アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート |
序 共にある生――グローバル民主主義に向けて ……私たちの出発点は、近代の列強が国民国家の主権を外国の領土にまで拡張することをおもな基盤として実践してきた帝国主義の見地からは、もはや現在のグローバル秩序を適切に理解することはできないという認識にあった。今やその代わりに、「ネットワーク状の権力」というあらたな主権形態が現出しつつあり、底には主要な国民国家に加えて、超国家制度、メジャーな資本主義企業その他の権力が、主要な要素または節点(ノード)として含まれている。私たちの主張するこのネットワーク状の権力は、「帝国主義的」なものではなく、「〈帝国〉的」なものなのだ。 (p. 16) ……マルチチュードは、これら多様な社会的生産の担い手すべてを潜勢的に含んでいるのである。ここでも、インターネットのような分散型ネットワークは、マルチチュードにとっての格好の初期イメージまたはモデルとなる。その理由は第一に、さまざまな節点(ノード)がすべて互いに異なったまま、ウェブのなかで接続されていること、第二に、ネットワークの外的な境界が開かれているため、常に新しい節点(ノード)や 関係性を追加できることである。(p. 21) 情報や知識を相手に仕事をする者は誰しも、たとえば種子の特性を開発する農業専門家からソフトウェアのプログラマーにいたるまで、他者から伝えられた〈共〉的[=共通・共有の]知識に依拠しつつ、また新たな〈共〉的知識を創り出す。このことはとりわけ、アイディアやイメージ、情動、関係性といったものを含む非物質的なプロジェクトを創出するすべての労働にあてはまる。私たちはこの新たに支配的になったモデルを、……「生政治的生産」と呼ぶことにする。(p. 22) 新興ブルジョワジーが自分たちの利益を保証してくれる主権を頼みにしていたのに対し、マルチチュードは新たな〈帝国〉的主権の内側から姿を現し、さらにその彼方を志向する。マルチチュードは〈帝国〉をくぐり抜けて、オルタナティヴなグローバル社会の創出へ向かおうとしている。(p. 25)
第一部 戦争 1-1 ジンプリチシズム――終わりなき戦争を見る目 例外状態の全面化 もっとも支配的な国民国家を含む国民国家の主権が減退し、代わりに新しい超国家的な主権形態、すなわちグローバルな〈帝国〉が現れつつある現在、戦争や政治的暴力の状況や性質は必然的に変化している。戦争は今やグローバルで果てしない、全般的現象となりつつあるのだ。 |
戦争が、主権をもつ存在間の紛争だけに限られるなら、それぞれの国内社会における政治は、少なくとも通常の状況のもとでは、戦争から解放されるというわけだった。戦争は限定された例外状態だったのである。 戦争の時間的・空間的な孤立性が弱まり、戦争は今や社会の領域全体を洪水のように覆い尽くしているように見える。例外状態が永続的かつ全般的なものとなったわけだ。(p. 36) 私たちはこの「例外状態」を、もうひとつの例外――アメリカ合衆国という、唯一生き残っている超大国が振りかざす、例外主義と結びつける必要がある。現代のグローバルな戦争状態を理解するためのカギは、この二つの例外の交差するところにある。(p. 37) 合衆国例外論には本来、二つの明確で相いれない意味があることに由来している。一方で、合衆国は建国以来、ヨーロッパ式の主権形態に見られる腐敗から例外であると主張してきた。この意味では、合衆国は共和主義の美徳を世界に先んじて示す役割を果たしてきたのだ、この倫理的構想は今日尚機能しており、たとえば合衆国が民主主義や人権、国際的な法の支配を世界に広めるリーダーであるという考え方に表れている。…… グローバルな戦争状態は何をもたらすか 一九八〇年代に始まった「麻薬との戦争」、さらには二一世紀の「テロリズムとの戦争」になると、戦争のレトリックはより具体性を帯びてくる。貧困との戦争と同様、ここでも敵として想定されるのは特定の国民国家や政治共同体、あるいは個人ですらなく、抽象的な概念や一連の慣習や実践である。……こうして私たちは、メタファーやレトリックとしての戦争への呼びかけから、不明確で実体のない相手を敵とする本物の戦争へと移行してきたのである。(p. 46) こうした新種の戦争が出現したことのひとつの結果は、戦争が空間的にも時間的にも不確定なものになったことだ。……ある概念や一連の慣習・実践を相手にした戦争は、いくらか宗教戦争にも似て、明確な空間的・時間的境界をもたない。……
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テロリズムは、次の三つの現象……を指す政治的概念……となった。(1)正統なる政府に対する反乱や反逆、(2)政府による人権(所有権を含むとする説もある)を侵害した政治的暴力の行使、(3)交戦規定に違反した戦争行為(民間人に対する攻撃を含む)。だが問題は、カギとなる要素を誰が定義するかによってこれらすべての内容が違ってくることにある。……これらの要素の定義次第では、当然ながら合衆国でさえテロリストと呼ばれうるのである。(p. 50) 正戦のドクトリンや対テロリズム戦争を国内に向けて掲げるのは、完全に近い社会統制をめざす政府である。これを福祉国家から戦争国家への移行だと見る者もあれば、いわゆるゼロ・トレランス[非寛容]社会だとみなす者もある。(p. 51) 近代において、戦争は一度たりとも絶対的・存在論的な性格を帯びることはなかった。……戦争は社会的生の一要素ではあっても、生を支配するものではなかったのだ。あらゆる否定的な破壊の瞬間には、必然的に社会秩序の構築という肯定的な瞬間が含まれるという意味において、近代の戦争は弁証法的な意味合いをもっていたのである。(p. 53) 地球規模の破壊を可能にする兵器の出現が、近代における戦争の弁証法的性格を打ち消したのだ。古来、戦争とは常に生命の破壊をともなうものだったが、二〇世紀になってこの破壊力は純然たる死の生産という極限に達した。これを象徴的に表すのがアウシュヴィッツとヒロシマである。……大量虐殺や核兵器が生命そのものを表舞台に押し上げるとき、戦争はまさしく存在論的なものとなるのである。(p. 53) 拷問は警察行動と戦争とが出会う一つの中心的な接点である。予防的な警察行動の名の下に行われる拷問は、、軍事行動のあらゆる特徴を帯びるようになる。これは例外状態のもう一つの側面であり、政治権力が法の支配をのがれようとする傾向を示すものでもある。 (p. 55) 戦争が新たに積極的かつ構成的な特徴を帯びていることを示すひとつの指標に、米国政府が、とりわけ二〇〇一年九月一一日以降の対テロリズム戦争の一要素として推進している、「防衛」から「セキュリティ」への政策転換がある。(p. 56) 今日、セキュリティの名のもとに先制攻撃や予防戦争が正当化されることによって、国家主権は明らかに損なわれ、国境はますますその意味を失いつつある。……セキュリティは、積極的かつ恒常的に軍事活動/警察活動を行うことを通じて環境を形づくることを必要とする。(p. 56) 今や世界が恒常的な戦争状態に入っているとするなら、必然的に戦争は、既存の権力構造に対する脅威という不安定化をもたらす力ではなく、その反対に、現在のグローバル秩序を絶えず創出し強化しつづける積極的なメカニズムでなければならない。さらにセキュリティの概念は、国内と国外、軍事と警察の区別の消滅を示唆する。(p. 57) アフガニスタンやイラクなどですすめられている政治的な「国家建設」プログラムは、生権力と戦争からなる生産的プロジェクトの重要な一例である。この国家建設という概念ほど、ポストモダン的で反本質主義的なものはないだろう。一方で、ここでは国家が純粋に偶発的で偶然のもの、哲学者が言うところの具烏有的な存在になったことが露呈している。だからこそ国家は政治的プログラムの一環として破壊されたり組み立てられたり、でっち上げられたりするのだ。(p. 59)
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〈帝国〉の暴力はいかに正統化されるか 国民国家の行使する暴力がもはや、その国の法的構造にもとづいてア・プリオリに正統だとみなされないとすれば、今日、暴力はいったい何によって正統とみなされるのか? すべての暴力は等しく正統なのだろうか? たとえばビン・ラディンやアルカイダには、暴力の行使に関して合衆国の軍隊と同様の正統性があるのか? ユーゴスラビア政府は、合衆国がその住民の一部を投獄し処刑する権利をもつのと同様に、住民の一部を拷問し殺害する権利をもつのか? パレスチナのグループがイスラエル市民に対してふるう暴力には、イスラエル軍がパレスチナ市民に対してふるう暴力と同様の正統性があるのか?(p. 65) 伝統的な考え方の多くでは、人権はあらゆる形態の暴力に反対するものとされた。しかしこの考え方は、ホロコーストに脅かされ、さらにはコソヴォでの「人道的介入」以降明らかに「アナン・ドクトリン」とも呼ばれる見解へとシフトした。今や人権擁護派の大多数は暴力を人権擁護に役立つものとして支持し、それは道徳的基盤によって正統化され、青いヘルメットを被った国連軍によって行使されるのだ。 もっとも力のある者も〈帝国〉の法や制裁措置に従うべきだという主張は、崇高ではあっても、ますます非現実的な戦略になっているように思われる。人道に反する犯罪を処罰する〈帝国〉の司法制度や国際裁判所は、国連安全保障理事会や大凶の国民国家群といったグローバルな支配権力に依存するかぎり、必然的に〈帝国〉の政治的ヒエラルキーの意向に沿って、それを再生産することになる。合衆国が、自国の国民や兵士が国際刑事裁判所で裁かれるのを拒否している事実は、法的な規範と構造の適用の不平等を如実に物語っている。合衆国は、通常の国内法システムあるいは特別措置によって――たとえばキューバの米海軍グアンタナモ基地に[対テロ戦争で拘束された]戦闘員を超法規的に収容しているように――他国民に法的措置を課すことはしても、自国民が他国の、あるいは超国家的な法的機関で裁かれることは許さないのだ。法の前の平等の実現は、権力の不平等があるかぎり不可能であるように見える。(p. 69) 〈帝国〉の暴力を正統化するためには、敵と無秩序の脅威とが恒常的に存在することが必要である。だとすれば、戦争が政治の基盤をなすものであるときに、敵が正統性を構成する機能を果たすとしてもなんら驚くべきことではないだろう。こうして敵は、もはや具体的で局所化可能なものではなくなり、〈帝国〉という名の楽園に棲むヘビのような、姿を見せては消えるとらえどころなない存在となっている。敵は未知で目に見えないのに、まるでオーラのように常に辺りに存在しているのだ。(p. 71) 知性や情報や情動といった非物質的生産を基盤にした新しい社会的労働形態……やそれが創り出す社会的ネットワークは、人びとの協働をとおして内的に組織され、管理される。これが本来のセキュリティの形である。反対に、これまで論じてきたセキュリティ、すなわち抽象的な敵の概念にもとづき、暴力を正統化し、自由を制限するのに役立つセキュリティの概念は、外部から課せられる。これら二つのセキュリティの概念――一方は協働に、他方は暴力にもとづく――は、ただ異なるというだけでなく、真っ向から対立する関係にあるのだ。(p. 72) 現在行われている戦争をいくつかの軸に即してカテゴリー化することは……今でももちろん可能だが、こうしたカテゴリーの意味は薄れつつある。……ただ、重大な意味をもつ区別がたったひとつだけ存在しており、しかもそれは他のすべての区別に重ね合わせられている。その区別とは、現在のグローバル秩序のヒエラルキーを維持する暴力と、その秩序を脅かす暴力という区別である。(p. 65) |
------------------------------------------------------- ハンチントンがもっとも恐れているのは――そしてこれが彼の議論の最大の推進力なのだが――、本来の意味での民主主義、すなわち「全員による全員の支配」であることは一目瞭然だ。民主主義は権威によって統制されるべきであり、さまざまな住民集団が政治活動に行き過ぎた参加をしたり、国家に対して行き過ぎた要求を行ったりすることは阻止されるべきだ、と彼は主張した。その後、このご託宣は、福祉国家の破壊をもくろむ新自由主義の動きにとって格好の手引きとなった。(p. 76) 冷戦が終結し、国民国家の主権さえ弱体化しつつある二〇世紀末、グローバルな秩序をいかに形成し、その秩序を維持するのに必要な暴力をどのように配置し、正統化すべきかは明らかではない。そこでハンチントンはこう助言する。グローバルな秩序とグローバルな紛争の編成、言いかえれば同盟陣営と敵陣営とを分ける国民国家のブロック化は、もはや「イデオロギー」によってではなく、「文明」によっておこなうべきだ、と。オスヴァルト・シュペングラーの再来、反動思想の老いたモグラの復活である。(p. 76) 文明の衝突なる仮説は、世界の現在の状態の記述(ディスクリプション)というより、戦争への呼びかけ、「西洋」が果たすべき任務を明示した処方箋(プレスクリプション)というべきものだろう。(p. 78) 合衆国政府は9・11以降、自国のグローバルなセキュリティ戦略は文明の衝突とは何の関係もないと繰り返し強調してきた。そのおもな理由は、なにも合衆国の政治指導者がハンチントンの文明の衝突論という仮説/提案に含まれた人種差別的な意味に敏感だからではなく、文明という概念が彼らのグローバル戦略にとってあまりにも限定的だからだ。(p. 78) 1-2 ネットワーク化する対反乱活動 軍産複合体による新しい戦争 冷戦戦争が通常の状態になったという事実を定着させるものだった。武力による殺戮が止んだからといって、戦争が終わったわけではないことが明らかになったのだ。それは一時的に戦争の形態が変化したことを示しているにすぎない。今日、戦争状態はふたたび、おそらくはより完全な形で終わりのないものになったのだ。 (p. 84) 国際関係の転換がいつ始まったかについては、冷戦が最終的に崩壊した一九八九年にその起点を求める見方が一般的だ。だが、より暗示的なのは、現在の戦争状態は一九七二年五月二六日に始まったとする見方だろう。これは米ソ二大超大国が、核兵器の製造を制限する弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約に調印した日に当たる。目を見張るばかりの核軍拡競争の脅威は、その極致に達したのだ。この条約調印を境に、……核ミサイルは暗い倉庫のなかに埋もれてゆく。少なくとも近代における戦争――無制限かつ高強度の紛争と破壊を含む、全般化された戦争――は、その力を徐々に失っていったのである。(p. 84) 戦争の焦点は、敵陣営全体を破壊することから、敵を変質させること、もっと言えば敵を生産することへと移っていったのだ。戦争は抑制されたものとなったのである。超大国は大規模な総力戦ではなく、高強度の警察行動に従事するようになった。合衆国によるベトナムやラテンアメリカへの介入、ソ連のアフガニスタン侵攻などがその例である。高強度の警察行動が、しばしば低強度の戦争と見分けが付かないのは言うまでもない。(p. 85) |
一九七〇年代初めに起きたこの戦争の形態と目的の転換は、グローバル経済が大きな変容をとげたのと時期を同じくしていた。ABM制限条約が、ニクソン大統領が米ドルときんの交換停止を発表した一九七一年のニクソン・ショックと、一九七三年の第一次オイル・ショックとの間に調印されたのは、決して偶然ではない。これらは通貨および経済危機の年であるだけでなく、福祉国家の崩壊と、それまで工場にあった経済的生産の主導権が、より社会的で非物質的な部門へ移行するという二つの現象の始まりをも意味していたのだ。(p. 86) 戦争と経済的生産の関係について論じるさいに注意すべきなのは、「軍産複合体」というレッテルによってむやみな単純化をしてはならないということだ。……一九六〇年代以降、この概念は戦争産業による人間の運命全体に対する支配を表す、いわば神話的な表徴となった。言いかえれば、この概念は抵抗や解放運動に対応して産業、戦争、そしてさまざまな機関の間で形成される複合的関係の結果ではなく、それ自体が歴史の主体とみなされるようになったのだ。 このRMA(「軍事革命」)という概念には、三つの基本的な前提がある。第一は、新しい技術によって新しい戦争形態の可能性が生まれたこと。第二は、合衆国が今や他のすべての国民国家をしのぐ圧倒的な軍事的優位を保っていること。第三は、冷戦の終結に伴い、予測可能な大規模衝突という戦争のパラダイムも終焉を迎えたこと、である。 (p. 89) 近代の戦争における「国家総動員」とは、社会全体をそっくりそのまま一種の戦争工場に変貌させることを意味した。そこでは戦場に兵士の身体を集合させることは、ちょうど工場に労働者の身体を集めるようなものだった。大量の労働者の匿名の身体と、やはり名をもたない大量の兵士の匿名の身体とが重なり合う。 (p. 89) このRMAのイデオロギーによれば、戦争はもはや、塹壕で皆殺しにされる大量の兵士を必要としない。戦場や空中および海上にいる人間は、機械の人工器官と化している。あるいは、複雑な機械・電子装置の内部要素と言ったほうがいいかもしれない(ここで逆説的な形で認められるのは、主体に関するポストモダン理論が、軍事理論の概念のなかに再び姿を現しているということだ)。RMAはコンピュータや情報システムと言った技術の発展だけでなく、可動性と柔軟性をもつ非物質的な社会的労働形態という、新しい労働形態にも依拠している。(p. 92) 合衆国の指導者たちは、自国の優秀な目的遂行能力や高度の軍事テクノロジー、兵器の精密さなどによって、米軍は安全な距離から敵に対して精確かつ決定的な攻撃を行うことが可能であり、さながら外科手術のように地球という社会的身体から、最小限の副作用で多くのガン細胞を取り除くことができるとますます強く信じ込んでいるように見える。こうして戦争は技術的に見れば仮想的なものとなり、軍事的に見れば非身体的なものとなる。米軍兵の身体はリスクから解放され、敵の戦闘員は目に見えないところで効率的に殺害されるのである。 (p. 93) |
RMAのイデオロギーがより抽象的・象徴的なレベルで抱えている矛盾として、自殺爆撃という現象の増大を指摘することができる。自殺爆撃の実行者とは、リスクから解放され身体をもたない兵士の暗黒の裏面であり、その血塗られた分身にほかならない一人も死なせないというハイテク軍事戦略のもと、戦場から消え去ったと見えたまさにそのとき、それは身の毛もよだつ悲惨な現実として戻ってくる。RMAも自殺爆撃の実行者も、伝統的な戦闘を決定づける要素としての危険にさらされた身体をともに否定する。前者はその生命を保証し、後者はその死を保証するのだ。……自殺爆撃は、非対称的紛争全般がもたらす困難や矛盾の究極的な例にほかならない。 (p. 94) 合衆国の指導者が身体の介在しない戦争、あるいは兵士のいない戦争を想定するとき、彼らはもちろん米軍兵士の身体しか考えていない。敵の兵士の身体は当然死ぬものとして想定されているのだ(しかも、敵側の死傷者は軍人で荒れ民間人であれ、報告されない――それどころか、数えられもしない――場合が増えている)。この非対称性は、矛盾の解消をいっそう困難にしている。というのも、片方の側には戦争を終わらせたいという動機が欠如しているからだ。 (p. 96) 死傷者のいない戦争や、支配的な軍隊とその他の軍隊との技術的な非対称性を強調することによって、戦争術から身体や身体のもつ力という問題ばかりか、社会的な側面がそっくり抜け落ちてしまうのだ。 (p. 98) 軍事革命の理論は、戦争術に深刻な腐敗をもたらす。傭兵で構成される軍隊は、公共倫理を破壊し、がむしゃらに力を求める熱情を爆発させるという意味において、腐敗した軍隊だといえる。現代の傭兵は、旧い古典理論に従った形で反乱を起こすのだろうか? アルカイダが世界貿易センターやペンタゴンを攻撃したのは、傭兵の反乱だとみなすべきだろうか? サダム・フセインはかつて合衆国政府に金で雇われていた傭兵隊長だったが、その後以前の雇い主に反逆したと考えるべきだろうか? 戦争がグローバルな秩序を構成し、将軍が最高の執政官になるというのが現状である以上、そうした可能性はすべて肯定せざるを得ない。 (p. 99) ------------------------------------------------------- 〈帝国〉の貴族層と傭兵との関係は時に親密であり、時にきわめて疎遠である。最大の不安は、傭兵隊長がいつか帝国の貴族層に反旗を翻すのではないかということだ。サダム・フセインはイスラム教国イランの脅威に対して「スイス護衛兵」の役目を果たしたあとでそうしたし、ウサマ・ビン・ラディンもアフガニスタンをソ連から解放したあとでやはり反旗を翻した。マキアヴェッリによれば、傭兵が権力を握ることは共和国の終わりを意味する。傭兵による指令は腐敗と同じ意味になる、と彼は言う。(p. 101) 「ネットワーク状の敵」にどう向きあうか 今日、他を寄せつけない軍事力をもつ超大国となった合衆国は、すべての潜在的な敵との間に非対称的な関係性をもっており、そのためあらゆる方面からゲリラ攻撃または非在来型の攻撃を受ける危険にさらされている。…… |
軍事的・技術的な優位の限界と脆弱さについての認識から、戦略担当者は全次元および全方位にわたって敵を押さえつける力をもつ非限定的な支配形態をとるべきだと提案する。必要なのは軍事力を社会的・経済的・政治的・心理的・イデオロギー的管理と結合させる「全方位的支配」だと、彼らは言う。こうして軍事理論家は事実上、生権力の概念を自ら発見したのだ。 (p. 106) この新しい対反乱戦略によれば、主権権力は一方では既存の住民との間に安定した関係を確立することの不可能さに直面し、他方では全方位的支配の手段を与えられており、自らが必要とする従順な社会的主体をただひたすら生産するという。このように権力が従順な主体を生産し、言いかえれば、市民と労働者の完全な疎外が生じ、生活世界が全面的に植民地化されるという仮説は、一九六〇年代以降、多くの論者によって「後期資本主義」を規定する特徴として述べられてきた。フランクフルト学派やシチュアショニストをはじめ、テクノロジーやコミュニケーションを批判するさまざまな人びとが、資本主義社会の権力は従順な主体を生産することによって全体主義的傾向を強めると力説してきた。 (p. 107) 自殺爆撃の実行者はここでまたしても、主権権力の不可避的な限界と脆弱性を象徴するものとなる。従属した生を受け入れることを拒否する自殺爆撃の実行者は、生命そのものを恐ろしい武器に変えるのだ。これは生権力のもっとも悲劇的でおぞましい形をした存在論的限界にほかならない。 (p. 108) 9・11以降、合衆国とその同盟国の指導者たちが不承不承学んだ苦い教訓のひとつは、彼らが直面する敵は単一の国民国家ではなくネットワークだということである。……この非対称的対立の時代においては、敵および〈帝国〉の秩序をおびやかす脅威は、主権をもつ中心化された主体というより、分散的ネットワークとして立ち現れるのが一般的な状態になっている。(p. 109) こうしたモデルの究極形態は、全く中心をもたない分散型ないしはフルマトリックス型のネットワークであり、そこではあらゆる節点が他のすべての節点と直接的に情報伝達を行う。……分散型ネットワークはさながらアリかハチの群がり(スウォーム)だ。それは一見したところおびただしい数からなる無定型の集団であり、あらゆる方面から一点を攻撃することもできる一方で、ある環境のなかに散り散りに紛れ込んではほとんど姿を消してしまうこともできる。こうした群がりを追いつめ、とらえることは至難の業だ。(p. 112) 「断頭モデル」 「環境剥奪モデル」 |
少なくとも一九九〇年代初頭以降、合衆国の外交政策と軍事行動は帝国主義的論理と〈帝国〉の論理の両方にまたがっていると言うことができよう。 (p. 117) このようにネットワーク型権力の必然性という視点に立つと、単独行動主義か多国間協調主義かという議論はもはや意味を失う。ネットワークは、ある単一の点から発せられるいかなる指令によってもコントロールできないからだ。…… 1-3 抵抗の系譜 抵抗の優位性 現代の労働と生産の現場は、非物質的労働――情報や知識やアイディア、またイメージや関係性や情動といった非物質的な生産物を産み出す労働――が主導権を握ることによって、変容しつつある。……実際には、おもに非物質的生産活動に従事する労働者は、地球全体から見れば一握りの少数派にすぎない。ここで言いたいのは、非物質的生産の質やその特徴が、他の労働形態、ひいては社会全体を変容させようとしているということだ。 (p. 125) 他の労働形態を変容させつつある非物質的労働の特徴のなかには、社会にポジティブな変革をもたらす大きな潜勢力をはらんだものもある……。 その第一は、非物質労働は厳密な意味での経済的領域という限定された範囲を抜け出て、社会全体の生産と再生産全般に携わる傾向があるということだ。……非物質的労働は、社会的生の多様な形態の創造に向けられているという点で生政治的なものであり、その意味で非物質的労働はもはや経済的なものに限定されることなく、直ちに社会的・文化的・政治的な力となる。哲学的にいえば、非物質的労働による生産とは、究極的には主体性の生産であり、社会における新しい主体性の生産と再生産にほかならない。……第二は、非物質的労働はコミュニケーションや協働、情動による関係にもとづいたネットワークという社会的形態をとる場合が多いことである。(p. 125) マルチチュードによる大いなる主体性の生産、その生政治的な能力、貧困との闘い、民主主義実現のための絶え間ない奮闘――これらはすべて、近代初期から今日にいたるまでの抵抗の系譜とぴたりと一致する。 |
人民軍からゲリラ戦まで 南北アメリカであれ、アジアやアフリカであれ、植民地権力に抗する近代の大規模な革命闘争ではいずれも、武装集団やパルチザン、ゲリラ、反逆者によって形成された人民軍が出現した。非正規で分散した反逆勢力から軍隊への移行は、近代の内戦に見られる根本的な変化だといえる。 (p. 131) 人民軍の集権化された組織は、勝利を獲得するまではすばらしい戦略に見えるが、勝利が決定的になったとたん、その統一的で階層的な構造の弱点が悲惨なまでに明らかになる。人民軍が民主主義を保証するなど、程遠いことだ。 (p. 135) キューバのフォコ[移動する根拠地]路線の民主的・自立的な性質はきわめてあやふやなものだった。まず第一に、伝統的な正統による管理からの自由は、単に軍の権威による管理に取って代わられたという点があげられる。フィデル・カストロとチェ・ゲバラはともに、ゲリラ勢力は最終的には単一の権威、単一の人物の支配下に入るべきだと主張し、この人物は勝利後に政治的指導者になるものとされた。第二に、ゲリラ組織が一見、水平方向の自立的なものだと思われたのも、結局は幻想にすぎなかった。……フォコとはいわば前衛党の萌芽形態のようなものであり、ゲリラ組織の一見多元的で多中心的な構造は、実際には集権化された単一性へと縮減される場合が多いのである。 (p. 138) したがってゲリラ運動のモデルはせいぜい過渡的な形態にすぎず、何よりもそこには、より民主的で自律した形態をもつ革命組織への持続的で満たされない欲望が露呈していると見るべきだろう。 (p. 142) 人民軍からゲリラ組織まで、これらの武装した人民闘争の近代的形象がもつ力を認識すれば、政治的なものを社会的なものから自律させようとする種々の理論がいかに間違っているかは自ずと明らかになる。たとえばハンナ・アーレントは政治革命と社会革命を区別したうえで、アメリカ革命は前者の例、フランス革命は後者の例だとしている。アーレントの構想には、政治的解放と民主主義の欲求を、社会正義と階級対立の要求から切り離そうとする傾向があるが、こうした区別を保つのは一八世紀のさまざまな革命にとっても困難であり、近代が進むにつれてその度合はますます高まる。個々の革命の形象のなかでは経済的・社会的・政治的要因のもたらす圧力が接合されており、それらを別々の箱に区分けすることは、人民による武装闘争やゲリラ運動の現実的かつ具体的なプロセスを理解するうえで妨げにしかならない。それどころか、対反乱活動や国家による抑圧のひとつの共通戦略は、「社会的なもの」対「政治的なもの」、正義対自由というように、一方を他方に対抗させることなのだ。(p. 142) 近代においては、権力と主権の正統化は常に――その権威が(マックス・ウェーバーの言葉を借りれば)伝統的なものであれ、合理的なものであれ、カリスマ的なものであれ――超越的な要素にもとづいて行われ、これは抵抗や反逆の場合も例外ではなかった。主権をもつ人民という概念の曖昧さは結果として一種の二枚舌となる。というのも、権力の正統化を行う[主権と人民の間の]関係は常に、住民全体ではなく権威を特権化しがちだからだ。先に見たように、革命組織の近代的形態がもつ非民主的性格に対する不満が絶えない原因は、この人民と主権との曖昧な関係にある。すなわち、闘う相手である支配と権威の形態が、絶えず抵抗運動そのものにもそっくりそのまま再現されてしまうということだ。その上今日では、人民の行使する暴力を正統化する近代的議論が、先ほど指摘した国家暴力の正統化に関する危機と同じ危機に見舞われることが増えている。ここでも、伝統的な法的・道徳的議論は、もはや通用しないのである。(p. 144) |
世界の支配地域においても従属地域においても、長期間にわたる闘争のサイクルがその頂点に達した一九六八年以降、抵抗と解放運動の形態はラディカルに変化しはじめた。それは、労働力や社会的生産形態における変化と軌を一にするものだった。何よりもまず目に付くのは、ゲリラ戦の性質の変容であり、なかでも顕著なのは、ゲリラ運動の舞台が農村部から都市へ、解放空間から閉鎖空間へと移行したことだった。またゲリラ戦の方法は、ポストフォーディズム的生産という新しい状況に合わせ、情報システムやネットワーク構造に即した形で変化しはじめた。(p. 146) もちろんこの時期に都市で起きた運動のなかには、ゲリラ運動に典型的な多中心的組織モデルを採用せず、伝統的な軍事構造に見られる旧来の集権化された階層的モデルを踏襲するものも多くあった。そうした集権的軍事構造を復古的なやり方でまねた例としては、北米ではブラックパンサー党やケベック解放戦線、南米ではウルグアイのトゥパマロスやブラジルの民族解放連盟、ヨーロッパではドイツ赤軍派やイタリアの赤い旅団などがあげられる。(p. 147) マルチチュードによるネットワーク型の闘争のひとつの明確な特徴は、ポストフォーディズム的な経済的生産と同様に、それが生政治的領域で生起するという点だ。言いかえれば、ネットワーク型の闘争は新しい主体性と新しい生の形態を直接的に生み出すのである。……そこで重んじられるのは、主として創造性、コミュニケーション、自己組織的な協働といったものなのである。(p. 149) サパティスタは旧いゲリラ組織モデルと、生政治的ネットワーク構造をもつ新しいモデルの間のいわば蝶番のようなものなのだ。サパティスタはまたポストフォーディズムの経済的行こうが都市領域と農村領域の両方で同じように機能し、ローカルな経験がグローバルな闘争と結びつくことを示した、みごとな実例でもある。(p. 152) 二〇世紀末の数十年間はまた、とくに合衆国において「アイデンティティの政治」という名称でくくられるさまざまな運動が生まれた。主としてフェミニストの闘争やゲイ・レズビアンの闘争、そして人種にもとづく闘争から生まれた政治がこれにあたる。これらの闘争のもっとも重要な組織的特徴は、自立的であること、集権的な階層秩序や指導者、スポークスマンなどを一切もたないことにある。……自分たちの自律を保証し、違いを違いとして認める民主的な形態の政治的集団が存在しないのなら、自分たちはどの集団にも所属せず、独自の活動を続けると、これらの運動は宣言する。(p. 153) シアトルからジェノヴァへ、そしてまたポルトアレグレとムンバイでの世界社会フォーラムへと拡大し、反戦運動を活性化することにもつながったハングロー針ぜーション運動は、これまでに類を見ない明白な分散型ネットワーク組織の例となっている。一九九九年一一月シアトルでの出来事、およびそれ以降の同様の出来事で見られたもっとも驚くべき現象のひとつは、これまで利害を異にし、そればかりか相反する利害をもつとまで思われていた人びとが互いに手を携えて共同行動したことである、たとえば環境保護活動家が労働組合員と、アナーキストが教会グループと、ゲイやレズビアンの人びとが監獄-産業複合体に反対する人びとと一緒に行動したのだ。(p. 153) |
だがこうしたグローバル化に対する抗議運動は、明らかに多くの面で限界を抱えている。第一に、これらの運動がいかにグローバルなビジョンと欲望をもっているとしても、運動の参加者はほぼ北米とヨーロッパに限られているという点。第二に、それらの行動があるサミットから別のサミットへ移動するだけの単なる抗議運動にとどまるかぎり、創設的な闘争になることも、オルタナティヴな社会組織をまとめあげることも不可能だという点である。……しかし私たちの議論にとってもっとも重要なのは、これらの運動形態である。これらの運動は現時点で、もっとも発展したネットワーク型の組織化モデルなのだ。(p. 155) 「抵抗と内線の近代的形態の系譜学」 ここまでくれば、「どうしたらプロレタリアートの要求をもって新しい権力形態を正統化することができるのか」という問いや、少し言い方を変えた、「どうした階級闘争を社会闘争に転換させることができるのか」という問い、さらにまた少し変えた、「どうしたら帝国主義国家間の戦争をきっかけにして革命戦争を起こすことができるのか」という問いはすべて古臭く、陳腐で色褪せていることは明らかだろう。私たちはマルチチュードこそが、社会的抵抗の問題と、自らの権力と暴力をいかに正統化するかという問いを、これまでとはまったく異なる見地から提示すると確信している。(p. 159) 私たちはここで、深い淵の前に立たされている。どのような戦略をとるべきかは、まったく未知なのだ。レーニン式の革命的意志決定方式を構成するあらゆる空間的・時間的・政治的要素はことごとく揺らぎ、それに対応する戦略はまったく使い物にならなくなった。一九六八年前後の時期には抵抗と革命の戦略にとってあれほど重要だった「対抗権力」という概念すら、その力を失っている。(p. 159) もっとも私たちは、抵抗への情熱を方向づける助けとなるいくつかの事柄をすでに知っている。まず第一に、今日のグローバル秩序の正統化は基本的に戦争にもとづいて行われるという点である。したがって戦争に抵抗すること、そして現在のグローバル秩序の正統化に抵抗することは、〈共〉的な倫理的課題となるのだ。第二に、資本主義的生産とマルチチュードの生(とその生産)はますます密接の結びつき、相互に規定しあっているという点。資本はマルチチュードに依存しながらも、資本の指令と権威に対するマルチチュードの抵抗によって、常に危険に追いやられている。(p. 160) 生権力から生政治的生産へ ある抵抗運動がネットワークまたは群がりとして組織されているからといって、その組織が平和的だとか民主的だという保証にはならない。さらに、形態以外の側面に目を転じることによって、民族主義的・宗教的な形態の抵抗のもつ曖昧な性質についての理解を深めることも可能になる。民族主義的・宗教的な抵抗はほとんどの場合、集権的な組織と強力な同一性の概念にもとづいているが、それだけの理由で反動的だとか後ろ向きだとか決めつけるべきではない。民主主義は単なる形式的な構造や関係性の問題ではなく、その中の人間が互いにどうかかわり合い、ともにどのように生産するかという社会的な中身の問題でもあるのだ。 (p. 131) |
第二部 マルチチュード マルチチュードは一群の特異性からなる。ここで私たちの言う特異性とは、その差異が決して同じものに還元できない社会的主体、差異であり続ける差異を意味する。他方、人民を構成する要素はひとつに統一され、互いに差異のないものとなる。……このように、マルチチュードを構成する複数の特異性は、人民を構成する差異を排除した統一性とは明確な対照をなすのである。 (p. 171) ……マルチチュードは特異性同士が共有するものにもとづいて行動する、能動的な社会的主体である。マルチチュードは内的に異なる多数多様な社会的主体であり、その構成と行動は同一性や統一性(ましてや無差異性)ではなく、それが共有しているものにもとづいているのだ。 (p. 172) マルチチュードはあくまで多数多様なものであり、内部に差異をはらみはするものの、ともに行動することができ、それによって自らを統治することができるのである。マルチチュードは、指令を下す一者とそれに従うその他大勢からなる政治的身体ではなく、自己を統治することのできる生きた〈肉〉なのだ。 (p. 172) 社会経済的な観点から見れば、マルチチュードとは〈共〉的な労働主体であり、言いかえればポストモダン的生産の現実的な〈肉〉である。と同時にそれは、集合的資本がグローバルな発展を推進する身体[=集団]に変質させようともくろむ対象でもある。国家がマルチチュードを人民に仕立て上げようとするように、資本はマルチチュードを有機的な統一性に仕立て上げようとするのだ。労働にまつわるさまざまな闘争を通じて、真に生産的な生政治的形象としてのマルチチュードが立ち現れるのは、まさにここである。(p. 174) 2-1 〈危険な階級〉はいかに構成されるか 労働が〈共〉になること――非物質的労働の台頭 マルチチュードとは階級概念である。経済的階級に関する理論は伝統的に、統一性か多様成果の二者択一を迫られてきた。統一性を捕る立場は通常、マルクスと彼の主張に関連づけられる。……他方、多様性をとる立場のもっとも明らかな例は、社会階級は多様であることを避けられないと主張する自由主義的議論である。 人間を階級に分類する方法は髪の色や血液型など無限にあるが、重要な意味をもつ階級は集団闘争の路線によって定義されるものだ。この点で人種は、経済的階級と同様に政治的な概念にほかならない。人種を決めるのは民族性でも皮膚の色でもない。人種は集団闘争によって政治的に決定されるのだ。なかには反ユダヤ主義がユダヤ人を生み出すと述べたジャン=ポール・サルトルのように、人種は人種に対する抑圧によって作られると主張する者もある。だがこの論理をもう一歩進めるべきだ――人種は人種的抑圧に対する集団的抵抗を通じて立ち現れるのだ、と。 (p. 178) |
マルチチュードとはそれ以上縮減できない多数多様性であり、マルチチュードを構成する特異な社会的差異は、常に表現されなければならず、決して統一性や同一性、無差異性に平板化することはできない。しかもマルチチュードは、断片的でバラバラに散らばった多数多様性ではないのだ。(p. 180) 工場労働者の搾取を理解するうえで疎外という概念はあまり役立ったためしはないが、いまだ多くの人が情動労働や知識とシンボルの生産といったものを労働とはみなさない領域においては、疎外は搾取を理解するための概念的なカギとして有用なのである。(p. 189) 一般に、非物質的労働の主導権のもとにある生産組織は、組み立てライン特有の直線的な関係性から、分散型ネットワーク特有の無数の不確定な関係性へと変化するといえる。情報、コミュニケーション、協働が生産の規準となり、ネットワークが組織の支配的形態となるのだ。したがって生産の技術的システムはその社会的編成と密接に対応する――技術的ネットワークと、仕事に配置された社会的主体間の協働との対応である。(p. 192) では目の前の現実を見たとき、非物質労働が主導権を握っているという私たちの主張を裏づける証拠はどこにあるだろうか?…… 農民世界の薄明 ……合衆国では二〇世紀初頭に資本主義市場(そして最終的には銀行)が小土地所有による農業生産にはもはや未来はないと宣言したのを受けて、農村地帯から大量の人口が都市地域や半都市地域へ移動した。その結果、所有地は大規模農場へと徹底的に整理統合されて、最終的には巨大アグリビジネスの手に渡り、それに伴う水管理や機械化、化学肥料の投入などによって生産性は大躍進をとげた。家族経営による農場や独立した小規模な農業生産者はまたたく間に姿を消した。ジョン・スタインベックの小説『怒りの葡萄』に登場するジョード一家のように、農民たちは住み慣れた土地から追放されて新天地を求めて旅立つことを強いられ、必死で生き抜くことを余儀なくさせられたのである。(p. 199) |
従属的な資本主義世界全体では、小規模土地所有の農業生産者は、所有地が国内の大土地所有者か外国の巨大企業が管理する大規模な保有地へと整理統合されるに伴い、意図的かつ組織的に土地の権利を奪われつつある。こうした事態は一見、自国の政府や外国の政府、多国籍アグリビジネス(農業関連企業)、世銀、IMF(国際通貨基金)その他の広範で統一性のないエージェントによる、方向性を欠いた場当たり的な動きの結果であるようにも見える。しかし……より抽象的・根本的なレベルにおいては、これらのエージェントはある共通のイデオロギー――資本主義的近代化から新自由主義、グローバルな経済統合までを包含する――によってひとつにまとめられているのだ。 (p. 201) こうした資本主義的な集産化は往々にして土地の事実上の独占体制を生じさせ、巨大な農業生産ユニットでは大量の農業労働者が雇われて、世界市場のための生産を行ってきた。そしてその外側では土地を持たないか、ごくわずかしか持たないために生き延びることのできない農村貧困者が捨て置かれ、その数は増加の一途をたどっている。 (p. 202) ……ヨーロッパ文化で描かれたこうした伝統的な農民世界は、それに対するノスタルジアも含め、やがて終焉を迎える。それ以来、農民世界の終焉はヨーロッパ文学研究や美術史において、リアリズムからモダニズムへの移行を説明するさいに決まって持ち出される常套句となった。もっとも近い過去としての農民世界がもはや参照不可能なものになったことで、ヨーロッパの作家や芸術家の多くはもっと過去の世界、原始的・神話的な世界へとシフトしたというのだ。(p. 204) 皿に農民とは、これまで見てきた経済的な側面と文化的な側面に加えて、政治的な形象でもある――いやむしろ、多くの概念においては非政治的形象であり、政治的である資格を奪われた形象だといえる。……それは、農民が重要な政治的役割を果たさないという意味でもない。農民が非政治的形象であるというのは、農民が根本的に保守的で孤立し、何かに反応して行動することしかできず、自ら率先して自立的な政治的行動をとることができないという意味なのだ。こうした見方からすると、少なくとも一六世紀以降の農民戦争は……耕作地を守り、伝統を維持することを目的とした、基本的に土地と結びついたものだったといえる。 (p. 205) 農民戦争や農民闘争はもはや、厳密に保守的な関係性において耕作地を守ることに向けられるべきではなく、農民の社会的生をまるごと変革することを目指す生政治的な闘いにならなければならない。コミュニケーション能力を発達させ能動的になることによって、農民階級は他と分離した政治的カテゴリーではなくなり、都会と田舎の分裂の政治的意味は減少する。ここに、農民革命が最終的勝利を手にするのは農民階級(分離した政治的カテゴリーとしての)が終焉を迎えるときだという逆説が生まれる。言いかえれば、農民階級の最終的な政治目標は階級としての自分自身の消滅なのである。 (p. 208) アパルトヘイト後の南アフリカでは、呪術や悪魔崇拝、怪物、ゾンビ、儀礼的殺害といったオカルト的な現象や暴力が著しく増加している。だがこれは原始的な前近代性の復活でも、アフリカに限定された局地的な現象でもない。一見さまざまなローカル性をまとってはいるものの、地球上のいくつもの漊辞した状況のなかで出現している共通の現象なのだ。たとえばインドネシア、ロシア、ラテンアメリカの一部などでも、同様のオカルト敵現象や暴力の復活が見られる。これらは皆、グローバル資本主義経済がもたらした新しい富の夢が、初めて〈帝国〉の階層秩序という冷酷な現実にのみ込まれた社会である。 (p. 211)
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同一性と差異性という矛盾する概念対は、マルチチュードの組織化を理解するうえでの適切な枠組みとはならない。私たちは特異な生の形態からなる多数多様性であると同時に、共通のグローバルな実存を分かち持っているのだ。マルチチュードの人類学とは、特異性と共通性の人類学なのである。 (p. 212) 貧者の豊かさ これまで共産主義者と社会主義者は一般に、貧者は資本主義的生産過程から排除されているため、政治組織の中心的役割からも排除されなければならないと論じてきた。そのため従来の正統は主として主導的な生産過程に従事する前衛としての労働者で構成されており、そこに貧しい労働者や、ましてや失業者の入る余地などなかった。貧者は危険な存在とみなされていた。……実際、ルンペンプロレタリアート(すなわち、ボロをまとったプロレタリアート)という言葉は時として、貧者全体を悪魔のような存在に仕立て上げる言葉として使われることもあった。彼らを軽蔑し尽くすかのように、貧者はしばしば前工業的社会形態の遺物にすぎないもの、歴史のクズのような存在だとみなされたのである。(p. 218) 従来、共産主義や社会主義の政治的プロジェクトの多くが、それぞれの国の内部で、産業予備軍の破壊的圧力から労働者階級を救うことを目指してきたのと同様に、今日の支配諸国の労働組合の多くは、労働者を従属諸国の貧しい労働者の脅威から救うためにさまざまな戦略を採っている。(p. 219) ……今日、貧者あるいはグローバルな南を産業予備軍として考えるのは間違いである。第一に、もはや産業労働者がひとつの緊密にまとまった統一体としては存在せず、非物質的パラダイムによって規定されたネットワーク内の数多くの労働形態のひとつとして機能しているという意味で、「産業軍」と呼べるものは存在しない。より一般的には、就労者と失業者との社会的区分がかつてないほど曖昧になりつつあると言ってもいい。…… こうした[貧者の]創造的な社会的活動に含まれた〈今日〉的性質は、今日生産がますます言語能力と言語共同体に依存しつつあるという事実によってよりいっそう強調され、深められている。社会のあらゆる活動的な要素は、恒常的に共通の言語を生成しているという意味において、言語的創造性の行為体(エージェント)なのである。今日、こうした言語共同体が利潤や、ローカルないしはグローバルな階層秩序の構築に優先する度合いはかつてないほど高まっている。言語は少なくとも次の三つの面で階層関係を維持している。第一は、個々の言語共同体の内部で、社会的な優越性と劣等性を示す記号と一緒に階層関係を維持するという面。第二は、複数の言語共同体間で、ある言語の他の言語に対する優位性を決定しつつ、(地球規模での英語の優位性に顕著なように)階層関係を維持するという面。第三は、専門的言語の内側で、権力と知識の関係として階層関係を維持するという面である。(p. 221) |
……今日の経済において、またポストフォーディズムの労働関係の出現に伴い、移動性はますます労働市場全体を規定する要素となり、あらゆる労働のカテゴリーは今や移民に共通する移動性と文化的混交性という条件を組み入れつつある。 移民の豊かさのひとつの理由は、あるがままの現状を受け入れることを拒否し、より良いものを求める欲望にある。確かに大部分の移民は、暴力や飢餓、あるいは腐敗といった悲惨な状況から逃げ出す必要に駆られて移動する。だがそうしたネガティブな状況だけでなく、彼らは富や平和や自由を求めるポジティブな欲望も携えて移動する。……皮肉なことに、自国経済の欠落部分を移民に埋めてもらおうと期待した世界のもっとも富裕な中心地域は、予想を超えるものを手にする羽目になる――というのも移民はその擾乱的な欲望を社会全体に投入するからだ。(p. 223) 移民はシステムに内包された地理的な階層秩序について十分知りながらも、地球をひとつの〈今日〉空間として扱い、グローバル化という不可逆的な事実の生きた証人としての役割を果たす。移民はあらゆる地理的障害を乗り越え、その一部を突き崩すことによって、マルチチュードの一般的共通性を自ら実証する(とともにその構築に力を貸す)のだ。 (p. 224) 自らの置かれた貧困状況に対する貧者の闘いは、強力な抵抗であるだけでなく、生政治的な力を肯定するものでもある。言いかえればそれは、「持つこと(having)」における悲惨さよりも強力な、「在ること(being)」における〈共〉性の表明なのだ。(p. 226) 貧者をさいなむ共通状況に対する抗議行動は、構成的な政治的プロジェクトのなかで、この〈共〉的生産性を明らかにしていかなければならない。たとえば数年前からヨーロッパ、ブラジル、北米で広まっている「保証所得」の要求は、雇用の有無にかかわらずすべての市民に所得を支給すべきだとする主張であり、貧困に抗する構成的プロジェクトの一例だといえる。もしこれが国家の領域を超えて地球の全住民に対するグローバルな保証所得の要求にまで拡大すれば、グローバリゼーションの民主的な管理運営のためのプロジェクトの一要素となりうる。こうした富の分配のための〈共〉的生産性に対応するものとなろう。 (p. 227) |
今日必要とされ、また可能な労働の組織化形態とは、旧来の労働組合の区分をすべて取り払い、経済、政治、社会のすべての問題で〈共〉になりつつある労働を代表しうるものだ。伝統的な労働組合はある限定されたカテゴリーの労働者の経済的利益だけを守るものだった。だが今や、協同して社会的富を生み出す特異性の織りなすネットワーク全体を代表しうる労働組織を創出しなければならない。 (p. 228) 彼らが危険なのは、非物質労働者や産業労働者のみならず、農業労働者さらには貧者や移民労働者までもが生政治的生産の活動的な主体として[グローバル資本主義に]内包されているからだ。彼らの移動性と〈共〉性は、グローバルな資本主義権力が依拠するグローバルな階層秩序と分割を絶えず揺るがす脅威なのである。彼らは障害をやすやすとすり抜け、壁の下にトンネルを掘ってあちこちへ移動する。さらに危険な階級である彼らは、〈帝国〉の存在論的構成を絶え間なく妨害する――創造性の線や逃走の線が交差するたびに、あまたの社会的主体性は異種混淆性や混交性、混血性を深め、差異を融合させようとする管理権力からいっそう遠くへ逃れる。そしてそれらの主体性は同一性であることをやめ、特異性となるのだ。(p. 229) ------------------------------------------------------- マルチチュードには影の側面もある。新約聖書に出てくるよく知られた「悪霊に取りつかれたゲラサ人」の話……は、このマルチチュードの悪魔的な側面に光を当てるものだ。……(悪霊に取りつかれた)男は「私の名前はレギオンです。私たちは大勢だからです」と、謎めいた返事をする。…… 政治秩序に対する脅威はもっと明白であろう。政治思想は古代の昔から一者[による統治としての君主制]、少数者[による統治としての貴族制]、多数者[による統治としての民主制]という区別に立脚することで成立してきた。悪魔的なマルチチュードはこうした数のうえの区別をすべてかき乱す。マルチチュードは一であると同時に多なのだ。このマルチチュードのもつ数の不確定性はあらゆる秩序原理を脅かす。そんな詭計は悪魔の仕業としかいえない。(p. 231) |
------------------------------------------------------- ここで私たちが把握すべき非物質的生産のパラダイムのもっとも重要な側面は、非物質的生産と協働・共同作業・コミュニケーションとの密接な関係――端的に言えば、非物質的生産の基盤が〈共〉にあるということだ。マルクスの主張によれば、歴史的に見た資本の最大の進歩的要素のひとつは、大勢の労働者を協働的な生産関係のなかで組織することだという。……これに対して非物質的生産のパラダイムでは、労働そのものが生産のための相互作用やコミュニケーション、協働を直接生み出す傾向がある。情動労働は常に直接的に関係性を構築する。アイディアやイメージ、知識の生産は共同で行われるだけでなく(思考とは本来、単独でなされうるものではない――どんな思考も過去や現在の他者の思考との共同作業によって生み出されるのだ)、新たに生まれたアイディアやイメージの各々がさらに新しい共同作業を引き寄せ、それを始動させるのである。……このように非物質的生産において協働の創出は労働の内側にあり、したがって資本の外側にあるものとなったのである。(p. 243) 価値の生産を〈共〉の観点から理解しなければならないのと同様、搾取もまた〈共〉の収奪=収用としてとらえる必要がある。言いかえれば、今や〈共〉が剰余価値の生じる場となったのだ。(p. 248) 貨幣は金融市場を通じて〈共〉の現在の価値だけでなく、将来の価値までをも代表=表象する傾向があるのだ。金融資本は未来に賭けることで、私たちが将来に有する〈共〉的生産能力を一般的に代表=表象するものとしての機能を果たしているといえる。おそらく金融資本の取得する利潤とは、〈共〉の収奪・収用のもっとも純粋な形態にほかなるまい。 (p. 249) 2-2 グローバル資本という身体――搾取と階層秩序の地勢図 私たちの分析は今や搾取の位相学(トポロジー)から地勢学(トポグラフィー)へと移行しなければならないのだ。位相学が生産における搾取の論理を検討するものであったのに対し、地勢学は権力システムの階層秩序と、それがグローバルな北と南でいかに不平等な関係をはらんでいるかを明確にする。こうした管理と従属の空間的関係は、システムの矛盾がどのように敵対性と対立に転化していくかを理解するためのカギとなる。(p. 260)
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グローバルなアパルトヘイト 政治的身体に関する国家を軸とした近代的パラダイムから新しいグローバルな形態への移行期にあたる今日の空位期間もまた、新しい権力構造で満ちあふれている。絶えず存在し、決して退場しない唯一のもの、それは権力そのものなのだ。(p. 266) ……現代の空位期間において国民国家がもはや力を失ったということではなく、その権力と機能が新しいグローバルな枠組みのなかで変容しつつあるということである。今日のグローバル化をめぐる議論では、排他的な二者択一を当然の前提とする論者があまりにも多い――「国民国家は今なお重要だ[から、グローバルな権力構造など存在しない]」とするか「権威の形象がグローバル化した[のだから、国民国家などもはや重要ではない]」とするかのどちらしかないのだ。 (p. 266) 不均等発展とは、世界の特権的な国々が従属的な国々の支えと代償の上に、よりいっそう高い生産性と利益を上げる体制を創り出しているさまを記述し、不等価交換とは、貧しい国々の生産物が世界市場において過小評価され、結果として貧しい国々が豊かな国々を財政的に援助している(その逆ではなく)という事実を指している。さらにこうした不平等のシステムは、ある一定の政治的状況の下では資本主義的支配の足場を丸ごと崩壊させる危険性をはらんだ、資本主義的発展に内在する矛盾を表すものだと考えられた。(p. 267) ……貧困と搾取のグローバルな地政学というレシピを完成させるには、もうひとつ材料を付け加える必要がある。その最後の材料とは、生権力ともっとも固く結びついた社会科学である人口統計学にかかわるものだ。すでに一九世紀のイギリスで、経済学者であり英国国教会の牧師でもあったトマス・マルサスは、人口過剰がもたらす破局的な結末に警鐘を鳴らしていた。今日では国際援助組織やNGO共同体から、人口管理を求める同様の訴えが聞かれることは珍しくない。 |
自らの英国国教会区でその理論を検証したマルサス師以来、人口管理に関する自由主義的な経済理論はこれまで一貫して貧乏人が子どもを産む性向を忌み嫌ってきた。(p. 271) グローバルな空位期間という移行期にあたる現在、国境線の上下を走る線によって織り上げられた、新たな搾取と経済的ヒエラルキーの地勢図が立ち現れつつある。私たちはいわば、グローバルなアパルトヘイト体制のなかで生きているのだ。……今日のアパルトヘイトは、かつてのの南アフリカと同様、ひと握りの人びとの富を大多数の人びとの労働と貧困を通じて恒久化する、階層的包含からなる生産システムにほかならない。その意味でグローバルな政治的身体とは、グローバルな労働と権力の分割によって規定される経済的身体でもあるのだ。(p. 272) ダボスから学ぶべきもっとも重要な教訓は、こうした会議が必要不可欠だという事実に尽きる。世界の経済的・政治的エリートや官僚エリートは常に関係を保ち、協力する必要があるということだ。より一般的にいえば、ダボス会議はいかなる経済市場も政治的秩序や規制なしには存在できないという旧い教訓を証明するものにほかならない。もし自由市場が政治的なコントロールを一切受けない自律的で自発的なものを意味するなら、そんなものはありえない。それは単なる神話にすぎないのだ。(p. 273) 市場や貿易を国の管理から自由化すべきだと主張する人びとは、実際には政治的管理を緩和するよう求めているのではなく、違う種類の政治的管理を求めているにすぎない。……あらゆる労働交渉の背後には政治権力と、権力による実力行使の脅しが存在する。もし一切の政治的統制がなければ――言いかえれば、労働争議を解決するための力関係が存在しなければ――資本主義市場そのものも存在しえない。二〇世紀末に新自由主義が勝利したのも、いわばそのおかげである。もし当時のサッチャー英首相がウェールズの鉱山労働者のストを弾圧したり、レーガン米大統領が航空管制官の組合を潰したりしなければ、あの市場自由化時代は存在しなかったはずだ。(p. 274) 企業とその専属法律事務所が、国際的で地球規模のものですらある商人法体制を作り出し、それによってグローバリゼーションの規準となるプロセスを確立するという意味において、資本はそのもっとも弱い形態における一種の「政府なきグローバル統治」を創出する。……これは一種の資本主義のユートピアにほかならない。(p. 277) ……ビジネス契約の領域で生まれつつあるこの私的権威は、政治的権威の後ろ盾なしには存在できないということだ。資本主義的な自己統治というユートピアの背後には、強力な政治的権威の支えが必ず存在する。(p. 278) 国際協定を通じて姿を現しつつある矛盾に満ちた新しいグローバルな経済秩序には、グローバル化へ向かう傾向と国家主義的要素の復活、自由主義的廬年の自己利益にもとづく歪曲、地域的な政治的連帯と商業的および金融・財政的支配の新植民地主義的な働き、といった相反する二つの傾向がないまぜになっている。(p. 279) 今やIMFの基本的なプロジェクトは、対象となる国々にケインズ主義的社会政策を放棄してマネタリスト政策を採るよう強いている。IMFは、経済が疲弊した国や貧困国に対し、公共福祉支出の縮小や公的な産業と富の民営化、負債の削減などの新自由主義的な方策を採るよう指示するのだ。(p. 282)
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一方、一連のグローバル経済機関のなかでIMFの対極に位置する世界銀行は、今日もグローバルな貧困や飢餓などの問題を対象にした社会福祉プロジェクトを発表しつづけている。……実際、世銀や国連食糧農業機関(FAO)をはじめとする国連の下部組織には、地球上に広がる貧困を軽減し、グローバルなアパルトヘイトという分断状況を緩和するために、全力を尽くしている人びとが数多くいる。 (p. 282) たとえば仮に、同様に深刻な経済的危機にある二つの国があったとしよう。そのときIMFは、新自由主義的なグローバル秩序にとってより大きな脅威となる国(おそらくはアルゼンチンのように階級闘争の要素が強い国)に対して、より厳しい緊縮経済政策をとるように命じる反面、グローバル秩序の維持にとって必要な国(たとえばトルコのように今日、中東における〈帝国〉の秩序構築にとって基本的な役割を果たす国)に対しては、そうした指令を適用しないと考えられる。その結果、世銀とWTOは前者よりも後者に対してより多額の財政援助とより大きな商業上の利益を提供することになる。むろんこれらの機関が設定する規準や規則は必ずしも一様で一貫しているわけではないが、そうした規準や規則が、障害や対立はあるものの全般的な同意の枠組みのなかで作動していることは確実である。(p. 284) 9・11 以降、合衆国の主導で実施されたグローバルな安全保障のためのさまざまな軍事的および法的なプロジェクトは、ひとつにはグローバルな経済秩序の安定化と保証を目指している。ある意味では9・11 以降いくつかの点で、新しい商人法のようなグローバル経済に対する私的権威の形態や、国際貿易のあらゆるメカニズムとそれらを可能にするマクロ経済的均衡は危機に陥ったのだ。支配的な国民国家は、金融取引、保険関係、航空運輸など、あらゆるレベルの経済的相互作用を保証するための介入を余儀なくされた。この危機は、資本がどれだけ主権の後ろ盾を必要としているかを直ちに思い出させるものだった。これは市場の秩序や階層秩序に深刻な亀裂が入るたびに明らかになる真実である。(p. 287) ……現在出現しつつある主権形態は完全に軸足を資本の側に置き、資本と労働との対立関係を乗り越えるための調停メカニズムは一切もっていない。この点では、リスクこそが経済的な活動と発展、さらにはあらゆる社会的相互作用の主要な特徴となっている現在、資本の立場が大いなる葛藤や両義性を抱えていることは興味深い。世界は危険な場所であり、大きな政府と軍事的介入の役割は現在の秩序を維持する一方でリスクを減らし、セキュリティを提供することにある、というわけだ。(p. 288) 9・11が残虐きわまりない形でセキュリティの必要性を人びとに見せつけたのと同様、エンロン事件は腐敗と闘うには大きな政府が必要であることを見せつけた。 (p. 289) ある体制から別の体制への移行期、旧いルールはもはや無効だが新しいルールはまだしっかりと根づいていない時期には、必ず腐敗が跋扈する。しかし腐敗と闘う大きな政府の課題は、規制によって利益の基礎をなす通常の商行為に支障が生じるとき、逆説的なものとなる。エンロン・スキャンダルは単なる粉飾決算の問題ではなく、エネルギーの将来にかかわる危険な金融投機でもあり、実際にカリフォルニア州のエネルギー市場に直接的かつ壊滅的な影響を及ぼした。(p. 277)
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私的所有権の拡大――〈共〉が市場にのせられる これらの非物質的財産を価値あるものにしている複製可能性そのものが、まさにそれらの私的性格を脅かしているのである。むろん複製は元となる財産がその所有者から奪いとられるわけではないという意味で、伝統的な盗みの形とはまったく異なる。私有財産は元来、希少性の論理――物質的な財産は同時に別々の場所に存在することはできな、つまりあなたが持っていれば私は持てないということ――にもとづいて成立するものだが、これらの非物質的形態の財産が無限に複製可能であることは、そうした希少性の構成そのものを直接的に危うくするものだ。 (p. 292) グローバルな北と南の分断線をはさみ、種子と植物品種の私的所有権をめぐって闘わされている「種子戦争」は、その格好の例だ。植物品種の数に関していえばグローバルな北は貧しいが、品種の特許の大部分は北が所有している。これに対してグローバルな南は品種の数こそ豊かだが、特許の点ではきわめて貧しい。そればかりか、北が所有する特許の多くは、南に生育する植物の遺伝物質から引き出された情報にもとづいている。北の富は私有財産として利益を生むのに対し、南の富は人類共通の遺産とみなされているため、何の利益も生まない。(p. 296) ……遺伝子組み換えがもたらした大量の特許によって、管理の主体は農民から種子会社へと移り、それを契機としてすでに見てきた農業に対する管理の集中化が進んだ。言いかえれば、一番の問題は人間が自然に挑戦していることではなく、自然が〈共〉ではなくなりつつあること、自然が私有財産になり、その新しい所有者によって独占的に管理されつつあるということなのである。(p. 297) 司法システムは公式の科学的活動だけを労働と認め、それによって生み出される物だけに財産としての資格を与えている。一方、伝統的な知識の生産形態は労働とは認められず、したがってそれが生み出す物は人類の共通遺産だとみなされるのである。(p. 299) コミュニケーションが生産の基礎であるとき、私有化はたちまち創造性や生産性を疎外するものとなる。微生物学、遺伝学、あるいはその周辺の分野の科学者も同様に、科学革新や知識の向上は科学者同士のオープンな協働とアイディア・技術・情報の自由で開かれた交換によって支えられていると主張する。一般に科学者にとって、特許を取ることで生まれるかもしれない富を得る可能性が革新の動機づけとなることはあまりない(科学者を雇う企業や大学にとってはまさにそれが大きな動機づけとなるが)。知識や情報に対する私的所有権は、社会的・科学的革新の基礎となるコミュニケーションや協働にとって障害でしかないのだ。 (p. 300) |
今日、知識や情報から、コミュニケーション・ネットワーク、情動的関係性、遺伝子コード、自然資源にいたる多種多様なものを対象にした私有化には、明らかにバロック的な、新たな封建制のにおいがつきまとう。増大しつつあるマルチチュードの生政治的な生産性は、私的領有化のプロセスによって阻害され、弱体化させられているのだ。(p. 301) 非物質的労働は無数の個別生産者の間の途切れることのない協働、すなわち〈共〉的活動としての度合をますます強めている。たとえば、遺伝子コードの情報は誰が作るのか、あるいは植物を医学的に有効利用するために知識は誰が生み出すのか、という問いを考えてみよう。どちらの場合も情報や知識は人間の労働と経験、創意工夫によって生み出されるが、どちらの場合もその労働を他から切り離されたある個人に帰することはできない。こうした知識は常に拡張的で限界のない社会的ネットワーク――先の二つの問いに即して言えば、前者の場合は科学者共同体におけるもの、後者の場合は先住民共同体におけるもの――のなかで行われる協働とコミュニケーションによって絶えず生み出されるのである。科学者はここでふたたび、知識と情報は個人によってではなく集団的協働によって生産されるという事実の、もっとも雄弁な証人となっている。(p. 302) 私有財産は一面で、価値あるものはすべて誰かが私的に所有しなければならないという考えを私たちに植えつけ、人間を愚かにしている。経済学者は飽きもせずに、ある財を有効に保持したり利用したりするには誰かがそれを私的に所有することが不可欠だと繰り返す。だが実際には、この世界の大部分は私有財産ではないし、私たちの社会的生が機能しているのもそのおかげにほかならない。(p. 304) (2010/12/16) |