ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <書 抜き書きメモ9>

アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート
『マルチチュード /〈帝国〉時代の戦争と民主主義 (下)
幾島幸子訳、水島一憲、市田良彦監修、NHKブックス、2005年

第二部 マルチチュード(承前)

2-1 マルチチュードの軌跡

怪物登場――変幻自在の〈肉〉

人民に似た何かが合衆国やヨーロッパ、あるいはそれ以外の地域の社会的場面に出現したとしても、制度的左翼の指導者の目にはそれは何やら異形の存在、脅威を感じさせるものにしか映らない。ここ数十年の間に起きた新しい運動――「アクトアップ」や「クイア・ネーション」トイッタクイア・ポリティクスからシアトルやジェノヴァでの反グローバリゼーション・デモにいたるまで――は、彼らにとって理解不能かつ恐ろしいものであり、その意味では怪物(モンスター)なのだ。確かに近代の手法やモデルをもってすれば、今日の社会形態ばかりか経済発展でさえも、混沌として一貫性を欠いているとしか見えないのは事実である。出来事や事実はバラバラの不連続な像として瞬間的に生起しては消え、そこには一貫した物語としての展開はない。近代の目から見たポスト近代性とは、まさしく大きな物語の終焉といっていいものなのだ。(p. 17)

ノスタルジーとは、危険ではないとしてもせいぜい敗北の証にすぎず、排すべきものである。この意味で私たちはまさに「ポストモダニスト」なのだ。崩壊した近代の社会体や消失しつつある人民へのノスタルジーを一切排した視点から現代のポストモダン社会を眺めたとき、現在私たちが体験しているのは身体ではない一種の社会的〈肉〉、生きた実質としての〈共〉的な〈肉〉であることが見えてくる。……マルチチュードの〈肉〉は純粋な潜勢力、いまだ形をなさない生命力であり、この意味において常に生の充溢を目指すものとしての社会的存在の原質(エレメント)にほかならないのだ。(p. 17)

吸血鬼(ヴァンパイア)は、こうしたマルチチュードの〈肉〉がもつ怪物的かつ過剰で手に負えない特性を表すひとつの形象だ。……
ヴァンパイアの恐怖とはまず第一に、その過剰なセクシュアリティにある。 ……相手が男であれ女であれ、その首元にエロチックに噛みつき、異性愛的結合の秩序を揺るがす。……第二に、ヴァンパイアのもつ独特の繁殖メカニズムは家族の生殖秩序を揺るがす。……
だが現代のヴァンパイアはかつてのそれとは異なる。ヴァンパイアは今も社会のアウトサイダーであることに変わりないが、その怪物性は人びとに、自分たちも皆怪物(モンスター)――高校から追い出された者たち、性的倒錯者、社会的逸脱者(フリークス)、病理を抱える家庭のサバイバーなどなど――なのだと認識させる一助となっている。さらに重要なのは、これらのモンスターたちが新しいオルタナティヴな情動や社会組織のネットワークを形成しはじめていることだ。(p. 20)

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モンスターたちの侵入

ジル・ドゥルーズはモンスターが人間のなかにいることを見抜いた。彼によれば人間は自らの種を変容させつつある動物なのだという。私たちはこの言葉を真剣に受けとめる。モンスターたちは発展途上にあり、科学的方法はそれらに対処する必要がある。人間は自分自身を変容させ、同じくその歴史と本性を変容させる。問題はもはや自分自身を変容させるという人間の技術を受け入れるか否かではなく、それにどう対処するかを知り、それが人間にとってプラスに働くかマイナスに働くかを見分けることだ。モンスターたちのなかで愛すべきものは愛し、闘うべきものは闘うことが必要なのである。(p. 24)
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「〈共〉の生産」とは何か

私たちは言葉やシンボルやアイディア、共有された関係性といったものを基盤にしてのみコミュニケーションを行うことができるが、その結果、また新しい〈共〉的な言語やシンボルやアイディア、関係性が生み出される。今日、〈共〉は生産されるものであると同時に生産するものでもある。生産と〈共〉のこの二元的な関係性は、あらゆる社会的・経済的活動を理解するためのカギとなるのだ。(p. 26)

プラグマティストたちは主体性を日常の経験や慣習実践にあるとみなした。習慣とは実践状態にある〈共〉、すなわち私たちが連続的に生み出すと同時に私たちの行動の基盤となる〈共〉である。したがって習慣は、固定した自然法則と自由な主体的行動の中間に位置するものだ。あるいは、伝統的な哲学におけるそうした二元論に取って代わるものだと言ったほうがいいかもしれない。(p. 26)

習慣とは呼吸や消化、血液循環と言った生理的機能のようだ。当然すぎていちいち意識師はしないが、それなしには生きられない。しかし生理学的機能とは異なり、習慣や行為は人びとが共有する社会的なものである。習慣は他者との相互作用やコミュニケーションを通じて生産され、再生産される。したがって習慣は決して個人的ないし人格的なものにはなり得ない。個人の習慣や行為、主体性は、社会的行為やコミュに受けーションやともに行動することを基盤にしてのみ生まれる。習慣は私たちの社会的自然を構成するのだ。(p. 27)

 

ジュディス・バトラーは比類ないほど豊かで洗練された反身体理論を構築するとともに、行為遂行的(パフォーマティヴ)な構成プロセスを明確に論じている。バトラーは性的差異という自然的な概念構成を厳しく批判する――すなわち、ジェンダーは社会的に構成されたものであるが性的差異は自然なものであるとする従来のフェミニズムの考え方に、強く異を唱えるのだ。性を自然なものとみなす考え方は、「女性」の社会的・政治的身体[=「女性」という社会的・政治的集団]を自然なものとみなす考え方でもあり、それは、人種やセクシュアリティの点で女性の間に存在するさまざまな差異を副次的なものにしてしまうとバトラーは主張する。とりわけ性を自然なものとみなす考え方は異性愛を規範化し、同性愛者の立場を下位におくものだという。バトラーによれば、性は自然なものではなく、「女性」という性別化された身体も自然なものではない。それらはジェンダーのように毎日遂行(パフォーム)されているというのである。女性が女らしさを、男性が男らしさを日常生活のなかで演じる(パフォーム)ように、あるいは性的逸脱者がそれとは違うものを演じて規範を壊すように。(p. 30)

……バトラーは繰り返し、そのようなパフォーマンスは過去の行為の集積の重みと社会的相互作用の両方によって制約を受けると反論している。習慣と同様、パフォーマンスは固定した不変の自然を含むものでも、自発的な個人の自由を含むものでもない。それは両者の中間に位置する、協働とコミュニケーションにもとづいた〈共〉行動の一種なのだ。 (p. 31)

……習慣というプラグマティズムの概念とは異なり、クイアな行為遂行性は近代的な社会体の再生産や改革だけに限定されるものではない。性(セックス)をはじめとするあらゆる社会実態は私たちの日常生活でのパフォーマンスを通じて不断に生産と再生産を繰り返していると認識することには、私たちがパフォーマンスの仕方を変えることで、それらの社会実態を覆して新しい社会形態を創出することが可能だという政治的意味が含まれている。クイア・ポリティクスはそうした反逆と創造の行為遂行的な集団的プロジェクトの格好の例だといえる。それは同性愛的アイデンティティの肯定ではなく、アイデンティティ一般の論理を覆すものだ。 (p. 31)

(パオロ・)ヴィルノによれば、工場労働者は「しゃべらない」のに対し、非物質的労働に従事する者はおしゃべりで群れをなし社交的だという。非物質的労働はしばしば言語やコミュニケーション、そして情動的な技術を伴うが、より一般的には言語的パフォーマンスの主要な特徴を分かちもっているという。第一に、言語は常に〈共〉のなかで生み出される。言語は個人によって作られることはありえず、常にコミュニケーションや協働を伴う言語共同体によって作られる。第二に、言語的パフォーマンスは不断に変化する環境のなかで、過去の実践や習慣にもとづいて革新を行う能力に依拠している。 (p. 32)

ヴィルノは言語的行為遂行性と経済的行為遂行性を結びつけたが、これは言語と〈共〉の三つの関係を浮き彫りにしている。第一に話すという人間の能力は〈共〉、すなわち私たちが共有する言語にもとづいていること。第二に人間の言語行為は〈共〉を創出すること。そして第三に発話という行為自体が対話やコミュニケーションという形で〈共〉のなかで行われるということだ。この言語と〈共〉の三重の関係は、非物質的労働一般の特徴を示している。 (p. 33)

〈私〉と〈公〉の対立を超えて

……反テロリズムや反乱鎮圧の論理においては、最終的にセキュリティが何よりも優先されなければならないため、〈私〉という者はそもそも存在しない。セキュリティは〈共〉の絶対論理であり、あるいはもっと正確に言えば、〈共〉全体を管理の対象とみなす倒錯なのだ。 (p. 35)

民営化は、グローバル経済を支配する主要大国の戦略を決定する新自由主義イデオロギーの中心的要素である。新自由主義によって民営化される〈公〉とは一般に、鉄道や刑務所、公園など、従来は国家によって管理されていた土地・財産や事業体を指す。……すべての財は生産的な利用価値を最大限に高めるために私的に所有されるべきだとまで主張する経済学者もいる。簡単に言えば、社会的領域ではすべてを〈公〉にして政府が自由に監視し管理できル傾向があり、経済的領域ではすべてを〈私〉にして所有権の対象にする傾向があるということだ。(p. 36)

これ(「所有的個人主義」というイデオロギー)は利害関心や欲望から魂にいたるまでの主体のすべての側面や属性を、その個人が所有する「所有物」と位置づけ、主体のもつあらゆる側面を経済的領域に押し込めようとする立場である。こうして〈私〉の概念は、主体的な者も物質的なものも含めて人間のあらゆる「持ち物」を十把一からげにしてしまうのだ。一方の〈公〉もまた、国家による管理と、〈共〉として維持され〈共〉によって管理運営されるものとの重要な区別を曖昧にしてしまう。(p. 36)

共同体という語は、住民や住民の相互作用の上にさながら主権権力のように屹立する道徳的統一体を指す言葉としてしばしば使われる。だが〈共〉は伝統的概念としての共同体も公衆も意味しない。それはさまざまな特異性間のコミュニケーションにもとづき、協同的な社会的生産プロセスを通じて現れるものである。個が共同体の統一性のなかに溶解してしまうのに対し、特異性は〈共〉によって減じられることなく、〈共〉のなかで自由に自己を表現するのだ。 (p. 38)

これらの共通の財やサービスの民営化に、旧来の〈私〉対〈公〉という対立の構図に陥らずに抵抗するにはどうしたらよいだろうか?
こうした状況において〈共〉にもとづく法制理論または法理論が果たすべき第一の努めは、「すべては市場によって決まる」という新自由主義の原理の虚偽性を明らかにするという、消極的なものである。もっとも狂信的な新自由主義のイデオローグ(この場合は自由至上主義者(リバタリアン))であっても、この原理が包括的であるとは言い切れまい。公共財や公共サービスの民営化は必ずしも全面的な民営化にいたるものではなく、なんらかの形で「一般の利益」や「公共の利益」を維持するための法律が――たとえ公共サービスの有用性や利用を保証する形式的な法規という形にすぎなくとも――必要であることは誰もが認めるはずだ……。(p. 39)

ここで必要なのは――そしてこれが〈共〉にもとづく法理論の第二の努めになるが――「一般の利益」や「公共の利益」という概念を、これらの財やサービスの管理運営への共同参加を可能にする枠組みと置き換えることだ。したがって私たちは、ポスト近代における生政治的生産への転換と結びついた法的問題について、それは公共の利益からさまざまな社会的同一性にもとづく私的管理へと逆行するものではなく、反対に公共の利益から多様な特異性にもとづく〈共〉の枠組みへと前進するものだと考える。 (p. 40)

……〈共〉は新しい主権形態すなわち民主的な主権(より厳密に言えば、主権を転位させる社会的組織形態)を特徴づけるものであり、そこではさまざまな社会的特異性が自らの生政治的活動を通じて、マルチチュード自身の再生産を可能にする財やサービスを管理するのだ。これは公共の事柄(Res-publica)から〈共〉の事柄(Res-communis)への移行を構成するものだといえよう。 (p. 40)

……国民国家間の関係を統治してきた国際法という契約パラダイムは、今や新しいグローバルな秩序形態と、〈共〉性の原理を前提とする(だがすぐにそれを神秘化しようとする)〈帝国〉の主権によって突き崩され、変形しつつある。(p. 42)

国内法においては特異性と〈共〉の概念が、〈私〉と〈公〉を超えた新たな社会的関係の法的枠組みの作成に寄与し、自由かつ平等に活動する多種多様な特異性の協働をもたらす。それと同様、国際法においても特異性と〈共〉が、この地球という惑星上で私たちが平和で民主的に共生していくための唯一可能な基礎を提供するのだ。(p. 43)

グローバルな闘争サイクル

ひとつ明らかにしておかなければならないのは、マルチチュードは自然発生的に政治勢力として出現するわけではなく、マルチチュードの〈肉〉は相反する一連の条件を含んでいるという事実である。すなわち、マルチチュードは解放を目指しうる反面、新たな搾取と管理の体制に捕獲されうるということだ。 (p. 50)

……窮乏は怒りや憤激や敵対性を生むことはあっても、富の基盤なしには反乱へと転換する基盤となる。つまり知性や経験、知識や欲望の剰余を基盤にしてのみ反乱は起こるのである。確かに私たちは貧者を、今日の労働主体の範例的形象として提示している。だがそれは貧者が空虚で富から排除されているからではなく、彼らが生産回路のなかに含まれ、潜勢力に満ちあふれているからであり、しかもその潜勢力が常に資本の収奪やグローバルな政治体の管理を超えるものであるからだ。この〈共〉的な剰余こそが、グローバルな政治体に対抗しマルチチュードを擁護する闘いの最初の支えとなるのである。 (p. 50)

世界中で産業労働者や学生、反帝国主義ゲリラたちの闘いが爆発的に拡大した一九六八年以降数十年間、闘争の新しい国際的サイクルは見られなかった。だからといってこの間、重要な意味をもつ反乱がまったくなかったというわけではない。実際、重要な反乱はいくつもあったし、きわめて暴力的なものも少なくなかった……。だがこれらの反乱のなかには、闘争サイクルを形づくり、〈共〉を地球全体で幅広く動員したものはひとつとしてなかった。 (p. 53)

闘争の新しい国際的サイクルがついに登場したのは、一九九〇年代末、グローバリゼーションの諸問題をめぐってのことだった。闘争の新しいサイクルの発端となったのは、一九九九年にシアトルで開かれたWTO(世界貿易機関)閣僚会議に対する抗議行動である。
……ある国でおきたIMFの財政緊縮政策に反対する暴動と、別の国で起きた世銀のプロジェクトに反対する抗議行動、さらに別の国で起きたNAFTAに反対するデモ――突然、それらすべてが共通の闘争サイクルの一部であることが明らかになったのだ。 (p. 54)

これまでのところ、この闘争サイクルが少なくとも数の点で頂点に達したのは二〇〇三年二月一五日、合衆国主導のイラク戦争に反対するために、世界各都市で何百万もの人びとが連携して抗議行動に参加したときだった。イラク戦争は、この闘争サイクルがそもそも対抗相手としていたグローバル権力の究極的審級を現わすものだった。 (p. 55)

一九九九年のシアトルでの抗議行動が論評者たちをもっとも驚かせ当惑させたのは、それまで対立関係にあると考えられていたグループ――労働組合員と環境保護活動か、教会グループとアナーキストなど――が行動をともにし、しかもそこには、互いの差異を軽視あるいは無視する中心的、統一的な構造はなんら介在しなかったことだった。(p. 58)

……9・11の攻撃以降メディアに登場するコメンテーター――とりわけこうした運動にただならぬ脅威を覚えている者たちのなかには、グローバル化への抗議運動の恐ろしさとテロリストの攻撃の恐ろしさとを同一視する者が少なくなかった。どちらも支配的なグローバル権力構造を暴力的手段を用いて攻撃するという点で同じだというのである。デモのさいにマクドナルドのガラスを割る暴力と、三〇〇〇人近い人間を一度に殺害する能力とを同列に扱うこと自体ばかげている……。 (p. 59)

新しいグローバルな闘争サイクルとは、〈共〉を開かれた分散型ネットワークの形で動員するものであり、そこに管理を行う中央は存在せず、すべての節点(ノード)は自由に自己表現を行う。専門家によればアルカイダはネットワーク組織だというが、同じネットワークでもその特徴は正反対だ――アルカイダには指令を出す中枢部があり、その組織は厳密な階層秩序をもった秘密組織である。
さらにその目標とするところもまさに正反対だ。アルカイダは宗教的権威のコントロールの下に旧い地域的な社会集団と政治集団を復活させるために、グローバルな政治体を攻撃する。これに対して反グローバリゼーションの闘いはより自由で民主的なグローバル世界を創造するために、グローバルな政治体に対抗しようとする。(p. 60)

第三部 民主主義

3-1 民主主義の長い道のり

〈帝国〉時代における民主主義の危機

「社会民主主義」
民主主義はグローバリゼーションによって弱体化されるとする……。民主主義を守るために国民国家はグローバル化を推進するさまざまな力から一歩引いたところにいるべきだと主張する。……
……グローバル化は単なる神話であるにもかかわらず、そのイデオロギーは民主的な国家政治戦略を麻痺させていると彼らは言う。グローバル化とその容赦のなさにまつわる神話が、経済の管理に向けた国家の取り組みに反対する議論に利用され、新自由主義的根嶺井かプログラムや福祉国家の破壊などを促進しているというのである。……
9・11の攻撃からイラク戦争に至る一連の出来事によってもっとも大きな打撃を受けたのが、この社会民主主義的な立場だった。グローバルな戦争状態がグローバリゼーションを不可避にした(とくに安全保障・軍事面において)かのように見えるため、そうした社会民主主義を掲げる反グローバリゼーションの立場はどれも成り立たなくなってしまった。(p. 80)

「自由主義的コスモポリタニズム」
……グローバリゼーションは民主主義を促進するという見方に立つ……。彼らの議論は資本主義的グローバリゼーションそのものを批判するのではなく、あくまで経済に対するより制度的・政治的規制のあり方を探るものだ。……グローバリゼーションはより大きな経済的発展だけではなく、より大きな民主主義実現の可能性も約束するが、その第一の理由は、国民国家の規制からの相対的自由が獲得されることにあるというのが彼らの主張であり、この点で社会民主主義的な立場との違いは明確である。……
グローバルな戦争状態はこの自由主義的コスモポリタニズムを主要な政治的立場にのし上がらせ、今や合衆国による世界支配に対する実行可能なオルタナティヴはこれ以外にないかに見える合衆国の単独行動主義という現実に対抗するコスモポリタン的政治の主要な手段は多国間主義であり、国連はそのもっとも強力な装置である。(p. 81)

「新保守主義」
今日の主流メディアに偏在するこの(合衆国のグローバル・ヘゲモニーの恩恵と必要性を説く)立場は通常、グローバル化が民主主義を促進するのは、合衆国のヘゲモニーと資本のルールそのものの拡大が必然的に民主主義の拡大を示唆するからだと考える。一方には資本のルールは本質的に民主的であり、したがって資本のグローバル化イコール民主主義のグローバル化であると主張する論者がいて、他方、合衆国の政治システムと「アメリカ的生活様式」は民主主義と同義であり、したがって合衆国のヘゲモニーが拡大することイコール民主主義の拡大であると主張する論者もいる。(p. 82)
グローバルな戦争状態はこの立場を高みに押し上げた。ブッシュ政権の強力な基盤をなしてきた新保守主義(ネオコン)イデオロギーは、合衆国は潜在的脅威を示す「ならずもの国家」の政権を転覆し「善良な」政権をうち立てることによって世界の政治地図を積極的に塗り替えるべきだとの考え方に立つ。合衆国のグローバルな介入政策は単に国益だけでなく、自由と繁栄を求めるグローバルで普遍的な要求にもとづくのだと米政府は強調する。合衆国は世界全体のためにこそ、多国間協定や国際法の制約なく単独主義的に行動しなければならないというのだ。(p. 83)

「伝統的保守主義」」
彼らはグローバリゼーションが民主主義を妨げるという点で社会民主主義者と立場と見解を一にするが、その理由はまったく異なる。グローバル化は伝統的、保守的な価値観を脅かすというのがその主な理由である。はグローバル化を推進するさまざまな力から一歩引いたところにいるべきだと主張する。(p. 84)
伝統的価値観に立脚する保守主義は現在では、グローバリゼーションに対する懐疑論や、合衆国のヘゲモニーが自国と世界にもたらすとされる恩恵に対する悲観論という形をとるのが一般的である。(p. 85)

まず第一に、民主主義は今日、国民国家から地球全体という規模の飛躍的変化に直面しており、その結果、近代以来の伝統である民主主義の意味や実践から離れてしまったという点だ。……民主主義はこの新しい枠組みと新しい規模に合わせて、今までとは違う形で構想され、実践されなければならない。これが、先にあげた四つの立場がいずれも不十分であることのひとつの理由である。(p. 85)

……第二のより複雑かつ根本的な理由は、それらが民主主義について語っているにもかかわらず、常にその価値を低めたり先延ばしにしたりすることにある。今日の自由主義的特権階級に属する人びとは何よりも自由を優先し、民主主義を後回しにしがちである。俗な言い方をすれば、自由第一,民主主義は二の次という考え方はしばしば私的所有権の絶対的支配につながり、そこでは各人全員の意志は軽んじられる。自由主義的特権階級が理解していないのは、生政治的生産の時代にあっては少数の――あるいは多数であっても――人間の美徳を基盤とする自由主義と自由など不可能になりつつあるということである(私的所有権の論理でさえ生政治的生産の社会的性格によって脅かされている)。今日、自由と民主主義――この二つはもはや不可分である――の唯一の基盤は、全員の美徳以外になくなりつつあるのだ。(p. 86)

抗議行動に参加する人びとは冷戦の両陣営によって上から推進された民主主義の概念をきっぱり拒否している。民主主義は単なる資本主義の政治的な側面でもないし、エリート官僚による統治でもない、と。また民主主義緒は軍事介入や体制変更(レジーム・チェンジ)によっても、現代のさまざまな「民主主義への移行」モデルによっても実現できない。そうしたモデルは通常、多かれ少なかれラテンアメリカ式軍事独裁の形態にもとづくもので、民主的なシステムではなく新たな少数独裁政治を作り出すのがオチであることが示されている。(p. 86)

全員による全員の統治――未完の民主主義プロジェクト

近代初期のヨーロッパと北米で民主主義を唱道した人びとは、民主主義はアテネのポリスのなかという限られた範囲であればまだしも、近代国民国家の広大な領土で実現するのは不可能だと主張する懐疑論者との対決を迫られた。ひるがえって今日のグローバル化時代の民主主義の肯定派は、国民国家という限られた範囲でならまだしも、グローバルな規模では民主主義はとうてい実現できないという懐疑論者と対決している。(p. 87)

近代ヨーロッパ思想の主流を形づくったのは、イングランドにおける内戦についてのホッブスの考察とドイツにおける三十年戦争についてのデカルトの考察だったといえる。近代の政治秩序の概念は内戦という否定的な事例に抗して強化されたのだ。暴力的な自然状態――「万人の万人に対する戦争」――とは、まさに内戦のエッセンスを凝縮した哲学的概念であり、その起源は前史時代あるいは人間の本質そのものにさかのぼって求められる。近代的主権は内戦に終止符を打つことを目的としていたのである。 (p. 89)

……近代的主権は暴力と恐怖を終わらせるのではなく、暴力と恐怖をまとまりのある安定した政治秩序のなかに組み込むことによって内戦を終わらせるということだ。主権者は暴力――自らの臣民に対してであれ、他の主権権力に対するのであれ――の唯一正統な発動者となる。これが近代における主権国民国家が内戦の問題に対して出した答えである。(p. 90)

今日、内戦の問題はこれよりはるかに大きいグローバルな規模で再登場する。現行の戦争状態は、行政的管理と政治的管理の調整基盤を支える持続的な警察活動という様相を呈しており、近代的主権と同様に暴力と恐怖に苦しめられている臣民に服従を要求している。だがここでもまた、問題が似ているからといって同じ解決策が有効であるわけではない。国民国家の主権を再強化したところで、グローバルな戦争状態を終わらせることはできない。そうではなく、新しいグローバルな主権形態が必要とされているのだ。……サミュエル・ハンチントンの提起するグローバルな文明の衝突というパラダイムは、……同じような秩序化の役割を文明に求める。文明はグローバルな対立に一貫性をもたせ、国民国家を安定した友と敵のグループに分けるというのだ。
「テロリズムに対する戦争」もまた、これとはやり方は少々異なるがグローバルな暴力の組織化をもくろむものだ。いわゆる有志同盟と悪の枢軸は、国民国家を複数のブロックに分けることで国家による暴力に一貫性をもたせようとする戦略を指す……。……こうした立場から見れば、グローバルな内戦を終わらせるというのは暴力と恐怖に終止符を打つことではなく、暴力と恐怖をまとまりのある秩序の組織し、それを主権者の手に委ねることをふたたび意味するのである。(p. 90)

古代ギリシャの民主主義概念は君主制や貴族制と同様、限定された概念である。多数者が統治するとはいえ、それは社会全体から見ればほんの一部分にすぎない。これに対して近代民主主義には一切限定はなく、だからこそスピノザはそれを「絶対的」と呼んだ。この多数者から全員への移行は語義のうえでは小さな変化だが、途方もなくラディカルな結果を生んだのだ! (p. 92)

ヨーロッパの支配的な伝統はいうまでもなく専制政治に反対してきたが、それは必ずといっていいほど貴族制の立場からのものだった。すなわち全体主義にだけでなく、「全員」が表現されることにも反対する。言いかえればさまざまな特異性とマルチチュードからなる民主主義にも反対するものであった。 (p. 92)

近代民主主義概念がもたらした二つめの大きな革新は、代表制という考え方である。代表制は広大な国民国家の領土内で共和制的統治を可能にする近代特有の実践的メカニズムだとみなされた。代表制はマルチチュードを統治[=政体]と結びつけると同時にそれから引き離しもするという、二つの相矛盾する機能を果たす。代表制は連結することと切断すること、結びつけることと切り離すことを同時に行うという意味で離接的綜合のメカニズムだといえる。 (p. 93)

……ルソーの主権概念にも――彼自身、反対の主張をしていたにもかかわらず――強力な代表の概念が含まれていることがわかる。それがもっとも明確に表れているのは、人民の「一般意志」だけが主権であり「全体意志」はそうではないという彼の説明だ。全体意志とは住民全員の複数の意思表明であり、ルソーはこれを首尾一貫しない不協和音だとみなした。これのたいして一般意志は社会を超えたところにある超越的、統一的な表現だというのである。ルソーの概念構想のなかに認められるべきなのは、一般意志そのものが代表制――全員の意志と結びついていると同時に切り離されてもいるもの――だという考えである。 (p. 94)

民主的なマルチチュードそのものはさまざまな差異を統合する知性や思慮分別、美徳のメカニズムをもっておらず、そのためそれらの差異はただちに、また不可避的に対立と抑圧という形で発現することになる、と(ジェイムズ・)したがって合衆国憲法の代表機構は、共和国内の多数派による抑圧に対する有効な防御策だというのである。 (p. 96)

マディソンは、少数が統治するこうした代表機構は寡頭制でもなく……、イギリス式の貴族制でもない……と強調する。私たちにいわせれば、これはせいぜいルソーが自然的または世襲的な貴族制に対して「選挙による貴族制」と呼んだものにすぎない。マディソンは明らかに「もっとも賢明な人びとがマルチチュードを統治するのが、もっともすぐれた、もっとも自然な秩序である」というルソーの見解に同意している。 (p. 97)

一八三〇年代にはアレクシス・ド・トクヴィルが、五〇年前のアメリカで建国の父たちが民主主義の危険に対する防護壁として考えたのと同じ代表機構を「民主主義」と呼ぶにいたった。今日、民主主義の主流の概念はさらにかけ離れたものとなっている。たとえば現代を代表する自由主義政治思想家ジョセフ・ナイの定義によれば、「民主主義とは説明責任をもち、管轄地域の過半数の住民によって解任可能な公務員によって運営される政府」のことだという。一八世紀の思想からなんと大きく外れてしまったことか! (p. 98)

マックス・ウェーバーにならって、ここでは代表制を代表する者と代表される者との分離の度合にしたがって三つの基本的な類型――専有的代表制、自由代表制、指示的代表制――に分けることにする。(p. 98)

専有的代表制は代表する者と代表される者との結びつきがもっとも弱く、分離がもっとも顕著な形である。この場合の代表者は代表される者によっていかなる直接的な形でも選ばれたり、指名されたり、管理されることはなく、代表者はただ代表される者の利害と意志を解釈するにすぎない。ウェーバーがこの代表の形態を専有的と呼んだのは、代表者がすべての意志決定の力を自分の者として専有するからだ。……
このタイプはまた、封建領主が領地内の農民を代表したのと同じ意味で家父長的代表制と呼ぶこともできる。……IMFや世銀といった今日の超国家的機関がタイやアルゼンチンのような国家の利害を代表する仕方も、……家父長的あるいは専有的代表制と言うことができる。 (p. 98)

自由代表制は三つのうち中間的なもので、その典型は議会制度に見られる。……ほとんどの選挙制度では、選挙は二年ないし四年または六年ごとにしか行われず、……代表される者が行使できる選択や制御力は主として時間的な制約を受ける。選挙と選挙の間には、代表される者は……比較的自律的に行動するため、ウェーバーはこの代表形態を、代表者が有する相対的自立性を強調して、「自由」と呼んだ。 (p. 99)

代表される者が代表する者を絶え間なく制御する場合、ウェーバーはそうしたシステムを指示的代表制と呼んだ。両者の間に強力な結びつきを作り、代表者を常に代表される側の指示に従うように仕向けるさまざまなメカニズムは、すべて代表者の自律性を減じる方向に作用する。たとえば頻繁に選挙を実施したり、代表者をいつでも解任できる状態に置いたりすることは、間隔のあいた選挙によって有権者が受ける時間的制約を小さくする。また社会の構成員全員に代表者になれる可能性を拡大することによっても、代表される側の力の制約は軽減される。 (p. 100)

政治的代表の制度は(少なくとも一部の)市民に対して複数の欲望や要求の表明を許すと同時に、国家に対してはそれらを一貫性のある統一体に合成することを許さなければならない。したがって代表者は一方で代表される者のしもべであり、他方では主権的意志の統一性と有効性にその身を捧げる存在なのだ。(p. 101)

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負債者の反逆

どんなに美辞麗句で平等を謳おうとも、合衆国は明確な階層に分かれた社会であり、その国制は多くの面で富者の富を守るものだったのだ。負債を抱えた農民の反逆は、この矛盾の強力な現れにほかならない。(p. 103)

今日のグローバル・システムの矛盾のひとつは、大部分のサハラ以南のアフリカ諸国をはじめとする世界の最貧国が、返済できる見込みのない国家債務を抱えていることだ。負債はグローバル・システムにおいて、貧しい者を貧しいままに、富める者を富めるままに保つひとつの要因である。近い将来、この矛盾がかつてのシェイズに率いられた負債者の反逆のような事態を引き起こし、地球規模の負債者たちが今日のアビゲイル・アダムズを恐怖に陥れるばかりか途方もない破壊をもたらさないともかぎらない。富の分割を維持することを目的とした経済システムにおける永続的な債務は、自暴自棄な暴力行為のまたとない原因となる。 (p. 104)
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社会主義的代表制――夢に終わったプロジェクト

社会主義の伝統には当初から有望な要素はいくつもあった。まず第一に社会主義運動は、ブルジョア的国家概念を支える「政治の自律性」という考え方を批判した。民主主義は国家による権力の独占を無化するよう、下から築きあげなければならないというのがその主張だった。第二に社会主義運動は、政治的代表制と経済の管理を切り離すことが抑圧の構造にとってカギであることを認識していた。そのため社会主義運動は政治権力が社会の経済的運営と民主的に共存する道を探らなければならなかった。だがこうした有望なスタートを切ったにもかかわらず、社会主義的政治の歴史はあまり有望でない道筋を辿ることになったのである。 (p. 105)

議会代表制に代わるものとして、彼らはより完全な指示的代表制、さらには直接民主制さえ提起した。一八七一年のパリ・コミューンはマルクス、レーニンをはじめ多くの人びとにとって新しい民主主義的政府の実験的な例として大きな意味をもっていた。……代表する者と代表される者との分離を縮めるステップはすべて、国家の廃絶—すなわち主権権力と社会との分離の解消――に向けたステップとみなされた。(p. 106)

マルクスとレーニンがパリ・コミューンをふり返って書いた文章でもっとも際立っている点のひとつは、彼らによる民主主義のレトリックがもっと古い時代のものと驚くほど似通っていることだ。たとえばマルクスはコミューンが「人民による人民の」政府であることを称賛しているし、レーニンはそれを代議員が「選挙人に対して直接責任を負う」ような「より完成度の高い民主主義」へのステップだと評価している。 (p. 107)

評議会やソヴィエトにおいて、社会の基盤をなす人びとは工場や社会、国家のためにより大きな犠牲を払うことを求められ、その見返りにそれらの管理への参加を増やすことが約束された。だがその参加は常に最高統治機関と切り離され、距離を置かれたために、やがて参加や代表はそれまで以上に束の間のものとなってしまった。こうして社会主義・共産主義運動による反独裁的イニシアティブや直接民主主義の要求は下火になっていったのである。 (p. 107)

ソ連や他の社会主義国家ではしかし、代表制はブルジョア国家の伝統のレベルにさえとどまることはなく、やがて時とともにデマゴーグによる管理とポピュリズムによる合意によってでっち上げられたフィクションへと落ちぶれていき、マルチチュードとの結びつきというその基本要素までもが抜け落ちていた。この代表制の劣化は、一九八〇年代末に起きた東欧社会主義諸国の官僚支配体制の内部崩壊をうながした大きな要因のひとつでもあった。この失敗は単に歴史的状況によるだけでなく、概念的欠陥にも起因していた。社会主義・共産主義はそのもっともラディカルな表現に置いてさえ、それまでと基本的に異なる代表と民主主義の概念を生み出すことができず、その結果、逆説的にも国家統一の必要性という罠にはまり、主権のブルジョア的概念の基礎をなす中心要素を繰り返し主張する始末だったのである。 (p. 109)

少なくともマックス・ウェーバーは、労働の社会主義的組織化が結局は労働の資本主義的組織化と同じ法をもつにいたり、それに呼応して代表制の概念も類似したものになることを完璧に理解していた。……その立脚点は、政治(および民主的代表制)について語るには社会政策について語ることが不可欠であり、ゆえに代表制はあらゆる複雑な社会管理システム――社会主義的であれブルジョア的であれ――における社会的利害の調停と表現のための重要な機制であるという(ウェーバーにとっての)事実にあった。
したがってどんな形の社会主義も必然的に資本の管理運営を伴う。それは、資本主義の場合より私的利益中心主義ないし個人主義の度合は小さいかもしれないが、生の道具的合理化という同じ過酷な力学のなかで絶えず遂行される。近代の代表制概念は必然的にその合理化の力学に対応するものである以上、社会主義もその概念なしにはやっていけないのだ。(p. 110)

こうした現代の右翼ポピュリズムやファシズムは社会主義の歪んだ子孫であり、社旗主義から派生したこれらのポピュリズムの存在は、私たちが今日使い古された社会主義の伝統と袂を分かち、ポスト社会主義的な政治的オルタナティヴを探求しなければならないもうひとつの理由でもある。 (p. 112)

グローバル世論は新しい民主主義か

世論の概念が誕生してまもなく、近代政治思想は相反する二つの見方に従って二分された。一方は人民の意志は政府によって完全な形で代表されるとするユートピア的なビジョン、もう一方は大衆は操作されて衆愚政治に陥るという終末論的なビジョンである。(p. 119)

ハーバーマスの考え方によれば、世論は相互理解に到達し、多数の価値からなる世界を形成することを目的にしたコミュニケーション的行為としてとらえられる。この公共圏は自由な表現と複数のコミュニケーション的交換が保証されているかぎり、民主主義的なものだという。ハーバーマスにとってはこうした生活世界こそ、道具的理性のシステムとコミュニケーションの資本主義的管理の外側にあるオルタナティヴとして積極的な意味をもっている。
……民主的な公共圏における倫理的コミュニケーションというハーバーマスの概念は、まったくユートピア的で実現不可能なものだと言わざるをえない。というのも、私たち自身や人間同士の関係、コミュニケーションを資本とメディアの道具性から切り離して、その外部に保つことは不可能だからだ。私たちはすでに内側にいて、汚染されているのだ。もし倫理的救済の道があるとするなら、それはシステムの内部に築かれなければならない。(p. 121)

ユートピア的な考え方は主として主流メディア自身によって喧伝されている。メディアが提供する客観的な情報によって市民は意見を形成し、今度はそれがメディアの世論調査によって忠実な形でメディアに戻ってくると言うのだ。たとえば合衆国の世論調査のモデルの基礎を築いたジョージ・ギャラップ……、世論調査は人民の意志に対する政府の反応を高めるのに役立つと主張している。(p. 123)

……学問分野としてのメディア研究では絶望的な終末論的見解が優勢だ。現代社会において情報やイメージは偏在し、過剰なまでに豊富であるにもかかわらず、情報の源泉はある面で劇的に減少している。一九世紀から二〇世紀の大半においてさまざまな従属的政治集団の見解を表現していたオルタナティヴな新聞その他のメディアは、現在ではほとんど姿を消してしまった。メディア企業が合併によって巨大なコングロマリットと化すにしたがい、メディアが流す情報は均質化の一途をたどっている。たとえばメデイア研究の専門家は、二〇〇三年のイラク戦争中、合衆国の新聞やテレビネットワークはアメリカ政府の側に立った報道しか行わず、その内容にはほとんど違いがなかったと指摘する。(p. 123)

 

カルチュラル・スタディーズが提起した根本的な洞察のひとつは、コミュニケーションの(したがって世論の)二面性である。私たちは文化やメディアから押し寄せる大量のメッセージに常にさらされているとはいえ、単なる受動的な受け手や消費者ではない。常に文化的世界から新しい意味を見つけ出し、支配的なメッセージに抵抗したり、新しい社会的表現様式を発見したりもする。支配的文化のなかに身を置きながらも、私たちはオルタナティヴなサブカルチャーを作り出し、さらに重要なことに、新しい集合的な表現のネットワークを創出もするのだ。コミュニケーションは経済的価値だけでなく主体性も生み出す生産的なものであり、したがってコミュニケーションは生政治的生産にとって中心的役割を担う。(p. 124)

この世論という抗争の場は公平な競技場どころか、根本的に非対称的な場である。というのも、メディアは主として大企業によって管理されているからだ。それどころか、この「場」へのアクセスを保証あるいは規制する制度的保証もチェック機構も存在しない。(p. 125)

二〇〇三年二月、ニューヨークタイムズがグローバルな協調の下に行われた反戦デモを第二のスーパーパワーと認めたことである。この新しいスーパーパワーを同紙がグローバル世論と呼ぶ背景には、それが代表制という政治的制度をはるかに超えたものであり、その出現はグローバル社会で民主主義的代表制が陥っている全般的危機の徴候であるという認識が見てとれる。マルチチュードが、彼らの代表ができなかったものを表現しているのだ。(p.126)

3-2 グローバル・システムの改革提言

〈帝国〉への陳情書

世界の支配的諸地域と従属的諸地域ではさまざまな集団がすでに数十年にわたってグローバル・システムに対し、政治的・法的・経済的な面での苦情や異議を申し立てている。それらの抗議行動はそれぞれに固有のメッセージをもっているが(往々にして、それらは大海に投げ入れられる小瓶のように、あるいは春を待つ雪の下の種子のようにすぐさま無視されるのがオチだ)、そうした多種多様な抗議行動が総体として何を意味するのかは明確ではない。 (p. 134)

だがどんなに多種多岐にわたるものであっても、やがてこれらの陳情や異議申し立てのなかに三つの共通点が浮かび上がってこよう。つまり、既存の代表形態に対する批判、貧困に対する抗議、そして戦争への反対の三点だ。これらは新しい民主的な世界を構築するプロジェクトの条件として繰り返し現れてくる。(p. 135)

代表制をめぐる異議申し立て

国と地方の選挙システムにおける欺瞞的でひずんだ代表のあり方は、長い間不満の対象になってきた。投票とは自分の望まない候補者――二人の悪者のマシなほう――を、向こう二年間か四年間あるいは六年間の不適当な代表として選ぶ義務でしかない、と思われることもしばしばである。……二〇〇〇年の合衆国大統領選は論争の余地がある票の数え直しと最高裁の介入をもって決着をみたが、これは選挙制度を媒介にした代表制の危機のもっとも目についた一例にすぎない。世界の民主主義の擁護者を辞任する合衆国でさえ、このようなまがい物の代表制しかもたないのだ。 (p. 136)

現在のグローバリゼーションのあり方の帰結のひとつは、ある国の指導者――選挙で選ばれた者もそうでない者も――が、自らの国民国家の枠を超えて他国の住民に大きな権力を持つということだ。たとえば合衆国の大統領やその軍隊は今日、人類全体を代表するといわんばかりの権力をふるっている。これはいったいどんな代表なのだろう? そもそも合衆国の指導者と有権者との結びつきが弱いとするなら、人類全体との結びつきなど限りなくゼロに近い。世界中で起きている合衆国に対する抗議行動は多くの場合、反米主義の表明というより、代表制の欠如に対する苦情や異議申し立てという度合が大きい。 (p. 137)

……国連でさえ代表制の危機は極限に達している。まず第一に、国連のなかでももっとも民主的な場である総会の代表のあり方は、加盟国以上のものにはなりえないということがある。言いかえれば、それぞれの国での民主主義の欠如が総会にそのままもち込まれるということだ。……さらに総会における代表制は地球の人口という観点から見れば著しく偏っている。各国はその人口の多少と関係なく一票ずつしか投票権を与えられていないからだ。
第二に、総会での限定的な代表機能は安全保障理事会の権力によってさらに大きな制約を受ける。……安保理事会――とりわけ常任理事国は発動する拒否権――は、国連総会のもつグローバルな代表機能……をいとも簡単に否定してしまうのである。(p. 139)

近代自由主義の政治的語彙は冷酷で血も涙もない。自由主義は社会全体を代表するふりすら、ただの一度もしたことはない。貧者、女性、人種的マイノリティや残りの従属的なマジョリティははじめからずっと、明示的ないし暗示的な構成的メカニズムによって権力から排除されてきた。それどころか今日、自由主義はエリート階級さえ十分に代表できないことが増えている。グローバル化の時代において、自由主義の歴史的重要性はすでに過ぎ去ったことが日増しに明らかになりつつあるのだ。 (p. 140)

権利と正義をめぐる申し立て

国家システムが個人を守ることができない、あるいは守る意志がない場合、その個人を守るために引き合いに出されるのは人権の概念である。さらに人権はまた、たとえば難民のようにいずれの国の法体制によっても保護されない人びとを守るためにも用いられる。この意味で人権とは原理的に、国家の管轄の内と外の両方で「諸権利をもつ権利」を指すものだ。 (p. 142)

……人権擁護のために立ち上がる多くの人びとの大きな悩みは、それを実施するための適切な制度的仕組みが存在しないことだ。人権にとって主要な力は道徳的な説得しかないのである。……皮肉なことにこれまでの人権の実施は、もっとも目につく事例においてはもっぱら支配的な国家権力の力に依存してきた。一九九八年のNATOによるコソヴォへの軍事介入がその一例である。ある国が人権擁護の名の下に大手を振って他国の主権を侵害することはあっても、その国は同時に国家主権の原則――とくに自国の!――も主張するのだ。(p. 142)

……真実究明委員会や国際法廷、裁判所といったものやそれらが実現しうる正義にいたずらに幻想を抱くべきではない。これらの機関は、ある時は勝利者が押しつける「正義」の苦い味を思い知らせるだけであり、またある時は対立や紛争を中立化させ和平をもたらすだけで、正義の創出にはいたらない。正義が実現されたかに見えても、それはあまりにも多くの場合、権力の陰謀を隠蔽するだけのものにすぎない。 (p. 145)

これらの法学者によれば、〈帝国〉法とは、主として多国籍企業と支配的な資本主義国家の利益に貢献する略奪的な資本主義的グローバリゼーションが、その目的達成のために用いる手段だという。ある法学者はこう書く。「皮肉なことに、〈帝国〉法はその民主的正統性の絶対的欠如にもかかわらず、「民主主義と法による統治」と銘打つ一貫性を欠いた実践を媒介にして、社会的連帯にもとづく富の再分配を禁止する反動的な法哲学を、あたかも当然のもののように押しつけてくるのだ」(Ugo Mattei,“A Theory of Imperial Law : A Study on U. S. Hegemony and the Latin Renaissance,” Indian Journal of Global Legal Studies 10 no. 1 (Winter 2003) : pp.383-448.) (p. 146)

経済をめぐる申し立て

今日のグローバル・システムに対して表明される異議申し立ての多くは――大規模デモはもちろん、宗教グループやNGO、国連機関などにおいても――世界の人口の多くが極貧に喘ぎ、そのうちかなりの部分が飢餓寸前の状態にあるという単純な事実に基づいている。実際、数字をみれば呆然とするほかない。世銀の報告によると世界の人口の半数近くが一日二ドル以下で生活しており、五分の一は一ドル以下で生活しているという。だが数字はあくまで部分的なものであり、貧困の状態を間接的に示すにすぎない。本当の悲惨さは生活のあらゆる側面にわたる生政治的事実にあり、それは何ドルという数字ではとうてい表せない。(p. 147)

世界でもっとも豊かな二〇カ国の平均所得はもっとも貧しい二〇カ国の平均所得の実に三七倍であり、この格差は過去四〇年間で倍になった。……グローバル市場の形成と国民経済のグローバルな統合は世界の人びとをひとつにするどころか反対に分断し、貧困にあえぐ人びとをさらなる苦境に追いやっているのだ。(p. 148)

国家はグローバル経済システムにおいて従属的な地位に貶められることを恐れるあまり資本のニーズに迎合し、それを先取りさえする。これが国民国家間の「底辺への競争」を生み、資本の利益が優先され労働者や社会の利益は二の次にされる。新自由主義とは一般にこうした国家経済政策のあり方を指すものだ。 (p. 150)

国家はグローバル経済システムにおいて従属的な地位に貶められることを恐れるあまり資本のニーズに迎合し、それを先取りさえする。これが国民国家間の「底辺への競争」を生み、資本の利益が優先され労働者や社会の利益は二の次にされる。新自由主義とは一般にこうした国家経済政策のあり方を指すものだ。 (p. 150)

一般に、デリバティブや金融市場を理解するカギは抽象ということである。現に一九七〇年代以降、デリバティブとして取引されるものは具体的な形の経済生産から抽象される数量であり、金利や株式市場指標、さらには天候からさえ「派生」するといった具合に、その抽象度はどんどん上がっている。その結果、ほんの一握りの主要なプレーヤーが金融の覇者として広大な市場に強大な影響力をふるうと同時に、これらの市場が危機に陥るどころか壊滅的な変化を被りやすい状況も生まれている。……従属諸国の政治指導者は、こうしたグローバル金融のもつ途方もない力の前では国家経済を調整するすべをほとんどもたない。 (p. 152)

金融資本が未来に向けられ、広大な労働領域を表象するものだとすれば、逆説的にではあれ、その中に出現しつつあるマルチチュードの姿を、たとえ逆転し歪んだ形ではあっても、見出すことができるかもしれない。未来の生産性がますます〈共〉になることと、それを統制するエリートの数がますます少なくなることの矛盾は、金融において極限に達する。いわゆる資本の共産主義――すなわち資本が労働をいっそう広範な社会化へと駆り立てること――は、両義的にではあるがマルチチュードの共産主義を指し示しているのである。 (p. 153)

「生の搾取」をめぐる異議申し立て

フェミニズム運動や反人種差別闘争、先住民の権利擁護運動なども、法的・文化的・政治的・経済的問題、すなわち生のあらゆる側面と直結しているという意味で生政治的な闘争だといえる。一九九五年に北京で開催された国連世界女性会議や二〇〇一年に南アフリカのダーバンで開催された国連反人種主義・差別撤廃世界会議は、今日のグローバル・システムに対する生政治的異議申し立ての大いなる集大成とみなすことができる。(p. 154)

ダムは確かに電気や安全な飲み水、灌漑、洪水の予防などさまざまな社会的利益をもたらす。しかし多くの場合――これがナルマダ運動が提起する根本的な問題でもあるが――ダムの社会的コストの大部分は貧者にのしかかり、利益の大部分は富者のものになる。すなわちダムは、川と土地という〈共〉的な富を私的所有者(たとえばその土地を所有しダムによる灌漑で農作物を栽培するアグリビジネス企業)の手に渡すという、強力な私有化の手段なのだ。(p. 155)

9・11とそれに続くテロリズムに対する戦争以降、グローバル・システムに対するあらゆる抗議行動は、グローバルな戦争状態に一時的に打ち負かされた状態だ。まず第一に、多くの国々でデモ隊に対する警察のプレゼンスが、反テロリズムの名目の下にますます大きくなるとともに残虐化しているため、示威行動がほとんど不可能になっていること。第二は、戦争が引き起こす苦しみによってさまざまな異議申し立ては後方に押しやられ、その緊急性を失っているかに見えることだ。戦闘や爆撃がもっとも激しかった時期には、実質的にはすべての異議申し立てはひとつの最優先の異議申し立て――すなわち破壊と死に対する究極的な生政治的異議申し立て――に収斂した。 (p. 156)

グローバルな改革実験

今日、歴史的な変容プロセスはあまりにラディカルであるため、改革主義者の提言でさえ革命的な変革につながる可能性がある。もしグローバル・システムの民主的改革が真の民主主義の基盤を作り出せないことが明らかになれば、その時点で革命的変革が必要であることがかつてないほど強力に実証され、その可能性もかつてないほどに高まる。ある提言が改革主義的か革命的かを見極めようと頭を悩ませることにはなんの意味もない。重要なのはその提案が構成的プロセスに組み込まれるか否かなのだ。 (p. 165)

 

代表制に関する改革

……説明責任とガバナンスの概念がもっとも明確に目指すのは経済効率と安定性であり、民主的管理を代表制によって行うことではない。実際、IMFや世銀のような超国家的機関の目的はそもそも、一般の人びとの指示や管理を受けずに自分たちの専門知識にもとづいて技術的な経済的決断を下すことにあり、彼らにとって一般の人びとは知識や情報面で劣った存在とみなされる。言いかえればこれらの機関は社会的あるいは公的な代表制メカニズムとは逆の形で組織されており、それどころがブルジョア的自由主義や公共空間という最小限の概念にすら合致していない。政治を行政管理で置き換えるという現代にあまねく見られるこのやり方は、民主的正統性に逆行する現象だ。これらの超国家機関はすぐさま廃止すべきだというラディカルな主張のよって立つ根拠はここにある。 (p. 168)

ここで指摘しておくべきなのは、国連改革やグローバル議会の創設といったこれまで概観してきたグローバルな政治改革の提言のかなりの部分が、合衆国憲法の構造をなぞっているという事実だ。それゆえグローバルな政治改革は世界の権力構造を合衆国のようにし、合衆国モデルをグローバル規模に拡大することを意味する。だが皮肉なことに合衆国自身がそうした改革の最大の障害となっているのである。というのもすでに見てきたように、合衆国の単独行動主義や例外主義にもとづく行動は、どんな国際的ないしグローバルな民主的代表制も損なうものだからだ。 (p. 174)

権利と司法制度に関する改革

……9・11以降合衆国の例外主義と安全のためには自由を犠牲にすることもやむなしとする考え方とがあいまって、権利と正義を守るメカニズムに重大な支障をきたしている。そこにはアメリカ国内で市民的自由が(国土安全保障局の設置や合衆国愛国法のような立法を通じて)浸食される一方、権利や正義に関する国際協定に対しても合衆国が拒否したり違反したりするという二重の傾向が見られる。キューバの米海軍グアンタナモ基地に[テロ容疑者として]無期限に拘束されている囚人たちは、その収監が戦争捕虜の扱いに関するジュネーブ協定に違反するばかりでなく合衆国刑法にも違反しているという意味で、まさにこの両者の交差する地点にいる。……それが、権利と正義を保証するグローバル・システムの民主主義的な改革に向けた提言が今日直面している苦境をはっきりと物語っているのはたしかだ。(p. 178)

生政治的改革

……生政治の領域においては改革提言を行うより、現在のグローバルな状況に取り組むための実験的試みを展開するほうが生産的というものだろう。さらに生政治的観点に立つことで、あらゆる運動の存在論的特徴を認識し、個々の運動を推進する構成的原動力が何かを見きわめることも可能になる。どんなに異議申し立てや改革提言を数え上げ、それらを足してみたところで、この本質的な要素に到達することはできないのだ。構成的原動力とは生政治的事実である。(p. 189)

一八世紀に回帰せよ!――絶対的民主主義のために

……今日、グローバルなマルチチュードをひとつの人民に還元するというのは的外れな考えである。グローバル社会は〈共〉の恒常的かつ過剰な生産という生政治的ダイナミクスに覆われており、あまたのグローバルな主体性は複数であると同時に特異な単数でもあるという確固とした自己認識を持っている。新しい民主主義の概念はこうしたマルチチュードの構成的ダイナミクスと、その複数制が〈一〉(unum)に還元されることを拒否するという事実を考慮したものでなければならない。(p. 195)

スピノザが民主制を絶対的なものと呼んだとき、彼は民主制こそがあらゆる社会の基礎になるとみなしていた。社会における政治的・経済的・情動的・言語的そして生産的な相互作用の大部分は、常に民主的関係に基盤を置いている。……こうした民主的相互作用が私たちの〈共〉にもとづく生活の基盤でなければ、社会そのものが成立しない。スピノザが民主制以外の統治形態は人間社会が歪められたり限定されたりしたものにすぎず、民主制こそがその自然な成就だとみなした理由はまさにここにある。(p. 198)

 

 

3-3 マルチチュードの民主主義――政治的な愛に向けて

崩壊する主権モデル

主権の概念は政治哲学の伝統を牛耳り、政治的なものすべての基礎となっているが、それは主権が常に一者による統治と決定を求めるからにほかならない。この伝統が教えるところによれば、一者だけが主権者となることができ、主権者なしには政治はありえない。この考え方は独裁制やジャコ番主義の理論に支持されているだけでなく、自由主義のあらゆるバージョンもこれを不可避のものとして一種の脅しに使っている。選択肢は黒か白か――主権かアナーキーしかないのである。協調して置くが、自由主義はたとえどんなに多様性と権力の分割を主張していても、最終審級においてはつねに主権の必要性に譲歩する。 (p. 220)

マルチチュードは単一性に還元されえず、一者による統治に従うこともない。マルチチュードは主権者にはなりえないのだ。これと同じ理由で、スピノザが絶対的と呼ぶ民主制もまた伝統的な意味での統治形態とは考えられない。スピノザの民主制においては、あらゆる人びとの多様性は主権という単一の形象に還元されないからだ。(p. 222)

政治における近代主権理論は、資本主義理論や経済管理に実践とぴたりと調和する。生産の文やでは、経済的秩序を維持するだけでなく経営・技術革新(イノベーション)を行ううえでも、責任をとり決定をくだす単一の統一的存在がなければならない。……生産という物質的実践には多数の労働者がかかわっているにもかかわらず、イノベーションの責任を負うのはひとり資本家だけなのだ。 (p. 224)

主権の二面性

主権には必然的に二つの側面が伴う。主権権力は自律的な実体ではなく、絶対的なものでもありえない。それは統治者と非統治者、保護と従属、権利と義務との関係で構成されたものだ。仮に独裁者が主権を一方的なものにしようとすれば、非統治者はやがて必ず反乱を起こし、関係の二面性を取り戻す。主権の概念と機能にとって、従属する者は命令する者に劣らず不可欠な存在なのである。このように主権は必然的に二元的な権力システムだといえる。 (p. 225)

もし主権権力が自律的な実体であったなら、従属する者による拒否や脱出は主権を利するものでしかなかったろう。現にそこに存在しなくなった者は問題を生じさせることはないからだ。だが主権権力は自律的な者ではない。主権は関係であるゆえに、そうした拒否の行為がまさに実際の脅威となるのである。従属する者の積極的な参加なしには主権は崩壊するしかない。(p. 227)

他方、経済的生産は日増しに生政治的になりつつあり、その目的は商品の生産だけでなく最終的には情報やコミュニケーション、協働の生産(社会的諸関係と社会秩序の生産)にまで及んでいる。したがって文化は直接的には政治秩序の要素でもあり、経済的生産の要素でもある。これらがひとつにまとまり、さまざまな権力の形態が調和ないしはひとつに収斂することによって、〈帝国〉における戦争、政治、経済そして文化は社会的生を丸ごと生産する様式――すなわち生権力の形態となる。あるいは別の言い方をすれば、〈帝国〉においては資本と主権が完全に重なり合う傾向にあるのだ。 (p. 228)

 

〈帝国〉は自らが統治する者たちを搾取することはできても――実際、彼らの社会的生産性は搾取されなければならない――そのまさに同じ理由で、彼らを排除することはできない。〈帝国〉は絶えずグローバルなマルチチュード全体との支配と生産の関係に直面し、それが突きつける脅威に立ち向かわなければならないのである。(p. 230)

マルチチュードの意志決定プロセス

インターネットやサイバネティクスの専門家は、電子的「コモンズ」の開放性こそが情報革命初期にめざましいイノベーションを可能にした主要な要素であり、今日では私的所有権や、開かれたアクセスと自由な交換を阻害する政府の管理によってイノベーションが日々妨げられていると主張する。(p. 233)

……マルチチュードは、原則的に権力に対していかなる義務も負っていない。反対にマルチチュードにとって絶対に欠かせないのは、不服従の権利と差異を求める権利だ。マルチチュードの構成は恒常的かつ正統な不服従の可能性にもとづいている。マルチチュードにとって義務が発生するのは自身の積極的な政治的意志の結果としての意志決定のプロセスにおいてのみであり、義務はその政治的意志が継続する間だけ維持される。(p. 237)

逃げながら武器を取れ!

……マルチチュードが脱出するさいには主権権力の攻撃に対してそれとシンメトリーをなす反対の対応をとらなければならない。すなわち抑圧的な暴力に対して、暴力の絶対的な欠如によって立ち向かわなければならないのである。しかし脱出はかつて一度も平和的で融和的なものであったことはなく、将来もまたしかりである。モーセとその兄アロンは平和的ではなかったし、エジプトにもたらされた災いも平和的とは程遠い。あらゆる脱出は積極的な抵抗――後を追ってくる主権権力に対する後衛戦を必要としている。ジル・ドゥルーズはいみじくもこう言う。「逃走せよ。だが逃げながら武器を取れ」(p. 240)

こうした欺瞞のもっとも高度で洗練された例は「正しい戦争[=正戦] 」理論であり、これは近年さまざまな学者やジャーナリスト、政治家らによってふたたびもち出され、息を吹き返している。……正しい戦争という概念は、攻撃を道徳的根拠によって正当化するために用いられる。そうした戦争が防衛的とみなされるのは、脅かされた価値観を守るためであり、現代の正戦論が旧い前近代的概念――ヨーロッパの長期にわたった宗教戦争においてきわめて効果的だった概念――と緊密に結びついているのはまさにこのためである。(p. 244)

だがおそらくテロは起きるだろう。しかしテロは世界を良くすることも、権力関係を改善することもできない。それどころか権力の掌握者たちにその力をますます強め、人類と生の名の下に権力を統合する必要性を主張させるだけだ。実際のところ、マルチチュードのプロジェクトにとって適切な武器は、権力の武器とは対称的な関係にも、非対称的な関係にもない。そのいずれも、逆効果と自滅的な結末しかもたらさないのだ。(p. 246)

新しい民主主義の科学――マディソンとレーニンの出会い

……マルチチュード民主主義プロジェクトは必然的に、軍事的暴力や警察活動による抑圧にさらされる。脱出するマルチチュードを戦争が追いかけ、マルチチュードは自らを守る闘いを余儀なくされる。その結果、絶対的民主主義のプロジェクトが自らを抵抗として位置づけるというパラドクスが生まれるのだ。(p. 249)

一見矛盾しているようだが、〈共〉は生政治的生産の両端に現れる。それは生産の最終的産物であると同時に、生産の予備条件でもあるのだ。
〈共〉は自然であると同時に人工的でもある。それは私たち人間にとって第一の自然であり、第二、第三、第nの自然もである。したがって〈共〉のなかに身を置かない特異性は存在しないし、自らを維持し活動させる〈共〉的な結びつきをもたないコミュニケーションというものも存在しない。(p. 250)

私たち全員が生政治的生産を通じて社会を協働的に創造し維持するというこの民主主義こそ、私たちが「絶対的」民主主義と呼ぶものである。(p. 253)

まさに愛の概念こそ、私たちがマルチチュードの構成権力を理解するために必要なのである。近代の愛の概念はほとんどといっていいほどブルジョアのカップルや、核家族という息の詰まるような閉塞空間に限定されている。愛はあくまでも私的な事柄になってしまった。私たちは近代以前の伝統に共通してみられる公共的で政治的な愛の概念を回復しなければならない。(p. 254)

たとえばラディカルな差異としてのジェンダーは、その差異をヒエラルキーの指標に仕立て上げるあらゆる労働、情動、そして権力の規律が破壊されたときに初めて生政治的組織としての社会的生に組み込まれる。(p. 260)

本書のような本は「何をなすべきか?」という問いに答えるためのものでもない。それは集団的な政治的議論のなかで具体的に決められるべきものだ。(p. 264)

                                       (2010/12/20)