ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <書 抜き書きメモ4>

ミシェル・フーコー
『ミシェル・フーコー思考集成VIII
 1879-81 政治/友愛
筑摩書房、2001年

「精神のない世界の精神」(高桑和巳訳)

「この革命的出来事[ホメイニのイラン革命]を特徴づけるものとして、それが、まったく集団的な一個の意志を出現させたということがあります――そのような機会にめぐりあった民族は歴史を見ても稀です。集団的意志というのは、法学者や哲学者が制度などを分析したり正当化したりしようとするときに用いる政治的な神話であって、つまりは理論的な道具です。「集団的意志」には実際にお目にかかったことはないし、私は個人的には、集団的意志というのは神や魂と同じで、出会ったりするものでは決してないと考えていました。同意してくださるかどうかわかりませんが、私たちはテヘランで、イラン全土で、一個の民衆の集団的意志に出会ったのです。……この集団的意志に、人々はある対象を、ある一つきりの標的を与えた。つまりシャーの出国です。」(p. 28)

「人は、マルクスと民衆の阿片という語を相変わらず引用しています。ところで、この一節の直前にある文章は引用されることがありませんが、そこには、宗教は精神のない世界の精神だ、とあるのです。いわば、イスラームは一九七八年には民衆の阿片ではなかったのです。それが精神のない世界の精神だったからです。」(p. 32)

 

「良俗の法」(慎改康之訳)

「ジャン・ダネ氏が指摘してくれたように、十九世紀を通じて少しずつ、大きな困難をともないながらも、非常の重々しい法制ができあがりました。ところで、その法制には、自らが正確に何を処罰しているのかを言うことが決してできない、という特徴がありました。侵害が処罰されましたが、侵害とは何かということは決して定義されませんでした。侮辱が処罰されましたが、侮辱とは何かということは決して知られていませんでした。法律は良俗を護ることを目的としていましたが、良俗とは何かということは決して知られていませんでした。ところが、性現象の領域への法的な介入を正当化する必要があるときには事実上常に、良俗の権利が引き合いに出されたのです。」(p. 57)

「かくも単純な悦び」(増田一夫訳)

「博愛主義者たちへ忠告がある。本当に自殺件数が減るのをお望みならば、十分に反省され、平静で不確実さから解放された意志、そうした意志をもって命を絶つ者しか出さないようにしたまえ。自殺を損ない、それを惨めな出来事にしてしまう恐れのある不幸な人びとに自殺を任せてはいけないのだ。いずれにせよ、幸福な者のほうが、不幸な者よりもはるかに少ないのだから。」(p. 73)

「アメリカの都市の通りで、葬儀屋(funeral homes)を見るとき、死はいっさいの想像の努力を摘みとってしまうとでも言いたげな、ぞっとする凡庸さに悲しまされるばかりでなく、私はそれが死体と、まだ生きていることを喜ぶ家族のためにだけ役立っていることを残念に思う。あまり資力のない者たち、あるいは長すぎた反省に倦み、出来合いの方策に身を任せる気になっている者たちのために、日本人が性のために設け、「ラブ・ホテル」と呼んでいるような幻想的な迷宮がなぜ存在しないのだろうか。もっとも、日本人の方がわれわれよりも自殺に通じているというには確かだが。」(p. 74)

 

「居心地の悪さのモラルのために」(阿部崇訳)

「アイデンティティーを知るべしという要求と、物事を断ち切るべしとの命令、それらには二つながら同じ具合に、越権行為の気味がある。」(p.82)

「[今日]なる「日」が変わったということだろうか?左翼をとりまく日が、ということだが。ただし、〈左翼〉といっても、それは政治という駆け引きの舞台における政党の同盟関係という意味ではなく、はっきりと定義を与えることができず、また与えようとも思わないままに多くの人びとが感じ取っているような、〈〔ある何かに参加しているという〕帰属感情〉としての意味である。それは一種の「本質的」左翼であり、名証性(évidences)と責務とのないまぜになった状態としての左翼である。「概念よりは祖国」というような左翼。」(p. 82)

「政治的アイデンティティーを守るというヒロイズムの時代はもはや過去のものとなったのだ。人々は、自分たちが何であるかということについて、だんだんと自分が苦闘している問題そのものに対して、次のように問いかけるようになったのである――〈落とし穴を回避しつつ、そこに参加しまた態度決定することは、いかにして可能なのか〉と。つまり〈~二参加(アンガージュマン)する〉ことよりもむしろ。〈~と経験を共にする〉ということだ。」(p. 84)

 

「蜂起は無駄なのか?」(高桑和巳訳)

「去年の夏、イラン人たちは「シャーに出て行かせるために、われわれは何千人と死ぬ用意がある」といっていた。今では、アーヤトッラーがこう言っている。「革命が強くあるために、イランに血を流させよ。」
この二つの文句の間には奇妙なこだまが響いている。この二つの間には関連があるようだ。後者に聞き取れる恐怖は、前者に聞き取れる陶酔を断罪するものなのか?」(p. 94)

「ワルシャワでは、ゲットーは反抗し、下水道は蜂起する人々であふれかえってやむことがないだろう。また、立ちあがる人間はつまるところ、わけもなしに立ちあがる。一人の人間が「現実に」、服従していなければならないという確実性よりも死の危険の方がいいと思うには、歴史の糸を、歴史の理屈の長々とした連鎖を断ち切る分断が必要なのだ。」(p. 94)

「社会がもちこたえ、生きているのは、つまり諸権力が社会において「絶対的に絶対」ではないのは、あらゆる受諾と強制の背後に、脅迫や暴力や説得の彼方に、生がもはや交換の対象でなくなる瞬間、諸権力がもはや何もできなくなる瞬間、絞首台と機関銃を前にして人々が立ちあがる瞬間の可能性があるからだ。」(p. 95)

「革命には既に暴政が秘密裡に取り憑いており、それが盲目な熱狂のもとで姿を現す、というのが革命の「法則」のようだが、イランでの運動はこの法則を被りはしなかった。あの蜂起の最も内的な、最も強く経験された部分をなしていたものは、荷を帯びすぎた政治のチェス盤に、無媒介に抵触していた。しかし、抵触していたということは、蜂起とチェス盤が同一のものだということではない。死のうとしていた人々が参照していた精神性とは、統合主義者である一聖職者による血まみれの統治とは何の関係もない。イランの宗教人たちは、自分たちの体制を純正なものとするために、蜂起のもっていたあらゆる意味を利用しようとしている。今日あるのはモッラーたちの統治なのだからといって蜂起という事実を低く見積もるとすれば、、それは、モッラーたちのしていることと変わりがない。どちらの場合にも、あるのは「恐怖」だ。それは、イランで去年の秋に起こったばかりのことに対する恐怖であり、世界はあのような例を提示したことが長らくなかった。」(p. 97)

「人は蜂起する。これは一つの事実だ。そのことによってこそ、主体性(偉人のではなく、誰でもいい人間の主体性)が歴史に導入され、歴史に息吹をもたらす。犯罪者は、濫用される懲罰に抗して自分の命を賭ける。狂人は、監禁され権利を剥奪されて疲弊する。民衆は、自分たちを抑圧する体制を拒否する。そんなことをしても、犯罪者は無罪にならないし、教示は治らないし、民衆は約束された明日を保証されはしない。そもそも誰にも、彼らと団結する義務はあるわけではない。混乱したこれらの声が、他のものよりうまく歌っているとか、真なるものの深奥を口にしているなどとみなす必要はない。そうした声に耳を傾け、その言わんとするところをわかろうとするということに意味があるには、そうした声が存在し、これを黙らせようと執念を燃やすあらゆるものがあるというだけで充分だ。これは道徳に関わる問題なのか? おそらくはそうだ。それに、もちろん現実に関わる問題でもある。歴史のあらゆる幻滅もそれに対しては何ほどのものでもない。こうした声があるからこそ、人間の時間は進化という形式ではなく、まさしく「歴史」という形式をとっているのだ。」(p. 98)

「フーコー、国家理性を問う」(坂本佳子訳)

「国家が個人の心身の」健康に注意を向け始めたときというのは、まさに国家がもっとも大量の虐殺を行い始めた頃と一致しているのです。フランスでは、保健をテーマとした大きな書物が初めて書かれたのは一七八四年のことで、大革命の五年前、ナポレオン戦争の十年前です。この生と死の合いだのかけひきは、近代国家の主たる逆説のうちのひとつです。」(p. 110)


「生体政治の誕生」
(石田英敬訳)

「こうした[生体政治(biopolitique)の]問題は、政治的合理性の枠組と切り離すことはできない。政治的合理性の枠組内においてそれらの問題は出現しまた深刻さを帯びることになったのである。その合理性とは「自由主義(リベラリズム)」のことである。というのは、それらの問題は「自由主義」にとってこそ挑戦と受け取られたからである。法の主体の尊重と個人のイニシアティヴの自由を大切にするシステムにおいては、「人口集団」というような固有な効果と問題を伴った現象はどのようにして配慮に入れられるものなのか。何の名において、またいかなる規則に基づいて、ひとはそれを管理できるのか。」(p. 134)

「自由主義的合理化が出発する前提とは、統治(ここでいうのはもちろん制度としての「政府(gouvernement)」のことではなく、人々の行動をひとつの枠組のなかで国家的手段によって統括する活動のことである)は、それ自体としては自己目的ではない、というものである。統治=政府はそれ自身のうちには存在理由をもたない。そして統治=政府の最大化は、可能なかぎり最良の条件においてであろうとも、統治=政府をレギュレートする原理となるべきではない、というのである。」(p. 135)

「その警察学(Polizeiwissenschaft)は次のような原則にもとづいていた。その原則ハトは、注意が不足している、あまりに多くのことが監視を逃れている、あまりに多くの領域が統制と規則を欠いている、秩序と管理が欠けている、要するに、ひとびとは統治しなさすぎる、というものだった。Polizeiwissenschaft(警察学)とは、国家理性の原則に支配された統治テクノロジーがとる形式なのである。したがって、警察学が人口集団のことを考慮にいれることはいわば「当然のこと」であって、人口集団は国家の力のために可能なかぎり数が大きく活動的であるべきなのである。……
それに対して、自由主義を貫いているのは「ひとびとは統治しすぎる」という原則、あるいはすくなくとも、ひとは統治しすぎているのではないかと常に疑うべきだという原則である。」(p. 135)

「自由主義は現実を批判する道具なのであって、それこそが自由主義が多くの形をとり、また絶えず繰り返してあらわれる理由なのである。自由主義は、ひとびとが自分たちをそれと区別しようとする、以前の統治活動に対する批判の道具であったり、ひとびとが現在の統治活動の評価を低く見直すことによってそれを改革したり合理化しようとするときの批判の道具であったり、ひとびとが反対したり濫用を制限しようと願う統治活動の批判の道具となるのである。」(p. 137)

「「法治国家」、Rechtsstaat、Rule of Law、「真に代表的な」議会制度の組織は、したがって十九世紀初頭全般にわたって、自由主義と結びついたものではあるが、最初には過度な統治生の目安となるものとして使われた政治経済がその本姓においても徳においても自由主義的であるわけではなく、すぐに反自由主義的な態度をとることにさえなった(十九世紀のNationaloekonomie(国家経済)や二十世紀の計画経済のように)のと同様に、民主主義も法治国家も必ずしも自由主義的であったわけではなく、自由主義の方でも必ずしも民主的でも法の諸形式に結びついていたというわけでもなかったのである。」(p. 139)

 

「一九七八年五月二十日の会合」(栗原仁訳)

「批判は、「あなたがやらなければならないのはこれです」といった指示に行き着く推論の前提である必要はないのです。戦い、抵抗し、もはや現在あるものを望んでいない人々のための道具にならなければならないのです。それは紛争、敵対、拒絶の試みのプロセスにおいて活用されるべきものです。批判は、法に対して法を作るようなものであってはならない。それはプログラミングの一段階などではなく、現在あるものに対する挑戦なのです。」(p. 179)

「ミシェル・フーコーとの対話」(増田一夫訳)

「サルトルのような哲学においては、主体が世界に意味を与えています。この点は問いなおされていませんでした。主体はもろもろの意味を付与するのです。これに対する問いとは、主体が唯一可能な実存形式だと言えるだろうか、ということでした。主体がもはやその構成的な諸関係において、自己への同一性においてあたえられていないような経験はないのか。主体が解体し、自己に対する関係を壊し、自己同一性を喪失してしまうような経験は果たして存在しないのか。ニーチェが永劫回帰でもっておこなったのはこうした経験ではなかったのか、ということです。」(p. 205)

「根底において、科学というものは、経験として分析したり思念したりできはしないでしょうか。すなわち、その経験によって主体が変容をこうむるような関係として? 別の言い方をするならば、科学的実践こそが、科学の理想的主体を構成すると同時に知識の対象を構成するのではないかということです。そして、ある科学の歴史的ルーツは、この主体と客体の相互的な生成のなかに見いだせるのではないか、と。このようにして、どのような真理の効果が生産されるのか。ここから、真理が一つではないということが出てこれは、その歴史が非合理的であるとかその科学が幻想にすぎないとかいうことではなくて、その逆に、次のことの確認となるわけです。すなわち、実在する理解可能な歴史の存在(プレザンス)、きわめて正確で同定可能な規則の総体に対応する、合理的な一連の集団的経験の存在、その過程で認識主体も認識対象も構築されるような一連の集団的経験の存在、これの確認です。」(p. 212)

「私の仕事は、狂気の弁明をめざしていたわけではありません――そんなことは自明のことですね。それは、非合理主義的な歴史でもありませんでした。私は逆に、この――狂気を認識すると同時に狂気を対象として構成した――経験が、一部の良く知られた歴史的プロセスと厳密につき合わせることによってはじめて十全に理解されうるということを示したかったのです。そのプロセスとは、都市化の段階や資本主義の誕生に対応する特定の経済的かつ社会的状況と関連した監禁の実践、経済と国家の新しい諸要請が容認することができなかった流動的で分散した人口の存在と関連した監禁の実践、こうした実践に結びついた或る規格化社会の誕生でした。
よって私は、ある知、ある客観性の新しい関係、「狂気の真理」と呼ぶことのできるもの、こうしたものの構成をめぐる、できるかぎり合理的な歴史を作ろうとしたのです。」(p. 213)

「「知」[savoir]という語は、「知識」[connaissance]と区別しながら用いています。私は「知」でもって、自分が識っているもの自体のために主体が変容をこうむるようなプロセス、むしろ識るためにおこなう仕事の際に主体が変容をこうむるようなプロセス、これに照準を合わせています。これこそ、主体を変容すると同時に、対象を構築するのを可能にするものです。知識とは、識ることが可能な対象を増やし、その理解可能性を発展させ、その合理性を理解する作業、しかし調査する主体の固定性を維持しつつそうしたことをするのを可能にする作業なのです。」(p. 215)

「[マルクス・レーニン主義者や毛沢東主義者というのは]六八年五月以後、ハイパー・マルクス主義的な[hyper-marxistes]言説を語った人びとのことです。彼らのおかげで五月革命[movement de Mai]は、かつて聞かれたことがなかったほどマルクスから借用された語彙をフランスにおいて流布させることになったのですが、その彼らは何年か後にはすべてを放棄することになるのです。言いかえるならば、六八年五月の出来事に先だって起こったのは、マルクスに対するけた外れの宣揚、全般的なハイパー・マルクス主義化だったわけですが、私が書いたことはそれにとって容認できないことだったのです。」(p. 232)

「六八年五月とは何であったについて、一定の社会的境遇にあった一定の年齢層に対して独特な強度で行使されていた一連の権力形態のすべてに対する反逆であったということ、これに対して誰が異を唱えるでしょうか。私の経験を含めたこれらすべての経験から、一つの語が、隠顕インクで書かれた語のごとく適切な反応液をかけると紙の上に姿を現す一つの語が、浮かび上がってきたのです。権力という語です。」(p. 249)

「私はこう答えましょう。私の、広い意味での政治的選択にもっぱらかかわる諸理由から、私は解決を処方するものの役割を絶対に演じたくない、ということを。私は、今日の知識人の役割とは、支配することでもなく、解決を提案することでもなく、預言することでもないと見なしています。というのも、そうした機能にあるとき、知識人は限定された権力状況の機能形態に貢献することしかできないからです。そして、私の意見では、その権力状況は批判されるべきものだからです。」(p. 254)

「資本の蓄積は、われわれの社会にとって基本的な特徴の一つであるわけですが、知の蓄積についても事情はまったく同じです。ところで、知の行使、生産、蓄積は、権力メカニズムと分離することなどできるものではなく、権力の諸メカニズムとの間に複雑であり分析を要するような数々の関係を取りもっているわけです。十六世紀以来、人はつねに、知の形式と内容の発展は人類解放を保証する最たるものの一つだと見なしてきました。これは、われわれの文明における大公準の一つであり、世界中に普遍化されるにいたったのです。ところが、すでにフランクフルト学派によって確認された事実ですが、知の体系の形成はまた、隷属と支配とをもたらすかずかずの効果と機能を持ちました。これは、知の発展は解放の保証を構成しているという公準をそっくり見なおすよう導くわけです。これは一般的な問題なのではないでしょうか。」(p. 258)

「イデオロギー的な敵との戦争を模倣することによって、知識人が正当や社会からまじめな存在として見なされることを欲するのはよくわかります。しかし、それは危険なことに思われるのです。自分が同意できない人びとはまちがえているとか、あるいはその人びとがしようとしていることを自分の方が理解できていないと考えたほうが良いでしょう。」(p. 266)

「覆面の哲学者」(市田良彦訳)

「私たちは空虚に苦しんでいるのではなく、起こっていることのすべてを考える手段があまりに少ないことに苦しんでいるのだと思います。知るべきことはたくさんあるにもかかわらず、です。本質的なこと、恐ろしいこと、驚くべきこと、滑稽なこと、矮小かつ重大なこと、などなどね。……頭は人の言いなりになる柔軟な蜜蠟ではありません。それは反発する物質なんです。より多く、より良く知りたいという欲望があります。そして、頭に詰め込もうとするにつれて、未知のことが増大するのです。」(p. 289)

「シルヴァン・レヴィの託宣を思い出してみてください。教育は一人の聞き手がいるときに可能であり、二人いれば通俗化するといっています。書物、大学、学会誌、それらもまたメディアです。しかし、人が近づけないか、近づく気にもならない情報回路までメディアと呼ぶことは控えるべきでしょう。問題は、いかにすれば差異を戯れさせうるかということです。つまり、情報の巨大猛禽類に脅かされた学者という弱い種族のために、禁漁区すなわち「文化パーク」を設置すべきなのかどうか、その外の区域全体が粗悪品のための広大なマーケットになりかねないのに、そんなものを設置すべきなのかということです。こういう分割が現実に照応しているとは思えません。最悪です。望ましい点はまったくありません。有用な差異化が戯れるためには、分割があってはなりません。」(p. 290)

「哲学は、何が真か何が偽かをではなく、真理への私たちの関係を省察するために一方法にすぎません。フランスには支配的な哲学がない、という不満がよく聞かれます。しかし、いいことではないですか。至高の哲学がないというのは本当ですが、一つの哲学、あるいはむしろ活動しつつある哲学と言えるものがあります。真理として手に入れたものから(努力や模索や夢や幻想なしにというわけにはゆかないでしょうが)離れる運動や、ゲームの別のルールをさがす運動は、哲学だと言えます。思考の枠組のずらしや変形、受け入れられた価値の修正、別なふうに考え、別のことをし、現在とは別のものになるためのあらゆる作業も哲学です。そういう観点からすれば、ここ三十年は激しい哲学的活動の時代でした。」(p. 292)

 

“全体的のものと個的なもの――政治的理性批判に向けて”(北山晴一訳)

「合理化ということば自体がわたしには危険なものに思える。誰かが何かを合理化しようと試みる場合、本質的な問題はそのひとが合理性の諸原理に則っているか否かを調べることではなく、かれがどんなタイプの合理性に訴えようとしているかをみつけることである。」(p. 331)

「牧人が呼び集めるものは、離散した個なのです。離散した個は牧人の声とともに集まってくるわけです。……逆にいえば、牧人が姿を消すと羊の群れはたちまち散らばってしまうのです。さらに別の言い方をすれば、群れは、牧人のじかの存在と直接的な行動によってはじめて存在するというわけです。」(p. 334)

「権力は実体ではない。しかしながら、それはまた、その起源を探し求めなければならないような不可思議な属性というわけでもない。権力とは個人間に存在する一つの個的な関係タイプにほかならない。しかも、それらの関係はひとつひとつが特有性をもったものである。別の言い方をするならば、そうした関係は、交換や生産、コミュニケーションなどとは、たとえそれと結合することはあるとしても、本来なんのつながりもないものなのである。権力の弁別特徴は何かといえば、それはある特定の人々が、程度の差はあれ他の人々の行動の一切――といったところで徹底的、強制的にというわけにはけっしていかないのであるが――を決定できることである。」(p. 366)

「性現象と孤独」(慎改康之訳)

「第二次世界大戦に先立つ数年間、そして戦後になってもやはり、ヨーロッパ大陸の国々およびフランスにおける哲学の全体は、主体の哲学によって支配されていました。つまり、あらゆる知とあらゆる意味の原理とを、意味する主体の上に基礎づけることこそが、とりわけpar excellence哲学の任務になっていたということです。主体の問題が重要なものとなるのは、フッサールの影響によるものですが、しかしそればかりではなく、制度的なコンテクストとも関係があります。すなわち、デカルトとともに哲学が誕生して以来、フランスの大学はデカルト的なやり方で発展することしかできなかったということです。さらに政治的な情勢も考慮に入れなければなりません。戦争の愚かさを前にして、つまり大量殺戮と独裁政治という状況を前にして、自らの実存的選択に意味をあたえるのはおそらく個々の主体なのだ、という考えが生まれました。その後、緊張緩和とともに、そして戦後が遠ざかるとともに、それまで主体の哲学に与えられていた重要性は、もはや自明なものではなくなっていきました。それまでは隠されていたいくつかの理論的な逆説が明らかに鳴り、もはやそれを避けて通ることは不可能となりました。すなわち、この意識の哲学は、逆説的にも、知についての哲学、とりわけ科学的な知についての哲学をうまく基礎づけることができず、そして意味に関しては、意味を形成するメカニズムと意味のシステムの構造を考慮に入れることができなかったのです。」(p. 381)

「ハーバーマスのいくつかの主張にしたがうなら、技術には三つの主要なタイプがあることになるでしょう。まず、事物を生産し、変容させ、操作することを可能にする技術。次に、記号のシステムの使用を可能にする技術。そして最後に、個人の行動を決定し、何らかの目的ないし目標を課すことを可能にする技術。つまり、生産の技術、意味ないしコミュニケーションの技術、そして支配の技術があるということになります。しかし私は、あらゆる社会にもう一つ別のタイプの技術があるということに、少しずつ気づいてきました。その技術とはすなわち、個々人が、自分自身によって、自らの身体、自らの魂、自らの思考、自らの行動にいくつかの操作を加えながら自らのうちに変容をもたらし、感性や降伏や純粋さや超自然的な力などのある一定の段階に達することを可能にする、そうした技術です。このような技術を、自己に関する技術、と呼ぶことにしましょう。」(p. 383)

「どのような文化においても、自己の技術は、真理にかかわる一連の義務を含意しています。真理を発見しなければならない、真理によって解明されなければならない、真理を語らなければならない。こうした義務が、自己の構成あるいは自己の変容にとって重要であるとみなされています。」(p. 384)

「権力の網の目」(石井洋二郎訳)

「西洋は決して法律システムすなわち法体系以外の表象・言述・分析体系をもったことがありません。そして思うにこれが結局のところ、最近まで私たちが法、規則、主権者、権力譲渡、等々の初歩的・基本的な諸概念を利用する以外に権力を分析する可能性をもちえなかった理由なのではないでしょうか。もし私たちがもはや権力の表象の分析ではなく、権力の現実的な作動様式の分析に取り組みたいのであれば、権力のこうした法律的な捉え方――法と主権者、規則と禁止から出発して権力を考えるこの捉え方は、今や捨て去らなければなりません。」(p. 405)

「『資本論』の第二巻に見出せるもの、それは結局のところ、まず第一番目に、一つの権力があるのではなく、いくつもの権力があるということです。複数形の権力、それは支配の諸形式、服従の諸形式という意味であり、それらは局地的に、たとえば工場、軍隊、奴隷制を敷いている所有地や隷属関係が存在する所有地などで機能するものです。こうしたすべては権力の局地的(ローカル)・地域的(レジオナル)な形式であって、そこには固有の作動形式があり、それなりの手順や技術が存在します。これらの権力形式はすべてたがいに異質です。ですから単数の権力le pouvoirの分析をおこなってみても権力について語ることなどできないのであって、私たちは複数の権力les pouvoirsについて語り、それらを各々の歴史的・地理的特殊性のうちに局地化してやらなければならないのです。」(p. 407)

「これらの権力メカニズム、これらの権力手法は、いくつもの技術として、つまり発明され、改良され、絶えず発展する手法として、捉えなければなりません。まさに権力のテクノロジーというか、より適切にいえば、それぞれ固有の歴史を持つ諸権力のテクノロジーというものが存在するのです。」(p. 408)

「国家装置、保守機能、法律的上部構造、こうしたものを特権化することは、結局のところ、マルクスを「ルソウ化する」ことにほかなりません。それはマルクスを権力のブルジョワ的・法律的理論の中に組み入れ直すことです。ブルジョワジーのものであった法律体系の内部でいかにマルクスを機能させるかということがまさに問題となったとき、権力を国家装置として、保守制度として、法律的上部構造として考えるこの種の似非マルクス主義的な捉え方が、主として十九世紀末のヨーロッパ社会民主主義のうちに見られたとしても驚くにはあたりません。」(p. 409)

 

「権力と主体との関係、より適切に言えば個人との関係は、単に主体[=臣民]から財産や富、場合によっては身体や血までをも徴収することを可能にするあの隷属形式であるだけではなく、もろもろの個人が一種の生物学的実体、考慮に入れるべき生物学的実体を構成している限りにおいて、そうした存在としての個人の上にも権力が行使されるようなものでなければならないということが、わかってきたのです。人口集団の発見は、個人と訓練可能な身体の発見とともに、西洋の政治的手法がその周囲に形成されてきたもう一つの大きなテクノロジー上の核なのです。先ほど言及した解剖(アナトモ)-政治学(ポリティク)にたいして、生(ビオ)-政治学(ポリティク)と呼びたいものが、このとき発明されました。」(p. 413)

「禁圧のシステムとしての監獄を作るにあたっては、こんなことが主張されました。監獄は罪人の再教育のシステムになるだろうというのであう。一定期間監獄に入れておけば、軍隊や学校のような駲化作業のおかげで、犯罪者を法に服従する個人へと変えることができる。つまり監獄に入れることで、従順な個人の生産をもくろんだわけです。
ところが、監獄システムの初期から早くも、それがこうした結果をまったくもたらさないばかりか、じつを言えばまさに逆の結果を生みだすことがわかったのです。監獄にいる期間が長ければ長いほど、再教育の効果は上がらず、ますます犯罪的傾向は強まるのでした。生産性ゼロどころか、マイナスの生産です。したがって、監獄システムは消滅すべきところでした。ところがそれは残存し継続しています。……
こうした反-生産性にもかかわらず。監獄はなぜ残ったのでしょうか? 私ならこう答えます。いやまさに監獄がじつは犯罪者を生産しているからであり、私たちの知っている社会では犯罪がある種の経済-政治的有用性をもっているからなのだと。犯罪の経済-政治的有用性は、簡単に明らかにすることができます。まず、軽犯罪が増えれば重犯罪が増える。重犯罪が増えれば人々のあいだに恐怖が広がる。人々のあいだに恐怖が広がれば、警察による管理システムがそれだけ受け入れやすくなり、望ましいものにさえなる。内部に絶えずこうした小さな危険が存在することが、この管理システムが受け入れやすくなるための一条件なのです。」(p. 415)

 

「権力関係は、たとえば一方に権力が握っているものがいて他方にそれをもっていないものがいるというように、いささか図式的なしかたで捉えられてはならないと考えます。ここでもまた、ある種の学問的マルクス主義はしばしば支配階級vs被支配階級、支配的言説vs被支配的言説という対立を用いています。ところがこうした二言論は、まずマルクスには決してみられないものであって、むしろ逆にゴビノー〔十九世紀フランスの作家・外交官。『人種不平等論』などで語尾にズムと呼ばれる人種哲学を展開、ナチズムの先駆となった〕のような反動的・人種差別主義的思想家にこそ見られるものです。そうした思想家たちは、社会には常に支配される側と支配する側という二つの階級があることを認めています。この考え方はあちこちに見出されるでしょうが、マルクスには決して見られません。……権力関係はどこにでも現れます。労働者階級もやはり権力関係を伝達し、権力関係を行使するのです。学生であることによって、あなたはすでにある種の権力状況の中に汲み込まれている。私も教師として、やはりある権力状況の中にある。また私は男であって女ではないがゆえにある権力状況の中にあり、あなたは女であることによってやはりある権力状況の中にある。」(p. 422)

「代替刑に反対する」(大西雅一郎訳)

「返り血を浴びるからとか、善良な人々のところではもはや行われていないから、また時には、無実の人の首をはねる怖れがあるからといった理由から、何人かの首を刎ねるのを止めることは比較的容易い。だが、いかなる公的権力も(またそもそもいかなる個人も)誰かの生命を奪う権利はないという原則を提示して、死刑を廃止すること、これこそ重要かつ困難な議論に取り組むことである。そこから直ちに、戦争、軍隊、兵役義務などの問題が浮かび上がってくる。」(p. 430)

「死刑を定着させてきた理由はもう一つあり、そのために、十九世紀以降、矯正と懲罰をともに主張する現代の法律において――私が言いたいのは、刑罰システムにおいて、ということだが――死刑が長い間存続してきた。実際、これらのシステムが常に前提とするのは、二種類の犯罪があるのではなく、二種類の犯罪人がいるというものであった。つまり、懲罰を加えることで矯正しうる者と、際限なく懲罰を科そうとも決して矯正させられないような者だ。死刑とは矯正不可能な者に対する最終的な罰であり、無期懲役よりもはるかに簡潔で確実な形での罰であった……」(p. 431)

                                   (2010/9/1)