スラヴォイ・ジジェク |
序 邂逅、対話ではなく この十年、ドゥルーズは現代哲学の中心的参照点としてみずからを顕した。「抵抗するマルチチュード」や「ノマド的な主体性」、また精神分析の「反エディプス的」な批判などといった概念は、今日(げんだい)の学会連中(アカデミア)にとっての共通通貨だった。いよいよもってドゥルーズが反グローバリズムを掲げる現代の左派や資本主義への抵抗の理論的基礎として役立っているといった事態については、ことさら云々するまでもないだろう。(p. 11) ここでの批判のターゲットは、ドゥルーズ主義が有する諸側面、すなわち急進的な上品さを装いながら、そのじつドゥルーズを今日の「デジタル資本主義」のイデオローグへ変質させてしまうドゥルーズ主義が有する諸側面である。(p. 12) この過剰、それがまさに「ドゥルーズ的」なことではないだろうか? これは、その有体的〔身体-物質的にリアルcorporeal〕な原因を超え出る生成の純粋な流れが作り出す過剰、現勢的なことを超え出る潜勢的なことの純粋な流れの過剰ではないだろうか? (p. 17) この〈潜勢的なこと〉は、詰る所、〈象徴的なこと〉それ自体ではないだろうか? 象徴的権威を事例に採って言えば、象徴的権威は、それが実効的権威として機能するには、充全には現勢化されないままに留まり続ける永久の脅威でなければならないのだ。(p. 18) ドゥルーズ的な意味での「超越論的なもの」は、現実に較べれば、無限に豊富である――それは潜勢性の無限の潜在的可能性を支える領域であり、底から現実が現勢化されるのである。「超越論的」という語は、ここでは、私たちが構成された現実を経験するに当たってのその可能性のア・プリオリな諸条件といった、厳密に哲学的な意味において、使用されている。こうした超越論的と経験的という対局の逆接的な組合せは、構成あるいは知覚された現実についての経験の彼方beyond(あるいはむしろ、足下beneath)にある経験領域に向かっている。私たちは、ここでは、意識の領域の内部に留まったままである。ドゥルーズは超越論的経験主義をの領域を「意識の純粋な前-主体的流動、非人格的で前反省的な意識、自己なき意識の質的な持続」と定義している。(p. 19) 反ユダヤ主義は、じつは、私たちの大方に潜むイデオロギー的な悍しい暗部のまさに一部なのだ。 (p. 27) |
生成と歴史 〈存在〉を支配する時間性が(その不完全な様式である過去と未来をともなう)現在という時間性にほかならない以上、存在-なき-純粋なる生成は、現在からの退隠を意味している――それは決して「現実(アクチュアル)には起きず」、「つねにこれから起こるものであり、また過ぎ去ったもの」でもある。純粋なる生成は、それ自体、継起性と方向性を宙吊り的に停止させ、不安定にする。(p. 29) こうして生成は、厳密なまでに、反覆概念と相関的である。ドゥルーズ固有のパラドクスは、〈新たなるもの〉の出現に対置されるどころか、真に〈新たな〉何ものかは反覆を介してのみ出現可能であるという点にこそ潜んでいる。反覆が〔反覆として〕繰り返すことは、過去が「実際そうであった」ようなあり方における或ることではなく、過去に内在し、過去におけるその現勢化によって裏切られた、潜勢性である。 (p. 34) ドゥルーズは歴史主義的「文脈化」を真っ向から攻撃する。そしてその意味で、彼は正しい。生成とは或る現象がそこから出現する歴史的諸条件の文脈を超越することを意味するが、、そうした点を指摘したという意味で、ドゥルーズは正しいのである。これがまさに歴史主義的な反普遍主義的多文化主義において消え去った当のものである。(p. 38) (キルケゴールがそうしたように)生成に過去の現象を感得することは、そこでの潜勢的な潜在力を感得することである。すなわちそれは、永遠の閃光、其処につねにあり続ける潜勢的な潜勢力の閃光なのだ。真に新たな作品は永遠に新たであり続ける――その新しさは、その「衝撃的価値」が消え去っても猶、枯渇することはない。例えば、哲学における偉大な突破口――カントの超越論的転回からクリプキの「厳密な固定指示子」に到るまで――は、その発案の「驚くべき」特徴を永遠に保持し続けるのだ。(p. 39)
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芸術作品を理解するにはその歴史的文脈を知る必要があるという声をしばしば聞くが、こうした歴史主義的な常識にたいしてドゥルーズが対抗的に提起したのは次の論点だった。すなわち彼の論点は、或る歴史的文脈の過剰が芸術作品との本来的な意味での接触を曖昧にする可能性があるという(こうした接触を制定-上演するために作品の文脈を抽象化せねばならないといった)ことだけでなく、むしろ芸術作品それ自体が私たちが所与の歴史的状況を本来的に理解することを可能にしてくれる文脈を提供するということにも、措かれていたのである。現在のセルビアを訪ねると、訪問者は現場での生(なま)の情報(データ)に直接触れ、混乱してしまうだろう。だがそうした訪問者がいくつかの文学作品を読み、二、三の代表的な映画を観れば、それは、訪問者の経験といったそうした生の情報を位置づけることを可能にしてくれる文脈を提供してくれるだろう!こうして、スターリン時代のソヴィエト連邦から伝えられた旧いシニカルな智恵、「彼は目撃者として嘘をついた」には、意想外の真理が存在することが分かる。 (p. 39) いつか経験一元論の世紀が? こうして現実が、際限なく分割可能であり、或る一つの空の内部における実体を欠いた空であることが突き止められた今となっては、為すべきは「事物は消え去ってしまうだろう」といった恐れを払拭することである。デジタル情報革命、遺伝子工学革命、物理学における量子論革命といったものが総じて共有していることは、より適切な表現を欠いているので取り敢えず言えばだが、ポスト-形而上学的な観念論とでも呼んでみたい気にさせられることの再出現である。 (p. 56) |
準原因 ドゥルーズの思考における基本的な二重性、すなわち〈生成〉-対-〈存在〉の二重性、〈ノマド〉-対-〈国家〉、分子-対-モル、またスキゾ-対-パラノなどと言ったさまざまに異なって出現するこうした二重性を、問題として、論じなければならない。そしてこの二重性は、結局は、「〈善〉-対-〈悪〉」として重層決定されるだろう。ドゥルーズの目的は〈生成〉の内的力を〈存在〉の秩序への自己隷従から開放することにある。 (p. 63) |
生産的〈生成〉の場としての潜勢的なことと不毛な〈意味-出来事〉の場としての潜勢的なこととのこうした対項は、同時に、「器官なき身体」と「身体なき器官」との対項ではなかろうか? 器官なき身体は純粋な〈生成〉の生産的奔流であり、いまだ機能的器官としては構造化されていないあるいは決定されていない身体だが、身体なき器官は、『不思議の国のアリス』でチェシャー・ネコの身体がもはや存在しなくなったにもかかわらず依然として残っている例の微笑みのように、或る身体に埋め込まれている身体なき器官から抽出された純粋な触発-情動の潜勢性ではないのか? (p. 66) 近代思想史で異教信仰(ペイガニズム)-ユダヤ教-キリスト教の三幅対(トリアーデ)は二度繰り返された。第一のそれはスピノザ-カント-ヘーゲルの三幅対であり、ついてドゥルーズ-デリダ-ラカンのそれである。ドゥルーズは〈一-実体One-Substance〉を多数性(マルチチュード)の不関-中立的な媒介として配備したが、デリダは〈一-実体〉をそれ自身から差異化する根源的〈他者性〉へ顛倒させ、最後にラカンは切断(カット)、ギャップを、ある種の「否定の否定」において〈一〉それ自体に取り戻した。(p. 73) |
〈正義〉の究極的な地位とは、そのもっとも純粋でもっとも根源的な意味における、ファンタジーではないのか? デリダが言ったように、脱構築やフランクフルト学派においてさえ、〈正義〉は「脱構築不能な」最終的地平として機能している。〈正義〉は推論からも経験からも到来しないにせよ、それは私たちの経験に絶対的に内在し、直感的に前提されねばならない(「正義は存在しなければならない」といったように)。さもなければ、すべてが無意味になり、私たちの全世界がバラバラになってしまうだろう(純粋な実践理性の「公準」という概念によってカントは、こうした〈正義〉の地位を痕づけている)。〈正義〉とは、それ自体、純粋に概念構成された前提である――正しかろうが、そうでなかろうが、それは前提とされねばならないのだ。言い換えれば、それは究極的な意味での「よく分かっています。しかし、ではあっても猶……(Je sais bien, mais quand même)」なのだ。(p. 80) カント、ヘーゲル 私たちの自由は、現象的であることと本体的であることとの間(あわい)の空間にのみ、存続する。したがってこれは、私たちが本体のレヴェルでは自由で自律的な行為者であるというその主張を保証するために、カントが因果性を現象の領域に限定したことなど意味しない。私たちが自由なのは、私たちの地平が現象的なことの地平にあり、私たちが本体的領域には近接不能である限りにおいてである。私たちがここで直面していることは、ふたたび、〈現実的なこと〉についての二つの考え方における緊張、すなわち近接不能な本体的〈物〉の〈現実的なこと〉と純粋なギャップとしての〈現実的なこと〉との緊張、同じ物の反覆における裂け目である。カント的な〈現実的なこと〉が現象を超えた本体的〈物〉であるのにたいして、ヘーゲル的な〈現実的なこと〉は現象的なことと本体的なこととのギャップそれ自体であり、そしてこのギャップこそ、自由を維持するのだ。(p. 90) |
ヘーゲル 1――ドゥルーズのおかまを掘る ドゥルーズの内在性や生成の奔流の「純粋な現前」といった概念をデリダ的批判(脱構築的読解)へ直接的に曝し、ドゥルーズを「現前の形而上学」という廉で批難するといった衝動には、しかし、抵抗せねばならないだろう。そうした批判は単純に誤っているというよりも、むしろあまりにも「正鵠を射すぎ」ており、またその結果、その標的をあまりにも直接的に打撃することによって論点を見失ってしまうからである。ドゥルーズが表象に較べて現前に重きを措いていることは言うまでもない。だがまさにこの「明白な」事実が、ここでは根源的な誤解が論じられているということを白日のもとに晒してしまう。そうした批判で見失われることは、デリダとドゥルーズが、共通の土台を分け持つことなく、異なったまったく相容れない言語を話しているという事実である。(p. 100) 構成された客観的現実に接近するという私たちの〔認識〕過程は、この現実それ自体の〈生成〉の潜勢的な過程を繰り返すのである。私たちが現実を「充全に識る」ことが決してできないという事実は、こうして、私たちの知の限界の徴ではなく、現実それ自体が「不完全」であり、したがってまたさまざまな可能性に開かれており、〈生成〉の根本的な潜勢的過程の現勢化であることの徴にほかならないのだ。(p. 116) |
ヘーゲル 3――最小限の差異 ヘーゲルにとって〈法〉とは、たんなる数多の罪/侵犯行為を調整する外部的な全体化する力ではなく、〈法〉と罪との対立が罪それ自体に内在的となるような、そうした罪の内在的な自己-止揚、絶対的なことにまで高められた罪であり、誤ったヘーゲル主義が私たちに思わせたがるように、罪は〈法〉の自己-媒介性の従属的なモーメントに還元されるべく〈法〉にまで高められた罪ではないのである。この第三の位置は、真の意味で転覆的である。〈法〉は、罪に対置されるものとしての〈法〉ではなく、罪の至上の形式としての〈法〉それ自体である。(p. 136) ……潜在力の領域から或る一つの現勢的な現実を作りだすことが、ある種の(事柄についての)生の現実を付け加えることではなく、むしろ(ロゴスの)純粋な理念性の付加だとしたらどうだろう? すでに当のカントが、このパラドクスに気づいていた――混乱に充ちた印象領域は、それが超越論的な〈理念(イデア)〉に代補されると、現実に転回するといったように。超越論的観念論のこうした根本的教訓が意味するところは、潜勢化と現勢化は表裏一体である、ということである。すなわち、現勢態は、或る潜勢的(象徴的)代補が前-存在論的である現実的なことへ付加されるとき、みずからを構成するのである。言い換えれば、現実的なことからの潜勢的なことの抽出(「象徴的去勢」)が、現実をまさに構成するのである――現勢的な現実は、潜勢的なことというフィルターにかけられた、現実的なことなのである。(p. 167) |
ファルス 去勢とは、私が直接-無媒介的に私であることと私にこうした「権威」を授与する象徴的権原との、ギャップである。こうした厳密な意味で、去勢は、(権)力とまさに同義である。それは私に(権)力を授与するものである。去勢は、私の存在、私の精力などの勢的な力を直接-無媒介的に表現する器官としてではなく、それ自体がまさに徽章、王あるいは判事がその徽章を纏うのと同じやり方で私が身に纏う仮面、と理解されねばならない――ファルスは、私の身体にこびり付きながらも、決してその「有機的一部」となることのない、言い換えれば、その内在的で過剰な代補として執拗な抵抗を続ける、私が身に纏う「身体なき器官」なのである。 (p. 173) ファンタジーは、「客観的主観性という奇妙な範疇――自分には事物がそのように見えているとは思われないのに、客観的には事物が本当にそのように見えてしまうといった奇妙な有り様」(ダニエル・デネット、『解明される意識』山口訳、1998年、164頁)に属している。例えば私たちが、意識的にはユダヤ人に穏当に対処できる者がその裡に自分自身では意識的には自覚していない根深い反ユダヤ主義的な偏見を隠し持っていると主張するとき、そうした主張は、これらの偏見が、ユダヤ人が本当にそうで有るあり方ではなく、ユダヤ人が彼にそのように見えるあり方を表現するという限りで、彼が自分にとってユダヤ人が実際にどのように見えているかを自覚していないということを意味してはいないだろうか? (p. 185) |
RIS 〈現実的なことR〉 ……唯物論的解決策は、〈出来事〉とは、それ自身の〈存在〉の秩序への打刻、〈存在〉が或る一つの首尾一貫した〈全体〉を決して形成し得ないことの理由である〈存在〉の秩序における切断/中断にほかならない、という了解に存在している。みずからを〈存在〉の秩序に刻み込む〈存在〉に〈彼方〉などないのである。〈存在〉の秩序の他-外には無しか「存在し」ない。 (p. 173) 帰結 ……ドゥルーズは、ここでは、普通カント的「統合命題」として言及されていることに拠っているのではないだろうか? 私たち主体は病理(かんじょう)的な対象や動機によって受動的に影響されている。だが私たち自身は、反省的なやり方で、そのように影響を受けるということを受諾あるいは拒絶する最小限の力を有している、と。あるいは、ドゥルーズ-ヘーゲル的定式を用いるというリスクを冒していえば、主体とはそうした反省性の襞であり、それによって私は、遡及的に私を決定することができる諸原因あるいは少なくともこの線型的決定の様式を決定する。「自由」は、こうして、内在的に遡及的である。 (p. 217) |
……原因に対する効果-帰結に過剰を強調することが、すなわち自由の可能性を強調することが、ドゥルーズの唯物論の根本的主張である、と逆接的に主張されねばならないだろう。すなわち、ただたんに多様な身体の物質的現実にたいして非物質的な過剰が存在するということではなく、この過剰が身体自身のレヴェルに内在することが、ここでは問題なのだ。この非物質的過剰を引き去ってしまえば、「純粋で還元主義的な唯物論」の代わりに内密な観念論を獲得することになってしまうのである。こうして、近代科学的な唯物論の教義を最初に創設したデカルトが主体性についての基本的な近代的観念論の創始者であることもまた、驚くには当たらないのだ――というのも、「身体の充全に構成された物質的現実が存在するのであって、それ以外には何ものも存在しない」とは、実質的には、観念論の立場だからである。 (p. 219) 「主体」は、「細胞膜」すなわち〈外部〉から〈内部〉を劃定する表層が――その相互作用のたんなる受動的媒体に替わって――その能動的な媒介者として機能しはじめるとき、出現するのである。 (p. 230) |
遺伝子工学における飛躍的な科学的進歩の主要な帰結は、自然の終焉である。自然有機体は、その構造の諸規則が分かってしまえば、操作に晒されやすい対象へ変換される。こうして自然は、それが人間に関わる問題であるかどうかを問わず、その解明困難な密度、ハイデガーのいわゆる「大地」を剥奪され、「脱実体化される」ことになる。人間の精神(プシケー)を技術的操作の対象へ還元することになる遺伝子工学は、したがって実際的には、ハイデガーが近代技術に内在する「危険」と理解したことのある種の経験的な実質化である。ここで問題となるのは、人間と自然の相互依存性である。人間をその特質が操作可能な別の自然対象へ端的に還元することで私たちが喪失するのは、人間性(だけで)なく自然それ自体なのだ。その意味で、フランシス・フクヤマは正しい。人間性それ自体は、私たちが継承してきたことと私たちに端的に贈られたものである私たちが生まれ落ち/擲げ込まれた私たち自身の/における不可解な次元としてのある種の「人性」の両者に、依存している。パラドクスは、したがって、不可解で非人間的な自然(ハイデガーの「大地」)が存在している限りにおいてのみ人間が存在するという自体の出現に現れている。 (p. 240) 「迷夢からの覚醒の限界」を定式化する「ポスト世俗的」な努力は、〈啓蒙〉に内在する論理が科学による人間性の全面的な自己-客体化、科学的操作に供しうる対象への人間の変換に終始するという前提をあまりに急いで受け容れ、その結果、人間の尊厳を保持する唯一の方法がその近代的イディオムへの翻訳による宗教的遺産の救済になってしまった。こうした衝動に抵抗して、〈啓蒙〉のプロジェクトに永久にこだわることが重要である。〈啓蒙〉は終わらされねばならない「未完のプロジェクト」であり続ける。そしてこの終わり-目的は、科学による人間性の全面的な自己-客体化ではなく、私たちが科学の論理に最後まで突き詰める果てに出現するであろう自由の新たな形象であり、それは賭けるに値する自由なのである。 (p. 258) 認知的閉鎖(コグニティヴ・クロージャー)? ヘーゲル的な定式の要は、ここでは、事物が現れるあり方は事物がそうであることに内在するのであり、仮象こそが本質的だという点にある――それには、本質それ自体が仮象に内在的であり、仮象の引き裂かれに反照されているということも、付け加えなければならない。事物が「本当にそうである」ことではなく、事物が「私にとって本当にそのように見えるあり方」こそ、真の謎なのである。これはファンタジーについてのラカン的概念を指し示している。結論は、こうして、明白で一点の曇りもない!すなわち、私たちは、それとは気づかないまま、自己-意識としてみずからを感じ取るよう自己-欺瞞させられるゾンビにほかならないのである。(p. 264) |
快楽のちょっとした衝撃 ……人間は、話すという行為によって与えられる悦びをかいしてのみ、その境囲への没入-頽落からみずからを引き剥がすことができるのであり、そうした後に初めて、それへの本来的な象徴的距たりを獲得することができるのである。 (p. 277)
死んだ後にも居残るこの頑固な物、これがそのもっとも基本的な意味での自由――死の欲動――ではないだろうか? それを呪うのではなく、私たちの抵抗の最後の砦として称揚せねばならないのではないか? 年老いたドイツの共産主義者が一九三〇年代から繰り返し口ずさんできた歌に〈自由は兵を持つ! Die Freiheit Soldaten!〉というものがある。そうした固有な部隊-部分装置を自由それ自身の軍事的道具と見立てることは、衝動の「全体主義的」な定式化に見えるかもしれない。私たちはたんに自由(についての私たちの理解)のために闘うのではない。私たちはたんに自由に仕えるのでもない。自由が、私たちを直接に利用するのである。こんな考え方はテロルへの路を開くように見えるだろう――誰が自由それ自体に敵対することができるだろう? しかし、革命的な軍事部隊を自由の直接的器官と見倣すことを物神的な短絡として棄却することなど、簡単にはできないのだ。実際には、これこそがまさに真正な革命的爆発の真実にほかならない。そうした「脱自的」経験において起こることは、行為する主体がもはや人格ではなく、まさに一つの対象だという出来事である。(p. 332) |
道徳性を超えて グレアム・グリーンの『おとなしいアメリカ人』は、……二〇〇一年に映画化されたが〔二度目〕、その悲運は、単純な抑圧がなぜ働かないか、抑圧されたものはどのようにつねに回帰するのかの証拠である。映画は二〇〇一年秋に公開予定だったが、〈九月十一日〉のお陰で延期された。主要な恐怖は、おそらく、筋書きの中心的アイディア――共産主義シンパの責任とされた、罪のない多くのベトナム市民を殺すテロリストによる爆破が、じつは、アメリカ人自身が資金を供給し組織した傭兵の仕業だったというアイディア――が〈九月十一日〉の原因に関わる考え方とパラレルで受け容れられない、と考えられたためであろう。しかし、二〇〇三年初頭、作品がついに公開されたとき、イラクへのアメリカ合衆国による攻撃が予期されていたこともあって、そのメッセージはむしろタイムリーなものとなった。……映画に登場する英国人の主人公が疲れ果て退廃的な「旧いヨーロッパ」を体現しているという事実さえ、ラムズフェルトによる「旧いヨーロッパ」という悪名高い非難の後では、予期し得なかった新たな生々しさを獲得したかに見える。(p. 338) 2 政治――文化革命の訴え 相互に密接に絡まり合っている二つの結論がドゥルーズ的分析から導き出されている。第一の結論は、事実への参照によって、言い換えれば、隠されているデータを公にすることによって、すべてのイデオロギー的構築物の捕縛をその根底から破壊するといった妨害の試みには限界がある、という結論だ。…… それは、すべての人びとはすべての事実について知る必要があるといった、チョムスキーのような人びとの考え方と真っ向から対立する、深い洞察だ。第二の、そして補足的な結論は、解放闘争は「語る権利」、恵まれず周辺化された集団が自分の置かれた立場について自由にそして明快に理解する権利を奪還するための闘争に切り縮められない、という理解だ。(p. 357) しかし、たとえドゥルーズ的理解が生産的だとしても、こうした問題を俎上に載せる時機が来ているし、またそれによって、ファシズムの勝利(あるいは現代における左翼の危機)を理解するために提起されている一連の極度に単純化された手掛かりに依拠するマルクス主義(とくに西欧マルクス主義)やポスト・マルクス主義に際立っている、次のような一般的傾向を問題視する時機が来ている。その一般的傾向とは、あたかも、左翼がリビドー的なミクロ政治のレヴェルでファシズムとの闘争を展開しさえすれば、あるいは現状に見られるように、左翼が「階級本質主義」を放棄し、その行為にとって本来的な地平である「ポスト・ポリティカル」な闘争を担うマルチチュードを受け容れさえすれば、闘争の帰結はまったく異なったものになっただろう、とでも言うかのような傾向である。左翼的驕慢を体現する知識人的愚鈍の最たる事例を挙げよと言われれば、これがまさに典型である。(p. 357) |
ネトクラシイ? アレグザンダー・バードとジャン・ソダーグヴィストの著作『ネトクラシー』は、ドゥルーズとガタリにおける「親資本主義的」側面をその究極的到達点に到るまで転回している。それは、サイバー共産主義ではなく、まさにサイバー・スターリン主義とでも呼びたくなるような代物の究極的な事例である。(p. 361) 『ネトクラシー』の著者たちは、伝統的で位階的な考え方に対立するものとしての「ノマド」な主体の考え方と言った概念が孕んでいる究極的なアイロニーを充分に分かっているのだろうか? 彼らは、現代のエリートであるネット支配者が、スピノザに始まりニーチェやドゥルーズに到る、以前のマージナルな哲学者や無視されたアーティストたちの夢を現実においても実現を要求している、と主張する。要するに、そしてさらにもっと急所を突いて言えば、フーコー、ドゥルーズ、そしてガタリといった、ヘゲモニーを握っている権力のネットワークによって粉砕されマージナルな位置に追いやられた究極的な抵抗の哲学者たちこそ、実質的には、新たに出現しつつある支配階級のイデオロギーだ、というわけである。(p. 363) 帝国への逆襲 現代のグローバル資本主義はもはや民主的な代議制とは相容れない。IMFやWTOと言った組織体の重要な経済的決定はいかなる民主的過程も経ることなく正統性を与えられている。もたこの民主的代議制の欠如は構造的であり、その場限りのものではない。こうした理由から、IMFやWTOと言った諸組織をある種の民主的制御の下におこうとする、グローバルな(代議制的)民主主義の必要性が、例えばドイツではハバーマスやベック、ラフォンテインなどによって、叫ばれているが、それは非現実的な要求である。(p. 366) ハートとネグリの『帝国』は、こうした窮状に解決を与えることを目指している。マルクスにとっては、高度に組織化された企業資本主義はすでにして資本主義の内部における社会主義形態の実現(資本主義のある種の社会化であり、そこでは不在の所有者は余計なものになっている)であった。したがって後は、名目的なトップの頭を伐り取れば、社会主義が実現されるとされていた。同じような考え方から、ハートとネグリは、出現しつつある非物質的労働のヘゲモニー的な役割にも同様の潜在力を見出した。(p. 366) |
ここでの問題は、少なく見積もっても、三重である。第一に、本当に、非物質的労働がヘゲモニー的な役割を掌握すると言ったこの移行を生産からコミュニケーションへ、生産から社会的相互行為への(アリストテレス的な言い方で言えば、ポイエーシスとしてのテクネーからプラクシスへの)移行として説明できるのか、という問題である。それは、生産と能動的力via activaとのアレント的区分、あるいは道具的理性とコミュニケーション的理性とのハバーマス的区分の超克〔という方向〕を指し示しているのか? また第二に、生産が直接的に(新たな)社会諸関係を生産すると言ったこうした生産の「政治化」は、いったい政治概念にどのような影響を及ぼすだろうか? そうした(利潤の論理に従っている)「人びとの行政的管理」は、依然として政治と言えるだろうか? あるいはそれは、もっとも根底的な「脱政治化」の類であり、「ポスト・ポリティクス」への参入ではないのか? そして最後の、とはいえ決して簡単な問題とは言えない、問題は、民主主義は、その必然性から言っても、またそのまさに概念構成から観ても、非-絶対的ではないのか? 隠されたエリート主義が予め前提とされているような民主主義など存在しえない。民主主義は、その定義から言っても「全体的(グローバル)」ではない。それは、人びとが「民主主義的」には選択し得ない諸価値そして/あるいは諸真理に、その根拠を持っていなければならない。民主制では、真理のために闘うことはできるが、しかし、何がまさに真理であるかの決定はなされない。 (p. 368) 抵抗としてのマルチチュードとしてだけではなく「権力の座についたマルチチュード」とはいかなるものなのか、という質問である。それはいかに機能するのだろう? ハートとネグリは、グローバルな〈帝国〉に反対するために二つの道を区別する。それは、強力な〈国民-国家〉へ戻ろうとする「保護主義的」主張とマルチチュードのより柔軟な諸形式の配置である。(p. 371) 〈本当に存在した社会主義〉の崩壊の最終局面においても似たような〔政治的〕配置が出現した。対立勢力内に、リベラルな人権擁護団体から「リベラルな」ビジネス志向集団、そして保守的な宗教団体や左派的な労働者たちの要求に到るまで、さまざまなイデオロギー的そして政治的な諸傾向の多数性(マルチチュード)の同時併存が見られた。こうした多数性(マルチチュード)は、「奴ら」すなわち〈党〉の覇権への対立のもとで統一されている限りでは、巧く機能した。だが、ひととび多数性(マルチチュード)が自分たち自身が権力の座にあることに気づけば、ゲーム・オーバーである。(p. 372) |
もしサパティスタが実際に権力を掌握すれば、「私をとおして意志が語られる」などと言った発言は非常に不気味な次元を即座に獲得することになるだろう。彼らの一見穏健な振る舞いは、途轍もない傲岸として、彼の主体性が普遍的意志を表出するための直接的媒体として役立つ或る特殊な個人を前提するものとして、その姿を現わすことになる。私たちは次のことを忘れてしまったのだろうか? すなわち、「私自身は何者でもなく、私の力はすべてみんなのものであり、私は諸君の意志の表現に過ぎない」といった文句が、その隠された暗い含意をいかに操作するかを知りつくしてもいる「全体主義的」指導者が弄する月並みな文句だったということを。そこでは「私を攻撃するものは誰でも、実質的に、諸君すべてを、全人民を、自由と正義への愛を告げる者を攻撃する者である」という論理が働くのだ。対立の場に身をおくマルコスの詩的能力が潜勢的な抗議を支える重要な声として大きければ大きいほど、現実の指導者としてのマルコスのテロルは増大するだろう。(p. 374) 革命的文化政治のための毛沢東主席のスローガン 革命過程は、長期的帰結を顧みない〈現在(いま)〉への完全なる没入には余地を残さないよく計画された戦略的行動などではない。まさに正反対である。いかなる革命過程にとっても、良き未来への既望にもとづいたあらゆる戦略的考慮の停止、レーニンがしばしば引用したナポレオンのスローガン〈攻撃してから考える〉というスタンスが、重要な部分を構成している。(p. 381) |
《ベジン草原》では村の開拓者たちが村の教会に押し入って、聖物を盗み出し、イコンをめぐっては口論し、祭服を羽織って、彫像に向かって異教徒のように徴証を投げつけるといった冒涜の限りを尽くす。こうした目的志向に拘束された道具的行為の停止によって、私たちは、ある種バタイユ的な「無制限の消尽」を実際にも経験する。革命からこうした過剰を剥奪するご立派な欲望は、革命なき革命を望むことに等しい。しかし、こうした「無制限の消尽」だけでは不充分だ。真の意味での革命においては、そうしたヘーゲルなら「抽象的否定性」と呼んだであろうことの顕示は、第二の行動、すなわち〈新秩序〉を課すための謂わば新たなる出直しにすぎない。(p. 383)
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