B の手前、足下に見られるように淵になる上は左岸は小石底、右岸は岩盤の浅い平瀬になっている。下流に大淵が控えているので、サイズはともかく、アユの数は多いに違いないと思える場所である。ヤマメは難しい。少なくとも、私にはどこを狙ったらよいのか、わからないのである。

  上流にむかって右方向に緩やかにカーブするが、川底は浅い左岸の小石、右岸の浅い岩盤はしばらく続くが、岩盤底には次第に変化が現れてくる。Photo C に白く泡が立っているあたりは、岩盤底の変化による。群アユがよく見えるところでもある。

Photo C
(2010/7/8)

浅瀬が続く。右岸寄りは、岩盤底だがそんなに深さはない。

  縛り地蔵から宮城県立工業高校の裏を経て霊屋橋のすぐ下まで、長い河川敷公園が造られている。明治時代にはもちろんこの公園はないのだが、広瀬川や仙台というとよく引き合いに出される文学者の一人である島崎藤村もこの辺を散策したのではないかと、つい想像してしまう。というのも、MAPにあるように、この辺は東北学院大学にもっとも近いので誤解しやすいのである。
  当時の東北学院は、東二番丁と南町通りが交叉する角にあったので、このあたりが1番近いというわけではない。藤村が25才の明治29(1896)年9月~明治30(1897)年7月までの9ヶ月間の東北学院勤務を終えた翌年に「若菜集」が出版されているが、広瀬川が詩に現れるのは1カ所だけである。

   その鬣(たてがみ)の艶なきは
   荒野の空に嘆けばか
   春は名取
(なとり)の若草や
   病める力に石を引き
   夏は国分
(こくぶ)の嶺を越え
   牝馬にあまる塩を負ふ
   秋は広瀬の川添の
   紅葉の蔭にむちうたれ
   冬は野末に日も暮れて
   みぞれの道の泥に饑
(う)
              島崎藤村「牝馬」部分 [6]

  「国分の嶺」がどこを指すのか、私にはわからない(国見という丘陵は仙台市西北部にあって、市内からよく見える)。それに、この詩句からは、藤村が名取の地や広瀬川をどのように感じていたのかはよくわからない。七五調で格調を重んじる近代詩の特徴ではある。残念ながら、藤村が広瀬川を散策したのかどうかも、この詩からは推量できない。

Photo D
(2010/7/8)

Photo Cより深さが増してくる。対岸の岩盤にも少し深い溝があり、変化がある。

  とまれ、川の様子である。Photo D くらいまで上がると、少し深さを増してくる。写真には写っていないが、Photo DE を写した地点の対岸(右岸)には深い岩盤溝があり、釣友の一人がよく通っているとのことであった。下流はやや浅い岩盤であるが、形状が複雑な溝があって、群アユが飛沫をあげてコケを食んでいるのが見えたりする。群アユの見釣りというのも、それなりに楽しいが、ややアユが小型になるのはやむを得ない。私もここでやってみたが、よく釣れることは釣れる。けれども、どうもすぐに飽きてしまうのである。

     ゐるはゐるは小鮎ういもの石めぐり     臼田亜浪 [7]

Photo E
(2010/7/8)

Photo Dの反対、上流方向。右岸に深みが続くようになる。

  Photo E のように、このあたりから右岸(写真の対岸)が深くなり始め、さらに川幅が狭くなって、アユ釣り場としてはいっそう好もしくなる。ヤマメも潜んでいそうな気配が濃くなる。写真で川が右にカーブして見えなくなるあたりから、さらに上流を写したのが Photo F である。

Photo F
(2010/7/8)

Photo Eよりさらに深さが増し川幅が狭くなる。


   2010年7月8日の午後一時頃、縛り地蔵からこのあたりまでで、アユ釣りをしている人は一人だけだった(厳密には、釣り下りながら、それを見に行った私を含めれば二人だが)。その一人は、Photo B にちいさく写っている。小石底のチャラ瀬と浅い岩盤瀬の境界付近を静かに泳がせて釣っていた。縛り地蔵から Photo F の中頃までは、泳がせ釣りが必須のようである。

   35年くらい前、私がアユ釣りを始めた頃、私の回りでは泳がせ釣りをする人は一人もいなかった。本やテレビ画像からその方法を想像しながら、一人で泳がせ釣りを始めたのだが、瀬で吹き流し仕掛で友釣りをするご老人たちからは、「そんなドブみたいなところにアユはいない」と馬鹿にされるのであった。つまり、トロ場は手つかずなのである。実によく釣れるのであった。この辺で泳がせ釣りをするのは私ばかりかと思っていたら、とんでもない。その当時、すでに泳がせ釣りの名手がいたのである。現在、テレビのレギュラー釣り番組を担当している池田正義さんとまもなく広瀬川で出会うことになる。そしていまや、誰でも泳がせ釣りをこなし、手つかずの穴場というものは壊滅したのである。

  Photo F のカーブ付近を上流左岸から眺めたのが、Photo G である。ほぼ同じ地点から上流を見たのが、Photo H である。

Photo G
(2010/6/2)

Photo Fを上流より眺める


Photo H
(2010/7/8)

霊屋橋が見えるこのあたりが、瀬が続く本命場所か? アユ釣りも多い。


  霊屋橋下流では このあたりが、アユ釣りでもヤマメ釣りでも最適であろう。 誰が見てもそう見えるのだから、釣人も多いのである。ヤマメ釣りでもアユ釣りでも、最近の私はウイークデイに行くのだが、ここには釣人が居るのである。2010/7/8の朝には、Photo H の瀬に3人入っていた。写真は13:30ころ、帰る途中で写したものだが、一人だけが朝と同じ人で、二人は入れ替わっていた。 その日、とうとう私はこの瀬で竿を出すことはできなかったのである。

右岸の岩盤を狙う
  (2010/7/8)

Photo-GとHを写した付近より10mほど下流で竿を出している(Oさん)。

  上の写真は、たまたまこの場所で出会った釣友のOさんの後ろ姿である。今は白泡のごく狭いポイントにおとりを誘導しているため、竿がやや寝ているが、彼は泳がせの名手である。かつては、霊屋橋の上流、評定河原橋付近をホームにしていたと思っていたのだが、最近はこの辺をホームにしているらしい。彼の行動も、最近の広瀬川の好釣り場がどこかを教えてくれる。

Photo I
(2010/6/2)

鹿落坂にもっとも近付くあたりが、瀬釣りとしては最良。


   Photo H の瀬を上流左岸の瀬肩から眺めると、Photo I のようになる。写真の左手、左岸の堤防寄りには、「霊屋下セコイヤ類化石林」がある。寄り州の発達具合にもよるが、地表に現れた珪化木を見ることができる。ずいぶん前ではあるが、4,5本頭を出している珪化木を見たことがある。

   Photo H の立ち位置の背後は、霊屋橋の下の大きな淵である。この淵も含め、ここの釣り場は大きなふところを抱えた釣り場である。魚は多いはずである。右岸、崖側は岩盤底で、その形状の変化によっては、ヤマメやアユの付き場は必ずしも一様ではない。2010/7/8のアユ釣りでも、ごくつまらないところで良型アユが入れ掛かりになる場所があった。私は、解禁からの竿抜けであろうと思ったが、ここをホームにするOさんによれば、入れ替わって付いたものだというのである。
   この区間は、私にはあまりなじみのない場所だが、良い場所である。帰り際、みなさんに挨拶すると、「もう来ないでください」というのが返事であった。たいへん好もしい激励の言葉を受けて、来年はもっと繁く通うつもりになったことではある。

2010年7月8日のアユ
    (2010/7/8)

9:30~13:30の釣果。31尾。


(2010/10/20)
  1. 「定本 種田山頭火句集」(彌生書房 昭和46年) p.146。
  2. 「100年前の仙台を歩く---『仙台地図さんぽ』」(せんだい120アニバーサリー委員会 2009年)。
  3. 「昭和24年版 復刻 JTB仙台市街圖」(風の時編集部 2008年)。
  4. 水環境ネット東北(編集代表 新川達郎)「もっと知りたい! 杜の都・広瀬川」(ぎょうせい 2005年) p. 38。
  5. 西大立目祥子「仙台とっておき散歩道」(無明舎出版 2003年) p. 158。
  6. 島崎藤村「若菜集」『現代日本文學大系13 島崎藤村集(一)』(筑摩書房 昭和43年) p.13。
  7. 現代日本文學大系95「現代句集」(筑摩書房 昭和48年) p. 263
  8. 長田弘「詩集 記憶のつくり方」(晶文社 1998年) p. 59。
 

 川から眺める霊屋橋

  上流右岸から (2010/6/2)

 橋が知っているのは、向こう側だけだ。ここから向こう側へゆく。 向こう側へゆこうとするその橋の上で、思いがけずじぶんのこころ に出くわす。
  長田弘
   「橋をわたる」部分[8]