ジョルジュ・バタイユ |
ニーチェをめぐる論考 ジョルジュ・バタイユ/吉田裕訳 「ニーチェとファシストたち」 「現代の独裁者たちの上には、疑いもなく、何かはるかに重苦しい拘束力が作用して、彼らはただ、ニーチェが大衆のなかにあって軽蔑したすべての衝動、ことに〈人種というものが作り出している虚偽に満ちた自己賛美に(『華やぐ知恵』、第三七七節)〉同化することで、自分たちの力を得ようとするだけになっている。ニーチェ的な要請と、存在を頂点のところで貧相なものとする政治組織との間に調和があるなどと想像することは愚弄であって、まわりを腐食させるような作用がある。この組織は、〈自由な精神〉たちの貴族的社会を作ることを可能にさせるすべてを幽閉し、追放し、殺害する。ニーチェが、生命を犠牲に捧げるに見合うほどの愛情を求めたとき、それは彼が伝達しようとした〈信念〉のためであって、どうみても祖国などというもののためではない、ということが明らかではないかのように……」(p. 21) 「操作の危険がどれほどのものであろうとも、この新生ドイツはニーチェを認知し、彼を利用しなければならなかった。ニーチェは、衝き動かされる諸本能をあまりにもよく表していた。この本能はどのような行動にも、つまりほとんどすべての激しい行動に対して、振り向けることができた。そして偽造はいっそう容易だった。アルフレート・ローゼンベルクの頭から出てきたもののような、国家社会主義が展開する幼稚なイデオロギーが、ニーチェを飼い慣らすのである。」(p. 25) |
「未来、それがもつ未知の脅威、それがニーチェ的祝祭の唯一の目的である。ニーチェの思考のなかでは次のようになる。〈人類は、後方よりも前方にはるかに多くの時間をもっている。――普通に考えて、どうしたら理想を過去のうちに求めることができるだろう?(遺稿より)〉。否認することを要求するツァラツストラの人格のうちにニーチェの姿をかなりの大きさで認めることができるとすれば、それは過去に結びつけられた排他主義的な吝嗇くささに対立し、見返りを求めることなく大胆に未来に向かって自らを投げ与える贈与を通してのことである。〈祖国なし〉の者たち、過去から解き放たれて今日を生存している者たちは、誰かが祖国などというこの惨めさに再び繋がれようとするのを、どうして座視していられようか? ……他の人々の視線がその父祖たちの国、祖国に縛りつけられているとき、ツァラツストラは“子供たちの国”を眺めていた。」(p. 38) 「過去から解き放たれた者は、理性に縛られた者となる。理性と結ばれていない者は、過去の奴隷である。政治という戯れは、それが行われるためには、かくも虚偽である立場を必要とする。そしてこの立場が変更されることはあり得ないように見える。理性の諸法則を生命をもって侵犯すること、理性に反してでも生命そのものの要求に応えること、それは政治において実際的には、手足を縛って過去に身を投げることになる。しかしながら、それでも生命は、理性的、行政的に人間を測定する体系からと同様に、過去からも解き放たれることを求める。」(p. 39) 「生命の運動は、……遙かの彼方まで追求される。そここそがまさしくニーチェの視線の消えていったところである。 |
「ニーチェ時評」 「さまざまな対立があって、ヘラクレイトスの過酷な掟の下に人間の生存を位置させ続けるのだが、それらのうちで、天空と大地、「罰したいという欲求」と悲劇を求める不安な要請との間の対立ほど真実で、抗しがたいものはない。……一方の側では、共同の力が合成される者の、それは偏狭な――親族的あるいは人種的な――伝統に縛りつけられ、君主的な権威を生みだす。それは生を越えがたく停滞させ、また限界づけて、確定される。他方の側では、人間たちの間で血による絆とは異質な友情の絆が結ばれ、彼らは必要な聖なる是認を互いに与え合う。彼らが集まることがあるなら、その目的はなにがしかの特定された行動ではなく、生存することそれ自体である。そして生存とは悲劇のことなのだ。」(p. 60) 「オベリスク」 「この悲劇的ディオニュソスは、歓喜に引き裂かれて、バッカスの巫女たちの息荒げた逃走を開始させるのだった。そして恐怖を撒き散らす“時間”に捧げられた祭と同様、数々の「神秘」のうちで一番解明されていないもの、すなわち“悲劇”は、寄り集まった人間たちの上に、彼らが自分たちの本性をそこに認めることができるような狂乱と死の諸表徴を出現させるのだった。」(p. 90) 「ところで時間とは、その永遠性が「存在」に不易の台座を与えている「あのもの=神」の「死」のなかで解き放たれる“時間”である。そしてこの引き裂かれる絶頂で「回帰」を演じ、表現する果敢な行為は、死んだ神からその全権力を奪い、それを“時間”の持つ邪悪な不条理さに与える。」(p. 95) |
「ニーチェの狂気」 「もし人間の全体――またもっと単純には人間のありようのすべて――が、ただ一人の人間――当然のことながら彼はこの全体と同じほどに孤独で打ち捨てられているのだが――のうちに受肉されるとしたら、この受肉したものの頭蓋は、静まることのない戦闘の場となることだろう。戦いは激しく、そのために頭蓋は、遅かれ早かれ粉々になって飛び散ることだろう。というのは、この受肉したもののヴィジョンがどの程度の嵐、あるいはどの程度の狂乱にまで達するかを測ることは難しいからだ。彼は神を見ることになるだろう。だがまさに同じ瞬間に神を殺害し、自分自身神となることだろう。しかしそれはただ、虚無のなかへとすぐさま自らの身を投げかけるためなのだ。こうして彼は自分が、やって来はしたが休息のあらゆる可能性を奪われていた最初のあの通過者(ディオニュソスあるいはイエス)と同じほどに、意味を欠いたものとなっていることだろう。」(p. 104) 「ニーチェの笑い」 「外見上どれほど絶対的に見えるとしても、「神」とは人間の相矛盾する意志の間の妥協物である。それは可能事と不可能事を媒介するものである。そして神とはこのようなものであるので、それを完全な「存在」として想像するとしても、その想像は人間の精神においては、常に不可能事のほうへと滑り寄っていく。深遠な諸概念の序列のなかで、「神」は知性の範疇を超え、可能事と不可能事の彼方まで達し、一方と他方を同様に内包するにいたる。」(p. 113) |
「笑いのなかで到達される神聖なものとは、「神」の不在でなかったら、何を意味するだろうか? 殺害にまでたどりつき、〈没落するのを見る〉と言うだけでなく、〈没落させる〉とまで言うことが必要なのだ。ニーチェはそのことを『善悪の彼岸』で言っている。〈慰めを与え、浄め、癒すすべてのもの、あらゆる希望、隠された調和があるというあらゆる信仰を供犠に付さなければならないのではないか? 「神」そのものを供犠に付さなければならないのではないか……?〉。神的であるということは、生を不可能事に合致させることだけではなく、可能事という保証を拒絶することだ。「神」について人間が持つ概念のこれ以上に完璧な理解はない。」(p. 121) |
「私が今ここに存在することを可能にせよと強く促されるが、私がそのように存在することは不可能であり、私はそれを知っていて、私は自分を不可能事の高みに置く。すなわち私は不可能事を可能に、少なくとも近づき得るものにする。回避しないという徳によって救済がまず与えられ、そこから目的をではなく、不可能事への跳躍を作り出す。永劫回帰は深淵を開くが、それは跳躍を促すものである。深淵とは不可能事であり、そうであり続けるが、跳躍は救済という可能事を不可能事のうちに導き入れる。この可能事は最初から、どんな保留もなしに不可能事に捧げられていたのであるが。跳躍とはツァラツストラの超人であり、力への意志である。」(p. 125) 「ツァラツストラと賭の魅力」 「この書物の持つ意味は、最悪の場合でもはっきりとしている。その教えは二つの対象におよんでいる。「超人」と「永劫回帰」である。前者は、「力への意志」の感性の方向で理解され、二つの世界大戦を生き延びた貴族主義的な諸価値とあからさまに合致することがある。」(p. 133)
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ニーチェの誘惑――バタイユはニーチェをどう読んだか―― 吉田裕 「ドイツ・ファシスムの標語の一つは「血と土」というものだったが、ファシスムは土地に定住した民族の性格を共通性として取り上げて共同性を再構成しようとした。それは確かにキリスト教批判であり得るが、この新しい異教趣味を、バタイユは次のように批判している。〈反キリスト教主義が求められ、生が神化されるとき、彼らの唯一の信仰とは人種なのだ〉(「ニーチェとファシストたち」)。この人種的民族的な統一性を高めるものとしての神話が強調され、祖国の観念が称揚される。この称揚は、必然的に視線を過去の方に振り向けさせることになる。だがバタイユが、ファシスムに対してニーチェを対立させる点の一つは、この過去への傾斜に対してである。ニーチェのワグナー批判は、ゲルマン神話への後者の過剰なのめり込みに対する反撥である。またニーチェが自分のことを、過去に属するものではなく、〈未来の子供〉であると言っていることをバタイユは強調する。……ニーチェにとって、未来とは、過去から来る規定を拒否する根拠だったのである。」(p. 171) 「共同体とは過剰をはらんだものであり、過剰さこそが共同体であることの証となる。この過剰さは、……犯罪、破壊、暴力として現れ、共同体を脅かし、動揺させる。だが共同体は逆にこの動揺を……自己の本質を確認する機会として利用する。……過剰はこのように制御されて放出されると祝祭となる。同時にこの過剰は、確かに共同体を破壊しかねない力を持つものであるために、隠蔽され禁止される。するとそれによって、過剰さは、触れてはならぬ聖なるもの、神秘的なものという性格を帯びることになる。だから聖なるもの、神秘的なものの探求は、同時に共同的なものの探求でもあった。」(p. 185) |
「この過剰分を放出するための非生産的消費は、贈与、性愛、祭儀等だったが、これらの過剰は、今や神秘へと読み変えられる。するとそのとき。これが一番重要なことだと思われるのだが、神秘と相関関係にある共同体も変化を起こす。共同体は、過剰がいっそう過剰なものとなるために、自己確認を越えて自己破壊まで追いやられるほかない。このような共同体が変化していく先は、戦争であると私には思われる。」(p. 186)
(2010/9/3) |