ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <書 抜き書きメモ25>

ジュディス・バトラー
ジェンダー・トラブル

竹村和子訳、青土社、1997年

序文

ジェンダーの意味にまつわる現代のフェミニズムの議論は、たいていの場合、何らかのトラブルの感覚に行きついてしまう。ジェンダーの意味をひとつに決定できないことが、まるでフェミニズムの失敗だと言わんばかりである。だがトラブルを否定的ニュアンスだけで考える必要はないだろう。 (p. 7)

わたしはボーヴォワールを読み、男中心の文化の中の女の存在は、男にとって、謎や理解不可能さの源であることを知った。そしてこのことはサルトルを読んだときにさらに確実なものとなった。サルトルのとっては、欲望――疑わしいことに、異性愛的で男性的なものだと考えられている欲望――は、ことごとくトラブルとみなされているのである。欲望を持つ男の主体にとってトラブルがスキャンダルとなるのは、女という「対象」がどうしたわけかこちらのまなざしを見返したり、視線を逆転させたり、男の立場や権威に歯向かったりし、それによって女という「対象」が男の領域に突然に侵入するとき、つまり予期しない行為体となるときである。男の主体がじつは女という《他者》に根本的に依存していることによって、男の自律性が幻想でしかないことが、突然にあばかれる。 (p. 8)

アイデンティティの基盤をなすと考えられているセックスやジェンダーや欲望というカテゴリーが、特定の権力配置の結果として誕生したものであることを示すには、ニーチェの概念をさらに推し進めたフーコーによって「系譜学」と呼ばれている批評方法を、ここで使う必要があるだろう。系譜学的な批評の目的は、抑圧によってこれまで不可視とされてきたジェンダーの起源や、女の欲望の内的真実や、本物で真正な性的アイデンティティを探し出すことではない。そうではなくて、多様で拡散した複数の起源をもつ制度や実践や言説の結果でしかないアイデンティティのカテゴリーを、唯一の起源とか原因と名づける政治上の利害を、探っていくことである。(p. 9)

第一章 〈セックス/ジェンダー/欲望〉の主体

一 フェミニズムの主体としての「女」

だがフェミニズムの理論と政治の関係をこのように〔考える女を十全に適切に表象する言語を創り出すことが、女を政治的に可視化するのに必要だとするような〕風潮は、最近では、フェミニズムの言説の内部から問題視されるようになってきた。女という主体そのものが、もはや安定した永続的ものとは考えられなくなってきたからだ。「主体」ははたして究極的に表象されるもの、いや究極的に解放されるものとして存在するのかどうか、疑問をもつような材料が数多くあらわれてきた。そればかりでなく、何が女というカテゴリーを構築しているのか、あるいは構築すべきかについても、ほとんど同意をみてはいない。(p. 19)

「主体」の問題は、政治とって、とくにフェミニズムの政治とっては、きわめて重要なものである。なぜなら法的主体というのは、ひとたび政治の法構造が確立されれば、そのとたんに「見え」なくなる排除の実践によってつねに生みだされるものであるからだ。換言すれば、主体を政治的に構築するときの目標は、正当化と排除であり、またこの政治操作は、その政治操作の基盤が法構造にあるとみなす政治分析によって、結果的に隠蔽され、自然なものとされてしまうのである。法の権力は、単に表象/代表しているにすぎないと言っているものを、じつは不可避的に「生産している」のである。(p. 21)

もし人が女で「ある」としても、それがその人のすべてでないことは確かである。その語がすべてを包摂することができないのは、ジェンダー化されるまえの「ひと」が、そのジェンダーを成り立たせている装具一式を超えたものであるからではない。そうではなくて、異なった歴史的文脈を貫いてジェンダーがつねに一貫して矛盾なく構築されているわけではないからであり、またジェンダーは、人種、階級、民族、性、地域にまつわる言説によって構築されているアイデンティティの様態と、複雑に絡み合っているからである。その結果、ジェンダーをつねに生みだし保持している政治的および文化的な交錯から、「ジェンダー」だけを分離することは不可能なのである。(p. 22)

おそらく文化の政治性(ポリティックス)が叫ばれているこの時期――「ポストフェミニズム」とも呼ばれてもいるこの時期――は、フェミニズムの主体を構築せよというこの命令について、フェミニズムの思想の内部から考えてみるのに恰好の時かもしれない。アイデンティティを存在論的に構築していくことの意味を、フェミニズムの政治実践の内部で徹底的に再考することは、フェミニズムを別の土壌で再生させる表象の政治を編みだすには、必要なことだろう。(p. 25)

二 〈セックス/ジェンダー/欲望〉の強制的秩序

(……)セックスそのものがジェンダー化されたカテゴリーだとすれば、ジェンダーをセックスの文化的解釈と定義することは無意味となるだろう。ジェンダーは、生得のセックス(法的概念)に文化が意味を書きこんだものだと考えるべきではない。ジェンダーは、それによってセックスそのものが確立されていく生産装置のことである。そうなると、セックスが自然に対応するように、ジェンダーが文化に対応するということにはならない。ジェンダーは、言説/文化の手段でもあり、その手段をつうじて、「性別化された自然」や「自然なセックス」が、文化のまえに存在する「前-言説的なもの」――つまり、文化がそのうえで作動する政治的に中立な表面――として生産され、確立されていくのである。(p. 29)

三 ジェンダー ――現代の論争の不毛な循環

「セックス」であれ、「ジェンダー」であれ、「構築」の意味そのものであれ、その中で執拗に可変性を阻んでいる部分はどこなのかを知れば、今後の分析によってどんな文化の可能性が起動しうるか、しえないかを知ることができる。ジェンダーを言説の面から考察するときの分析の範囲が、文化の内部で想像しうる、また実現しうるジェンダーの配置を、まえもって仮定し、まえもって決めてしまう。これはべつに、いかなるジェンダーの可能性、あらゆるジェンダーの可能性が開かれているということではない。そうではなくて、分析の範囲が、言説によって条件づけられる経験の範囲を示してしまうのである。(p. 29)

単声的な意味づけに安住する言語においては、女のセックスは抑制できないもの、名づけえないものを構築する。この意味で、女は「ひとつ」のセックスではなく、多数のセックスである。女は《他者》と名づけられていると主張するボーヴォワールとは逆に、イリガライは、主体も《他者》も両方とも、男社会を支える大黒柱であって、女性的なものを完璧に排除することによって全体化という目的を達成する閉じた男根ロゴス中心主義の意味機構(エコノミー)を支えるものだと言う。ボーヴォワールにとって、女は男の否定形であり、男のアイデンティティがそれに照らしてみずからを差異化する欠如であった。だがイリガライは、まさにこの弁証法そのものが、それとは異なった全く別の意味機構を排除するシステムを作り出していると言う。意味する主体と意味される《他者》というサルトル流の枠組みでは、女は誤って表象されるが、それだけでなく、この意味づけの誤りこそ、表象の構造全体が不適切なものであることを如実に示している。だからこそひとつでないセックスは、覇権的な表象作用や、主体概念を構築している実体の形而上学を批判するときの、出発点となりえるのである。(p. 33)

(……)イリガライなら、女という「セックス」は言語上の不在の点であり、その実体を文法的に明示することが不可能なものであり、ゆえにそのような実体は、男中心の言説が持続的で基盤主義的な幻想であることを暴くものだと主張するだろう。だからこの種の不在は、男中心の意味機構の中では、そのものとしてしるしづけられることはない――この点では、男のセックスはしるしづけられていないが、女のセックスはしるしづけられているというボーヴォワールの(そしてウィテックの)主張を逆転させる。(p. 34)

(……)女というセックスは、ひとつではない主体でもある。シニフィアンとシニフィエの閉じた循環を構成しているのが男性的なものであるような意味機構では、男性的/女性的という関係を表象することはできない。皮肉なことにボーヴォワールが『第二の性』のなかで、男は女の問題を解決することができない、なぜなら男はこの件に関して、裁判官と当事者の両方を演じているからだと言ったとき、この表象の不可能性を予示していたのである。(p. 35)

プラトンから始まり、デカルト、フッサール、サルトルへと続く哲学の伝統のなかでは、魂(意識、精神)と身体の存在論的な区別が、終始一貫して政治的、精神的な従属関係や階層秩序を支えてきた。精神は身体を従属させるだけでなく、ときとして身体からまったく逃げおおせるという幻想をもつことすらある。文化のなかで精神が男性的なものに、身体が女性的なものに結びつけられてきたことは、哲学とフェミニズムの資料によってじゅうぶんに裏づけられる。(p. 37)

四 二元体、一元体、そのかなたの理論化

ボーヴォワールが注意を向けるのは、非対称的な項目間の弁証法では両者の相互作用をえることは不可能だという点であり、イリガライが主張するのは、その日対称的な弁証法そのものが、男中心の意味機構がおこなう一方的な説明だということである。イリガライはたしかに、男中心の意味機構がいかに認識論的、存在論的、論理構造をなしているかをあばいてみせ、それによってフェミニズム批評の視野を拡大した。しかし彼女の分析の力は、分析の範囲をあまりにも広げてしまったために、弱まってしまった。いったい性差が生みだされるさまざまな文化的、歴史的文脈を横断して存在する、一方的で一枚岩的な男中心の意味機構を同定(アイデンティファイ)することなどできようか。ジェンダーの抑圧が作動するさいの個々の文化に個別性を認めないことは、一種の認識論的な帝国主義なのではないか。(p. 39)

(……)対話の可能性を条件づけ、制限づけている権力関係はどういうものかを、まずはじめに問わなければならない。さもなければ対話モデルは、語っている行為者がみな同じ権力位置にいて、何が「同意」で、何が「統一」化について全員が同じ前提で話をし、またじっさいに、「同意」や「統一」こそが達成すべき目標だと仮定するようなリベラル・モデルのなかに、逆戻りしてしまう危険性をもつことになる。まず「女」というカテゴリーがあり、それを完全なものにするには人種・階級・年齢・民族・セクシュアリティといったさまざまな要素を単純に充填していけばいいとまえもって仮定してしまうなら、それはまちがいだ。カテゴリーとは本質的に不完全なものだと仮定することによってのみ、そのカテゴリーを、さまざまな意味が競合する永遠に使用可能な場として機能させることができる。そうなれば、カテゴリーの定義上のこの不完全さが、強制力から解放された基準的な理想として機能しうるものになるかもしれない。(p. 42)

ジェンダーとは、その全体性が永久に遅延されるような複雑さであって、ある特定の瞬間に全容が現れ出るものではない。だから、開かれた連帯というのは、目のまえの目標にしたがってアイデンティティが設定されたり、放棄されたりするのを認めるものである。それは、定義によって可能性を閉じてしまうような基準的な最終目標(テロス)にしたがうことなく、多様な収束や分散を容認する開かれた集合なのである。(p. 44)

五 アイデンティティ、セックス、実体の形而上学

フーコーが皮肉を込めて語ったような、セックスの「真実」があるかもしれないという考え方を生みだしているものは、まさに、首尾一貫したジェンダー規範というマトリクスを通じて首尾一貫したアイデンティティを産出している規制的な実践なのである。欲望の異性愛化は、「オス」や「メス」の表出と考えられている「男らしさ」や「女らしさ」という、明確に区別された非対称的な対立を生産するよう要請し、そしてその対立を制定するものである。ジェンダー・アイデンティティを理解可能なものにしている文化のマトリクスにおいては、ある種の「アイデンティティ」は「存在する」ことができない――つまり、ジェンダーがセックスの当然の帰結でないようなアイデンティティや、欲望の実践がセックスやジェンダーの「当然の帰結」でないようなアイデンティティは存在できない。「当然の帰結」とはセクシュアリティの形状や意味を確立し規制している文化の法によって制定されている政治的な必然のことである。(p. 47)

フランスのフェミニズムやポスト構造主義の理論領域を見わたせば、セックスのアイデンティティ概念を生みだすと理解されている権力体制はまちまちであることがわかる。たとえばイリガライのように、セックスは男のセックスひとつしかなく、それも《他者》を生産するなかで、それをつうじて、作りあげられるという説と、フーコーのように、男のセックスであろうと女のセックスであろうと、セックスというカテゴリーは、セクシュアリティというカテゴリーは、セクシュアリティを次々と規制していく機構(エコノミー)のよって生産されるという説のあいだの距たりを考えてみればよい。また、セックスというカテゴリーは強制的異性愛の条件下ではつねに女である(男性的なものにはしるしがつけられず、それゆえ「普遍」と同義となる)と主張するウイティッグが、異性愛支配をくずし放逐することによってセックスのカテゴリーそのものが消滅する――実際には散逸する――と主張するとき、彼女はフーコーと意見を同じくしているのである。(p. 48)

イリガライの見方では、ジェンダーに関する実体的な文法は、男と女を想定し、それらの属性として男性的なものと女性的なものを想定しているので、男中心の単声的で覇権的な言説、つまり男根ロゴス中心主義をうまく隠蔽して、女性的なものを破壊的な多様性の場所に押し込め沈黙させる二元的な考え方の、ひとつの例なのである。フーコーによれば、セックスに関する実体的な文法は、両性のあいだに人工的な二元関係を押しつけると同時に、その両方の項の内部に人工的な内的首尾一貫性も押しつけるものであり、このセクシュアリティの二元的な規制が、異性愛や生殖や法医学の支配を打ち砕くようなセクシュアリティの撹乱的な多様性を、抑圧しているのである。(p. 49)

「ジェンダーは、両性間の政治的な対立関係の言語上の指標であるジェンダーはここでは単数形で使われているが、その理由は、実際に二つのジェンダーは存在していないからである。ジェンダーは一つしかない。それは女性性というジェンダーである。「男性性」はジェンダーではない。なぜなら男性性は、普遍性であるからだ。」(Monique Witig, “The Point of View: Universal or Particular?” Feminist Issues, vol. 3, no. 2 (Fall 1983), p. 64)
したがってウイティッグがセックスの粉砕を要求するとき、その目的は、女が普遍的な主体の地位につくことである。その粉砕へいたる道筋で、「女」は特殊と普遍の両方の視点をもたなければならない。(p. 50)

『性の歴史』第一巻の終章、および『エルキュリーヌ・バルバン、最近発見された一九世紀の両性具有者の日記』につけられた短いが重要な序文のなかでフーコーが示唆しているのは、どのような性差のカテゴリー化にも先立つセックスのカテゴリーは、じつは特定の時代のセクシュアリティの様式をとおして構築されたものにすぎないセックスを二つに切りわけるカテゴリーかを生産する戦術は、「セックス」を、声的な経験や行為や欲望の「原因」と定めることによって、その生産装置の戦略的な目的を隠蔽してしまうのである。フーコーの系譜学的な研究があばいているのは、「原因」のようにみえるものが、じつは「結果」であると言うことだ。つまり、明確に区分された二つのセックスのカテゴリーを、セクシュアリティの言説のすべての基盤や原因とみなして、セックスにまつわる経験を規制していくことこそ、既存のセクシュアリティの体制が行っている産出作業なのである。(p. 55)

(……)ジェンダーは名詞ではないが、自由の浮遊する一組の属性というのでもない。なぜなら、ジェンダーの実体的効果は、ジェンダーの首尾一貫性を求める規制的な実践によってパフォーマティヴに生みだされ、強要されるものであるからだ。したがってこれまで受け継がれてきた実体の形而上学の言説のなかでは、ジェンダーは結局、パフォーマティヴなものである。つまり、そういう風に語られたアイデンティティを構築していくものである。この意味でジェンダーはつねに「おこなうこと」であるが、しかしその行為は、行為のまえに存在すると考えられる主体によって行われるものではない。ジェンダー・カテゴリーを実体の形而上学の外側において考察しなおそうとするなら、『道徳の系譜』におけるニーチェの主張――「おこなうこと、もたらすこと、なることの背後に『あること』はない。『行為者』は行為に付けられた虚構でしかない――行為がすべてである」――が正しいことを、ここで考慮すべきだろう。この主張を、おそらくニーチェは予想もせず、認めもしなかったように応用して、命題として次のことが言えるかもしれない。ジェンダーの表出の背後にジェンダー・アイデンティティは存在しない。アイデンティティは、その結果だと考えられる「表出」によって、まさにパフォーマティヴに構築されるのである。(p. 58)

六 言語、権力、置換戦略

イリガライなら、ジェンダーの「しるし」は、覇権的な男の意味機構の一部をなすものであり、この意味機構は、西洋哲学の伝統のなかで存在論の領域を事実上決定してきた思考メカニズム――それ自身を自分で作る上げる思考メカニズム――をつうじて作動するものと言うだろう。だがウイティッグにとっては、言語は決してその構造においてではなく、その適用において女性蔑視であるような手段であり、道具なのである。他方イリガライの見解では、女性性にとって男根ロゴス中心主義による女のセックスの抹消でしかないジェンダーの「しるし」をまぬがれるための唯一のチャンスは、べつの言語やべつの意味機構の可能性なのである。イリガライが明らかにしようとしているのは、両性間の「二元的」な関係と見えるものが、じつは女性的なものをことごとく排除する男中心主義の策略にすぎないということである。逆にウイティッグは、イリガライのような姿勢こそ、男性性と女性性という二分法を再強化し、女性性の神話を再流通させるものだと主張する。女性性の神話を『第二の性』で批判したボーヴォワールに明らかに追随して、ウイティッグは「『女特有のエクリチュール』は存在しない」と断言する。(p. 61)

ラカンにおいては、そしてイリガライによるポスト・ラカン的なフロイトの再定義においても、性差は、実体の形而上学を基盤として温存している単純な二分法ではない。男性的な「主体」とは、近親姦を禁止し、かつ異性愛化の欲望の無限の置き換えを強制する法によって生みだされる架空の構築物である。女性的なものは、決して主体のしるしにはならない。女性的なものは、ジェンダーの「属性」には決してなりえない。むしろ女性的なものは欠如の意味であり、《象徴界》――すなわち、性差を生みだす差異化の言語法則――によって意味づけられるものである。男性的な言語位置は、《象徴界》の法――《父》の法――の基盤をなす禁止によって要求される個体化と異性愛化を経験する。息子を母から引き離し、それによって両者のあいだに親族の関係を樹立する近親婚タブーは、「《父》の名のもとに」制定された法である。同様に、女児が母と父のどちらにも欲望することを禁じる法は、女児に対して、母性という符牒を身につけ、親族の規則を永続化させることを求めるものである。(p. 64)

〔ジャクリーヌ・〕ローズがはっきりと指摘しているように、男性性/女性性という分離軸にそって首尾一貫した性的アイデンティティを構築しようとする行為は、必ず失敗する。抑圧されたものがふいに姿を現わすことによって、この首尾一貫性は崩壊し、「アイデンティティ」が構築物だということだけでなく、アイデンティティを構築している禁止が無効であることも明るみに出していく。(父の法は、決定論的な神の意志としてではなく、永続的な失敗であり、たえず父への反乱の土壌を用意するものだと理解すべきである)。(p. 65)

フェミニズムの理論や実践のなかのセクシュアリティ論者は、セクシュアリティはつねに言説や権力に関連して構築されるものだと説得的に論じてきた。その場合の権力は、ある部分、異性愛的で男根的な文化慣習として理解されているものである。したがって異性愛的で男根文化的な次元で構築された(決定はされない)セクシュアリティが、もしもレズビアニズムや両性愛や異性愛の文脈のなかに出現したとしても、それは何らかの還元的な意味での男への同一化を意味する記号ではないはずだ。それを、男根ロゴス中心主義や異性愛支配を批判する企てに失敗したものとみなすべきではない――あたかもフェミニストの批評家自身の文化構築されたセクシュアリティが、政治批判のよってうまく解体できるかのように。もしもセクシュアリティが、既存の権力関係の内部で文化的に構築されるものならば、基準的なセクシュアリティを権力の「まえ」や「そと」や「むこう」に措定することは、文化的に深野であり、政治的には実践できない夢であり、また権力関係の内部でセクシュアリティやアイデンティティの撹乱の可能性を再考していこうとする現時点での具体的な課題を遅延させるものである。(p. 68)

ゲイやストレートを問わず、性の文化のなかで異性愛の構造が反復されている場所こそ、ジェンダー・カテゴリーの脱自然化、流動化にとって必要な場所だと思われる。非異性愛的な枠組みのなかで異性愛構造が反復されることは、いわゆる起源(オリジナル)と考えられている異性愛が、じつはまったく社会の構築物であることを、はっきりと浮き彫りにするものである。だからゲイとストレートの関係は、コピーとオリジナルの関係ではなく、コピーとコピーの関係なのである。(p. 69)

人は女に生まれない、女になるというボーヴォワールの主張に何か正しいものがあるとすれば、その次に出てくる考えは、女というのがそもそも進行中の言葉であり、なったり、作られたりするものであって、始まったとか終わったというのは適切な表現ではないということである。現在進行中の言説実践として、それは介入や意味づけなおしに向かって開かれているものである。たとえジェンダーがもっとも具象的な形態のなかに凝固しているようにみえたとしても、「凝固しつつある」ということ自体が、さまざまな社会手段によって維持され規制されている執拗で狡猾な実践なのである。(p. 729)


第二章 禁止、精神分析、異性愛のマトリクスの生産

フェミニズムの理論のなかで「そのまえ」を措定することは、もしそうすることで未来が理念的な過去の実質化になったり、あるいはたとえそのつもりはなくても、真正な女性性という文化のまえの領域を物象化することになってしまうなら、それは政治的な問題となる。このように始源的(オリジナル)で正真正銘の女という概念に頼ってしまうことは、ジェンダーを複雑な文化構築として解明すべきだと主張する現在に要求とは矛盾する、懐古的で偏狭な理念である。この種の理念化は、文化的に保守的な目的に寄与するだけでなく、この理念化が乗り越えるつもりの分断をまさに促進するという意味で、フェミニズムのなかに排他的な実践をもたらすものである。(p. 78)

セックス/ジェンダーと自然/文化の二分法は、どのように互いのなかで、また互いをとおして構築され、自然化されているのか。それらの二分法はどのようなジェンダーの階層秩序に役立っているのか、どんな従属関係を物象化しているのか。もしもセックスの意味づけが政治的なものならば、「セックス」――たいていは生(なま)のものだと考えられているもの――はつねにすでに「料理されたもの」ということになり、構造主義文化人類学の主たる区別は崩壊してしまうのである。(p. 49)

一 構造主義の危うい交換

あらゆる親族組織には、それを特徴づける規制的な交換という普遍構造が存在すると述べるレヴィ=ストロースに同調して、構造主義の言説は、《法》を単数とみなす傾向がある。『親族の基本構造』によれば、親族関係を強化すると同時に差異化する役目をする交換の対象はであり、それは結婚という制度をつうじて、父系的な氏族から別の父系的な氏族へと、贈与として与えられる。花嫁、贈与、交換の対象は、交換通路を開く「記号と価値」となるものだが、これには交易を容易にする機能的な目的のほかに、この行為をつうじて差異化される各氏族の内的結束――つまり各氏族の集合的アイデンティティ――を強めるという象徴的儀礼的な目的もある。還元すれば、花嫁は、男によって構成される集団をつなぐ関係項として機能するのである。花嫁はアイデンティティをもつことはなくあるアイデンティティから別のアイデンティティへと変わることもない。花嫁はまさにアイデンティティ不在の場所となることによって、男のアイデンティティを反映する。(p. 83)

イリガライが言うように、この男根ロゴス中心主義の機構が本質的に依拠しているのは、決して表にあらわれず、つねに前提とされつつも否認される差延の機構である。事実、父系列の氏族関係の基盤にあるのは、抑圧され、したがって謗られているセクシュアリティ、つまりホモソーシャルな欲望(イリガライは駄洒落で、「ホモ・セクシャリティ(単一のセクシュアリティ)」[homo-sexuality]と呼んだ)なのである。すなわち、結局は男同士の絆に関わるものであるにもかかわらず、異性愛的な女の交換と配分をとおしてのみ形成される男同士の関係なのである。(p. 86)

レヴィ=ストロースは、息子と母のあいだの異性愛を禁じる近親婚タブーは、近親姦の幻想と同様に、文化の普遍的な真理だとみなしている。ではいかにして異性愛の近親姦が、人為のまえに存在する自然な欲望のマトリクスと見えるものになるのか。いかにして欲望は、異性愛の男の特権となるのか。性の行為体(エイジェンシー)が男であることや異性愛を自然なものとみなす考え方は、言説によって構築されたものにすぎず、それを基盤にする構造主義の枠組みではどこもきちんと説明されていないのに、どこでもかならず前提とされている事柄なのである。(p. 89)

二 ラカン、リヴィエール、仮装の戦略

ラカンは、《ファルス》をもたない《他者》は《ファルス》である者とまず述べておいて、次に、権力というのは、〈もたない〉というこの女の位置によってふるわれるものであり、《ファルス》を「もつ」男の主体は、この《他者》に対して、《ふぁるす》をついにんせよ、そしてそれによって「拡大的な」意味で《ファルス》になれと命じているのだと述べている。(p. 92)

女は《ファルス》で「ある」と言われているが、それは女が、男の主体という自己基盤的な位置の「現実性」を反映し、またそれを再=現前(リプレゼント)させる力をもっているという意味においてである。つまり女は、男性的な主体位置という基盤的な錯覚を打ち砕く力を(たとえ今は奪われてはいても)、理念的にはもつとされているのである。《ファルス》――すなわち、一見して男に設定されている主体位置を反映し、保証するもの――は、女である。そのような女は、ファルスで「ある」ために、男でないものになること、男でないもので「ある」ことが求められ(ただし「あたかもそうであるかのような身ぶりで」という意味においてだが)、男でないという、その欠如の位置につくことによって、男の本質的な機能をゆるぎないものにしなければならない。だから《ファルス》で「ある」ことは、男という主体「のために存在している」ことであり、男という主体は、この「~のために存在する」ものを認めることによってのみ、彼のアイデンティティをくりかえし確認し、増大させることができる。語気強くラカンは、男が女の意味を意味づける、あるいは女が男の意味を意味づけるという考え方に反駁する。《ファルス》で「ある」ことと、《ファルス》を「もつ」ことの区別と両者の交換は、《象徴界》すなわち父の法によって確定されるものである。もちろんこの不均衡な互恵モデルの喜劇的側面は、男性的な位置と女性的な位置の双方がともに意味づけられているものにすぎないということ、そしてそれを意味づけているシニフィアンが、この二つの位置によって表徴形態として表されているだけの《象徴界》に属しているということである。(p. 94)

ラカンはなおもこの異性愛の喜劇を説明して、女に強制されている《ファルス》で「あるように見える」ことは、当然、仮装であると説明する。仮装という用語は、これが矛盾した意味をもつので、重要な用語である。一方で、もしも「あること」――すなわち《ファルス》という存在論的な個別性――が仮装ならば、すべての「あること」は見せかけ――「あること」の見せかけ――の形態となり、その結果、あらゆるジェンダーの存在論は見せかけの戯れになってしまう。他方、仮装というのは、仮装に先立つ女性性で「あること」――即ちそのような存在論の個別性――も示唆するものである。その場合、女の欲望や女の欲求は、今は仮面をつけてはいるが、それをはずして本当の顔を見せることも可能であり、つまりは男根ロゴス中心主義の意味機構を、やがては解体し、置換する可能性も見せてくれるものとなる。(p. 96)

(……)リヴィエールは、同性愛の男と仮面をつけた女のあいだに類似を見いだしたが、それは、彼女の見方では、男の同性愛と女の同性愛が類似しているということではない。女らしさとは、みずからに「男らしさを望む」女が、公的に男らしい外見をとることで受ける報復を恐れて、身につけるものである。だが男らしさは、女らしく見えることを、おそらく他人からではなくて自分自身から隠そうとしている同性愛の男が、身につけるものである。女は自分が去勢したいと願っている男の観客から、自分の男らしさを隠そうとして、それを承知で仮装する。だが同性愛の男は、自分自身の同性愛を認めることができないため(あるいはもしもそれが分析者のものであれば、分析者自身がそれを認めたくないからか)、自分の「異性愛」(異性愛者として通用しうる男らしさの意味なのか)を、「防御」として、それと知らずに誇張すると言われている。換言すれば、同性愛の男は去勢を望むと同時に恐怖することによって、思わず知らず、自分自身に報復しているのである。フェレンツィやリヴィエールにはわかっているようだが、同性愛の男は、自分の同性愛を「わかって」いないのだ。(p. 104)

物真似や仮面に先立つ女性性はないという彼女〔リヴィエール〕の主張は、スティーヴン・ヒースによって「ジョーン・リヴィエールと仮装」という論文で、「本物の女性性は、それを演じる物真似であり、仮装である」という考えを証明するものとして取り上げられた。リビドーは男性的な性質だという考え方に基づいて、ヒースは、女性性はそのようなリビドーを否定するものであり、「基盤に存在する男性性を隠蔽、偽装するもの」だと結論づけた。(p. 106)

三 フロイトおよびジェンダーのメランコリー

息子=父の同一化という初期の説明で、フロイトは一次対象の備給なしに同一化は起こると考え(『自我とエス』二一)、同一化は、息子の父への愛の喪失や禁止の結果でないことを暗示した。しかしのちにフロイトは、正確とジェンダー形成のプロセスにおける複雑な因子として、一次的な両性愛を措定することになる。このようにリビドー気質を両性愛的なものにすれば、父に対する息子の始源的(オリジナル)な性愛を否定する理由は何もないはずだが、フロイトは、そこに何か理由があるように仄めかしている。他方、息子は母に対しては一次的なリビドー備給を保持しており、そこで両性愛が可知のものになるのは、男児が母を誘惑しようとするときの男児の男性的および女性的な行為においてであるとフロイトは言う。(p. 116)

女性気質と男性気質は、双方を意図的に関連づける異性愛という目標をもっているので、この枠組で両性愛を概念化したフロイトは、両性愛を、一つの精神のなかの二つの異性愛欲望の同時発生とみなした。その結果、男性気質は、性愛の対象として父に向かうことはけっしてなく、女性気質は母に向かうことがけっしてない(女児はそのような方向に向かうかもしれないが、これは、女児が自分の気質の「男性的な」部分を放棄する以前のことである)。母を性愛の対象として拒否することで、女児は、自分の男性性を必然的に否定し、ひるがえって自分の女性性を、結果として「固定」していくのである。したがって、両性愛を一次的なものとみなすフロイトの論においては、同性愛はありえず、対立する者のみが惹かれ合うということになる。(p. 119)

メランコリーは、対象を喪失した事実を否定するものであり、また喪失した対象を内面化することは、その対象を魔法のように蘇生させる戦力となる。そうする理由は、喪失が辛いものであるからだけではなく、対象に感じていた二律背反の感情が、その差異がなくなるまで対象を保持しておくことを求めるからである。(p. 120)

では喪失した愛と自我が永遠に共生する精神のトポスは、正確には何なのか。たしかにフロイトは、自我を概念化したおりに、自我はさまざまな道徳的な作用(エイジェンシー)として働く自我の理想像をつねにともなうものであると述べた。自我のなかに内面化された喪失は、道徳的な監視という作用の一部となって、ふたたび確立される。つまり、もともと外部の対象に向けられていた怒りや非難が、内面化されるのだ。この内面化においては、喪失によって必然的に高められていた怒りや非難は、内側に向けられ、保持されていく。自我は内面化した対象に場所をゆずって、その内面化された外部に、道徳的な作用と力を与える。そして自我によって保持されているにもかかわらず自我と対立するこの自我理想に、自我はその怒りやはたらきを吸収させていくのである。換言すれば、自我は自我自身に対立する道を構築していくのだ。実際フロイトは、この自我の理想像が超道徳となる可能性を警告しており、それは極端な場合、自殺を引き起こすこともありえると述べている。(p. 121)

メランコリーにおいては、愛する対象はさまざまな方法で喪失されている。別れ、死、感情的な絆の切断である。だがエディプス状況においては、喪失は一連の罰をともなう禁止を必要とする。したがってエディプス・ジレンマを「解決する」ジェンダーののメランコリックな同一化は、外から強いられるタブーによってその構造とエネルギーを得ている道徳命令の内面化であると理解すべきである。フロイトは明白に断言していないが、同性愛タブーが、異性愛の近親姦タブーに先立つものであるはずだと言っているように思われる。つまり同性愛タブーが異性愛「気質」を作りだし、この異性愛気質によってエディプス抗争が可能になると言っているのである。異性愛の近親姦を目標とするエディプス・ドラマに参与する男児や女児は、明確に区分されたセックスの方向へと彼らを「定置していく(ディスポーズ)」禁止に、すでに隷属しているのである。したがって、フロイトが性生活の基本であり、それを構成する事実であるとみなした気質は、内面化されてはいるが、二つのジェンダー・アイデンティティと異性愛を生産し規定していく法の、結果なのである。(p. 124)

近親姦タブーおよび、それとなく暗示されている同性愛タブーは、「気質」という概念のなかに起源としての欲望を措定する抑圧的な命令であり、その結果欲望は、起源としての同性愛リビドーを抑圧せざるをえず、かつそれに置き換わった異性愛欲望という現象を生みだすものとなる。幼児発達におけるこの特殊なメタ物語の構造では、性の気質は、言説以前のもので、時間的には一次的で、存在論的には二つの性衝動――言語と文化のなかに登場するまえに目的と意味をもっている二つの性衝動――だと見なされる。文化の領域に入るということは、その欲望を当初の意味から屈折させるということであり、その結果、文化の内部の欲望は必ず一連の置換を受けることになる。したがって抑圧的な法は、異性愛を結果的に生産し、単に否定的で排他的な掟としてではなく、認可として、もっと適切な言葉をつかえば、語りうるものと語りえないものを区分する。(語りえない領域を枠づけ、それを構築する)、または合法的なものと非合法的なものを区分する言説の法としてはたらくものなのである。(p. 126)

四 ジェンダーの複合生、同一化の限界

嘲笑的な引用に満ち満ちているイリガライの読みは、フロイトのテクストに充満しているセクシュアリティと女性性に関する発達論的な議論の正体をあばいたという点で、正しいものである。さらに彼女が示しているように、フロイトの理論のなかには、彼が述べようとしている事柄を超えたり、それを転倒させたり、置換させたりするような読みの可能性もある。同性愛のリビドー備給(欲望と目標の両方)の否定――社会のタブーによって強制され、発達段階のなかに取り込まれる否定――は、継続的な否定によって確立される身体的空間――つまり「秘密の場所」――のなかに、その目標と対象をうまく囲い込むメランコリーの構造なのである。もしも異性愛の観点から同性愛を否定することがメランコリーへと導くものならば、そしてもしもメランコリーが体内化をつうじて作動するものならば、否認された同性愛の愛情は、対立的に定義されるジェンダー・アイデンティティを養成していくことで保存される。つまり、否認された男の同性愛は、男性性を高め、それを強化していくことで頂点に達し、そのとき女性性は思考できないもの、名づけえぬものとしてしまいこまれるのである。そして異性愛欲望の認知の方は、もともとの対象から二次的対象への置き換えや、フロイトが標準的な悲哀の特徴と見なしたリビドーの引き上げとそれの再固着につながるものとなる。(p. 132)

欲望の幻影的な性質は、身体が欲望の基盤や原因ではなく、欲望の契機であり対象であることを明らかにする。欲望の戦略は、ある意味で身体を、欲望する身体に変えていくことである。事実、ともかくも欲望するためには、想像上のジェンダー規則に照らして欲望をもちうる身体要件を満たすように変えられた身体自我を信じることが必要となる。このように欲望が想像上のものだということは、欲望がはたらく手段であり場所である物質的な身体を、つねに越えているものなのである。(p. 134)

五 権力としての禁止の再考

フロイトはセクシュアリティの昇華は普遍的な「不満」を生みだすものとみなしたが、マルクーゼはプラトン的なやり方でエロスをロゴスの下位におき、昇華行為のなかに人間精神の最も満足のいく表出を見た。しかしフーコーは、こういった昇華理論からは根本的に離脱し、起源としての欲望を措定せずに、生産的な法について語ろうとする。つまり禁止の法の作用とは、それ自身が権力関係のなかにどっぷりと浸っていることを隠しおおせるような、それ自身の系譜を語る物語を作りあげ、それによってそれ自身を正当化し強化するのだと、彼は主張した。したがって近親姦タブーは、一次気質を抑圧しているのではなく、「一次的な」気質と「二次的な」気質の区別を結果的に作りだし、それによって合法的な異性愛と非合法的な同性愛の区別を記述し、再生産するものとなる。事実もしも近親姦タブーを、結果として一次気質を生産するものとみなせば、「主体」を基盤づけ、主体の欲望の法として生きのびる禁止は、アイデンティティ――とくにジェンダー・アイデンティティ――を構築するさいの手段となる。(p. 138)

〔ゲイル・〕ルービンは精神分析――とくにラカンの精神分析――は、親族関係に関するレヴィ=ストロースの記述を補完したものだと理解している。とくに彼女が理解を示すのは、「セックス/ジェンダーの制度」――生物学的なオスとメスを、明確に区分され階層化されたジェンダーに変容させる規制的な文化のメカニズム――は文化の制度(家族、「女の交換」の残余形態、義務的異性愛)からお墨付きを得ているが、それと同時に、個人の精神発達を構造化し推進する法をつうじて繰り返し教えこまれる、ということである。したがってエディプス・コンプレックスとは、近親姦に対する文化タブーを傍証するもの、そのタブーを執行するものであり、その結果、男と女に明確に区分されたジェンダーへの同一化と、その帰結としての異性愛気質を作りだす。(p. 139)

ルービンの論文は、セックスとジェンダーの区分に頼っており、その区分は「セックス」を、法の名で作りかえられ「ジェンダー」にのちに変容する、法に先行する明確に区分された存在論的な現実だとみなすものである。こうしてジェンダー獲得の物語は、法のまえあとの両方にあるものを「知る」位置に語り手をおく時間秩序を必要とする。だがこの物語は、厳密に言えば、法のあと――法の結果――なのであり、それよりあとの地点から遡及的に眺められる言語の内部で語られているものなのである。(p. 140)

『性の歴史』第一巻で抑圧仮説を批判したフーコーは、行論じた。(a)構造主義の「法」は権力の一つの編成である――つまり、ある特定の歴史的な配置である――と考えられる、(b)法はそれが抑圧していると言われている欲望を生産し、産出するものと考えられる。抑圧されるべき対象は、抑圧すべき明白な対象とみなされている欲望ではなく、権力の多層的な配置であり、法制的で抑圧的な法の見せかけの普遍性や必然性を放逐するかもしれない権力の複数性なのである。換言すれば、欲望とその抑圧は、法構造を強化するための契機であり、欲望は、それによって法モデルがそれ自身の権力を行使し強化するための儀式的で象徴的な身ぶりとして、製造され、また禁じられているものである。(p. 142)

 

第三章 錯乱的な身体行為

一 ジュリア・クリステヴァの身体の政治

原記号界(セミオティック)についてのクリステヴァの言語理論は、一見してラカンの前提に切り込み、その限界をあばき、言語の内部で父の法を撹乱する地点として、とくに女の位置を打ち出そうとしているようにみえる。ラカンによれば、父の法は《象徴界》と名づけられ、言語による意味づけのすべてを構造化するものである。したがってそれは、文化そのものを全般的に組織化する原理である。この法は、母の身体への幼児の根源的な依存をふくむ一次的なリビドー欲動を抑圧することによって、有意味な言語、すなわち有意味の経験の可能性を作りだす。ゆえに《象徴界》が可能になるのは、母の身体とのあいだに結ばれていた一次的な関係を断念することによってである。この抑圧の結果、誕生する「主体」は、抑圧の法の担い手となり、その提示者となる。母への初期依存の特徴をなすリビドーの混沌は、法によって構造化される言語を有する統一的な行為者(エイジェント)によって、完全に押さえ込まれる。逆に言えば、そのような言語は、多様な意味(母の身体との一次的な関係を特徴づけるリビドーの多様性をつねに想起させるもの)を抑制し、その場所に、単声的で明確に区分された意味をおき、世界を構造化していくのである。(p. 150)

原記号界の特徴である多様な欲動は、言語のなかにときおり認識可能となって現れる一方で、言語に先立つ存在論的な地位も同時に保持している。前-言説的なリビドー機構を構成しているものである。そして言語――とくに詩的言語――のなかに現れるこの前-言説的なリビドー機構が、文化を転覆させる地点だと、クリステヴァは言う。二番目の問題は、攪乱の源であるこのリビドーを文化の次元で持ち続けることは不可能であり、もしもそれが文化のなかにとどまる場合には、かならず精神病や文化生活の破綻になると、クリステヴァが述べていることである。つまりクリステヴァは、あるときは原記号界を解放理念として位置づけ、あるときは、解放理念にならないと否定する。つまり、原記号界は一定の抑圧を受ける言語の領域だと述べる一方で、それを一貫して保持しておくことは不可能な言語だとも言うのである。(p. 152)

(……)クリステヴァは母の身体を、文化に先立つ一連の意味を担うものと記述し、それによって、文化を父性的な構造とみなす見方に加担し、母性を本質的に前-文化的な現実に閉じ込めてしまっている。その結果、母の身体についてのこの自然主義的な記述は、母性を物象化してしまい、母性が文化によって構築されたものであり、可変的なものであると見なす分析を、あらかじめ封じてしまうのである。(p. 152)

原記号界についてのクリステヴァの記述は、数多くの問題含みの段階をへて展開されている。彼女が想定していることは、欲動が言語のなかに登場する以前にその目標を持っていること、言語はつねにそういった欲動を抑圧し昇華すること、欲動が姿をあらわすのは、《象徴界》の領域ではつねに「単声的」であることが要求される意味作用に抵抗するような言語表現のなかだけだということである。さらに彼女が主張するのは、多様な欲動が言語のなかに出現するのは、原記号界――つまり、詩的な発話のなかに現れる母の身体なので、《象徴界》とはまったくべつの言語の意味領域――においてであるということだ。(p. 153)

『詩的言語の革命』(一九七四年)ですでにクリステヴァは、欲動の異種混淆性と、詩的言語の多声的な可能性とのあいだに、必然的な因果関係があると論じている。ラカンと異なってクリステヴァは、詩的言語は、一次欲動を抑圧した結果、誕生するものではないと主張する。そうではなくて詩的言語とは、単声的な通常の言語条件が欲動によってバラバラになり、多様な音と意味が渦巻く抑圧不可能な異種混淆性が露呈するときの、言語上の契機である。したがってクリステヴァは、詩的言語には、単声的な指示佐用の要請に合致しない独自の意味の様態があると主張して、《象徴界》を、言語の意味作用のすべてと見なすラカンに反駁する。(p. 153)

「ベリーニによる母性」のなかでクリステヴァが示唆しているのは、母の身体は、首尾一貫し明確に区分されたアイデンティティの喪失を意味するので、詩的言語は精神病と紙一重だということである。そして女が原記号界を言語のなかで表現しようとする場合、母性への回帰は、クリステヴァがはっきりと精神病に関連づけた前-言説的な同性愛を意味することになる。クリステヴァは一方では、《象徴界》に参与することによって――つまり言語による意思伝達の規範に従うことによって――詩的言語は文化的に保持されるものになると認めつつ、他方で同性愛については、精神病とならない社会表現をもつことはできないものだと言う。同性愛を精神病だとみなすクリステヴァの考えの根拠には、異性愛と《象徴界》の基盤が同延上にあるとみなす構造主義の仮定を、彼女が受け入れているということがあるようだ。だからクリステヴァによれば、同性愛の欲望の備給は、詩的言語や出産行為と言った、《象徴界》の内部で認可される置換をとおしてのみ達成可能なものとなるのである。(p. 157)

フーコーにとって身体は、自然で本質的なセックスという「概念」を身におびるものとして言説によって決定される以前には、どのような意味の次元においても、「性別化された」ものではない。身体は権力関係の文脈においてのみ、言説上の意味を獲得するのである。セクシュアリティは、権力と言説と身体と常道を、特定の時代が組織化したものにすぎない。フーコーの理解によれば、このようなセクシュアリティは、人為的な概念である「セックス」を生産し、この「セックス」という概念が、それを誕生させた権力関係を効果的に拡大させると同時に、それを隠蔽もするのである。(p. 169)

クリステヴァは母の身体を、言説のまえにあって、欲動構造のなかで原因として作用するものとみなしているが、フーコーが明確に述べていることは、母の身体を前-言説的なものとして言説によって生産することこそ、母の身体という比喩を生みだす特定の権力構造がおこなう自己拡大や隠蔽の戦術だということである。フーコーの文脈では、もはや母の身体は、あらゆる意味づけの隠れた根拠とか、あらゆる文化の物言わぬ原因として理解されることはない。そうではなくてここでは、母の身体は、女の身体に女の自己の本質や欲望の法としての母性を身につけさせようとする特定のセクシュアリティの制度の、結果であり、帰結なのだと理解されている。(p. 169)

二 フーコー、エルキュリーヌ、セックスの不連続の政治

『性の歴史』第一巻でフーコーが論じているのは、「セックス」の単声的な構築(ひとはあるセックスであり、したがってべつのセックスではない)は、(a)セクシュアリティの社会規制と管理をつうじて生産されるものであり、(b)まったく別物で相互に関連性のないさまざまな性機能を隠蔽して、人為的にひとつに統合するものであり、(c)そののちに、あらゆる様態の感情や快楽や欲望を、そのセックス特有のものとして作り上げると同時に、それらを理解可能にする内的本質として、つまり原因として、言説の内部に位置づくものである。換言すれば、身体の快楽は、セックス特有の本質をその原因とするものではなく、むしろその種の「セックス」の表出とか記号として解釈可能なものになっているにすぎない。(p. 173)

反体制的で反解放主義的な論法をとる「公的な」フーコーは、次のように述べる――セクシュアリティはつねに権力の種々のマトリクスのなかに位置づけられるものであり、特定の時代の言説と制度の双方の実践の内部で、つねに生産され構築されるものであって、法のまえのセクシュアリティに頼ることは、解放主義的な性の政治が権力と共謀するさいにおこなうこじつけにすぎない。(p. 177)

遺伝学者エヴァ・アイカーとリンダ・L・ウォッシュバーンは『遺伝学年報』のなかで、これまでの文献のなかでは卵巣決定は性決定の際に考慮されず、女であることは男性決定要素の不在か、存在していても消極性としてしか考えられてこなかったと指摘している。女であることは不在か消極性とみなされ、定義上、研究対象としての資格が与えられてこなかったのである。だがアイカーとウォッシュバーンは、女であることは能動的なことであり、そのような文化の偏見があるからこそ――つまり、セックスについてや、価値のある研究ということに関してジェンダー差別的な前提があるからこそ――性決定に関する研究は歪められ、制約されてきたのだと述べる。(p. 194)

三 モニク・ウィティッグ――身体の解体と架空のセックス

(……)ボーヴォワールが積極的に肯定しようとしていることは、ひとはあるセックスをもって、あるセックスとして、つまり性別化されて、生まれてくるということ、そして、性別化されているということと人間であることは同延上にあり、同時に起こるものだということである。セックスは人間の解剖学的な属性であり、性別化されない人間など存在しない。セックスは人間の資格を与えるときの、必要な属性だと言うのである。しかしここでは、セックスはジェンダーの原因とは考えられておらず、またジェンダーはセックスを反映したり、表出したりするものとみなされていない。事実ボーヴォワールのとって、セックスは不変の事実であるが、ジェンダーは獲得されるものであり、セックスは変化することができない――あるいは彼女はそう考えている――が、ジェンダーはセックスの文化的な構築物で、変化する余地がある。つまり性別化された身体が引き起こす文化的な意味の可能性は、無数であり、開かれていると言うのである。(p. 200)

〔ウィティッグの〕一つの主張は、セックスのカテゴリーは不変でも自然でもなく、生殖のセクシュアリティという目的に寄与するために自然というカテゴリーを利用するきわめて政治的なものであるというものだ。つまり、人間の身体を男女のセックスに二分することは、異性愛の機構の要求に応え、異性愛の制度に自然主義的な見せかけを与えるという以外、何の正当な理由もない。したがってウイティッグにとっては、セックスとジェンダーのあいだに区別はない。「セックス」のカテゴリーは、ジェンダー化されたカテゴリーにほかならず、完全に政治の色に染まり、自然化されてはいても、自然ではない。二つめのウイティッグの反本能主義的な主張は、レズビアンは女ではないというものである。彼女の議論によれば、女は、男との二元的な対立関係を安定化し、強化する項目として存在しているにすぎない。彼女によれば、このような関係こそ、異性愛なのである。彼女の主張では、異性愛を否定するレズビアンは、もはや対立的な関係で定義できるものではない。事実レズビアンは、女と男という二元的な対立を超越しているという。レズビアンは女でも男でもない。だがさらに、レズビアンにはセックスもない。なぜならレズビアンはセックスのカテゴリーを超えているからである。(……)ウイティッグにとって、ひとは女には生まれない、女になるのだ。さらには、ひとはメスに生まれない、メスになるのだ。だがさらにラディカルに言えば、もし選べるものなら、ひとはメスにもオスにも、女にも男にもならないでいることができる。事実レズビアンは、第三のセックスとされているようである。(p. 202)

ウイティッグは、強制的異性愛という政治的、文化的な操作を保証しているのは、言語によって「セックス」を区別だてすることだと主張する。彼女の説によれば、異性愛の関係は、通常の意味で互恵的なものでも、二元的なものでもない。「セックス」はつねに女であって、ここにはただひとつのセックスしかなく、それは女というセックスなのである。男であるということは、「性的な」存在ではないということである。(……)この体系のなかでは、男は普遍的な人間という形態にかかわるものとなる。(p. 203)

(……)女の課題とは、ウィティッグによれば、権威ある語る主体の位置――ある意味で存在論的な基盤が与えられている「権利」――をもつことであり、セックスのカテゴリーや、その起源(オリジン)である強制的異性愛の制度を、転覆させることである。ういぃてぃっぐのとって言語は、長い年月繰り返されることによって、ついには「事実」と誤認される現実=結果を生産する一連の行為なのである。性差を名づけていく反復実践は、共同体のレベルでは、自然な区分という外見を作りあげることになる。セックスの「名づけ」は、支配と強制の行為であり、性差の原理に沿うように身体を言説/知覚によって構築するよう要請し、そうすることで社会的現実を作りだし、かつそれを合法化する制度化されたパフォーマティヴィティなのである。だからウィティッグはこう結論づける。――「わたしたちは、自分の身体と精神の特徴の一つ一つを、わたしたちのために作られてきた自然観に合致させるように強制されているのである。〔…〕だから『男』や『女』は政治的カテゴリーであって、自然な事実ではない」。(p. 206)

ウィティッグがこの言語の「体系」に与えている権力は、膨大なものである。彼女に主張によれば、概念、カテゴリー、抽象名辞は、身体を組織化し解釈しているだけだと主張しているが、じつは身体に対して、物理的で物質的な暴力をふるうものである。「たとえ権力を生みだす言説が抽象的なものだとしても、科学や理論が身体や精神に対して物質的で実際的にふるっている権力には、抽象的なところは何もない。マルクスが言うように、それは支配の一形態であり、その表出なのである。わたしなら、支配の行使の一形態というだろう。被抑圧者はみな、この権力に気づいており、それと付きあってこなければならなかった」(Monique Witig, “The Straight Mind”, Feminist Issues, vol. 1, no.1 (Summer 1980), p. 105.)。身体にふるわれる言語の暴力は、性抑圧の原因でもあり、同時にその抑圧を超える手段ともなる。言語は秘儀的にはたらくのでもなければ、恒久的にはたらくのでもない。「言語には現実に対する可塑性がある。言語は現実に可塑的にはたらきかける」(Monique Witig, “The Mark of Gender”, Feminist Issues, vol. 5, no.2 (Fall 1985), p. 4.)。(p. 207)

(……)ウィティッグは明らかに、現存や《存在》や根源的で途切れのない十全性といったものを追求する哲学の伝統的言説のなかに、自分自身を位置づけている。あらゆる意味づけは作動中の差延によってなされると理解するデリダと明らかに異なって、ウィティッグは、語りは、事物の継ぎ目のない同一性を必要とし、またその同一性を発動させるものだと主張している。この基盤主義的な虚構は、彼女に、現在の社会制度を批判する出発点を与えるものだが、依然として問題は残る。それは、存在とか権威とか普遍的な主体性を想定することが、どのような偶発的な社会関係に寄与することになってしまうかという問題である。なぜ主体についての権威主義的な概念を簒奪することを良しとするのか。なぜ主体や、その普遍化という認識論的な戦略を、脱中心化しようとしないのか。「ストレートな精神」がみずからの視点を普遍化していることをウィティッグは批判しているにもかかわらず、彼女自身は、ストレートな精神の「骨子」を普遍化するのみならず、主権をもつ言語行為という理論が、全体主義的な帰結を生むことを考慮できずにいる。(p. 210)

ラカンと同様にウィティッグの公式においても、異性愛の理念化とは、異性愛をおこなっている人々の身体のうえに、結局は不可能となる支配――つまりそれ自身の不可能性につまずく運命にある支配――を行使するものであるようだ。したがって異性愛の文脈から徹底的に離れることによってのみ――異性愛体制の転覆をもたらすことができるとウィティッグは信じているようである。だがこの政治結果が得られるのは、異性愛に「参与すること」が、ことごとく異性愛抑圧の反復と強化になると考えた場合のみである。ここでは、異性愛は徹底的に放逐されなければならない全体的な体系だと考えられているために、異性愛そのものを意味づけなおす可能性は、完全に否定されている。異性愛主義の権力を全体としてみる見方から導きだされる政治的選択は、(a)徹底的な順応か、(b)徹底的な革命かの、どちらかしかない。(p. 215)

私自身が固く信じていることは、ウィティッグが異性愛と同性愛のあいだに設けた根本的な不連続は、断じて真実ではないということである。異性愛の関係のなかにも、精神的な同性愛の構造があり、ゲイやレズビアンのセクシュアリティや関係のなかにも、精神的な異性愛の構造がある。さらには、ゲイであり、かつストレートであるようなセクシュアリティを構築し、構造化している権力/言説の中心点は、このほかにもいろいろある。異性愛は、セクシュアリティを説明する権力の、唯一の強制的な表出ではない。ウィティッグが異性愛契約の規範や基準として記述している首尾一貫した異性愛という理念は、彼女自身が指摘しているように、不可能な理念であり、一種の「フェティッシュ」である。精神分析なら、つねにすでに異性愛的でない無意識のセクシュアリティの多様性と抵抗によって、この不可能性があばかれると理論づけるかもしれない。その意味で異性愛は、具現化することが本来的に不可能な規範的な性位置であり、この規範的な性位置に矛盾することなく十全に自己同一化することはつねに不可能であるために、異性愛が強制的な法であるだけでなく、不可避の喜劇であることも明らかとなる。実際わたしがここで提示したいのは、異性愛は強制的な体系であると同時に、本来的な喜劇(それ自身の絶え間ないパロディ)であり、つまりはオルタナティヴなゲイ/レズビアンの視点であるという洞察である。(p. 216)

近所のゲイ・レストランが休暇を取るため休業するとき、経営者は「彼女は働きすぎたので休養が必要です」という看板を掲げる。こういう風にゲイが女性性を奪取(アプロプリエーション)してしまうことは、その単語の適用場所を増やし、シニフィアンとシニフィエの関係が任意のものであることをあばき、その記号を不安定化し、流動化させる。これは女性性を植民地主義的に「取り込む(アプロプリエーション)」ものなのか。私の理解では否である。そういう風に糾弾する背後には、女性性は女のものだという仮定があり、そんな仮定など、まったく疑わしいのである。(p. 218)

(……)権力は撤回できるものでも、否定できるものでもなく、ただ配備しなおすことができるだけである。じじつわたしの見方では、ゲイやレズビアンの実践に関する妥当な読みは、その焦点を、権力の攪乱的でパロディ的な再配備におくべきであって、権力のまったき超越という不可能なファンタジーにおくべきではない。(p. 220)

四 身体への書き込み、パフォーマティヴな攪乱

セックス/ジェンダーの区別やセックスというカテゴリーは、性別化された意味を獲得するまえの「身体」の普遍性を前提としているように思われる。こういった「身体」はたいてい受け身の媒体で、身体の「外部」と考えられている文化からの書き込みによって、意味づけられるもののようである。だが身体を文化の構築物とみなす理論はすべて、「身体」を受け身で言説に先立つものとみなすような、怪しげな普遍性をもつ構築として「身体」を捉える考え方には疑問をいだかなければならない。そのような見方には、キリスト教やデカルト哲学の洗礼があって、一九世紀に生気論的な生物学が出現するまえから、すでに「身体」は、なんの意味ももたず、もっとはっきり言えば、卑俗な空虚や堕落した状態――人を惑わすもの、罪、地獄を予兆するメタファー、永遠なる女性性――という意味をもつ、不活発な事物として理解されてきた。サルトルとボーヴォワールの著作のなかには、「身体」を無言の事実性とみなす箇所が数多くあり、「身体」が意味を与えられるのは、デカルト的な文脈のなかで根本的な非物質性と考えられている超越意識によってであると考えられている。(p. 229)

フーコーは「人/男(マン)〔ママ〕のなかの何ものも――いやその身体でさえ――自己を認識するときや、ほかの人たち(男たち)(メン)〔ママ〕を理解するときの土台として、十分な安定性をもつものではない」(一五三)と述べるが、それにもかかわらず、彼は文化の不断の書き込みを、身体の上で作動する「単一なドラマ」だと言う。もしもこの価値の生成――ある時代の意味づけの様式――のために身体の破壊が必要だと言うのなら(カフカの『流刑地にて』の拷問道具が、それが書きつける身体を破壊したように)、この書き込みに先立つ、安定して自己同一的で、そのような破壊の犠牲になるような身体が必要となる。ある意味でフーコーはニーチェと同様に、文化に価値基準は、媒体として――実際には空白のページ――として理解されている身体になされる書き込みの結果として、出現すると考えている。だがこの書き込みが意味をもつためには、その媒体は破壊されなければならない。つまり昇華された価値領域へと、完全に価値変化されなければならない。このような文化の価値観の隠喩構造のなかでは、歴史は、エクリチュールの冷酷な道具として比喩化(フィギュア)され、身体は、「文化」の出現のために破壊され変容されなければならない媒体となる。(p. 230)

彼女〔メアリ・ダグラス〕の分析が示唆しているのは、身体範囲を構築しているのは単なる物質性ではないこと、また表面とか皮膚は、タブーと、あらかじめ組み込まれているタブー侵犯の両方によって、体系的に意味づけられているということである。事実、彼女の分析では、身体の境界は社会そのものの範囲なのである。彼女の見解をポスト構造主義的に取り込めば、身体の境界は、社会における覇権的なものの範囲と考えてよいだろう。 (p. 232)

 

サイモン・ワトニーは『治安欲望――エイズ・ポルノ・メディア』のなかで、このような「汚穢を与える人間」として現在、社会構築されている者は、〈エイズとともに生きる人〉であると言う。この病気は「ゲイの疾患」と考えられているだけでなく、この病気に対するメディアのヒステリックな同性愛嫌悪の反応のなかには、同性愛であることが境界侵犯であるゆえに汚れた地点とみなされる同性愛者と、同性愛の汚穢という特有の様相として考えられているエイズとのあいだに、連続性を作りだそうとする戦術が見られる。同性愛嫌悪の意味体系で語られる扇情的な書き物において、この疾患が体液の交換によって感染するものであることは、浸透的な身体境界が社会秩序に与える危険だとみなされている。ダグラスはこう述べる、「身体は、境界をもつ体系のすべてを代表するモデルである。身体の境界は、脅威にさらされ、不安定化している境界のすべてを、表象しうるものである」(Mary Douglas, Puruty and Danger (London, Boston, and Henley: Routledge and Kegan Paul, 1969), p. 115)。さらに彼女は、フーコーの著作のなかにありそうな問いを、投げかけている――「身体の周縁部は、なぜとくに権力と危険に包囲されていると考えなければならないのか」(Mary Douglas, Puruty and Danger (London, Boston, and Henley: Routledge and Kegan Paul, 1969), p. 121)。(p. 233)

重要なことだが、『恐怖の権力』のなかでクリステヴァが展開した棄却(アブジェクション)についての議論は、排除をつうじて明確に区別された主体を構築するには、タブーによる境界構築を説く構造主義の概念が必要であることを、最初に示したものである。「おぞましきもの(アブジェクト)」とは、身体から放逐され、汚物として排泄され、文字どおり「《他者》」とみなされているものである。これは異質な要素の排除のように見えるが、異質なものは、この排除によって結果的に打ち立てられる。「わたし-でない」ものを「おぞましきもの」として構築することは、主体の最初の輪郭である身体境界を確立することでもある (p. 232)

ある意味で『監獄の誕生』は、書き込みモデルに関して『道徳の系譜』のなかでニーチェが展開した内面化の学説を、フーコーが書き直そうとしたものと読むことができる。フーコーによれば、囚人に対してなされる戦略は、彼らの欲望を抑圧することではなく、彼らの身体に、彼らの本質や生き方や宿命として、禁止の法を意味させようとするものである。禁止の法は、字義的な意味で内面化されるのではなく、身体化されるのであり、その結果、身体のうえに――身体をつうじて――法を意味づける身体が生産されるのである。法は、囚人たちの身体のうえに、彼らの精神の意味として、彼らの良心として、彼らの欲望の法として、現れるのだ。(p. 237)

内的精神のプロセスを、しな体の表面の政治として記述しなおすことは、当然ジェンダーを、身体の表面でなされる存在と非在の戯れをつうじておこなわれる幻の形象の懲罰的な生産として、つまり非在を意味する一連の排除と否定をつうじておこなわれるジェンダー化された身体の構築として、記述しなおすことである。だが、身体の政治の顕在化し潜在化しているテクストを、決めているものは何か。ジェンダーの身体的な様式化――身体を空想によって空想的に形象する(フィギュレーション)こと――を生みだす禁止の法とは何なのか。私たちはすでに、近親姦タブーや、それに先立ち同性愛タブーが、ジェンダー・アイデンティティを産出する契機であり、理念化された強制的異性愛という文化の認識格子にそって生産する禁止であるとみなしてきた。(p. 239)

だがそもそも同一化は、演じられる幻想であり体内化であるという理解によれば、首尾一貫性は欲望され、希求され、理想化されるものであって、この理想化は、身体的な意味づけの結果であることは明らかである。換言すれば、行為や身ぶりや欲望によって内なる核とか実体という結果が生みだされるが、生みだされる場所は、身体の表面のうえであり、しかもそれがなされるのは、アイデンティティを原因とみなす組織化原理を暗示しつつも顕在化させない意味作用の非在の戯れをつうじてである。一般的に解釈すれば、そのような行為や身ぶりや演技は、それらが表出しているはずの本質やアイデンティティが、じつは身体的記号といった言説手段によって捏造され保持されている偽造物にすぎないという意味で、パフォーマティヴナものである。ジェンダー化された身体はパフォーマティヴだということは、身体が、身体の現実をつくりだしている多様な行為と無関係な存在論的な位置をもつものではないということである。(p. 239)

ジェンダーを模倣することによって異装はジェンダーの偶発性だけでなくジェンダーそれ自体が模倣の構造をもつことを明らかにするのである。事実、快楽のひとつであるパフォーマンスの眩暈は、セックスとジェンダーの統一的な因果関係を自然で必然だと規定している文化配置に逆らって、両者の関係はそもそも根本的に偶発的なものだという認識を持つときに、生まれるものである。異性愛の首尾一貫性という法の代わりに、セックスとジェンダーの区別を受け入れ、かつその統一性を捏造する文化のメカニズムを芝居がかって演じるパフォーマンスによって、セックスとジェンダーは脱自然化されていくのである。(p. 242)

もしも身体が「存在」ではなく、変化しうる境界とか、浸透性が政治的に規定されている表面とか、ジェンダーの階層秩序や強制的異性愛といった文化の内部の意味づけの実践ならば、この身体の演技、すなわちジェンダーが、その表面に「内部」という意味を作りあげていると考えるための、どんな言語がまだ残されているのか。サルトルなら、この行為を「存在の形式」と呼んだろうし、フーコーなら「実存の形式論」と呼んだろう。本書の始めのボーヴォワール読解で示したのは、ジェンダー化された身体はそれと同数の「肉体の形式」だということである。形式には歴史があるので、その形式はすべて、完全に自己形成されるものではなく、歴史によってその可能性が条件づけられ、制限されるものである。たとえばジェンダーを、身体的形式と考えてみたらどうだろう。つまり「パフォーマティヴ」という言葉が、意味の演劇的で偶発的な構築を示唆するのであれば、ジェンダーを恣意的で、かつパフォーマティヴな「行為」と考えてみたらどうだろう。(p. 244)

ジェンダーは、そこから多種多様な行為が導きだされる安定したアイデンティティや行為体(エイジェンシー)の場所として解釈すべきではない。むしろジェンダーは、ひそかに時をつうじて構築され、様式的な反復行為によって外的空間に設定されるアイデンティティなのである。ジェンダーの効果は、身体の様式化をつうじて生産され、したがってそれは、身体の身ぶりや動作や多様な様式が、永続的なジェンダー自己という錯覚をつくりあげていくときの、日常的な方法と考えなければならない。この考え方は、ジェンダー概念を、実体的なアイデンティティ・モデルの基盤から引き離し、ジェンダーをその時々の社会の構築物とみなす基盤へと、移行させるものである。(p. 247)

ジェンダーは真実でもなければ、偽物でもない。また本物でもなければ、見せかけでもない。起源でもなければ、派生物でもない。だがそのような属性の確かな担い手とみなされているジェンダーは、完全に、根本的に不確かなものとみなしうる。(p. 248)


結論――パロディから政治へ

主体に先在的という地位を与え、そのよう主体が文化によって包囲されていると考えるためには、文化や言説によって完全には決定されない行為体(エイジェンシー)の地点を打ち立てる必要があった様だ。だがこの種の考え方は、間違った前提のうえに成り立つものである。その前提とは、(a)たとえ「わたし」が見いだされる場所が言説の集中のなかにあるとしても、前-言説的な「わたし」に頼ることによってしか、行為体を確立することができないと仮定したこと、(b)言説によって構築されていることを、言説によって決定づけられていることと捉え、この決定という概念が行為体の可能性をあらかじめ封じていることである。(p. 251)

マルクスやルカーチなど、さまざまな現代の解放主義の言説によって取り込まれてきたヘーゲルの自己認識のモデルは、言語をふくむ世界を客体と見なし、それと対峙する「わたし」と、その世界のなかのひとつの客体である「わたし」の中間地点に、「わたし」の潜在的な適切性を措定しようとする。だが西洋の認識論の伝統のなかに存在する主体/客体の二分法は、その認識論が解決しようとするアイデンティティの問題系を、まさに条件づけているものなのである。(p. 252)

認識論の出発点がいかなる意味においても必然のものでないことは、通常の言語の日常的な作用のなかでは素朴に広く確認されている事柄である(文化人類学のなかにそれを例証する文献が数多く見られる)。そのような言語の日常的な作用においては、主体/客体の二分法は奇妙で偶発的で、(暴力的でないにしても)哲学的な押しつけだとみなされている。認識論の思考方法と密接な関係をもつ、取り込み(アプロプリエーション)、道具化、距離化の言語は、「わたし」を「《他者》」と争わせる支配の戦略を構築し、こうしてひとたび「わたし」と「《他者》」が分離されれば、そのような言語は一連の人為的な難題をつくりだして、《他者》の可知性や回復は非常にむずかしいものとなる。(p. 253)

 

(2011/9/30)