アントニオ・ネグリ |
親愛なる日本の友人たちへ――日本語版への序文 「われわれは、現代世界のあらゆる新事態を眼前にしている。一つの新事態が起きるたびに、新たな紛争と新たなオルタナティブが出現して、時計の針が進んでいくかのようだ。近代的主権の危機に対しては、「ガバナンス」あるいは「構成的権力」の行使というオルタナティブが対置され、生権力の危機に対しては、「主観性(主体性)の生産」、あるいは生権力の刷新的形態による新たな支配が対置され、また、搾取の私的次元や資本の危機に対しては、「〈共(コモン)(共通のもの)〉の構築」が対置される。われわれは、「構成的権力」「主観性の生産」「〈共(コモン) 〉の構築」といった新しいラディカルな革命的オルタナティブの標語を、言葉のうえでしか知らないかもしれない。しかし、現状を変革する構成的要素は、ある不可逆の方向に向かって強化されているという気がする。」(p. 2)
序文――新たな政治の文法づくりの“工房”として 「審美的に不快のものは、けっして科学的に有用ではない。」(p. 17)
工房1 近代/ポスト近代の区切り 近代思想における権力概念の同質性 「ウェーバーにおいては、権力の超越性は、政治的主体の行動分析のなかで、宗教的といってもよい言葉の使用を通して表現されている。そこでは、政治的なものは条件ではなくて使命である。このウェーバーのパースペクティブにおいては、政治的諸価値の相対性と他神性は、政治的経験から権力の超越性への移行という相貌をとる。つまり、政治的なものの存在論的次元が無化されてしまうのである。そうすると、権力は人々が参加すべき現実となり、さらに、その現実を超えて、なにか聖職や殉教者のような様相を呈するところとなる。」(p. 23) |
「今日、ウェーバーが根本的にニーチェ的な作者として読まれていることは偶然ではないのである。それは、政治的経験という点では、ある種の現実主義的ペシミズムにとって役立ち、また、もっぱら政治的決定の不都合さや自立と結びついた救済の思想という点では、否認の思想にとって役に立つのである。……ともあれ、こうした理論的なエピソードは、プラトン主義の伝統が、権力や政治的領域の近代的定式のなかにまで、持続的影響を与えていたことを明瞭に物語るものである。」(p. 24) 「ニーチェは、いかなる場合においても超越的なものを固定しながら権力の理想と現実の関係を開くと同時に閉ざし、不純で曖昧な読解をうながす鍵を握っていることになる。ニーチェの世界解釈がペシミスティックで、自然が自らの可能性の浪費を許容し、歴史が自らの力の破壊を許容するとしたら、それは要するに、現実が権力の管理と再生産の論理的必然性に従わざるをえない――まさに「現実主義的に」――からであろう。プラトン流の洞窟においては、世界は影として現れ、相対化されていて、支配されたものとしてしか理解できないのである。」(p. 24) 「フーコーからアガンベンにいたるまで、現代の多くの思想家が明らかにしているように、「生権力」(つまり権力による生の全体性への介入)と「全体主義」(つまり国家による線の全体性への介入)は、少なくとも部分的には共通の場所で作用する。のちにフーコーが、生政治として描き出すものをめぐるヨーロッパの立憲理論のなかで、ドイツの法はある怪物を創りだした。すなわち全体主義としての生権力である。」(p. 26) 「国家社会主義は、全体主義としての生権力の劇的な達成であり、カール・シュミットの論理ではこの政治的なるものは現実となって出現する。シュミットにとって、権力は一種の全体主義的なパノプティコン(一望監視装置)なのである。そこでは、一人一人の市民は生ける神の内部で生き、パノプティコンはついには汎神論の装置となるのだ。」(p. 26) 戦争と権力――「決定の」問題 非物質的労働の登場――「近代思想の」危機の原因(1) |
「われわれは、現在、非物質的労働がヘゲモニーを握りつつある状況(「非物質的」とは、知的・科学的・認知的・関係的・コミュニケーション的・常道的などのこと)に直面していて、この状況は、生産様式や価値化に過程をますます深く特徴づけようとしている。……労働価値説は、生産のために費やされる時間にしたがって労働を計量するというものだが、たとえば認知的労働は、このやり方では計量することができない。認知的労働は、時間という尺度をはみ出す性質、いわばその過剰性に特徴があると言ってもいいものである。……認知的労働の生産品は、自由と想像力の生産品である。認知的労働を特徴づける過剰性は、まさにこの創造性である。」(p. 32) 主権の生政治的定着――「近代思想の」危機の原因(2) 生政治と「資本のもとへの社会の実質的包摂」 「ポスト近代の思想は、当初、この包摂の手放しの顕揚として姿を現わした。しかし、この思想は、新たな思考法にとどまらず、現実の具体的な再定義でもあったのだ。ところが、なかには、実際に起きていることを現実的に認識しないで、この過程をアイロニカルで皮相な意識で捉えてしまう者たちがいた。それは、ある種の「麗しき」時代であったが、とてつもない無責任の時代でもあった。――つまり、哲学的・歴史的な修正主義が蔓延し、ハイデガー的な重苦しい存在論の美学めかした解釈が流行るといったような、「弱い思考」の時代である。歴史の転換期が、一般に滑稽的かつ悲劇的な性格を有することは、よく知られたことである。」(p.38) |
「[ポスト近代における移行の]最初の局面は、おそらく、資本のもとへの社会の実質的包摂、ならびにその政治的構造をなす生権力に対しては、マージナルな抵抗だけがなされるだけで、「オルタナティブは存在しない◆」と認識されることがその特徴である。ジャック・デリダは、まさに余白、つまり周辺的な過剰性に依拠して行動することを選び、贈与の哲学を歓待と友愛の哲学の代えようとした。ジョルジュ・アガンベンは、隔たりに刷新と形象にかかわる諸問題を自然主義的な極端な仕方で摂取しなおそうとした。……しかし、われわれにとっては、これらの読み解き方には、抵抗と権力の関係のある種の逆説的・弁証法的な一義性の再生産が透けて見える。つまり、いずれの場合も、抵抗の機能が胚胎する奇妙な事態を決定するのは権力なのである。」(◆ 英首相だったサッチャーが、自らの推進する新自由主義的な政策の反対する人々に対して発した言葉《There is no alternative》。グローバリゼーション・新自由主義に反対する人々にとって、象徴的な言葉として認識されている。)(p.38) 「われわれが組みこまれている、この資本のもとへの社会の実質的包摂の世界は、もはやいかなる「外部」を持たない。われわれは内部に生きているのだが、といって外部はないのである。われわれは商品の物心崇拝(フェティシズム)のなかに埋もれていて、それを超越するようななにかに救いを求めうる可能性はない。自然と人間は資本によって変えられてしまったのである。他者性への希求は(これは、ローザ・ルクセンブルクからヴァルター・ベンヤミンにいたるまで、重要な伝統としてあった)は、いまや、古びてしまったばかりか、空無なものになったのだ。しかしながら、この物心崇拝(フェティシズム)に覆われた世界の内部から、生きた労働がこれに対する敵対性として出現し、抵抗が構築されるのである。」(p.39) 「今日、社会全体が労働に組みこまれた状況下では、マルチチュードが反逆するのである。フーコーとドゥールーズのあいだで起きたのは、まさに生権力の連合体の周辺から中心への移行であり、かくして抵抗は存在論的な力になったのである。」(p.40) 「ポスト近代」の本質的な思想形成) |
工房2 マルチチュードの労働と生政治的組織 生政治の定義 「生政治という概念は、フーコーの権力概念を基本においてしか理解されないことは明らかである。フーコーにとって、権力とは、決して一貫性のある安定した統一的な実体ではなく、複雑な歴史的諸条件と多様な効果をともなう「権力諸関係」の総体である。すなわち、権力は諸権力のからみあう場にほかならない。したがって、フーコーが権力について語るとき……さまざまな実践や知識、制度などが交錯する相関関係全体を指しているのである。そうすると、権力の概念は、あのプラトン的伝統――これが近代思想のほぼ全般にわたって持続的なヘゲモニーを握ってきたことはわれわれがすでに検証したところである――と比べて、まったく異なった――ほとんど全面的にポスト近代な――ものになる。したがって、主権に関するさまざまな法的モデルは、国家に対する政治的批判にさらされることになり、この批判が、社会体のなかにおける権力の流通の仕方、そしてそれによって引き起こされる従属現象の可変性を明るみに出すことを可能にする。」(p.47) 労働の組織化の変容 生政治と生気論 「生」の系譜学へ
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「実証主義的・生気論的な目的論を破壊するためには、ニーチェの全努力を分析しなければならないだろう。その努力の方法は、道徳の系譜学の作成プランに見出すことができる。道徳の系譜学は、一連の主体化の過程であると同時に唯物論的な目的論の空間でもあり、この両者ともが、投企の危険性を受け入れ、自らの主体としての存在の源泉が有限であることを認識している。これこそが、ずっとのちになってから、ポスト近代思想が再生させたスピノザの思想に寄り添いながら、われわれが「脱ユートピア」と名付けた当のものにほかならない。」(p.53) 主体性の生産とは? 「この考え[過剰=尺度を超えたものと呼んだ概念]は、労働の組織化の新たな分析の内部から生まれた。それは、価値が創造的行動の認知的・非物質的生産になり、同時に労働価値の法則から逸脱する(この法則を厳密に客観的・経済主義的に理解した場合)ことになったのと軌を一にする。同じ考えは、別のレベルで、生権力の機能と生政治的抵抗の力とのあいだに存在する存在論的非対称からも導き出される。権力が、常に測定可能な場所(そして尺度とそこからのズレが、事実上、規律と管理(コントロール)の貴重な道具である場所)においては、力は、逆に、測定することは不可能であり、還元されざる差異の純粋な表現なのである。」(p.57) 「国家の理論のなかでなにが起きているかに注意を向けよう。そこでは、過剰性は常に権力の生産するものとして描かれる。それは、たとえば「例外状態」という相貌を帯びる。しかし、この考えは一貫性に欠け、グロテスクですらある。例外状態は、権力と抵抗を密接不可分に結びつける関係の内部においてしか定義しえないものである。国家の権力は決して絶対的なものではない。それは絶対的なものとして表象されるしかないのであり、われわれに絶対的なパノラマを提示する。」(p.57) 労働と主体性――特異性と共通性 「周知のごとく、「公式」マルクス主義は、労働力と可変資本を経済法則によって客観的に予示された諸関係の内部に閉じ込めてしまった。しかし、まさにこの必然的な価値をもつ予示――これはプロレタリアの解放の欲望よりもヘーゲル的な技術の概念に似ている――を一九六八年以降、ある種のマルクス主義者たちが粉砕しはじめたのである。そして、ここで、一九七〇年代の実験室としてのイタリアのオペライズモ、インド系のポストコロニアル学派、フーコーとドゥールーズが表出した権力分析といった、それぞれ異なった流れが合流し一体化していくのである。」(p.60) |
労働の時間とその尺度 「不変資本に対する生きた労働の過剰性は、単に「尺度の適用が不可能」な生産として、つまり量的な測定の「外部」として現出するだけでなく、そうであるがゆえに、困難が出現してやまないのである。これは、むしろ、尺度の適用という考えそれ自体を超えていく生産である。つまり、この生産は、測定可能なものの限界の否定的な乗り越えとして定義されるしかなく、ひとえに生きた労働の力となる――少なくとも、その方向性を――視野に入れることが理にかなうようになる。フーコーとドゥールーズが主体化の過程のついて語るとき、彼らが示唆しているのは、おそらくこのことである。」(p.63) 終わりに |
工房3 グローバリゼーションと集団的移動(エクソダス)――平和と戦争 グローバル化の不可逆的正確と政治的諸概念の変化 「近代政治思想の起源には機能的合理性を見出すことができるが、いまやグローバル社会の内部では、生政治的理性が指し示す指標と生権力の規準に従って思考しなければならないのである。生政治的理性に指標について語るとき、われわれは、理性・情動・真理・コミュニケーションといったものの綜合を直ちに規定しうる知識を念頭に置いている。また生権力の規準について語るときは、この生政治的理性ならびに生一般をラディカルに管理する企てについて述べているのである。ここには、検証すべき矛盾・ずれ・偏差といったものがいくらでもあるだろうが、いかのことだけは強調しておかねばならない。生政治的装置と生権力の規準との関係は、知識と論理のすべての次元の位置関係を決定的に変化させるということである。」(p. 69) 「こうした国々の開発の遅れは、全面的に、古典的理論において規定された帝国主義の機能からつくりだされたものであるということだ。しかし、これにさらに次のような事態が加わった。すなわち、植民地における人種的・宗教的な生権力の組織網がつくられ、これが中心部の権力の規則を複雑にしたということである。帝国主義を特徴づけたのは、商品の輸出と絶対的剰余価値の蓄積というよりも、むしろ植民地主義的・帝国主義的な規則の機能様態と同質同体化した生権力の恒常性である。帝国主義の機能的合理性は、この場面で、その征服行為を全面展開し、とてつもなく強化していったのである。」(p. 70) 「植民地化された国々においては、他のどんな場所においてよりも、枝分かれした生権力と、それに敵対する、生権力にひけを取らないほど強力で広がりをもった運動の共存が、突出的に姿を現わしたのである。」(p. 71) |
ポスト近代か? ハイパー近代か? グローバルな統治(ガバメント)の危機 「注意すべきは、この対置、この資本主義的発展に対するオルタナティブは、ひるがえって西欧にも影響を及ぼさずにはいないだろうということである。なぜなら、グローバリゼーションにともなって、国民国家の帝国主義的行動の限界が現われ、労働と生産の性質が社会的なものになり、生と欲求と欲望の根源的諸要素がふたたび登場しようとしているからである。歴史的に述べるなら、われわれは、いま、おそらく、このような価値の法則の危機――そして、それにともなう啓蒙主義的な資本主義理性の危機――の動きの変容と同質化の過程のまっただ中にいるのである。」(p. 75) 「例外状態」と新たな戦争――「秩序的戦争」 「生産にかかわる諸構造やその位階序列の機能的性格の規準性(それがまやかしであろうとなかろうと、有効に機能しさえすればよかったのだ)の代わりに、警察力の行使をグローバルな次元で展開する方向に向かうのである。このポスト近代への移行期に、近代の戦争構造は中央で警察が取り仕切る構造に代わり、軍隊は兵士集団・傭兵部隊に変容するのである。そして、われわれがすでに見たように、警察力の行使(警察(ポリツァイ)学)は生政治的組成の内部で遂行されるために、この新たな戦争は「秩序的戦争」(……これは秩序を構成する戦争という意味である)に変容する。」(p. 77) 帝国戦争による新秩序の三つの姿
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「国民国家がなければ、働きかけるべき権力空間を特定することが不可能になるとして、国民国家の乗り越え不可能な性格を支持する議論――ヨーロッパにおいてよく見られる――がるが、資本主義を変革しうる行動を可能にする権力空間を、国民国家が決定しているとみなすものであり、グローバル秩序と国際組織の変革という観点からして誤った断定であるばかりでなく、根底的に反動的な見解であることは、われわれには明白だと思われる。実際には、国民国家は、生権力の世界的ネットワークの内部に位置している。つまり国民国家は、生権力の結び目と組織網を同時に管理することができる、地球の主人たちに帰属しているのである。」(p. 81) 「このような「尺度外」を認識し、共同的生産力の過剰性を自覚することによって、新たな生の地平、新たな人間概念を創りだすことが可能になる(是が非でも可能にならねばならない)。実際、もはや「外部」は存在しない。「彼方」しか残されていないのだ。いまや、「他者」すらもが「彼方」の形態をとって現われるのである。非物質的・認知的な生産の時間は過剰性の時間である。それは他者との関係における構成的な時間である。」(p. 82)
工房4 公と私を超えて――〈共(コモン)〉へ マルチチュード概念への二つの異論 〈共(コモン)〉とは? 「ここにおいて、資本のもとへの労働の実質的包摂は大きく変化する。たとえば、農業においても、人は、ますます複雑かつ精緻になる情報処理の労働――種子の分析から気候の観察にいたるまで――に従事するようになっている。他方、女性労働の伝統的な形態とみなされていたもの(家事・介護労働・子育てなどの情報労働)は、ますます一般的な労働組織システムのなかに組み込まれ、生産性の増大にも明瞭な影響を与えるほどになっている。さらに、このようなかつては労働から除外されていたものを取り込みながら労働圏が拡張していくなかで、価値化全体の重心が、これまで非生産的とみなされてきた諸活動に向かって移行することになった。……最後にもう一つだけ例を出すと、サービス部門における経済と労働の組織化は非物質労働が主導権を取るという事態をもたらし、実際、これはあらゆる生産領域において不可逆的に進行するものと思われる。」(p. 91) |
「したがって、保証給与つまりベーシック・インカムの要求が、こうした社会的生産に対する共通のヘゲモニーと、おのおのの労働主体が社会的生産にもたらす特異的な内容の価値化とに同時にかかわる考察という形態のもとに姿をあらわすことになるのは、偶然でもなんでもない。」(p. 91) 「しかし、〈共(コモン)〉は、単に、このように客観的に同質化された非物質的かつ協働的な労働の次元を定置する基盤であるだけではない。〈共(コモン)〉はまた、とりわけ、ある持続的な潜勢力・生産力であり、変革と協同の力能でもあるのだ。すると、マルチチュードは、客観的基盤(物質的・非物質的な諸力によって構成された蓄積としての〈共(コモン)〉)と主観的基盤(常に限界まで押しやられながら、常に再発信される価値の生産としての〈共(コモン)〉、主体化の過程の結果としての〈共(コモン)〉との節合として定義することができる。……この主観性の新たな表現は、より独立的、より自立的で、生産過程の内部そのものから敵対的な形態を構築することができるものであり、これが〈共(コモン)〉の創造を触発することになるのだ。」(p. 92) 「われわれとしては、〈共(コモン)〉は、本質的に、生きた労働(労働力・可変資本)が独自の仕方で動く開かれた領野として定義されうると言わねばならない。それは自立した主観性の生産の結果と、特異性(サンギュラリテ)の協働の結果とが、蓄積され、強化される場である。〈共(コモン)〉とは、不変資本(資本一般)から独立して、不変資本に逆らう労働力(可変資本)によって生産されたあらゆるものの総称なのである。」(p. 94) 「マルチチュードの行動的統一とは、マルチチュードにとって実現可能な表現の多数多様性にほかならないからである。この問題を経済的観点(労働・資本蓄積・搾取の分析)からでなく、政治的観点から考察すると、マルチチュードの行動のなかに枝分かれして広がるこの差異は、欲望の差異の表現であり、指令の過程の統一性とはなんの関係もない主観的な要求の差異を表現するものである。……〈共(コモン)〉は、何らかの結果としてではなく、活動の形態として姿を現わすのであり、管理の濃密化としてではなく、あくまで動的編制(アジャンスマン)、開かれた持続性という形態で現出するのである。」(p. 95) 法のカテゴリーの変容 |
「資本主義的指令は、もはや、私的な搾取や所有のためにあらかじめしつらえられた機能的構造として姿を現わすことはい。このようなコンテクストにおいて、資本は、いわば事後的に、主体の直接的・無媒介的・表現的な活動を把握しようと試みる。かくして、情報通信テクノロジーや生のテクノロジーの資本主義的搾取は、原理的にも日常実践的にも、全面的に寄生的なものになった。……ここにおいて、資本にとっては、もはや公的のものと私的なものの分離を回避したり迂回したりするのではなく、とにかく〈共(コモン)〉――先ほどわれわれが見たように、共通の活動という意味における――を利用するしかない。」(p. 98) 公/私の危機と〈共〉 法のカテゴリーの変容 「市民法は公的なものを私的なものの発展とみなすが、社会主義もまた、これと同じ考え方のなかに位置づけられる。社会主義的改良主義(つまり広報を私的な生産諸関係の修正にまで持続的に広げようという考え)にしろ、革命的社会主義思想(つまり権力の獲得を起点にして社会的再生産の公的諸条件を構築しようという考え)にしろ、いずれも、資本が編み上げた毛布のなかで眠っていることにかわりはない。公法は常に生権力の表現として提示される。逆に、一般法は常にマルチチュードの生政治的表現として提示されるのである。 |
したがって、われわれがここで強調したい考えは、以下のようなものである。〈共(コモン)〉は――〈共(コモン)〉の要求、〈共(コモン)〉の承認、〈共(コモン)〉の政治は――私的なものと公的なものとを媒介する能力をもつ第三の道を体現するものではなくて、資本の管理に対して、ならびに資本(つまり生産手段の私的そして/あるいは公的な所有)が共同生活やそこで表現される欲望におよぼす影響との関係において、敵対的かつ代替的なものとして提示される第二の道なのである。一般法は、搾取――それが私的なものであれ公的なものであれ――の根絶と、生産のラディカルな民主化とをもとにしてしか考えられないのである。」(p. 101) 金融経済は「資本主義のコミュニズム」か?――金融対マルチチュード 「ここで、もう一つの別の仮説を提起することができるだろう。現代においては、資本主義的合理主義は、金融のメカニズムを通して、資本主義の発展の度合いを測る能力を再構築しようとする。ここで、われわれがすでに見たように、労働価値の法則と結びついたときに危機に見舞われた尺度の概念が、金融的な措置が実質的な価値化の過程に対応することができるという幻想をもたらすようなかたちで再構成される。そうであるはずがないのだが、資本主義の幻想は強力であり、その指令の有効性はさらに強力である。いずれ、マルチチュードが金融化の過程に介入することができる形態を構想しなくてはならないだろう。」(p. 103) 終わりに
「ポスト近代思想」の脆弱性 「近代の形而上学がそれ自体として哲学と政治との交錯以外のなにものでもなく、またその最終結果――「政治的なものの自立」という概念――が、近代とポスト近代の双方に背くものであることを考えるなら、この哲学と政治の往復運動の必然性はいっそう明白であるといえるだろう。……われわれにとって、政治は決してすべてを包み込むものではなく、力関係と抵抗の戦略において不可避的に二重性を帯びるものである。したがって、「政治的なものの自立」は、権力自身の抱く幻想なのである。」(p. 109) |
リオタール、ボードリヤール、ヴィリリオ 「成熟した資本主義に対するこの最初のポスト近代的な認知の仕方の、これ以上こだわる必要はないだろう。ここで重要なことは、生権力の全体主義的な効果の全体性を認識することである。一方、そのなかで、もう古びて支持できないのは、「資本の能登への社会の実質的包摂」の使用に対する批判の弱さである。…… 「弱い思考」――ローティー、ヴァッティモ 「周知のごとく、西欧の改良主義的社会主義の危機と、東側の「現存社会主義」の危機とは、同時進行した。おそらく、「弱い思考」の唯一の功績は、西欧の改良主義を見舞った悲劇的な幻滅と、東のマルクス主義の危機から生まれた新自由主義への情熱とが、架橋可能であることを示唆したところにあるだろう。」(p. 112) ポスト近代の法・政治思想――ルーマン、ハーバーマス、ロールズ
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「ルーマンにおいては、この移行は、システム論的な仕方で定式化される。ロールズにおいては、契約論的な仕方で定式化される。ハーバーマスにおいては、半カント的・「半青年ヘーゲル派的」な奇妙な超越性によって特徴づけられる。三人のいずれにおいても、問題は世論という幻想的なイメージに現実的な一貫性を与え、公共空間に倫理的な形態を付与し、したがって、社会、国家、とりわけ政治的表象に関する「民主主義的」概念を強化することである。」(p. 114) 「使用価値」をめぐるポスト近代思想の態度 「生活様式の変容を特徴づける人類学的歴史や実体的時間のなかで、使用価値は、たしかに継続的に変化をこうむりはするが、革命を計画するための政治的構成(世界のラディカルな変革)においては、常に根源的な基本要素でもあるものとして位置づけられてきた。使用価値の終焉と商品への物心崇拝(フェティシズム)は、同じことを意味するのではない。……マルクス主義からわれわれに残されているのは、まさに抵抗と闘争の機能を担うものとしての使用価値にほかならないのだ。 スピノザ、ハイデガー、フランクフルト学派、ベンヤミン 「スピノザは、存在の密度のなかに、存在それ自体を刷新する「デュミナス」(ダイナミックな潜勢力)があることを認めていた。……「デュミナス」とは生きた労働のことである。しかし、生きた労働は使用価値だから、それは使用価値の刷新でもある。ここでわれわれがつけくわえようとすることは、メタファーであることをやめ、ポスト近代思想の文献学(もっと正確にいうなら、「系譜学」)になる。
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「フランクフルト学派は、すべてのポスト近代的世界概念に直結する直接的な先行者である。実際、フランクフルト学派は、修正主義的マルクス主義学派のなかでもっとも強力な学派であった。この学派は、普遍的な商品物心崇拝(フェティシズム)と革命の可能性とを、あとから手の施しようがない仕方で分離したのだが、それはこの分離によって革命の可能性が終末論的な展望に還元されてしまったからである。オルタナティブの展望は、物心崇拝(フェティシズム)と終末論に挟撃されて、不可能にされただけでなく、絶望の淵へと追いやられた。ここで、この絶望のベンヤミン的起源にこだわってみても無益だろう。」(p. 120) ハンナ・アレント――自由主義的利用とポスト近代的要素 マージナルな抵抗――デリダとアガンベン 「しかし、彼らが関心をもつのは、何はともあれ、この余白、この端っこ、この断層であることは明白である。デリダにかけているのは、余白を実際に創造に変えるための積極的・持続的な抵抗の現象学である。それに対して、アガンベンには、空虚へのアナーキーな誘惑と、愛をともなった社会的なものの建設(ここで愛というのは、アモールつまり存在論的な力のことである)との区別を可能にする価値観がかけている。」(p. 123) 終わりに |
工房6 差異と抵抗――ポスト近代の区切りの認識から、来たるべき時代の存在論的構成へ 来るべき時代の存在論的構築へ 「われわれはこれまで、われわれが近代の危機の認識、ポスト近代的意識と呼ぶものと、その明証性を否定しようとする道徳的あるいは理論的なあらゆる逃走(漏出)線――さらには、このコンテクストのなかで現われた日和見主義的あるいは悲劇的なあらゆる偏流――とが交錯するところに生じる矛盾を強調してきた。ただし、現実を見てみると、こうしたすべてのことを、一つの世代全体――一九六八年五月の世代――が、実際に社会のすみずみにまで強く広がるかたちで生きたために、この劇的な出来事自体がほとんど陳腐化するにいたっている。」(p. 128) ポスト近代の建設的なオルタナティブの可能性――ドゥールーズとフーコー |
「ドゥールーズにおけるこの奇妙で強力な動き――これは以後、フーコーを魅了してやまない――のなかに、彼が見てとったものは、存在論の表面から奥底へと移行する必要性にほかならない。フーコーは、生産の存在論を生政治的な組成の内部に導入しなおす。かくして、フーコー的な考古学と系譜学は、存在の理論を受容するところとなる。これはすばらしい直感であった。」(p. 133) 「これは矛盾しているように思われるかもしれないが、フーコーの思考は次のような思想に行き着いた。すなわち、権力が拡張し、あらゆる社会的諸関係――その性質がどんなものであれ――に伝播し、したがって階級諸関係の古くからの二分法的構造が消滅するとともに、かつてより見えにくいかわりに、はるかに効果的な精緻きわまりない諸権力の分析装置が登場することになるが、まさにそのとき、それに敵対する動きもまた、社会的世界全体に拡張し、世界を構成する組織網の結び目に到達する、ということである。……フーコーは、『千のプラトー』のリビドーと欲望を、社会的敵対性と政治的闘争のまっただ中に連れ出そうとするのである。」(p. 134) 差異/抵抗/創造性の関係 「存在論的問題は、差異と創造性との関係のなかに直接根づいている。われわれの仮説は、以下のようなものである。すなわち、この二つの事柄の関係の存在を可能にするのは抵抗である、ということだ。しかし、差異と創造性が存在論的であるとすれば、抵抗もまた存在論的であるだろう。……差異と創造性の交叉を可能にするのは抵抗である。差異の認識によって、われわれが導き入れられるクリナメン(偏倚)が成り立つのはまさにここにおいてであり、これを時間的観点に即して述べると、このとき抵抗の活動のカイロスが登場するのである。ここでわれわれが「カイロス」と呼ぶのは、差異と創造性との関係のなかに時間が強力に入り込む事態のことである。」(p. 136) 「差異について語ることは、抵抗について語ることである。差異は、生権力が社会に与える認可の内部において認識されうるものではない。差異について語るとき、人は、まさに生権力の濃密な全体性に対して抵抗が出現する――生政治的組成の共通の一貫性を確立するために――ときの様相について語っているのである。差異の確立が可能になるのは、創造性や生活様式の重視、本質主義と自己同一主義のあらゆる形態の破壊という脈絡にそって、この組成を絶えず刷新することによってであり、それ以外に方法はない。そして、そのとき、〈共(コモン)〉の建設も可能になる。〈共(コモン)〉とは、このような運動の総体にほかならない。」(p. 137) |
フェミニズムと分離主義―― 一九六八年~七〇年代における問題提起 「分離は、なにはともあれ、「国家理性(レゾン・デタ)」の歴史、つまり権力自身の内的解放過程のなかに含み込まれた立場であり決定なのである。分離は、仮にそれが抵抗と権力との対称性を打破しようとしたとしても――また、そうであればなおのこと――、権力に似通ったものであった。もう一度繰り返そう。分離は、たとえそれが主観性の遍歴のある必然的継起をなすものであったとしても、権力の内部にとどまるものだ。」(p. 139) 「分離主義は、差異の思想と実践の最初の高揚期を画するものであった。主観性の生産という視点から見ると、分離主義は、近代とポスト近代の歴史的区切りの自覚にかかわるもっとも明白な要素の一つであった。なぜなら、分離主義は、自らに固有の特異的あるいは集合的な革新的主観性の自己産出する生活様式や試みをもたらしたからである。」(p. 140) 「一九七〇年代には、女性の権利の拡張や、労働者の権利の確立は、大きな勝利を画したのである。この両方ともが、その後、分離主義の挫折をともなったにしてもである。いまから三五年も前にさかのぼる主体化の過程が、単なる分離を超えて、差異の確立にいたる道を提起し実践していなかったら、この大いなる過程は、いま現在、われわれの記憶のなかに残っていなかっただろう。」(p. 140) 「当時、性的再生産の主体と、経済的生産の主体が、共通の運動を構築し、それは分離主義の実践において頂点に達した。実際、この運動が独自の仕方で生きつづけ、(再)生産されつづけるためには、分離主義が必要だとみなされたのである。しかしながら、自己の確立が生産的になるためには、逆説的にも、人が当初保有していたアイデンティティを否定しなければならなかった。つまり、差異とは、この否定のことだったのだ――しかしそれは、とてつもなく豊かで、絶対的に必要な否定であった。……たとえそれが挫折を免れなかったとしてもである。」(p. 141) |
分離主義から差異へ――「決定」の問題 「一九七〇年代における労働力の抵抗と労働者の反乱を考察してみると、これと同じ問題に行き当たる。この場合にも、われわれは、出発点でアイデンティティの壁に直面する。すなわち、一方に成熟したたくましい男性白人からなる労働力、労働者階級があり、そこから一種の粗野な異教徒として自らを分離することが、もっとも効果的な交渉力となり、その先に、資本主義的再生産の均衡の破壊を展望するといった構図である。」(p. 143) 「近代からポスト近代へ、フォーディズムからポスト・フォーディズムへという移行を特徴づける紛争のまっただ中で、分離を引き継ぐのは、一般知性(ジェネラル・インテレクト)である。すなわち労働の過剰性、つまり生きた労働の創造性に依拠した生産的発展の新局面に対応する非物質的・知的・言語的・協働的な労働力である。」(p. 144) 「こうした枠組のなかで差異について語るとき、われわれはもはや抵抗としての差異についてのみ語るわけにはいかない。ここにいたって、差異/抵抗は、新たな主観性の生産の可能性の条件として、つまり創造の可能性の条件として姿を現わすのである。これはもはやアイデンティティの幻想の問題ではなくて、逆に、集団的移動(エクソダス)が可能にする新たな社会的な場――そのなかに、反逆と抵抗を通して、主観性の存在そのものが組織化される――の認識の問題である。こうして、われわれは、集団的移動(エクソダス)とは、物質的労働と非物質的労働との差異にかかわる全空間を遍歴し、生きた労働の核心部にある創造的力能を再獲得することにほかならない。しかし、では、……分離が革命的な集団的移動(エクソダス)」に体現されるラディカルなオルタナティブに道を譲るようにするには、どうしたらいいのだろうか?」(p. 145) マルチチュード――新しい政治的思考のカテゴリー |
「この種の現象にアプローチすると、今日、世界中の出来事を特徴づけているとてつもないマルチチュード的運動の渦中に直ちに放り込まれる。移民・移住現象は世界全体で起きていて、世界経済の構造的不均衡が世界中の人々を巻き込んだのである。こういうふうにして、マルチチュードは変化する。……いたるところでメティサージュ(交雑)がすすみ現実を変容させている。」(p. 148) 終わりに
工房7 抵抗の権利から構成的権力へ 政治的語彙の改革 「主観的権利」の定義 「マルチチュードの内部では、主観的権利は単に個人的利益の擁護を意味するのではない(逆に、特異性(サンギュラリテ)を特異性(サンギュラリテ)たらしめるものは、他者との関係の外部では見分けることが困難である)。ようするに、特異性(サンギュラリテ)は、むしろ、協業つまり価値と富の集合的な生産力の設定を認識させようとする意志として存立するのである。マルチチュードが特異性(サンギュラリテ)の集合体であり、〈共(コモン)〉が特異性(サンギュラリテ)の産物――常に変化し、可動的で、再起動する――であるなら、主観的権利は、〈共(コモン)〉の構築過程を共有的に造形することへの権利として、そして、この過程の内部でさまざまな特異性(サンギュラリテ)の機能を認め合いながら自己出現することになる。 |
「法(権利)が増えれば、それだけ潜勢力が増すと、スピノザは述べている。スピノザにあっては、〈共(コモン)〉への傾向と差異の出現とのあいだで、「自存力(コナトゥス)」「衝動(アペティトゥス)」「欲望(クピディタス)」が、社会的協業による生産が絶えずより高次のレベルへと定着していくことを体現するような権利を提起する。したがって、スピノザ的な経験世界においては、権利の生成は、平穏になされるものでもなんでもない。マルチチュードの概念を、スピノザは、歴史的に一貫した現象と言うよりも、むしろ概念的な現実として構築しているという事実も、このことをひていするものではまったくない。」(p. 156) 主観的権利と抵抗の権利 「生権力のなか(権力の行使者と、それに従属する者とのあいだ、つまりは、社会的・生産的な複雑さとしての内部)で起きている闘争は、同時に、主観的権利のさまざまな異なった定式化のあいだで起きている闘争としても出現する。われわれの第一の関心事は、この時間的・歴史的リズムのなかにおいて、したがって現在の状況において、抵抗の権利がどれほどまでに変化することができるかを解明することである。」(p. 160) 「市民権」 「労働者は、国家的労働力の独立性の維持には絶対に対応しないような柔軟性や流動性の規則に従属させられている。こうした柔軟性や流動性の規則は、逆に、労働者のグローバルな動きを序列化し、まさしく、この新たな可動性を取り込み、接収し、搾取しようという国家/資本の要請に応えるものである。 |
「市民権が、抵抗への主観的権利を意味するものでもあるとすれば、この権利は、実際には、それを行使する主体が移民ではなくて、逆に領土化された個人である場合にしか受け入れられないことになる。もう少し明示的に言うなら、領土的な団体(国民的な基盤を持った労働組合、アソシエーション、諸組織など)だけが、抵抗に対して公的な主観的権利を行使することができるということである。そして、その他のすべては、逆に、「テロリズム」とみなされることになるのだ。」(p. 163) 構成的権力 「民主主義」 「われわれは、「黙せる歴史」を、明瞭な「マルチチュードの行為」に変えるための一連の現象・概念・運動といったものを手にしている。一方で、われわれは、脱構造的な闘争――つまり、市民的不服従、サボタージュ、生産構造の不安定化のための賃金闘争、時間闘争、指令形態に抗議する闘争といったような、政府形態としての民主主義に抗する諸闘争――をもっている。そして、他方で、自立自治、集団的自主管理、〈共(コモン)〉の実践といった組織形態を発展させる、いわば〈共(コモン)〉の民主主義のための政体構成的闘争をもっている。主観的権利と構成的権力とのあいだの関係は、この「……に抗して」と「……のため」とのあいだの緊張関係のなかで決せられるのである。」(p. 167) 「マルチチュードという概念――これは、非物質的労働のヘゲモニーのなかに根づいた階級概念であるが――は、中国の農民大衆の運動、ブラジルの生権力に抗する闘争、イランやインドの神権的政治権力に対する蜂起といったものを、自らの力の及ばないものとして排除することはできない。では、しかし、このような状況を引き受けることはなにを意味するのだろうか? |
一般意志の構築
この権力の分割が、政府形態としての民主主義システムを支配し、そのシステムの形状を決定している。」(p. 170) 「政府形態としての民主主義の規則は、こうした多様な支配機関の機能的合理性と密接に結びついている。しかし、全員の意志の表現としての民主主義の規則や構成は、こうした現実をラディカルに変革するものとしてしか構想しえないのである。……変革の空間とは、まさに主観的権利と抵抗の権利が一体化した空間である。集団的移動(エクソダス)が成り立つのはここにおいてである。」(p. 171) 終わりに
民主主義と絶対的民主主義 「一者」による政府形態と抵抗 近代民主主義をめぐる論議 |
そして、国民を顕彰することは、もっぱらこのような理論的・実践的な配置を堅固にするとともに、これを正真正銘の神話に変えてしまったのである。」(p. 177) 「カール・シュミットにとっては、国家ドクトリンと立憲理論は、常に――そして、ひとえに――政治神学の表現にほかならない。すると独裁(つまり、近代後期においては全体主義)は、たしかに民主主義的ではないけれども、だからと言って立憲主義的でなくはない機能を持つものとして立ち現れることは、偶然とは言えないのである。」(p. 178) 国家と例外状態 「グローバル化した諸関係のなかで、もはや例外状態について語られるのではなくて、戦争について語られるということは、偶然ではない。……われわれは、強者による弱者に対する非対称的な戦争について語っているのであり、紛争一般について語っているわけではないのだ……。したがって、これは、例外状態をグローバルな警察機能に変えるという方向、つまり秩序を維持し再生産するという主権の第一の基礎を強調するという方向で、例外状態を表現した戦争なのである。……かくして、生権力は、生政治の圏域を、内から上から、そして外から締め付けるものとして確立されるところとなる。」(p. 180) 「ところが、主権の概念が外部をもたなくなり、超越性が絶対的な仕方で君臨するまさにその時点において、主権そのものが内破する。そして、そのかわりに、抵抗の概念が、「アルケー」の原理に抗するかたちでふたたび出現し、自由や世俗性の概念と渾然一体化し、もはや抹消できないものとなる。」(p. 181) |
主権の危機 ガバナンスと絶対的民主主義 「十八世紀の終わりに、共和主義は、すでに「ガバナンス」としての実用形態を有していた。もちろん、それは、今日のような行政的諸関係をめぐる紛争や困難、あるいは階級闘争といったものよりも、政治的代表制や社会的媒介の機能に依拠してはいたが、この違いを認めたうえで言うなら、ガバナンスの実用性を頼みの綱にすることは、常に政府のヘゲモニーを再提起することであることにかわりはない。われわれがすでに強調した逆説――つまり、権利の自立的発展の可能性は、絶対に政府形態を変えることはできない――は、ここで、もう一度確認されることになる。」(p. 185) 「実際のところ、絶対民主主義は、新たな政府形態の定義ではない。この点に関しては、われわれは、近代という時代から存在するオルタナティブな革命的思想の注釈者の多くと完全に見解を同じくしている。マキアヴェッリ、スピノザ、マルクスは、絶対的民主主義以外の民主主義を定義したことはない。そして彼らは、絶対的民主主義の定義を、常に特異性(サンギュラリテ)と多数多様性の場から説き起こしたのである。絶対的民主主義は、不可避的に――そして本質的に――特異的かつマルチチュード的な主観性の生産として提示されるのだ。……ここにおいて、生政治は、政治的なものの真の磁場として、その本質的な条件として、姿を現わす。おそらく、民主主義の絶対的概念よりも、むしろ民主主義的表現の絶対的実用性について語らねばならないだろう。」(p. 186) |
「主権」の再定義 「われわれの仮説は以下のようなものである。マルチチュード的主観性が、ヘゲモニーの帰趨を決する。近代とポスト近代の区切りは、単に歴史のある通過点ではなくて、所与の歴史的コンテクストのなかにおける、主体と主体にかかわるヘゲモニー的諸関係の変様なのである。ヘゲモニーとは、今日、マルチチュードのことである。」(p. 188) 「政府(ガバメント)」の再定義 ガバナンス概念の可能性 終わりに 「政府の毛に主義的メカニズムを「ガバナンス」の媒介手続き――政府の遭遇する困難を解決するために導入された――で置き換えることは、政府の危機を増大し、深刻化し、おそらくは不可逆的なものにする――そこには、当然近代の例外状態も含まれる――だろう。したがって、今日。マルチチュードによって遂行される階級闘争が直接的に発動するのは、「ガバナンス」のコンテクストの内部においてなのである。」(p. 192) |
工房9 決定と組織 「決定」という問題 「ところで、実際問題として、特異性(サンギュラリテ)は必ずしもこの過剰性に相当するものではない。過剰性が偶発的なものであるのに対して、特異性(サンギュラリテ)相互間の関係は、逆に、政治的観点から見ても、存在論的観点から見ても、多くの場合、基準(ノルム)化されうるものである。……多くの論者が、抵抗は潜在的な可能性であり、ありうべくもない潜在能力とすら言えるものであり、したがって過剰性は構造的に確定できない出来事であるということを強調してきた。……要するに、特異性(サンギュラリテ)が存在するということは、これが差異を構築する、つまり自らを抵抗者として立てることができるということを必ずしも意味しないということである。」(p. 190) 差異から決定へ 「マルチチュードは、どのように、いかなる仕方で、反システム適地からとして出現しうるのか? ……なにがマルチチュードに場所を与えることができるだろうか? この種の問いかけに対して、われわれは、もちろん、次のような主張でもって応答する。特異性(サンギュラリテ)によって表現される抵抗の過剰性と主観性の生産は、〈共(コモン)〉の足跡にそって前進するのだ……。しかし、これが真実であると仮定しても、差異から決定――共通の決定――をいかにして構築することができるだろうか?」(p. 196) 「決定の構造」――マルチチュードの表現として 「決定の構造」――マルチチュードの表現として 「決定の存在論的な次元(この場合には、本質的に時間的な次元)を進化しなければならないだろう。この次元を一者の意志としてではなく、マルチチュードの表現として定義しなければならない。」(p. 198)
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「決定」を考えるための四つのポイント 「われわれは、問題を存在論化し、マルチチュード(差異・抵抗)から決定(共通の)に通じる過程を要約することができる存在の表現とはなにかということを自問しなければならない。 「とりあえず、ここでわれわれがしておきたいのは、このような把握しにくい因果関係とヘゲモニーの探求とのあいだにつくりだされる客観的な緊張関係を強調し、出来事への期待に注目することである。この出来事はヘゲモニー的であろうとする。しかし、これまでのあらゆる政治思想の伝統に反して、このヘゲモニーはまた共通的なものでもあろうとする。」(p. 202) 「主観性と共通性の正真正銘のエンテレケイア(自己完成状態)を体現することができるような場を確立しなければならないのである。別の言い方をするなら、〈共(コモン)〉の歴史的な動的編制(アジャンスマン)の現象学的な確定を理解しうるような場をつくりださねばならないということである。」(p. 203) 「組織が党や政治的代表機関のような集合的決定の伝統的な形態の外部には存在しえないというのは、本当ではない。逆に、党や政治的代表の形態は、ときに、集合的決定のレベルを越えて、共通の決定のレベルに達することもこうしたすべての場合において、それは常に変数でありつづける。共通の決定は、常に自由な発明であり、正真正銘のクリメナン(偏倚 決定の存在論的次元 物質的諸条件 「そうすると、問題は、単に決定がなにを意味するかということを理解するだけでなく、民主主義的決定とはなにを意味するかということを理解することである。」(p.207) |
組織と制度 「われわれが、先ほどまでにふれたすべての分析とは逆に、われわれは、実は、制度というものは、資本主義の制度とは異なったものでもありうると考えている。つまり、制度は、構成的権力によって発明され、マルチチュード的組織の基本的要素を体現しなければならないのだ。」(p.210) 革命概念の新たな定義 「今日、かつてない矛盾――物質的のみならず主体的な――が現れ出ているのは、この潜勢力を起点としてであるが、この潜勢力とは、言いかえるなら、資本主義的な蓄積や秩序の現行形態によって、そして生きた労働の自立に対応する新たな使用価値によって体現される社会資本のことである。ところで、主体的矛盾がアクティブなのに対して、物質的矛盾は本質的に抑圧的なものとして現われる。なぜかと言うと、資本は、資本を特徴づける寄生的次元からわが身を引き離すことができないからである。生きた労働に自律を通して表現される新たな使用価値は、今日、われわれを正真正銘の革命的継起に導くことができる理論的図式そして/あるいは実践的傾向を包含しているように思われる。」(p.213)
「共通の自由」のオルタナティブへ 政治的主体性と身体 「政治的主体性と特異的身体とのこの関係――つまり、特異性(サンギュラリテ)とマルチチュードとの関係の新たな考察の仕方――は、一九六八年をめぐる政治的議論――ならびに政治理論――のなかに出現する。この場合の「身体」は、近代の政治思想につきまとってきた社会的身体あるいは政治的身体のさまざまな異なったメタファーとはまったく無関係である。われわれが言う「身体」を統合するのは、有機的身体にまでのぼりつめた一般意志でなく、マルチチュードのなかにおける、特異的な――特異性(サンギュラリテ)としての――身体の肉体である。」(p.220)
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主体の非連続性と重層性 〈共(コモン)〉へ向かう主体 「貧困」――共通の主体性の力(1) 「したがって、貧困から〈共(コモン)〉の存在論的構築にいたる時間的・通時的な道筋が存在するはずである。スピノザは自存力(コナトゥス)(貧しい存在としての、そして自らの生を維持しようとする原初的な試みとしての)よりも欲望(クピディタス)(愛としての、つまり主体が貧しい存在であるとき、主体がその内部に担っている潜勢力を発展させる欲望としての)の持続性を示しながら、この道筋を描き出した。ここに、第一の力――貧困――から第二の力――愛――に、どういった仕方で移行するかを、よく見てとることができる。貧困の場合と同様、「愛」という用語もまた、従来の古典的なメタファー(プラトン的な)としてだけでなく、それが崩壊したものとしても把握しなければならない。すなわち、プラトンにおいて、欲求と愛とが有機的に結合していたその場所において、ここでは、逆に、この両者を一方から他方へと移行させる生産的な持続性の関係――逆説的にも、存在論的な飛躍という関係であるが――を理解しなければならないのである。」(p.225) |
「かくして、われわれは、絶対的に建設的な曲がり角に到達する。なぜなら、貧困は、このとき、存在の増大の可能性へと向かう動きの開始、そしてその緊張感を決定的に意味するものになるからである。……ここでは、……力としての――つまり潜勢力としての――貧困と愛の再発見が、われわれに、情熱を起点にした肯定的な逃走(漏出)線や、存在そのものをつらぬき、マルチチュードを形成することが構築する目的因(テロス)の物質化を予見させる移行を垣間見させてくれるのである。そして、まさにこれこそが、われわれにとって、マルチチュードを形成することに対して持続性(哲学にとっては理論的、運動にとっては知的・闘争的な)を与えるための助けとなることにほかならない。なぜなら、〈共(コモン)〉は、いまや、われわれにとって、「内部から」形成される(そして、弁証法的図式に還元されないだけでなく、再構成の審級として確立される)ダイナミズムの産物として立ち現れるからである。これこそが、実は、貧困を起点とした愛の行動の機動的な形象なのである。」(p.226) 「貧困」――共通の主体性の力(2) 「ここがロードスだ、ここで跳べ」 「われわれがこれまで描き出してきたマルチチュードを形成することと政治を行うことの新たな条件の総体を考えてみると、この権力の管理は、疑いもなく、新たなパースペクティブにおいて敵対的なやり方で測定されねばならないだろう。すなわち、〈共(コモン)〉の行使によってである。新たな主観性が姿をあらわすところでは、必然的に新たな権力の行使が分析されねばならないのである。」(p.229)
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「権力の概念は、いまや完全に廃れてしまったイデオロギー的次元や歴史的連続性に対応するかたちで提示されている。すべての政府形態は君主制である(近代においては、一者が常に主権を特徴づけているのだから)と、ボダンが言ったのと同じように、われわれは、今日、政府の形態と権力の実質は二者に還元しうると言明することができるだろう。二者とは、すなわち、一対の力であり、異なった力の対抗である。権力の行使に対抗する〈共(コモン)〉の行使である。われわれが、この近代からポスト近代への移行期に、主権を定義しようとするとき、いたるところに見出すのは、まさにこの超越論的対立のほかならない。
結び――マルチチュードを形成することは、新たな民主主義をつくることである 「われわれは、そこで、抵抗の権利、構成的権力、マルチチュード的な力と化した新たな主観的権利といったものの出現は、現在の権力システムの形状の周縁や外部ではなくて、その核心部、その内部に内在的に存在しているものとして把握しなければならないことを提起した。このような立場は、何よりもまず、否定的な議論展開によって正当化しなければならなかった。つまり、いくつかの概念――政府、ガバナンス、帝国、主権、といったような――を批判的に分析し、グローバル化したポスト近代的なコンテクストのなかに現われる新たなアポリアをつきとめることによってである。その上で、われわれは、今日、主観性の生産の存在論的固有性と緊密に結びついた社会変革の地平を、建設的、肯定的な仕方で、再構成しようとした。」(p.232) |
「移行を前提とした危機の認識が明確になったとき、第二の時間概念が姿を現わす。そして、この時間概念は、もはや歴史ではなく、存在論とかかわりあう。不確実性と、われわれがいましがた喚起した障害を乗り越える困難とを前にして、この概念は、決定の時宜性(いつ決定すべきか)を、われわれに指し示す。移行の意識が、われわれに後ろを振り向くように強いるのに対して、決定のカイロス(好期)は、われわれに前方を向くように強いるのである。」(p.233) 訳者あとがき 杉村昌昭 「ガタリは現代社会における「人間」の《subjectivité》の形成(「主体化」=「主体になること」)を三つの様態が交錯する複合的過程として捉えている。すなわち――、
つまり《subjectivité》は、いわば工業製品のように造形され、消費されると同時に、一人一人が自ら特異的に創造することもできる、存在の混成体として想定されているのである……。要するに、当然のことながらガタリの《subjectivité》は、必ずしもポジティブな概念としてのみ提起されているのではなくて、ネガティブなニュアンスをも含有した混交的かつ生成変化的な存在の基礎概念なのである。」(p.240) (2010/9/16) |