ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <川2>


〔水行・広瀬川 2〕 広瀬川へ

【私にとっての広瀬川】

  それでは、「私にとっての広瀬川とは」と問いを設定するとどうだろうか。端的にいえば、私は広瀬川を愛しているのだろうか、ということである。これは難しい。微妙である。若干の留保がある。

  朝、暗いうちに目覚めて、私は、今日1日の天気予報の時刻変化を確認する。それが1日の初め。犬と広瀬河畔を散歩しながら、空を見、川の水を見、気温を直に感じて、ヤマメ釣りかアユ釣りか、場所はどの辺にするか、午前、午後、それとも夕方に釣るか、を考える。たいてい、1回の入川は2~3時間、その1回で終わるときもあれば、興がのって、午後や夕方にもう1度出かけることもある。

   雨のふる日の川はさみしい
   忘れた歌もなんだかさみしい

                寺山修司「雨傘」部分 [1]

  雨の日は、本を読みあきては、2階から広瀬川の水況を眺めて、明日以降の釣行を想像したりして過ごす。そのような現在の暮らしのありようをそれなりに愛してはいる。そして、その暮らしのありようの前提、基盤としての広瀬川を大事だと思っていることは、確かである。

  私も例外ではないのだが、アユの友釣りの好きな釣り人は地元の川ばかりではなく、よその川、他県の川へ出かける。コロガシや投網の人が他県まで出かけることはない。ほとんどの河川では禁止漁法だからである。
  近県では、山形県の寒河江川、小国川、秋田の桧木内川、玉川、米代川、岩手の気仙川、閉井川、雫石川などでは宮城ナンバーの車が河原によく停まっている。小国川などでは、関東から観光バスを仕立てて団体の友釣り客がやってくる。若い頃通い詰めてお世話になっていた栃木県那珂川の釣具店のご主人が団体の世話人で、数十年ぶりの挨拶を交わしたこともあったのである。

  さて、広瀬川には他県からの友釣り好きがやって来ているのだろうか。私も他県ナンバーの釣り師の車を見ているので、絶無ではないことはわかる。けれども、山形県の小国川などと較べたら、「それはゼロである」と断言しても近似としてはかぎりなく正しい。
  理由は簡単である。単一漁協が管理する広瀬川と名取川では、ほとんどの場所で投網とコロガシが正当な漁法として認められているのである。地元の釣り師であれば、どの辺なら友釣りは大丈夫という情報が十分なので問題はないだろう。

 Photo 3
澱橋上流の友釣り   (2010/9/26)

 この時期は、そろそろ落ち鮎の季節で、投網、コロガシは下流部へ向かっている。澱橋上流。

石は水にうつくしく鮎は木の葉とおちてゆく
   荻原井泉水 [2]

  どこか遠くの川で鮎がよく釣れるらしいという情報を得て、同時に、そこでは投網やコロガシも普通に行われているという情報も一緒に伝えられているとき、少なくとも私だったらそんな川にわざわざ出かけることはない。
  さいわいなことに、広瀬川以外の川ではほとんどそんなことはないので、仙台に住む私自身がそのような支障で遠征釣行をあきらめるという結果になることはほとんどなかったのだが。

  忘れられない経験がある。関東や関西ではずっと開催されていたアユの競技大会が、ようやく東北の河川でも開催され始めた頃の話である。東北の中頃に位置し、高速を下りてすぐに行ける広瀬川は、東北一円から参加者が集まるトーナメントの東北地区大会会場に最適ということで、ある大手釣具メーカーからその会社のインストラクターを通して問い合わせがあった。
  そのような趣旨で、私が広瀬・名取川漁協と交渉したのだが、最終的には断られて大会は実現しなかった。そのときの漁協理事の言葉は、「全国的に恥をさらすことになるのは困る」というものであった。少なくともその理事は、全国的な状況と広瀬川の釣りの事情が大きく乖離していることを知ってはいたのである。

  このような事情を、仙台の釣り文化、鮎漁の伝統という人もいるが、理由は比較的簡単なのである。全国のどこの河川だって、初めから友釣りだけが伝統漁法として行われてきたわけではないだろう。アユ資源の変化や、河川の自然環境変化、河川資源維持経済の時代変化などを通じて、知恵を絞り、変革の苦痛を耐えながら現在に至っているはずである。伝統の名のもとに無為、無策ではなかったということである。

  さて、広瀬川はどうなのか。広瀬川の魚資源の処分(漁のルール)の方法を決める権限は、広瀬名取川漁業協同組合に属している。組合員が守るべき行使規則も、一般の釣人が守るべき遊漁規則もこの組合の理事会、総会を通じて決定される。
  組合員はざっと1000人ほどであるが、そのうち正組合員がやはり概数で150人くらいである。議決権はこの正組合員だけにあり、残りの850人ほどの準組合員は、正組合員と同額の組合費(行使料)を納入することを義務づけられながらいっさいの議決権がないという、民主国家(のはずの)日本では非常に珍しい義務と権利の決定的な格差が公然と認められている(水産業協同組合法に基づく)組織である。一種の代議員システムのようにも見えるが、準組合員が意見を表明する場所も機会も、制度的には存在しない。

  広瀬名取川漁協組合員の構成は、70~80%が投網をもっぱらの漁法としている。残りは竿釣りだが、その大半はコロガシである。名取川河口でアサリ、シジミ漁を行うごく少数の職業漁師を除けば、アユもヤマメもその他の魚種についても組合員といえども実態はすべて遊漁である。
  これは、太平洋戦争敗戦後、漁業法、協同組合法に基づいて漁協を立ちあげる際、広瀬川、名取川の地元で(趣味として)魚釣り、投網漁をしていた人を集めて組合が結成された経緯によっている。当時投網をする人が多かったのは事実であろう。
  組合員の拡大、新旧交代に際して、投網は投網の人を勧誘し、竿釣りの人は竿釣りの人を入会させるので、前述の構成比はずっと変わらないということである。この構成比で、漁のルールを「民主的」に決めるのであるから、おのずから結果は明らかなのである。

  問題は組合員の構成比と、世間一般の魚釣りを趣味とする人々との構成比が決定的に異なっていることである。2009年の実績で広瀬名取川の年間遊漁券購入者(一般の遊漁者)の96%強は竿釣りの遊漁者である。ところが、投網漁の遊漁者はたった4%弱である。組合員よりも圧倒的に多い(現在は他県の釣人には見向きもされないが、可能的には全国へ拡がりうる)一般遊漁者の希望や意見、釣人の志向性が反映されない仕組みができあがっている。
  とはいえ、このような問題に自覚的な理事や組合員もごく少数ながらいて、いろいろな提言、提案をしては、無視、却下、否決されながらも奮闘している。変化する芽は動き出してはいる、とは思っている。

  こんなことを書いている私も、実は広瀬名取川漁協のれっきとした古手の正組合員なのである [3]。若い頃には漁協の雑用のお手伝いをしたこともあったのだが、広瀬川から遠ざかっていた時期には、漁協からも離れていた。広瀬川に戻ってきたいま、漁協についても私にできることがありはしないか、手探りの最中である。

   広瀬川で釣りをしていて、極度にめげることがもう一つある。暑い夏の夕方、川の水に浸って鮎を釣るのは、最高の避暑のありようなのである。当然、強い夕立にあうこともある。火照った身にはシャワーも悪くないなどと思っていたら、とんでもない、川の水が汚れだし、悪臭におそわれるのだ。釣り糸には、汚水に溶けていたトイレットペーパーの滓が次々に張り付くのだ。
  悪夢のようなことが釣り人を襲ってくるのである。川に立ち込んでいる釣人にしか経験できないことではある。(自分でも見たくないし、他人にも見せたくないものだが、証拠写真はたくさん撮ってある。)

  かつて、仙台市の汚水、排水は広瀬川に流されていた。雨水と汚水は一緒に川に流れていたのである。時代の流れに押されて改善され、通常は広瀬川に汚水は流れなくなったものの、合流式の下水道のシステムであり、急激な降雨、増水に耐えられないため、広瀬川への下水排水口は閉じられないままであった。そのため、この21世紀になっても、夕立が降ると広瀬川を下水が流れていくのである。

  仙台市には1974年に制定された「広瀬川の清流を守る条例」があって、行政サイドでも広瀬川を愛し、大切にしているような形には一応なってはいるようではある。少し皮肉を言わせてもらえば、言葉の厳密で正しい意味では「広瀬川の清流を取り戻す条例」だとよかったのにと思うのである。
  とまれ、この条例には「功罪」ともにあるらしい。条例制定の経緯と「功」については、「広瀬川自然植物園ガイドブック」 [4] と「もっと知りたい! 杜の都・広瀬川」 [5] に、「罪」の部分については「広瀬川ルネサンス」 [6] に述べられている。このような本に描かれている広瀬川と、夕立に打たれながら川の中、水に囲まれて見る広瀬川のギャップに心は萎えてくるのである。

  それでも、また私は釣りのために広瀬川に入っていくのである。川から上がり、冷静になって考えれば、少し気分はおさまって、また釣人として生き返る。復活するのだ。

  激しい降雨に耐えられなくなった下水道システムは広瀬川に汚水を吐き出すのだが、その後には大量の雨水が後を追って排出され、かなりの速さで汚水を押し流すことになる。薄黒い(灰色と黒色の微妙な混合)の汚水のあとに黄土色の泥水の増水となって流れていく。汚水の滞在時間はかなり短いのである。それで、実際の影響は、見た目のショックに較べればかなり小さいと考えられるのである。

  「気持ち悪くて、市内で釣れた鮎は食べられない」というのは、感性の、ごくごく主情的な問題だから、これはしかたがない。しかし、「まずくて食べられない」とか「くさくて食べられない」という向きには、ちょっと異和を感じる。味覚もまた絶対的な数量化が難しい感覚的なものだが、相対的には評価できる。
  結論から言えば、「広瀬川のアユはうまい」のである。私は、アユやヤマメに似て、習性のように川の上流ばかり向いて暮らしているので、下流へはなかなか釣りに出かけない。霊屋橋下流、宮城県立工業高校裏、縛地蔵近辺でアユ釣りをしたのは、30年以上の経歴にもかかわらず、今年が初めてなのである。
  したがって、私が言いうるのは、「少なくとも縛地蔵より上流で釣れるアユはおいしい」ということである。いろんな川(私が釣行した範囲での)のアユと較べると、上の中くらいには位置している。

   広瀬川のアユより 明らかにおいしいと思ったのは、岩手県北上川の支流の和賀川、それも湯田ダムや湯田温泉の上流、鮎とイワナが一緒に泳いでいるような地域のアユ、それから新潟県で日本海に入る荒川の上流、山形県小国町地区のアユ、それに只見川支流の伊南川、そのまた支流の黒谷川 [6]のアユ、それくらいしかないである。
  天下の長良川のアユの味と較べられたら、話がもっともらしくなるのだが、残念なことに長良川の鮎を食べた記憶がない。いつもトーナメントの全国大会なので、鮎を食べるという余裕はないのである。下調べは釣り荒らさないようになるべく釣らない、釣った鮎は費用の足しに漁協に売るし、宿では必ずアユ料理は断るのが習い(安宿なので安い養殖アユを出されることが多いという経験による)なので、結局食べたことがないのである。

  広瀬川よりまずいアユの川は、たくさんある。かつて、川の名前を伏せて、食べ比べたことがある。妻が川ごとに区別して、塩焼きで出すのである。

   話さへかぐはしくなる鮎合せ   飴山實 [8]

  我が家ではそんな風流の極みのようにはいかなくて、 まだ小学生だった二人の子供が二人とも完全に食べることを拒否した川(のアユ)が二つある。友人、知人にそれとなく聞いてみても、誰でもやはりおいしくないという。
  その二つの川の名前は公表しない。アユ釣り師は、必ずしもおいしい鮎を第一として釣行するわけではない。その二つの川は、釣りの醍醐味という点では、かなり上位の川に属する。釣人が減って、アユ資源の維持に支障をきたしては私が困るのである。加えて、私の友人たちに恨まれるのである。

  繰り返すが、広瀬川のアユはおいしいのである。これは、私の見知っているアユ釣り師たちに共通している認識だと思う。広瀬川の環境や、環境行政、広瀬川に関係するもろもろには批判に値することがたくさんあるにちがいない。けれども、批判に舞い上がった勢いで、「広瀬川のアユはまずい、食べられない」と口走る人がたまにいて、それはそれで迷惑なのである。

  バブル景気がはじけ、釣りブームが終わって、漁協の収入減によってアユ放流数が減り、また、長期輸送用の薬品の使用禁止にともなう琵琶湖産アユの放流中止は、幾分アユ釣りを難しくした。さらに、銀ザケの淡水養殖の開始とともに、全国的に拡大したアユ冷水病の蔓延など、広瀬川(のみならず)のアユを取り巻く環境はずっと厳しさを増すばかりだった。
  そんな状況変化にもかかわらず、収入減に応じて放流数を半減せざるをえなかった広瀬名取川漁協は、、それ以外には何の取り組み、工夫もなくて、何十年も変わらない資源管理(厳密には変化に対応できないものは管理と呼ばない)を続けてきた。資源維持のための財政的課題を放置してきたのである。

  だが、今、アユ釣りの川として広瀬川は変わりつつある。同じ予算、同じ放流量でも、放流方法によってはアユ釣りが大きく変わることが証明されつつある。ここ、数年の広瀬川のアユ釣りは面白いのである。解禁当初から20cmクラスがたくさん釣れるのである。
  しかも、他河川が不漁でも、広瀬川は同じ好条件の釣りが数年続いている。これは、ごく少数の漁協理事、組合員の提言とボランティアでアユ稚魚の放流に知恵と労働が注がれた結果だということである。

  漁協の総会資料によれば、まず、「種苗混合無差別方式」で放流する。気候変動や冷水病などでの全滅を防ぐことや、河川内のさまざまな環境、場所にそれぞれが適応拡散して河川底面積を広く有効利用できる可能性の拡大などが期待されている。
  加えて、「早期分散放流方式」では、アユ種苗養殖業者の協力を得て、低水温に馴致させた種苗を従来より1ヶ月近く早期(4月中旬)に、しかも広瀬川では26カ所に細かく分散放流するのである。
  
  放流の細部も以前とは大きく異なっている。かつては、橋の上からホースを用いて水とともに一気に放流していたのである。アユは水面にたたきつけられることになる。さらに、場所によっては、淵にまとめて放流するのである。その方法ではアユが養殖場と同じようなプールに安住してしまう危険性を誘発する可能性が高い。
  現在は、すべて流れの中に、水面で静かに放流されるようになっている。流れのなかに放流された稚アユは、1匹残らず上流に遡上していくのである。

  このようなアイデアと努力は、とくに新規の資金を必要とするわけでもないし、先細りなっている漁協の資金力からいえば、ある程度は期待できるのではないかと思っておる。。

  Photo 4
 名取川深野橋の稚アユ
 放流風景 (2010/4/26)

 稚アユは大きなバケツに入れられ、流れの上まで下ろされ、水面に静かに放流される。橋のないところでは、バケツで何度も運び、流れに入って放流する。広瀬川も同様である。

 

 若鮎の二手になりて
 上りけり

     正岡子規 [9]

  2007年に始まったこのような放流の工夫は、標識稚アユによる放流アユの移動距離の調査や宮城県内水面水産試験場に協力しての放流魚と天然遡上魚の分布の調査などに基づいている。広瀬川の浅瀬で、20人ほどの漁協組合員が一斉に背中を丸めて蹲って、稚アユの背びれを一心に切り取っている風景はけっこういじらしくも、ほほえましいものがある。
  解禁1週間ほど前には、天然遡上魚と放流魚の比率分布と標識放流アユの移動分布調査のために、多くに地点で友釣りを行っている。1地点1時間で決められた範囲を調べ、直ちに移動して次に地点に移動するというくり返しで午後4時頃まで行うのである。車移動の時間を除けば、大半は移動のために崖を下りたり登ったり、河原を走ったりしていることになる。解禁前に友釣りができると喜んでいる向きもあるが、そういう期待の人はたいてい後悔することではあった。

  わずかずつではあるが、広瀬名取川漁協の遊漁券の売り上げが増加しているとのことである。半減した放流量をもとの水準に回復するには、まだまだ長い年月を要するだろうけれども、釣人が増えることは、とりもなおさず、広瀬川に強い関心をもつ人が増えることなので、私の期待はけっこうふくらみつつある。

【さあ、広瀬川へ

  そう思って、広瀬川を遡行することをイメージするのだが、 どうにも続かない。入っていない、見ていない広瀬川が多いのである。それは私の性癖にもよる。ある場所に入って、釣りをしたとすると、天才ならぬ身であれば、必ず、失敗、やり残しが生じる。それを解決しないと気が済まないので、また同じ場所に行くことになる。自ずと場所は限られることになる。

  そんな私の性癖のため、こんなこともあった。土用過ぎの暑い1日を深さ10~20cmくらいのチャラ瀬のアユを釣りをしたい一心で、山形県寒河江川に出かけたのである。寒河江川の最上川合流点の上流4~5km付近に理想的なチャラ瀬がある。ところが奥羽山地を越えると前夜の雨で、寒河江川は増水に濁りなのであった。チャラ瀬などどこにもないのである。
  河原で仙台からの友人3人組に会ったが、彼らは山形県を北上しつつ、条件のよい川を探すということであった。私は、そのまま自宅に戻ってきた。やりたいのはチャラ瀬の釣りである。それ以外に意味はない、と考えたのだ。釣りにおけるパラノイア的執着ではある。
  したがって、釣友たちには申し訳ないのだが、私の釣りの希望を満たすためには一人の釣行がよいと、いつも考えていたのだ。自分の釣りを突きつめようとすれば、おのずから一人の行いとして振る舞わなければならない時期が必要だった(と思っていた)。そのような性格だからトーナメントに走ったのか、トーナメントに夢中になっていたからそんな風になったのか、よくわからない。

  いまの私には、釣りのありようはおおいに変わったのである。釣れても釣れなくても、広瀬川をすべて見てみたいという気持が強くなっている。〈水行・広瀬川〉と称して、広瀬川のイメージを繋いでみようと思いたったのである。
  ただし、アユとヤマメである。昔のように源流域には行かないだろうし、下流域も自ずと関心が薄れる範囲がある。アユ釣りを始めた頃の狂気のような情熱はもうないけれども、持続的な意志のようなものはまだ残っているだろうと思っている。

   青年よ汝よりさきに死をえらび婚姻色の一ぴきの鮎
                        塚本邦雄 [10] 

  私は生き残っていて、とうぶん、釣りを続けるのである。

(2010/10/20)
  1. 寺山修司「詩集 五月の詩」(サンリオ 1995年) p. 97
  2. 現代日本文學大系95「現代句集」(筑摩書房 昭和48年) p. 486。
  3. 実はこの文章を書いた翌年夏に、正組合員を辞退した。
  4. 仙台市「広瀬川自然植物園ガイドブック」(仙台市健康都市建設推進事務局 昭和58年)。
  5. 水環境ネット東北(編集代表 新川達郎)「もっと知りたい! 杜の都・広瀬川」(ぎょうせい 2005年) p. 125。
  6. 江刺洋子、佐藤忠幸、江刺洋司「広瀬川ルネサンス」(本の杜 2005年) p. 88。
  7. 伊南川、黒谷川には、下山久伍さんに連れていっていただいた。私がトーナメントを志した頃、下山さんは関東を代表する名手として東西対抗戦など全国レベルの大会で活躍されていた。仙台に転勤後は、私の師匠の一人に(私の独断で)なっていただいた。現在は、会社を早期退職されて山形県小国川(舟形町)で、アユおとり屋さん、釣りガイドをしながら、小国川漁協の仕事にも熱心に取り組んでおられる。
  8. 「飴山實全句集」(花神社 平成15年) p. 125
  9. 「わが愛する俳人 第三集」(有斐閣 1978年) p.15。
  10. 「現代詩文庫501 塚本邦雄歌集」(思潮社 2007年) p. 60。