ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <書 抜き書きメモ6>

ジョルジュ・バタイユ
『ニーチェの誘惑』
吉田裕訳、書肆山田、1996年

ニーチェをめぐる論考   ジョルジュ・バタイユ/吉田裕訳

「ニーチェとファシストたち」

「現代の独裁者たちの上には、疑いもなく、何かはるかに重苦しい拘束力が作用して、彼らはただ、ニーチェが大衆のなかにあって軽蔑したすべての衝動、ことに〈人種というものが作り出している虚偽に満ちた自己賛美に(『華やぐ知恵』、第三七七節)〉同化することで、自分たちの力を得ようとするだけになっている。ニーチェ的な要請と、存在を頂点のところで貧相なものとする政治組織との間に調和があるなどと想像することは愚弄であって、まわりを腐食させるような作用がある。この組織は、〈自由な精神〉たちの貴族的社会を作ることを可能にさせるすべてを幽閉し、追放し、殺害する。ニーチェが、生命を犠牲に捧げるに見合うほどの愛情を求めたとき、それは彼が伝達しようとした〈信念〉のためであって、どうみても祖国などというもののためではない、ということが明らかではないかのように……」(p. 21)

「公式のファシスムは、ニーチェ的な強烈な格言を、壁に書きなぐって利用することができた。それでもこの乱暴な単純化は、公式ファシスムにとっては、あまりにも自由で、あまりにも複雑で、あまりにも悲痛なニーチェ的世界から距離をとって行われるべきであるように映っている。この慎重さは、確かにニーチェの態度についての時代遅れの解釈に基づいている。このような解釈は可能だが、それが可能だったのは、ニーチェの思考の運動が最後のところでは一個の迷路をなすがため、すなわち、現今の政治システムにおいてその鼓舞者に求められている指令などとは正反対のものであるがためである。」(p. 24)

「操作の危険がどれほどのものであろうとも、この新生ドイツはニーチェを認知し、彼を利用しなければならなかった。ニーチェは、衝き動かされる諸本能をあまりにもよく表していた。この本能はどのような行動にも、つまりほとんどすべての激しい行動に対して、振り向けることができた。そして偽造はいっそう容易だった。アルフレート・ローゼンベルクの頭から出てきたもののような、国家社会主義が展開する幼稚なイデオロギーが、ニーチェを飼い慣らすのである。」(p. 25)

「未来、それがもつ未知の脅威、それがニーチェ的祝祭の唯一の目的である。ニーチェの思考のなかでは次のようになる。〈人類は、後方よりも前方にはるかに多くの時間をもっている。――普通に考えて、どうしたら理想を過去のうちに求めることができるだろう?(遺稿より)〉。否認することを要求するツァラツストラの人格のうちにニーチェの姿をかなりの大きさで認めることができるとすれば、それは過去に結びつけられた排他主義的な吝嗇くささに対立し、見返りを求めることなく大胆に未来に向かって自らを投げ与える贈与を通してのことである。〈祖国なし〉の者たち、過去から解き放たれて今日を生存している者たちは、誰かが祖国などというこの惨めさに再び繋がれようとするのを、どうして座視していられようか? ……他の人々の視線がその父祖たちの国、祖国に縛りつけられているとき、ツァラツストラは“子供たちの国”を眺めていた。」(p. 38)

「過去から解き放たれた者は、理性に縛られた者となる。理性と結ばれていない者は、過去の奴隷である。政治という戯れは、それが行われるためには、かくも虚偽である立場を必要とする。そしてこの立場が変更されることはあり得ないように見える。理性の諸法則を生命をもって侵犯すること、理性に反してでも生命そのものの要求に応えること、それは政治において実際的には、手足を縛って過去に身を投げることになる。しかしながら、それでも生命は、理性的、行政的に人間を測定する体系からと同様に、過去からも解き放たれることを求める。」(p. 39)

「生命の運動は、……遙かの彼方まで追求される。そここそがまさしくニーチェの視線の消えていったところである。
この遙かの彼方、そこでは束の間の期間と束の間の目的のために取り入れられた単純化が意味を失い、存在またこの存在をになう世界が再び迷路となって現れる。貧しい直接的なものごとに向かってではなく、生命の可能性を唯一隠し持っているこの迷路に向かって、ニーチェの矛盾に満ちた思考は、陰影に富んだ自由さのままに進んでいく。彼の思考だけが、現存する世界にあって、目を十分に遠くまで開くことを私たちに拒絶させるような差し迫った配慮から逃れているようにさえ見える。」(p. 40)

「ニーチェ時評」

「さまざまな対立があって、ヘラクレイトスの過酷な掟の下に人間の生存を位置させ続けるのだが、それらのうちで、天空と大地、「罰したいという欲求」と悲劇を求める不安な要請との間の対立ほど真実で、抗しがたいものはない。……一方の側では、共同の力が合成される者の、それは偏狭な――親族的あるいは人種的な――伝統に縛りつけられ、君主的な権威を生みだす。それは生を越えがたく停滞させ、また限界づけて、確定される。他方の側では、人間たちの間で血による絆とは異質な友情の絆が結ばれ、彼らは必要な聖なる是認を互いに与え合う。彼らが集まることがあるなら、その目的はなにがしかの特定された行動ではなく、生存することそれ自体である。そして生存とは悲劇のことなのだ。」(p. 60)

「オベリスク」

「この悲劇的ディオニュソスは、歓喜に引き裂かれて、バッカスの巫女たちの息荒げた逃走を開始させるのだった。そして恐怖を撒き散らす“時間”に捧げられた祭と同様、数々の「神秘」のうちで一番解明されていないもの、すなわち“悲劇”は、寄り集まった人間たちの上に、彼らが自分たちの本性をそこに認めることができるような狂乱と死の諸表徴を出現させるのだった。」(p. 90)

「省察のさなかに、突然、永劫回帰に関する恍惚とするようなヴィジョンが与えられたときにニーチェが経験したものを、深い省察とされるものに普通結びつけられる感情と比較することはできない。なぜなら、知性の対象となっているものは、ここではそれが通常表れる範疇を溢れ出るほどなので、損結果、この対象はかたちをなすや否や、恍惚の対象――すなわち泪の対象、笑いの対象となってしまうからである……」(p. 95)

「恐怖によって辱められた状態から生を解放することで、決定的な破砕は成し遂げられるのだが、それを表現するためには、「回帰」のこの引き裂くような出現に、ニーチェがヘラクレイトスの爆発的なヴィジョンについて考察していたときに彼が経験したものを、ついでもっと後で「神の死」に関する彼固有のヴィジョンのうちで彼が経験したものを結びつける必要がある。そのことは、彼の生を絶えず打ち砕き、同時に目の眩むような激烈な輝きのうちへ投げ込む稲妻を、「回帰」の広がりのうちに認めるためにも必要なのだ。」(p. 95)

「ところで時間とは、その永遠性が「存在」に不易の台座を与えている「あのもの=神」の「死」のなかで解き放たれる“時間”である。そしてこの引き裂かれる絶頂で「回帰」を演じ、表現する果敢な行為は、死んだ神からその全権力を奪い、それを“時間”の持つ邪悪な不条理さに与える。」(p. 95)

「ニーチェの狂気」

「もし人間の全体――またもっと単純には人間のありようのすべて――が、ただ一人の人間――当然のことながら彼はこの全体と同じほどに孤独で打ち捨てられているのだが――のうちに受肉されるとしたら、この受肉したものの頭蓋は、静まることのない戦闘の場となることだろう。戦いは激しく、そのために頭蓋は、遅かれ早かれ粉々になって飛び散ることだろう。というのは、この受肉したもののヴィジョンがどの程度の嵐、あるいはどの程度の狂乱にまで達するかを測ることは難しいからだ。彼は神を見ることになるだろう。だがまさに同じ瞬間に神を殺害し、自分自身神となることだろう。しかしそれはただ、虚無のなかへとすぐさま自らの身を投げかけるためなのだ。こうして彼は自分が、やって来はしたが休息のあらゆる可能性を奪われていた最初のあの通過者(ディオニュソスあるいはイエス)と同じほどに、意味を欠いたものとなっていることだろう。」(p. 104)

「ニーチェの笑い」

「外見上どれほど絶対的に見えるとしても、「神」とは人間の相矛盾する意志の間の妥協物である。それは可能事と不可能事を媒介するものである。そして神とはこのようなものであるので、それを完全な「存在」として想像するとしても、その想像は人間の精神においては、常に不可能事のほうへと滑り寄っていく。深遠な諸概念の序列のなかで、「神」は知性の範疇を超え、可能事と不可能事の彼方まで達し、一方と他方を同様に内包するにいたる。」(p. 113)

「精神は完全には霊的でない。知性もそうではない。霊的な領域の根底には、不可能事の領域がある。陶酔、供犠、悲劇、ポエジー、笑いは、そこで生命が不可能事と呼応する形態だと私は言おう。しかしながらこれらの形態は自然なものである。なぜなら供犠を行う者、詩人、笑う人は、不可能事と呼応しようなどと少しも考えないからであり、また彼らは、何が自分を衝き動かすかを知らないまま、供犠を行い、霊感を受け、あるいは笑うからである。……だが私はもはや、もろもろのものごとから不可能事を受け取るだけにとどまらない。私は不可能事をそれと認知し、それを避けることなく、それを笑う……」(p. 117)

「ニーチェの生涯において一番心を打たれるのは、病によってショーペンハウエル流のペシムスムが彼個人の存在のなかで正当化されるその瞬間に、彼がその哲学を放棄することである。生が容易なものであるかぎり、彼は否という。しかしそれが不可能事の相貌を持つと、諾と言うのだ。ツァラツストラの時代に、次のような言葉を書き留めながら、彼は自分自身のことを思わないわけにはいかなかった。〈悲劇的人物たちが没落していくのを眺め、深い理解と感動と共感を感じながらもそれを笑いうること、そのことは神的である〉。原理的に言って、笑うとは、個人のすべてを賭するほどに徹底的に共感しないときに、不可能事が引き起こす反応である。」(p. 120)

「笑いのなかで到達される神聖なものとは、「神」の不在でなかったら、何を意味するだろうか? 殺害にまでたどりつき、〈没落するのを見る〉と言うだけでなく、〈没落させる〉とまで言うことが必要なのだ。ニーチェはそのことを『善悪の彼岸』で言っている。〈慰めを与え、浄め、癒すすべてのもの、あらゆる希望、隠された調和があるというあらゆる信仰を供犠に付さなければならないのではないか? 「神」そのものを供犠に付さなければならないのではないか……?〉。神的であるということは、生を不可能事に合致させることだけではなく、可能事という保証を拒絶することだ。「神」について人間が持つ概念のこれ以上に完璧な理解はない。」(p. 121)

「人間でしかない人間は、自分の思考が最大に達する瞬間にしがみつき、「神」の高みに伸び上がろうとすることがある。しかし人間の限界は「神」ではない。可能事ではない。そうではなくて不可能事だ。それは「神」の不在である。」(p. 122)

「ニーチェの内的体験は、人を『神』にではなく、その不在に連れていく。彼の経験は、不可能事に呼応しようとする可能事のことであり、それは嘔吐を催させるような世界を表象することのうちに消えていく。永劫回帰はこの特異な性格を備えていて、存在を「時間」の二重の不可能事のうちに、墜落させるかのように陥れる。時間に関する通常の表象においては、不可能事は、ただ過去また未来の永遠性の極限において見い出されるだけである。永劫回帰においては、瞬間それ自体が、たった一つの不可能な運動のうちに、これら二つの極限に向けて投射される。……永劫回帰は閉じられることがない。時間を包摂しようとする人間の思考は、暴力的に破壊される。……眩暈を与えること、不可能事への墜落に合致させること、それが内的経験、すなわち恍惚のうちに不可能事をあらわにするという経験の、何はともあれ表現なのだ。」(p. 123)

「私が今ここに存在することを可能にせよと強く促されるが、私がそのように存在することは不可能であり、私はそれを知っていて、私は自分を不可能事の高みに置く。すなわち私は不可能事を可能に、少なくとも近づき得るものにする。回避しないという徳によって救済がまず与えられ、そこから目的をではなく、不可能事への跳躍を作り出す。永劫回帰は深淵を開くが、それは跳躍を促すものである。深淵とは不可能事であり、そうであり続けるが、跳躍は救済という可能事を不可能事のうちに導き入れる。この可能事は最初から、どんな保留もなしに不可能事に捧げられていたのであるが。跳躍とはツァラツストラの超人であり、力への意志である。」(p. 125)

「ツァラツストラと賭の魅力」

「この書物の持つ意味は、最悪の場合でもはっきりとしている。その教えは二つの対象におよんでいる。「超人」と「永劫回帰」である。前者は、「力への意志」の感性の方向で理解され、二つの世界大戦を生き延びた貴族主義的な諸価値とあからさまに合致することがある。」(p. 133)

「本当のところ、『ツァラツストラ』は、人間的な秩序と私たちの思考の体系を基礎づけるすべてのものを、疑問提起のうちに巻き込む。
『ツァラツストラ』は、ただ賭だけが至高である世界、労働の持つ従属するという性格が告発されるような世界を私たちに聞く。それは悲劇の世界である。」(p. 136)

 

ニーチェの誘惑――バタイユはニーチェをどう読んだか――  吉田裕

「ドイツ・ファシスムの標語の一つは「血と土」というものだったが、ファシスムは土地に定住した民族の性格を共通性として取り上げて共同性を再構成しようとした。それは確かにキリスト教批判であり得るが、この新しい異教趣味を、バタイユは次のように批判している。〈反キリスト教主義が求められ、生が神化されるとき、彼らの唯一の信仰とは人種なのだ〉(「ニーチェとファシストたち」)。この人種的民族的な統一性を高めるものとしての神話が強調され、祖国の観念が称揚される。この称揚は、必然的に視線を過去の方に振り向けさせることになる。だがバタイユが、ファシスムに対してニーチェを対立させる点の一つは、この過去への傾斜に対してである。ニーチェのワグナー批判は、ゲルマン神話への後者の過剰なのめり込みに対する反撥である。またニーチェが自分のことを、過去に属するものではなく、〈未来の子供〉であると言っていることをバタイユは強調する。……ニーチェにとって、未来とは、過去から来る規定を拒否する根拠だったのである。」(p. 171)

「バタイユは、これら二つの帰結[ファシスムの異端排除から来る反ユダヤ主義と指導者原理から来る軍事性]に対して、ニーチェの思想が真っ向から対立するものであることを主張する。彼は……反ユダヤ主義が単なる現象ではなく、ファシスムの本質に属するものであることを明らかにした上で、すでに引用したような、〈人種などという恥知らずの悪ふざけにはまり込んでいる者どもを決して訪問するな〉というニーチェの断言を繰り返して引用する。」(p. 172)

「人間には生産のためでない消費、計算と合理性を越えた純然たる消費というものがあり、それを実践しうることが人間の動物に対する優位であり、また人間のなかの高貴と凡俗な人間を差異づける。軍事的共同体はこの原理と正反対のものであった。それに対して、ニーチェの思想は。ほかのなにごとかに応用されて有用であるといったところが少しもない思想、ただ思想としてのみ存在するような思想である。それは政治的であれ、なんのためであれ、利用されることを断固として拒絶する。」(p. 173)

「共同体とは過剰をはらんだものであり、過剰さこそが共同体であることの証となる。この過剰さは、……犯罪、破壊、暴力として現れ、共同体を脅かし、動揺させる。だが共同体は逆にこの動揺を……自己の本質を確認する機会として利用する。……過剰はこのように制御されて放出されると祝祭となる。同時にこの過剰は、確かに共同体を破壊しかねない力を持つものであるために、隠蔽され禁止される。するとそれによって、過剰さは、触れてはならぬ聖なるもの、神秘的なものという性格を帯びることになる。だから聖なるもの、神秘的なものの探求は、同時に共同的なものの探求でもあった。」(p. 185)

「この過剰分を放出するための非生産的消費は、贈与、性愛、祭儀等だったが、これらの過剰は、今や神秘へと読み変えられる。するとそのとき。これが一番重要なことだと思われるのだが、神秘と相関関係にある共同体も変化を起こす。共同体は、過剰がいっそう過剰なものとなるために、自己確認を越えて自己破壊まで追いやられるほかない。このような共同体が変化していく先は、戦争であると私には思われる。」(p. 186)

「可能事を越える経験のためには、まず可能事を尽くさねばならない。そこで可能なものは不可能なものと不可分の様態で現れ、常に不可能性へと滑っていく。だからバタイユの言う神秘的経験とは、神の経験にとどまらず、神を越える経験となる。なぜなら、神は概念としてとらえられるかぎり推論の領域内にあるが、本来的に神的なものを求めるならば、その限界は越えねばならず、その時神は神でなくなるけれども、神的なものが経験されるのはそこ以外ではあり得ないからである。〈神は人間の極限ではない。だが人間の極限は神聖なものだ〉(「有罪者」)。」(p. 136)

「人間は、神のために、すなわち神をあらわにするために、自分にとって次第に大きくなる大切なものを捧げるようになってきた。こうして動物の供犠、人間の供犠、また神の子の殺害が行われる。だがこの先には、もはや大切なものがすべて捧げられ、残るものとては神それ自身しかなくなる。だから人間は神を供犠に捧げることになる、とニーチェは言う。……神が供犠に捧げられるとき、あらわにされるのは神の不在なのだ。この点が一番重要なことだ。なぜなら、明らかにされるこの神の不在は、神の存在よりずっと巨大で神的なものであるからだ。これが「逆説的秘儀」の意味にほかならない。」(p. 198)

「バタイユは、罪という言い方でとらえられたものを読み変えようとする。読みかえは原理的なものだ。キリストの処刑は、神を傷つけることによって罪ではあるが、同時に存在に開口部を開くことによって、存在の固定を破り、流動化することでもある。このとらえ方から重要な帰結が生じる。それはこの流動化が宗教的な罪の意識への固着からの離脱を引き起こすからである。」(p. 206)


                                   (2010/9/3)