ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <書 抜き書きメモ12>

前田愛
『都市空間のなかの文学』

筑摩書房、1982年


空間のテクスト テクストの空間

……『円環の変貌』に先だって公にされた(G. プーレの)労作『人間的時間の研究』の第二巻『内的距離』は、いかにもジュネーヴ学派にふさわしい言葉で書き起こされている。「いかなる思考も、なるほど、すべて何物かについての思考である。思考は不可抗的に、他者に、外部に、向けられる」――フッサールの有名な定式をふまえたこの冒頭から数行をへだててプーレが記した言葉はこうなっている。「しかし、いかなる思考も、同時にまた、単なる一個の思考にすぎない。思考は即自に存在するもの、孤立して存在するもの、心的に存在するものである。」フッサールの定式と併立しているこのデカルト主義の信条告白は私たちを戸惑わせるが、むしろフッサールの志向性とデカルトのコギトに引き裂かれているプーレの矛盾した立場にこそ、彼が解析しようとする「内的距離」、ひいては円環のトポスの原点が指し示されているように思われる。夢想するコギトを通じて対象を思考するまなざしを明らかにすること、あるいは外部に向けられたまなざしから逆にコギトを見定めること。そこにプーレが執着しつづけた「内的距離」の光学や中心と円環の弁証法のもっとも深い意味が託されているのである。 (p. 8)

志向性の概念をまなざしや想像力の運動に溶かしこむかたちで円環のトポスを考察したのがプーレであるとすれば、インガルテンの出発点は、空間の「零点」として人間の身体を定位したフッサールの思想に求めることができるだろう。「どの外的知覚もその顕在的な空間現在とその内部におけるここという絶対的零点をともなっている。この絶対的零点は、現出上、知覚主体自身の身体のうちにある」――こういう言葉で身体に唯一性の意識について語っているフッサールにもとづいて、インガルテンはテクストの「内空間」をどのように定義づけようとするのか。 (p. 9)

文学テクストを構成している言語記号は、数学の記号のように、純粋な意味と読者を媒介するものではない。それが顕しているのは、読者と非現実の世界との界面である。界面としての言語記号が消失し、表象としての空間をつつみこむかたちで現出する非現実のひろがりこそ、読書行為によって現働化されたテクスト空間のひろがりそのものなのである。(p. 12)

 

 

「ぴあ」の読者は、電話帳がそうであるように小さな活字がぎっしりと組まれている表(タブロー)としての書物を媒介に自分自身の「都市」をつくりだす。電話帳の効用について語ったビュトールの語り口をかりるならば、かれらにとって東京という都市は、タウン情報誌を内包することで、はじめて都市たりうるのである。しかし、この「都市」は、いうまでもなく現実の東京そのものではない。日常的な都市空間――ビジネス街や住宅地についての情報は空集合になっているからである。「ぴあ」や「シティロード」からたちあがってくる「都市」は、みるきくに集約される欲望の記号の束がカタログ的に編成されている都市なのだ。 (p. 15)

私たちがまだ訪れたことがない都市であっても、小説のなかで出会う街の名前には、空想をそそりたててやまないふしぎな色彩や響きがこもっているが、その一方で、作中人物の動きにそって紹介される街の名や通りの名や橋の名の連なりは、都市の解読についやされた作者の精神の歩行を解きほぐす糸口になる。作者の愛着がしみとおっている地名の集合そのものが、都市というテクストから切りだされたメタテクストを構成しているといいかえてもいい。文学テクストのなかに呼びあつめられた地名は、現実の都市空間と虚の言語空間とが相互に浸透しあう界面であり、その集合は言語の次元に変換された都市、いわば「言語の街々」(篠田一士)を支える底辺をかたちづくっている。(p. 16)

……線型(リニア)の 文学テクストは、時間軸にそって読みすすめられるにしたがって、一つ一つの言葉が孤立した点ではなく、矢印で方向づけられた有効成分を持つベクトルとして作用しはじめる。読書というパフォーマンスが一種のベクトル場をつくりだして行くところに、情報空間と現実の空間が一対一で対応している電話帳やタウン情報誌には欠けている文学テクストの特性がある。(p. 17)

もともと文学作品は、ある特定な時代に支配的なイデオロギーや文化の体系が排除した欠落部分を、虚構のテクストをかりて読者に伝達する。虚構のテクストは、システムから生じる問いへの答えであって、読者は答えとしての文学作品に接することによって、支配的なシステムが覆いかくしてか、処理しきれなかった問題を再構成することができるのである(W. イーザー『行為としての読書』轡田収訳)。こうした文学の意味作用は、都市の周縁部に非日常的ないかがわしい場所を隔離しておく空間管理の方式とある深いアナロジーをもっている。エロスやタナトスにまつわる禁忌が隠蔽され、排除される日常的な世界は、それ自体では象徴的宇宙として完全ではない。文学のテクストは、日常的な世界からしめだされたこのマージナルな状況、深層的な部分を虚構のトポスをかりて解き放つ。 (p. 56)

墨東の隠れ家

条理式の京都やヨーロッパの放射式都市とは異質な原理で構成されている江戸の都市空間のありようをいっそう鮮やかに印象づけるのは、黄色の線を交錯させている道路網の地にくっきりと刻みこまれた藍色の水路のかたちだろう和田倉門を起点にはじまる藍色の線は、俗に三十六といわれる見付の城郭で分節されつつ、右まわりの渦巻きを大きく描きだし、江戸川の水流をあわせた神田川となって東へとうねりこみ、柳橋のところで大川に結びつけられる。…… 江戸城を二重三重にとりかこむこの渦線は、非常の際の防衛戦であるばかりでなく、ケンペルが看破したように江戸という都市の〈制度〉を象徴していたといってもいいのだ。(p. 66)

墨田川堤が飛鳥山や御殿山などと併せて、江戸の〈公園〉として制度化された直は、八代将軍吉宗が打ちだした都市政策の一環として桜の並木がつくられた享保年間にさかのぼることができるが、この官許の〈公園〉が江戸市民の共有する行楽地として成熟するまでには意外に長い時間がかかった。(p. 87)

 

開化のパノラマ

アンリ・ルフェーヴルは、都市空間から発信されるおびただしいメッセージを解読するコードとして、シンボルの次元、パラディグムの次元、サンタグムの次元によって構成される三次元図式を提案している。

シンボルの次元は、一般に記念物(モニュメント)に、その結果、過去と現在の諸イデオロギー・諸制度にかかわり、――パラディグムの次元は、対立の総体(アンサンブル)あるいは体系であり、――サンタグムの次元は、連鎖(行程(パルクール))である。(『都市革命』今井成美訳) 

この図式にそくした具体的な指標として、シンボルの次元では、「建築物」「様式」「歴史的記憶」「連続性」が、パラディグムの次元では、「都会-田舎」「内-外」「中心街-周辺部」「周囲-門口」の対立が、サンタグムの次元では、「交通路」「道路網」「住居地単位ならびに相互連絡」がそれぞれあげられている。 (p. 106)

塔の思想

見せかけの圧倒的な量感とはうらはらに中身の空虚なこの〈江戸の胴体〉(第一国立銀行の塔屋)は、銀行という新時代の「制度」に伝統的な職人がひそかに仕掛けておいた裏切りのしるしであるかのように思われてくる。しかし、この塔屋の徹底した無用性と空疎な意味内容は、逆に文明開化の記号としての強力な表示作用を保証することになるだろう。ロラン・バルトによれば、事実において何ものでもないパリのエッフェル塔は、そのおかげで訪れる人びとの上昇の夢をかきたてる底知れぬ力をもっているのだという。第一国立銀行の塔屋もまた意味と実用性が巧妙に抜きとられていたからこそ、開化期の人びとの心に疼いていた西洋への渇きを、想像力の世界に解きはなつ神話的な表徴として作用したのである。(p. 144)

荷風が示唆しているように、富士山と筑波山は、平坦な灰色の屋根の海がひろがる江戸空間のなかに、遠近法の軸線を浮き出させていた自然標識であり、同時にまたこの巨大都市が内蔵していた武蔵野の自然――下町の水と山の手の森――を要約するかけがえのないシンボルであった。ところが、海運橋際に出現した文明の「ピラミッド」は、この自然の遠近法とみごとに調和していた都市景観の構造に、ある不安定な要素を持ちこむことになった。塔屋に向けて集中するおびただしいまなざしが、江戸空間の安定した構造に亀裂を走らせ、そのあわいから新しい都市の統辞法が浮上しはじめるのである。(p. 145)

竹橋陣営の時計塔につづいて、明治六年には虎の門の工部大学に、七年には日本橋材木町の駅逓寮に、八年には市ヶ谷の陸軍士官学校に、それぞれ時計塔が建設された。この順序は、兵営と学校と官庁とが、明治のもっとも早い段階で、定時法にそくした規律を要請された社会集団であったことと見合っている。そのかぎりで、これらの時計塔のかたちは、江戸の不定時法のゆるやかなリズムにならされている民衆に、西洋の時刻制度を尺度として運転される明治政府の支配構造を、視覚のレベルでつよく印象づけることになった。(p. 147)

ヨーロッパのふるい都市では、街の中心部をかたちづくる広場をはさんで、教会の鐘塔と市庁舎の時計塔が対峙している風景をいまでもまのあたりに見ることができるが、教権と世俗の権力の長い葛藤の歴史を要約したこのような濃密な意味空間に相当するものを、明治の東京に求めることは難しい。(p. 149)

獄舎のユートピア

ユートピア文学が、閉ざされた空間、組織化された空間のなかで、人間の幸福を実現しようとする熾烈な夢想の産物であるとすれば、それはもっとも深い意味で、牢獄という権力の装置とアナロジイの関係をもつことになるだろう。牢獄もユートピアも〈都市〉を母胎としてうみおとされた亜種にちがいないからである。周囲に城壁をめぐらすことで、農村的な自然と対峙する生活空間を構築した中世ヨーロッパの都市像は、やがてその正と負の両極に、隔離と懲罰の装置としての監獄と、人間の自由と開放を約束するユートピアの幻想をつくりだす。おそらく、近代の中央集権国家がかつての都市にゆるされていた特権と自由をつぎつぎにうばいとり、その解体と変質を促進させて行く過程で、この両極が人びとの意識にとらえられることになったのである。ユートピアは、現実の国家の支配からのがれようとする〈都市的なるもの〉が幻視したもうひとつの〈国家〉であり、監獄は、国家権力が〈都市的なるもの〉を顚倒させて、都市の胎内に割りこませたもうひとつの〈都市〉であった。 (p. 164)

一七六五年の秋、ルソーがビエーヌ湖の中央にあるサン・ピエール島ですごした隠遁生活の体験が回想されているこの(『孤独な散歩者の夢想』の)「第五の散歩」は、自然とひとつにとけあった閑居の幸福が、ピトレスクな描写をまじえて語られているうつくしい散文である。鴨長明の『方丈記』を連想させる諦観を表白した部分もある。ところがこの風光明媚な湖中の島にルソーがかぶせているのは、何と牢獄のイメージなのだ。 (p. 167)

「人間をして自己自身に立ち戻り、存在するものにくらべて人間がいかなるものであるかを観察せしめるがよい。自己が自然の辺鄙な一隅にさまようのを見るがよい。そうして彼の宿るこの小さな土牢、というのはこの宇宙のことを私は意味するのだが、この小さな土牢から地球を、国を、町を、また自己自身を、その正しい値打ちに見積もることを学ぶがよい」(パスカル『パンセ』津田穣訳)。宇宙そのものが牢獄であり、人間の知が壁のない無限の空間と対峙しているという、パスカルの憂鬱な認識は、夢想によって充足されるルソーの幸福な〈牢獄〉と鋭い対照をかたちづくっている。パスカルの〈牢獄〉が無限大と無限小のあわいに宙吊りにされた人間の実存の不可解さを垣間見せているとすれば、ルソーの〈牢獄〉は、隠れ家の休息を提供し、傷ついたアイデンティティの回復を約束する場所である。 (p. 167)

 

子どもたちの時間

一九世紀からの遺産として引きつがれた労働の価値と合理的思考の効用性を相対化し、本来的な生の豊饒さを恢復するために、遊びの機能と神話的思考の意味を文化過程のなかに正当に位置づけようとする発想は、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』にはじまって少なからぬ反響を呼んでいるが、こうしたさいきんの動向も、大人の論理からしめだされていた子どもの論理の復権を指し示しているように思われる。「……への自由」の実現が私たちの視野から遠ざかりはじめたとき、それにかわる「……からの自由」のシンボルとして子どもの世界が垣間見られているといいかえてもいい。子どもの時間への遡行は自然回帰の志向と併せて、近代産業社会からの離脱へと私たちをうながしたてている幻想軸であり、同時にまた日常生活の背後にかくされている生の不毛への透視を可能にするかけがえのない視座なのである。 (p. 279)

アリスといっしょにファンタジィの世界に遊ぶことをゆるされたイギリスの子どもたちは、やがてスマイルズの分別くさい教訓談の前に引きだされる。『セルフ・ヘルプ』に解かれていた堅実な成功を約束する勤勉と自己鍛錬の美徳は、ヴィクトリア朝時代の大人が期待した善良な子どもの公約数だったのである。この『セルフ・ヘルプ』が日本に紹介されたのは一八七〇(明治三)年のことで、中村正直の名訳『西国立志篇』は、明治期最大のベストセラーとなった。…… スマイルズがイギリスと日本の子どもたちに押しつけようとした〈未来の大人〉としての役割にたいして、子ども本来の世界をとりもどそうとしたところに、アリスの物語と『たけくらべ』のパラレルな関係を認めることができるわけで、ヴィクトリア朝時代の常識(センス)を顚倒したナンセンスの世界におくりこまれたアリスに、〈批判者としての子ども〉(エンプソン)の役割がふりあてられているとするならば、『たけくらべ』の美登里は、立身出世を夢見て刻苦奮闘する明治の理想的な少年像を裏返しにした〈遊戯者としての子ども〉を演じているのである。 (p. 280)

大音寺前のわびしい裏路地や陰気な沼地が点在する原っぱを活気づけているのは子どもたちの遊びである。そこには学校の課業から解放された子どもたちの自由な時間がある。かれらは明るい未来を閉ざされているからこそ、大人の世界にくりこまれる前に、束の間の自由を楽しまなければならないのだ。(p. 288)

多田道太郎は『遊びと日本人』のなかで、ロジェ・カイヨワが展開した「聖-俗-遊」の序列の理論を敷衍して、世俗のまなざしに絶えずさらされているアソビのありようを明快に解説する。「……アソビはつねに監視下におかれている。何の監視下に? 『俗』の監視下である。もっと限定すれば、世俗の監視下におかれている。要監察中の人物みたいなものだ。『遊』は『俗』の視線に射すくめられている」。(p. 305)

千束神社の夏祭にはじまった『たけくらべ』の物語は、酉の市の賑いを背景にもうひとつのクライマックスを迎える。(p. 305)

酉の市の賑いをよそに、「薄暗き部屋」に伏せている美登里は、かつて自分の体内に生きていたひとりの少女が確実に死んだことを自覚する。遊び女(め)に再生するためには、遊ぶ子どもはいったんは死ななければならないのだ。
美登里にゆるされていた子どもの時間が閉ざされてしまったとき、大音寺前の子どもたちの時間も終わりを告げる。(p. 308)

町の声

一葉が小石川柳町一帯に特定されていた「新開」を、ただの「新開」にあらためたのは、それが市街地から疎外された人びとが吹きよせられる場末の町特有の他人的世界であることにかかわっている。明治の東京がその周辺部につくりだした無数の特性のない町、意味を剥奪された町のひとつが、『にごりえ』の「新開」なのである。 (p. 314)

 

仮象の街

漱石が『吾輩は猫である』を書き、小説家としてスタートを切った明治三十八年は、近代におけるさいしょの大規模な都市の叛乱、日比谷焼打事件が起った年であった。この事件は、ポーツマス条約に不満をもった都市大衆の自然発生的な暴動であったとされているが、日露戦争直前の明治三十六年に日比谷公園が開設され、市電が東京の市街を走りはじめたことが、その予備状況をつくりだしていたことは意外に見すごされている。…… いわば、日比谷焼打事件は、日露戦争前後から大正期にかけて加速される都市化現象のきわめてドラスティックな表現であるにちがいなかった。漱石は、史伝の開設をきっかけにはじまったこの都市化現象の大きなうねりのただなかで翻弄される、さまざまな生のかたちを克明に見とどけようとした作家であり、東京という都市空間そのもののしたたかな探索者でもあった。 (p. 322)

『三四郎』や『門』で都市空間への目くばりを忘れなかった漱石は、『彼岸過迄』ではいっそう意識的な都市空間のデザイナーであった。学生街である本郷に下宿する敬太郎、市内の中心部に居を構える田口、雨の日には市電の終点から人力車を雇わなければならない郊外生活者の松本、そして江戸時代さながらの古風な家に母親と二人きりでひっそりと暮らしている須永――東京という都市空間の典型的な位相を分け与えられたこれらの登場人物を交錯させることによって、『彼岸過迄』の物語はおもむろに動き始める。(p. 324)

鴎外の描写は、都市の風景の背後にかくされた意味を読みとる手続きを断念しているかわりに、可視的な部分の造形は精緻をきわめているのだ。一方、漱石の作品を読みすすめる読者は、作中人物がそうであるように際限のない都市空間の迷路のただなかにひきこまれて行く。都市空間から発信される無数のメッセージは、そのひとつひとつが人間的営為の意味象徴として解読されなければならない。というより、漱石の紆余曲折する文体そのものが、都市と人間との変幻きわまりない対位法を可能にしているのである。 (p. 328)

……車内ケータイは(ウォークマンと異なり)、それが「うるさい」から批判されたのでもない。むしろ、独白的になされる不気味なおしゃべりが、その場にいる友達どうしのおしゃべりと異なり、容易に他人事として聞き流すことができるようなものではない、つまり、それに対して儀礼的な無関心を装うことが難しいものであったからこそ、激しい反発を受けたのである。(p. 149)

漱石は、『それから』の代助をかりて、連関性を喪失したために、「孤立した人間の集合体」にすぎなくなった現代社会の病弊を指摘したことがあった。また、近代人の病理の象徴としての「探偵」は、『吾輩は猫である』を書いたころから漱石の心にわだかまっていた固定観念のひとつであった。マルチン・ブーバーの言葉をかりるならば、他者にたいしてわれ-それという冷やかな認識のまなざしをふりむける以外の関係を結ぶことのできない近代人の不孝が、「探偵」の観念に要約されているのである。敬太郎に探偵の役割を演じさせ、虚体としての都市空間を探索させるプロットを案出した漱石の意図は、思いの外に根深いところから発しているのだ。 (p. 334)

 

山の手の奥

ロラン・バルトは、都市の中心と周縁を切りわける標識のひとつに他者性と自己同一性の対立をあげている。中心としての町が他者との出会いの場であり、「遊戯的(リュデイック)な力」によって絶えず活性化されている交換の場であるとすれば、逆に中心でないものは、他者性をもつものではないすべて、すなわち、家族、住まい、自己同一性でなければならないというのだ。(p. 347)

焦土の聖性

きれいにうちならされた焼跡の瓦礫を地にして、いっさいの虚飾をはぎおとされたぎりぎりの人間の生が、鮮烈なイメージを浮上させる。『肉体の門』の娼婦たちの澄んだ瞳と、『雪のイヴ』の少女のつめたく、きびしい「肉体の部分」とが意味するものは、同じ方向を指し示している。いいかえれば、かれらがまのあたりにした荒廃の風景が放射している負のエネルギーは、めいめいの文学的個性の差異をこえたところで強力に作用しつづけていたわけであり、それは「虚無」というような手頃な言葉では要約しきれない何かなのである (p. 419)

 

紙のうえの都市

こうしたミニコミ誌のコトバの原点を求めるとすれば、それは羽田闘争(昭和四十七年十月八日)の犠牲になった山崎博昭の手記の一節に求められるかもしれない。「ことばがことばである以上、それはある程度の他者との伝達性をもっている。ぼくはこれがいやだ」。この山崎の表現のなかには、私たちがしゃべっているコトバ、じつはこのコトバそのものが管理社会の抑圧の体系そのものであるという認識、そういうコトバをしゃべり、また書くことによってごく自然にその体系のなかにとらえられてしまうという意識がはっきりと読みとれる。あるいはまた大学紛争の季節に、キャンパスをうずめていた「タテカン」のコトバである。タテカンに書かれている言葉は、難解きわまる日本語であって、それまで既成の言語秩序を否定してあたらしいコトバを模索してゆこうとする屈折した思いがそこにこめられていた。あるいは情報を伝達することよりも、キャンパスの空間いっぱいにモノとしてのコトバがひしめいていること自体に意味作用があった。コトバの記号内容(シニフィエ)が拒絶されたかわりに、記号表現(シニフィアン)としてのコトバの効果が最大限に発揮されていた。いずれにしても、それは道具としての理性言語、ないしは活字信仰の幻想性につきつけられた挑戦であるにちがいなかったのである。 (p. 435)

 

空間の文学へ

都市のなかに恒常的な風景や生活空間を定位することが難しかった日本の近代作家にとって、幼年時代の追憶につながる「原風景」や「自己形成空間」は、ことのほか重い意味をもっている。たとえば、北杜夫の『幽霊』『楡家の人びと』に描かれた山の手の子どもたちの“原っぱ”や“隅っこ”。それは都市のなかに残された自然ないしは田舎であって、その疎外されたまがまがしい空間は、縄文の呪術空間に遡行する深層の記憶が伝承されている場である。この“原っぱ”や“隅っこ”のアソビを通して、子どもたちははるかな縄文時代の狩猟採集生活を追体験してきたのだと奥野(健男)はいう。この仮説は、個体発生は系統発生をくりかえすという進化論の定式を連想させるところがある。……  いささか強引にすぎる論の運びは、一種の共同体幻想への憧憬を断ち切れずにいる奥野の発想を証明しているように思われる。風景として意味を失ってしまった現代の都市空間を、あえて風景論のふところに呼び込もうとした力業である。(p. 447)

視覚によってひらかれる透明な風景と、欲望をわだかまらせている触覚的で不透明な空間――近代の典型的な都市小説は、この二つの極のあいだをゆれうごく生のかたちを好んでとりあげてきたと思われるふしがある。たとえば一八八〇年代のベルリンを舞台にえらんだ森鴎外の『舞姫』の場合、一方には西洋文明を東洋の帝国にもちかえる使命感に勇みたっていた太田豊太郎が遠近法的な視覚で領略するウンテン・デン・リンデンの通景(ヴィスク)があり、他方には日本人仲間から疎外されてしまった失意の豊太郎をあたたかく包みこむエリスの屋根裏部屋がある。あるいは永井荷風の『墨東奇譚』。そこに生動しているのは、程なく戦争にまきこまれようとしている東京の雑駁な風景を、玉の井私娼街の迷路から見つめかえしているしたたかな荷風のまなざしである。(p. 450)

都市小説の主人公といえば、『罪と罰』のラスコーリニコフや『ユリシーズ』のレオポルド・ブルーム、スティーヴン・ディーダラスを引き合いに出すまでもなく、迷宮さながらに入り組んだ都市のさまざまな局面を、精力的に歩きまわる探索者のイメージを思いうかべてしまう。日和下駄に洋傘のスタイルで下町の陋巷に紛れこんで行く永井荷風のイメージでもいい。かれらのまなかいにあらわれる街並みの風景は、ゆたかな暗喩や歴史的記憶を内蔵した記号表現(シニフィアン)として解読されなければならないだろうし、作品のなかに呼びあつめられた橋や通りの固有名詞は、ある懐かしい雰囲気を立ちのぼらせるばかりでなくかれらの生きられた距離を明示するたしかな座標系をつくりだす。(p. 455)

…… すぐれた都市小説は、たとえば『罪と罰』がそうであるように、推理小説の構成に引きよせられることが少なくないわけだが、推理小説とのあいだに境界線が引かれるとすれば、それは主人公にとって都市の解読に進み出ることが、犯跡の追求ではなく、かれらのアイデンティティそのものを都市の表層の背後にかくされた記憶のなかに確認して行く行為を意味しているところに求められるだろう。都市の迷宮に潜り入ることが、同時に内面への旅につながっている微妙な構造に、近代的な都市小説のパラドックスがある。(p. 456)

私たちの日常生活をとりかこんでいるのは、リアルな事物の世界から切りはなされたおびただしい情報がひしめき合い、複雑で恣意的なブラウン運動をくりひろげているもうひとつの環境であって、それは可視的な都市の背後にかくされた虚体の都市としてまぎれもなく実在している。この情報空間はまた事実と模像(コピィ)が 絶えず浸透し合い、〈部分〉と〈全体〉がめまぐるしく入れ換るあいまいで流動的な世界でもある。(p. 460)

田中義久によれば、六〇年代の後半から日本の社会をつらぬく社会心理の主流をかたちづくることになるこの私生活主義は、①政治への不信から私的領域を自力で充実させていこうとする生活防衛、②家庭や家族に求心化しながらも、それらを統一する生活原理の不在、③生きがいの遠心化、国民的目標の不在、という三つの特性をからませながら、日常的な欲望の体系を膨張させる方向に動いてきたのだという(『私生活主義批判』)。浮遊する都市の中間層に近代的な生活の幻想を提供しつづけている郊外の巨大団地は、この私生活主義の象徴的表現にほかならないというのだ。(p. 467)

(2011/6/26)