スラヴォイ・ジジェク |
序 最初の十年の教訓 「一九九〇年代にフクヤマが示したユートピアは二度死ななければならなかったようだ。9・11によって、リベラル民主主義の政治ユートピアは崩壊したが、グローバル市場資本主義の経済ユートピアは揺るぎはしなかった。二〇〇八年の金融大崩壊に歴史的な意味があるとすれば、それはフクヤマが夢見た経済ユートピアの終焉のしるしであるということだ。」(p. 14) 「現代のありようをつかもうとして、「ポストモダン社会」「リスク社会」「情報化社会」「脱工業化社会」等々、次から次へと新語をひねり出す人ほど、ほんとうに新しいことの輪郭を見逃してしまいがちなものだ。新しき者の真の新しさを捉える唯一の方法とは、古きものの「永遠の」レンズを通して世界を見ることだ。実際コミュニズムが「永遠の」しそうであるのならば、それはヘーゲル哲学における〈具体的普遍性〉として機能する。」(p. 16)
反アメリカ的緊急援助策 |
「では、緊急援助策は本当に「社会主義」的な政策であり、ついにアメリカに社会主義国家が誕生したことを意味しているのか? もしそうなら、きわめて特殊な形態である。「社会主義」政策の第一の目的が、貧しい者ではなく富める者、債務者ではなく債権者を助けることになってしまうからだ。金融システムの「社会主義化」が資本主義を救うために役立つのならば認められるというのは、究極の皮肉である。社会主義は悪──のはずだが、ただし、資本主義の安定に資する場合にかぎり悪ではないと言うことだ(現代中国との対称性に注目を。中国共産党は同じように、「社会主義」体制を強化するために資本主義を利用している)。」(p. 28) 「一九九〇年代にフクヤマが示したユートピアは二度死ななければならなかったようだ。9・11によって、リベラル民主主義の政治ユートピアは崩壊したが、グローバル市場資本主義の経済ユートピアは揺るぎはしなかった。二〇〇八年の金融大崩壊に歴史的な意味があるとすれば、それはフクヤマが夢見た経済ユートピアの終焉のしるしであるということだ。」 「現代のありようをつかもうとして、「ポストモダン社会」「リスク社会」「情報化社会」「脱工業化社会」等々、次から次へと新語をひねり出す人ほど、ほんとうに新しいことの輪郭を見逃してしまいがちなものだ。新しき者の真の新しさを捉える唯一の方法とは、古きものの「永遠の」レンズを通して世界を見ることだ。実際コミュニズムが「永遠の」しそうであるのならば、それはヘーゲル哲学における〈具体的普遍性〉として機能する。」(p. 16) 資本主義の本質的パラドックス |
グローバル資本主義の現実
「現在の金融および経済危機によって、ラディカルな左派の登場する余地が切り開かれるなどという左派の無邪気な期待は、まちがいなく危険なほどに近視眼的だ。まず最初に生じる危機の影響は、急進的な解放をめざす政治が台頭することではない。むしろ人種差別的なポピュリズムがわき上がり、さらなる戦争が勃発し、第三世界の最貧国の困窮が深まって、あらゆる社会で富裕層と貧困層の格差が大きくなるだろう。」(p. 36) 構造改革という詭弁
階級闘争のパラドックス 合法と無軌道の境目 |
第4章 人間的な、あまりに人間的な 「現代はことあるごとにポスト・イデオロギーの時代であることを標榜しているが、このイデオロギーの否定こそ、われわれがかつてないほどイデオロギーに組み入れられていることの決定的証拠である。イデオロギーはつねに格闘の場――とりわけ過去の伝統を現在に帰属させる闘いの場だ。」(p. 68) 「資本主義と民主主義を当然のように結びつける者は事実をごまかしている。それはカトリック教会が自らを全体主義の脅威に対抗し、「元来から」民主主義と人権を擁護する者であったかのように見せかけるのと同じごまかしだ。実際に彼らは、十九世紀の末にようやく民主主義を受け入れた。しかも、そのときも耐えがたい妥協に歯ぎしりをしつつ、君主制のほうが好ましい、時代の変化にやむなく譲歩するだけだ、と明言したのである。」(p. 70) イデオロギーの人間化 苦悩するヒーロー 毒のある〈隣人〉
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「ジョルジュ・アガンベンの「例外状態」論を皮肉まじりに首肯するかのように、二〇〇八年七月、イタリア政府は国家の非常事態宣言を発して、現代のパラダイムにおける〈隣人〉の問題に対処しようとした。北アフリカと東ヨーロッパからの不法移民の問題である。 「現代の各国政府の「移民の脅威」対策でも同じ態度がとられているのではないだろうか。ポピュリストの人種差別主義は「理性的でない」し、民主主義の規範にそぐわないとして正しく退けたのちに、「理性ある」人種差別的保護政策を支持するのだ。」(p. 85) 道化の仮面の下には
「ボルタンスキーとチアペッロは、本家マックス・ウェーバーの方法を踏襲して、資本主義の三つの連続した「精神」を区分する。 |
「このポスト六八年の資本主義精神が具体的な経済・社会・文化の統合をもたらしている限りにおいて、その統合こそが「ポストモダニズム」の呼称を正当なものとする。新しいイデオロギー形態としてのポストモダニズムに対してはもっともな批判が多かったものの、ジャン=フランソワ・リオタールが著書『ポスト・モダンの条件――知・社会・言語ゲーム』で、この語をただの阿tらしい芸術傾向(とりわけ文学と建築の)から新時代を画するものへ格上げしたとき、それはまさに真正の任命行為であったと認めるべきなのだ。 「文化資本主義」の精神 デジタル資本主義へ 一九六八年――反乱のイデオロギー |
「一九六〇年代の性の解放を生きのびたものは、寛容な快楽主義だった。それは超自我の庇護のもとに成り立つ支配的イデオロギーにたやすく組みこまれていった。では、超自我とは何か。 「この一九七〇年代半ばの重要な時期に、残された唯一の道は、直接的で粗暴な「行為への移行」――〈現実界〉へ押しやられることだった。おもに三つの形態がとられた。まず過激な形での性的な享楽の探求。それから左派の政治的テロリズム(ドイツ赤軍派、イタリアの赤い旅団など。大衆が資本主義イデオロギーの泥沼にどっぷり浸った時代には、もはや権威あるイデオロギー批判も有効ではなく、生の〈現実界〉の直接的暴力、つまり「直接行動」に訴えるよりほかに大衆を目覚めさせる手段はないと考え、そこに賭けた)。そして最後に、精神的経験の〈現実界〉への志向(東洋の神秘主義)。これら三つに共通していたのは、直接〈現実界〉に触れる具体的な社会・政治的企てからの逃避だった。」1(p. 103) 体制に懐柔された「六八年精神」 サバイバリズム原理主義 「ニーチェ哲学の用語を借りていうと、真にラディカルな解放をめざす政治とポピュリズムの政治との決定的なちがいは、前者が「能動的」で、そのビジョンを押しつけるのに対し、ポピュリズムは基本が「反動的」で、不穏な侵入者への反応に由来する。すなわちポピュリズムは、邪悪な外的要因への恐れをかき立てることで民衆を動かす、恐怖政治の一バージョンにすぎないのだ。」(p. 107) |
知と権力と「選択の自由」 「現代のいわゆる「ポストイデオロギー」の時代にあっては、イデオロギーはますます従来の「症候」モードとは反対の「フェティシズム」モードで機能する。」(p. 113) フェティシズム、二態
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イデオロギーに対する四つの態度 「敵の敵は味方」か? 「タリバンの台頭のような現象は、ヴァルター・ベンヤミンの古い命題「あらゆるファシズムの勃興は一つの革命の失敗を物語る」が、いまも真実であるばかりか、かつてないほどに真実であることを示唆する。リベラルは、「極右」と「極左」は似ていると好んで指摘する。ヒトラーの恐怖政治と死の収容所は、ボルシェヴィキの恐怖政治とガラーグを模していた。レーニン主義の党の形態は今日もアルカイダで生きつづけている。なるほど。しかし、そこに何の意味があるというのか?」」(p. 126) 極右と極左の接近 「「二〇世紀のイスラム教」とは、反コミュニズム的性質のマルクス主義、イスラム教徒の抽象的な狂信性の世俗化であることは、周知のとおりだ。反ユダヤ主義の歴史を研究するリベラルな学者ピエール=アンドレ・タギエフは、この性質を逆転してみせた――イスラム教とは、コミュニズム衰退後にその暴力的なアンチ資本主義を引き継いだ「二十一世紀のマルクス主義」である、と。失敗した革命の穴をファシズムが埋めるというベンヤミンの考えを念頭に置けば、マルクス主義者には、この倒置の「合理的核心」は容易に受け入れられる。」(p. 128) |
「リベラリズムとラディカルな左派のちがいは、両者が同じ三つの要素(リベラル中道派、ポピュリスト右派、ラディカル左派)を参照にしながら極端に異なる位置づけをすることに表れている。リベラル中道派にとって、ラディカル左派と右派は同じ「全体主義」過激派にすぎない。左派に唯一残された真の選択肢は、自身とリベラル主流派の中間であり、「ラディカルな」ポピュリスト右派とは左派の脅威に対処できないリベラリズムの症候にほかならない。」(p. 130) リベラリズムか原理主義か 「シニカルな人はラカンのいうところの〈さまよえるだまされない者〉なのだ。彼らは幻想の象徴的効用を、幻想が社会の現実を生みだす活動を左右することを、理解していない。シニシズムの見解は大衆の知恵である。典型的なシニックなら、さしずめ声をひそめて耳打ちするところだ。「わからないか? 世の中[金、力、セックス……]だってことよ。ごりっぱな主義だの価値観だのは、無意味なカラ文句にすぎない」。」(p. 135) 「現在も進行中の金融危機は、人間の行動を決めるユートピア的発想がいかに抜きがたい者かを示している。アラン・バディウは簡潔にこう記した。
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第1部 コミュニズム仮説 「コミュニズムを「統制的理念」として、したがって「倫理的社会主義」の亡霊をよむがえらせるものと見なし、「平等」をアプリオリな規範または公理であると考えてはならない。むしろわれわれは、コミュニズムの必要性を呼びおこすような、実社会の一連の敵対性を正確に参照していくべきなのだ。マルクス主義コミュニズムの概念は、理想としてではなく、そのような敵対性に立ち向かう運動と捉えれば、いまでも充分に有意義である。(p. 148) 革命の主体の不在 歴史の裂け目で起こる革命 革命の契機となる敵対性 |
最後の特徴――〈包摂される者〉から〈排除される者〉を分けているギャップ――は、前の三つと質的に異なる。前の三つはハートとネグリが「コモンズ」と呼ぶもの、社会的存在であるわれわれが共有すべき実体の別の側面を表したものだ。これを私有化することは暴力行為に等しく、いざとなればやはり暴力をもってしてでも抵抗しなければならない。 世界の終りへの歩み 「今日の終末思想には、少なくとも四つのバージョンがある。
……今後の課題は、キリスト教原理主義を非宗教エコロジズムに接近させ、絶滅の脅威をラディカルで開放的な再生への契機とすることだ。」(p. 158) |
第9章 社会主義かコミュニズムか? 「コミュニズムは社会主義と対立しており、平等主義の集団のかわりに有機的なコミュニティを提示する(ナチズムは国家社会主義であって、国家コミュニズムではなかった)。社会主義で反ユダヤ主義はありそうだが、コミュニズムで反ユダヤ主義はあり得ない(スターリン政権の晩年のように、あるように見えるとしても、それは革命への忠節を欠いたことを示しているにすぎない)。 包摂と排除の敵対 「四つの敵対性のなかで、この〈包摂される者〉と〈排除される者〉との敵対はきわめて重要である。この視点なしには、ほかの三つとも転覆力を失い、エコロジーは「持続可能な開発の問題」。知的所有権は「複雑な法的問題」、遺伝子工学は「倫理的問題」と化してしまう。」(p. 165) 「はじめの三つと第四の敵対性とでは、もうひとつ重要なちがいがある。前者は(経済的、人類学的、物理的な)人類の生存の問題であるが、後者はとどのつまり正義の問題なのだ」(p. 166)
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「はじめの三つでは、行為者から物質的な内容を奪いとる。四つめでは、公式の事実として社会的・政治的空間から一定の人物を排除する。この3+1の構造は強調しておくべきだろう。人間集団内の主体と実体(実質なき人間という実体)間の外的緊張の表われである。人間集団内には、実質なき主体性というプロレタリアートの立場を直接に体現している主体がいる。だからコミュニストは、「外的」問題を解決する(疎外された実体を再充当する)ためには内的主体の(社会的)関係を根本から変えるしかないと確信しているのだ。」(p. 167) 「〈排除される者〉が社会的・政治的空間に侵入してくることを、われわれは古代ギリシャ以来こう呼んでいる――民主主義と。 不可視なるものは何か 新たな包摂の形態 |
第10章 「理性の公的使用」 歴史を進歩させる力 「オバマの勝利がこんな熱狂をもたらしたのは、苦難を乗り越え実現したからというより、このようなことが実現可能だと証明したからである。あらゆる大きな歴史の裂け目に同じことが言える。ベルリンの壁崩壊を思い出すといい。コミュニズム政体の無能さはつとに有名だったものの、まさか解体されてしまうとは誰も「本気で信じ」てはいなかった。…… 「政治的自己浄化」する大統領 新しい言葉へ 「オバマの勝利は、カント的な意味の歴史の三つの兆し――記憶再帰、示唆性、予言性の兆しだった。遠い過去の奴隷制とそれを廃止するための闘争の記憶がくり返される兆し。いまここの変革を示す出来事。未来に達成されることへの希望。この勝利が全世界に同じ普遍的熱狂を生みだして、ベルリンからリオデジャネイロまでの街灯で民衆を踊らせたのも無理はない。」(p. 185) |
第11章 ハイチにて
ヨーロッパ啓蒙主義とハイチ革命 白人の自虐的罪悪感 移民排斥の論理 |
イスラム世界の「コミュニズム的」反乱 ハイチ革命の失敗
「歴史上くり返される問題がここでも再発している。ハイチ革命がその後(独立宣言後、皇帝ジャック一世トナッタデサリーヌの死後)新たな形態のヒエラルキー支配へ逆行したことは、近代革命を特徴づける一連の反転のひとつだ。すなわち、ジャコバン党からナポレオンへ、十月革命からスターリンへ、毛沢東の文化大革命から鄧小平の資本主義へと。 コミュニズムの不変の要素 「自らを国家から差し引き、その領域外に「解放区」を生みだすプロセスは、資本家に専有されてきた。このグローバル資本主義の論理の最たるものが、いわゆる「経済特区」だ。たいがい第三世界で、海外からの投資を増やすために国家基準より自由な経済法規をもつ(たとえば、低い関税率、資本の自由な流通、労働組合の制限もしくは禁止、最低労働時間なし、などを可能にする)地域である。 |
資本主義の例外性 「われわれの出発点は、抵抗/差し引きの論理だった。コミュニズムはときおり爆発を起こしながら、永遠に持続する〈大文字の概念〉であるが、たとえばもし文化大革命が示しているのが、一党独裁制の疲弊のみならず、解放をめざす平等主義の企てが爆発し、状況の「正常化」へ反転するプロセスが完了したことなのだとしたら? ここで一連の出来事は、もっぱら敵に改革のダイナミズムの支配権を握られたがために、終了している。「器官なき部位」の立場からの〈体制〉打倒という名のゲームはもうできない。なぜなら今〈大文字の体制〉はこれから永久に自らを転覆し続けるのだから。」(p. 212) 「差し引き」による革命 プロレタリア独裁をわれらに! 「「プロレタリア独裁」は一種の(必然的な)矛盾語法であり、プロレタリアートが支配階級になった国家形態ではない、ということだ。ここで扱う「プロレタリア独裁」は国家自体が大きく変容する国民参加の新しい形態のみである。それゆえに……この[スターリン主義の最盛期の]社会主義体制が「人民民主主義」と呼ばれた事実は、単なる偽善ではすまされない。あれはたしかに「プロレタリアートによる独裁」ではなかった。」(p. 217) |
第13章 アジア的価値を持つ資本主義
「このシンガポールの指導者[リークアンユー]が、いわゆる「アジア的価値観をもつ資本主義」を創出し実現したのである。こうした独裁的な資本主義のウイルスは、ゆっくりと、だが確実に地球上に広がっている。 現代中国の資本主義 「もちろん、ここでは資本主義の進歩のために民主主義を放棄せよと言いたいのではなく、議会制民主主義の限界を直視すべきだということだ。ノーム・チョムスキーがその限界をみごとに言い表している。「国民参加という脅威を克服してはじめて、民主制についてじっくり検討することができる(Noam Chomsky, Necessary Illusions, Cambridge, South End Press 1999, p. 69.)」。チョムスキーはそこに、議会制民主主義を民衆の直接政治の自己組織化とは相容れないものにしている、「受身化」の核心を認めたのだった。」(p. 220) 「合意の捏造」による民主主義 「彼[リップマン]はプラトンと同様に、大衆を「局所的な意見の混沌」のなかであがく一匹の巨大な獣か、迷える獣の群れとみなしていた。だから市民の群れは「地域の利害を超えた関心をもつ特殊な階級(W・リップマン/掛川トミ子・訳『世論』上・下、岩波文庫、一九八七年)」によって統制されなければならない。このエリート階級は民主主義の最大の欠点をカバーする知識機関であり、「全能の市民」という信じがたい理想の働きをする。」(p. 221) 「トロツキーの議会制民主主義に対する避難は大筋で正しかった。すなわち、この制度は教育のない大衆に力を与えすぎることなく、むしろ大衆を受身化して、国家権力機構の支配にゆだねるものだ(L・トロツキー/根岸隆夫・訳『テロリズムと共産主義 トロツキー選集 第12巻』、現代思潮社、一九六二年)」(p. 222) 「代表制民主主義はその概念からして民衆の〈意志〉の受身化を伴い、意志しないことに変えてしまう。民衆は自らの意志を代表する媒介者へ意志する意欲まで譲渡してしまうのだ。」(p. 223)
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第14章 利潤から超過利潤へ 非物質的労働の時代 「ネグリがここで厳密に述べていることに注意したい。資本を「廃する」ではなく、資本に共有財[コモンズ]の重要さを理解するよう「強制」すると言っている。つまり、資本主義の内側にとどまったままなのだ。ユートピア的発想というものがあるとすれば、これがそうにちがいない。」(p. 232) ポストモダン資本主義の出現 「マルクスは「一般知性」の社会的側面を無視したので、「一般知性」自体が私有化される可能性を予見できなかった。そして、これこそ「知的所有権」を巡る争いの中心にあるものである。ネグリはこの点で正しい。この枠組みのなかでは古典的マルクス主義理論で言う搾取はもはや存在し得ないのだから、直接の法的措置という非経済的手段によって搾取がおこなわれることになる。」(p. 230) 「おそらくここに今日の「ポストモダン」資本主義の根本的な「矛盾」がある。理論上は規制緩和や、「反国家」、ノマド的、脱領土化を志向しながらも、「生成する超過利潤」を引き出すという重要な傾向は、国家の役割が強化されることを示唆し、国家の統制機能はこれまで以上にあまねく行きわたっている。活発な脱領土化と、ますます権威主義化していく国家や法的機関の介入とが共存し、依存しあっている。」(p. 230) そして利潤から超過利潤へ |
「生産過程の三要素――知的計画とマーケティング、物的生産、物的資源の供給—派、独自化の傾向を強め、各領域に分かれつつある。この分離が社会に影響した結果、現在の先進国に「三つの主要な階級」が出現している。正確には三つの階級ではなく労働者が階級が三分割されたものだ。知的労働者、昔ながらの手工業者、社会からの追放者(失業者、スラムなどの公共空間の空隙の住人)である。
コミュニズムへの期待 「プロジェクトの時間」へ |
特権的知識より信じること 「われわれこそ、われわれが待ち望んでいた存在である」 コミュニズムへの回帰を! (2010/8/25)
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