ジャック・デリダ |
パッション 「斜めからの捧げ物」 〔一つの役割を演じる〕俳優とその分析者とを分かつ境界線は、たとえ両者のあいだの距離がどれほどであり、両者の差異がどれだけのものであろうと、確定的ではない。つねに浸透し合うものだ。その境界線は、ある点において、越境されねばならないとさえ言える。〔儀式の論理の〕分析が存在するためにはそうであるし、またそんな論理に適合したふるまい、規定通りに儀式化した行動が存在するためにもそうである。 (p. 6)
ある一つの「友愛の」動作、また「礼儀正しさの」動作は、もしそれが単純明快になにかの儀式=習わしの規則に従っているとすれば、友情あるものでもないし、礼儀正しくもないだろう。こういう義務、すなわち習わしと化した礼儀正しさの規則を免れるべきであるという義務は、義務のランガージュ(言葉づかい、語法)そのものを超えて、その彼方まで行くように、と命じている。ひとは義務によって友好的であってはならない。義務によって礼儀正しいのでもいけない。あえてこういう命題を、その危うさを知りつつ語るとき、おそらく私たちはカントに抗してそうしている。 (p. 15) 実際、もし義務に従って応えるとしたら、それは、〔友愛にもとるという〕基本的な配信に、さらにもう一つの過ちを付け加えることになってしまうだろう。すなわち、そうしようという意図、志向が欠けているのに、外見を取り繕うことによって、自分を非のうちどころのない者とする、と信じる過ちである。それゆえ友愛における「ねばならない[il faut]」、礼儀正しさにおける「ねばならない」については、それが〈義務の次元に由来するのではない〉と言うだけでは不十分である。それは規則の形態を取ってはならない、とりわけ習わし化した規則の形態を取ってはならない。友愛の動作、礼儀正しさの動作は、もしそれが、こうせよと命じる規定の一般性を、ある一つのケースへと適用する必要性に屈服するやいなや、自分自身を壊してしまう。(p. 17) 礼儀正しさという概念の内的な矛盾、また礼儀正しさがその範例[exemple]となるような、規範を立てる概念の内的矛盾は、どういうものか。それは、こういう概念が規則を当然のこととして含み、かつまた規則のない創出を当然として含んでいる、ということである。その規則はどんなものか。ひとが規則を知っており、しかし決してその規則に固執することはしない、という規則である。ただ単に礼儀正しいのは、礼儀作法によって礼儀正しいのは、非礼なのだ。だから私たちがここで問題にしている規則とは、ひとが行為するとき、単に規範を告げる規則に従ってふるまうことのないような仕方で、さらにはそんな規則の名においても、それへの尊敬によってもふるまうことのないような仕方で行為せよと命じる規則である。そしてこの規則は、回帰的=反復的であり、構造自体によるもので、一般的である。すなわちそのたびごとに独特な、特異なものであり、かつ範例的なのである。 (p. 18 ) そもそも「厳密さを求める」と言う場合には、仮定がある。つまり、厳密でなければならないという命令、厳密な意味合いで、もっとも厳密でなければならないという命令が、どんな問いも免れていると信じる仮定である。(p. 65)
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II あなたの名に、あなたの名の秘密に、次のことが帰する。つまりあなたの名が〈あなたの名のうちに〉消えることができる、ということにある。それゆえ、自己へと回帰しない、ということである。それはすなわち贈与の条件なのだ(たとえば、名を贈与するということの条件である)。だがまた同時に、自己の拡張ということ、自己の増加ということ、アウクトリタスauctoritas(所有権、保証、権威)ということの条件でもある。いま見た二つのケース、この同じく引き裂かれた受難=受苦(パッション)の場合において、もっとも大きな利益=恩恵とこの上ない剥奪とを分離することは、不可能である。それゆえナルシシズムの概念を、なにも矛盾しない、整合的で一貫した概念のように打ち立てることは不可能なのであり、したがってまた自己=私というものにある一義的な意味を与えりこともありえない。「自己」として自己を語ること、自己を動かすことは、不可能なのだ。 (p. 28) ひとはつねに応えない権利を持つし、持つべきであろう。こういう自由は、責任[responsabilité]そのものの一部をなす。すなわち責任につねに結びつけられるべき自由の一部をなしている。ひとは一つの呼びかけに、あるいはある招きに応えない自由を持つべきである。 (p. 38)
(……)私が文学一般を愛するのではなく、また文学を文学自身において愛するのでもないけれども、とにかく文学のうちにあるなにかを愛するとすれば、とくになんらかの美的な資質に還元されるのではなく、形式上の享受に還元されるのでもないなにかを愛するとすれば、それはまさに秘密の場においてであろう。ある絶対的な秘密の場において、であろう。そこにこそ、パッションがあるだろう。秘密がなければ、この秘密がなければ、パッションはない。だがしかし、こういうパッションがなければ、秘密もない。 (p. 63) どんなことでも一切を言ってよいというこの認可。それは、「主体」の責任ということを、一見したところ超-責任化[hyper-responsabilisation]ということまで拡張するものとしての民主主義と並んで進行しているように思える。だがしかし、この一切を言ってよいという認可は、ある絶対的な非応答への権利を承認する。応答することが問題とはなりえないようなところで、また応答することができる[pouvoir]とか、応答するべきである[devoir]とかいうことが問題となりえないところで、ある絶対的な非応答の権利を認めるのである。こういう非応答は、〈できる=能力=権力〉[pouvoir]の様態、また〈べきである=義務〉[devoir]の様態よりももっと原初的であり、もっと密かである。なぜなら非応答は結局のところ、pouvoirにもdevoirにも異質的なのだから。 (p. 65)
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偉大な人物たちも自国の国民の気質をどこかで受け継いでいるのではあるが、自国民の気質とは異なる何かを彼らはいつも持っている。彼らは固有の仕方でものを見、感じる。そして、自分たちの見方、感じ方を表現するために、類比の規則に従って、少なくともそこからできるだけ逸脱(s’écarter)しないようにしながら、新しい言いまわしを考案(imaginer)せざるをえなくなる。そうすることで、彼らは、自分たちの言語の特質(génie)に順応し、ダウ時に自分たちの天才(génie)をそこに加えるのである*。(筆者強調) (『起源論』2-1-15-153)
(……)無生物についての学問である物理学の分野においてだけ、力は理解し得ない原因の名なのである。だが、無生物から精神的な活動、思考、精神、観念へと移る時、力はその原義を取り戻すというわけではない。この場合、なおも隠喩が問題となるからである(「この語は身体から精神や魂に移された。(……)思考や(……)論述の力も語られる。だが、類比が教えてくれよう」(t.III,p.285))。つまり、〔力の〕「最初の観念」、原義は自らの身体の内的経験に――感知できるものである「内的な感覚、あるいは意識」に――とっておかれる。だが、私たちはここでどんな定義にも達していない。(p. 59) 〔『起源論』の〕第二章においては、想像はただ再現的であり、知覚されたものを「描きなおす」。この意味で想像は何も発明しないし刷新しない。ただ、既知のことがらのいろいろな有限な現前を互いに結びつけているだけだ。だが、現前するものと不在のものとの連関の力は「新しいもの」の産出を解き放つ。 こうした唯一の性質によって保障されて、言説は自同的命題によって、つまり明証(evidence)の内になされうるようになる。自同性は「明証のただひとつのしるし」(『推論する技術t.I,p.677) なのであるから。 いろいろな言語は恣意的に見えるほど不完全である。だが、よい作家たちにおいては言語はあまり恣意的に見えないことに気をつけてほしい。ある考えがよく表現されている時、すべては一つ一つの語の位置にいたるまで根拠を持っている。したがって、まさに天分に恵まれた人たちが言語のよいところすべてを作り出したのである。そして、天分に恵まれた人たちという時、私はこの人たちがその愛弟子にあたる自然のことを排除してはいない。 (p. 68) 〔よくできた言語である〕代数は類比が作り出す言語なのだから、言語を作り出す類比はいろいろな〔発見の〕方法をも作り出すのだ。あるいはむしろ、発見(invention)の方法は類比自体でしかないのである。 |
4 傍注または着目――浮遊する二頁 この意識の哲学、この知覚の現象学において、着目(remarque) という価値は頻繁に、多少なりともはっきりと、弁別的役割を果たしている。ここでは「着目する」能力が理論的認識と実践的認識を区別しているように見える。実践的認識は「混雑した諸観念」を生じさせる。こうした観念を再=表示すること(re-marque)が明晰さと理論的な価値(dignité)とをもたらすのだろうか。他方、『感覚論』より以前、『起源論』〔1746年〕――この書はライプニッツ批判で始まる――は〔ライプニッツ的な〕あいまい(obscure)で混雑した諸観念の実在を認めていない。(p. 82) 意識、無意識、着目といったコンディヤックのほぼすべての概念について、隔たり(écart)は構造的対立の隔たりではなく、程度の差の隔たりである。ある性質から他の性質へと微細で、段階的で、無限に微分的な移行があるのであるのであり、したがってそれはまた、ある性質からなおその性質自体であるものへの移行でもあるのだ。差異へのこの注目はつねに経験論を危険にさらしている。――また隠れた力(force occulte)をも危険にさらしている。認識は決して欠けているのではない、単にいくらか軽微であるだけなのだ。 (p. 84) (……)理性は本能である。理性と本能のあいだには程度の差しかないのだから、二つの概念はここでもまた対立してはいない。それでも、理性は本能ではない。程度の差(したがって類比)はあらゆる述部のである(est)を生み出しもするが、壊しもする。存在論的な個々の言表(énoncé)を同時に支えもし、取り去りもするのである。そして、すでにあらゆる形而上学的な規定(determination)ないしは限定(délimination)がある。たとえば、いわゆる感覚論(sensualisme)があり、本源的原理(principe original)のあらゆるかたちの援用がある。よって、次のような論証的構築物を同時に組み立てもし、また崩壊させもするものを分析することができよう。 感覚の能力は魂のあらゆる能力の最初のものであり、他の能力のただ一つの起源でさえ (……)コンディヤックは、『起源論』を含む彼の学説の記号=言語学的(sémio-linguisticiste)解釈に対して、また同時に、歴史を言説の歴史として、さらには論証的な言表(énoncés discoursifs)の自律的な歴史として読むことに対して、あらかじめ反対しているのである。実践的欲求の前=記号的な層にまで遡りつつ、コンディヤックはあらゆる学問的な言語、あらゆる理論的な言説を創設しようと、あるいは復元しようと望んでいるのである。(p. 88) それゆえ、私たちの感覚に三つのものを区別しなければならない。一、私たちが感じる知覚、二、その知覚と、私たちの外部の何かとのあいだに私たちがつける関係〔表象性〕、三、私たちが外部のものに関係づけるもの〔知覚内容〕が実際にそれらのものに属しているという判断、この三つである。(『起源論』1-1-2-9, 11)
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ひとは、秘密を停泊させて臨検すること〔秘密を理性に従うように説得すること〕は、つねに可能である。秘密にいろいろな物事を言わせることができるし、秘密がないところに秘密があるかのように信じさせることもできる。ひとは秘密を利用して、嘘をつくこと、欺くこと、誘惑することができる。秘密をもてあそぶこと、ちょうど一つのシュミラークル〔模擬〕、一つの擬餌[leurre]、さらにまたひとつの計略を活用するように、ひとは秘密を活用することができる。ある「効果」を活用するのと同じように、そうすることができる。ひとは秘密を、まるで絶対に奪取されることのない資源のように引き合いに出すこともできる。そうやって、他者に対して、ある幻想的な[phantasmatique]権力を確保することもありうる。それはごく日常的に生じていることである。しかしこのシュミラークルそのものがあるひとつの可能性を、さらになお証言している。つまり、その模擬をのり超える可能性を証言しているのである。この可能性は模擬をのり超えるのだが、しかし何らかの理念的な共同性へと向かってのり超えるのではない。むしろ、ある種の孤独〔独りであること〕[solitude]へと向かってのり超えるのである。そういう孤独はしかし、独りの孤絶した主体の孤独[solitude d’un sujet isolé]とはどんな共通の尺度もない孤独である。こうした独りの自我[ego]の、自分に属する固有領域[Eigentlichkeit]は、他我alter egoの類推的な間接的提示を生じさせるだろう。そしてそこに間主観性が構成されるだろう。 (p. 68) |
原註 「バラモン教によれば、人間は「負債として」en tant que detteこの世に生まれるのであり、この負債は人間の〈死すべき者〉という条件の印璽になっている。けれども、このことは、人間の本性が原罪によって規定されているという意味ではない。(……) 文学はつねに、自分がなすこと以上のものを言わんとし、教えよう、贈与しようとする。いずれにせよ、自分自身とは別のほかのものを言い、教え、与えようとする。だが、前にも言ったように、こういうことにおいて文学は、ただ次のことの範例となるだけである。つまり痕跡的なもの[de la trace]があるたびに、どこであれ至るところに起こることの範例となるだけである。痕跡的なものとといったけれども、あるいは恩寵的なもの[de la grace]と言うこともありうる。 (p. 95) (2011/11/20) |