ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <書 抜き書きメモ13>

吉見俊哉編
『カルチュラル・スタディーズ』

講談社、2001年

プロローグ カルチュラル・スタディーズに何ができるの?
吉見俊哉

……CSは、その歴史的な出自からするなら労働運動の文化批判的な実践と深い関係にあるのだが、現在における知的実践の構えとしては、フェにズムポストコロニアル批評、あるいは新しい社会運動の言説実践ともっとも近いところにいるように思う。 (p. 8)

 

第一部 カルチュラル・スタディーズは大衆文化(ポピュラー・カルチャー)を語る
吉見俊哉

八〇年代を通じて裾野と影響力を大いに広げてきたことの反動か、九〇年代、CSは英国で、その制度的発展とは裏腹に、学問的には厳しい批判を浴び、社会学や政治経済学などのディしプリンの巻き返しにあってきた。そこではCSの文化ポピュリズム的な傾向や、現代思想風のジャーゴンやメタファーを濫用する嗜好が非難された。また、スチュアート・ホールや初期の研究があれほどコンテクストの重要性を強調していたにもかかわらず、八〇年代以降、またしてもテクスト中心主義的にもろもろの文化作品を読み解いて終わる傾向が強まってきたことが疑問視されていった。こうした批判のなかでも、今日のCSが、政治経済学的なマクロな権力編成の分析と、十分に対話的な接点を追求していないのではないかという指摘もなされているが、この点は、冷戦崩壊後の今日的状況のもと、CSに課せられた問題提起として真剣に傾聴すべきものといえよう。 (p. 16)

……方法論的にはどれほど連続性を認めることができようとも、CSは単なる文化の社会学の拡張なのではない。単にラディカルな文化人類学のニューバージョンなのでもない。むしろそれは、文学研究、歴史学、美術史、思想史、地理学、人類学、社会学、政治学などからマスコミュニケーション研究、映画研究などまでのかなり広範な専門領域を横断的に内破させながら、現代の大衆的で日常的な文化の重層的な広がりに向けてテクスト論的であると同時に社会学的な眼を常に内包させて発せられていく批判的な実践である。(p. 22)

CSを大衆文化研究として定義することへの第一の批判は、結局、それがポピュリズムに帰着してしまうというものであり、第二の批判は、それではこれまでのエリートの美的価値を前提にした様式論的なアプローチと変わらないものになってしまうというものである。そしてこの第二の批判のもう一方の背景に、大衆文化のなかに自分たちとは異なる「異文化」を発見していこうとするまなざしの問題が伏在していた。 (p. 24)

スクルーティニー派やエリオットが西欧のエリート的な文化伝統を擁護し、そうした土壌へのアメリカ流の大衆文化の野蛮な侵入を非難したのに対し、彼ら(オーウェル、ホガート、ヘブディジ)は英国の労働者階級の堅固な生活の価値を擁護し、その生活世界に消費主義で縁取られるアメリカニズムが侵入してくることを危険視したのである(Hebdige,1988)。しかし、やがてCSは、このように根強く残ってきたアメリカ的な大衆文化への蔑視を根底から転換していく。なかでも一九六三年にホガート自身を初代所長として設立されたバーミンガム大学現代文化研究センター(CCCS)は、CSが道徳主義的な価値判断とは訣別し、新しい大衆文化に内在しながら問いを発していくための拠点となった。(p. 35)

わたしは本稿で、CSを大衆文化の批判的研究として、すなわち普通の人々が日常のなかで何気なく営んでいる文化的実践についての政治学的かつエスのグラフィックな研究として考えてきた。マスメディアや消費文化、若者たちのサブカルチャー、新聞や雑誌の読者層までを射程に入れた文学的生産と消費、広告や映像にイメージにおける人種やジェンダー、アイデンティティの文化政治などについての批判的かつ内在的な理解の方法徒として、文学研究と社会学、人類学、歴史学、美術史、映画研究、マスコミュニケーション研究などを横断したところにそれは成立している。(p. 39)

大衆文化が営まれる場は、常にある不均等な権力関係によって刻印されている。すなわち一方には、国家であれ産業であれ強大な他者たちの力があり、人々は「押しつけられたシステムをある一定のやりかたで利用することは、既成事実という歴史の掟に抵抗し、それを正当化する教義に抵抗」するのである。大衆文化(ポピュラー・カルチャー)の特徴は、「これやら、あれやら、何かをしようとするときの、その『やりかたの技法』」にあり、つまりは種々雑多なものを組み合わせて利用する消費行為の形式にある。この消費は首尾一貫したものではなく、「さまざまな策略を弄しながら、あちこちに点在し、至るところに紛れこんでいるけれども、ひっそりと声もたてず、なかば不可視のもの」として営まれている。このような実践こそが、「既成の諸力と表象の織りなす網の目をかいくぐって」いるのである(ミシェル・ド・セルトー、『日常生活のポイエティーク』国文社、一九八七)。 (p. 41)

CSはそもそも労働者階級の日常的実践のなかから〈学び〉の実践を立ち上げていこうという試みであったわけで、大衆文化というフィールドは、そのような教育実践を可能にする対話の場であった。ちょうどポストコロニアル批評を経た文化人類学が、観察する者と観察される者、語る者と語られる者の関係を問い直し、現地社会の政治的文脈のなかで対話を繰り返すことのなかから特権化されない多声的な語りを生みだそうとしているように、CSは大衆文化を、単純に対象というよりもむしろその知が可能になるフィールドとして受け止めてきた。(p. 44)

まず一方で、この国の人文社会的な知の支配的なモードにおいて、いまだに大衆文化を語ることは周縁的である。このことは、必ずしも保守的な立場の知識人の場合だけに限られない。思想的には進歩的、左翼的な知識人の場合でも、交わされる議論で正面から取り上げられるのは大概は活字の世界で、しかも大衆的な本よりも知識人相手の本や論文に限定されていることが多い。このような知的環境のなかにCSが導入されると、CSはまず何よりも理論として、思想として、あるいはせいぜいポストコロニアル批評と結びついた新しい文化批評の方法として受け止められていくことになる。(p. 46)

他方、ここで揚げたような大衆文化的なテーマに関しては、思想の科学研究会や南博の社会心理学以来、現代風俗研究会を初めとする民間学的な知やマスコミュニケーション研究と社会学、社会心理学の研究者によって、それなりの蓄積がなされてきた。(p. 47)

ある意味ではいまだに丸山眞男が語った「理論信仰」と「実感信仰」の乖離が、アタラシイヴァージョンの姿をとって続いているのである。この乖離はしかし、「大衆的なもの」がこれだけ露骨に消費主義的な仕方で繁茂している日本の文化状況を考えると、かなり不孝なことである。(p. 47)

第二部 カルチュラル・スタディーズの理論と実践

第一章 メディア(オーディエンス)
      
山口誠

家族と一緒に『サザエさん』を観ることが重要で、日曜日の夕方に一家揃って居間で「『サザエさん』すること」に意味があったのだ。――こんな話を友人にしたら、「中学生の頃に父と母が別居した一年ぐらい後で、『サザエさん』のテーマソングが聞こえたとたんにチャンネルを変えたことがある。そんな自分に傷ついた」といっていた。(p. 53)

……伝送パイプのようなメディア観に異を唱えたホールは、メディアを介してやりとりされるメッセージは、まずその発話者によってエンコード(en-code 記号化)されるのだが、それは受話者によって比較的自律的にデコード(de-code 記号解読)されるのであり、そのメッセージの社会的な意味はエンコーディングとデコーディングの二つの行程を経て初めて創出されるとする、エンコーディング/デコーディングのモデルを提示した。 (p. 58)

……メディアとは、単に「送り手」と「受け手」を配置する透明な伝送パイプではなく、メッセージの作成に向けて節合され現れた諸契機の複合的な一行程としてのエンコーディングと、メッセージ解読にむけて節合された一行程としてのデコーディングによって構成された、社会的意味=価値をめぐるせめぎ合いの場として捉えることができる。 (p. 59)

ホールはデコーディングするオーディエンスが採り得る位置を、(a)支配的-ヘゲモニックな位置(エンコードの〈意図〉とデコードの〈読み〉がほぼ一致する)、(b)交渉的な位置(支配的な〈意図〉や期待された〈読み〉の力を大枠で認めつつも、独自の〈読み〉を部分的に試みる)、(c)対抗的な位置(支配的な〈意図〉や〈読み〉に対立した独自の〈読み〉を実践する)の三つに分類した。 (p. 62)

 

ホールがエンコーディング/デコーディングの理論で試みたのは、『読みの多様性』を宣言することで任意の「抵抗」の契機をオーディエンスに保証するという平板な社会理解ではなく、またそうすることで安手のポピュリズム(大衆性の礼賛)を称揚することでもない。これは、非対称で不均質なエンコーディングとデコーディングをそのダイナミズムの内に把握し、そうした社会的意味をめぐる抗争の過程から立ち現れていく「社会的現実」の輪郭と政治性を問題化する、メディアの文化研究(Cultural Studies)の始動であった。 (p. 63)

こうしたホールの視座には、同時代のフランスから輸入されたロラン・バルトらの記号論やルイ・アルチュセールのイデオロギー装置論の成果が見てとれる。
伝えるべきメッセージが先に存在してそれを言語が伝達するのではなく、言語を実践することが伝達すべきメッセージを生み、言語による語りの様式が「現実」を構築すると考える言語論転回は、メッセージに唯一の正しい意味はなく、むしろメッセージは多様に〈読め〉てしまうだけでなく、その意味はつねに社会的過程を通じてのみ決定される、というメディア論的思考を可能にした。 (p. 65)

……八〇年代に開化したオーディエンス研究は、メロドラマや大衆文学といった「ポピュラーなもの」の消費過程を問題化したものが多い。これはモーレーたちがグラムシのヘゲモニー概念を導き手に「おかたいニュース」からより「ポピュラー」で「日常的」なデコーディングの文脈へと分け入っていった問題関心が、さらに深められていったことを意味している。 (p. 75)

……初期のオーディエンス研究は、それが拠り所としたホールのエンコーディング/デコーディング論を含めて、オーディエンスたちの〈読み〉とその交渉過程に意識を集中させ過ぎたため、そうした〈読み〉が成立する社会的文脈を軽視していたかもしれない。
さらには、効果研究や数量分析や『スクリーン』誌のテクスト分析などの一様なオーディエンス理解を批判するあまり、「能動的なオーディエンス」という分かりやすい言葉が一人歩きしてしまうほど「読みの多様性」を強調し過ぎていたかもしれない。こうした反省から、八〇年代の中盤以降のコーレーやアングたちは、オーディエンスの〈読み〉からオーディエンスの身体性へ、つまり多様な意味や解釈が飛び交い、せめぎ合い、交渉しあう、オーディエンスがいる空間――とくに「家庭」――へと照準を移動させた。これはテクスト分析=記号論的なオーディエンス理解から、社会文脈分析=空間論的なオーディエンス理解へのシフトチェンジであり、受け手と送り手の二元論を超えるメディア研究の実践であった。 (p. 81)

このような空間論的なテレビ視聴の把握を目指す九〇年代のオーディエンス研究は、やがてポストコロニアル地理学や国民国家批判研究の潮流とも節合して、さらに「問い」の射程を伸ばしていく。照準する空間も「家庭」から「 国民国家」へ、そしてグローバルな文化権力が作動するより大きな空間へと移行していったかのように見える。(p. 83)

第二章 サブカルチャー
     
成実弘至

この(CCCSの七〇年代後半の若者サブカルチャーをテーマとする)プロジェクトの背景には、一九七〇年代英国社会が抱えていた経済不況の深刻化と政治の保守化があった。産業構造の変化は伝統的な労働階級の文化とコミュニティを破壊しただけでなく、失業者を増加させ都市のスラム化を加速させていく。さらにその無策によって失墜した労働党にかわって政権を取ることになるサッチャー首相の保守党は、強硬な国内・対外政策によるポピュリズムにより広く人気を獲得し、もはや経済成長の重荷となった労働者階級の解体をさらに押し進めていった。こうした現実にたいして、左翼知識人たちはそれまでのマルクス主義理論を見なおして新しいタイプの抵抗の戦略をつくり出す必要に迫られていたのである。かつて重工業で栄えた全英第二の大都市バーミンガムには、英国の抱えるあらゆる問題が噴出していた。 (p. 104)

CCCSのサブカルチャー研究の魅力は、資本やメディアに踊らされる受動者としてでなく、 既成の文化を流用しながら独自の文化をつくりあげる創造的かつ批判的な営為としてサブカルチャーを読みかえ、そこに現代における階級支配への反抗の形式を見ようとしたことにある。この鮮やかな視点の転換は、同時代の若い研究者やジャーナリストたちに共感を持って受け入れられ、若者サブカルチャー研究のひとつの古典となっていく。(p. 107)

バーミンガムの研究者たちは労働者階級文化にやや過剰な思い入れをいだく傾向があった。彼らにとって、サブカルチャーとはイデオロギー闘争の主体であり、そのスタイルや音楽は資本主義や支配階級を鋭く切り裂き、同じく抑圧されている人々と連帯する表現にほかならない。七〇年代後半のパンク・カルチャーはこうした理論を都合よく体現していたのである。 (p. 108)

こうした(八〇年代以降の)社会状況を背景にサブカルチャー研究の見直しが進められた。多くの研究者が指摘するように、サブカルチャー・イデオロギー論は現場の若者たちの意識と大きな齟齬を生じている。とりわけ問題になったのは、サブカルチャーを「抵抗」の形式とみなす考え方である。 (p. 109)

サラ・ソーントンは英国におけるパンク以降の若者サブカルチャーであるクラブカルチャーのフィールドワークを行っている(Thonton,1995) 。その結果、彼女はサブカルチャー・イデオロギー論がクラブカルチャーの理解に役に立たないことを確認し、その内部の多相性や価値観の多様化をピエール・ブルデューを援用しながら「サブカルチャー資本(subcultural capital)」という概念から説明しようとする。
この概念は経済資本や文化資本と同様、音楽やファッションなどのメディア知識の多寡こそが若者たちのクールさやヒップさを決定し、サブカルチャー内部で尊敬を受けヒエラルキーの高位を占めるのみならず、場合によっては経済的な報酬さええられる(DJ、音楽ジャーナリスト、クラブ関係者になることによって)という独自の内部構造を解明している。サブカルチャーの構造をより詳細に調査・分析することで、ソーントンはメインカルチャーとサブカルチャーを単純な二項対立に描き出すのではなく、また社会階層や階級支配への「抵抗」として解釈するのでもなく、若者たち同士のあいだに働く微視的な権力関係をも分析したのであった。(p. 111)

……サブカルチャーの「逸脱性」「非行性」はグループに内在するものではなく、社会の側から与えられるという立場(ラベリング理論)が、一九六〇年代に逸脱の社会学研究から提示される。 (p. 114)

……サブカルチャーの「逸脱性」「非行性」はグループに内在するものではなく、社会の側から与えられるという立場(ラベリング理論)が、一九六〇年代に逸脱の社会学研究から提示される。
コギャルを例にとると、『コギャルらしさ』はもともと少女たちに内在する特質なのではなく、親、同級生、学校、警察、メディア、識者、政府などの他者や社会の側から「援助交際」「非行」「派手」などのレッテルをはられ、そのレッテルに応答したり反発したりする過程で少女たちはコギャルとはなにかを学習し、いわば他者の視線からアイデンティティを構築していくことになるのである。
つまり非行や逸脱の成立には、その若者を「逸脱者」として定義しようとする他者(社会)のまなざしが不可欠なのだ。この理論はとりわけ都市の路上に現れるサブカルチャーを考えるときに有効となる。なぜなら都市型サブカルチャーは社会(学校、警察、大人たち)による監視と、表象という他者のまなざし(メディア)との相互作用のなかで成立するからだ。 (p. 114)

……日本の街頭型サブカルチャーのアイデンティティとはなにか。シカゴ学派は都市スラムの下位文化を主流文化に対するアンチテーゼとしてとらえ、CSは若者サブカルチャーを親文化である労働者階級文化の連続線上においた。もちろん日本の族文化のなかにもヤンキーや暴走族など労働者階級文化と密接に結びついているように見えるグループも多い。 (p. 116)

……日本の族文化のアイデンティティは成員の出身階級や下位文化的特質よりも、都市空間における身体の誇示と社会からの監視、すなわち「見せる(目立つ)こと」と「見ること」との関係性によって成り立つと考えられる。彼らの結びつきは特定の場所を舞台とした空間的連帯であり、パフォーマティブな実践による空間の「占有」に求められるものだ。
……しかし社会の側から見るとその空間的占有は社会秩序の紊乱にほかならず、その排除に乗り出すことになる。都市空間の所有権をめぐる族文化と支配的文化との「象徴的闘争」が生じるのはそのときだ。(p. 117)

このとき注意しなければならないのは「族」という表現そのものである。戦後の族文化の命名は「斜陽族」から始まったというが、その後の「太陽族」「みゆき族」「暴走族」にしても、ほとんどすべてマスコミからの命名であることに留意するべきだろう。
つまりサブカルチャーは、まるで文化人類学者が未開民族を発見するように、ジャーナリストや社会学者のよって都市における新しい問題として発見されてはじめて明確に誕生するのである。このようにサブカルチャー的空間には、物理空間だけでなくメディア空間もが含み込まれているのだ。 (p. 118)

……ヘブディジは、サブカルチュラル・スタイルの特徴を「ブリコラージュ」と呼んだ。これは文化人類学者レヴィ=ストロースが『野生の思考』でつかった「ブリコロール(器用仕事人)」の実践にもとづいている。レヴィ=ストロースによると、未開民族は西欧近代人のように科学的な知性による発明をするのではなく、身の回りにあるすべてのものをつなぎ合わせる(ブリコラージュする)ことで、文化や象徴を創造するという。これはサブカルチャーの若者たちがスタイルをつくり出すやり方と近いとヘブディジは考えた。つまり、暴走族がつなぎ服、鉢巻き、独自の漢字表現、右翼的なスローガン、改造バイクなどのさまざまな商品をつなぎ合わせることで独自の文化をつくり出すことは、消費社会における野生の思考なのである。こうした商品の恣意的で意外な組合せは、その消費文化を切り裂き、新たな意味を付与することであり、社会に象徴的闘争をしかけることになる。(p. 119)

第三章 人種・エスニシティ
     本山謙二

『オリエンタリズム』で提示された問題を「認識論の暴力(epistemic violence)」への異議申し立てとして、そして『文化と帝国主義』で提示された問題を「文化領域における相互依存関係」の重要性を訴える思想であるととらえると、サイードの著作は、ポストコロニアル論、CSにおけるエスニシティ研究の分野で考察してきたことの中心的テーマを先導し、論じているということが指摘できる。(p. 125)

「認識論の暴力」とは、カルカッタに生まれ、大学卒業の後、アメリカへ渡ったG・C・スピヴァックにより理論化された言葉である。エスニシティ、人種、女性などという概念が、サイードの分析した「オリエント」言説の分析のように、言説それ自体が、そもそも西洋/男性中心的に構成されており、そこでは人種や女性という概念をつくりだした、そもそもの知の体系を問うことは、あらかじめ排除されている(foreclosed)という指摘のことである。(p. 125)

……(フランツ・)ファノンがフランス滞在記に記したのが『黒い皮膚・白い仮面』である。そのなかに「黒人の生体験(The Fact of Blackness)」という、現在でも読み継がれている鋭い論考がある。その論考のなかでファノンは、彼自身が経験した「ほら、ニグロだ!」という、パリの街角で突然「命名」され、自己を引き裂かれ、黒としてのみ着色(fixer)される経験を書いている。
こうした「命名」の暴力は、ジュディス・バトラーが「トラウマに連結した、ふたたび体験するものに由来する」と述べているように、過去に「命名」された集団にとっては、現在においても「ほら、ニグロだ!」と名付けられ、いっさいの自己を引き裂かれるトラウマ経験、集団的な記憶として、あらゆる局面においてフラッシュ・バックされているのである。(p. 128)

スチュアート・ホールは、ファノンが「黒人の生体験」で考察した、突然の「命名」に夜トラウマに連結した「命名」の連続性を意識したうえで、移民たちに対する「問いかけ」を移民性“The fact of being a migrant”として考察し、その文章の中で、新たな移民たちに対し、ホスト国側が投げかける「問いかけ」について次のように述べている。

あらゆる移民が迫られる古典的な問いは次の二つ。「なぜおまえは、ここにいるのか?」、「いつ祖国に帰るのか?」二番目の問いに対しては、どんな移民も聞かれるまで答えを知らない。聞かれて初めて、彼女/彼は、深遠な意味で、自分が決して帰ることはないだろうということを、現実に悟るのだ。移住とは片道旅行。帰るべき「祖国」などない。そんなもの初めからなかったのだ。

つまりホールは、ファノンの突然の「命名」を意識しつつ、ホスト国のマジョリティから移民が迫られる「問いかけ」(“The fact of being a migrant”)を、主に都市に暮らし、文化的差異を持った移民たちが、マジョリティから共通に問いかけられる、「他者」の排除を目的とした新たなヴァージョンの「呼びかけ」として提示した。それは、現代の多くの移民たちが投げかけられる「なぜおまえはここにいるのか?」、「いつ祖国に帰るのか?」という「呼びかけ」が、過去の「めいめい」(“The Fact of Blackness”)と連続性を持つ問題として考察されているのである。(p. 131)

ギルロイは、イギリス人の父とガイアナからの移民の母をもつ、イギリスで生まれ育った第二世代である。そのギルロイ自身、親の故郷からも、そしてイギリス社会からも拒絶されるアイデンティティを持っていたことは、想像に難くない。そうしたギルロイにとって、「なにものにも汚されていない伝統的な文化に帰還することなどありえないということがわかってからというもの、文化的アイデンティティそのものの不安定さこそが、批評の闘争的基盤になってきた」とレイ・チョウが述べるように、まさにギルロイの業績は、文化アイデンティティの不安定さこそを、闘争的な批評として読み替えていると言える。(p. 134)

ギルロイの提示するディアスポラ・アイデンティティは、そうした(今住む場所とホームとの「あいだ」の絡まりあう)緊張関係のなか、過去と未来という時間をつなぎ、そして複数の場所を繋ぐネットワークとしてのアイデンティティを主張する目的で構想される、オルタナティブな公共圏を提示するのである。
そのとに彼の主張するもっとも重要な方法論は、方法として起源(ルーツ roots)に向かう直線的なアイデンティティの関係性より経路(ルーツ routes)という移動のプロセスや、移動によって生成された媒介的なるものにアイデンティティを見いだす、という移動性・移民性から思考する方法論である。
そうした方法論をもとに構想されるネットワークとしてのアイデンティティは、自足的に成立している一国主義的な文化概念を批判し、差異の非固定化ばかりを主張するポスト・モダン的な議論とも異なる面を見せる。それは、単純な意味で国境を越えた相互浸透性などというものではなく、どこまでも近代に対抗する批判的オルタナティブの提示なのである。(p. 137)

CS、ポストコロニアル論の提示している問題群は、決して単なる翻訳を通じた流行の現象ではないのである。人が国境、異文化を越境し、ホームを離れて暮らし、定住しはじめるような状況下においては、まさにリアルな問題なのであり、そこでは、まさに「誰にとっての、何のためのカルチュラル・スタディーズ、ポストコロニアル論であるのか?」が問われているのである。(p. 143)


第4章 ジェンダーとセクシュアリティ
      小野俊太郎

……成長していく中で「男らしさ(masculinity)」や「女らしさ(femininity)」が問題となる。「男性」や「女性」の身体をもつことと、ジェンダーの意識にずれがあるからだ。社会はさまざまな教育やイメージの刷り込みによって「らしさ」を確保しようとする。そのせいで「性同一性障害」のように、自分の意識と身体のあり方にジェンダーのずれを感じる人もいる。現在では理解も進み、手術で身体を修正する動きも認められるようになった。 (p. 149)

セクシュアリティで厄介なのは、ジェンダーの区分が前提となることだ。ところが、そのせいで、おなじジェンダーとしてまとめられたなかに亀裂が生じる。いっしょの集団に分類されると、同性愛者が「敵」や「怪物」に見えて、異性愛者がパニックを起こすのだ。
アメリカ合衆国のフェミニズム運動で問題になったのは、レズビアンの女性たちを排除する動きだった。男性のなかに入り対等の地位を求める異性愛者と、男性と分離して女性だけで暮らそうとする同性愛者では、目標に折り合いのつかないことも多い。 (p. 154)

 

九〇年代には、ゲイの運動家や理論家を中心に「クィア(queer)」という言葉を採用するようになった。これは、もともと「おかま」とか「変態」という意味の侮蔑的な言葉だが、それをあえて採用している。ストレートと呼ぶ異性愛者からの差別の言葉をうけとめながら、自分たちだけ分離したユートピアを作ろうとせずに、対話や議論を進める。現在、クィア理論は、男女の同性愛の問題点にとどまらず、ジェンダーとセクシュアリティをつなげた広範囲な論点へ関心を広げている。 (p. 155)

ホモソーシャルな欲望が成立する背景には、「女性蔑視(misogyny)」と「同性愛嫌悪(homophobia)」があると、勤めていた大学のカリキュラム改革での実体験に基づいてセジウィックは喝破した。異性愛の男性がお互いを抱き合っても平気なのは、相手は性愛の対象の女性ではなく、同性愛のような逸脱傾向をもたないと相互に承認するからだ。 (p. 156)

ヘーゲル学者としてのバトラーが挑戦したのは、生物学上の身体を「自然」とみなし、男女を区別する根拠を与えてきた近代の哲学や思想の系譜の見直しである。最後の絶対の根拠と見える身体でさえも、じつは、ジェンダーやセクシュアリティの証明とはならないのだ。性器や染色体の差異に還元するのでは説明がつかない。社会で流布する言説が根拠となり、どこかで捏造された言説や身振りが反復されることで、そのまま居座って権威と権力をもつのだ。よく考えれば、生殖器を見て性別を決めるのも、その前に「オス・メス」という区別が頭のなかに入っているからだ。
こうした社会構築主義の分析を深めるため、バトラーは、演劇のパフォーマンス論と重ね合わせ、「パフォーマティヴィティ8performativity」」という語を採用した。さらに、言語行為論を手がかりに、社会構築主義の議論を深めた『触発する言葉』(一九九七)を発表している。いま、いちばん注目されるジェンダーとセクシュアリティ関連の理論家である。 (p. 159)

たとえ、家族と観ているアニメの『ドラえもん』でも疑問が湧く。ネコ型ロボットのドラえもんのジェンダーは「男性」なのか。のび太の「だめ男」ぶりは社会でどこまで許容されるのか。静香の入浴シーンが好んで出てくるのはなぜか。どうして静香は「のび太さん」と呼ぶのか。どれもジェンダーやセクシュアリティとどこかで結びついているはずだ。この分析には、精神分析や言語行為論や物語論や脱構築など、あなほうほうろんをくししたほうがいいだろう。(p. 169)


第5章 歴史の政治学
      北田暁大

文芸批評の分野においては、文化的な他者を理解したと錯認してしまう言説の権力性を捉え返していくポストコロニアル批評が、またデュルケム以来「逸脱」を主要な研究テーマとして設定してきた社会学でも、「研究者による逸脱的属性の客観的同定可能性」を前提とする逸脱理論のスタンスを根本から問い返す社会構築主義と呼ばれる潮流が、さまざまなヴァリエーションを見せながら豊饒な具体的成果を生みだしている。そして、サブカルチャーやメディア文化における社会的権力の問題を、素材・分析視覚の両面において多相的に扱ってきた、カルチュラル・スタディーズ(以下、CSと記す)と呼ばれる「統一なき多様体」においても、エスノグラフィックな調査研究における分析者の位置や権力性が、幾度となく問い返されてきている。 (p. 174)

逸脱カテゴリーの社会的な創出過程に着目する「ラベリング理論」の系脈をひく「社会構築主義(social constructionism)」のアプローチと、労働者階級を中心とする被支配階級、あるいは日常性(ordinariness)を生きる人びとのリアリティを主題化することを初発の問題意識として掲げていたCSは、相当な差異を孕みつつも、文化や社会に対するまなざしをある部分共有している。 (p. 1751)

……逸脱的事象の実体がどのようなものかという問いを全面的に括弧入れしたうえで、当事者が世界の状態のなかから何らかの出来事を抽出し、それを「問題である(to be problematic)」として定義(=クレイム申し立て)していくコミュニケーションそのものが「社会問題」とされるわけだ。「なぜ、このような問題が起こるのか」という因果論的な問いを徹底的に拒絶し、「異赤に、問題とされていくのか」を記述する試みこそが、キツセ=スペクター(『社会問題の構築』1990年)が提示した社会構築主義の基本的スタンスにほかならない。(p. 177)

あらゆる社会的属性(ジェンダー、クラス、エスニシティ、セクシャリティ)が、何らかの(生物学的、経済的)原因にもとづいて構成されるのではなく、むしろ社会構成員による、自己同定(identification)によって構築されるという認識視座は、分析者による特権的な認識可能性を排する議論(B)につながっていく。また、状況定義に参与する当事者たち自身の定義も、社会的なコミュニケーション過程での構築物にほかならないわけだから、アイデンティティも普遍の本質として捉えられることはない(A)。認識論上の分析者の特権性の拒絶、および当事者による自己同定(アイデンティフィケーション)の社会性を指摘する反本質主義――この二点が構築主義の基本綱領であるといえるだろう。(p. 177)

……構築主義と同様の問題意識を、我々はCSにも見いだすことができる。すなわち、

(1)当事者の経験への照準:大衆文化・サブカルチャーの能動的契機に着目し、当事者による能動的な意味解釈を掬いとるエスノグラフィックな研究に重点を置く(→構築主義における当事者言説の重視)。
(2)因果論的説明からの離脱:経済決定論的なマルクス主義理論から距離を置き、文化的要素を重視する反因果論的・反本質主義的な議論を展開する(→構築主義における反因果論)。
(3)再帰性の問題の先鋭化:分析対象=テクストのみならず、そのテクストを解釈する分析者自身の置かれたコンテクストをも問題化する(→構築主義における再帰性の問い返し)。(p. 179)

……構築主義およびCSの方法論を、歴史学の文脈において精力的に展開してきているのは、おそらく、現代フランス哲学の影響を受けつつ「言語論的転回」を標榜し、認識論的相対主義を掲げている一派(以下では便宜的に言語派=ポストモダン歴史学と呼ぶ)である。
……その主張の概要は、以下の三点にまとめられるだろう。

(1)認識論的相対主義:史料を実態(過去の事実)を反映するものとみなし、史料を取り巻く政治的・イデオロギー的情況を看過する実証史学への批判。「真なる実態の再現」を図るプロジェクトとしての歴史学の否定。
(2)歴史記述の物語性(narrativity)への着目:歴史記述は、分析者が生きる《現在》の様々な価値体系にもとづいて、遡及的・物語的に(一定の整合的なプロットを持つ物語として)構築されている。
(3)言語主義:現実(事実)は、つねに・すでに言語によって媒介された表象としてのみ我々の前に立ち現れる。言語=テクストの外部に位置する外部(現実)など存在しない。(p. 181)

たとえ歴史記述が現在において政治的に構成されるものであったとしても、現在(の言語)に改修され尽くすことのない何かに鋭敏な完成を働かせ、歴史記述の政治学の彼岸にある歴史そのものの政治学の可能性を模索していくこと、みずからの位置を懐疑しつつ、それでも「事実をして知らしめる」という「凡庸な」歴史学の実践が内包するラディカルな批判能力を手放さないこと――「凡庸さのラディカリズム」を語る吉見(義明)の発言は、《政治的なるもの》を突き詰めていくなかで、ポスト構造主義に依拠しつつ「学問の客観性」「学問的真理」(歴史学でいえば「過去の実態」の再現)自体を否定するに至った、言語派歴史学・CS・構築主義に突きつけられた頂門の一針にほかならない。(p. 186)

「公文書のどこに書いてある」「そんな史料は眉唾だ」云々と言い放ち、ホロコーストからの帰還者や「元慰安婦」の人たちが必死の思いで絞り出した証言を無化せんとする輩が幅をきかせている情況にあって、「実際に何があったのか」という実証史学的な問題枠組みをいったん脱臼させ、問いの構造の転換を試みた言語派=ポストモダン歴史学の実践は、間違いなく切実な政治的・倫理的意味をもっていたのである。 (p. 188)

…… 真/偽の軸を解体し、適切さ(主張可能性)の水準へと歴史学の営みを移行させるこうした物語論(物語論的・構築主義的な歴史観)は、良心的な実証史家であれば引き受けざるをえない、歴史そのものへの責任とでも呼ぶべきものを、骨抜きにしてしまうのではなかろうか。たとえば、歴史修正主義者にたいして敢然と立ち向かった歴史家ヴィダール・ナケの次のような言葉は、歴史記述の責任には回収されえない歴史への責任の所在を指し示しているように思われる。

いっさいが言説を通過せざるをえないということは分かりました。しかし、これをこえたところに、あるいはこれ以前のところに、これには還元しえないなにものか、よかれあしかれ、わたしがなおも現実と呼びつづけたいものがあるのでした。この現実がなくては、どのようにしてフィクションと歴史の区別はつけられるのでしょうか(ギンズブルグ[一九九四:九八ページ]より引用)。

わたしはヴィダール・ナケのこの言葉を、「歴史記述は特定時点において受容可能でありつつ、それでもなおかつ偽でありうる以上、歴史家は真理への思考を断念(主張可能性に自足)すべきではない」という可謬主義的な含意を持つものとして受け止めている。(p. 189)

「過去の事実と対応しているから」正当化されるのではなく、「《現在》において適切とされるから」正当化されるという歴史認識論は、たしかに公文書中心主義の下では信憑性を疑われてしまうサヴァイヴァーたちの声を掬いとることを可能にし、かれらの位置をエンパワーすることにも寄与するかもしれない。しかし、かれらが必死の思いで絞り出した声を、《現在》におけるかれらのアイデンティティを構成する記憶=物語として回収してしまってよいものだろうか(小林よしのりの暴言とサヴァイヴァーの証言とを私は同じ「物語」という言葉で括ることにどうしようもないためらいを感じる)。(p. 190)

……過去が言語的に構築されるという認識論的主張・歴史理論が極端なかたちで純化されるとき、具体的な社会状況のなかで生きていた過去の人びとの個別的な生は、なかば暴力的に「言語」へと押し込められてしまう。つまり、《現在主義》は過去の人びとの他者性を抑圧するという暴力に意図せざる形で加担してしまうのである。その意味で、再帰性の問題を先鋭化する言語派=ポストモダン歴史学の営みは、抽象的な社会理論にもとづく「構造主義」的な歴史記述とある種の共犯関係をとり結んでいるのだ。 (p. 195)

言語の透明性を懐疑し、歴史を語る主体の位置を鋭く問い返すポストモダン歴史学やCSが、その誠実な政治的意志にもかかわらず、結果として過去を生きる人びとの他者性を抑圧してしまうという逆理。ちょうど構築主義が、分析者の特権を解体し、当事者言説のアクチュアリティを救い出そうとしながら、言説を生産する当事者の生そのものを分析の射程から放逐してしまったように、ポストモダン歴史学・CSもまた、困難な隘路に迷い込んでしまっているように思われる。(p. 198)

階級とは「コトバ」でも「カテゴリー」でも「社会的構築物」でもない。それは、身体を携え生活世界を生きる当事者たちの経験の地平において「起こってくる(happen)」ような、出来事=行為なのである。階級の歴史的-社会的意味論から、パフォーマンスとしての階級に照準する歴史的-社会的語用論へ――トムソン-スコットの階級論は、こうした歴史学の「語用論的転回(pragmatic turn)」の可能性を示唆するものとはいえないだろうか。 (p. 201)

CSや社会構築主義、そして言語派=ポストモダン歴史学が投げかけてきた「物語性」「分析者の位置」といった論点の重要性は、もちろん疑うべくもない。しかし、語る主体の位置に際限ない反省を加え、《現在のコトバ》分析に禁欲する方法論を採用し、経験の地平を追尾することを躊躇して見せたからといって、それだけで政治的な真摯な誠実さが担保されるというわけではない(私はそれほど反CS的な態度はないと思う)。(p. 205)


第三部 キーワード解説

ポストコロニアル批評

近代の国民国家は、たえず「他者」を見出し、それに依拠しながら、自国や国民のイメージを形成してきた。ピカソの絵画はアフリカ美術をとりこんだと賞賛されるが、逆をやると模倣やパクリとする評価の非対称性が存在する。そして各地の「民族伝統」すら創造され、バリ島などに観光地のイメージが押しつけられてきた。しかも、宗主国による言語支配のあと、旧植民地の人間が、自分たちの声を届けるために宗主国の言語を利用せざるをえないジレンマをもつ。さらに、経済的に複雑に利害の絡んだなか、「われら」と「やつら」を分割する単純な「ナショナリズム」を適用しても分離主義的な「独立」は成立しない。多様な権力関係が歴史的に生成するプロセスとそこで生じる困難な問題が判明してきた。(小野)(p. 214)

ヘゲモニー

彼(アントニオ・グラムシ)は、社会的な権力が成立していく過程には矛盾や対立や共犯などの関係がつねに渦巻いていることを指摘した。たとえばファシズム政党が政治権力を掌握していく過程には、「支配者」による「被支配者」への「強制」や「統制」といった上から下へ働く一方的な力学だけではなく、「被支配者」である「民衆」からの「心情的な支持」や「共犯的な利害関心」といった下から上へ働く力学が動員されている場合がある。とくに近代のナショナリズムや人種差別主義の権力は、こうしたヘゲモニックな想像力を動員して作動していくのである。(山口) (p. 235)

 

ラベリング理論

(ハワード・S・)ベッカーによると、「社会集団は、これを犯せば逸脱となるような規則をもうけ、それを特定の人びとに適用し、彼らにアウトサイダーのレッテルを貼ることによって逸脱を生みだすのである。この観点からすれば、逸脱とは人間の行為の性質ではなくして、むしろ、他者によってこの規則と制裁とが違反者に適用された結果なのである」(『アウトサイダーズ』村上直之訳、新泉社)。すなわち、逸脱行為とはそれを定義し告発する社会と「逸脱」のレッテルを貼られたものとの相互作用のなかから形成されてくるのである。社会がこうしたラベリングを行う理由は、「逸脱=無秩序」を生みだしそれを排除することで、社会の正統性を規定し秩序を象徴的に回復するためだ。社会はその安定のために逸脱行為を必要とするわけだ。(成実)(p. 242)

視覚によってひらかれる透明な風景と、欲望をわだかまらせている触覚的で不透明な空間――近代の典型的な都市小説は、この二つの極のあいだをゆれうごく生のかたちを好んでとりあげてきたと思われるふしがある。たとえば一八八〇年代のベルリンを舞台にえらんだ森鴎外の『舞姫』の場合、一方には西洋文明を東洋の帝国にもちかえる使命感に勇みたっていた太田豊太郎が遠近法的な視覚で領略するウンテン・デン・リンデンの通景(ヴィスク)があり、他方には日本人仲間から疎外されてしまった失意の豊太郎をあたたかく包みこむエリスの屋根裏部屋がある。あるいは永井荷風の『墨東奇譚』。そこに生動しているのは、程なく戦争にまきこまれようとしている東京の雑駁な風景を、玉の井私娼街の迷路から見つめかえしているしたたかな荷風のまなざしである。(p. 450)

都市小説の主人公といえば、『罪と罰』のラスコーリニコフや『ユリシーズ』のレオポルド・ブルーム、スティーヴン・ディーダラスを引き合いに出すまでもなく、迷宮さながらに入り組んだ都市のさまざまな局面を、精力的に歩きまわる探索者のイメージを思いうかべてしまう。日和下駄に洋傘のスタイルで下町の陋巷に紛れこんで行く永井荷風のイメージでもいい。かれらのまなかいにあらわれる街並みの風景は、ゆたかな暗喩や歴史的記憶を内蔵した記号表現(シニフィアン)として解読されなければならないだろうし、作品のなかに呼びあつめられた橋や通りの固有名詞は、ある懐かしい雰囲気を立ちのぼらせるばかりでなくかれらの生きられた距離を明示するたしかな座標系をつくりだす。(p. 455)

…… すぐれた都市小説は、たとえば『罪と罰』がそうであるように、推理小説の構成に引きよせられることが少なくないわけだが、推理小説とのあいだに境界線が引かれるとすれば、それは主人公にとって都市の解読に進み出ることが、犯跡の追求ではなく、かれらのアイデンティティそのものを都市の表層の背後にかくされた記憶のなかに確認して行く行為を意味しているところに求められるだろう。都市の迷宮に潜り入ることが、同時に内面への旅につながっている微妙な構造に、近代的な都市小説のパラドックスがある。(p. 456)

私たちの日常生活をとりかこんでいるのは、リアルな事物の世界から切りはなされたおびただしい情報がひしめき合い、複雑で恣意的なブラウン運動をくりひろげているもうひとつの環境であって、それは可視的な都市の背後にかくされた虚体の都市としてまぎれもなく実在している。この情報空間はまた事実と模像(コピィ)が 絶えず浸透し合い、〈部分〉と〈全体〉がめまぐるしく入れ換るあいまいで流動的な世界でもある。(p. 460)

田中義久によれば、六〇年代の後半から日本の社会をつらぬく社会心理の主流をかたちづくることになるこの私生活主義は、①政治への不信から私的領域を自力で充実させていこうとする生活防衛、②家庭や家族に求心化しながらも、それらを統一する生活原理の不在、③生きがいの遠心化、国民的目標の不在、という三つの特性をからませながら、日常的な欲望の体系を膨張させる方向に動いてきたのだという(『私生活主義批判』)。浮遊する都市の中間層に近代的な生活の幻想を提供しつづけている郊外の巨大団地は、この私生活主義の象徴的表現にほかならないというのだ。(p. 467)

(2011/6/26)