ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <川1>


〔水行・広瀬川 1〕 広瀬川から

【広瀬川で釣りを始める】

春されば我家(わぎへ)の里の川門(かわと)には鮎子さ走(ばし)る君待ちがてに
              読人知らず 「萬葉集 巻第五」 [1]

  広瀬川の河川公園で妻と初めて出合ったのが、おたがいが17才の時であった。26才の時に結婚して、広瀬川の堤防にくっついた家で暮らし始めて、38年になる。広瀬川で釣りをはじめたのは、さらにその数年後になる。

  結婚して間もなく、夏の休みを利用して、泉ヶ岳から北泉ヶ岳、三峯山、蛇ヶ岳、船形山、後白髪山を経て、定義へ下るというコースを山小屋泊まりで歩いたことがあった。北泉ヶ岳をを下りおえて鞍部にたどりついたとき、突然小型のブルドーザーが登山道を横切っていったのである。驚いてしまったが、そこは広瀬川の支流、大倉川のさらに支流の横川源流から最短の場所なのである。
  当時、横川沿いや、後白髪山麓の原生林伐採が激しく進んでいたのである。ブルがそこまで来ているということは、横川沿いの林道は最奥まで達しているということを意味していることに気付くことになった。それからしばらくは、イワナやヤマメを釣りに横川へ通うことになる。

  魚釣りとしては、4~5才くらいから川と湖沼のマブナ釣りを始めた(らしい)。記憶はないのだが、長姉が釣り竿をもって川へ走る私のあとを何度も追いかけたとくり返し話すので、それくらいの年齢から始めたと想定している。少なくとも、5ないし6才くらいの時、釣り針を指に刺してしまい、抜こうとしたら折れてしまって、自宅の隣にあった医院で取り出してもらったことがある。自宅から1kmくらい離れたちいさな沼の岸から、慌てて帰ってきたあたりから記憶が残っている。マブナ釣りは、それから15才くらいまで続いた私のたいせつな遊びであった。そして、10年以上のブランクがあっての再開した釣りは、渓流釣りなのである。

  その後すぐに、近所のご老人に勧められて鮎釣りを始めることになるのであるが、教えられたのはコロガシ釣りである。コロガシ釣りといっても、当時は「テンバ」と呼ばれている釣法で、現在「コロガシ釣り」と呼ばれるものとはイメージが異なる。4~5mほどの短竿(もちろん、当時は2間とか2間半と呼んでいた)で、瀬のなかを下りながら、石に付いた縄張りアユを縦、横自在に引いて掛けるのである。竿は片手で操作するし、大石回りも、石のあいだも丁寧に引くためにも短竿である必要があったのである。

Photo 1
模倣仙台竿と自作のタモ缶 (2010/10/19)

  竹竿は5本継ぎ、2間半の手元だけが残っていた。タモ缶は友釣り仕様で、返し網がある。海釣り用のダクロン糸で自分で編んだもので、きわめて強靱で一度も破れていない。柄はやや柔らかい樅材で、カシュウ漆で馬鹿塗り風に仕上げてある。缶は銅製が渋くてカッコ良いと思っていたが、友人が提供してくれたステンレス製を用いている。およそ35年前の遺物である。

  テンバに最適なのは、仙台竿と呼ばれている竹竿なのであるが、いかんせん値が張るので、初心者の若造には手が出ない代物だった。それで、仙台竿の銘品を何本か見本として関東に送り、安価な代替仙台竿(模倣仙台竿)を作らせたということで、仙台市内のいくつかの釣具店で売っていたらしい。
  あるとき、川で鮎釣りを教えてもらっていたご老人たちの一人の家に呼ばれて、座敷に上がると、その模倣仙台竿が10数本、畳のうえに整然と並べてあった。私のためのコロガシ竿を選ぶために、釣具店から集めてきたというのである。
  じつはその頃、すでに独学(何冊かの本)で友釣りを始めていて、コロガシはそろそろおしまいにしようと思っていたのであったが、その親切を断るなどということは、とてもできないことではあった。実際にその竿を使ってみると、グラス竿よりはずっと良いのだが、ときどき川で使わせてもらった真正の仙台竿とは雲泥の差があるのであった。

  こうして、私のヤマメ釣り、アユ釣りは広瀬川から始まったのである。

  もともとは、源流のイワナ釣りから始まったのだが、当のイワナ釣りは間もなく止めてしまった。仙台弁で言えば、イワナは「もぞこい」魚で、次第に気後れがしてしまい、とうとう止めにしてしまった。

  源流域でエサが少ないためか、イワナはたいへん貪欲で、あるコツさえ押さえておけば、実に容易に釣れた(と、当時は思ったということである)。エサ釣りでも毛針釣り(私の場合はてんから釣りだが)でも、ヤマメと較べれば、圧倒的に簡単なのだった。可哀想なぐらいなのである。このように愛しくかつ憐れな様子を仙台の方言で「もぞこい」とか「もぞい」という。
  結局、源流域のため、許容生息数も多くはないだろうことに思い至れば、イワナ釣りからは遠ざかるほうが心安らぐというものであった。ヤマメ釣りで沢を登っていって、イワナが掛かれば、それ以上遡行しないことにしていたし、そのうち、その辺にも近寄らず、いわゆる本流のヤマメ釣りをもっぱらにするようになったのである。

  その後の広瀬川の釣りがずっと順調に続いたわけではなく、結構長いブランクがあった。一つは、ある時期からアユ釣りの競技、トーナメントにのめり込んだことである。いわゆる「釣りの楽しみ」が「釣り技術を磨く楽しみ」に変わったのである。当時、釣りをずっと長く楽しむためには、釣りがうまくなるのが1番だと思っていた。
  釣りを始め、そして釣りをしなくなる多くの人を見てきたが、その理由のほとんどは「釣れないから面白くない」というものなのである。川や魚を自在に変えられない以上、対処法は釣りがうまくなるしかかないというのは当然の論理的帰結であった。
  釣れなくても釣り糸を垂れていれば楽しい、という話がよく出てくるが、私のレベルでは、そのような達観した精神にはとうてい到達できるはずがないのである。それから30年近くたっているのに相変わらずで、この年になってもそれは変わらない。

  トーナメントに参加するということは、大会が開催される河川に通って下調べすることも含まれる。そうして、あちこちの大会に参加していると、当然ながら広瀬川からは遠ざかることになる。そのうちに、少しは勝つようになると、行動範囲はいっそう拡がることになって、北は岩手県のの閉井川、秋田県の桧木内川、南は岐阜県の長良川、板取川にまで出かけるようになる。
  ただの安給料取りが長良川にアユ釣りに行くには、トーナメントで東北代表になったというのが、最良のエクスキューズだったのである。アユ釣りが好きなだけで、長良川まで出かけたいなどということを、妻に向かって言うことなんてできなかったのである。今だって、想像ができない。そんな勇気は私にはない。

  もう一つの理由は、年をとって人並みに仕事が忙しくなったことである。ただ忙しいだけといううちは、何とかごまかして釣りができていたのであるが、それなりに職責が重くなってくると、さすがに疲れてヘロヘロになっての月曜出勤というわけにはいかなくなったのである。もちろん、目の前の広瀬川での釣りさえも無理なのに、トーナメントなんて問題外である。この期間は、魚釣りばかりでなく、好きな山歩きも同様の憂き目に合うのである。

  そうして、待ちに待った定年退職である。あれもこれもと、やりたいことを数え上げながら待っていた定年、やっと広瀬川に戻って来たのである。

【広瀬川の特徴】

  広瀬川のことをどう記述したらよいのだろう。私はあまり広瀬川のことを知らない、と思うことがしばしばである。「論語読みの論語知らず」なのである。私は広瀬川での「魚釣りのこと」しか知らないのだと思う。

  広瀬川は中小河川である。水量は多くなく、川に立ち込み、川を渡渉するヤマメ釣りやアユ釣りには手頃なサイズの川である。最大の特徴は、100万都市のど真ん中をヤマメやアユの生息に適した中流域として流れ下っていることであろう。
  東北の背骨、奥羽山地を分水嶺としながら海までの流程が短いことも、広瀬川が源流から河口まで短く畳み込まれたような形状になっていて、それが仙台市内でも切り立った崖を形成して流下している特徴となっている。ヤマメ釣りやアユ釣りにとっては、この川の形はたいへん結構なものなのである。

  東北大学名誉教授の庄子貞雄先生 [2] が、アユ友釣り師の立場から広瀬川について述べられている [3]。少し長いが、引用しておく。

 「広瀬川は、幹川延長40km、311平方kmを持っている。主な流入河川が10本あり、その中で一番大きい大倉川の上流には多目的の大倉ダムが1961年以来稼動している。大倉ダムでも近年水質の低下が注目され、釜房ダムほどではないが、放流水が広瀬川の水質とアユ漁に深刻な影響を及ぼすようになった。特に濁ったダム水が2002年のようにアユシーズン初期から2ヶ月も放流され、アユの友釣りに大きな支障をきたすようになった。
  広瀬川の年間平均流量は、中流域の郷六で16立方m/秒である。天然アユは、その昔河口から約39kmの仙台ハイランド橋の直上鳳鳴四十八滝までそ上した。しかし16年に建設された熊ヶ根の三段堰(広瀬川本流と大倉川合流点の直上の砂防堰)は、魚道がないため、それ以後天然アユは、これを越えてそ上することは全くなくなった。私が三段堰の上流で毎年釣り上げている、最良質のアユは、漁協が放流したものである。幸い宮城県仙台土木事務所は、平成17年度よりアユにやさしい全面魚道の設置に着手することになり、私の長年の願いがかなうことになった。
  広瀬川は名取川とほぼ同様の特徴を持っている。上流(河口より約35km三段堰の上手)では、平常水時では瀬幅が10m前後、20m前後である。河床のタイプや底質も良く似ている。上流域では勾配が大きいので連続した早瀬があって深みに(小さい淵)があり、平瀬があるといった具合である。早瀬は今日でも大水で堆積物の移動が起こり、流路の変化や岩盤の露出が進む。

  広瀬川の中流域の上半部(三段堰から河口から約21kmの北堰の区間)は、昔から広瀬名取川全域の中でアユの棲息地として、また友釣りの場として最良であった。流路が安定していて、早瀬-淵-平瀬の単位が大きく、安定した巨石を河床にもっている所が多く、アユがよく育つ条件となっている。中流域の下半分〔北堰から河口から11kmの愛宕堰の区間〕では発電用水の取水のため、アユシーズンに水位低下あるいは瀬切れする流域と発電用水が本流に放水され、平常水位が高い流域に分けられる。広瀬川の友釣り風景がよくテレビで放映される場所は後者である。
  下流域(河口から約11kmの愛宕堰の下手)特に郡山堰の下手は、名取川の六鄕堰と同じく砂利採取で河相が大きく変化してしまい、友釣りに適する場所も少ない。
  広瀬川の主な河川工作物としては5つの堰と1つのダムがある。下流の郡山堰の下手では、よく瀬切れがおき多量のアユやハヤなどがへい死することがあった。この状況は、よくテレビでも放映され、市民の同情をあつめていた。一方水量が多いときには、多くのアユがこの堰に何度飛びついても、そ上を果たせず、これを見守る人達は魚道の不備を歎く。この堰堤の魚道改修は、広瀬川での天然アユ再生の1つのカギとなっている。
  なお国土交通省東北地方整備局は、2002年(平成16年)に、郡山下流での瀬切れ対策として、名取川から環境用水を導入する事業を完成した。しかしせっかく瀬切れが解決しても上記のように不適切な魚道のため、アユのそ上障害は、未解決である。」

  広瀬川の特徴として、ずっと私が感じてきたことがある。私は、広瀬川以外の河川へもけっこうアユ釣りで出かけているほうだと思う。少し抽象的な、感覚的な問題かもしれないが、そのような他河川(アユ釣りで知られた河川)と較べると、どうも広瀬川はあまり愛されていないのではないかと感じてきた。
  関東や関西では、アユ釣りが観光資源であることもあって、明らかに意識的に政策的に大事にされている。東北の小さな町を流れる河川では、川が生活の場に占める比重が大きいことや、素朴な郷土愛的な感じで愛されているという実感がある。


Photo 2  冬の朝、広瀬川と仙台城趾 (大橋、2008/12/31)

情念のさんざめく川うたう河などなかりける冬の橋梁
               福島泰樹 [4]

  それに較べて、広瀬川に対して仙台市は大きすぎるのである。現状では、経済的な意味でも広瀬川の意義は仙台市全体から見れば微少であろうし、観光経済が広瀬川に依存している度合は、巷間言われるほどとは思えない。   
   その土地の人々に愛されている川の特徴は、川にアプローチする小道がいたるところにあることではないかと思っている。釣りかもしれないし、そうでないかもしれないが、何かにつけて人は水辺まで行くことが多いのであろう。
  ひるがえって、広瀬川では、河川公園があるところでは、たしかに水辺に近づくことができる。けれども、それ以外では、薮に阻まれて水辺に近づくことがむずかしい。市内では、外来種のアレチウリやキクイモ、セイダカアワダチソウが岸辺に繁茂している。
  昔はもっと小道もあったし、礫石の河原がもっと広がっていたのである。これには、泥砂の堆積による寄り州の発達の影響も大きいだろうが、人が日常的に川に接して暮らしていれば、川へ続く小道はなくならないのである。そのような土地の人に愛されている川をいくつも見てきた。もちろん、広瀬川を愛している人が大勢いることは知っている。広瀬川を論じ、環境を語る人が多くても、日々の暮らしのなかで広瀬川の水辺と関わりを持つような人々はそんなに多くないのではないかと思う。

   ゆったりと川の流れる村で生まれ
   わたしも その水で産湯をつかった
   わたしの骨格と血と肉は 川がくれた
   コイやウグイやアユやシジミでつくられたものだ
   わたしは今 ほそい踵の靴をはき
   都会の固い舗道のうえを歩いているが
   踝は ふくらはぎは
   つめたくて心地よかった水の感触を覚えている
                   新川和江「砂浜」部分 [5]

  現在、旧仙台市内の牛越橋から下流では、寄り州の堆積土砂の撤去が順次行われている。最近のこのような工事は、少しは環境に気を遣っているようで、大きな樹木をところどころに残していたり、広瀬名取川漁協の要請もあって、撤去する土砂から選別した大きい礫石は川に残すようにしているようである。

  「少なくともループルバスが通り、国際会議に出席なさる方々が歩く大橋付近にだけは、多少とも広瀬川の面影、「瀬」の復元を残すべく」 [6] 大橋の下流の中州、寄り州の土砂撤去作業は、だいぶ前に行われている。この工事で、大橋下流には中州はなくなり(小さくなり)、左岸側の背の高いブッシュも消えて、浅い瀬が広がることとなった。
  ただし、以前の右岸側の大石がたくさん入っていた深い瀬が消え、アユ釣り場としてもヤマメ釣り場としても興味は半減した。確かに「アユは瀬につく」といわれるが、実際のアユの生態全体にとっての環境としては、深い瀬も、淵も必須なのである。このあたりでヤマメを探ったことがある。やや深い右岸よりで18cmクラスが2尾のみであった。このあたりではずいぶんと小さい。おそらく、大ヤマメは大橋上流の五間淵や下流の早坂淵に避難しているのだろう。

   土砂撤去後の河原には、さっそく雑草の繁茂が始まっているが、水辺に通じる小道が増える兆しはない。このような都市河川では、管理され、準備された場所でしか、人々は川に近づくこともしないようである。ミシェル・フーコー風に言えば、日々の暮らしに張り巡らされた管理権力に従順に従うべく、訓馳(discipline)されているということか。

  例外もある(いる?)。今年の8月下旬の早朝、大きな淵の左岸側でアユ釣りをしていたとき、漁協組合員の知人が対岸の薮から現れ、腰まで水に入って、やおら釣りを始めたのである。道がないはずの薮岸であったが、後日確認すると、堤防の斜面に生えている真竹までも切り倒して、細道ができているのであった。ただし、その道を利用したのは、私の知るかぎり、彼と彼の釣りを見物にきた別の漁協組合員の二人だけである。
  真夏の渇水期、瀬の垢ぐされで淵に集まってくるアユを狙う釣りのために伐り開かれた道である。20日ほど一人(二人?)が利用して終るのである。 きっと秋の終わりにはふたたび薮のなかになる。来年もまたほんの短期間、現れるのかもしれない。
  たしかに、そんなふうに小道が突然、出現することもあるけれども、どこにできるかはたぶん彼の気分次第なのである。でも、そんな開拓者がたくさんいると楽しいだろうなと、期待はしているのである。

(2010/10/20)
  1. 「日本の古典 3 萬葉集 二」(小学館 昭和59年) p.227。
  2. 現代歌人文庫25 「福島泰樹歌集」(国文社 1980年) p.80。
  3. 東北大学農学部土壌立地学講座教授だった庄子貞雄先生は、宮城県内水面漁場管理委員会の委員、会長を長年つとめられた。
  4. 庄子貞雄「アユの友釣り」(今野印刷 2006年) p. 10。
  5. 「詩集 いつも どこかで」『新川和江全詩集』(花神社 2000年) p. 711。
  6. 江刺洋子、佐藤忠幸、江刺洋司「広瀬川ルネサンス」(本の杜 2005年) p. 116。