ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <書 抜き書きメモ27>

吉見俊哉・若林幹夫編著
東京スタディーズ

紀伊国屋書店、2005

若林幹夫「余白化する都市空間」

お台場=臨海副都心で見られるこうした開発手法は、八〇年代のつかしんや九〇年代の恵比寿ガーデンプレイス等に典型的に見られた、都市空間のテーマパーク化のゆきついた先とも言える。こうした手法においては、再開発される土地の固有の歴史的文脈や空間的文脈はさほど考慮されることなく、来訪者たちに魅力的で、彼らをモノやサービスや空間それ自体の消費に導いてゆくような記号やイメージが配慮され、その結果、再開発された地区とその周囲の地域との間には、しばしばはっきりとした切断線が引かれていった。……
(恵比寿ガーデンプレイスの)再開発地区を「都市」と呼びながら、周囲の地域に背を向けるあり方は、やはりそれ自体を「都市」と僭称する六本木ヒルズの先駆けである。(p.16)

むろん、実際の東京の都市空間は「余白」などではなく、それぞれの場所に様々な営みが存在する。にもかかわらず、八〇年代以降の都市開発が生みだした自称「街」や「都市」に準拠する時、そして待たそう下刃を言及対象とする都市ガイドブック等に準拠する時、周囲の空間が「余白」に見えてしまうような錯視を内包した空間を、私たちは「現実」として生きているのである。(p.18)

お台場=臨海副都心で見られるこうした開発手法は、八〇年代のつかしんや九〇年代の恵比寿ガーデンプレイス等に典型的に見られた、都市空間のテーマパーク化のゆきついた先とも言える。こうした手法においては、再開発される土地の固有の歴史的文脈や空間的文脈はさほど考慮されることなく、来訪者たちに魅力的で、彼らをモノやサービスや空間それ自体の消費に導いてゆくような記号やイメージが配慮され、その結果、再開発された地区とその周囲の地域との間には、しばしばはっきりとした切断線が引かれていった。……
(恵比寿ガーデンプレイスの)再開発地区を「都市」と呼びながら、周囲の地域に背を向けるあり方は、やはりそれ自体を「都市」と僭称する六本木ヒルズの先駆けである。(p.16)

当時そこ(パルコを中心とする渋谷公園通り界隈)に群れ集まっていた人びとも含め、多くの人はそこにパルコ的なものだけを見ようとしたし、パルコ=西部資本もまたそうしたものだけを見せようとしてきた。そこでなされていたのは、資本の側も消費者の側も共に、現実の存在する非パルコ的な要素を了解の水準において遮断し、その空間の部分部分に布置された記号の系列(セリー)があたかもその空間の全域に広がるものであるかのようにして振る舞うという記号論的なゲームである。この記号のゲームにおいてなされる否認と遮断、選択的な認知の操作もまた、お台場=臨界副都心に「フロンティア」を見出す視線と同じく端的に虚偽意識的(イデオロギッシュ)である。(p.19)

八〇年代のつかしん、九〇年代の恵比寿ガーデンプレイス、そして現在のお台場のように、物理的にも巨大な更地を対象とする再開発が作りだしていったのはこのディズニーランド的な、想像力の働く余地が狭められ、「イメージの都市」が解釈や読み込みの必要もなくじかに人びとの眼前に迫り出してくるような都市空間である。そして二〇〇三年の夏、久しぶりにお台場を訪れた時そこに群れ集う人びとの屈託ない様子を見て私が感じてしまったあの「力なさ」の感覚も、おそらくはそのことと関係していたのである。(p.22)

吉見俊哉「迷路と鳥瞰」

八〇年代以降、東京ディズニーランドや東京湾街開発に始まり、六本木ヒルズや汐留、丸の内、日本橋の再開発に至るまで、バブル以降のこの二〇年ほどの間に起きたことは、現代の資本主義のなかでの東京の特権的な中心性をいまだかつてない水準まで強化する方向に作用してきた。いまや東京は、日本列島の経験の水準からすっかり乖離した水準に足場を求め、またそれを隠そうともしていないように見える。六本ヒルズのタワーからの眺望がリアルなのは、まさにこの上空からの三六〇度の眺望が、今日のグローバル資本が都市をまなざす視界と完璧に一致しているからにほかならない。(p.42)

田中研之輔「新宿ストリート・スケートボーディング」

……個人的な経験を手掛かりに確認しておきたいことは、そもそも「眠らない街」の形容に相応する「都市」とは、たとえば、上空から俯瞰的に見下ろした場合、それはごく限られた地理的なエリアにすぎない、という点である。そして、われわれが日頃思い浮かべる「イメージとしての都市」と、実際にストリートを歩く際に、自身の「身体を通じて経験する都市」との〈ズレ〉の感覚についてである。つまり、われわれが思い浮かべる都市像とは、第一に、「見る者」の俯瞰的な視点によって作られた都市を実際に「歩く者」として体験する時の違和感、という二重の〈ズレ〉を巧妙に含みこんだ上で成り立っている、ということである。(p.113)

山田晴通「脱・地名の歌詞世界の中で」

ピチカート・ファイヴの歌う「東京」は現実の場所を示す地名である以上に、ある抽象的な世界を構築するキーワードとして捉えるべきであるかもしれない。そこでは、国という単位のリアリティも、生活空間としての地方の存在も認められない。世界は「東京」やそれと同格の、航空や通信のネットワークで結ばれた大都市やリゾートだけから成り立つことになる。このような世界観は、大方の人びとには特異なものと映るかもしれないが、都心に生活と仕事の拠点を構え、日常的に国際的な都市間移動を繰り返しているような人びとには、正しくリアルなものであるはずだ。そして、そのような最先端の生活に憧れを抱く人びとにとっても、ピチカート・ファイヴの歌詞世界は幻惑的なものと感じられることだろう。(p.185)

中村由佳「〈マツキヨ〉が止まらない」

コーチの買い物袋をぶら下げて隣の〈マツキヨ〉に入り、ヒット・コスメを試用してみる。高級な装飾品からチープな生活雑貨まで、あらゆる流行を掌中に収めたいという果敢な精神がなければ、もはや都心という空間を楽しむことはできない。(p.198)

 

北田曉大「舞台としての都市/散逸するまなざし」

……江戸東京学の語りは――個別的に見れば濃淡・巧拙の差はあっても――相対として東京という都市に、ある種の歴史的・物語的な奥行き、つまりは「舞台性」を構成するうえで不可欠のアウラを供給する言説装置として作用していたといえよう。『Tokyo Walker』が若者向けの台本であったとすれば、文豪たちの足取りを歴史的に追尾する『東京人』は「大人」向けの台本であった。東京という都市空間を規定する地理的環境や、その歴史性によって、根津なら根津、下谷であれば下谷の舞台性を構成・演出する台本――たとえば、『Tokyo Walker』がクリスマスイルミネーションの聖地として取り上げる表参道(JTの広告=都市)は、江戸東京学においては同潤会アパートが歴史的地層を証言する場として歴史的意味を与えられる。江戸東京学的な語りが、都市に歴史的・物語的な奥行き=アウラを与え、首都東京の舞台性を擬製する言説装置として機能していたという認識に、大過はないように思われる。(p.242)

(『散歩の達人』の)「浅草・向島」特集の副題は、ずばり「都心の観光地をひやかし歩く」。下町の歴史的な奥行きとキュッチュさに「適度」な興味を抱きつつも、川端康成がどうとか荷風がどうとかに深入りすることなくあっさりと東京・下町の表層をつまみ食いすること。『アド街』(『アド街ック天国』)同様、記号・イメージの消費とも歴史的アウラの享受(歴史散歩!)とも無縁な平板な視線がそこには見いだされる。『散歩の達人』においては、歴史の情報も最新の情報も、俊信大勢(都市の大勢?)を脚色するだけの奥行きを失い並列的に(CF的に)、都市を歩く散歩者の身体を補完しているのだ。(p.244)

……情報誌な文化は現在、「カタログ」「マニュアル」に続く第三のフェーズへと移行しているということができる。「カタログ文化」において、断片的な情報様式は、ある種の抵抗的意味を担わされた賭金のようなものであったが、現在においてはむしろ誰もが知らず知らずのうちに実践する「日常」となってしまっている。雑誌や都市ではなく、人びとの身体が「広告的」「情報史的」になっているのだ。抵抗という意味も物語性(舞台)という意味も飽和し、身も蓋もないリアルのなかで、広告/情報/都市が融解していく事態。それは《八〇年代》的な消費社会・ポストモダン社会の解体を意味するのだろうか、それとも――東浩紀がいうように――八〇年代が果たし得なかったポストモダンの徹底を意味するのだろうか。(p.245)

吉見俊哉「占領地としての皇居」

明治政府は東京にとって、一種の「占領軍」だった。この占領軍は、江戸に進駐し、江戸市民たちが集住していた領域のなかではなく、それに隣接した外部、都市のエッジに本拠を構えた。それが旧江戸城であり、大手門周辺の武家屋敷群であった。明治政府はこれらの占領地において、旧体制の記憶を徹底的に消去していく。……やがて、……この一帯では「鉄道」「資本」「天皇」という三つのアンサンブルは直接作用していくことになる。これらはいずれも、「江戸」の武家的な空間が立ち退いていった跡地に作為的に挿入されていった〈近代〉の諸要素であった。(p.275)

一九六〇年代後半と八〇年代末の二つの美観論争が、大資本の戦略と天皇制感情の真っ向からの衝突としてきわめて類似していることは明らかである。すなわち、短期的には美観派が勝利し、東京海上も三菱地所も当初の計画を大きく修正しなければならなくなるのだが、そのことがやがて丸の内の大きな再開発、資本のより高度な集積への動きを加速させていく。……つまり、資本は短期的には皇居の美観を配慮する譲歩をしながらも、長期的にはつねに求心的なベクトルに優越し、この一帯を外に開き続けてきたのである。「占領」とその後の表象と記憶の操作を通じて構築された東京の空虚な中心は、その中心性をいつも遠心的な作用によって相対化され続けてきた。 (p.279)

(2011/5/10)