ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <書 抜き書きメモ5>

スラヴォイ・ジジェク
『ポストモダンの共産主義』
栗原百代訳、筑摩書房,2010年

序 最初の十年の教訓

「一九九〇年代にフクヤマが示したユートピアは二度死ななければならなかったようだ。9・11によって、リベラル民主主義の政治ユートピアは崩壊したが、グローバル市場資本主義の経済ユートピアは揺るぎはしなかった。二〇〇八年の金融大崩壊に歴史的な意味があるとすれば、それはフクヤマが夢見た経済ユートピアの終焉のしるしであるということだ。」(p. 14)

「現代のありようをつかもうとして、「ポストモダン社会」「リスク社会」「情報化社会」「脱工業化社会」等々、次から次へと新語をひねり出す人ほど、ほんとうに新しいことの輪郭を見逃してしまいがちなものだ。新しき者の真の新しさを捉える唯一の方法とは、古きものの「永遠の」レンズを通して世界を見ることだ。実際コミュニズムが「永遠の」しそうであるのならば、それはヘーゲル哲学における〈具体的普遍性〉として機能する。」(p. 16)


第1部  肝心なのはイデオロギーなんだよ、まぬけ!

第1章 資本主義的社会主義?

反アメリカ的緊急援助策
二〇〇八年の金融大崩壊への緊急援助策
『この巨額な緊急援助は何の解決のもならない。これは財政社会主義であり、反アメリカ的である。』(ジム・バニング共和党上院議員)(p. 26)
「共和党の緊急援助策への反対のしかたは階級闘争の様相を呈していた。つまり、ウォール街と目抜き通りとの闘争だ。なぜこの危機を招いた責任のあるウォール街の金持ちを助け、住宅ローンをかかえた目抜き通りの普通の人たちに犠牲を払うよう、求めねばならないのか?……
……マイケル・ムーアがこの緊急援助策を世紀の強盗事件であると避難する意見広告を出したのも無理はない。
この左派と共和党保守主義者との見解の意外な一致点は、考察に値する。」(p. 27)

「では、緊急援助策は本当に「社会主義」的な政策であり、ついにアメリカに社会主義国家が誕生したことを意味しているのか? もしそうなら、きわめて特殊な形態である。「社会主義」政策の第一の目的が、貧しい者ではなく富める者、債務者ではなく債権者を助けることになってしまうからだ。金融システムの「社会主義化」が資本主義を救うために役立つのならば認められるというのは、究極の皮肉である。社会主義は悪──のはずだが、ただし、資本主義の安定に資する場合にかぎり悪ではないと言うことだ(現代中国との対称性に注目を。中国共産党は同じように、「社会主義」体制を強化するために資本主義を利用している)。」(p. 28)

「一九九〇年代にフクヤマが示したユートピアは二度死ななければならなかったようだ。9・11によって、リベラル民主主義の政治ユートピアは崩壊したが、グローバル市場資本主義の経済ユートピアは揺るぎはしなかった。二〇〇八年の金融大崩壊に歴史的な意味があるとすれば、それはフクヤマが夢見た経済ユートピアの終焉のしるしであるということだ。」

「現代のありようをつかもうとして、「ポストモダン社会」「リスク社会」「情報化社会」「脱工業化社会」等々、次から次へと新語をひねり出す人ほど、ほんとうに新しいことの輪郭を見逃してしまいがちなものだ。新しき者の真の新しさを捉える唯一の方法とは、古きものの「永遠の」レンズを通して世界を見ることだ。実際コミュニズムが「永遠の」しそうであるのならば、それはヘーゲル哲学における〈具体的普遍性〉として機能する。」(p. 16)

資本主義の本質的パラドックス
「だが、もし「モラルハザード」が資本主義の本質そのものであったとしたらどうだ? つまり両者は不即不離の関係にある。資本主義の体制下では、目抜き通りの人々の幸福はウォール街の繁栄にかかっている。だか、緊急援助に反対する共和党のポピュリストが正しい理由から謝ったことをしている一方で、緊急援助の発案者は謝った理由から正しいことをしているのだ。もっと凝った用語を使えば、これは「非推移的関係」なのである。」(p. 29)

グローバル資本主義の現実
「じつは進行中の危機の最大の犠牲者は、資本主義ではなく左派なのかもしれない。またしても世界的に実行可能な代案を示せないことが、誰の目にも明らかになったのだから。そう、窮地に陥ったのは左派だ。」 (p. 34)


第2章 ショック療法としての危機

「現在の金融および経済危機によって、ラディカルな左派の登場する余地が切り開かれるなどという左派の無邪気な期待は、まちがいなく危険なほどに近視眼的だ。まず最初に生じる危機の影響は、急進的な解放をめざす政治が台頭することではない。むしろ人種差別的なポピュリズムがわき上がり、さらなる戦争が勃発し、第三世界の最貧国の困窮が深まって、あらゆる社会で富裕層と貧困層の格差が大きくなるだろう。」(p. 36)

構造改革という詭弁
「現在の危機における支配的イデオロギーの中心課題は、経済崩壊の責任をグローバル資本主義システムそのものに帰すのではなく、二次的、偶発的なシステムからの逸脱(あまりに手ぬるい法規制、巨大金融機関の腐敗など)のせいだと言いつのることだ。〈現実の存在した社会主義〉の時代に、社会主義に賛同したイデオロギー主導者がこの思想を守ろうとして、「人民民主主義」の失敗は社会主義のまがいものだったからであり、始祖維持体の失敗ではないと主張したのと同様だ。」(p. 39)


第3章 敵性プロパガンダの構造

階級闘争のパラドックス
「二〇〇九年六月のヨーロッパの選挙では有権者がこぞって、ネオコン(新保守主義)リベラルの政治を指示した。いまなおつづく危機をもたらした、まさにその政治をだ。まったく、人民が自分の首を絞めるとわかっているときに直接の弾圧など無用ではないか。」(p. 62)

合法と無軌道の境目
「過去数ヶ月にわたり、ローマ教皇はじめとした著名人たちが、過剰な欲望と過剰な消費の文化と闘えとの命令をいっせいに発してきた。この胸が悪くなる安っぽい説教ショーこそ、イデオロギーの操作にほかならない。資本主義システム自体がはらむ(拡大への)強制力が個人の罪の問題、その人だけの心理傾向にすり替えられてしまっている。そうして、〈大文字の資本〉の自己推進的な循環は、これまで以上に人間の生活の究極の〈大文字の現実〉、文字通りの制御不能の野獣であり続ける。」(p. 67)

第4章 人間的な、あまりに人間的な

「現代はことあるごとにポスト・イデオロギーの時代であることを標榜しているが、このイデオロギーの否定こそ、われわれがかつてないほどイデオロギーに組み入れられていることの決定的証拠である。イデオロギーはつねに格闘の場――とりわけ過去の伝統を現在に帰属させる闘いの場だ。」(p. 68)

「資本主義と民主主義を当然のように結びつける者は事実をごまかしている。それはカトリック教会が自らを全体主義の脅威に対抗し、「元来から」民主主義と人権を擁護する者であったかのように見せかけるのと同じごまかしだ。実際に彼らは、十九世紀の末にようやく民主主義を受け入れた。しかも、そのときも耐えがたい妥協に歯ぎしりをしつつ、君主制のほうが好ましい、時代の変化にやむなく譲歩するだけだ、と明言したのである。」(p. 70)

イデオロギーの人間化
「イデオロギー批判のひとつの方法として、この「精神生活」と「偽りなき」感情の欺瞞をあばく戦略を生みだすことである。内面からの生活経験や、自分がしていることを説明するために自分に言い聞かせる物語は、まやかしなのだ。……ナチの処刑人について真に耐えがたいのは、その恐るべき所業ゆえというよりむしろ、それをする彼らが「人間的な、あまりに人間的な」存在でありつづけた。」(p. 72)

苦悩するヒーロー
「現実の世界でこの人間化のプロセスが頂点を極めたのは、最近の北朝鮮による発表だ。敬愛すべき金正日主席が同国初のゴルフ場のこけら落としで、十八ホールを十九打という抜群のスコアでまわったという。プロパガンダ官吏が考えた過程が手に取るように分かる――金主席が全ホールをホールインワンしたというのは、誰も信じないだろう。信憑性をもたせるために、個々は一歩譲って。一ホールだけ二打を要したことにしよう……。」(p. 78)

毒のある〈隣人〉
「何よりも毒性が高いのは〈隣人〉という存在、その欲望とみだらな快楽の深淵である。したがって、人間関係を支配するあらゆる法則の究極の目的は、この毒性を隔離もしくは中和して〈隣人〉を同胞に転じることだ。(他者という、もうひとつの)主体にあるかもしれない毒性をさがすだけでは不十分だ。自己という主体自体が、その内部の〈大文字の他者〉という深淵に毒性をたたえているのだから。」(p. 82)

 

「ジョルジュ・アガンベンの「例外状態」論を皮肉まじりに首肯するかのように、二〇〇八年七月、イタリア政府は国家の非常事態宣言を発して、現代のパラダイムにおける〈隣人〉の問題に対処しようとした。北アフリカと東ヨーロッパからの不法移民の問題である。
八月のはじめにはこの方向での意思表示をさらに進め、四〇〇〇人の武装兵を大都市の要注意スポット(鉄道駅、商業中心地など)に配備し、治安レベルを高めた。女性を暴行犯から守るために軍隊を投入する新計画もある。ここで指摘すべき重要な点は、この非常事態宣言が、何ら大事件が起きてもいないのに敷かれたことだ。いつもどおりに、人生はつづくというのに……。
」(p. 82)

「現代の各国政府の「移民の脅威」対策でも同じ態度がとられているのではないだろうか。ポピュリストの人種差別主義は「理性的でない」し、民主主義の規範にそぐわないとして正しく退けたのちに、「理性ある」人種差別的保護政策を支持するのだ。」(p. 85)

道化の仮面の下には
「同様の例でわたしが気に入っているのは、理論物理学者ニールス・ボーアの逸話である。ボーアの田舎家を訪れた同業者が、玄関に馬蹄が打ち付けてあるのを見て、馬蹄が邪気を払うなどという迷信をまさか信じてはいないだろうね、と叫ぶと、ボーアは間髪いれずに答えた。「ぼくも信じていないよ。たとえ信じていなくても効果があると聞いたから、こうしているんだ。」これこそ今日のイデオロギーの機能のありようである。
誰も民主主義や正義を真剣に受け止めてはおらず、誰もがこれらの腐敗した本質に気づいてはいるが、それでもそこに参加し、信じていると表明する。なぜなら、たとえ信じていなくても効力があると想定しているからだ。」(p. 89)


第5章 資本主義の「新たな精神」

「ボルタンスキーとチアペッロは、本家マックス・ウェーバーの方法を踏襲して、資本主義の三つの連続した「精神」を区分する。
第一期では、起業家の精神が、一九三〇年代の大恐慌時代までつづいた。
第二期では、起業家ではなく、大企業から給与をもらう立場の取締役こそ理想とされた(ここには、かの有名な個人主義プロテスタンティズムの倫理による資本主義から「組織人」による企業経営の資本主義への移行との相似が容易に見いだせる)。
そして第三期となる一九七〇年代以降には、新たな形態が出現した。資本主義は生産工程におけるフォーディズム的な階層構造を廃していき、代わりに、職場の従業員の主導と自主性のもとに築かれた、ネットワーク型の組織形態を発展させた。」(p. 91)

「このポスト六八年の資本主義精神が具体的な経済・社会・文化の統合をもたらしている限りにおいて、その統合こそが「ポストモダニズム」の呼称を正当なものとする。新しいイデオロギー形態としてのポストモダニズムに対してはもっともな批判が多かったものの、ジャン=フランソワ・リオタールが著書『ポスト・モダンの条件――知・社会・言語ゲーム』で、この語をただの阿tらしい芸術傾向(とりわけ文学と建築の)から新時代を画するものへ格上げしたとき、それはまさに真正の任命行為であったと認めるべきなのだ。
」(p. 92)

「文化資本主義」の精神
「これ[スターバックスの「エトス・ウォーター」プロジェクトの説明]こそ資本主義が、消費レベルにおいて六八年精神の遺産、疎外される消費への批判を、まとめた成果である。肝心なのは本物の経験だ。……いったい誰が、腐りかけた高値すぎる「オーガニック」りんごのほうが非オーガニック種よりも健康にいいと本気で信じているというのか。要するに、それを買うことで、ただ買って消費するだけでなく、同時に有意義なことをし、思いやりとグローバル意識の高さを示し、共同プロジェクトに参加しているというわけだ。
」(p. 96)

デジタル資本主義へ
「資本主義の新たな精神に呼応してか、社会主義が保守的、序列的、管理的に見えるようイデオロギー・歴史の物語全体が構築される。すると六八年の教訓は「さらば社会主義」ということであって、真の革命とはデジタル資本主義である。このこと自体が、六八年の反乱の当然の帰結にして「真実」なのだ。もっと過激に表現すれば、六八年の一連の出来事は「パラダイム・シフト」の格好の例として銘記される。」(p. 98)

一九六八年――反乱のイデオロギー
「イデオロギー的には――ここが重要なポイントだ――この[デジタル資本主義への]移行は、一九六〇年代の反乱(六八年パリの五月革命からドイツの学生運動、アメリカのヒッピーに至るまで)の反動として起きた。六〇年代の抗議運動は、資本主義に対して、お決まりの社会・経済的搾取批判に新たに文化的な批判をつけ加えていた。日常生活における疎外、消費の商業化、「仮面をかぶって生きる」ことを強いられ、性的その他の抑圧にさらされる大衆社会のいかがわしさ、などだ。
資本主義の新たな精神は、一九六八年の平等主義かつ反ヒエラルキー文言を昂然と復活させ、法人資本主義と〈現実に存在する社会主義〉の両者に共通する抑圧的な社会組織というものに対し、勝利をおさめるリバタリアンの反乱として出現した。しゃかい
誰も民主主義や正義を真剣に受け止めてはおらず、誰もがこれらの腐敗した本質に気づいてはいるが、それでもそこに参加し、信じていると表明する。なぜなら、たとえ信じていなくても効力があると想定しているからだ。」(p. 89)

「一九六〇年代の性の解放を生きのびたものは、寛容な快楽主義だった。それは超自我の庇護のもとに成り立つ支配的イデオロギーにたやすく組みこまれていった。では、超自我とは何か。
最近、ニューヨークのホテルの案内書でこんな文言を読んだ。「お客様へ。ご滞在を存分にお楽しみいただくため、当ホテルは全館禁煙です。この規則に違反された場合は、罰金二〇〇ドルが科せられます。」この定式化がみごとなのは、文字どおり、滞在を存分に楽しむことを拒んだら罰せられるからだ。楽しむことを命じる超自我は、カントの定言命法「汝なすべきがゆえに、なしうる」の反転刑として機能する。「汝なしうるがゆえに、なすべし」に依拠している。」(p. 102)

「この一九七〇年代半ばの重要な時期に、残された唯一の道は、直接的で粗暴な「行為への移行」――〈現実界〉へ押しやられることだった。おもに三つの形態がとられた。まず過激な形での性的な享楽の探求。それから左派の政治的テロリズム(ドイツ赤軍派、イタリアの赤い旅団など。大衆が資本主義イデオロギーの泥沼にどっぷり浸った時代には、もはや権威あるイデオロギー批判も有効ではなく、生の〈現実界〉の直接的暴力、つまり「直接行動」に訴えるよりほかに大衆を目覚めさせる手段はないと考え、そこに賭けた)。そして最後に、精神的経験の〈現実界〉への志向(東洋の神秘主義)。これら三つに共通していたのは、直接〈現実界〉に触れる具体的な社会・政治的企てからの逃避だった。」1(p. 103)

体制に懐柔された「六八年精神」
「ジャン=クロード・ミルネールは。体制がいかにして一九六八年の脅威を払拭することに成功したか痛切に認識している。いわゆる「六八年精神」を体制側にとりこんで、反乱の精神に反するものに転じたのだ。新しい権利の要求は(真の意味で権力の再分配を意図していたろうに)認められはしたが、それは「寛容」の装いにすぎなかった。国民に許されることの範囲は広げながら、余計な権限はもたせない、まさしく「寛容社会」である。
……
六八年の五月革命が全体を統一する(そして完全に政治的な)活動をめざしたのに対し、「六八年精神」はこれを非政治的な活動もどき(新しいライフスタイルなど)にまさに社会への従順に、置き換えてしまった。……ミルネールの悲痛な結論はこれである。『許可だの支配だの平等だののことは、もう聞いてくれるな。わたしにわかるのは力だけだ。ここで問いたい。手打ちをした著名人や連帯した強者に相対して、どうしたら弱者は力をもてるというのか?』(Jean-Claude Milner, L’arrogance du present. Regards sur une decennia:1965-1975, Paris: Grasset 2009, p. 241.)」(p.104-105)

サバイバリズム原理主義
「ポピュリズムとは、つまるところ普通の人たちの憤激の叫びに支えられるものだ。「わけがわからないけど、もうたくさん! やってられない! もうやめて!」こうしたいらだちの爆発から、状況の複雑さへの理解、関与を拒んでいることが、この悲惨な現状の責任は誰かがとるべきだと確信していることが――だからつねに黒幕の存在が求められる――あらわになる。」(p. 107)

「ニーチェ哲学の用語を借りていうと、真にラディカルな解放をめざす政治とポピュリズムの政治との決定的なちがいは、前者が「能動的」で、そのビジョンを押しつけるのに対し、ポピュリズムは基本が「反動的」で、不穏な侵入者への反応に由来する。すなわちポピュリズムは、邪悪な外的要因への恐れをかき立てることで民衆を動かす、恐怖政治の一バージョンにすぎないのだ。」(p. 107)

知と権力と「選択の自由」
「「反実存主義」のフーコー信者たちが「固定化されたアイデンティティ」を不安視して、絶えず〈大文字の自己〉の管理を迫られ、ひっきりなしに自己の再発見と再創造をおこなうことは、「ポストモダン」資本主義の発達のパターンと奇妙に呼応する。むろん古き良き実存主義はとうの昔に、人は自らを創りだすものと主張し、この根源的な自由を実存的不安と結びつけていた。ここでは自由を経験する不安、堅固な決断の欠如は不変のイデオロギー世界への主体の統合が損なわれる確かな契機だった。だが実存主義が予見できなかったことは、アドルノが、ハイデッガーについての著書の題名で要約を試みている――『本来性という隠語』と。すなわち、支配的イデオロギーは、もはや固定化したアイデンティティの欠如を抑圧しないで、その欠如をまるごと使って、消費者中心主義の「自己再創造」の終わりなき過程を支えている。」(p. 112)


第6章 ふたつのフェティシズムのはざまで

「現代のいわゆる「ポストイデオロギー」の時代にあっては、イデオロギーはますます従来の「症候」モードとは反対の「フェティシズム」モードで機能する。」(p. 113)
症候モード〉
・現実らしく感じさせるイデオロギーの嘘が、「抑圧されたものの回帰」としての症候――イデオロギーの嘘という構造の裂け目――」に脅かされる。
・うわべをとりつくろった偽の見せかけをかき乱す例外であり、抑圧された「別の場面」が噴き出す点である。
・死を「抑圧」して死について考えないように努めるが、抑圧されたそのトラウマは症候のなかによみがえる。
〈フェティシズムモード〉
・ある種の症候の裏返しとなっている。
・われわれに耐えがたい真実を耐えさせる嘘の具現化である。
・死を「理性的に」完全に受け入れるが、なおかつフェティシュに、つまりこの死を否認せしめる呪物に、執着を示しもする。この点でフェティシュは、人を過酷な現実に対処させるという、しごく建設的な役割を果たすことができる。
・フェティシストは、……フェティシュに執着することで現実のもたらす衝撃をやわらげ、事実をありのままに受け入れることができる、徹底したリアリストだ。

フェティシズム、二態
「イデオロギー的神秘化においては、許容的でシニカルなフェティシズムとポピュリズム・ファシズム的フェティシズムでは、反対の性質をもつ。」(p. 115)
〈許容的シニカル・フェティシズム〉
・偽りの普遍性が伴う。主体が自由や平等を主張する一方で、この形態自体が狭量な(金持ち、男性、特定の文化に属するものなど、特定の社会階層に特権を与える)性質を内包していることに気づいていない。
・「主体が『自由と平等』と言うとき、じつは『貿易の自由、法の前の平等』などを意味している。
・明示される「よい」内容(自由、平等)が、内在する「悪い」内容(階級その他の特権および排除)を隠蔽している。
〈ポピュリズム・ファシズム的フェティシズム〉
・拮抗と敵対の性質を併せ持つ偽りの帰属意識が伴う。
・「主体が『この世の不幸のもとはユダヤ人だ』と言うとき、ほんとうは『この世の不幸のもとは巨大資本だ』と言いたい」のだ。
・明示される「悪い」内容(反ユダヤ主義)が、内在する「よい」内容(階級闘争、搾取への反感)をおおい隠してしている。

 

イデオロギーに対する四つの態度
(1)リベラル
     症候に陥っている。
     普遍的イデオロギーの主張を真剣に受け止める。 
(2)シニカル・フェティシスト
     否定する身ぶりでフェティシュにしがみついている。
     フェティシズムの否認。
(3)ポピュリズム原理主義的フェティシスト
     直接的にフェティシュにしがみついている。
     フェティシュに執着する立場と直ちに同化する。
(4)イデオロギー批判派
     解釈的な分析によって症候を突き崩している。
     イデオロギーの批判的解釈。 (p.120)

「敵の敵は味方」か?
「もしタリバンが農民の窮状を「利用して」国土の大半で封建的な土地支配のつづくパキスタンの不安をかき立てているなら、パキスタンとアメリカのリベラル民主主義者は、なぜ同様にその状況を「利用して」土地をもたない農民を助けてやらないのか? この明白な疑問がニューヨーク・タイムズの雉子で提起されていないという悲しい事実の背景には、パキスタンの地主階級はリベラル民主主義者の「当然のパートナー」というからくりがあるのだ……。」(p. 125)

「タリバンの台頭のような現象は、ヴァルター・ベンヤミンの古い命題「あらゆるファシズムの勃興は一つの革命の失敗を物語る」が、いまも真実であるばかりか、かつてないほどに真実であることを示唆する。リベラルは、「極右」と「極左」は似ていると好んで指摘する。ヒトラーの恐怖政治と死の収容所は、ボルシェヴィキの恐怖政治とガラーグを模していた。レーニン主義の党の形態は今日もアルカイダで生きつづけている。なるほど。しかし、そこに何の意味があるというのか?」」(p. 126)

極右と極左の接近
「さらには(誰あろう)フランシス・フクヤマや=アンリ・レヴィが提起した「イスラム・ファシズム」や「ファシズム・イスラミズム」という表現は正当と認められるだろうか? これらが問題なのは宗教的性質のせいだけでなく(だったら西欧の形態も「クリスチャン・ファシズム」と呼べばよいのではないか? ファシズムと言えば充分で、宗教によって資格を与える必要などない)、まさに現代のイスラム「原理主義」運動および国家を正面から「ファシズム」と名指すことだからだ。これらの運動と国家には(多かれ少なかれ明らかに)反ユダヤ主義が存在し、アラブ・ナショナリズムとヨーロッパ・ファシズムとナチズムが歴史的につながることは事実だろう。だがイスラム原理主義における反ユダヤ主義は、ヨーロッパのファシズムと同じ役割を果たしてはいない。ヨーロッパでは、ユダヤ人という外からの侵入者が(かつての)「調和のとれた」社会を乱している点を強調していた。」(p. 128)

「「二〇世紀のイスラム教」とは、反コミュニズム的性質のマルクス主義、イスラム教徒の抽象的な狂信性の世俗化であることは、周知のとおりだ。反ユダヤ主義の歴史を研究するリベラルな学者ピエール=アンドレ・タギエフは、この性質を逆転してみせた――イスラム教とは、コミュニズム衰退後にその暴力的なアンチ資本主義を引き継いだ「二十一世紀のマルクス主義」である、と。失敗した革命の穴をファシズムが埋めるというベンヤミンの考えを念頭に置けば、マルクス主義者には、この倒置の「合理的核心」は容易に受け入れられる。」(p. 128)

「リベラリズムとラディカルな左派のちがいは、両者が同じ三つの要素(リベラル中道派、ポピュリスト右派、ラディカル左派)を参照にしながら極端に異なる位置づけをすることに表れている。リベラル中道派にとって、ラディカル左派と右派は同じ「全体主義」過激派にすぎない。左派に唯一残された真の選択肢は、自身とリベラル主流派の中間であり、「ラディカルな」ポピュリスト右派とは左派の脅威に対処できないリベラリズムの症候にほかならない。」(p. 130)

リベラリズムか原理主義か
「リベラリズムの本質的価値――自由、平等など――は、どこにあるのか? 逆説めくが、リベラリズム自体はその本質的価値を原理主義の激しい攻撃から救えるほど強くはない。問題はリベラリズムだけでは自立できないことだ。リベラリズムの体系には何かが欠けている。リベラリズムはその概念からして「寄生的」なのであり、発展過程で自らが損なう共同体の前提になっている価値体系に依存しているのだ。
原理主義はリベラリズムに内在する真の欠陥への反動――もちろん誤った、ごまかしの反動――であり、くり返しになるが、だから原理主義はリベラリズムから生みだされる。それを切り離してリベラリズムだけにしてしまえば、ゆっくり崩壊へ向かうだろう。その本質的価値を救えるのは、復活した左派だけだ。あるいは、よく知られた一九六八年の用語でこう言えばいいか。リベラリズムがその重要な遺産を生き延びさせるためには、ラディカルな左派の同志愛による助けが必要となるだろう。(p. 132)


第7章 コミュニズムよ、もう一度!

「シニカルな人はラカンのいうところの〈さまよえるだまされない者〉なのだ。彼らは幻想の象徴的効用を、幻想が社会の現実を生みだす活動を左右することを、理解していない。シニシズムの見解は大衆の知恵である。典型的なシニックなら、さしずめ声をひそめて耳打ちするところだ。「わからないか? 世の中[金、力、セックス……]だってことよ。ごりっぱな主義だの価値観だのは、無意味なカラ文句にすぎない」。」(p. 135)

「現在も進行中の金融危機は、人間の行動を決めるユートピア的発想がいかに抜きがたい者かを示している。アラン・バディウは簡潔にこう記した。
『一般市民は「理解」しないといけないのだろうか? 社会保障の不足を埋め合わせることはできないが、銀行があけた莫大な金額の損失の穴を埋めることは必須であると。厳粛に受け入れねばならないのか? 競争に追われ、何千人もの労働者を雇う工場を国有化できるなどと、もはや誰も想像しないのに、投機ですっからかんになった銀行を国有化すのは当然のことだと。』(Alain Badiou, “De quell reel cetre crise est-ellelespectacle?” Le Monde, October 17, 2008.)」(p. 137)

〈大文字の資本〉が支配するグローバル資本主義
「この金融崩壊が、グローバル資本主義の露骨な不合理さを浮きぼりにした。アメリカ一国だけで金融機関の安定のために七〇〇〇億ドルを費やしたのに対し、いま現在、食糧危機に直面する貧しい国の開発援助に豊かな国から与えられた金額は二二〇億ドルにすぎず、そのうちこれまでに融通されたのは、たった二二億ドルである。」(p. 139)


第1部  コミュニズム仮説

第8章 新時代の共有地囲い込み
(エンクロージャー)

「コミュニズムを「統制的理念」として、したがって「倫理的社会主義」の亡霊をよむがえらせるものと見なし、「平等」をアプリオリな規範または公理であると考えてはならない。むしろわれわれは、コミュニズムの必要性を呼びおこすような、実社会の一連の敵対性を正確に参照していくべきなのだ。マルクス主義コミュニズムの概念は、理想としてではなく、そのような敵対性に立ち向かう運動と捉えれば、いまでも充分に有意義である。(p. 148)

革命の主体の不在
「西洋マルクス主義の決定的な大問題は革命の主体または行為者を欠いたことだった。なぜ労働者階級は即自から対自への移行を果たさず、革命の行為者とならないのだろうか? この問題こそ、精神分析が参照された大きな動機だった。というのも精神分析こそ、階級意識の発生を妨げていた無意識のリビドー的メカニズム、労働者階級という存在そのもの(の社会状況)に刻みこまれたメカニズムを説明するものだからだ。それによって、マルクス主義による社会経済分析の真実を救いだすことができ、「歴史修正主義」の中流階級の台頭説になど屈する必要もなくなる。」(p. 150)

歴史の裂け目で起こる革命
「革命家は辛抱強くその(たいがいごく短い)瞬間を待たねばならない。体制が明らかに機能不全を起こすか崩壊する好期をそろえ、そのとき、いわば野に下っている権力を握り、権力を固めて、弾圧機関を築きあげるのだ。そうこうするうち混乱がおさまって、目が覚めた国民の大多数がその新しい体制にただ失望したときには、もうあと戻りはできない。
コミュニズム国家だった元ユーゴスラヴィアが典型例だ。」(p. 152)

革命の契機となる敵対性
「歴史的現実のなかに、この[コミュニズムの大文字の]〈概念〉を実践に写すよう強く働きかける敵対性の存在を位置づけなければならない。……
そのような敵性は四つある。①迫りくる環境破壊の狂気。②いわゆる「知的所有権」に関連した知的財産についての不適切な考え。③とりわけ遺伝子工学などの新しい科学テクノロジーの発展にまつわる社会・倫理的な意味。……④新しい形態のアパルトヘイト=新しい〈壁〉とスラム。

最後の特徴――〈包摂される者〉から〈排除される者〉を分けているギャップ――は、前の三つと質的に異なる。前の三つはハートとネグリが「コモンズ」と呼ぶもの、社会的存在であるわれわれが共有すべき実体の別の側面を表したものだ。これを私有化することは暴力行為に等しく、いざとなればやはり暴力をもってしてでも抵抗しなければならない。
」(p. 154)

世界の終りへの歩み
「プロレタリアート化の三つのプロセス――環境破壊、遺伝子操作による人間の機械化、生活の完全デジタル支配――がどのように世界の終点へ向かうかは陽に見てとれる。これら三つのレベルでの状況はゼロ地点へ近づいている。「終わりの時は近い」。……
[エド・]エアーズは地理的および生物学的レベルで四つの「突出」(加速度的発展)を挙げる。量的な拡大が限界に達し、質的な変化がはじまるゼロ地点に限りなく近づいている四つの「突出」は、人口増加、有限物質の消費、炭素ガス排出、種の大量絶滅である。こうした危機に対処するため、支配イデオロギーは無知を決めこむことも含め、空とぼけと自己欺瞞のメカニズムを稼働させる。「危機に瀕した人間社会によく見られる行動パターンは、危機に目を向けられなくて、むしろ目をつぶることだ」(Ed Ayres, “Why are we not astonished” World Watch, vol. 12, May 1999.)」(p. 157)

「今日の終末思想には、少なくとも四つのバージョンがある。

  1. キリスト教原理主義――終末論のもとである黙示録を聖書の字義どおりに読む。つまり、現代世界にキリストと反キリストの最終戦争が迫っている兆しをさがす(そして見つける)。
  2. ニューエイジ精神世界――「ポスト・ヒューマン」への変成にさらにひねりを加え、これを「宇宙意識」へのモード移行(たいがい現代的な二元論・機械論から全体性への没入にいたる移行)と捉えている。
  3. テクノデジタルなポスト・ヒューマニズム――まだ科学的自然主義の枠内にとどまっており、人類の進化に「ポスト・ヒューマン」への変成の輪郭を認める。
  4.  非宗教エコロジズム――ポスト・ヒューマニズムと自然主義のスタンスを共有しながらも……、近づきつつある「終着点」の先で待っているのは「ポスト・ヒューマン」レベルへの進化などではない、人類の自滅という災厄だというのである。

……今後の課題は、キリスト教原理主義を非宗教エコロジズムに接近させ、絶滅の脅威をラディカルで開放的な再生への契機とすることだ。」(p. 158)

第9章 社会主義かコミュニズムか?

「コミュニズムは社会主義と対立しており、平等主義の集団のかわりに有機的なコミュニティを提示する(ナチズムは国家社会主義であって、国家コミュニズムではなかった)。社会主義で反ユダヤ主義はありそうだが、コミュニズムで反ユダヤ主義はあり得ない(スターリン政権の晩年のように、あるように見えるとしても、それは革命への忠節を欠いたことを示しているにすぎない)。
……社会主義では、四つの敵対性のうちはじめの三つを解消したいのだ――四つめ、つまりプロレタリアート単独の連帯には取り組まない。」(p. 160)

包摂と排除の敵対
「コミュニズムの思想に忠実であるには、……資本主義批判を「道具的理性」や「近代技術文明」批判に読み替えてしまう口先だけの一般化をはねつけることだ。これが、〈包摂される者〉から〈排除される者〉を分けているギャップという第四の敵対性と、ほかの三つとの質的差異にこだわるべき理由である。こうした〈排除される者〉への言及のみがコミュニズムという語を用いることを正当化する。」(p. 164)

「四つの敵対性のなかで、この〈包摂される者〉と〈排除される者〉との敵対はきわめて重要である。この視点なしには、ほかの三つとも転覆力を失い、エコロジーは「持続可能な開発の問題」。知的所有権は「複雑な法的問題」、遺伝子工学は「倫理的問題」と化してしまう。」(p. 165)

「はじめの三つと第四の敵対性とでは、もうひとつ重要なちがいがある。前者は(経済的、人類学的、物理的な)人類の生存の問題であるが、後者はとどのつまり正義の問題なのだ」(p. 166)

 

「はじめの三つでは、行為者から物質的な内容を奪いとる。四つめでは、公式の事実として社会的・政治的空間から一定の人物を排除する。この3+1の構造は強調しておくべきだろう。人間集団内の主体と実体(実質なき人間という実体)間の外的緊張の表われである。人間集団内には、実質なき主体性というプロレタリアートの立場を直接に体現している主体がいる。だからコミュニストは、「外的」問題を解決する(疎外された実体を再充当する)ためには内的主体の(社会的)関係を根本から変えるしかないと確信しているのだ。」(p. 167)

「〈排除される者〉が社会的・政治的空間に侵入してくることを、われわれは古代ギリシャ以来こう呼んでいる――民主主義と。
今日、疑問とされるのは、民主主義はいまもこの平等主義の爆発にふさわしい名前かということだ。ここでは立場が両極端に分かれている。一方は、民主主義は幻影にすぎず、現実は逆で階級支配なのだと斬って捨てる立場。もう一方は、既存の民主主義は真の民主主義が歪められたものにすぎないとの主張だ。」(p. 167)

不可視なるものは何か
「「排除されたもの」はもちろん可視であるが、皮肉にも、排除された状態こそが包摂モードであるという意味で可視なのだ。つまりそれらが社会的身体に占める「正当な場所」は(公的領域からの)排除ということだ。」(p. 170)

新たな包摂の形態
「ネグリから見れば、工員が、雇用保障を重視した伝統的な労働組合社会主義のために闘っているのは誤りだ。「ポストモダン」資本主義や認知労働の支配的地位との力関係から、無情にも時代遅れの烙印をおされた社会主義である。ネグリの考えでは、旧弊な社会民主主義式に「新しい資本主義の精神」を脅威と見なすのではなく、完全に受け入れたうえで、認知労働とその非階層・非中央集権型の社会相互作用のダイナミクスに、コミュニズムの萌芽を見つけるべきだという。しかし、この論法にあくまで従うなら、今日の労働組合のおもな仕事は労働者を新しいデジタル経済に吸収するための再教育だとする、シニカルなネオリベラルの主張に同意しないわけにもいかなくなる。」(p. 173)

第10章 理性の公的使用」

歴史を進歩させる力
「オバマ勝利という現実の結果には、シニカルな疑いをもてるし、もつべきだ。実用主義・現実主義の視点から見れば、オバマがささいな美容整形を加えたにすぎない「人間の顔をしたブッシュ」になる可能性は大いにある。」(p. 179)

「オバマの勝利がこんな熱狂をもたらしたのは、苦難を乗り越え実現したからというより、このようなことが実現可能だと証明したからである。あらゆる大きな歴史の裂け目に同じことが言える。ベルリンの壁崩壊を思い出すといい。コミュニズム政体の無能さはつとに有名だったものの、まさか解体されてしまうとは誰も「本気で信じ」てはいなかった。……
それゆえにオバマの勝利は、遅くとも選挙の二週間前には明らかに予測できたことだが、実際に勝ったのはやはり驚きだった。ある意味、思いも寄らないことが、まさか起こりうるとは思わなかったことが起こったのだ(思いも寄らないことが現実の起こった悲劇的な例が、ホロコーストであり、強制収容所であった。まさかそんなことが現実の起こると、どうして信じられる?」(p. 180)

「政治的自己浄化」する大統領
「オバマの大統領就任演説は、この「政治的自己浄化」プロセスを決定づけるものだった。アメリカの多くの左派リベラルさえも落胆しきりだった。それはよく練られた、、だが知の通っていないスピーチだ。「きょうこれを見ている他国民と政府」へのメッセージは――「アメリカはいま一度、世界をリードする」「アメリカの流儀をわびる気はない。国防をゆがめるつもりもない」。 (p. 182)

新しい言葉へ
「愛国心あふれる強硬右派と認められる保守主義者にしかできない、革新的なことがある。アルジェリアの独立承認はドゴールにしか、米中国交樹立はニクソンにしかできなかった。いずれのケースでも、革新的な大統領だったら、国益を裏切った、コミュニストいやテロリストに国を売ったとたちまち非難されただろう。オバマの陥った苦境は、見たところは正反対である。つまり「革新的」大統領という評価のため、既存の体制を安定させるのに必要な「構造再調整」ができてしまうことだ。」(p. 184)

「オバマの勝利は、カント的な意味の歴史の三つの兆し――記憶再帰、示唆性、予言性の兆しだった。遠い過去の奴隷制とそれを廃止するための闘争の記憶がくり返される兆し。いまここの変革を示す出来事。未来に達成されることへの希望。この勝利が全世界に同じ普遍的熱狂を生みだして、ベルリンからリオデジャネイロまでの街灯で民衆を踊らせたのも無理はない。」(p. 185)

第11章 ハイチにて

ヨーロッパ啓蒙主義とハイチ革命
「フランス革命に呼応して、ハイチの黒人奴隷が同じ自由、平等、友愛という理念のもと反乱を起こしたとき、これは「フランス啓蒙主義の理想にとって、砲火による厳しい試練だった……」(Susan Buck=Morse, Hegel, Haiti and Universal History, Pittsburgh, University of Pittsburgh Press 2009.)。ハイチで(ヨーロッパ啓蒙主義にとって)思いも寄らぬことが起きた。……
ハイチの旧奴隷たちはフランス革命のスローガンをフランス人たち以上に文字どおりに受け止めた。啓蒙主義イデオロギーにあふれている暗黙の資質は顧みなかった。(ひとくちに「自由」といっても、それは合理的で「成熟した」主体だけのもので、まず自由や平等に値するために長期間の教育を要する、野蛮で未熟な未開人のためのものではなかった)。
この状態が、崇高な「コミュニズム的」瞬間につながった。暴動を鎮圧し奴隷制度を復活させるためにナポレオンが派遣したフランス軍が、自らを解放した奴隷の黒人軍に近づいたとき、黒い群集から不明瞭なつぶやきが聞こえてきた。フランス軍はそれを部族の戦闘の歌のようなものだろうと思った。だが、近寄ってみると、なんとハイチ人が歌っているのは「ラ・マルセイエーズ」ではないか。フランス兵は闘う相手をまちがえていないかと自問しだした。このような出来事は普遍性を政治的なものにする。……
『……文化の差異にかかわらず、共通の人間性は存在する。特定の集団に帰属しないでいることが、普遍的・道徳的情操を、現代の情熱と希望の源を引きつけうる、隠された連帯を可能にするのである(Susan Buck=Morse, ibid.)。』」(p. 189)

白人の自虐的罪悪感
「西側の絶えざる自己批判が、優越感を再確認したいという必死の企てだとしたら、第三世界が西側を嫌悪し拒絶する本当の理由は植民地化された過去とその後遺症ではなく、西側がその過去を捨てるときに見せた自己批判精神である。そうしながら暗に、他者にも同じ自己批判に取り組むよう求めたからだ。「西側が嫌われるのは、現実に犯した過失よりも過失を改めようとしたせいだ。なぜなら西側は、まず自身がその残虐さを捨てようとして、他のすべての国にも追従するように促したのだから(Pascal Bruckner, La Tyrannie de la penitence, Paris, Grasser 2006, p. 93.)」。」(p. 192)

移民排斥の論理
「不法移民の権利を無条件に擁護する者にありがちなのが、国家レベルでは反対の主張が「正しい」かもしれないと認めながら(国が無制限に移民を受け入れられないのは当然だ、移民は国内雇用を脅かす競争力になるし治安の危険をもたらしそうだ)、まったくちがうレベルで擁護論を展開することだ。現実の需要に直結したレベル、qui est ici est d’ici (ここにいる人間がここの人間だ)とわれわれが無条件に主張できる、主義の政治のレベルである。
しかし、この主義にもとづく主張はあまりに単純で、きれいごとだけでまんぞくしてはいないか?」(p. 199)

イスラム世界の「コミュニズム的」反乱
「フロイト用語でいえば、近年の[イランの]抗議運動はホメイニ革命の「抑圧されたものの回帰」だ。イランの結果はどうあれ、西側シンパのリベラル対アンチ西側の原理主義者の闘争という枠に収まりきれない解放への大きな一歩を目撃したことは、是非とも銘記すべきである。」(p. 206)

ハイチ革命の失敗
「奴隷制が廃止されたのちにも、旧奴隷たちは、新しい黒人のハイチ政府から「農業軍事主義」を押しつけられ、輸出用サトウキビの生産を滞らせないために、同じ主人の農場で働くことを強制された。ただ身分としては「自由」賃金労働者になっただけだった。
ブルジョア社会を特徴付ける緊張関係――民主主義の熱狂と個人の自由が奴隷のような労働規律と共存している――」が、この平等のなかの奴隷制度が、ハイチにもっとも極端な形で現れたのだ。」(p. 207)


第12章 資本主義の例外

「歴史上くり返される問題がここでも再発している。ハイチ革命がその後(独立宣言後、皇帝ジャック一世トナッタデサリーヌの死後)新たな形態のヒエラルキー支配へ逆行したことは、近代革命を特徴づける一連の反転のひとつだ。すなわち、ジャコバン党からナポレオンへ、十月革命からスターリンへ、毛沢東の文化大革命から鄧小平の資本主義へと。
この移行をどう解釈すべきか? ……
わたしはここでコミュニズムの〈大文字の概念〉が存続するのだと言いたい。実現しそこねながら、亡霊のように何度も何度も現われ、いつまでも生き延びるのだ。」(p. 208)

コミュニズムの不変の要素
「コミュニズムの不変の要素とは、プラトンの昔から中世の秘教派の反乱を経て、ジャコバン主義、レーニン主義、毛沢東主義にまで有効とされる「四つの基本概念」だ。厳格な「平等主義の正義」、規律のための「テロル」、政治における「主意主義、そして「人民への信頼」。
この基本はまだ、どんな新しいポストモダンの、ポスト産業社会の、ポスト何とかの原動力にも「取って代わられて」はいない。とはいえ、歴史上の現在に至るまでこの永遠の〈概念〉は、まさにプラトン的〈イデア〉でありつづけ、敗北してはよみがえってきた。」(p. 209)

「自らを国家から差し引き、その領域外に「解放区」を生みだすプロセスは、資本家に専有されてきた。このグローバル資本主義の論理の最たるものが、いわゆる「経済特区」だ。たいがい第三世界で、海外からの投資を増やすために国家基準より自由な経済法規をもつ(たとえば、低い関税率、資本の自由な流通、労働組合の制限もしくは禁止、最低労働時間なし、などを可能にする)地域である。
この呼称自体が、多様な地区のより具体的な対応を示している。自由貿易区、輸出加工区、自由地帯、工業団地、自由港、都市事業ゾーン、等々。これらに特有の「開放性」(国家統制を免れた自由な空間)と閉鎖性(法が保証する自由によって妨げられない労働条件の強制)の組み合わせは搾取の程度を高めるおそれがある。」(p. 210)

資本主義の例外性
「前資本主義的社会においては、あるゆる国家や、表象を全体化する構造に、創成に伴う排除、「症候のねじれ」の点、「器官なき身体」、システムの一部でありながらそのシステムの内部に定位置をもたない要素を含んでいた。そして解放をめざす政治は、こうした過剰な(「員数外の」)要素、状況の一部でありながら状況によって説明されない要素という立場から介入しなければならなかった。
だが、システムがこの過剰をもはや排除しないで――絶えざる自己改革、自身の限界を更新することによってしか、自らを再生産できない資本主義のように――システム自体の駆動力として直接に措定したならば、いったいどうなるのだろうか?」(p. 210)

「われわれの出発点は、抵抗/差し引きの論理だった。コミュニズムはときおり爆発を起こしながら、永遠に持続する〈大文字の概念〉であるが、たとえばもし文化大革命が示しているのが、一党独裁制の疲弊のみならず、解放をめざす平等主義の企てが爆発し、状況の「正常化」へ反転するプロセスが完了したことなのだとしたら? ここで一連の出来事は、もっぱら敵に改革のダイナミズムの支配権を握られたがために、終了している。「器官なき部位」の立場からの〈体制〉打倒という名のゲームはもうできない。なぜなら今〈大文字の体制〉はこれから永久に自らを転覆し続けるのだから。」(p. 212)

「差し引き」による革命
「もし現代グローバル資本主義が、その「無世界性」で絶えず既存体制を攪乱するかぎりにおいて、反乱と鎮静化の悪循環を破る革命が起こりうるとしたら? つまり革命は、もはや出来事が勃発したあとで正常に戻すというパターンに従うのでなく、グローバル資本主義の無秩序に対して「新秩序」を築く責務を負うのではなかろうか。われわれは胸を張って反乱から新秩序へ移行すべきだ(これは進行中の金融崩壊の教訓のひとつではないか)。」(p. 215)

プロレタリア独裁をわれらに!
「国家と政治の関係についての公理をふたつ提示したい。①コミュニズム国家・政党政治の失敗は、何よりもまず第一に反・国家の失敗だった。国家の制約から逃れ、国政組織を「直接」の非代表制の自己組織形態(「評議会」)に替える試みの失敗だった。②もし国家を何に置き換えたいのか、その明確な考えがないならば、国家から自らを差し引く/引き下がる権利はない。真に為すべきは、国家と距離をとることではなく、国家自体を非国家モードで機能させることだ。」(p. 216)

「「プロレタリア独裁」は一種の(必然的な)矛盾語法であり、プロレタリアートが支配階級になった国家形態ではない、ということだ。ここで扱う「プロレタリア独裁」は国家自体が大きく変容する国民参加の新しい形態のみである。それゆえに……この[スターリン主義の最盛期の]社会主義体制が「人民民主主義」と呼ばれた事実は、単なる偽善ではすまされない。あれはたしかに「プロレタリアートによる独裁」ではなかった。」(p. 217)

第13章 アジア的価値を持つ資本主義

「このシンガポールの指導者[リークアンユー]が、いわゆる「アジア的価値観をもつ資本主義」を創出し実現したのである。こうした独裁的な資本主義のウイルスは、ゆっくりと、だが確実に地球上に広がっている。
改革に着手する前にシンガポールを訪問した鄧小平は、国を挙げてこれを手本とすると絶賛した。この展開には世界史的な意義がある。これまで資本主義と民主主義は不可分と考えられてきた。……いまや民主主義と資本主義の絆はぷっつりと断たれてしまった。」(p. 218)

現代中国の資本主義
「中国の独裁制資本主義は、われわれの過去の名残り、十六世紀から十八世紀のヨーロッパで積み重ねられた資本主義プロセスの反復というだけでなく、未来の予兆でもあるのではないか。もし「アジアの鞭打ちとヨーロッパの株式市場という悪しき組み合わせ」(トロツキーの帝政ロシア描写)のほうが、リベラル資本主義より経済効率がよいと証明されたらどうする? われわれの知っている民主主義がもはや経済発展の条件や推進力よりむしろ障害だと示されたりしたら?」(p. 216)

「もちろん、ここでは資本主義の進歩のために民主主義を放棄せよと言いたいのではなく、議会制民主主義の限界を直視すべきだということだ。ノーム・チョムスキーがその限界をみごとに言い表している。「国民参加という脅威を克服してはじめて、民主制についてじっくり検討することができる(Noam Chomsky, Necessary Illusions, Cambridge, South End Press 1999, p. 69.)」。チョムスキーはそこに、議会制民主主義を民衆の直接政治の自己組織化とは相容れないものにしている、「受身化」の核心を認めたのだった。」(p. 220)

「合意の捏造」による民主主義
「二十世紀アメリカを代表するジャーナリスト、ウォルター・リップマンは、アメリカの民主主義の自己認識に重要な役割を果たした。、政治上は革新派であったリップマンだが、背筋が寒くなるような公共メディア論を唱えていた。彼の造語である「合意の捏造」は、のちにチョムスキーによって世に知らしめられるが、当人としては肯定的な意味のつもりだった。」(p. 221)

「彼[リップマン]はプラトンと同様に、大衆を「局所的な意見の混沌」のなかであがく一匹の巨大な獣か、迷える獣の群れとみなしていた。だから市民の群れは「地域の利害を超えた関心をもつ特殊な階級(W・リップマン/掛川トミ子・訳『世論』上・下、岩波文庫、一九八七年)」によって統制されなければならない。このエリート階級は民主主義の最大の欠点をカバーする知識機関であり、「全能の市民」という信じがたい理想の働きをする。」(p. 221)

「トロツキーの議会制民主主義に対する避難は大筋で正しかった。すなわち、この制度は教育のない大衆に力を与えすぎることなく、むしろ大衆を受身化して、国家権力機構の支配にゆだねるものだ(L・トロツキー/根岸隆夫・訳『テロリズムと共産主義 トロツキー選集 第12巻』、現代思潮社、一九六二年)」(p. 222)

「代表制民主主義はその概念からして民衆の〈意志〉の受身化を伴い、意志しないことに変えてしまう。民衆は自らの意志を代表する媒介者へ意志する意欲まで譲渡してしまうのだ。」(p. 223)


 

第14章 利潤から超過利潤へ

非物質的労働の時代
「「非物質労働」では、「人と人との関係」が「客観性のうわべに隠蔽されることなく、関係そのものが日常の搾取の対象となる(Nina Power, “Dissing”, Radical Philosophy 154.)」から、もはやルカーチ理論による「物象化」について語ることはできない。この流動する社会の関係性は、目に見えないどころか、市場取引および交換の直接の対象である。「文化資本主義」のもとで売買されるのは文化的・感情的経験を「もたらす」ものではなく、そうした経験そのものなのだ。」(p. 230)

「ネグリがここで厳密に述べていることに注意したい。資本を「廃する」ではなく、資本に共有財[コモンズ]の重要さを理解するよう「強制」すると言っている。つまり、資本主義の内側にとどまったままなのだ。ユートピア的発想というものがあるとすれば、これがそうにちがいない。」(p. 232)

ポストモダン資本主義の出現
「一九六八年の抗議行動の焦点は、資本主義の三本柱(とされたもの)に対する闘争だった。工場、学校、家庭である。結果として、この各領域はのちに脱工業化型へ変容をとげた。工場労働はどんどん外注化され、先進国ではポストフォーディズム的な非階層・双方向型共同作業に改編されている。公的な義務教育に代わって私的でフレキシブルな終身教育が増え、伝統的な家庭に代わって多様な性的関係が生じている(Daniel Cohen, Trois leçons sur la societe post-industrielle, Paris, Editions du Seuil 2006.)。」(p. 237)

「マルクスは「一般知性」の社会的側面を無視したので、「一般知性」自体が私有化される可能性を予見できなかった。そして、これこそ「知的所有権」を巡る争いの中心にあるものである。ネグリはこの点で正しい。この枠組みのなかでは古典的マルクス主義理論で言う搾取はもはや存在し得ないのだから、直接の法的措置という非経済的手段によって搾取がおこなわれることになる。」(p. 230)

「おそらくここに今日の「ポストモダン」資本主義の根本的な「矛盾」がある。理論上は規制緩和や、「反国家」、ノマド的、脱領土化を志向しながらも、「生成する超過利潤」を引き出すという重要な傾向は、国家の役割が強化されることを示唆し、国家の統制機能はこれまで以上にあまねく行きわたっている。活発な脱領土化と、ますます権威主義化していく国家や法的機関の介入とが共存し、依存しあっている。」(p. 230)

そして利潤から超過利潤へ
「富の創出に「一般治世」(知識と社会協働)が果たす役割が重く、富の形式が「生産に要した直接労働の時間とつりあわなく」なってきたら、その結果は、マルクスが予期していた資本主義の自己解体ではなく、労働力の搾取によって生じる利潤から、この「一般治世」を私有化して盗み取る超過利潤への漸進的・相対的な変化である。
ビル・ゲイツ……の富はマイクロソフト社が販売する商品の製造コストとは関係ない(同社は知的労働者に比較的高級を払っているとさえ言える)。競合他社より低価格の有料ソフトウェアを製造しているからでも、賃金労働者から高度の搾取をしているからでもない。それだったらマイクロソフトはとうに破綻していたはずだ。大衆はリナックスのように無料で、より高性能な(専門家によれば)プログラムを選んでいただろう。
……それはマイクロソフト社がほぼ世界標準化し(事実上)業界を独占して、ある意味、自身を「一般知性」化できたからだ。」(p. 239)

「生産過程の三要素――知的計画とマーケティング、物的生産、物的資源の供給—派、独自化の傾向を強め、各領域に分かれつつある。この分離が社会に影響した結果、現在の先進国に「三つの主要な階級」が出現している。正確には三つの階級ではなく労働者が階級が三分割されたものだ。知的労働者、昔ながらの手工業者、社会からの追放者(失業者、スラムなどの公共空間の空隙の住人)である。
労働者階級から分かれた各部分は、独自の「生活様式」とイデオロギーをもつ。知的階級は、開放的な享楽主義とリベラルな多文化主義。古くからの労働者は、ポピュリズム的原理主義。追放者は、より過激で特異なイデオロギー。三組は明らかに、ヘーゲル用語の普遍性(知的労働者)、特殊性(手工業労働者)、個別性(追放者)に相当する。」(p. 241)


第15章 「われわれこそ、われわれが待ち望んでいた存在である」

コミュニズムへの期待
「人は〈大文字の他者〉の不在を全面的に受け入れねばならない。あるいは、バディウは簡潔にこのように述べている。
『……神と宗教のもっともシンプルな定義は、真実と意味は同一のものだという考えにある。上の死とは、この真実と意味とを同じものとする考えの終りである。そしてコミュニズムの死もまた、歴史に関しての真実と意味の分離を告げていると、私ならつけ加える。「歴史の意味」にはふたつ意味がある。ひとつは、歴史がどこへ向かうか、といった「方向性」。もうひとつは、プロレタリアートの手になる人間の解放史などといった歴史の目的である。実際コミュニズムの時代には、正しい政治判断を下すことは可能だとの確信があった。。そのとき、私たちは歴史の意味に動かされていたのだ。……そしてコミュニズムの死は、歴史の領域でのみ、神の二度めの死となるのである。(”A conversation with Alain Badiou, lacanian ink 23 (2004) pp. 100-1)。』
だから直線的な歴史の発展は「人類の味方」であるという偏見、〈大文字の歴史〉は、古い喩えだが地下を掘り進むモグラのように「人間に都合よく働いてくれ」て、〈理性の狡智〉の仕事をしているのだという偏見は、きっぱりと捨て去るべきだ。」(p. 245)

「プロジェクトの時間」へ
「ジャン=ピエール・デュピュイは、(社会または環境の)激変という脅威にきちんと向きあうつもりなら、この時間の「歴史的」概念を打破して、新しい概念を導入する必要があると主張している。デュピュイはこれを「プロジェクトの時間」と呼ぶ。過去と未来の閉じた回路である時間だ。未来はわれわれの過去の行為から偶然に生みだされるが、その一方で、われわれの行為のありかたは、未来への期待とその期待への反応によって決まるのである。
『大惨事は運命として未来に組みこまれている。それは確かなことだ。だが同時に、偶発的な事故でもある。つまり、たとえ前未来においては必然に見えていても、起こるはずはなかった、ということだ。……たとえば、大災害のように突出した出来事がもし起これば、それは起こるはずがなかったのに起こったのだ。にもかかわらず、起こらないうちは、その出来事は不可避なことではない。したがって、出来事が現実になること――それが起こったという事実こそが、遡及的にその必然性を生みだしているのだ(Jean=Pierre Dupuy, Petit métaphysique des tsunami, Paris, Seuil 2005, p. 19.)。』
もしも――偶然に――ある出来事が起こると、そのことが不可避であったように見せる、それに先立つ出来事の連鎖が生みだされる。物事の根底にひそむ必然性が、様相の偶然の戯れによって現われる、というような陳腐なことではなく、これこそ偶然と必然のヘーゲル的弁証法なのである。この意味で、人間は運命に決定づけられていながらも、おのれの運命を自由に選べるのだ。」(p. 247)

特権的知識より信じること
「〈指導者〉は〈大文字の他者〉への参照によって〈知っていると想定される主体〉、充分な知識(「歴史の法則」など)にその行動が支えられた主体の立場に置かれる。すると、この道は、たとえばスターリンを偉大な言語学者、経済学者、哲学者ともてはやすような狂気へと進んでしまうのだ。〈大文字の他者〉が倒れたその瞬間に、〈指導者〉はもはや〈知識〉への特権的なつながりを主張できなくなる。そして、ほかのみんなと同じ愚か者になる。
おそらくこれが教訓とすべき二十世紀のトラウマだろう。〈知識〉と〈主人〉の機能は可能なかぎり遠ざけておくべし。」(p. 250)

「われわれこそ、われわれが待ち望んでいた存在である」
「「われわれこそ、われわれが待ち望んでいた存在である」とは、われわれがどうして運命(歴史的必然)で定められた使命を遂行する行為者であることを発見せよ、ということではない。まったく逆の意味、つまり依拠すべき〈大文字の他者〉の不在である。
「歴史は人類の味方」だった古典はマルクス主義(プロレタリアートが全人類の解放という宿命的な使命を果たす)とは対照的に、現代では、〈大文字の他者〉はわれわれの敵であると位置づけられている。歴史的発展の内なる強制力は、そのまま放っておけば、大惨事へ、破滅へと向かっていく。そのような災厄をくい止められるのは、純粋な主意主義、つまり歴史的必然に対抗する自由意志だけだ。」(p. 253)

コミュニズムへの回帰を!
「ドゥルーズが死の直前までマルクスの本を執筆中だったという事実は、もっと大きな潮流を示唆している。キリスト教世界では、自堕落な暮らしを送った人たちが年老いてから安全な避難所である教会へ戻り、神と和解して天に召されるのは、かつては普通のことだった。同様のことが現代の多くの反(アンチ)コミュニスト左派にも起こっている。晩年を迎えて、下劣な裏切りの人生ののちに、コミュニズムの〈大文字の概念〉と和解して天に召されたい。と望むのだ。後年になっての天候は、昔のキリスト教徒と同じメッセージを送っている。むなしい反抗に人生を費やしてきたが、心の奥底ではずっとそれが真実だと知っていたということだ。」(p. 257)

                                   (2010/8/25)