ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <書 抜き書きメモ23>

エドワード・W・サイード
オリエンタリズム

板垣雄三・杉田英明監修、今沢紀子訳、平凡社、1986年

序説

オリエンタリズムとは、我々の世界と異なっていることが一目瞭然であるような(あるいは我々の世界にかわりうる新しい)世界を理解し、場合によっては支配し、操縦し、統合しようとさえする一定の意志または目的意識――を表現するもというよりはむしろ――そのものである。なによりも、オリエンタリズムとは言説(ディスクール)である。(……)実は私が本当に言いたいことは、オリエンタリズムが、政治的であることによって知的な、知的であることによって政治的な現代の文化の重要な次元のひとつを表象するばかりか、実はその次元そのものであって、オリエントによりはむしろ「我々の」世界のほうにより深い関係を有するものだということである。(p. 12)

哲学者たちは、ロックやヒュームや経験主義を論ずる場合に、これらの古典哲学者たちの「哲学的」学説と、人種理論、奴隷制擁護論、植民地搾取支持論とのあいだに明白な結びつきのあることを、まったく考えようとはしない。これらは、現代の学問がみずからを純粋に保とうとするために用いる常套手段なのである。
実際、文化の鼻先に汚い政治を遠慮なく突き付けようとする試みの多くは、生硬な偶像破壊の行為に等しかったかもしれない。あるいは私の専門分野における文学の社会学的解釈は、詳細なテクスト分析技術の長足の進歩についていけなかったというだけのことかもしれない。しかし一般に文学研究、とくにアメリカ合衆国のマルクス主義理論家が、テクスト分析および歴史的分析にあたって、上部構造レヴェルと下部構造レヴェルのあいだに横たわる溝を埋めるための真剣な努力を避けてきたことは厳然たる事実である。(p. 13)

(……)ディケンズといった自由主義の文化の華々しい代表者が、人種と帝国主義について確固とした意見を持っていたと認めるのにはたいした時間はかかるまい。それは、彼らの書いたもののなかに歴然としているからである。同様にいかなる専門家といえども、たとえばミル(彼は結局人生の大半をインド省の役人として過ごした)が『自由論』と『代議政治論』のなかで「インド人が人種的に我々よりも劣っているとまでは言わないにしても、文明において我々よりも劣っていることは明らかであるから、本書のなかの私の意見をインドに適用することはできない」と言明している事実を、知識として取扱わないわけにはいかないのである。(p. 14)

要するに、文化のような浸透生のあるヘゲモニー的システムの耐久力と持続性とをよりよく理解するためには、このシステム内部の統制力が、ただ抑止的なだけではなく生産的でもあるということを認識しなければならないのである。そしてこの考え方こそ、いうまでもなくグラムシが、ソシテフーコーとレイモンド・ウイリアムスが、それぞれの方法でもって説明しようと努力してきたものなのである。(p. 15)

詩人で有れ哲学者であれオリエンタリストとは、オリエントに語らせ、オリエントについて記述し、オリエントの秘めたるものを西洋のために西洋にたいしてあばく人間だという事実、すなわち外在性こそがオリエンタリズムの前提条件なのである。オリエンタリストは自分の発言の第一因としてしかオリエントに関心をもたない。オリエンタリストによって語られ書かれた内容は、語られ書かれたという事実によって、オリエンタリストが実生活と精神生活の両面で事実上オリエントの外側にあることを示すという役割を担っている。いうまでもなくこの外在性の主要な産物が表象である。(p. 20)

少なくとも書かれた言語の場合はけっして、解き放たれた存在というようなものは存在しないのであって、あるのは再=現前re-presenceすなわち表象(レプレゼンテーション)なのだ。すなわち、オリエントについて記述された陳述の価値、有効性、力強さ、真実らしさが、オリエントそれ自体に依存することはほとんどなく、それを手段として利用することもできないのである。それどころか記述された陳述は、「オリエント」として実在する事物のことごとくを排除し、駆逐し、邪魔者扱いすることによってこそ、読者にたいしてひとつの現前となるのである。従って、オリエンタリズムは総体的にオリエントから遠く離れたところに位置している。オリエンタリズムがともかくも意味をなしえているのは、東洋(オリエント)のおかげではなくむしろ西洋(ウエスト)のおかげなのである。 (p. 21)

三つの事情のために、アラブとイスラムに関する認識は、そのもっとも単純なものでさえ高度に政治化され、ほとんど聞くに耐えないような問題に変えられてしまった。こうした事情の一つには、西洋の民衆が歴史的に反アラブ的・反イスラム的偏見をもち続けてきたことであり、それはオリエンタリズムの歴史にそのまま映し出されている。第二の事情は、アラブとイスラエル・シオニズムとのあいだに闘争があってその闘争がアメリカ合衆国のリベラルな文化と大衆の双方にまた同時にアメリカのユダヤ人に影響を与えてきたことである。そして第三の事情は、アラブまたはイスラムに連帯したり、それについて冷静に議論したりすることを可能にする文化的状況がほとんど完全に欠如していることである。なおその上に、ほとんど言うまでもないことであるが、今日の中東は、大国の政策、石油経済、そして自由を尊重する民主主義のイスラエルと邪悪な全体主義者でテロリストのアラブとを対置する単細胞思考的二分法、これら三つの要素とすっかり同一視されているために、近東が話題になる場合には、党の話題についてだけの混ざり家のない議論が成り立つ余地はほとんどなきに等しいのである。(p. 26)

さらに、論理的必然とでもいうべきものによって、私は自分が、西洋の反セム主義〔反ユダヤ主義〕を担う意外な秘密の共有者の歴史を書いているということに気がついた。反セム主義〔反ユダヤ主義〕と、私がこれまで論じてきたようなイスラムを対象とするオリエンタリズムとが、互いにたいへんよく似ていることは、歴史的・文化的政治的な事実である。そしてこの事実のもつアイロニーは、パレスティナ出身のアラブにとってなら、多元を費やせずとも完璧に理解しうる事柄なのである。 (p. 27)

第一章 オリエンタリズムの領域

一 東洋人(オリエンタル)を知る

(……)[アーサー・ジェームズ・]バルフォアの論理は、ことにそれが、演説全体の前置きと完全に首尾一貫している点で興味深い。イギリスはエジプトを知っている。エジプトとはイギリスの知っているエジプトのことである。イギリスは、エジプトが自治をもちえないことを知っている。イギリスはエジプトを占領することによって、このことを確認する。エジプト人にとってのエジプトとは、イギリスが占領し、統治しているエジプトのほかならない。それゆえ、外国軍隊の占領が、現代エジプト文明の「基礎そのもの」となる。エジプトはイギリスによる占領を必要とし、まさにそのことを主張するのである。 (p. 34)

東洋人が偉大であったときは過ぎ去った。東洋人が現代世界でなんらかの役に立つとしても、それは時代の先端を進むいくつかの強力な帝国が、東洋人をその衰退の悲惨から救い出し、彼らを生産的植民地の住民たらしめる機能回復訓練を施すことによって、はじめて成り立つ話なのである。
わけてもエジプトは、その最良の事例であった。バルフォアは、英国議会の議員として、イギリスと西洋と西洋文明の名において、当代のエジプトについて語りうる権利がみずからにいかばかり多く具わっているかを、完全に自覚していた。というのも、エジプトはありきたりの植民地ではなく、西洋帝国主義の成功を立証する何よりの素材だったからである。 (p. 35)

このように東洋人(オリエンタルズ)ないしアラブは愚鈍で、「エネルギーと自発性に欠け」、「いやらしい追従」と陰謀と悪知恵と動物虐待にふけり、道路も舗道も歩くことができない(賢いヨーロッパ人なら、道路も歩道も歩行のためのものだとすぐにわかるのだが、東洋人の混乱した頭ではそれが理解不能なのだ)。そして、東洋人は常習的な嘘つきで、「鈍感で疑り深く」、あらゆる点でアングロ・サクソン人種の明晰・率直・高貴さと対蹠的なのである。
[イーヴリン・ベアリングすなわち]クローマーは、東洋人とは英国植民地で彼がみずから統治した人的素材(マテリアル)でしかないと考えていることを隠そうともしない。 (p. 39)

(……)オリエンタリズムは、ヨーロッパつまり西洋が地球上のきわめて広大な部分を文字通り支配下に置いたという事実に対する一定の認識によって強化され、また同時にその認識を強化するようにも働いた。オリエンタリズムが、制度の面でも、内容の面でも、空前の前進をとげた時代は、ヨーロッパの未曾有の膨張の時代と完全に一致している。一八一五年から一九一四年までに、ヨーロッパの直接支配下におかれた植民地領土は、地表面積のおよそ三五パーセントから八五パーセントにまで拡大した。 (p. 41)

先進国すなわち西洋は、「現実世界が観察者にとってあくまでも外在的なものであり、知識とはデータの記録および分類――それらは正確であればあるほどよい―― から成り立っているという考え方にしっかりと依拠している」。この点についてキッシンジャーが提示する証拠は、ニュートン学説による思想革命であって、途上国世界ではそのようなものは現在に至るまでついに起こらなかったとするのである。「早期にニュートン学説の洗礼を受け損なった文化は、現実世界がほぼ完全に観察者の主観の内側にあるとする本質的にニュートン学説前の世界観を、今に至るもなおもち続けている」というわけだ。そこで、彼はこう続ける。「信仰諸国の多くにとって経験的現実とは、西洋にとってのそれから著しくかけ離れた意味をもっている。なぜなら信仰諸国は、ある意味で、そのような現実を発見する過程をまったく通過しなかったからである」、と。
(……)我々にはニュートン革命があったのに、彼らにはそれがなかった。思考する人間として、我々は彼らよりはるかにすぐれている。そうだ。かつてバルフォアやクローマーがひいたのと結局同じ境界線が引けるではないか。(p. 46)

二 心象地理とその諸表象――オリエントのオリエント化

事物のなかには、精神によって弁別され、客観的に存在しているように見えながら、実は虚構上の実在性しか有していないものがある。このことを立証してみせるのは十分に可能なことである。数エーカーの土地に住む一群の人々は、自分の土地やその周囲と、その向こう側の領域とのあいだに境界線を設け、向こう側の土地を「野蛮人の土地」と呼ぶ。言い換えれば、なじみ深い「自分たちの」空間と、その自分たちの空間の彼方にひろがるなじみのない「彼ら」の空間とを心のなかで名付け区別する、というこの普遍的習慣は、実は地理的区分を行う一つのやり方なのであり、それはまったく恣意的なものであってもいっこうにかまわないわけである。私がここで「恣意的」という言葉を用いるのは、「我々の土地――野蛮人の土地」式の心象地理において、野蛮人の側がこの区別を承認する必要が全くないからである。(p. 54)

アラブ、イスラム教徒、インド人、中国人、その他何であれ、東洋(オリエント)と東洋人(オリエンタル)は、ある偉大な原形(キリスト、ヨーロッパ、西洋)から繰り返し生まれるまがいものと化し、彼らはその原形をひたすら模倣しつづけてきたものと考えられた。こうしたかなり自己陶酔的な西洋の東洋(オリエント)観は、その源泉こそ時間とともに変わることがあっても、その性格においてはけっして変化することがなかったのだ。だから、十二-十三世紀には、アラビアが「キリスト教世界の外延に位置する、無法な異端者たちの自然の隠れ家」であり、ムハンマドは狡猾な背教者であると一般に信じられていたが、二十世紀になると、今度は学識豊かな専門家であるオリエンタリストによって、イスラムが実は二流のアリウス派的異端にすぎないなどと指摘されたりもするのである。(p. 62)

永遠性は時代の差異などすっかり均してしまうものであるとはいえ、ダンテは、キリスト教以前の先覚者たちを、キリスト教以後のイスラム教徒たちと同じ「異教徒」の罪のカテゴリーに入れるという、突飛な時代錯誤と変則とを平気で犯している。コーランは預言者としてイエスの名を挙げているにもかかわらず、ダンテはあえて、偉大なイスラム教徒の哲学者や君主たちがキリスト教を根本的に知らなかったものと見なしているのである。彼らを古典古代の英雄賢者と同じ特別な場所に位置づけるという発想は、アカデミアの床の上でアヴェロエスがソクラテスやプラトンと肩を並べて親交を結んでいるという、ラファエロのフレスコ画『アテネの学堂』とも通じる非歴史的なヴィジョンである。(p. 682)

三 プロジェクト

インドにおける初期のイギリス人オリエンタリストの多くは、ジョーンズのように法学者であるか、さもなければ、大変興味深いことに、宣教師としての知識をしっかりと身につけた医者であった。我々の知る限り、彼らの大部分は「現地の改良を促進すると同時に、自国の知識を高め学芸を向上させることを願って、アジアの初学と文芸と」を研究するという、二つの目的を同時に抱いていた。(p. 79)

エジプトに対するナポレオンの計画は、連綿とつづくヨーロッパとオリエントとの遭遇のうちでも、オリエンタリストの特殊な専門知識が直接、機能的に植民地支配の道具として利用された最初の例となった。というのも、ナポレオンの時代以降のオリエンタリストたちは、自分の忠誠心と共感とを、オリエントの側に与えるか、それとも征服者たる西洋の側に与えるかという選択を迫られた決定的瞬間には、必ず後者を選択してきたからである。皇帝ナポレオン自身についていえば、彼は、まず古典的文献(テクスト)により、ついでオリエンタリズムの専門家によってコード化された対象としてのみ、オリエントを眺めていた。(p. 81)

(……)イスラム教徒をうまく統御することは、ナポレオンのエジプト支配のプロジェクトのごく一部分にすぎなかった。それ以外にも、エジプトをヨーロッパ人に完全解放して、彼らに綿密な調査を行わせることが必要だった。エジプトはもはや神秘の国でもなく、また、先駆的な旅行家や学者や征服者の異形を通じて間接的に知られていたオリエントの一部分でもなく、フランスの学問の一部門となるはずであった。(p. 84)

(……)近代の強国もエジプトを手に入れることによって、おのずからその力を誇示し、歴史を正当化することになったが、他方エジプトそれ自体の運命は、ヨーロッパの望むがままにヨーロッパに合体させられることだった。そのうえ、この〔ヨーロッパという〕権力もまた、かつてのホメロス、アレクサンドロス、カエサル、プラトン、ソロン、ピュタゴラスのごとく、オリエントに存在することによってオリエントに光彩をそえた人物に勝るとも劣らぬ偉大な人々を共通要素とする一つの歴史に参入することとなった。要するに、オリエントは、その最新の現実に対してではなく、ヨーロッパの遠い過去との一連の接触にたいして賦与された、価値評価の集合体として存在したのである。(p. 85)

ひとり英雄のみが、これらすべての要素をひとつに結びつけることができる。(……)
ある地域を、現在の野蛮状態のうちより救い出し、これにかつての古典的偉大さを回復させること。近代西洋の流儀をオリエントに(オリエントのためにこそ)教授すること。オリエントを政治的に支配する過程で得られた輝かしい知識にもとづくプロジェクトを拡大するために、軍事力を従属的な位置におき、その行使を手控えること。オリエントの定式化、すなわち、記憶のなかでの位置付けや、帝国的戦略における重要性、ヨーロッパの付属物としてのその「必然的」役割等を十分に考慮して、そのために必要な形態・アイデンティティー・定義をオリエントに賦与すること。植民地的領有の期間に収集されたありとあらゆる知識に「近代的学問への貢献」という名目で威信を与えること。いっぽう、現地人には役立たぬテクストを仕上げる言い訳け(プリーテクスト)としてのみ、彼らを相談相手として処遇すること。自分がオリエントの歴史・時間・地理をほとんど意のままに支配するヨーロッパ人であると感ずること。新しい専門領域の設定。新しい学問分野の確立。視界に内側(および外側)にあるものすべてを分割し、配置し、図式化し、図表化し、索引化し、記録すること。観察可能なあらゆる細部(ディテール)からひとつの一般論をつくりあげ、あらゆる一般論から、東洋的(オリエンタル)性質・気質・心性・習慣または類型に関する不変の法則をつくりあげること。そしてなによりもまず、生きた現実(リアリティ)をテクストの素材にすること。オリエントには我々の力に抵抗するものがないらしいということを主たる理由として現実(アクチュアリティ)を占有する(と考える)こと。(p. 86)

『エジプト誌』は、オリエントをヨーロッパに接近させ、しかる後それをまるごと吸収しようとするような、さらに――もっとも重要なこととして――、オリエントの異質性と、イスラムの敵対性を抹消し、あるいは少なくとも緩和し、減少させようとするような、後代のあらゆる試みの母型(マスタータイプ)となった。というのは、それ以後、イスラム的オリエントは、人間としてのイスラム的大衆でも、歴史としての彼らの歴史でもなく、オリエンタリストの力を示す一カテゴリーとして現れることになるからである。(p. 88)

スエズ運河の構想には、オリエンタリズム的思考の論理的帰結と、さらに興味深いことに、オリエンタリズム的努力の論理的帰結とが、共に見出される。かつて西洋にとってのアジアとは、距離感と疎遠感との無言の表象であり、イスラムとは、ヨーロッパ・キリスト教世界に対する戦闘的な敵対心にほかならなかった。こうした恐るべき不変の相手を打倒するためには、まず最初にオリエントを知り、ついでオリエントに侵入してこれを所有し、しかる後、学者や兵士や裁判官の手で再=創造しなければならなかった。(p. 92)

レセップス以後、オリエントが厳密に言えば別の世界に属するものだという者はひとりもいなくなった。ただ「我々の」世界、ひとつに結ばれた「単一の」世界だけがあった。スエズ運河が、いくつもの違った世界というものがあるのだと思い込んでいた最後のいなか者の信念まで挫いてしまったからであった。これ以後、「オリエンタル」という概念は、行政上・執務上の概念となり、人口統計、経済学、社会学の諸要素に従属するものとなった。バルフォアのごとき帝国主義者たちにとっても、またJ・A・ホブソン〔イギリスの経済学者、一八五八―一九四〇〕のごとき反帝国主義者のとっても、東洋人(オリエンタル)とは、アフリカ人同様、従属民族の一員なのであり、必ずしも特定の地理的領域の住民である必要はないのであった。(p. 92)

四 危機

のちの十九世紀ダーウィニズムの人類学者や骨相学者を別とすれば、比較言語学または比較文献学におけるほどに、人種差別主義を学問的主題の基礎とした分野は他になかったのである。言語と人種は固く結びつけられているように思われた。「良い」オリエントといえば、それは必ず遠い昔のインドのどこかにあった古典期のことであり、一方「悪い」オリエントというのは、今日のアジア、北アフリカ諸地方、そしてイスラム世界のいたるところにしぶとく生き残っているもののことであった。「アーリア人」の存在は、ヨーロッパと古代オリエントにだけ限られていた。レオン・ポリアコフ〔レニングラード生れ、フランスの文学者、一九一〇―〕が明らかにしたように(とはいっても、彼は、ユダヤ人だけでなく、イスラム教ともまた同じく「セム系民族」であったと述べたことは一度もないのであるが)、アーリア人神話は、「より低級な(レッサー)」民族を犠牲にしながら歴史人類学と文化人類学とを支配したのである。(p. 100)

第二次世界大戦以来「西洋」が直面していたのは、騙されやすい東洋(オリエント)(アフリカ、アジア、発展途上国)諸国の間から同盟者を募っている利巧な敵、全体主義者なのであった。この敵を出し抜くためには、オリエンタリストだけが考えつくことのできるやり方で東洋人(オリエンタル)の非論理的心性をうならせるような演技をすること以上にうまい方法があっただろうか。こうしたあみ出されたのが「進歩のための同盟」、「東南アジア条約機構」等々、鞭と飴の方策に見られるきわめて巧妙な計略であった。(p. 109)

世界的な重要問題――核による破滅、資源欠乏の破局的様相、平等と正義と経済的均等を求める人間的要求の未曾有の高まりといった問題――に関心が集まると、政治家たちはオリエントに対する通俗的戯画(カリカチュア)を利用することになるが、この場合、イデオロギー供給源は、中途半端な知識を持ったテクノクラートだけではなく、高度の学識を備えたオリエンタリストなのである。国務省の誇り高き伝説に彩られたアラビストたちは、アラブの世界制覇計画について警告を発する。油断のならない中国人、半裸のインド人、そしてじっと待機しているイスラム教徒は、「我々の」気前のよい贈り物を狙う禿鷹どもとして描かれるが、「我々が彼らをつかまえそこねて」、共産主義か、彼らの救いようのない東洋的(オリエンタル)本能に追いやる結果となってしまったときには、彼らに呪いの言葉が吐きかけられる。共産主義にせよ、東洋的本能にせよ、どちらにしてもたいした相違はないわけだ。(p. 110)

こうした現代のオリエンタリズム的姿勢は、報道や大衆の心のなかに氾濫している。例えばアラブは、駱駝にまたがり、テロを好み、鉤鼻をもち、万事金銭次第の好色漢であり、彼らの分不相応な富は、真実の文明に対する公然たる侮辱であると考えられている。このような見方に絶えずつきまとっているのは、西洋人消費者が、数の上では少数派であるにもかかわらず、世界の資源の大半を所有するか、または消費する(またはその両方の)権利をもっているという前提である。その理由はなにか。東洋人(オリエンタル)とは異なって、西洋人は真の人間だからである。アンワル・アブデル=マレクが、「持てる少数者の覇権主義」およびヨーロッパ中心主義と結びついた人間中心主義と呼ぶものの実例として、今日これ以上に適切なものはないであろう。(p. 110)

第二章 オリエンタリズムの構成と再構成

一 再設定された境界線・再定義された問題・世俗化された宗教

冒頭から、滑稽なまでに面目を失した結末に至るまで、さまざまな修正主義的観念をブヴァールとペキュシェに逐一経験させることによって、フローベールは、あらゆるプロジェクトに共通する人間的欠陥というものに対して読者の注意を喚起したのだった。彼は、「ヨーロッパがアジアによって甦る」という紋切型の観念の背後に、きわめて悪質な思い上がりが潜んでいる事実を完璧に見抜いていたのである。広大な地理的領域を、わが手で扱い、管理することのできる実体に変えてしまう夢想家特有のテクニックがなければ、「ヨーロッパ」も「アジア」もそもそもあったものではない。つまり、ヨーロッパもアジアも実際には、我々のヨーロッパであり、我々のアジアなのであった。ショーペンハウアー〔ドイツの哲学者、一七八八―一八六〇〕がいみじくも言ったように、それは我々の意志と表象だったわけである。歴史の法則とは実際には歴史家の法則なのであった。(p. 119)

 

以上述べてきた四つの要素――拡大、歴史的対決、共感、分類――が、近代オリエンタリズム特有の知的・制度的構造が拠って立つ十八世紀的思想の諸潮流である。(……)まず第一の要素のよって、オリエントが地理的には東方に向かって、時間的には過去をさかのぼるようにして膨張した結果、聖書的な枠組みがすっかり弛緩し、さらには解体してしまった。(……)第二の要素のよって、歴史それ自体が従来よりもいっそう根源的(ラディカル)に認識されるようになるとともに、非ヨーロッパ文化と非ユダヤ=キリスト教文化とを歴史的に(つまり教会政治の一主題に還元してしまうことなく)扱う能力も強められた。(……)第三の要素によって、よその地域や文化との選択的同一化は、これまで蛮人の群とこれに立ち向かう戦闘隊形を組んだ信者の共同体という二極構造の元凶となっていた、頑迷固陋な自我と自己認識とを和らげることになった。もはやキリスト教的ヨーロッパ世界の境界線が、税関の役割を果たすことはなくなったのである。(……)第四の要素によって、指示と転移の可能性が洗練されて、ヴィーコの言う非ユダヤ人にして聖なる諸国民というカテゴリーを超越するようになると、人類の分類法も体系的に多様化していった。(p. 123)

要するに、オリエンタリストは、オリエントを近代性のなかに移しかえることにより、かつて旧い世界を創造した神のごとくに新たな世界を創造した人間、世俗的な創造主として、みずからの方法と立場とを祝福することができたのである。こうした方法や立場が、個々のオリエンタリストの生涯をこえて持続するにあたっては、継続性の世俗的な伝統、つまり訓練された方法論者という俗人の一階級(オーダー)が存在していた。そして彼らの兄弟的関係は血縁にもとづくものではなく、共通の言説(ディスクール)、実践(プラクシス)、図書館、ひと組の紋切り型の観念といった、いわばこの階級(ランク)に加入するもの全員が唱和する栄光の讃歌にもとづくものであった。フローベールは明敏にも、近代オリエンタリストが早晩ブヴァールとペキュシェのような写字生に身を堕すであろうことを予見していた。(p. 125)

十九世紀になって、ヨーロッパがオリエントを浸食すればするほど、オリエンタリズムはますます大きな大衆的信用をかちえていった。しかい、たといこうした大衆的信用の獲得が創造性の喪失と軌を一にしていたとしても、実はそれほど意外なことではない。なぜなら、オリエンタリズムの様式(モード)は、最初から再構成と繰り返しだったからである。(p. 126)

 

 

二 シルヴェストル・ド・サシとエルネスト・ルナン――合理主義的人類学と文献学実験室

十九世紀のヨーロッパの主要なアラビストたちはひとり残らず、彼らの知的権威の源泉をサシまで遡らせた。(……)しかしながら、知的遺産のつねとして、もろもろの付加物ならびに制約もまた同時に伝えられていた。サシは、近代のオリエントが無秩序でとらえどころがない存在であるがゆえに、いやそれにもかかわらず、これを回復されるべきものとして扱ったが、そこにこそ彼の系譜的に見た場合の独創性があった。サシはアラブをオリエントのなかに配置したが、そもそもオリエントそれ自体は、近代的な学問の総覧のなかに配置されていた。したがって、オリエンタリズムはヨーロッパの学的伝統に属してはいたが、しかしその素材は、オリエンタリストが再=創造してはじめてラテン学、ギリシャ学と同じデパートの名店街に並ぶことができたのである。(p. 133)

ルナンについて、我々がとくに関心をひかれるのは、彼が彼自身、みずからの時代と自民族中心主義的な文化とによって生み出された創造物にほかならないと言うことを、どれだけ自覚していたかという点である。一八八五年、フェルディナンド・レセップスの演説に対して、ルナンが学術的応答を行ったおりに、ルナンはこう断言した。「自国民よりも賢明であると言うことは、大層悲しいことであります。……人は自らの祖国に対して苦々しさを感ずることはできないのであります。国民に過酷な真実を告げる人々とともにあって正しすぎるよりも、むしろ国民とともにあって誤謬を犯す方がよいと思うのです」。このような言明のもつ経済性は、ほとんど完璧にすぎて信じられぬほどのものである。晩年のルナンは実はこう言っているのではないのか。最良の関係とは、生涯をつうじて自己の文化と、さらにその文化の倫理性やエートスと対等の交わりをむすぶことなのであって、けっして自分の時代の子であるとか親であるとかを定める王朝的・王統的関係をむすぶことなのではないのだ、と。(p. 151)

三 オリエント在住とオリエントに関する学識――語彙記述と想像力が必要とするもの

コッサンとカーライルの両者が我々に教えてくれていることは、換言すれば、東洋人(オリエンタル)は我々ヨーロッパ人が達成したものにはとてもかなわないのだから、我々がオリエントに対して過度の不安をいだく必要はないのだ、ということである。オリエンタリズムのパースペクティヴと非オリエンタリズムのパースペクティブとがここで一致する。というのは、十九世紀初頭の文献学の革命以後、オリエンタリズムは比較研究の分野に変貌したのであるが、その分野の内側でも外側でも、すなわち通俗的ステレオタイプにおいても、また、オリエントを素材としてカーライルのような哲学者がつくり上げた比喩形象や、マコーレーらがつくり上げたステレオタイプにおいても、オリエントそれ自体が西洋に知的に従属させられることになったからである。研究や思索の素材としてのオリエントは、先天的脆弱さを示すあらゆるしるしを帯びることになったのである。(p. 156)

結局、最後に勝利を収めるものはロマン主義的なオリエンタリズムのヴィジョンなのであって、そのときマルクスの理論的な社会経済的諸考察はこの古典的な標準的イメージのなかに埋没してしまうのだ。すなわち

イギリスは、インドで二重の使命を果たさなければならない。一つは破壊の使命であり、一つは再生の使命である。――古いアジア社会を滅ぼすことと、西洋的社会の物質的基礎をアジアに据えることである〔マルクス「イギリスのインド支配」〕。

(……)我々はつぎのごとき問いかけを行う必要があるだろう。まず第一に、アジアの敗北と喪失としてのイギリスの植民地支配を非難してきたマルクスの倫理的観点は、どのようにして、我々がこれまで述べてきた昔ながらの東西不平等論の方向にずれ込んでしまったのか。そして第二に、彼の人間としての同情心はどこへ行ってしまったのか。すなわち、オリエンタリズム的ヴィジョンにとって代わられる過程で、それはいかなる思考領域のなかに姿を消してしまったのか。(p. 158)

そのヨーロッパの(英・仏)帝国は、オリエントを、軍事的・経済的に、そして何よりも文化的に両の腕でしっかりかかえこんでいるのである。かくて、オリエントに住むこととその学問的成果とは、ルナンやサシに見られたごときテクスチュアルな姿勢を持った書斎派的伝統のなかに注ぎ込まれることになった。これら二種類の経験は、一体となって恐るべき図書館を構築し、その図書館に対しては誰一人、マルクスといえども反抗することができず、避けて通ることもできなかったのである。(p. 161)

これらの意図(ヨーロッパ人としてオリエントに在ろうとする)はいくつかの範疇(カテゴリー)として図式的に浮かびあがってくる。まず第一に、学問的な素材を専門的オリエンタリズムに供給するというはっきりした仕事のために自らのオリエント在住経験を利用する意図をもち、自らの在住を学問的な観察の一形式と考える著作家。第二に、前者と同じ目的を持っているが、しかしみずからの個人的な意識の奇矯性と様式とを前者ほど易易とは非個性的オリエンタリズムによる定義の犠牲にはしない著作家。(……)第三に、オリエントへの現実の旅、または比喩的な旅を、なにか心の奥底にうずく実現を追ってやまないプロジェクトの達成として捕らえる著作家。したがって彼の作品は、彼自身の美意識を基盤とし、そのプロジェクトによって涵養され満たされた作品となる。第二,第三の範疇の著作家においては、個人的な――少なくとも非オリエンタリズム的な――意識の働く余地が第一の範疇の著作家におけるよりもずっと大きい。(……)
視界、これら三つの範疇は、それぞれ異なっているとはいえ、一般に人が想像するほどには互いにかけ離れているわけではない。また、各範疇が、範疇を代表する「純粋な」類型を包含しているわけでもない。例えば、三つの範疇のどれをとっても、それらはその核心において、ヨーロッパ人としての意識がもつ完全に利己的な権力に依存しているのである。(p. 161)

三つのタイプのすべてをつうじ、一貫してくりかえされるある種のモティーフが存在している。巡礼の地としてのオリエントというモティーフはそのひとつである。また見世物として、活人画としてのオリエントのヴィジョンもその一例といえよう。(……)オリエントのために創造されたあらゆる解釈、あらゆる構成は、じつはオリエントの再解釈であり、再構築だったのである。(p. 162)

四 巡礼者と巡礼行――イギリス人とフランス人

こうして、すでに一八一〇年の時点で、我々は、1910年のクローマーと同様、東洋人(オリエンタルズ)は征服されることを必要としていると主張し、西洋人によるオリエント征服が征服ではなく解放なのだとする論理に何の矛盾も感じないひとりのヨーロッパ人に出会うのである。シャトーブリアンは、そうした考え方全体をロマン主義的な贖罪観念によって表現する。その観念に従えば、死んだ世界を甦らせ、生命力なき退化せる表層の下に隠された潜在能力を、しかもヨーロッパ人のみに見透かすことのできるその潜在能力を刺激して自覚させてやることこそ、キリスト教徒の使命だというのである。(p. 177)

バートンはあくまでもヨーロッパ人であり、彼にとって、自分が習得したようなオリエント社会に関する知識は、ヨーロッパ的な自意識をもって規則と慣習の集合体としての社会にのぞむヨーロッパ人にのみ許された、ひとつの特権だったからである。いいかえれば、オリエントでヨーロッパ人であるためには、しかも知識によってそうなるためには、人はオリエントを、ヨーロッパによって支配されたひとつの領域であると認めなくてはならないのである。オリエントに関するヨーロッパ的、西洋的な知の体系であるオリエンタリズムは、こうして、ヨーロッパによりオリエント支配と同義語になり、この支配力が、バートンの個性的な文体のもつ奇矯性をさえもしっかりとおさえつけてしまうのである。(p. 202)

 

 

第三章 今日のオリエンタリズム域

一 潜在的オリエンタリズムと顕在的オリエンタリズム

私が建ててみた、そして現在もなお用いている主要な作業仮説は次のようなものであった。まず第一に、学問の諸分野は、社会によって、文化的伝統によって、世俗的諸条件によって、そして、学校、図書館、政府のような固定的な方向に働く力によって、抑制されたり、影響されたりしており、しかもこのことは、もっともエキセントリックな芸術家の作品にさえ当てはまるということ。第二に、学問的著作も文学作品も、それらが用いうる形象・仮定・意図は限られており、けっして自由ではないということ。そして最後に、オリエンタリズムのごとき「科学(サイエンス)」が学術的(アカデミック)な形態をとってなしとげる成果も、往々にして我々が信じたがるような客観的真理などではないということ。(p. 207)

私は、実のところ、潜在的オリエンタリズムとでも呼びうるほとんど無意識(かつ不可侵)の確信と、顕在的オリエンタリズムとでも言うべき、オリエントの社会・言語・文学・歴史・社会学等に関して表明された種々の見解とを区別しようとするものである。オリエントについての知識に生じるあらゆる変化は、ほとんどもっぱら顕在的オリエンタリズムの側に見出され、潜在的オリエンタリズムにおける合意・固定性・持続性は、ほとんど恒久的である。(……)オリエントに関して各人がいだく諸観念のあいだの相違はもっぱら顕在的なものであり、形式や個人的な様式の相違ではあっても、基本的な内容が異なっていることはほとんどないというのが特徴である。(……)つまり、(イデオロギー的にいえば)ルナンからマルクスまでの、あるいはもっと厳格な学者たち(レインとサシ)からもっとも創意豊かな作家たち(フローベールとネルヴァル)までの、オリエントをめぐる著作家たちのことごとくが、オリエントを、西洋人によって注目され、再建され、さらには救済される必要のある地方と見なしていたのである。(p. 211)

オリエントの後進性、退行性、西洋との不平等といった命題は、十九世紀初頭に、人種差別理論の生物学的根拠をめぐる諸観念といともたやすく結びついた。したがって、キュヴィエの『動物界』、ゴビノーの『人種不平等論』、ロバート・ノックスの『黒人種』といった書物に描かれた人種の分類は、潜在的オリエンタリズムのなかに自発的な支持者を見出したことになる。さらに、こうした諸観念には、先進的人種と後進的人種、つまりヨーロッパ=アーリア人種とオリエント=アフリカ人種という区分の「科学的」妥当性を強調するかのような亜流ダーウィニズムが付け加わった。こうして、十九世紀後半、親帝国主義者および反帝国主義者の双方によって議論された帝国主義の問題全体が、人種、文化、社会を先進的なものと後進的な(つまり従属的な)ものとに分類する二項式の類型学を押し進めたのである。(p. 212)

オリエントと東洋人(オリエンタル)とは、――その語のもっとも深い意味において――発展・変化・人間的運動の可能性それ自体を否定されているのである。知悉され、究極的に固定化され、非生産的であるような特質をもったオリエントと東洋人(オリエンタル)とは、やがて好ましからざる不変性と同一視されるようになる。オリエントが賞賛される場合に用いられる「東洋の叡智」といった言い回しは、ここに由来しているのである。(p. 213)

 

彼〔クローマー〕は次のような意見を記している。第一に、大英帝国は断固維持されるべきであること。第二に、原住民とイギリス男女の通婚は望ましからざるものであること。第三に――これはもっとも重要な点と思われるが――自分は、東洋の植民地における大英帝国の存在が、東洋の人々の精神と社会とに、激動的とはいわぬまでも、永続的なある種の効果を及ぼしてきたと考えていること。この効果を表現するのにクローマーが用いた比喩は、ほとんど神学的なものであり、彼の心のなかでは、オリエントの広大な領域に西洋が浸透してゆくという観念が、それほどまで強力なものとして根づいていたのだった。それは、「科学的思考の充満した西洋の息吹きにひとたび触れ、その永続的な刻印をしるされた国というものは、もはや二度と以前と同じ状態ではありえない」というものであった。(p. 218)

潜在的オリエンタリズムの教義と顕在的オリエンタリズムの体験とがもっとも劇的な形でひとつに収斂したのは、何といっても第一次大戦の結果、アジアにおけるトルコの領土がイギリスとフランスによって解体されるべく眺められた瞬間であった。そこでこのヨーロッパの病人は、手術台の上に長々と横たえられ、その弱点、特徴、地誌的輪郭のすべてをくまなくさらけ出されたのである。(p. 227) 

二 様式、専門知識、ヴィジョン――オリエンタリズムの世俗性

何篇もの詩や『キム』のような小説、アイロニカルな虚構というには余りに多くのキャッチフレーズ、これらのなかにあらわれるキプリングの「白人」は、一箇の観念として、ペルソナとして、また存在様式として、海外に生活する多くのイギリス人の役に立ってきたように見受けられる。もちろん彼らの皮膚の色の白さがイギリス人を、無数の原住民から劇的かつ確実に隔ててきたことは確かである。しかし、インド人やアフリカ人、アラブのあいだを経巡ったイギリス人は、自分が有色人種に対する行政的責任の連綿たる伝統の一翼をにない、その伝統の経験的・精神的蓄積を利用することができるのだということもまた、十分に理解していたのである。キプリングが植民地における「白人」の歩む「道」を祝福して作った詩は、こうした伝統と、その栄光と苦難とをうたいあげたものであった。

さあ、これが白人の歩む道
大地を清めに行くときだ――
鉄路を辿り、葡萄を仰ぎ、
左右はひろがる大密林。
俺達はその道をやってきた――雨に濡れ風に吹かれ――
定めの星を導き手として。
白人が手をたずさえてその大道を
行くのは世界のためなのだ!  (p. 231)

また、ダーウィン自身によって是認された理論とは異なる、奇妙なダーウィニズムの影響により、近代の東洋人がかつての偉大さの退化した遺物にすぎないという見解も人口に膾炙するようになっていた。オリエントの古代文明、つまり古典的文明は、現在の退廃的無秩序をとおしてうかがい得るものであったが、それは、(a)白人の専門家が高度に洗練された科学技術を用いて選別・再構成を行うからであり、(b)また、大雑把な一般化(セム族、アーリア人種、東洋人)にさいして用いられる語彙の指し示す対象が、虚構の集合体などではなく、客観的で、一般の合意を得ていると思われるような特徴の集合全体であるからなのだった。こうして、東洋人に何ができ、何ができないかといった発現までもが、生物学的「真理」によって支持されることになった。(p. 237)

こうした固定的な「共時的本質主義」のシステムは、全オリエントを一望のもとに見渡すことが可能であるという前提の上に成り立ったものであり、それゆえに私は、このシステムをヴィジョンと名付けてきたのであった。こうしたシステムには常時、ある圧力が加えられている。圧力の源泉は語りである。というのも、もしオリエントのなんらかの細部(ディテール)が動いたり発展したりするということになれば、このシステムのなかには通時性が導入されることになるからである。不動と見えたもの――オリエントは不動性、不変的永遠性と同義である――が、今や動的なものとしてあらわれる。(……)歴史および歴史を表象する語りによって、ヴィジョンがいかに不完全なものであるかが論証され、無条件の存在論的カテゴリーとしての「オリエント」が、実は現実のもつ変化の可能性を不当に無視するものであることが明らかにされるのである。(p. 244)

ローレンスに代表されるイギリスのヴィジョンの対象は、本流としてのオリエント、つまる「白人」の専門的指導に導かれ、これに制御された人々や政治組織や運動である。オリエントは「我々の」オリエント、「我々の」人々、「我々の」支配領域である。エリートと大衆といった区別は、イギリスの場合、フランス人ほど意味をもたないのである。ところが、フランス人のものの感じ方や政策はつねに少数派に立脚し、フランスとその息子たる植民地のあいだに築かれた精神共同体のもつ、見えざる圧力を基盤としたものであった。(p. 250)

例えばマルロー〔フランスの小説家、一九〇一―七六〕の小説からも容易に判断できるように、両大戦間の時期には、東西関係が広汎なものになると同時に不穏な様相を帯びたものになっていた。オリエントが政治的独立を要求する徴候はいたるところで見出された。言うまでもなく、解体されたオスマン帝国の内部では、独立の要求が連合国に促されて急速に問題化していた。それは、アラブ反乱全体やその余波に明瞭に示されているとおりである。いまやオリエントは、西洋一般に対してのみならず、西洋の精神・知識・絶対権に対しても挑戦状をつきつけているように思われた。東洋はみずから近代性の危機に反応した。したがって、一世紀になんなんとするたえざるオリエントへの干渉(とその研究)の果てに、東洋における西洋の役割もまた、いっそう微妙なものとなったように思われたのである。(p. 252)

彼〔シルヴァン・レヴィ〕の標榜するヒューマニズム、彼が人類同胞に対して示す賞賛に値するほどの関心にもかかわらず、レヴィは現在の危機を不快なまでに狭隘な見地から理解する。レヴィの想像によれば、東洋人は、自分たちの世界がよりすぐれた文明の脅威におびやかされていることを感じているという。しかし、そうした感覚を誘発した原因は、自由や政治的独立、自前の文化的達成に対する積極的渇望などではなく、むしろ怨恨とか、嫉妬に充ちた悪意なのである。(……)もちろん根本的なレヴィの主張の要点――もっとも説得力のある告白――は、オリエントに対し何か手をうたぬかぎり「アジアのドラマは危機的状況を迎えるであろう」という点にある。(p. 253)

近代オリエンタリズムはみずからの内に、イスラムに対するヨーロッパの大いなる恐怖心の刻印を帯びてきた。そしてこの刻印は、両大戦間期の政治的要求によっていっそうはっきりとしたものになった。要するに、かつては比較的無害な文献学の下位分野であったものが、今や政治運動を制御し、植民地を管理し、「白人」の労苦にみちた教化の使命について、ほとんど黙示録的な発言を行う可能性をもったものへと変容したのである。――しかも、これらすべてがリベラルと称される文化、つまり普遍性・多様性・無偏見性といった誇り高き規準に十分な関心を払っている文化の内側でおこっているという事実は見逃しがたい。(p. 257)

三 現代英仏オリエンタリズムの最盛期

〔エーリッヒ・〕アウエルバッハが晩年の省察の結びに、聖ヴィクトルのフーゴー〔神秘主義的スコラ哲学者、一〇九六―一一四一〕の『ディダスカリコン』から、含蓄に富んだ一節を引用しているのも故なきことではなかった。いわく、「故郷を甘美に思う者はまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられる者は、すでにかなりの力をたくわえた者である。だが、全世界を異郷と思う者こそ、完璧な人間である」と。人間は、自分の文化的故郷を離れれば離れるだけ真のヴィジョンに必要な精神的超然性と寛容性とを同時に得、その故郷と、そして全世界とを、いっそう容易に判断できるようになる。また、自分自身に対しても異文化に対しても、同様の親近感と距離感の組み合わせをもって、いっそう容易に判断を下すことができるようになるのである。(p. 264)

東西の遭遇に関する〔ルイ・〕マシニョン〔フランスの宗教学者・イスラム学者、一八八三―一九六三〕のヴィジョンの最良の部分は、東洋に対する西洋の侵略、植民地主義、イスラムに対する仮借なき攻撃などの責任の大半を西洋に帰するものであった。マシニョンは、イスラム文明のために戦う生むことなき戦死であり、一九四八年以降に書かれた多くの論文と手紙とが証拠立てているように 、パレスティナ難民を支援し、(……)彼が手厳しくイスラエルの「ブルジョワ植民地主義」と呼んだシオニズムに反対し、パレスティナにおけるアラブのイスラム教徒・ユダヤ教徒の権利を擁護した。だがそれと同時に、マシニョンのヴィジョンがとらわれていた枠組は、イスラム的オリエントに本質的な古代を、また西洋には現代性を割り当てることになった。(……)マシニョンは、東洋人が現代に生きる人間ではなく、セム族であると考えていた。(……)彼がパレスティナ紛争に関してくりかえし行った理解と報告のための努力は、深いヒューマニズムに貫かれていたにもかかわらず、イサクとイシュマエルのあいだの争いという見方を越えるものではなかったし、マシニョンとイスラエルの抗争に関していえば、それはユダヤ教とキリスト教のあいだの緊張関係以外の何ものでもなかった。アラブの町や村がシオニストの手に落ちたとき、傷つけられたのはマシニョンの宗教的感受性なのであった。(p. 274)

マシニョンは救いがたいほどに局外者(アウトサイダー)であり、〔H・A・R・〕ギブ〔イギリスのイスラム学者、一八九五―一九七一〕は局内者(インサイダー)であった。いずれにせよ、両者はそれぞれフランスとイギリス・アメリカのオリエンタリズムにおいて、威信と影響力の絶頂をきわめた人物だった。ギブにとって、オリエントとは直接遭遇すべき場所ではなく、学会や大学、学術集会といったものの枠内で読まれ、研究され、書かれるべきものであった。マシニョンと同様、ギブはイスラム教徒たちとの友情を誇りにしていたが、その友情は――レインの場合のように――利害関係にもとづく友情であって、決定的なものではなかったように見うけられた。したがってギブは、イギリス(のちにはアメリカ)のオリエンタリズムの学問的枠組の内部における大御所なのであり、学者としての彼の著作は、大学や政府・研究機関の内部に固定された学問的伝統の、その国家的傾向をきわめて意識的に誇示するものであった。(p. 279)

マクドナルド〔イギリスの神学者、一八六三―一九四二〕と同様、ギブもまた一枚岩的東洋という観念にまったく満足しきっているように見うけられる。そして、その一枚岩的東洋の実存的諸条件は、人種とか人種理論には容易に還元できないものであった。ギブは、人種的一般論の価値をきっぱりと否定することにより、先行する世代のオリエンタリストたちのもつ最大の難点を超克する。それに対応して、ギブは、イスラムがその帝国領域内に種々多様な民族的(エスニック)・宗教的共同体を平和的・民主的に共存させている点に着目し、イスラムのもつ普遍主義と寛容性に対して、暖かな、共感にみちた見方をするのである。ギブは、イスラム世界の多くの民族的(エスニック)共同体のなかでも、シオニストとマロンはキリスト教徒だけは、共存を受け入れる能力がないという理由で別扱いにしているが、そこには不気味な預言の口調が感じられる。(p. 282)

自分の形而上学的思索を隠そうともしなかったマシニョンと違い、ギブは、こうした発言を、あたかも客観的知識であるかのように提示した(ギブによれば、客観的知識というカテゴリーは、マシニョンに欠けたものであった)。だが、イスラムについてのギブの一般的著作は、ほとんどあらゆる基準からみて形而上学的なものである。それは、ギブが「イスラム」といった抽象概念を、あたかも明晰かつ明瞭な意味をもったもののごとくに使用しているためばかりではなく、ギブの「イスラム」が、具体的な時間・空間の内部でどこに存在しているのか、皆目わからないからである。(p. 284)

ギブの全著作の目的は、あるがままのイスラム(モハメダニズム)を上述すると同時に、ありうるイスラム(モハメダニズム)を叙述することである。形而上学的に言えば――そして形而上学的にのみ――本質(エッセンス)と可能性(ポテンシャル)が一体化するのである。形而上学的姿勢をとることによってはじめて、(……)「イスラム」に関する陳述は、真にオリンポス的な確信と晴朗さをもって行われる。ギブの文章と彼がそこに叙述した現象とのあいだには、いかなる断層も、いかなる不連続も感知されない。それは、ギブ自身が述べるように、両者が窮極的に相互に還元可能だからである。(p. 287)

ギブは、静謐な散漫さをもちつつ深い所で連続性を保っているその散文によって、また、マシニョンの場合には、奇矯な解釈の才能に支配されている限り何に言及しようと決していきすぎになることのない芸術家の直感によって、ヨーロッパのオリエンタリズムにおいておよそ考えられうる限りの、本質的に普遍的な権威を獲得した。彼らのあとに現れた新しい現実――新たに特殊化した様式――は、広く言えばアングロ=アメリカ的ナものであり、狭く言えばアメリカ流の社会科学的なものであった。その新しい環境のなかで、古いオリエンタリズムはばらばらに解体した。しかし、それでもなお、その個々の小部分は伝統的なオリエンタリズムの教説に奉仕しているのであった。(p. 288) 

四 細心の局面

ナチス台頭以前にヨーロッパにいたユダヤ人は、その後二方向に分解したのだともいえよう。一方では、冒険家=先駆者=オリエンタリスト(バートン・レイン・ルナン)によって再構成された信仰のなかからユダヤ人の英雄がつくりあげられ、他方では、それに寄り添う神秘的でおそろしい影として、オリエントのアラブが生まれ出たのである。オリエンタリズムの論証によって創造された過去以外、あらゆるものから切り離されてしまったラブは、ひとつの宿命につながれて、一連の反応をおこすべく定められ、命ぜられる。しかしそれらの反応は、バーバラ・タックマン〔アメリカの作家、一九一二―〕が神学的名称として「イスラエルの恐るべきすばやい剣」と呼んだものによって、周期的に懲罰を受けるのである。(p. 292)

彼〔モロー・バーガー、一九一七―〕の言わんとするのは要するに、自分のような人間がいなければ中東は無視されてしまうだろうし、自分の注解や通訳なしにはこの地域は理解されないだろうということだからである。なぜなら、ここで理解するべきことは少ないながらもかなり特殊なことであるし、またオリエンタリストのみがオリエントを解釈できるのであり、オリエントには根本的にみずからを解釈する能力がないからである。(p. 295)

オリエントに対するアメリカの新たな社会科学的関心の顕著な一側面は、奇妙なまでに文学を避けようとする傾向である。我々が現代の近東に関する膨大な量の専門的な著作を読んでいて、一回たりとも文学への言及にお目にかからぬということさえありうるのである。地域研究の専門家にとっては「事実(ファクツ)」がはるかに大切に見えるのであり、それについての文学的テクストなどは邪魔者でしかないのだろう。現代のアメリカがアラブ・イスラム的オリエントを認識するうえで、このような著しい欠落がある結果、地域とその住民は概念的に去勢されて、いくつかの「態度」「傾向」、統計上の数字へと還元されてしまう。要するに人間性を剥奪されるわけである。(p. 296)

社会科学の次元では、言語の学習はより高次の目標を達成するための単なる手段であって、どうみても文学作品を読むために手段ではない。(……)オリエントの諸言語は――これまでもある程度までは常にそうであったように――ある政治目標の一部分なのであり、たゆみない宣伝活動(プロパガンダ)の努力の一部なのである。いずれの目的にせよ、オリエント諸言語の習得は、宣伝活動(プロパガンダ)に関するハロルド・ラスウェルのテーゼ、すなわち、重要なのは、人々が何者であり何を考えているかではなくて、かれらを何者にし、何を考えさせることが可能かという点にあるというテーゼを実行する道具となっているわけである。(p. 297)

だが、こうした〔予測による管理のための〕プログラムはいつもリベラルな装いを保っていなければならず、これはふつう学者や篤志家、情熱家たちの手にゆだねられる。東洋人(オリエンタルズ)やイスラム教徒、アラブを研究することによって、「我々」は異民族とその生活様式・思考様式を理解することができるようになる、という考え方が喧伝されるのである。この目的のためには彼ら自身にみずからを語らせ、みずからを表象=代表させるにこしたことはない(「彼らは、地文で自分を代表することができず、だれかに代表してもらわなければならない」というマルクスの、ルイ・ナポレオンに関する言葉――ラスウェルもこれと同一の考え方をもっている――が、たとえこの虚構に底流しているにしてもである)。だが、それもある程度までであるし、ある特別なやり方によってである。一九七三年、アラブ・イスラエル間の十月戦争の成り行きもまだ定まらない時期に、『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』はそれぞれイスラエル側とアラブ側を代弁する二つの依頼論文を掲載した。イスラエル側の論者はイスラエルの法律家であるのに対し、アラブ側の論者は前アラブ大使のアメリカ人で、オリエント研究に関しては何も訓練を受けていない人間であった。(p. 298)

〔ギュスターブ・フォン・〕グルーネバウムによれば、近代イスラムが西洋から顔をそむけたのはイスラムの原義に忠実であったためである。けれども、イスラムは西洋的観点に立って自己解釈することによってのみ近代化を達成しうる――しかしもちろんこれは不可能だ、とグルーネバウムは言うのである。〔アブドゥッラー・〕ラルウィー〔モロッコの歴史家・政治理論学者、一九三三―〕は、グルーネバウムの結論が革新不可能な文化としてのイスラム像に帰着することを述べているが、そのさいに触れていないことがある。それは、イスラムの自己改革のために西洋的方法を用いる必要があるという考え方が、おそらくグルーネバウムの強い影響によって、中東研究においてはほとんど定説になっているという事実である。(例えばディヴィッド・ゴードンは『第三世界における自己決定と歴史』のなかで。、アラブ、アフリカ人、アジア人が『成熟』すべきことを説いてやまない。彼は、西洋の客観主義を学ぶことによってしか成熟が期待できないことを主張するのである)。(p. 303)

オリエンタリズムの主たるドグマが今日もっとも純粋なかたちで存在するのは、何といってもアラブ・イスラム研究である。それらのドグマをここに要約してみよう。第一は、合理的で進んだ、人道的にしてすぐれた西洋と、常軌を逸し、遅れ、劣った東洋とのあいだに絶対的・体系的な相違がある、とするドグマである。第二番目は、オリエントに関する抽象概念、とくに「古典的」オリエント文明を表象する諸文献にもとづいた抽象概念が、現代オリエントの諸現実から直接引き出される証拠などより常に望ましいものであるとするドグマである。第三は、オリエントが永遠にして画一的であり、自己を定義することができないというもの。したがって、西洋の観点からオリエントを叙述するためには、高度に一般的・体系的な語彙が不可欠であり、学問的に「客観的」でさえあるという主張がなされることになる。だ四のドグマは、オリエントが本質的に恐るべきもの(黃禍、モンゴル遊牧民、褐色人種の統治)であるか、統御されるべきもの(講話、調査、開発、可能ならば完全占領によって)であるとする考え方である。
異常なことに、こうした考え方は、現在の近東に関するアカデミックな研究および政府の研究において、さしたる抵抗もなくまかり通っているのである。(p. 305)

(主にアメリカ人からなる)「憂慮するアジア研究者委員会」は、一九六〇年代に東アジア研究の専門家の序列に一大改革を行った。アフリカ研究の専門家も、その他の第三世界を研究する専門家たちも同様に修正論者たちの挑戦を受けた。ただアラビストとイスラム学者だけが無修正のまま機能を果たしているのである。彼らにとっては、いまだにひとつのイスラム社会、ひとつのアラブ的精神、ひとつのオリエント的心性というものが存在する。時代錯誤もはなはだしいが、現代イスラムを専攻する者でさえ、現代エジプトあるいはアルジェリア社会の各局面を読みとるために、コーランのような文献を用いている。イスラム、あるいはオリエンタリストによって構成されたその七世紀的理想型は、最近の植民地主義、帝国主義、あるいは通常の政策からさえ大した影響をうけずに統一性を維持しているものと考えられている。(p. 306)

外国の植民地主義者に抵抗するパレスティナ人は、愚かな野蛮人であるか、さもなければ道徳的にも実存的にも無視しうる、一箇の数量でしかなかったのだ。イスラエルの法律によれば、完全な市民権と無制限の移住特権を持っているのはユダヤ人だけである。アラブはその土地の住民でありながら、より少なく、より簡単な権利しか与えられていない。アラブは移住することもできないのである。そして彼らが同等の権利をもっていないように見えるとすれば、それは彼らが「遅れている」ためだとされる。オリエンタリズムがイスラエルの対アラブ政策を完全に規定していることは、最近出たケーニヒ・レポートが十分にしめしている通りである。良いアラブ(言いなりになる人間)と悪いアラブ(言われたとおりにしない人間、つまりテロリスト)とがある。とりわけ大多数のアラブは、いったん敗北した後はおとなしく国境線の向こうに坐っているものとみてよい。彼らはイスラエルの優越性の神話を認めざるをえなかった以上、もう絶対に攻撃をしかけてくることはないだろう。だから、国境には必要最小限の配備をしておきさえすれば、それが破られることはないのだ、と。(p. 311)

オリエンタリストとは各人間であり、東洋人(オリエンタル)とは書かれる人間である。これこそ、オリエンタリストが東洋人に対して課したいっそう暗黙裏の、いっそう強力な区別である。このことを認識することによって、我々は〔ギル・カール・〕アルロイ〔政治学者、一九二四―〕の発言を説明することが可能になる。東洋人に割り当てられた役割は消極性であり、オリエンタリストに割り当てられた役割とは、観察したり研究したりする能力である。ロラン・バルトが述べたように、神話(と、それを永遠化するものと)は、絶え間なく自己をつくりだしうるものである。東洋人は固定化された不動のもの、調査を必要とし、自己に関する知識すら必要とする人間として提示される。いかなる弁証法も要求されず、いかなる弁証法も許されない。そこのあるのは情報源(東洋人)と知識源(オリエンタリスト)である。つまり、筆記者と、彼によって活性化される主題である。(p. 312)

〔P・J・〕ウァーティオーティスによれば、「人間」の行為は何であれ、理性的で、正義にかない、精妙で、明確で、具体的であるのに対し、革命家の主張することはすべて、暴力的で、非理性的で、催眠術的で、癌のようなものである。生殖、変化、連続性は、たんに性欲や狂気ばかりでなく、少々逆説的であるが、抽象性とも同一視されている。
(……)ここで問題となっているのはアラブの革命である以上、我々はこの一節を次のように読みかえなくてはならない。すなわち、これが革命というものだ。アラブが革命を望むのであれば、それこそ彼らがいかに劣った人種であるかの何より立派な注釈である。彼らはただ性的刺激を引き起こすことしかできず、オリンポス的(西洋的、近代的)理性などもちえないのだ、と。ここで私が前に触れたアイロニーが生きてくる。なぜなら、この数頁あとでは、アラブに革命は不似合いであり、彼らは革命の大望を抱くことすらできず、ましてやそれを成就するなどもってのほかだ、という議論がなされているからである。(p. 317)

合衆国は今日、地球上の他のどの地域にもまして深く中東に関わっており、政策立案者に助言を与える中東の専門家たちは、ほとんどひとり残らずオリエンタリズムに染まっているからである。こうした関わりのほとんどは、砂上の楼閣と呼ばれるにふさわしいものである。なぜなら、専門家が政策指導を行うさいの基礎となっているのは、政治的エリートとか近代化、安定性といった流行の抽象概念だからである。これらの概念の大部分は、政策上の特殊用語という装いをこらした、古いオリエンタリズムのステレオタイプにすぎず、またそのほとんどは、近年レバノンで起こっている事態、あるいはそれ以前に、イスラエルに対するパレスティナ民衆の抵抗運動のなかで起こった事件を叙述するためには、まったく不完全なものでしかなかった。オリエンタリストは現在、オリエントを西洋のイミテーションとして眺めようと試みている。(p. 325)

今日、イスラムの歴史・宗教・文明・社会学・人類学などの分野にはあまたの学者がおり、学問的にきわめて価値ある成果を産み出している。問題が生ずるのは、あまり用心深くない学者がオリエンタリズムのギルド的伝統にとらえられた場合である。つまり、この専門的職業においては、紋切り型の観念があまりにも安易に伝達されていくため、学者としての個人の意識がそれに警戒心を抱くことのない場合が問題なのである。したがって、興味深い研究が、オリエンタリズムのように規範的・帝国的・地理的に定義される「分野」にではなく、知的に定義される学問分野に忠誠を誓う学者たちのもとから産み出されるであろうことは、想像に難くない。(p. 330)

オリエンタリズム再考

オリエンタリズムからほとんどそっくりとり残されたものとは、まさにオリエンタリズムの政治的・イデオロギー的侵略に抵抗する歴史そのものだったのであり、その抑圧と抵抗の歴史は、オリエンタリズムに対するさまざまの批判や攻撃の形をとって戻ってきたのである。それらの批判は異口同音に、また論争的な態度で、オリエンタリズムを帝国主義の科学として表象するものだった。(p. 342)

オリエンタリズムに対する最近の批判者すべてと同様、私もまた、二つの事柄はとくに重要であると考えている。――その第一は、オリエンタリズムを実証的というよりもむしろ危機的な学問分野(ディシプリン)であると解釈し、それを厳しい詮索の対象にしようとする厳格な方法論的警戒心である。第二に、オリエントを分離し封じ込めようとする力を、いつまでも放置してはおくまいとする決意である。この第二点を私なりに理解した結果として、私や今や「東洋(オリエント)」と「西洋(オクシデント)」といった呼称を完全に否定する、極端な立場をとるまでに立ち至っている。(p. 342)

けっきょく、問題は再び歴史主義と、それに特有のものであった普遍化および自己正当化に帰着する。ブライアン・ターナーの非常に重要な小著『
マルクスとオリエンタリズムの終焉』は、現在歴史主義の普遍化が及んでいる経験的領域を分解し、分離し、その位置を変え、脱中心化するという目的をほぼ完全に達成した。認識論上のディレンマを論ずるなかで、ターナーは単一という概念に対立するものとしての複数の客体を対象とする新しいタイプの分析方法を創造するために、マルクス主義的=歴史主義的思考にみられる二極性と二項対立(主意説対決定論、アジア的社会対西洋的社会、変化対静止)を乗り越える必要のあることを示唆している。同様に、多くの相互に関連し合う分野や、往々にして無関係な数々の分野で産み出された一連の研究においても、従来オリエンタリズムや歴史主義、あるいは本質主義的普遍主義とでも呼びうるものによって支配されてきた一元的分野をいわば解体し、分解し、方法論的・批判的に再理解しようとするプロセスに総体的進歩がみられたのである。(p. 349)

だが最後に、強烈で自己批判的で偏狭なあらゆる知的活動にまとわりつく一つの問題が残される。すなわち、ゲオルグ・ルカーチが今世紀にはじめて強力に分析した、あの物象化と商品化の必然的結果としての分業の問題がそれである。これは、マイラ・ジェーレンが女性問題研究に対して繊細かつ知的に提起したもので、いったい従属的グループ――女性、黒人など――は、反支配的な批判と一体化し、これを実践していくなかで、結果として生ずる経験と知識という二つの自律的領域のあいだのディレンマを解決することができるのかどうかという問題にほかならない。ここに、二種類の所有排他主義が生ずる可能性がある。第一は、経験の所有によって排他的局内者(インサイダー)であるとする感覚(女性のみが女性の立場に立って、女性のためにものを書くことができ、女性や東洋人をよく描いたぶんがくのみが良い文学である)であり、第二は、方法の所有によって排他的局内者(インサイダー)であるとする感覚(マルクス主義者・反オリエンタリスト・フェミニストのみが、経済学・オリエンタリズム・女流文学について書くことができる)である。(p. 353)

 

(2011/9/22)