ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <書 抜き書きメモ10>

ジュディス・バトラー、エルネスト・ラクラウ、スラヴォイ・ジジェク
『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』
竹村和子、村山敏勝訳、青土社、2002年

普遍なるものの再演 形式主義の限界とヘゲモニー
ジュディス・バトラー1

わたしは、主体位置の「不完全さ」を次のように理解した。つまり(一)主体位置は、それが代表/表象(リプレゼント)している人々を十全に記述することができない。(二)あらゆる主体は差異にもとづいて構成されており、また主体の「構成的外部」として生産されているものは、完全な内部とか、内在的なものになることはできない。この最後の点が、アルチュセールの影響を受けたラクラウ/ムフの理論と、それよりもヘーゲル的な主体理論――すなわちあらゆる外在的な関係は内在的な関係に(少なくとも理念的には)変換しうるという理論――とのあいだの、基本的な相違だと思われる。(p.23)

ヘゲモニーの規範的で楽観的な場面は、まさに、リベラリズムの主要概念の中にある民主主義の可能性を押し拡げる可能性のなかに存在するのであり、それらの概念をさらに包括的で、さらに動的で、さらに具体的なものにするものである。もしも政治的分節化を可能にする領域は構造によってすでに規定されているという理論に固執して、このような変化の可能性をまえもって排除するなら、ヘゲモニーの政治プロジェクトを存続させるためには、歴史と構造の関係をここでもう一度考え直す必要がある。(p.25)

ヘゲモニーという概念が協調しているのは、二つの圏域が政治的事柄の支配をめぐって張り合っているという視点で、政治領域の権力作用を見ることではない。そうではなくて、社会関係の日常的な理解を形成するために、いかに権力が作用しているか、また内密で暗黙の権力関係に人が同意する(それを再生産する)道筋をうまく整えていくために、いかに権力が作用しているかを見ることである。権力は安定したものでも、静態的なものでもなく、日常生活のさまざまな接合点で再形成されている。(p.25)

わたしが普遍に焦点をあてる理由は、近年の社会理論のなかで、この話題が最大の争点のひとつとなっているからである。事実多くの人々は、構築至上主義(コンストラクティヴィズム)やポスト構造主義の普遍の説明では、政治的な代表/表象領域のすべての市民=主体に共通する事柄を、実体的にも手続き的にもうまく説明することができないのではないかという懸念を表明している。いまだに政治理論家のなかには、あらゆる人間にまで拡大することができる人間の妥当な政治的特質は何か(欲望、発話、熟慮、依存)を模索し、あるべき政治秩序に対する規範的な見方を、その普遍的な記述の基づいて決めようとする人々がいる。(p.26)

普遍にかかわる事柄が批判的に見られるようになったのは、普遍の教義が植民地主義や帝国主義に益するように使われてきたことが、左翼の言説によって着目されはじめたからだろう。もちろん左翼の懸念とは、普遍的と呼ばれるものが、じつは支配文化の偏狭な特性でしかなく。「普遍化可能性」は帝国の拡大と不即不離の関係にあるということである。(p.27)

……ヘーゲルは、「普遍」に関する彼自身の定義を執拗に何度も書き換えているが、それによって彼は、世界を利用可能にするためのカテゴリーは、それらのカテゴリーが流通する世界と出会うことによって、継続的に作り直されるべきであることを明らかにしている。認識していく過程で世界に出会うとき、わたしたちは、前と同じものにとどまってはいない。またわたしたちの認識を助けるカテゴリーも、同じものにとどまってはいない。認識主体も世界も、認識するという行為によって解体され、再編されていく。 (p.34)

ヘーゲルの普遍の概念が、交雑的な(ハイブリッド)文化や揺れ動く国境という状況において当てはまるのなら、 その普遍概念は、文化翻訳という仕事をつうじて練り上げられるものにならなければならない。しかし、くだんの文化と文化のあいだに境界を設定して、あたかもある文化の普遍概念がべつの文化の普遍概念に翻訳できるかのように考えてはいけない。(p.35)

……ここでヘーゲルの手続きに関して予備的な結論に達することができるだろう。それは、(一)普遍は、意味の重要な増殖と逆転を経験する名称であり、その構築の途中のいかなる「瞬間」にも収斂させることはできないこと、(二)普遍は、それと対立する個別的事柄の痕跡につねに悩まされ、それは(a)普遍の幻影化という普遍の二重性と(b)普遍への個別的事柄の固着、という形態をとり、そうして形式主義的な普遍の主張が必然的に不純なものであることが暴かれること、(三)普遍と、それを分節化する文化との関係は克服することができないこと、つまりどのように文化を超越した普遍概念も、それが超越しようとしている文化規範によって幻影化され、汚染されていること、(四)文化を交流関係や翻訳作業にかかわるものとして理解させているのがまさに普遍概念なので、どのような普遍概念も、単一の「文化」という概念のなかには収まりきらないこと、である。……個別的で実体的な「文化」と考えられているものこそ、他者性の定義との関連から言って、まさに本質的にそれ自身の他者だとみなすべきだろう。(p.40)

ジジェクは、この象徴化行為が社会を破壊する側面は考慮せずに、そのかわりに、この定位行為が生産する「余剰」の方に焦点を当てている。意味つまり実体は、定位という形式的な行為によって、生産されると同時に壊されるとみなされている。名称がもたらす同一性は空虚なものとなり、その空虚を見抜くことが、この名称化のプロセスの自然化作用を批判する位置を生み出すというのである。……ジジェクにとって批判的瞬間が出現するときこそ、この構造の崩壊を目の当たりにするときであり、そのとき、名称を通じて単一的なものに帰せられていた実体的で因果的な力が、じつは恣意的に帰せられてものにすぎないことが露呈するのである。 (p.45)

(『ジェンダー・トラブル』などの)著作でわたしが示唆したことは、ジェンダーのパフォーマンスは、それ以前に実体があるという幻想――ジェンダー化された自己の核があるという幻想――を作りだすものであり、したがって実際はジェンダーのパフォーマティヴな儀式の結果であるのに、それ以前に存在していた実体の必然的な発露とか、因果的な結果とみなされてしまうことである。しかしジジェクは、言語による定位の構造的な性質だけを取り出して、文化は、この構造的な真実の単なる例証にすぎないとみなした。しかしわたしはパフォーマティヴィティを、文化の儀式であり、文化規範の反復であって、意味の構造面と社会面を最終的に切り離すことが不可能な、身体のハビトゥスだと考えなおさないといけないと切に思っている。(p.46)

『(複数の)解放』でラクラウが述べているのは、どのような個々のアイデンティティも自己決定をなすにあたってけっして完全ではないことである。個々のアイデンティティは、ジェンダーや人種や民族といった特定の内容に関連したものだと理解されている。これらのアイデンティティのすべてに共通すると言われている構造的特徴は、その構築がつねに不完全であるということだ。個々のアイデンティティは、開かれた差異化システムのなかで相対的な位置を占めているがゆえに、アイデンティティとなる。(p.48)

それらのアイデンティティは、そもそも、それらが出現するさいの一連の差異であり、この一連の差異が、政治的な社会領野の構造的特徴となっている。もしも個々のアイデンティティが、他のアイデンティティと同じ構造をもっていることを認めずに、それ自身の状況を普遍化しようとすれば、他のアイデンティティと同盟を作ることはできないし、普遍そのものの意味や場所をまちがって定めてしまうことになる。個別を普遍化することは、特殊な文脈をグローバルな状況に昇格させようとすることであり、局所的な意味を拡大して、帝国を作りあげようとすることである。は、開かれた差異化システムのなかで相対的な位置を占めているがゆえに、アイデンティティとなる。(p.50)

ゼレーリがうまく示してみせたことは、(ジジェクに失礼ながら)ラクラウの政治理論のなかのアイデンティティの「不完全さ」は、ラカン派の《現実界》に収斂させることはできないということであり、また普遍は、主体の言語的条件や心的条件に基盤を置いているものではないということである。さらに言えば、普遍は、個別を超越する規定的な理念とか、ユートピア的な公準として見出されるものではなく、つねに「政治的に分節化される差異の関係」となるものだ。普遍の個別への「寄生的な固着」とラクラウが名づけた事柄を強調して、ゼレーリは、普遍は個別的なものの連鎖のなかにのみ見出されると主張する。 (p.52)

重要なことは、普遍のどんな主張も文化規範から離れてなされるわけではなく、また互いに競い合う多数の規範が国際的な場を構成しているかぎり、どんな普遍の主張も、同時に文化翻訳を必要とすることである。翻訳がなければ、普遍の概念は、それがそもそも横断していると主張する言語的境界を、横断することはできない。あるいはこう言えるかもしれない。翻訳なしに境界を横断しうる普遍の主張があるとすれば、それが取りうる唯一の道は、植民地主義的で拡張主義的な論法であると。(p.55)

ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァックによれば、「普遍主義」は「国際主義」と同様に、権利を有する主体を中心化する政治となり、それゆえ、グローバルな資本の力やその搾取の差別化形態を守って、従属的な人々を理論化しようとする試みには晒さないようにする。スピヴァックの言葉を使えば、ヨーロッパ中心的なカテゴリーでは分節化しえない貧困の生活形態を、さらに思考する必要がある。彼女の見方では、政治的な自己表象の物語は、それ自身、ある種の支配的な左翼主義を構成しており、必ずしもヘゲモニー的な抵抗の場所を提供するものではない。(p.56)

ラクラウやジジェクは良く承知しており、エティエンヌ・バリバールは明瞭に述べていることであるが、一つには、普遍がこれまで使われてきた理由は、文明化された「人(マン)」という植民地主義的で人種差別的な考えを拡張するためであり、人間の領域からある種の人々を排除するためであり、誤った疑わしいカテゴリーとして普遍を生産するためであった。(p.59)

普遍に保護されて語る権利を持たないけれど、普遍的権利を主張し、しかも闘争の個別性を温存したままで語ろうとするときには、無意味とか不可能として片づけられるような方法で語らなければならない。「人間としてのレズビアンやゲイの権利」とか、さらには「人間としての女の権利」という言葉が聞かれるときには、普遍的なものと個別的なものが統合されないで、しかし分かれてもいず、奇妙に隣合っている様子に出会うことになる。名詞が形容詞的に作用し、それらはアイデンティティであり、文法的な「実体」ではあるが、同時に、互いの意味を限定づけ合う行為のなかに存在しているものでもある。しかしかつての「人間」の定義のなかには、レズビアンやゲイや女は容易には含まれていなかったことは確かだし、現在の流動化は、人間の範囲が慣習的に限定されていたこと――すなわちその言葉が国際法の普遍範囲に限界を設けていたこと――を明らかにしようとするものである。(p.60)

普遍の慣習的で排除的な規範は、倒錯的に反復されることによって、以前の普遍が限定的で排除的な性格をもっていたことを浮き彫りにすると同時に、一連の新しい要求を起動されるような、非習慣的な普遍を新たに公式化することである。(p. 61)

すでに確定されている言説に「頼る」ことは、また同時に、「新しい主張をおこなう」行為であり、必ずしも古い論理を拡張したり、権利の主張者を既存の体制に同化させるような機構に参入していくことではない。すでに確立されている言説が確定的なものでありつづけるには、絶え間なく再確定化される必要があるので、それは、それが必要とする反復のなかでリスクを背負うことになる。さらに言えば、前の言説が反復されるのは、まさにそれが言っていないことを指し示す発話行為をつうじてである。(p.62)

アイデンティティとヘゲモニー
エルネスト・ラクラウ1

こうしてヘゲモニー関係の第一の次元が見えてくるヘゲモニーを構成するのは権力の不均衡である。……ホッブスの自然状態では、権力は各個人に均等に配分され、それぞれが勝手な目的に向かうために、社会は成立しえない全権をリヴァイアサンに委譲する契約は、敵対する複数の意志の相互作用をまったく排除しているのだから、本質的に非政治的な行為なのである。全体的な権力はそもそも権力ではない。この逆に、もともと権力の配分が不均衡だとすれば、全権力を君主の手に委ねるのではなく、まさにこの不均衡から社会秩序を保つ可能性が生まれる。しかしこの場合、あるセクターが支配を主張できるかどうかは、その個別の目的を、共同体の現実の機能と両立するものとして提示できるかどうかによる――これこそ、ヘゲモニー作用に内在するものである。(p.80)

こうしてヘゲモニー関係の第二の次元が見えてくる。普遍/個別の二分法が廃棄されたときにのみヘゲモニーがある普遍性は、なんらかの個別性に実体化される――そしてそれを覆す――ときにのみ存在するが逆に個別性は普遍化効果の場とならない限り政治的にはけっしてならない。 (p.82)

普遍と個別が互いに拒否しあい、にもかかわらず互いを必要とするなら、ヘゲモニー関係には不可能性の表象が内在している。……不可能というのは、必然であるがゆえに表象のレベルに入ってきても、つねに歪んだ表象にしかならないという意味だ――表象の手段は、構造的に不十分なものになるだろう。表象の手段がなにかはすでにわかっている。個別のものが個別のまま、普遍を表象する機能を帯びるのである。これがヘゲモニー関係の根本にある。(p.82)

(1)あるセクターが表象する等価性の連鎖がさらに伸び、その目的がグローバルな解放の名になるにつれ、その名ともともとの個別の意味とのつながりは緩くなり、名は空虚な記号表現(シニフィアン)の地位にいっそう近づく、(2)普遍と個別とのこの偶発的一致が、最終的には――表象の手段が構造的に不十分なために――不可能なのだから、個別性の残余を消し去ることはできない。……こうしてヘゲモニー関係の第三の次元が現れる。必要なのは空虚へ向かうシニフィアンが作られることでありこれは普遍と個別の通約不可能性を保ったままで後者が前者の代表=表象を引き受けられるようにする。(p.82)

ヘゲモニーが存在するためには、ある集団の部分的な目的が、それらを超えた普遍性の名として働かなければならない――こうしてヘゲモニー的結びつきが堤喩のかたちで構成される。しかし名(シニフィアン)が概念(シニフィエ)にぴったりと張り付いていると、両者の関係にいっさいずれは起こらず、ヘゲモニー的な再分節化もありえない。完全に解放された透明な社会、それを構成する部分の間の比喩的動きがすべて取り除かれた社会は、ヘゲモニー関係の(そして後で見るように、あらゆる民主主義政治の)終わりを告げるだろう。こうして「ヘゲモニー」の第四に次元が現れる。ヘゲモニーが拡大する地平とは表象関係を社会秩序を構成する条件として一般化する地平である。グローバル化した現代社会において、なぜヘゲモニー的な政治形態が広がっているか、これで説明できる。権力構造の脱中心化が進むにつれ、中心性が成立するには、そこを占める行為者が構造的に重層決定されていなければならなくなる――彼らはつねにその個別のアイデンティティ以上のなにかを表象するのである。(p.83)

個別性と普遍性、実体的内容と存在論的次元とのこの複雑な弁証法が、現実社会の構造を作っている限り、それは社会的行為者のアイデンティティの構造をも作っている。後で論じるが、これこそ主体の起源となる構造の内側の欠如である。つまり、ただわれわれの主体的立場がこの構造のなかにあるばかりか、こうした構造上の亀裂を埋める試みとして主体が存在する。だからこそ同一性(アイデンティティ)があるだけでなく、同一化(アイデンティフィケーション)があるのだ。しかし、同一化が必要とされるなら、あらゆるアイデンティティの中心には根本的に曖昧さが残るだろう。(p.84)

……政治的にいえば、個別の行為者集団――たとえば民族的、国家的、性的マイノリティ――の権利は、普遍的な権利としてのみかたちとなる。どんな行為者も直接には「全体性」を語る権利を持たないが、いっぽう全体性を引き合いに出すことがヘゲモニー的-言説的作用に不可欠の要素であるとすると、普遍性に訴えかけることはけっして避けられない。普遍的なものとは空虚な場個別のものによってしか満たされないがその空虚さによって社会関係の構造化脱構造化における決定的な一連の効果を生み出すような無である。この意味で、普遍性とは不可能かつ必然的なものである。(p.85)

ヘーゲルの弁証法は、ヘゲモニー的結びつきの論理を規定する存在論的道具としては、部分的にしか頼りにならない。政治の偶発的次元は、ヘーゲルの型式のなかでは考えられない。(p.92)

……ヘゲモニー成立のためには表象関係は一般化されねばならない。しかしそのとき、表象のプロセスそのものが、遡及的に表象される存在を作り出す。表象されるものに対する表象の不透明性、記号内容(シニフィエ)に対する記号表現(シニフィアン)の解消できない自律性は、社会的なものの構造を根底から作っているヘゲモニーの条件であり、シニフィアンをあらかじめ定まった運動に服させるような超越論的シニフィエに付随する現象としての表現ではない。シニフィエに対するシニフィアンの「解放」――これこそヘゲモニーの前提条件だ――こそ、ラカンの切断線が表現しようとしているものである。コインの裏側、偶発的に課された限界あるいは部分的な固定――これらがなければこの世界は精神病の世界になるだろう――こそ、「クッションの綴じ目(ポワン・ド・キャピトン)」がもたらすものである。(p.94)

ブルース・フィンクは、ラカンには「二つの違った現実的なものの秩序」があるといっている。「(1)文字の前の現実、つまり象徴化に先立つ、最終的な分析では過程にすぎない現実(R1)。(2)文字の後の現実、象徴秩序そのものの要素間の関係から生ずる不可能性と袋小路によって定まる現実(R2)。後者はつまり象徴界によって生産される」。(p.97)

大事なのは、ヘゲモニーのプロセスを考えるにあたって、あらかじめ構成されたヘゲモニー勢力が構造のなかの空虚な場所をたんに埋めるのだとはみないことだろう。空虚なシニフィアンはヘゲモニー的縫合をおこなう個別性に汚染されているが、汚染のプロセスは相互的である。汚染はどちらの方向にも働くのだ。こうして導かれるシニフィアンの自動化作用は、ある種のシンボルの政治的な有効性を理解する上で決定的なものである。一つ例をあげよう。この自動化作用を頭におかなければ、ここ十年の旧ユーゴスラヴィアでの民族差別の噴出はとうてい理解できまい。(p.98)

アルチュセールが好んだ例をいくつかあげれば、プラトン哲学の背後にはギリシャの数学があり、一七世紀合理主義の背後にはガリレオによる自然の数学化があり、カント主義の背後にはニュートンの物理学があるといえる。同じように、われわれはいまだフロイトの世紀に生きているといえるし、現代哲学の革新的で実り豊かな部分の多くは、かなりの程度フロイトによる無意識の発見に対処しようとする試みだといっていいと思う。(p.101)

……二〇世紀思想のサーガとして、違った見取り図を描いてみよう。二十世紀は、直接成、「モノ自体」に直接触れる可能性をめぐる三つの幻想をもって始まった。三つの幻想とは指示対象、現象、記号であり、それぞれ分析哲学、現象学、構造主義という三つの伝統の出発点となった。これ以降、三つの伝統の歴史は驚くほど似通っている。ある段階で直接性の幻想は解体し、それに代わって言説の媒介性こそが一義的で決定的であるというかたちの志向が現れるのである。分析哲学ではヴィトゲンシュタイン『哲学探究』、現象学ではハイデッガーの現存材分析、構造主義では記号のポスト構造主義批判において起こったのがこれだった(マルクス主義ではグラムシがそうだったといえよう)。この歴史の枠組みでは、言語記号の透明性への批判のもっとも重要な契機は、ラカンの「言語主義」に、すでに触れたシニフィアンの一義性という彼の考え方にあったことは明らかだろう。つまりラカンはポスト構造主義者であるばかりか、ポスト構造主義の理論的地平の出現における二つの決定的契機のうちの一つなのだ。もう一つはもちろん脱構築であり、これは決定不能な疑似下部構造の領域を拡大して、結果的にラカンの「象徴秩序のよじれ」の領域をも拡大した――いくつかの点で、ラカン主義のどこよりも徹底したやり方で。(p.103)

……社会的論理とはなにか。もちろんここで言っているのは、型式論理学でも一般的な弁証法の論理でもなく、「親族関係の論理」「市場の論理」と言った表現が暗に含んでいる考えかたである。これらは事物の純化されたシステムであり、ある組み合わせや置き換えを可能にし、それ以外のものを排除する「文法」ないし規則の束であるといえよう。とするとこれはわたしたちの著作のなかで、これまで「言説」と呼んできたものであり、ラカン理論で言う「象徴界」と大まかに一致する。(p.106)

決定的なのは、実体的内容は存在論的機能からは導き出されず、前者は後者のつかのまの実体化でしかないことだ。社会の十全性は不可能であり、次々と現れる偶発的な内容が濫喩的ずらしによって詐称していくしかないものである。これこそがヘゲモニーの意味するところだ。そしてこれはまた、どのようなかたちであれ社会に存在する自由の源泉でもある。社会の「十全性」が「真の」実体的なかたちに――プラトンの言うような良き社会に――達したら、こうした自由はありえず、比喩的運動の代わりにあるのは、完全な、そのものずばりの逐語性だろう。(p.109)

個々の自由な発展が全体の自由な発展のための条件になる社会という、マルクスの仮定を考えてみよう。これじゃ倫理的仮定だろうか、それとも記述的陳述だろうか。明らかに両方である。これは《歴史》の最終的で必然的な運動の記述でもあれば、われわれに同一化を求める目標でもあるのだから。もし自由を自己決定と考えるなら、自由と必然の区別そのものが崩れ去る。二つの面はあまりにも近しいので、別々に分節化することなどおよそできない。だから古典的マルクス主義を、いっさい倫理的なコミットを濾過しさった純粋な記述的科学とするのは誤りである。マルクス主義にないのは分離した倫理論である。(p.110)

……社会の十全性が空虚なシンボルとして姿を表わす不可避の倫理的契機から、なんらかの個別の規範的秩序へ向かうとき、論理的な移行はありえない。個別の規範秩序に対する倫理的な心的備給はあっても、それ自体としてそれ自体のために倫理的な規範秩序は存在しないのだ。だから現代倫理学の真の問題は、記述と規範をどう分節化するかという古臭い議論ではなく、倫理的なもの(社会の十全性が不可能にして必然的なものとして現れる狂気の契機)と、つかのまながらその普遍性――あのとらえがたい十全性――を具体化する実体的な原料となる記述規範の複合体とがどう関係しているか、というより根本的な問題である。この意味でヘゲモニーは倫理的なもの規範的なものとの不安定な関係の名であり、失敗によってこそ権威を得るこの心的備給のはてしないプロセスに呼びかける方法である。(p.111)

決断する主体は、部分的にしか主体でない。彼はまた、堆積した実践が書きこまれる背景でもあり、この実践こそが選択肢の地平に限界をもうけるかたちで規範的枠組みを作り上げている。しかしこの背景が決断の契機を汚染して残存するとして、決断もまた背景を転倒させることで持続していくといえよう。つまり共同体の規範となる背景の構築(これは政治的な作用であって、けっしてたんなる倫理的作用ではない)は、規範による倫理の制限と、倫理による規範の転覆によって起こる。これまたヘゲモニーを語るもう一つの言いかたではないだろうか。(p.113)

わたしが、工場で労働条件の改善を求めているとか、賃上げストライキをやっているとか、なにか個別の目的を唱えて活動しているとしよう。こうした要求には個別の目標があり、それらが達成されれば運動は終わるように思える。しかし別な見かたもあるだろう。要求が求めているのは、じつは具体的に特定された目標ではない。具体的な未来表は、それらを超越したなにかを(部分的に)達成するための偶発的な機会にすぎないのである。このなにかとは、不可能な対象としての社会の十全性であり、これは――まさしくその不可能性によって――完全に倫理的なものとなる。次々と起こるできごとの連鎖が、初めからその個別性とは切り離されているものだとみるなら、この連鎖にも倫理の次元は持続する。(p.114)

もし共同体が何よりも民主的であるなら、規範的秩序の個別性と倫理的契機の普遍性との分節化を、たえず開かれた、最終的には決断し得ないものにしておくことができるかに、すべてがかかっている。どのような種類のものであれ、普遍性を個別性に完全に吸収してしまえば、行き着く先は全体主義か、まったく個別的なさまざまのアイデンティティが跋扈することによる共同体の内部崩壊だろう(全体主義の夢は、良くこうした原子論的な分派主義のかたちをとる。両者の密かな絆は、宗教的あるいは民族的な原理主義がしばしば、文化の多様性を主張するというやりかたで擁護されることからわかる)。自らの基盤の偶発性をたえずします社会だけが、民主的な社会である――われわれの言い方では、倫理的な契機と規範的な秩序との亀裂をたえず開いたものにしておく社会である。(p.116)

階級闘争か、ポストモダニズムか? ええ、いただきます!
スラヴォイ・ジジェク1

ヘゲモニー概念の核心は、社会内差異(社会空間の内部の諸要素)と、社会そのものを非-社会(カオス、完全な頽廃、あらゆる社会的絆の崩壊)から隔てる限界との、偶発的な結びつきにある――つまり、社会的なものの限界、その外部にある非社会的なものとの境界線は、(ある特定の差異がその場所に置かれて)社会空間のなかでの諸要素間の差異として見えてこない限り、表現されないのである。いいかえると根源的な敵対性は、制度内部にある特定の差異を通じて、歪んだかたちでしか表象されない。だから、ラクラウの論点は、外的差異はつねに内的でもあること、しかも両者の結びつきは絶対に偶発的なものであるということだ。それはヘゲモニーに向かう政治闘争の結果であって、差別化される行為体の社会存在そのものに刻みこまれているわけではない。(p.126)

プロレタリアートを唯一の「歴史の主体」と見なし、経済的階級闘争を特権化する「本質主義的」マルクス主義から、ポストモダンな闘争の不可避の複数制への変化という、ポストモダン左翼のお決まりの物語は、確かに現実の歴史の動きを描いている。しかしこの物語の語り手はどうしたって、心の奥の諦念を見て見ぬふりをしている。彼らは資本主義を「街で唯一のゲーム」として受け入れ、現存する資本主義リベラル政体を乗り越えようとするどんな現実の試みも拒絶しているのだ。エェンディ・ブラウンは、この点を明快に説明している。『現代アメリカにおけるアイデンティティの政治は、ある意味資本主義をふたたび自然とみなすことによって達成されている』。(p.130)

ポストモダン政治の明らかな功績は、それまで「非政治的」とか「私的」と思われていた領域を「再政治化」していることにある。しかい、ここで資本主義は再政治化されていないという事実は変わらない。というのも、ポストモダン政治が作用している「政治的なもの」の概念と型式は経済の「脱政治化」にもとづいているからである。政治的主体化の複数制というポストモダン・ゲームでは、いくつか問わない質問があるのがゲームの決まりである(資本主義をどう倒すのか、政治的民主主義そして/あるいは民主主義国家の本質的限界とはなにか……)。(p.134)

わたしの結論は、ラクラウの敵対性の概念で働いている不可能性の二重性を強調することである。「根源的敵対性」とは、《社会》の十全性を正しく表象/記号化するのは不可能であることを意味するだけではない。いっそう根源的なレベルで、《社会》が十全な存在を実現するのを阻む敵対性否定性そのものを正しく表象記号化することもまた不可能である。つまりイデオロギー幻想は、たんに《社会》の不可能な十全性を夢見る幻想なのではない。《社会》が不可能なばかりか、この不可能性そのものがイデオロギーの領域では歪められて表象-実体化されるしかない――これこそイデオロギー幻想(たとえばユダヤ人陰謀説)の役割である。この不可能性そのものが実体的な要素によって表象されると、内在的な不可能性は外在的な障害物へと変化させられる。「イデオロギー」とは畢竟、《社会》が十全になることを阻む絶対的な否定性など存在しないという保証の別名である。(p.136)

普遍性が「現実」になるのは、まさにその基盤をなす排除を問題として取り上げ、それらを絶えず問いかけ、再交渉し、置換させていくことによってのみである。つまり、その形式と内容の亀裂を認め、その観念自体が達成しえないものであると考えることによってである。これこそ、「パフォーマティヴな矛盾」を政治の武器として用いるというバトラーの考えが目指すものだ。支配的イデオロギーが、それ自身の公約に認められた普遍性を――実際の言説実践と、その実践の足場になる一連の排除において――突き崩し、パフォーマティヴに「騙して」いるなら、革新政治は、そのパフォーマティヴな矛盾をあからさまに実践し、与えられた普遍性を利用して、その普遍性が(そのヘゲモニー形式では)排除している内容を肯定するものである。(p.138)

わたしという存在、わたしの具体的な社会的ないし文化的な背景は、偶発的なものとして経験される。最終的にわたしを規定するのは、考えそして/あるいは労働するという「抽象的」普遍的な能力だからだ。また、わたしの欲望を満たしうるものはすべて、偶発的なものとして経験される。わたしの欲望は「抽象的」形式的な能力とみなすしかなく、それを満たすかもしれない――しかしけっして完全には満たさない――多種多様な個々の事物には関係していないからだ。(p.142)

……わたしの問題は、歴史主義そのものをいかに歴史化するか、である。「本質主義的」マルクス主義からポストモダンの偶発的な政治への移行(ラクラウ)、あるいは性の本質主義から偶発的なジェンダー形成への移行(バトラー)、あるいはさらに例をあげれば、形而上学者からアイロニストへというリチャード・ローティの移行は、ただの認識の深化ではなく、資本主義社会の性質そのものの全地球的な変化の一部である。……本質主義から偶発性への意識の変化を説明するには、ある種のメタ物語が必要だろう。ハイデッガーなら《存在》の新時代、フーコーなら支配的エピステーメ、社会学ならふつう近代化というだろうし、この移行は資本主義の大きな動きに伴っているのだというもっとマルクス主義的な説明も……(p.143)

歴史主義が、同じ原理的な(不)可能性の領域のなかでの終わりなき置き換えのゲームを語るのに対して、真の意味での歴史性は、この(不)可能性そのもののさまざまに異なる構造原理の問題である。いいかえれば、終わりなき置き換えのゲームを歴史主義が問題にするとき、そこにあるのはまさに非歴史的なイデオロギー的閉止の型式である。歴史主義は、本質主義-偶発性という単純な二者関係と、いっぽうからいっぽうへの移動だけに注目することによって、《社会性》のグローバルな構造原理そのものの変化という、具体的な歴史性を曖昧にぼかしてしまう。(p.150)

これ(レヴィ=ストロースが「ゼロ制度」とうまく名づけたもの)は一種制度化されたマナのようなもので、はっきりした意味をもたない空虚なシニフィアンである。これが意味するのは、意味の不在に対立する「意味」そのものの存在でしかないからだ。はっきりした実体的な機能を持たない特定の制度――その唯一の機能は、なんらかの社会制度が現実に存在しているという信号を発して、制度の不在、全社会的カオスに対立するという、完全に否定的なものである。こうしたゼロ制度を参照することで、部族のメンバー全員が、自分たちを一つの部族に属するものとして経験することができる。とするとこのゼロ制度は、イデオロギーのもっとも純粋なかたちではないか。これが体現するイデオロギー機能とは、社会の敵対性が忘れられ、社会のメンバー全員が自分たちを認識できるような、すべてを包みこむ中性的な空間を提供することではないか。ヘゲモニーをめぐる闘争とはまさに、このゼロ制度がいかに重層決定され、個別の意味作用によって色づけられるかをめぐる闘争ではないだろうか。(p.152)

近代的な国家の観念は、こうしたゼロ制度ではないだろうか。直接の家族や伝統的な象徴基盤に根ざした社会の紐帯が溶け去るとともに、つまり近代化の波によって、社会制度が自然な伝統ではなく「契約」の問題として経験されるようになったとき、近代国家は現れたのではないか。とくに重要なのは、国家のアイデンティティがとりあえず最小限に「自然」なものとして、「地と土」に根ざしたものとして経験されること、だから本来の意味での「人工的な」社会制度(国家制度、職業……)とは対立したものとして経験されることである。前近代の諸制度は、「自然化された」象徴的実体……として機能していたが、制度が人口品とみなされるようになったとたん、自然な共通の足場の役目をはたす「自然化された」ゼロ制度が必要となってきたのだ。(p.152)

どちらの場合も――国家でも性的差異でも――「前提を措定する」ヘーゲルの論理に固執するのが大事だろう。国家も性的差異も、文化によって後から表現/「媒介」される直接的/自然な前提ではない――どちらも象徴化という「文化」プロセス自体によって設定(前提)されている(後から遡及的に措定されている)のである。(p.153)

……《現実界》が《象徴界》に内在しているがゆえに、《象徴界》を通して《現実界》に触れることが可能である。これがラカンの精神分析治療の考えのポイントであり、精神分析は行為である――定義上、なにか不可能な《現実界》の次元に触れる身ぶりとしての行為である――というラカンの考えはここからきている。(p.162)

狭い意味の政治の領野では、今日の左翼のほとんどは、右翼の基本的前提(「福祉国家の、際限ない支出の時代はもう終わった」云々)を受け入れろというイデオロギー的脅迫に屈している――結局、現代の社会民主主義の「第三の道」として賞賛されているのはこれである。 (p.163)

行為は、われわれのアイデンティティを承認された部分と否認された部分に分けている境界を、もっと否認された部分のほうに動かすだけではなく、内奥で否認された「不可能な」幻想を可能なものとして受け入れさせる。われわれの存在の基盤である否認されたファンタジーの座標そのものを変化させるのである。 (p.165)

……真正の行為は、わそれが揺るがすヘゲモニーを握る象徴領域に対して、たんに外的なのではない。行為はなんらかの象徴領域に対してのみ介入であり、行為である。つまり、象徴領域はつねに定義上それ自体「脱中心化」されており、空虚/不可能を中心に構造化されている(私的な自分語りは、なんらかのトラウマと向かい合おうという最終的に挫折する試みのブリコラージュである。社会組織は、その構造を規定する敵対性をずらし/ぼかすという最終的に挫折する試みである)。行為は象徴領域を揺るがすが、その介入はどこからともなくなされるのではなく、まさにこの内在的な不可能性躓きの石隠れた否認された構造原理の立場からなされる。失敗の地点、構造的な空虚――アラン・バデューのことばを借りれば、所与の布置における「象徴的よじれ」――に介入する真正の行為とは対称的に、真正でない行為は、すでにある布置の実質的十全性を持ち出して自己正当化をはかる(政治の領域なら、《人種》《真の宗教》《国家》等々……)。この布置のバランスを乱す「象徴的よじれ」の、わずかな痕跡をも消し去ろうとするのだ。 (p.166)

政治的右翼と左翼の主要な対立形態は今日、マルコ・レヴェッリがいうように、「現実にあるのは、二つの右、『ポピュリストの』右(自分で『右』と名のるほう)と『テクノクラートの』右(自分では『新左翼』と名のるほう)との対立」ではないだろうか。現在のアイロニーは、《右翼》のほうがそのポピュリズムのゆえに、伝統的な労働者階級(ともあれその残滓)の現実のイデオロギー的立場をより表現していることだろう。 (p.171)

……《社会》の十全性の不可能な実現と、部分的問題の実際的な解決との対立は、非歴史的なアプリオリというより、いわゆる「大きな歴史-イデオロギー物語の崩壊」という歴史的契機の表れなのではないだろうか。 (p.176)

競合する複数の普遍
ジュディス・バトラー2

……ジジェクが『汝の徴候を楽しめ!』のなかで、ひとの社会的現実を開始させ、それを否定的に規定する欠如について述べたとき、彼は社会的現実を超越する構造を措いた。そしてその構造の前提にあるのは、異性愛家族をあらゆる人間の社会的絆を規定するものとみなす、虚構的で理念的な親族関係に基づく社会である。(p.191)

わたしが指摘したいのはただ一つ、起源のトラウマというきわめて理論的な公準の前提には、親族関係と社会性を構造主義的に解釈する理論――文化人類学によっても社会学によっても激しく異を唱えられており、また地球上のあらゆるところに出現している新しい家族形成には徐々に合わなくなってきている理論――があることだ。フーコーが、後期近代社会の形態は果たして親族関係のシステムによって規定できるのかどうかを問いかけたのは正しかったし、文化人類学者のディヴィッド・シュナイダーが説得的に示してきたのは、民俗学者たちが、異性愛と生物学的な再生産を親族組織の参照点とみなすような(文化を超越する)考えを死守しようとして、いかに親族関係を人為的に構造化してきたかということである。(p.193)

フロイトとフーコーを接続することで、わたしは、社会的権力と心的現実の二重作用を説明する行為体(エイジェンシー)の理論を作ろうとしてきた。この試みは……、そもそもフーコー流の主体理論が不十分であることから発したものである。フーコー流の主体理論は、行動が機械的に再生産される行動科学の運動論や、「内面化」という社会学の概念に頼っており、こういったものはアイデンティティ主義に実践につきものの不安定性をきちんと認識できていないからである。 (p.204)

わたしは、目下優勢な自我心理学が避けている精神分析の前提、つまり、主体は予めの排除を土台に出現する(ラプランシュ)という前提は受け入れているが、この予めの排除が社会性の消失点であるとは思っていない。個体化には無意識――すなわち残余――を生みだす予めの排除が必要だということは当然かもしれないが、無意識は前-社会的なものではなくて、語り得ない社会性を保持する方策であることも、また確かなことだ。無意識は、意識的で社会的な生の界域のなかに必要不可欠な間隙を、結果として作りだす心的現実――社会的な内容を純化させた心的現実――などではない。無意識は現在進行中の心的状況でありそこでは規範が規範化と非規範化の両方をつうじて登録される。つまりそこは規範の強化や解除や逆用がなされる公準化された場所であり、(かならずしも意識的意図的にはおこなわれない同一化や否認において規範が流用される予測不可能な軌道なのである。主体の基盤である――また主体を不安定化させる――予めに排除は、権力の軌道をつうじて分節化される (p.207)

フーコーは自分の理論と精神分析の類縁性には気づかなかったが、彼がはっきりと理解していたことは、意図によって完全に支配されない言説実践が生みだす「偶然の結果」は、言説を破壊したり変容させる効果を持つということだ。この意味で精神分析は、政治実践につきものの偶発性やリスクを理解するときの手助けになる。偶発性やリスクとは、慎重に意図していた目的が、権力のべつの作用によって転覆させられ、もともとは認めていなかった結果を生みだすことである……。(p.214)

現存の権力制度によってこのように逆転される可能性や、完全な接収が懸念される可能性があるために、多くの批判的な知識人は、活動にかかわる政治に参与するのを避けている。自分が批判的に検討しようと思っている概念を、受け入れざるを得なくなるのではないかと恐れているのだ。 (p.214)

……ラクラウの議論が大いに依拠している操作仮定は、既存の社会セクターや政治組織がいまだに自分たちの要求が普遍的結果を生むことを立証していないときには、それらは「個別的」であるという仮定である。そもそもの始めから政治領域は、個別的な抵抗様式と、うまく普遍の主張をなし得た抵抗様式とに分割されているようだ。後者の主張をする人々は、一方で個別という立場を失わずにいながら、他方で、個別と普遍が一体化するのではなく、普遍を代理するようになるときの代表/表象の非共約性の実践に関わっているのである。 (p.223)

翻訳がヘゲモニーをめぐる闘争に役立つためには、支配言説は、「見慣れぬ」語彙をそれ自身の辞書の中に組み入れることによって、それ自身が変化しなければならないからだ。性的権利を求める性的マイノリティの運動の普遍化効果は、普遍そのものについて再考をうながすものでなければならず、普遍という言葉を、その競合する意味作用や、それらが描いている多様な生の形態のなかにバラバラに分けて行き、そして次にはこういった競合する語を縫い合わせて、巨大な一つの運動にすることだ。……ジジェクと逆にわたしが強く信じていることは、政治的に必要とされる翻訳は、多文化主義の形態に積極的に参与するものであること、また多文化主義の政治を個別性の政治に収斂していくのは間違いだということである。政治的に必要とされる翻訳は、競合し重なり合う複数の普遍主義を裁定して、一つの運動に作り上げるための、翻訳の政治として理解されなければならないとわたしは信じている。 (p.227)

主流派のゲイの政治運動は、結婚の権利を勝ち取ろうとして、現存の制度は同性同士のパートナーに対しても扉を開くべきであるとか、結婚はもはや異性愛者に限定すべきではないと訴えてきた。……私たちはついつい拍手喝采したくなり、これは個別運動のラディカルな普遍化効果といったものを表していると考えたくなる。だがこの戦略への批判として、婚姻制度(あるいは軍隊)への参入を求めることは、当の制度の権力を拡大させることになり、それによって親密な連帯関係を、国家によって合法化されたものとそうでないものに分割する悪しき区別をますます増強させることになるという批判があることも考えて欲しい。 (p.236)

結婚を求める企てが成功すれば、その結果として婚姻関係が、ある種の権利や資格を行使するために必要な、国家によって認可された条件として強化されることになる。すなわちそれは、人の性行動を規制しようとする国家の力を強化することになり、パートナーシップや親族関係をめぐって、合法形態と非合法形態の区別をますます強くすることになる。 (p.236)

そういった人たちが破棄するのは、性的関係を持たずに自立しているシングル・マザーやシングル・ファーザー、離婚した人々、実際上も社会的身分の上でも婚姻関係にない人々、また多様な……性的関係をもっていて、モノガミーでない生き方をしており、婚姻によって作られる仮定に(一義的な)価値をおかないセクシュアリティや欲望をもち、あまり現実的でも合法的でもないとみなされている生き方をし、社会的現実の影の部分で生きているような、ほかのレズビアンやゲイやトランスジェンダーの人々との連帯である。 (p.237)

……合法化効果をラディカルに民主化するための唯一可能な方法は、結婚を、さまざまな種類の法的資格の前提条件という立場から、解き放つことである。このやり方は、結婚という支配用語を解体して、文化や市民社会レベルでの複合形態の可能性の方を広げるような、国家中心的ではない連帯形態に戻していくことを、積極的に求めるものだろう。 (p.238)

構造、歴史、政治
エルネスト・ラクラウ2

資本主義下の商品の運動は、その個別の性質とは関係なく、それらの商品を同等な価値の担い手にする。この抽象化は、社会関係そのものの構造を直接作りだしている。商品の形式的性質は、アプリオリな形式主義によって押しつけられるのではなく、それらの具体的な相互作用のなかから生まれてくる。もう一つ例をあげれば、人権の言説がある。人はみな人間として権利を持つと主張するには、人種、ジェンダー、地位その他の差異を抽象化しなくてはならない。ここにも、制度やコード、実践などに体現された、具体的な歴史効果を生みだす抽象化がある。 (p.256)

イタリアでは、ナチ占領軍に対する解放戦争の時代、ガリバルディ主義とマッツィーニ主義の旗印は、一般等価物として――ソレルのいう意味での神話として――機能していた。どんどん増えていく社会の要求を書きこむ表紙になるべく、普遍化した言語だったのである。この普遍化が進むにつれ、二つの旗印はますます、自由、正義、自立などと同義になった。それぞれの表象の領域に書きこむ社会的要求の数が増えて行くにつれ、それらはますます空虚になり、社会のある個別の利害だけを表象することはますます少なくなった。やがて両者は、社会の存在しない十全性の、欠如しているもののシニフィアンになった。 (p.257)

バトラーが明らかにしているように、普遍的なものはつねに具体的な状況から生まれ出てくるのだから、個別主義の痕跡はつねに普遍的なものを汚染してくるだろう。バトラーは、普遍主義を帝国主義のイデオロギーの一つとしてあげているが、同じことは普遍主義が逆の意味の記号――抑圧された人々の記号となる場合にもいえる。汚染はやがて異種混淆へと至り、こうして個別主義と普遍主義は切り離せなくなる。 (p.259)

彼女はわたしの「差異」の概念を、「排除」や「敵対性」と同一視しているが、これは明らかに間違いである。私の理論では「差異」は実定的な同一性であり、いっぽう政治空間の敵対的な再編はすべて、等価性というカテゴリーに結びついているからだ。私は、社会性を構成する論理のなかに、二種類の作用を区別しようとしてきた。差異の論理は、社会の範囲内で個々のものの位置を定めるが。等価性の論理は、ある個別性を、ほかの無数の個別性と置き換え可能なものとして「普遍化する」……。 (p.259)

現実の闘争にたずさわる歴史の舞台の登場人物にとって、どんな種類のシニカルな諦観もない。 彼らの現実の目的こそ、彼らが生き戦っている地平を構成するのだから。究極の十全性はけっして達成されないと述べることは、宿命論や諦念を唱えることとなんの関係もない。むしろそれは人々にこう語る――自分で戦いとるものだけがそこに存在するのだ。現実の闘争はいかなる先立つ必然性にも縛られていないのだ、と。(p.263)

ジジェクが語る置き換えの終わりなき戯れには、一つの可能性が排除されている。不可能性が、それに取って代わろうとする置き換えの連鎖へと向かう代わりに、不可能性それ自体を実体的な価値として象徴化することへ向かう可能性である。……この作用にはまだ自然化の要素がある。名前のないなにか――パスカルのゼロのような――に名を与えることは、明らかに実体ではないものから実体を創り出すことだからだ。……この弱いタイプの自然化の可能性こそ、民主主義政治にとって重要なものである。民主主義政治は、それ自身をつねに開いた状態にしておく制度を伴わなければならないし、この意味で、民主主義の究極の不可能性と同一化せよという指令がつねに発せられていなくてはならない。 (p.267)

大事なのは、「非歴史的超越論/根源的歴史主義」という偽りの二者択一を打ち壊すことである。これが偽りの選択肢なのは、両者は互いを前提としあっており、最終的にはまったく同じことを言っているからだ。根源的な歴史主義を唱えるとしたら、時代による差異を特定するためのメタ言説が必要になるだろうし、。そうした言説は超歴史的にならざるを得ないだろう。 (p.269)

……極端な搾取がない限り、資本主義に対する労働者の態度は完全に、彼ないし彼女のアイデンティティがどのように構成されているかにかかっている――ずっと昔から、組合運動の漸進改革的傾向を目の当たりにした社会主義者が知っていたことである。労働者の要求には、内在的に反資本主義的なものはなにもないのだ。(p.270)

決定的なのは、反システム闘争において、アプリオリな特権を享受できるような特別な場所はシステムのなかにないことだ。文化多元主義闘争それ自体が革命の主体を作り上げるとは思わない。労働者階級が即革命の主体でないのと同じである。しかしだからといって、こうした要求に反対するつもりはない。組合の要求は原理的には資本主義内部で満たされるだろうが、それでもわたしは組合活動を支持するし、文化多元主義その他特定の問題を扱う集団の要求は、それらが資本主義支配の終わりを告げると考えなければ支持できないというものではない。(p.271)

ジジェクの著作でびっくりするのは、彼がマルクス主義を公言していながら、マルクス主義の知的伝統になんら注意を払わないことである。彼が用いるカテゴリーには、この伝統のなかで洗練され、ずらされ、――便利な言葉でまとめれば、脱構築されているものもあるのに、ジジェクのマルクス主義概念、実例、議論は、すべてマルクス自身のテクスト下、ロシア革命からとられている。(p.272)

たしかに福祉国家モデルが崩壊して以来、文化的左翼は経済に十分な注意を払ってきていない。しかしこれに取り組むためには、まずこの三十年間に資本主義に起こった構造変化とその社会への効果を考慮しなくてはならない。農夫の消滅、労働者階級の劇的な減少、マルクスの階級分析の基盤になっていたものとはまったく異なる社会階層性の出現……。(p.275)

……彼(ジジェク)の狭義の政治思想は同じ速度では前進しておらず、ごく伝統的な枠組みに捉えられたままなのである。しかしこの不均衡は知的作業にはつきものである。故ミシェル・ペシューは、二〇世紀の偉大な出会いはついぞ起こらなかった、と言っていた。フロイトとレーニンが、未来主義者デザインによるオリエンタル急行に乗ってソシュールの「価値」の概念を論じるといったことは起こらなかったのだ。(p.275)

……権力はさまざまな機構と社会セクターに対して不均衡に分配されているといえる。この権力の二つの次元――不均衡と排除――が存在するために前提は、普遍性は個別性に依拠していることである。純粋な普遍性として作用する普遍性などなく、ある個別的な核を中心に等価性の連鎖を拡大して作られる、相対的な普遍性だけがある。(p.277)

……いまわれわれが生きている時代では、これまでの大きな解放の物語が急激に衰え、この衰退の結果、灯火機能を果たす普遍化の言説がおいそれとは見あたらなくなっている。ジジェクが正しく警告しているのはこの危険、個別主義がただの個別主義にとどまり、支配システムに取り込まれる危険である。(p.278)

……意味のある闘争はすべてセクト的アイデンティティを超えて、複雑に表現された「集合意志」になるはずだ。こうして真に政治的な動員は、それを担うのがおもに労働者であって、けっしてたんなる「労働者階級の闘争」ではない。個々にも現代政治の基本的ディレンマがある。新たな社会行為者の増殖によって、等価性の鎖は拡大し、より強力な集団意志が出現するのか。それともこれらの行為者はただの個別主義に陥って、システムはやすやすと彼らを取りこみ従属させるのだろうか。(p.279)

……左翼の危機は、伝統的にその言説の構造をなしていた二つの地平の衰退の結果ということになる。共産主義と、西側においては福祉国家である。一九七〇年代初め以来、ヘゲモニーを握ってきたのは右翼であり、たとえば新自由主義と道徳多数派が、書きこみと表象の主な表面になってきた。社会民主主義政党すら右翼の前提を新たな論駁不能の「常識」として受け入れていることからも、右翼のヘゲモニーは明らかだ。……言い切ってしまおう。新たな社会的想像力を打ち立てなければ、左翼の再生はありえない。(p.280)


以下くり返し(ダカーポ・センツェ・フィーネ)

スラヴォイ・ジジェク2

アプリオリな理由によって個々の文化がたんに個別であるということはけっしてなく、個別の文化がすでにそれ自身において「それが主張する言語的境界を横断している」からこそ、普遍性の概念が現れるのである。バトラーは翻訳のない普遍性は存在しないと強調するが、わたしはむしろ、現代において正反対の面を強調することが重要だと言いたい。翻訳のない個別性は存在しないのだ。……翻訳作業はつねにすでに始まっている。言語的境界はつねにすでに乗り越えられている……。(p.288)

《資本》のなめらかな機能は、抑制されないヘゲモニー闘争において、つねに変わらず「自分の場所に回帰してくる」。バトラーとラクラウ両方が、古典的「本質主義的」マルクス主義を批判しながら、暗黙のうちにいくつかの前提を受け入れているという事実にも、この点が現れていないだろうか。彼らは、資本主義市場経済とリベラル民主主義静態の原理をけっして問い質そうとしない。まったく違った経済-政治体の可能性をけっして思い描かない。「ポストモダン左翼」はこうした問題を放棄しており、こうして二人もその列に加わる。彼らが提言する変化はすべて、いまここにある経済-政治体のなかでの変化にすぎないのだ。(p.297)

公的世界にもっと女性がいるべきなのは、女性にすぐれた心理的社会的資質があるからではなく、単純な民主主義-平等主義の原理(バリバールのいう自我-自由)のゆえである。女性は、いかなる特定の資質のためにでもなく、たんに人口の半分を占めているから、公的意志決定に重要な役割を担う権利があるのである、(p.301)

われわれの経験に対する「哲学的基盤」は不可能であり、しかし必然的である――知覚し、理解し、表現するもののすべては、もちろんすでにある理解の地平によって重層決定されているが、この地平そのものは究極的には測り得ない。デリダはこうして、哲学そのものの可能性の条件を探し求める一種のメタ超越論者である。――この決定的な点、デリダが哲学言説を内側から掘り崩しているという点を見逃すと、「脱構築」は素朴な歴史主義的相対主義の一種でしかなくなってしまう。ここでのデリダの立場はフーコーとは正反対である。フーコーは、彼が語っている立場が可能であるかどうかは、彼自身の理論の枠内では説明できないと批判されたのに答えて、陽気にこう返したものだ。「その種の質問は気にしない。資料ファイルが主体のアイデンティティを作るという、警察の言説に属する質問だからね!」(p.307)

……脱構築には二つの禁止がある。「素朴な」経験主義的方法(それでは問題の素材を注意深く調べて、それから一般的な仮説を立てましょう……)を禁ずるとともに、宇宙の起源と構造についての全世界的で非歴史的な形而上学をも禁じているのである。そして脱構築的カルチュラル・スタディーズに対する最近の認知論者の逆襲が、まさにこの二つの禁止を破っているのは興味深い。(p.308)

……本来の脱構築の特徴である循環的な相互依存が、政治哲学にもみられる。ハンナ・アレントは、権力、権威、暴力をきわめて洗練されたかたちで区別した。権力が働くのは、直接の日政治的権威が動かしている組織(政治的な基盤の権威に頼らない命令によって動く組織、つまり軍、境界、学校)でも、暴力の直接支配(テロル)においてでもない。しかし政治権力と前政治的暴力との関係は、互いに互いをふくんだ関係である。(p.309)

ダイナミックな複数の結論
ジュディス・バトラー3

哲学がそれ自体を現実化すれば、哲学はその理念性を失うことになり、その喪失は哲学自体の死をもたらすだろう。したがって哲学がその目標を現実化することは、哲学が、哲学としてのそれ自身の位置を解体することになってしまうだろう。一方では、哲学が敵対している相手は「世界」であり、「世界」はちょうど現実化されたものが現実化されないものに対してそうであるように、哲学を見張り、哲学に退治している。だが他方で、まさにこの「世界」が、いまだ現実化しえていない様相をとった哲学自身なのである。だから哲学がそうなりたいと望んでいるものは、現実化から距離を保っている現実化なのかもしれない。この距離が非反省の条件であり、省察的で批判的な実行としての理論に土台を与えている非-共約性なのである。(p.351)

言いたいことはただ一つ、どんな目標が達成されるにしても(そしてかならず達成されるのだが)、民主主義そのものはつねに達成されないということだ。つまり、個別的政治や立法的勝利は、民主主義の実践を汲み尽くすものではなく、民主主義の実践にとっては、なんとか永遠に現実化しないでいることの方が重要である。(p.353)

思うに民主主義の理念性――完全で最終的な現実化に対する民主主義の抵抗――を非辞しておく理由は、まさに民主主義が誘拐知るのを防ぐためである。……さらに言えば、「批判的」知識人として機能することの意味は、(マルクスが言いそうな言葉を使えば)哲学の理念性と世界の現実性の間に距離を置くことではなく、理念の理念性とそれを実例化するときの様態の所与性との間に距離を置くことなのである。(p.354)

どのような個々の文化においても自己同一性(セルフ・アイデンティティ)というのはなく、文化の自律性の名のもとにほかの文化とのあいだに垣根をつくっている文化は、たとえそれ以外の場所では起こっていなくても、その境界上では起こっている文化の交錯によって、いくぶん攪乱されているのである。(p.363)

彼(ジジェク)は脱構築や歴史主義やカルチュラル・スタディーズを一緒くたにして(リン・チュイニーやロジャー・キンブルと言った合衆国の保守的知識人がよくやる手)、それよりも上位に、それらに敵対するかたちで、哲学を価値づけようとふたたび主張する。なぜなら脱構築などの実践は、さまざまな文化形式がつくられるときの偶発的な生産条件を明るみにだすプロジェクトに寄与するもので、生産の系譜を探るこの種の探求は、型式それ自体の存在や真理値に関するもっと基盤的な探求の代用でしかなく、むしろそれを消し去るものだと理解しているからだ。わたしはこういった探求の間の区別を受け入れてはいないし、この区別がジジェクが記述しようとしている学問の諸潮流にうまく当てはまるとも思っていない。(p.367)

ジジェクは脱構築を、それが表面的には禁止しているように見えているものの次元で定義して、あたかも脱構築が問題化している概念は、その概念の脱構築によって語りえなくなるかのように述べた。ここで彼が見落としているのは、デリダやスピヴァックやアガンベンによってそれぞれ別様に練り上げられた「肯定的脱構築」が、現在流通していることである。ある種の概念が登場するための言説条件というものがあるが、それらが文脈を横断して反復されうることこそ、その肯定的な書き換えができるための条件をなしているものである。したがってこう問いかけることができるだろう。表面的には反-人間主義的な理論のなかで、「人間的なもの」はどういう意味を持ちえるのか。(p.368)


普遍性の構築
エルネスト・ラクラウ3

わたしは、一般論理があらゆる可能な言語の基盤を打ち立てるという考えを退け、まったく反対に、論理は文脈に依存する――市場や近親関係その他、そのとき参加している言語ブームに左右される。と主張している。 (p.374)

規則の集合プラスそれを実行し/歪曲し/転覆する行動こそ、われわれのいうところの「言説」であり、また個別の言語ブームではなくその複数制の間の相互作用/分節化――ヴィトゲンシュタインのいう「生の型式」――について言うなら、「言説編成」を語ることになる。……言説編制はそのなかに、さまざまの矛盾する方向で規則を転覆しねじ曲げる敵対性と、ヘゲモニー的な再分節化を含まざるをえないのだ。言説編制がもちうる一貫性は、ヘゲモニーの一貫性でしかありえないし、実際ヘゲモニーの論理が完璧に作用するのは、言説編制のレベルにおいてなのである。 (p.376)

バトラーは現実の世界について、現実の闘争でぶつかる戦略上の問題について語っているから、彼女とは政治を議論できるが、ジジェクとは同じスタート台に立つことすらできない。彼から得られるものといったら、資本主義を転覆しろとか自由民主主義を捨てろといったなんの意味もない命令である。 (p.383)

マルクス主義の「階級」概念は、アイデンティティの無数の鎖のなかに取りこむことはできない。すべてのアイデンティティは、階級という分節化の核のまわりで成立すると考えられているからだ。この分節化の機能が失われ、複数のアイデンティティを含みこむ鎖の一部になってしまったら、「階級」とはなにを意味するのだろうか。……ここにあるのは「浮遊するシニフィアン」に近いなにかなのである。 (p.391)

マルクス主義において階級の統一性は、主体的立場の集合として見られる。この立場は、生産関係における社会的行為者の位置によって核が設定され、組織的に相互に結びついて独立したアイデンティティを作るとされる。こうした概念は、もし以下のような傾向が続けば危険にさらされる。(a)主体の立場は組織性を失い、社会的行為者のアイデンティティを強化するどころか脱中心化する。(b)アイデンティティを分割する論理が階級の境界を切り裂き、階級的立場とは重ならないアイデンティティを作りだす傾向をもつ。(c)生産過程における位置は、社会的行為者の全体的アイデンティティを規定するにあたって中心ではなくなる。 (p.395)

……ポストモダン理論の過ちは、階級アイデンティティの崩壊と古典的な全体化形式の解体に気づいたのはよいが、現実の諸要素が散乱したとそこで主張して、「分節化」というカテゴリーをおろそかにしてしまっていることだ。要するにポストモダンは、古典的な全体化言説の認識論上の過ちを、現代社会で進んでいる存在論的状況とみなしてしまっている。 ……ジジェクは、ポストモダニズムにある種の倒錯的逸脱を見てとり、分節化と全体化の次元を求めて、「階級闘争」のような伝統的なマルクス主義の概念に――それを覆す客観的な歴史傾向の分析にまったく手を染めずに――回帰する。逆に私は、ポストモダニズムの問題提起を受け入れ、ポストモダン言説が明らかにした個別主義的傾向を尊重しながら、分節化の論理を保とうとしている。(p.396)

等価性の論理は、ここの要求の個別性を超越するような意味をそれぞれに担わせて、要求を普遍化するが、変異作用は、潜在的な等価性を中和して、ここの要求を個別化する。この第二の、透過性の論理の正反対の論理は、差異の論理と呼べるだろう(結局これがジジェクの心配している可能性である。新しい運動の要求はあまりにも特定的なので、変容したシステムに取りこまれてしまい、さらに普遍的で開放的な意味を担うことをやめてしまうかもしれない)。 (p.398)

……ヘゲモニーの作用を三つ特定できる。等価性の論理。それに付随して、ある個別のものが普遍性を表象する機能を引き受けること。そして等価性の鎖の連関を切り離す差異の論理である。この三つの作用をわたしは、分節化の論理と言ってきた。(p.399)

等価性の鎖はつねに妨害され、意味と同一性を等価性の鎖を通じて作り出すほかのヘゲモニー的介入によって中断される。たとえば「女性」ということばは、フェミニズム言説と道徳的多数派の言説では違った等価性の鎖の一部をなす。複数の戦略が同じ言説空間で作用する結果、争点となるシニフィアンに結びつく意味は、本質的に固定できない。空虚なシニフィアンが、揺るぎない等価性の鎖を一つにまとめる一般等価物のことだとして、互いに中断し合う複数の言説からくる非固定性の結果空虚になるシニフィアンを浮遊するシニフィアンと呼ぼう。 (p.401)

なぜこれほどの知的ゆがみという代償を払っても、労働者階級の中心性というテーゼを守らなければならないと感じられるのか、自分自身に問うてみても良いだろう。理由はおもに情緒的なもので、労働者階級こそ解放の主体であるという考えが左翼の政治的想像力のなかにいかに深く根を張っているかを発見するのに、プロの精神科医はいるまい。 (p.403)

 

場を保つ
スラヴォイ・ジジェク3

法的に結婚したゲイは、いかにも結婚らしい結婚に含まれないすべての人(片親、一対一関係をもたない主体)との連帯を壊してしまう(ラクラウの用語でいえば、等価性の鎖から自分を排除してしまう)。しかも彼らは、私生活を規制する国家装置の権利を強化させてしまう。逆説的な結果は、地位が法的に保証された人々と、影に隠れた生活を送る人々との亀裂が拡大するということである。バトラーの代案は、法的な結婚形式を権利(相続、親権その他)の条件とするのではなく、こうした権利を結婚という型式から分断し、それらを独立したものにすることである。 (p.411)

……わたしはバトラーの政治目標を支持するが、なにより見てとれるのは、彼女が国家権力をフーコー的に理解し、それを支配と規制、包摂と排除の担い手として見ていることである。つまり権力へに抵抗は当然、公的な権力の網から排除、あるいは半ば排除されて、社会空間に居場所をもたず、自分の象徴的アイデンティティを主張できず、影のような亡霊の半-存在となっている人々の、周縁的な領域におかれる。この結果バトラーは他のどこより、市民社会のなかで国家の規制メカニズムに対して起こるこれら周縁的な行為者の抵抗に、解放闘争を位置づけることになる。それではこの枠組みのどこが問題なのか。バトラーが考慮していないのは、国家権力自体が内部から分裂し、それ自身の猥褻で亡霊のような裏面のうえになりたっていることである。公的な国家装置は、つねにその影の分身、公的に否認された儀式、書かれざる規則や制度や実践などの網の目によって補完されている。 (p.412)

ヘゲモニーを握る象徴的政体によって排除され、亡霊的半-存在として生きる周縁の人々だけが問題なのではない。問題なのは、政治的自身が生き延びるために、亡霊的で否認された、公共領域から排除されたありとあらゆるメカニズムに頼らざるをえないということだ。国家と市民社会の対立すら、現代ではきわめて曖昧である。道徳的多数派がしばしば、自由主義国家の「革新的」規制的な介入に抵抗する地域の市民社会として現れる(そして事実上そのように組織される)ことはまちがいない。 (p.413)

キリスト教徒とムスリムが論争するとき、彼らはたんに意見が違うのではない――彼らはどのように意見が違っているかについて、なにが二つの宗教の差異であるかについて、すでに意見が違うのである……。これこそヘーゲルの「具体的普遍」である。それぞれの個別性のなかにそれ自身の普遍性、それ自身の《全体》と部分の考え方があるのだから、これら個別の立場の媒介となるような「中立的」普遍性は存在しない。こうしてヘーゲルの「弁証法的発展」は、普遍性のなかのある個別の内容の展開ではなく、ある個別性からもう一つの個別性へ進行するうちに、両方を含みこむ普遍性そのものもまた変化するという過程である。「具体的普遍」とは、まさにこの普遍性それ自身の「内的生活」、それを包みこもうとする普遍性そのものがそれに捉えられ、変容にさらされる進行過程のことを指すのである。 (p.415)

……ラクラウのおもな「カント的」次元とは、彼が政治参加の不可能な《目標》への熱意と、そのごく控えめな実現可能な内容とのあいだに、乗り越えられない亀裂があると認めているところではないか、と言いたい。ラクラウは自分で、東欧における社会主義の崩壊を例にあげている。これは多くの当事者にとって、崇高な熱狂のひと時、全世界への万能薬の約束、自由と社会的連帯を実現するできごととして経験されたが、結果ははるかに控えめなもの――資本主義民主主義のあらゆる袋小路、そしてあえて言わせてもらうがナショナリズムの隆盛だった。こうした亀裂を政治参加の究極の地平として受け入れてしまったら、政治参加の選択肢は残されているだろうか。 (p.416)

ラクラウの論理はこうだ。政治参加の究極の目標、完全な解放はけっして達成されない。解放は永遠に権力に汚染されつづけるだろう。しかしこの汚染は、われわれの社会の現実が不完全だから十全な解放はありえないという事実のせいではない――理念と不完全な現実との亀裂だけが問題ではないのだ。解放された社会の完全な実現そのものが、自由の死を、自由な主体的介入に開かれていない、閉じた透明な社会空間の確立を意味する――人間の自由の限界は、同時にその積極的な条件でもあるのだ……。(p.417)

この「ヘゲモニー的政治形式の一般化」はそれ自身、ある社会-経済過程に依存している。というのがわたしの答えである。「本質主義」政治が葬られ、新たに多様な政治主体が氾濫する状況を作り出したのは、「脱領域」の力学をそなえた現代のグローバル資本主義なのだ。というわけで、わたしの立場をはっきりさせておこう。経済(資本の論理)は、ヘゲモニー闘争になんらかの「制限」をもうける一種の「本質主義の錨」である。それは、「一般化されたヘゲモニー」が反映する背景そのものを作り出しているのだ。 (p.419)

資本主義のグローバル化――世界システムとしての資本主義の出現――は最初から、それと真っ向から対立するものを含んでいた。民族集団は、このグローバル化に組み込まれたものと排除されたものとに分裂したのである。現代では、この分裂はいっそう根源的になっている。いっぽうでいわゆる「象徴階級」、銀行家や経営者のとどまらず、研究者、ジャーナリスト、法律家など――がいて、彼らの労働の領域はヴァーチャルな象徴宇宙である。いっぽうでこの種の領域のいずれからも排除された人々(永久失業者、ホームレス、弱い立場の民族的宗教的マイノリティ、その他)がいる。両者のあいだに悪名高い「中産階級」がいて、生産とイデオロギーの伝統様式に感情的にしがみつき(たとえば職を失いそうな熟練労働者)、巨大ビジネスや大学と排除された人々の両方を、「非国民」とか「根なしの」逸脱者であると言って攻撃する。社会的敵対性はつねにそうだが、現代の階級敵対性も、この三種の行為者のあいだで、戦略的に連帯の相手を変えながら複雑な相互作用として機能している。 (p.424)

『精神分析の倫理』のセミナールにおいてラカンは、「悪党」と「道化」という二つの知的姿勢を対比させている。右翼知識人は悪党で、既存の秩序はただそれが存在しているがゆえに優れていると考える体制順応者であり、破滅にいたるに決まっている「ユートピア」計画を報ずる左翼を馬鹿にする。いっぽう左翼知識人は道化であり、既存秩序の虚偽を人前で暴くが、自分のことばのパフォーマティヴな有効性は宙ぶらりんにしておく宮廷道化師である。社会主義の崩壊直後の数年間、悪党とは、あらゆる型式の社会連帯を反生産的感傷として乱暴に退ける新保守主義の市場経済論者であり、道化とは、既存の秩序を「転覆する」はずの戯れの手続きによって、実際には秩序を補完していた脱構築派の文化批評家だった。 (p.426)

……左翼には現在も選択肢がある。支配的な自由民主主義の地平(民主主義、人権、自由……)を受け入れて、そのなかでヘゲモニー闘争に加わるか、それともそこで使われることば自体を拒否しあらゆるラディカルな変化のもくろみは全体主義への道につながっていると判決を下す現在のリベラルな脅迫をたんに退けるという、対抗的な姿勢に立つというリスクを冒すか、である。六八年のモットー、リアリストになろう不可能を要求しよう!、こそわたしの固い信念であり、政治的-存在論的前提である。リベラル民主主義の地平にとどまって、変化と再意味づけを唱える者こそ、その努力が、結局人類の顔に資本主義を貼り付ける美容手術以上の何かになると信じている以上、真のユートピア論者なのである。 (p.427)

そしてわたしが言いたいのはもちろん、現代の「狂気のダンス」、多様で移動するアイデンティティの爆発的氾濫もまた、新たなテロルによる解決を待っていると言うことだ。唯一「現実的」な見通しは、不可能を選ぶことで新たな政治的普遍性を基礎づけること、まったき例外の場を引き受け、タブーもアプリオリな規範(「人権」、「民主主義」)もなく、テロルを、権力の容赦ない行使を、犠牲の精神を「意味づけなおす」のを妨害するものを尊重すること……もしこのラディカルな選択を、涙もろいリベラルが「ファシズムへの道」だと非難するなら、言わせておけ! (p.428)

                                   (2011/1/25)