ミシェル・フーコー |
I 序論 「今や、歴史家たちが、生きた、もろく、揺れ動く「歴史」をとり逃がさざるをえないのではないか、などと絶対に考えずに、さまざまな構造を見定め、記述し、分析する好期である。構造-生成という対立は、歴史的領野の規定にとっても、またおそらく、構造主義的方法の明確化にとっても、十分には適しない。」(p. 22) 「生産関係、経済的決定、階級闘争などの歴史的な分析によって、マルクスが行なった脱中心化に対して、それは、十九世紀の終わり頃、一つの包括的歴史の探究をもたらした。すなわち、そこでは、一つの社会のあらゆる差異が唯一の形態に、一つの世界観の組織化に、一つの価値体系の建設に、文明の緊密な一つの型に、還元されうるはずであった。ニーチェ的な系譜学によってなされた脱中心化には、それは、合理性をもって人類の〈目的〉となし、思考の歴史のすべてを、この合理性の守護、この目的論の維持、絶えず必要な基礎への復帰、などに結びつける最初の基礎の探求に対置した。最後に、もっと最近では、精神分析、言語学、民俗学などの探究が、主体を、その欲求の諸法則やその言語の諸形態、その行動の諸規則、その神話的あるいは寓話的な言説の働き、などに関して、脱中心化を行った。」(p. 24) 「自己のなんたるかを問われている人間自身が、その性欲について、その無意識について、その言語の体系的な諸形態やその虚構の規則性について、明らかにすることができなくなった。こうした機会に乗じて、ふたたび歴史の連続性という主題が復活した。すなわち、解体ではなくて生成である歴史、諸関連の働きではなく内的ダイナミズムである歴史、形態ではなくて意識の絶えざる努力――自己自身をとりもどし、自分の諸条件のもっとも深いところまで自己をとらえようとする努力――である歴史が提唱される。……構造の「不動性」、その「閉じられた」システム、その必然的な「共時性(サンクロニー)」などに、歴史の生きた解放を対置するこの主題を主張するには、歴史の分析それ自身のうちにおいて、非連続性の使用、さまざまなレヴェルと限界の明確化、あれこれの特殊な系の記述、すべての差異の働きの明示、などの否定が明らかに必要である。こうして人々は、マルクスを人間学化し、全体性の歴史家たらしめ、彼の裡にユマニスムの意図を見出すようになる。こうしてまた、ニーチェを超越論的哲学の用語のうちに解釈し、始源的なものの探求の平面で、彼の系譜学をうち倒すようになる。」(p. 24) |
II 言説の規則性 1 言説の統一性 「まず最初に、一つ消極的な仕事をやり終えておく必要がある。それは、連続性の主題をそれぞれの仕方でさまざまに変化させる諸観念の働きのすべてから、自由になることである。……たとえば伝統の観念がそれで、これは、継起的であると同時に同一な(あるいは少なくとも類比的な)諸現象の総体に、時間的で単一な規約を与えようとする。それは歴史の分散を同一の形態のうちにあらためて考えさせ、起源の不明確な指示へ引きつづき遡るために、開始という開始に固有な差異を減らすことを許す。……影響の観念にしても同じで、伝達や交通に関する諸事実の一つの支えを……供する。またそれは、相似や反復の諸現象を、因果関係の歩みの過程に……帰着させる。……発展や進化の観念もそうで、これらの観念は、分散したさまざまな出来事を一つの契機にまとめ、それらを一つの同じ組織原理にはめこみ、それらを生の模範的な力に従属させ……ること、などを可能にする。さらに、「心性」や「精神」の観念にしてもそうで、これらの観念によって、ある一時期の同時的な、あるいは継起的な諸現象の間に意味の共通性、象徴的な結びつき、相似と鏡との働き、などをうち立てることが可能になり――あるいはまた、統一性および説明の原理として、集合意識の至上権が生じる。」(p. 35) 「分析したいと思う言説を前もって組織化することを可能にする、非反省的な連続性を断ちきるための最終的な注意だが、それには、相互に結びつき、向かい合った二つの主題を退けることだ。前者は、言説の秩序のうちへ実際の出来事の闖入を許すことが決してありえないことを願っている。また、すべての開始の彼方に、いつでも秘密な起源があること――きわめて秘密かつ始源的なので、それ自身においてはそれは完全にとらえられない――を願っている。そういう牛大で、人々は、素朴な年代学を横切って、不可避的に、際限なく後退する点へ、いかなる歴史中にも決して現存しない点へと導かれることになりかねない。この点それ自身が、その固有な空虚にすぎまい。……この主題にもう一つの主題が結びつく。それによれば、すべての明白な言説は、ふぃそかに、すでに述べられたことの上に基づいているとされる。また、このすでに述べられたことは……「決して述べられたことのないもの」無形の言説、息のような静かな声、それ自身の痕跡の窪みにほかならぬエクリチュールであるとされる。」(p. 40) |
「連続性のこれら直接的な諸形態が一たび宙づりにされるや、実際上、一つの分野全体が解放されることになる。一つの広大な分野、しかも明確化されうる分野が、。それは、あらゆる有効な言表(エノンセ)の総体(それらの言表は当然語られ、書かれていなければならない)によって、出来事に関するそれらの分散のうちに、また、それぞれに固有な審級のうちに、構成される。」(p. 44) 「なにがしかの言説=事実について、言語の分析が提出する問題は、いつでも次のようになる。すなわち、いかなる規則によって、かような言表は構築されたのか。したがって、いかなる規則によって、他の同様な言表は構築されうるだろうか? 言説=出来事の記述は、まったく別の問題を提出する。いかにして、かような言表が現れ、他のいかなるものもその場所を占めないのか?」(p. 45) 「一体なにが、述べられたことのなかで言われるのか? 言説の領野の分析は、まったく別の方向をたどる。重要なのは、その出来事の狭さと特異性のうちに、言表をとらえることであるその存在条件を決定し、限界をもっとも正当に定め、それに結びつきうる他の諸言表との相関関係をうち立て、それが他のいかなる言表形態を排除するかを示すことである。」(p. 45) 「いかにそれが月並なものであろうと、その帰結のうちに考えられることがいかに重要でなかろうと、その出現後にいかに早く忘れられようと、その前提とされているものがどんなに理解されず、うまく解読されなかろうと、言表は常に、言語によっても意味によっても完全には汲みつくされえない出来事である。たしかに奇異な出来事である。まず、それは、一方において、書くこと(エクリチュール)のしぐさ、音声言語(パロール)の分節化と結びつくが、また他方では、それは、記憶の領野において、草稿、書物、およびあらゆるかたちの記憶、の物質性において、自己自身に或る残存物を開示するからである。次には、それがあらゆる出来事同様に唯一のものであり、しかも、反復、変換、再活動に供されているからである。最後に、それは、単にそれを惹き起こす諸状況、それがそそのかす諸帰結に結びつくだけでなく、同時に、またまったく異なった態様に応じて、それに先行し、かつそれに続くところの諸言表にも結びついているからである。」(p. 46)
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2 言説の形成と編制 「諸言表の一つの総体を、個別的なものにかかわるもののうちで規定することは、これらの対象の分散を記述し、それらを分離する間隙のすべてをとらえ、それらの間を支配するさまざまな隔たりを測ることに――換言すれば、それらの配分の法則を定式化することに――あるだろう。」(p. 53) 「言説が途を開いているのは、既存のさまざまな主題に生気を与え、相対立する戦術を生じさせ、相容れない諸利益とかわり、確定された諸概念の働きによって、相異なった諸部分を働かせる、という相異なった可能性ではないだろうか? 主題、イメージ、意見の、時代を貫いての永続性を探究することよりも、また、さまざまな言表の総体を個別化するためにそれらの葛藤のディアレクティックを叙述するよりも、むしろ、選択の諸点の分散を見定め、あらゆる選択と、主題についてのあらゆる好みの手前に、戦術的な可能性の領野を明確化しえないものであろうか?」(p. 58) 「見出されるのは……、さまざまに異なった戦術的可能性であり、これらによって、両立しがたいさまざまな主題が活動し、また、さらに、相異なったいくつかの総体のうちに同一の主題を託することが可能になるのである。そこから、これらの分散そのものを記述するという考え方が出てくる。……その分析は〈分散の諸体系〉を記述するであろう。」(p. 59) 「いくつかの言表の間にかような分散の体系が記述されうる場合には、諸々の対象、言表の類型、概念、主題の選択、などの間に、一個の規則性(さまざまな相関関係、位置、作用、変換に関する一つの秩序)が明確化されうる場合には、〈言説の形成=編制〉にかかわる、と、慣習上、言われるであろう。こうして、諸条件や諸帰結について、「科学」、「イデオロギー」、「理論」、「客観性の分野」のごとき、かような分散を示すためには、不十分ながらあまりにも重苦しい語を避けることができよう。この配分の諸要素(対象、言表行為の態様、概念、主題の選択など)が従属する諸条件は、〈形成=編制の規則〉と呼ばれよう。形成=編制の規則は、与えられた一言説の或る配分における、存在の(のみならず、共存、保存、変容、消滅などの)諸条件である。」(p. 60)
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3 対象の形成と編制 「これらの連関は、諸制度、経済的、社会的諸過程、行動の諸形態、規範のシステム、技術、分類の諸類型、特徴化の仕方、などの間にうち立てられる。そして、これらの連関は、対象のうちに現前するものではない。人々が対象の分析を行うとき示されるのは、これらの連関ではない。……が、対象の出現、他の対象との並置、それとの関係における位置づけ、その差異性、還元不可能性、ときにはその異質性、の規定、要するに外在性の領野のうちに置かれることを可能にするものを、それらは明確化する。」(p. 70) 「たとえば十九世紀の精神病医たちが家族と犯罪性の間の関係について述べえたようなことは、ひとも知るように、現実の依存の働きを表わすものではない。しかもそれは、精神病学的言説の対象を可能にし保持する諸関連の働きも、表わさない。こうして、可能的な記述の分節化された一つの空間全体が開示される。〈第一の、現実的な諸連関〉のシステム、〈第二のあるいは反省的諸連関〉と呼びうる〈諸連関〉のシステム。問題は、この第三の諸連関の特殊性と、他の二つの連関の結びついたそれらの働きを、明らかにすることである。」(p. 71) 「言説の境界を明らかにし、あるいはそれにいくつかの形態を与え、あるいはそれをいくつかの環境中でいくつかの事柄を言い表すように強いるのは、言説の外在する諸連関ではない。それらはいわば、言説の限界に存在している。それらは言説にその語りうる対象を供する、あるいはむしろ……それらは、しかじかの諸対象を語りうるため、そうした対象を扱い、命名し、分析し、分類し、説明する、等々のために、言説が実現すべき関係の束を決定する。」(p. 72) 「不在の、しかしもっとも明白なものを、ときとして詳細に説明することが必要なので、次のように言っておこう。まだ手がけたばかりのこれらすべての探求において、私は、人々が解する意味での「言説」、テキストの形態のうちに読みうる「言説」は、予想されるような純粋で単純な物(レ・ショーズ)と言葉(レ・モー)の交錯ではないことを示したいと思っている、と。」(p. 76) |
4 言表の諸態様の形成と編制 「医者は冷淡に放置されたり、代替可能であったりすることがほとんどない人物である。医学の言葉は、誰からも生じるものでもない。その価値、有効性、治療上のさまざまな力自身、また一般的な仕方で、医学の言葉としてのその存在は、規約上限定された人物――彼は、そうした言葉のために苦悩や死を払いのけるための能力を要求することによって、そうした言葉を明確に発信する権利をもっている――から分けられない。だが、人も知るように、西洋文明におけるこの規約は、住民たちの健康が産業社会によって必要とされた経済的規範の一つになったとき、一八世紀末、十九世紀初頭に、根本的に変容されるに至った。」(p. 79) 5 概念の形成と編制 「諸概念を潜在的な演繹的構成のうちに置き直そうと欲するよりも、むしろ、それらが出現し循環する言表領野の組織を記述すべきであろう。 |
「人々は、この明白な概念の働きに対して一歩下がったところに位置し、また、いかなる図式(系統化、同時的集合化、線的あるいは相互的変容、の図式)によって、諸言表が言説の一類型のうちで相互に結びつくかを確定しようと試みる。こうして、人々は、いかにして、諸言表の回帰的諸要素が再び現われ、解離し、再組織され、拡張あるいは決定を獲得し、新しい論理構造の内部に再びとらえられ、その代わりに新しい意味論的諸内容を取得し、それらの間に部分的な組織を構成することができるか、を見定めようとする。」(p. 92) 6 戦術の形成と編制 「経済学、医学、文法、生物の科学などの言説は、諸概念の或る組織化、諸対象の再集成、言表行為の諸類型、を生じさせる。そしてこれらの組織化、再集成、諸類型などは、その首尾一貫性、厳密性、安定性などの度合に応じて、さまざまな主題あるいは理論を形づくる。……それらの形式上のレヴェルがいかなるものであれ、これらの主題やこれらの理論は、慣習上「戦術」と呼ばれよう。問題は、いかにそれらが歴史のうちに分配されているか、を知ることである。」(p. 98) 探求の諸方向 |
「記述されたさまざまな戦術が、言説のこちら側では、同時に予備的で根本的な選択の無言の深みのなかに根ざしてないことを留意する必要がある。記述すべき諸言表のこれらのすべての集合化は、さまざまな種類の語のもとに鋳造される世界観の表現でもなければ、理論の口実の下にかくれた利害の偽善的な翻訳でもない。……富の分析も博物誌も、それらがその存在、統一性、永続性、変換、などのレヴェルで問われるならば、これらのさまざまに異なった選択の総和とみなされえない。これらの選択は、逆に、言説の諸対象を扱う……体系的に相異なった仕方として、言表行為の諸形態を配置する……体系的に相異なった仕方として、諸概念を操る……体系的に相異なった仕方として、記述されるべきものなのである。」(p. 106) 7 注意事項と帰結 「形成=編制のシステムが語られるとき、人々がそれをただ単に並置、共存、異質的な諸要素の相互作用(諸制度、諸技術、さまざまな社会集団、近くの諸組織、さまざまな言説の間の関係)と解せず、言説の実践によるそれら連関の成立……と解している。だが、こんどは、これらの四つ[諸対象、言表行為、諸概念、言説の戦術]のシステムあるいは四つの連関の束についてはどうか? …… |
III 言表と集蔵体 1 言表を定義づける 「言表の主体を定式的な表現の作者と同一なものとして考えるべきではない。実体的にも機能的にも、そうである。事実、言表の主体は、一つの文の書かれたあるいは口で述べられた分節化というこの現象の原因でも、起源でも、出発点でもない。……それは、確定された、空の――相異なった諸個人によって実際には充たされうる――一つの場所である。だが、この場所は、決定的に規定され、一つのテキスト、一冊の書物、一つの作品の全体を通じて、かようなものとして規定される変わりに、変化する。――あるいはむしろ、それは、多くの文を通じて自己同一的なものでありつづけうるためにも、それぞれの文とともに変容しうるためにも、十分可変的なものである。」(p. 144) |
「言表の機能は……純粋状態では一つの文あるいは命題に作用を及ぼしえない。言表が存在するためには一つの文をいうだけでは十分でないし、対象の領野において決定された或る関係のうちで、あるいは主体への決定された或る関係のうちで、それを言うだけでも十分でない。――一つの言表が問題になるためには、一つの文を隣接の一領野全体と関係づけねばならない。……一つの言表は、いつでも、他の諸言表で充たされるさまざまな余白を有している。これらの余白は、ふつう「コンテキスト」として理解されるものから、はっきり区別される。――このコンテキストは現実的、あるいは言語的なものである。」(p. 148) 「言表は常に、たとえそれが隠されている場合でも、またかろうじて現れはしたもののやがて消え失せる運命にある場合でも、物質的な厚みをとおして、与えられる。そして、言表はこの物質性を必要とするのみでなく、この物質性は、一たびそのすべての確定が不動のものになれば、補完物として言表に与えられない。すなわち、或る点では、物質性が言表を構成する。同一の語のあれこれによって組み立てられ、正確に同一の意味を帯び、統辞論的、意味論的同一性のうちに保持された一つの文も、それが、会話の過程で誰かによって明確に発音されるか、それとも小説中に印刷されているか、また、それが数世紀前の或る日書かれたか、それとも、今、口頭での定式的表現中に再び姿をあらわすか、によって、同一の言表を構成しない。」(p. 152) 「物質性は言表のなかで、はるかに重要な一つの役割を演じている。すなわち、物質性は、単に、変化の原理、認知の諸基準の変容、言語学的下位集合の決定、などではない。それは、言表それ自身を構成するものである。すなわち、必要なことは、一つの言表が一つの実体、支え、場所、日付を持つことである。そして、これらの必要物が変容するとき、言表それ自身が同一性を失う。」(p. 154) |
3 言表の記述 「言説は、記号の継起の総体によって、ただしそれらが継起の言表である限りにおいて、つまり、それらが特殊的な存在様態として示される限りにおいて、構成されている。そして、これから間もなくはじめるように、かような一つの系の法則が、まさしく、私がこれまで〈言説形成=編制〉と呼んだものであることを示すに至るならば、また、言説形成=編制がたしかに分散と配分の原理であって、定式、文、命題にではなく、言表……にかかわることを示すようにすれば、言説という用語は定着されうるであろう。すなわち、形成=編制の同一のシステムに属する言表の総体、ということになる。そ」(p. 163) 「言表とは、文法あるいは論理学によって記述された諸々の統一体に、付加あるいは混ざり合うような一つの基本的な統一体ではない。言表は、一つの文、命題、あるいは定式化の行為、などと同じく、分離されえない。一つの言表を記述するとは、一つの水平的な線分を分離したり、特徴づけたりするようなことではない。むしろ、その中で、一連の記号、(これは必ずしも文法的なものでも論理的の構造化されたものでもない)に、一つの存在、一つの特殊的存在を与えるという機能が行使された諸条件を明確化することである。今存在たるや、一連の記号を、一つの純粋な痕跡とは別なもの、むしろ対象の一領域への関係として、出現させる。一つの行動あるいは個別的操作の帰結とは別なもの、むしろ、一つの主体に対する可能的なさまざまの立場の働きとして、有機的で、自立的な、自己閉鎖的で、一連の記号にのみ意味を形成する一つの全体性とは別なもの、むしろ、共存の領野における一要素として。移りゆく一つの出来事、あるいは惰性的な一つの対象とは別のもの、むしろ、反復可能な物質性として。」(p. 165) 「言表の分析は、表現された言語運用のみにかかわる。というのも、その分析が存在のレヴェルにおいて、それらを分析するからである。すなわち、言われた事柄の記述、まさしくそれらの事柄が言われたものとしての、その記述である。言表の分析は、それゆえ、一つの歴史的分析であるが、しかし、それはあらゆる解釈の外に立っている。すなわち、それは、言われた事柄に対して、それらが隠していること、それらにおいてかつて言われたこと、それらの存在にもかかわらず、それらが蔽っていて言われなかったこと、それらに住みついた大量の思考、イメージ、幻想などを、要求しない。しかし反対に、いかなる様態に基づいてそれらの事物は存在するかを、また、それらにとって表明されたこと、痕跡をのこし、また多分偶発的な再使用のためにそこにとどまること、を要求する。それらにとって、姿を現わすこと――そして、他のどこにもそれらの場所はないように要求する。この観点からすれば、潜在的な言表などと言うものは、認められない。なぜなら、人々が赴くのは現実的な言語の明白さであるからである。」(p. 166) 「言表のレヴェルは、隠されてもいなければ見えもせず、言語の限界に存在する。すなわち、言表のレヴェルは、言語においては、非体系的な仕方に置いてさえ、直接的経験に身を委ねるような特徴の総体では決してない。しかもそれは、また、言語の背後の、言語によっては翻訳不可能な、謎を含んだ沈黙の余剰でもない。言表のレヴェルは、言語の出現の態様を規定する。すなわち、言語の内的組織であるよりはむしろその周囲であり、その内容であるよりはむしろその表面である。だが、この言表の表面を記述しうるということは、言語の「所与」が根源的な無言を単に引き裂くことでないことを立証している。」(p. 171) |
「言表の検討をとおして、発見されたものは、諸記号の総体を対象とし、文法的「受容可能性」とも論理的相関関係とも同一化されない一つの機能であり、この機能は、行使されるために、次のさまざまなものを必要とする。すなわち、一つの関説性。(これはまったく一つの事実でも、事物の一状態でも、さらには一つの対象でもなく、差異化の一原理である。)一つの主体。(語る意識でも、定式的表現の作者でも決してなく、中性的な諸個人によって或る諸条件のもとに充たされうる、一つの位置である。)共同の一領野。(それは、定式化の現実的な文脈でも、定式化されたものがそのなかで分節化した状況でもなく、他の諸言表に対する共存の一領域である。)一つの物質性。(それは、ただ単に実体あるいは分節化の支えではなく、一つの規約、転写の諸規則、使用あるいは再使用の可能性である。)」(p. 175) 「言説形成=編制の名のもとに記述されたもの、それは、厳密な意味における、諸言表のグループである。合う縄地、文法的(統辞論的、あるいは意味論的)結合によって、〈文〉のレヴェルで相互に結びつけられていない言語運用の諸総体である。また、それらは、論理的結合(形式的首尾一貫性、あるいは諸概念の連鎖に関する)によって、〈命題〉のレヴェルで相互に結びつけられていないし、心理学的結合(それが、意識の諸形態の同一性であれ、心性の恒常性であれ、あるいは一つの計画の反復であれ)によって〈定式化〉のレヴェルで結びつけられていない。そうではなくて、それらは、〈言表〉のレヴェルにおいて、結びつけられている。」(p. 176) 「言表が同一の言説形成=編制に属する限りにおいて、言表の総体を、言説と呼ぶことができよう。言説は、無際限に反復可能な、そして、歴史中でのその出現や使用が指示されうるような(そして失敗した場合が説明されうるような)、修辞学的あるいは形式的な一つの統一体を形づくりはしない。それは、限られた数の言表――これに対して、存在諸条件の総体が定義されうるような――によって構成される。」(p. 179) 4 稀薄性、外在性、累合 「一つの自然言語中に言表されえたかもしれぬものに比べ、また言語学的諸要素の無際限の組み合わせに比べれば、言表は(その数がいくら多数でも)常に数において劣っている。……それゆえ、われわれは、言語体系によって開かれているような可能的な定式化の領野の希薄化あるいは少なくとも非充満の原理を、探そうとする。言説形成=編制は、同時に、緒言説の錯綜における分解の原理として、および言語領野における空白の原理として、あらわれる。」(p. 182) 「言説形成=編制は、発展する一つの全体――固有の力動性や独特な慣性をもち、それとともに、定式化されていない一つの言説中で、それが言わないこと、いまだ言わないこと、あるいはたちまちそれと反対なことを言うもの、を当然含むもの――ではない。それは、豊かで困難な一つの芽生えでは決してなく、空隙、空白、不在、限界、切断などの一つの配分である。」(p. 183) 「言表を、完全に展開されてはいるが、いかなる重複をも含まぬような、一つの空間のなかに置く。隠されたテキストというものは存在しない。したがってまた、いかなる過剰も存在しない。言表領域はすべてがその固有の表面上にある。個々の言表は、そこで、自己にしか属さない一つの場所を占める。したがって、記述は、一つの言表が、……いかなる独特な場所をそれは占めるか、さまざまな形成=編制のシステム中のいかなる分岐点がその局所化の見定めを可能にするか、言表の一般的分散のうちでいかにしてそれが自己を他から分離するか、を見出すことにある。」(p. 183) |
「解釈というものはすべて、その存在自身が言表の実際の稀薄性によってのみ可能なものだが、それを無視して、反対に、言われたことの凝縮された豊かさを主題とする。そういう解釈と異なって、言説形成=編制の分析は、こうした稀薄性に向かう。すなわち、稀薄性を顕在的な対象とし、その独自のシステムを確定するように試みる。……解釈とは、言表の乏しさに対してなされる反作用の仕方であり、意味の増大によってその乏しさを代償する仕方である。乏しさから出発した、乏しさにもかかわらず、語る仕方である。だが、一つの言説形成=編制を分析すること、それは、この乏しさの法則を探ることであり、乏しさの程度をはかることであり、乏しさの特殊な形態を確定することである。」(p. 184) 「またわれわれは、最後に、あらゆる言葉に先だって、記載の開始、遅らされた時間の偏差、であるような一つの痕跡に関する問題意識において、その純化を企てることもできる。再び問題とされるのは、常に、歴史的=超越論的主題である。 「言表の分析は、個人的思考(コギト)との関連なしに実行される。それは、語る人、自分の言うことのなかで自己を表明しあるいは隠す人、言葉を用いて自己の至高の自由を行使する人、あるいは、それと知らずに誤って知覚した拘束に服従する人、などの問題を提出することはない。その分析は、事実上「ひとは言う」というレヴェルに位置する――そして、それを、一種の共通感覚、すべての個人に押しつけられる集合表象、と解してはならない。また、個々人の言説をとおして必然的に語られるような一つの巨大な匿名の声、と解してもならない。そうではなくて、言われた事柄の総体、そこに保存されうる諸連関、さまざまな規則性、およびさまざまな変換、そのいくつかの形態、いくつかの交錯が一個の語る主体の独自の場所を指示し、作者の名前をうけいれうるような領域、として解されるべきである。「誰か語る者」、だが、彼は、どこでもいいものについては言わない。それは、必然的に一つの外在性の働きのうちに捕えられる。」(p. 188) 「この分析は、言表が、それに固有な〈残存の〉なかで、また、定式化の過去の出来事において常に現実化されうる反響のそれでない〈残存〉のなかで考察されることを前提としている。諸言表が残存していると言うこと、それは、それらが記憶の領野に残っていることや、それらの言わんとしたところが再発見されうることを、意味するものではない。そうではなくて、それらが、いくつかの支え、もしくは物質的技術(書物は、もちろん、その一例にすぎない)のおかげで、いくつかの類型の制度(とりわけ、図書館)に応じて、またいくつかの態様の規約(宗教的テキスト、法律の規定、あるいは科学上の真理、が問題になるとき、その態様は一つではない)とともに、保存される、ことを意味する。」(p. 190) 「この分析は、同様に、言表が、それの特殊的な〈付加性〉の形態のなかで扱われることを前提としている。事実、継起的な言表間の集合の諸類型は至るところで同一ではないし、それらは、継起的諸要素の単なる累積、あるいは並置によっては決して生じない。数学的な言表は、宗教的テキストや法律上の証書のようには、相互に付加し合うことはない。」(p. 191) |
「言表分析は、最後に、〈回帰性〉の言表を考察することを前提としている。すべて言表は、それに先立つ諸要素の一領野――それらの要素との関係において言表は自己を位置づける、が、言表は、新しい関係にしたがって、それらを再組織することも、再配分することもできる――を含んでいる。すべて言表は、自分の過去を自ら構成し、自己に先立つもののうちにおいて、自己自身の系譜を明確化し、自己を可能あるいは必然ならしめるものを素描しなおし、自己と両立しがたいものを排除する。そして、この言表的過去を、それは、獲得された真理として、生みだされた一出来事として、変容されうる一形態として、変換すべき一素材として、あるいはさらに、語られるべき一対象として提出する。」(p. 191) 「一個の言説形成=編制を分析すること、それは、したがって、さまざまな言語運用の一総体を、言表のレヴェル、およびそれらを特徴づける実定性の形態のレヴェルで、扱うことである。あるいはいっそう端的には、一個の言説の実定性(ポジティヴィテ)の類型を明確化することである。もしも、全体性の探究に代えるに稀薄性の分析をもってし、超越論的基礎の主題に代えるに外在性の諸関係の記述をもってし、起源の探索に代えるにさまざまな累合の分析をもってするならば、ひとはそのときポジティヴィストである。」(p. 192) 5 歴史的〈先験性〉 「〈先験性(ア・プリオリ)〉とは、決して言われないことも、現実的に経験に与えられないことも、ありうるような真理の先験性ではなく、与えられた一つの歴史のそれである。なぜなら、それは実際に言われた事柄の歴史であるからである。この少々わかりにくい用語を使った理由は、この〈先験性〉が、言表を、その分散において、その首尾一貫していない有り様によって開かれたあらゆる断層において、その重なり合いと相互の代置において、その同一化されえない同時性において、また、演繹しえないその継起において、解明するはずだからである。約言すれば、それは、次の事実を明らかにすべきなのである。すなわち、言説は単に一つの意味、あるいは一つの真理を有するだけでなく、一つの歴史を、それも、言説を見知らぬ生成の諸法則に還元しない一つの特殊的な歴史を有する、と。」(p. 196) 「集蔵体とは、第一に、言われうることの法則であり、独自の出来事としての言表の出現を支配するシステムである。……それらは、明確な形象のうちに集まり合い、多様な関係にしたがって相互に組み立てられ、特殊な規則性に応じて、互いに維持し合い、ぼかし合う。……集蔵体とは、……言表=出来事の同一の根本で、またそれが与えられる集成のうちで、その〈言表可能性のシステム〉を最初から規定するものである。……それは、言表=事物の現実性の態様を規定するものである。それは〈その作用のシステム〉である。……それは、さまざまな言説を、その多様な存在のなかで区別し差異化し、その固有の持続のうちで、それらの特殊性を規定するものである。」(p. 199) |
IV 考古学的記述 1 考古学と諸観念の歴史 「発生、連続性、全体化、これらこそ思想史の大きな主題であり、それによって思想史は、歴史的分析の、いまや伝統的な、一つの或る形式に結びつく。ふつう、これらの諸条件においては、すべての個人――なおも歴史、その諸方法、その要求、その可能性などについて、その後、少々色褪せた観念を自らつくる個人――は、思想史というような学問が棄て去られるなどと言うことは理解しえない。……ところで、考古学的記述は、まさしく思想史の放棄であり、その要請、その手続きの体系的な拒否であり、人々が述べたところについての一つのまったく別の歴史の企てである。」(p. 210) 「考古学が明確化しようとするのは、決して諸々の言説中に隠されあるいは示されているさまざまな思考、表象、イメージ、主題、執念などではない。そうではなくて、それらの言説そのもの、諸規則に従う実践としての言説、である。……それは。一つの解釈的な学問ではない。すなわち、それは、もっと隠された一つの「他の言説」を探し求めない。考古学は、「寓意的」であることを拒む。」(p. 210) 「考古学の問題は、……さまざまな言説をその特殊性において明確化することであり、言説が実現する諸規則の働きが、いかなる点で他のすべてに還元され難いかを示すことであり、その外的な稜のすべてにわたってそれらをたどること、いっそう適切には、それらについてアンダー・ラインを引くことである。考古学は、緩慢な進展によって、意見の混乱した領野からシステムの独自性、あるいは科学の決定的な堅固さへ赴くものではない。それは決して「憶断の学(ドクサ)」ではなく、言説の諸態様の示差的分析である。」(p. 211) 「考古学は、個別的な諸作品を貫き、ときとしてそれらを完全に指揮下におき、何者もそこから逃れ出ないようにそれらを支配する――もっとも、ときとして、また、その統治は一部分にしか及ばない場合もあるが――言説=実践の諸類型および諸規則を明確化する。一つの作品の存在理由としての、その統一性の原理としての、創造的主体なる審級は、考古学にとっては無縁なものである。」(p. 212) 「考古学は、人々が言説を発する瞬間にさえ、彼らによって思考され、意欲され、目指され、試され、欲求されえたところのものを復元しようとしない。考古学は、作者と作品とが彼らの同一性を交換するこの移ろいゆく核心を受けいれようとはしない。そしてこの核心たるや、また、思考がいまだ同一のものから変質していない形態のうちにいまだ自己と最も近いままでいる場所であり、言語が言説の空間的、継起的な分散のうちにいまだ展開されていない場所である。」(p. 212) 2 原(もと)のものと規則的なもの |
「考古学的記述は、継起する諸事実――それらを人々が粗野で素朴な仕方で確立しようと欲しない場合でも、つまりそれに価する用語をもってする場合でも――がそれに照合されるべき言説=実践にさし向けられる。したがって、そうした記述が位置するレヴェルでは、創始性と月並という対立は十分に適合しない。すなわち、一つの最初の定式化と、永年あるいは数世紀を経てその定式化を大なり小なり正確に反復する文との間に、それはいかなる価値の階層秩序もうち立てず、いかなる根本的な差異も設けない。」(p. 219) 「考古学はさまざまな発明を探しに行きはしない。そして、それは、誰かが或るなにがしかの真理に最初に確信を抱いた(感動的な――私もそれを望むものだが)瞬間には無感覚のままでいる。それは、祭の朝を復元しようと試みない。だが、それは意見のありきたりな諸現象や、或る一時代において誰もが反復しえたものの下絵にさし向けられるためではない。考古学が……[先人たちの]テキスト中に探し求めるもの、それは聖なる創始者たちの一覧表をつくることではなく、言説=実践の規則性を明るみに出すことである。この実践は、より独創性に乏しい彼らの後継者たちのすべてにおいても、同様の仕方で、著作のうちにある。あるいは彼らの先駆者たちにおいても。」(p. 220) 「定式化は此処と彼処では事物や概念の同一の形成=編制システムには属さない。したがって、〈言語学的類比関係〉(あるいは翻訳可能性)、〈論理的同一性〉(あるいは等価性)、および〈言表的等質性〉の間の区別をはっきりつけねばならない。考古学が引き受けるのは、それもただ一つ引き受けるのは、この等質性である。したがって考古学は、言語学的に類比的な、あるいは論理学的に等価的な言語的定式化をとおして新しい言説=実践が出現するのを見ることができる。」(p. 221) 「すべての言表領野は規則正しく、かつ警戒している。つまり、眠らずにいる。どんなささいな言表も――このうえなく地味な、あるいは月並な――諸規則のすべての働きを実現する。この諸規則たるや、それらにしたがってその対象、その態様、それが用いる諸概念、それの属する戦術、などが形成=編制出されるものである。この諸規則は一つの言い回しのなかに決して与えられず、それらを横切り、それらに共存の空間を構成する。」(p. 223) 「こうして考古学は言説の派生の樹を構成する――そして、これがその主要な課題の一つである――ことができる。たとえば博物誌のそれを考えてみよう。考古学は、その根元の傍らに、〈支配的な諸言表〉として、観察可能な構造や可能的対象の領野の明確化にかかわる諸言表、用いられる記述の諸形式と知覚の諸コードを規定する諸言表、特徴づけのもっとも一般的な可能性を明らかにし、かくして構築すべき一概念領域の全体を開く諸言表、最後に、戦術的な選択を挙げて構築することによって、後の最大限の選択に余地を残す諸言表、を配置することになろう。また考古学は、さまざまな枝脈の末端において、あるいは少なくとも一つの簇生全体の進路において、さまざまな「発見」(掘り出された諸系のそれのごとき)、さまざまな概念の変換(属の新たな定義のごとき)、未公開の諸観念の現出(ほ乳類や有機体のそれのごとき)、さまざまな技術の完成(募集の組織原理、分類と命名の方法)、を見出すことになろう。」(p. 224) 「かくして人々は、博物誌について、その立証不可能な公理や根本的主題(たとえば自然の連続性)から始めることもなく、また、さまざまな最初の発見や最初の接近……を出発点や導きの糸にすることなく、その考古学的は性を記述することができる。考古学的秩序は体系性のそれでもなければ、年代学的な継起のそれでもない。」(p. 224)
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「ところで、用いられる諸手段はきわめて数多く、まさにその事実によって、見出されたさまざまな首尾一貫性はきわめて相異なったものになりうる。さまざまな命題の真理とそれらの命題を結びつける諸連関を分析することによって、論理的に矛盾のない領野を規定することができる。……だが、人々は、まったく反対に、類比と象徴の糸をたどることにより、言説的=論弁的であるよりも想像的な、理性的であるよりも感受的な、また欲望からよりも概念から遠い、一つの主題群を見出すことができる。そのもつ力は、この上なく対立した諸形象を……活気づける。……これらの首尾一貫性は主題的であるか体系的であるかによって、顕在的でも潜在的でもありうる。」(p. 228) 「この作業の果ての残るのはただ、そこによどんだ矛盾――さまざまな偶然性、欠如、断層など――である。あるいは反対に、あたかもすべての分析が心ならずも人々を弱気に導くかのように、根本的な矛盾が立ち現れる。すなわち、システムの起源そのものにおいて両立不可能な公準を働かすこと、和解させえない影響の交錯、欲望の最初の回折、社会をそれ自身に対立させる経済的、政治的相剋、このすべては、減らされるべき多くの表面的要素として現われるかわりに、最後に、組織化の原理として、すべての比較的小さい矛盾を解明し、それらの強固な基礎を与える秘められた原理として、姿を表わす。」(p. 229) 「考古学的分析にとっては、矛盾は克服すべき仮象でもなければ、解き放つべき秘密の原理でもない。それらは自己自身のために記述すべき対象であり、いかなる観点からそれらの矛盾が霧散しうるか、いかなるレヴェルにおいてそれらは先鋭化し、結果から原因になるか、が探し求められることはない。……或るなにがしかの対象領域、その境界劃定、およびそれを格子状に区切ることについて、二つの命題の間に矛盾を派生させても、人々は矛盾を解決しないし、決して和解点を発見することもない。しかし人々は、また、矛盾をいっそう根源的な一つのレヴェルに移譲することもしない。そして、矛盾が占める場所を明確化し、二者択一の分岐を明白にし、分散と、二つの言説が並置される場所とを局在化する。」(p. 231) 「[矛盾は]まず無数の顔をとって現われ、ついで除き去られ、最後にそれが頂点に達する大きな相剋のなかで回復される――そういう矛盾というものの偉大な働きの代わりに、考古学は、矛盾を、言説のあらゆるレヴェルに同じ仕方で行使される一つの一般的機能として扱うことをしりぞける。……考古学は、矛盾の相異なった類型、矛盾を見定めるための相異なったレヴェル、矛盾が発揮しうる相異なった諸機能、などの分析を置くのである。」(p. 232) 4 比較に基づく事実 「考古学的分析は、言説の形成=編制を個別化し、記述する。つまり、考古学的分析は、それらを比較し、それらが現われる同時性のなかで相互に対立させ、異なった暦をもったものからそれらを区別し、それらが特殊性をもちうるところで、それらをとりまき、それらの一般的要素として役立つ非言説的実践とそれらを関係づけるはずである。考古学的研究は、その点でも、理論の内的構造を分析する認識論的あるいは〈構成的〉な記述と大いに異なり、常に複数である。すなわち、それは多様な登録簿のなかで行使され、隙間と偏差とを経めぐる。」(p. 238) 「考古学がめざす地平は、それゆえ、〈一つの〉科学、〈一つの〉合理性、〈一つの〉心性、〈一つの〉文化ではない。それは、限界と交錯点がすぐには決められないさまざまな共同実定性の絡み合いである。考古学とは、つまり、比較に基づいた分析であり、この分析たるや、言説の多様性を減らすことや、言説を全体化すべき統一性を粗描することを運命(さだめ)られているものではなく、それらの多様性を相異なる諸形象のうちに配分することを運命(さだめ)られているものなのである。考古学的比較は、統一化する行為ではなく、多様化する行為である。」(p. 242) |
「考古学は明確に区別された次の五つの仕事を含んでいる。 「考古学はまた、言説形成=編制と諸々の非言説的領域(諸制度、政治的出来事、経済的実践および過程)との関係を出現させる。……考古学は、いかにして、言表的事実の総体が依存する――そして、それが属する実定性を特徴づける――形成=編制の諸規則が、諸々の非言説的なシステムに結びつけられうるか、を確定しようと試みる。すなわち、考古学は、分節化の特殊的な諸形態を確定しようと努める。」(p. 246) 5 変化と変換 「そしてまず、言説編制の外見上の共時性、ということがある。次の一つの事柄は真実である。すなわち、さまざまの規則が個々の言表のなかに与えられたにせよ、したがって、個々の言表によって使われたにせよ、それらの規則はその度ごとに変容されはしない。それらは、時間を横切って甚だしく分散した諸々の言表あるいは言表群のうちで活動しているのが見られる。たとえば、われわれは、博物誌のさまざまに異なった対象が、ほぼ一世紀の間……同一の規則に従っているのを見た。……さらにわれわれは、考古学的派生にしたがった諸言表の秩序が、必ずしも継起の秩序をつくり出さなかったことを見た。……したがって、かようなぶんせきにおいては、〈時間的継起〉が、――いっそう正確にいえば、諸々の編制のカレンダーが――保留される。だが、この保留はまさしく、言説編制の時間性を特徴づける諸関連、また、その交錯が分析を妨げないさまざまな系に時間性を分節化する諸関連、を出現させることを目的としている。」(p. 252) 「考古学は、言表の一総体の編制の諸規則を明確化する。そこからそれは、いかにして出来事の一つの継起が、それが現われる秩序そのものにおいて、言説の対象になりうるか、位置づけられ、記述され、説明され、概念中で形づくられうるか、理論的選択の機会を与えうるか、を表示する。考古学は、言説の浸透の度合と形態とを分析する。すなわち、それは、継起的な出来事の連鎖に対してその分節化の原理を与え、それによって出来事が言表のうちに転写されるさまざまな作用体を明確化する。……考古学は、さまざまな「外的」出来事と相関関係にある新しい諸言表の可能性を否定するものではない。その職務は、いかなる条件において、それらの出来事の間にかような相関関係がありうるか、また、その相関関係は正確に何から成り立つか(その諸限界、形態、コード、可能性の法則は何か)を示すことである。考古学は言説をさまざまな出来事のリズムに応じて動かす言説の可動性の問題を回避しない。」(p. 253)
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「考古学によって一つの実定性に与えられた編制のあらゆる規則は、同一の一般性を有しない。すなわち、そのいくつかはいっそう特殊的であり、他から派生する。この従属関係は単に階層秩序的でありうるだけでなく、また時間的なヴェクトルをも含みうる。かくして、一般文法においては、動詞-帰属関係の理論、および名詞-分節化の理論は、相互に結びついている。すなわち、後者は前者から派生する。が、両者の間に継起の秩序を確定することはできない。……考古学は、純粋に論理的な同時性の図式をも、出来事の線的な継起をも、モデルとしない。考古学は、必然的に継起的な諸関連と、そうでないような諸関連との交錯を示そうと試みる。……考古学は、継起に無関心であるどころか、〈派生の時間ヴェクトル〉を見定める。」(p. 254) 「考古学は、継起的なものとして与えられているものを同時的なものとして扱おうと企てるものではない。考古学は、時間を凍結させることも、一つの不動の形象を粗描する様々な相関関係を、出来事の時間の流れに代置することを試みるものでもない。考古学が保留するもの、それは、継起が一つの絶対、つまり、言説がその有限性の法則によってそれに従属する最初の、文化不可能な一つの連鎖、だとする主題である。それはまた、言説のなかには一つの形態しかなく、継起の唯一のレヴェルしかない、という主題である。」(p. 255) 「諸観念の歴史=思想史よりもはるかに自発的に、考古学は断絶、断層、空洞、実定性のまったく新しい形態、突然の再区分、などについて語る。……それ[考古学]は、歴史家たちが忍耐づよく張ったこれらすべての糸を、むしろ断とうとつとめる。それは差異を多様化し、コミュニケーションの様々な通路を入り込ませ、さまざまな移行をいっそう困難にするように努力する。」(p. 257) 「重要なのはこれらの差異を記述し、しかも、それらの間に、差異のシステムをうち立てることである。考古学に逆説があるとしても、それは、考古学がさまざまな差異を多様化することにあるのではなく、それらの差異を減少させることを拒む――それによって習慣的な価値を顚倒させる――ことにある。諸観念の歴史=思想史にとっては、表立って現われるような差異は、誤謬あるいは陥穽である。……考古学は、通常は人々に障害と考えられるものを、その記述の対象とする。すなわち、考古学は、さまざまな差異を克服することを企てとしないで、それらを分析すること、それらがなにから正当に成り立っているか、をいうこと、それらを〈差異化する〉こと、を企てる。」(p. 259) 「さまざまな実定性の出現と消滅……などは、同様な仕方で至るところに展開されるような一つの等質的な過程を構成しない。切断はすべての言説編制が同時に従属する一種の大きな一般的逸脱であるなどと考えないことだ。すなわち、切断とは、二つの明白な位相の間で……交叉する死んだ、中性化された時間ではない。それは二つの時代を分け、一つの断層の両側で二つの異質的な時間を展開するような持続なき誤謬ではない。それは常に、限定された諸々の実定性の間に、いくつかの判明な変換によって特殊化された一つの非連続性である。したがって、考古学的断絶の分析は、多くのさまざまに異なった変容の間に、類比、差異、階層秩序、補完性、一致、ずれ、などをうち立てることを主題とする。約言すれば、さまざまな非連続性それ自身の分散を記述することである。」(p. 265) 「考古学は、あたかもそれが変化と出来事との抽象的な統一性を破ったように、さまざまな断絶の共時性を脱臼させる。〈時代〉はその根底的統一性でも、その地平でも、その対象でもない。すなわち、たとえ考古学が時代について語っても、それは常に、確定された言説=実践についてであり、その諸分析の帰結としてである。……〈切断〉についても同じで、……切断とは、一つの、あるいは複数の言説編制の一般的体制にかかわる諸変換に与えられた名である。」(p. 268) |
6 科学と知 a)〈実定性、学問、科学〉 「考古学は諸学問を記述しない。たかだか、諸学問は、その明白な展開において、実定性の記述の下準備に役立つことができる。だが、それらは実定性の記述の限界を定めないし、それに決定的な切断を課することをしない。それらは分断の果てにもとのままで再び見出されることはない。設定された諸学問と言説編制との間に、一対一の対応関係をうち立てることができない。」(p. 271) b)〈知〉 「或る言説=実践によって規則的な仕方で形成=編成された総体、或る科学の構成に不可欠な諸要素――たとえそれらが必ずしも科学を生ぜしめるべく定められていないにしても――のこうした総体を、〈知(サヴォワール)〉と呼ぶことができる。一つの知とは、特殊化された言説=実践のうちで語られうるものである。すなわち、その科学的規約を手に入れることも手に入れないこともありうる相異なった対象によって構成された領域である。……諸科学から独立した知は存在する(それは諸科学の歴史的粗描でもなければ、その生きられた裏面でもない)、が、或る明確な言説=実践を欠いた知は存在しない。そして、すべての言説=実践は、それが形成=編制する知によって明確化される。」(p. 276) c)〈知とイデオロギー〉 「科学的言説(あるいは科学的過程の言説)は、一七世紀の経済学の知と一九世紀のそれとにおいて、同一の機能を与えない。あらゆる言説編制のうちに科学と知の間の特殊な関係が見出される。そして、考古学的分析は、それらの間に排除や除去の関係を(知からそっと立ち去り、まだ科学に抵抗するものや、知の隣接や影響によって、いまだ科学に関して不安定な状態にあるものを探し求めることによって)規定するかわりに、いかにして科学が知の要素のうちに登録され、機能するかを実証的に示す必要がある。 「そこから次のいくつかの命題が提出される。 |
4. 科学のイデオロギー的働きを出現させ、変容させるために、それに立ち向かうこと、それは、その働きに住みうる哲学的前提を明らかにすることではない。それは、その働きを可能にした、また科学を正当化する諸基礎に立ちかえることでもない。すなわちそれは、科学を言説編制として問い直すことである。」(p. 282) 「一個の言説編制について、複数の判明な現出を記述することができる。そのときから一つの言説=実践が個別化され、自己の自立性をうる瞬間、したがって諸言表の唯一の同じシステムが実現される瞬間、あるいはさらに、このシステムが自ら変換する瞬間、などを、〈実定性の閾〉と呼ぶことができよう。一個の言説編制の働きのなかで、言表の総体が自己を截りぬき、検証と首尾一貫性の規範を(そこに到達することさえなく)価値を与えようとするとき、また、それが知に対して主要な機能……を果たすとき、言説編制は〈認識論の閾〉をとびこえる、と言われよう。かように粗描された認識論的形象がいくつかの明白な基準にしたがうとき、その諸言表が、編制の考古学的諸規則に対してだけでなく、そのほかに命題構築のいくつかの法則に対しても応えるとき、その形象は一つの〈科学性の閾〉をとびこえた、と言われよう。最後に、こんどはこの科学的言説が、それにとって必要な諸公理、その用いる諸要素、それにとって正当な命題的構造、およびそれが受けいれられるさまざまな変換、などを想定しうるとき、かくしてそれが、自己自身から出発して、その構成する形式的建築物を展開しうるとき、その言説は〈形式化の閾〉を飛び越えた、と言われよう。」(p. 283) 「これらの相異なる閾を区別することも、それらの相仇にかようなずれの総体を記述することもできないような科学は、おそらく一つしかない。すなわち、数学のみが、たちまち実定性の閾、認識論の閾、科学性の閾、および形式化の閾をとびこえた唯一の言説=実践である。……モデルといえば、数学は科学的緒言説の大部分に対して、それらの形式的厳密さと論証可能性への努力の点で、まさしくモデルであった。だが、科学の実際の生成を問いただす歴史家にとっては、数学は一つの悪しき例――ともかく一般化しえない例――である。」(p. 286) e)〈科学史の相異なった類型〉 「認識論的形象や諸科学との関係における言説編制、実定性、および知の分析は、諸科学の歴史の他の可能的な形態から区別されるために、〈エピステーメー〉の分析と名づけられた。人々は、多分、このエピステーメーを、なにか世界観のごときもの、すべての認識に共通な、それぞれに同一の規範、同一の要請を課するような歴史の断片、理性の一般的な一段階、一時代の人々がそこから逃れえないような或るなにがしかの思想の構造……のごときもの、ではないかと疑うであろう。事実は、〈エピステーメー〉なる用語によってわれわれの解するのは、或る与えられた時代において、諸々の認識論的形象、科学、そしてときには形式化されたシステムを生みだすさまざまな言説=実践を統一する諸連関の総体である。」(p. 290) |
「エピステーメーの記述は、それゆえ、複数の本質的な特徴を示す。すなわち、それは汲みつくしえない一領野を開き、決して閉じられることはありえない。それは一時代のすべての認識が従う要請のシステムの再構成を目的とせず、諸連関の無際限な一領野を経めぐることを目的とする。……それは、さまざまな分解、ずれ、および、うち立てられ、解体する一致、の無際限に可動的な総体である。」(p. 291) f)〈他の考古学〉 「考古学が記述しようとつとめるものは、その特殊的構造における科学ではなく、それときわめて異なった、〈知〉の領域である。その上、たとえ考古学が、知を、認識論的諸形象および諸科学との関係において扱うとしても、考古学は同様に、知を、異なった一つの方向にしらべ、それを他の連関の束のうちに記述することができる。」(p. 296) V 結論 「たしかに、私は言説の超越性を否認した。言説を記述しつつ、それを一個の主体性と関連づけることを拒んだし、まず、あたかもそれが一般的形態でなければならなかったかのように、言説の通時的性質を有利に使うことをしなかった。しかし、だからといって、これらすべては、言語体系の一領域の彼方に、すでにそこで試されたさまざまな概念や方法を延長するように運命づけられてはいなかった。……私は歴史を否定しなかったし、変化という一般的で空虚なカテゴリーを留保したが、それは異なったレヴェルの変換を明らかにするためであった……。私は時間化の劃一的なモデルを拒むものだが、それというのも、個々の言説=実践について、その累合、排除、再活動などの諸規則、その派生の固有形態、多様な継起についてのその特殊な結合様態、などを記述するためであった。」(p.301) 「私はあくまで前進しようとした。私が勝利に確信を持っているのでもなければ、武器に自信があるからでもない。そうではなくて、それが今のところ不可欠なものと思われたからである。つまり、思考史をその超越性の隷属から解放することである。……重要なのは、この歴史を、いかなる目的論も前もって還元しえない一つの非連続性のうちで、分析することであり、それを、いかなる予備的な地平も閉じこめえないような分散のうちに見定めることであり、いかなる超越性の構成も主体の形式を課しえないような匿名性のうちに、それを展開するにまかせることであり、いかなる夜明けの復帰をも約束しない一つの時間性に、それを開くことであった。」(p.305) 「人々があなたに対して一つの実践について、その諸条件について、その諸規則について、その歴史的変換について、語るとき、意識の用語であなたに応えさせるあの怖れは、一体なにか? あらゆる限界、切断、同様、分解、などの彼方に、あなたをして、西洋の歴史的=超越論的な偉大な宿命を探し求めさせるあの怖れは一体なにか?」(p.316) (2010/9/10) |