ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <書 抜き書きメモ22>

ガーヤットリー・チャクラヴォルティ・スピヴァク
サバルタンは語ることができるか

上村忠男訳、みすず書房、1998年

主体としてのヨーロッパの歴史は西洋の法、経済、イデオロギーによって物語化されたものであるにもかかわらず、この隠蔽された主体はそれが「地政学的規定を持たない」と言いつくろう。主権的主体についての広く喧伝されている批判は、このようなしかたでもって現実にはひとつの主体を立ち上げているのだ。わたしは、その批判の二人の偉大な実践家によって書かれたひとつのテクストを考察することをとおして、この結論を論証しようと思う。「知識人と権力――ミシェル・フーコーとジル・ドゥルーズとの対談」〔1972年3月4日。『アルク』誌第四九号に掲載、原文はFDと略す〕がそれである。(p. 3)

その対談への参加者たちは、フランスのポスト構造主義理論のもっとも重要な貢献がつぎの二点にあることを強調している。すなわち、第一には、権力/欲望/利害のネットワークはきわめて異種混淆的(heterogeneous)なものであって、それらをひとつの首尾一貫した語りへと還元することは反生産的であり、このような還元の試みにたいしてはたえざる批判が必要とされるということを明らかにしたこと。そして第二には、知識人は社会の他者(society’s Other)の言説を明るみにだし、知るように努めるべきであると主張したこと。ところが、二人とも、イデオロギーの問題およびかれら自身が知的ならびに経済的な生産活動の歴史のなかに巻き込まれているということにまつわる問題については、これを一貫して無視している。(p. 4)

労働者たちの闘争へのドゥルーズの言及も、同様に問題を孕んでいる。その言及のしかたは明らかに拝跪そのものである。「私たちは権力が適用されるどの点において権力に触れても、この広漠とした総体に私たち自身が直面させられているということに気づかないわけにはいきません。このことに気づかされるからこそ、私たちは必然的に……その総体をこっぱみじんにしたいという欲望へと導かれるのです。すべての部分的な革命的攻撃や防御は、このようにして労働者たちの闘争に結びつくことになるのです」(FD, 217)。しかしながら、これは一見ごくありふれた述言であるようでいて、実は否認の言であることを告げ知らせている。ここでは労働の国際的分業(international division of labor)が完全に無視されてしまっているのだ。これは多くの場合にポスト構造主義の政治理論の特徴をなしている点である。労働者たちの闘争なるものをこのような抽象的かつ一般的な言い回しのもとに引き合いに出すことは、まさにその無邪気さのゆえに有害なのである。(p. 5)

労働の国際的分業を無視してしまっていること、「アジア」を(そして時には「アフリカ」を)透明な存在にしてしまっていること(これ見よがしに「第三世界」という名指されかたがなされる場合を別にすればである)、社会化された資本(socialized capital)という法的主体をふたたび確立してしまっていること――これらが構造主義理論と多くのポスト構造主義理論とに共通する解決されなければならない問題としてあるのである。まさしく異種混淆性と他者についての私たちの最良の予言者であるそれらの知識人において、このような閉塞がゆるされてよいわけがどうしてあろうか。(p. 6)

これらの哲学者たちは、どうやらイデオロギーという概念を口にするあらゆる議論をテクスト論的にというよりはむしろたんに図式的にすぎないものとして拒絶することを余儀なくされているようである。そのため、利害と欲望とのあいだに機械的に図式的な対立を措定することをも余儀なくされるのである。こうしてかれらはイデオロギーの占めるべき場所を実体的内容を付与された「無意識」や準主体的な資格をあたえられた「文化」でもって埋め合わせようとするブルジョワ社会学者たちと連携する羽目におちいる。欲望と利害との機械的な関連づけは「わたしたちはわたしたちの利害に逆らってはけっして欲望しません。なぜなら、利害はつねに欲望のあとにやってくるのであって、欲望がそれを置いた場所にみずからを見いだすからです」(FD, 215)といったような言明のうちに明らかである。いまだ差異化をほどこされていない欲望こそが行為の作因者(agent)をなしているのであって、そこに権力が欲望の諸効果を生みだすために滑りこむのだ。「権力は……欲望のレヴェルにおいて――くわえては知のレヴェルにおいても、もろもろの積極的な効果を生み出すのです」(PK(Foucault, “On Popular Justice”, 59)。(p. 10)

だとすれば、主権的主体の批判のほうはどうなってしまうのか。この〔ポスト?〕表象=代表主義的現実主義([post] representationalist realism)はドゥルーズのつぎの言葉とともに極限に達する。「現実とは、工場、学校、兵営、監獄、警察署で実際に起こっていることにほかなりません(FD,212)。対抗ヘゲモニー的なイデオロギー的生産という困難な仕事を遂行する必要性をこのようにしてあらかじめ閉ざしてしまったことは、けっして好ましいことではなかった。それは先進資本主義諸国のネオコロニアリズムの正当化の基礎をなしている実証主義的経験主義がみずからの闘争の場を「具体的経験」や「実際に起こっていること」に定位するのに手を貸してきた。実のところ、囚人、兵士、生徒たちの政治的アピールの保証人である具体的経験が明るみに出されるのは、あくまでもエピステーメーの診断者たる知識人の具体的経験をつうじてなのだ。どうやらドゥルーズもフーコーも、社会化された資本の内部にいる知識人は具体的経験を振り回すことによって労働の国際的分業の強化に手を貸すことになっていることに気づいていないようである。 (p. 12)

家族とはある特殊な階級的形成体に属しているものであるにもかかわらず、その家族を排除していることは、疑いもなく、マルクス主義がその内部にあって産声をあげた男性中心的な枠組みの一部分をなしている。歴史的に見ても、今日のグローバルな経済のなかにあっても、家父長制的社会関係における家族の役割はきわめて異種混淆的なありかたをしており、さまざまな異議申し立てがなされているものであって、ただたんにこの問題状況のなかにあっての家族の位置の置き換えをおこなうだけでは、枠組み自体を破ることにはならない。しかしまた、実証主義者流に「女性」を一枚岩的な集合体として被抑圧者のリストのなかに括り入れてしまったところで、解決策になるわけではない。被抑圧者の分裂していない主体性こそが同じく一枚岩的な「同一システム」に対抗して自分で語ることを可能にするというのだが、そんなことは断じてないのである。(p. 21)

この奇妙なことにも否認の言葉によって〔知識人の〕透明性のなかにいっしょに縫いこまれてしまっている主体/主体は、労働の国際的分業の搾取者の側に属している。現代のフランス知識人たちには、ヨーロッパの他者の名指されることのない主体のうちにどのような種類の権力欲望がやどっているかを想像することは不可能なのだ。 (p. 28)

フーコーとドゥルーズによれば、(第一世界では社会化された資本による水準化と規格化が推進されていて)被抑圧者たちは(かれら自身はこのことに気がついていないようにみえるものの)、もし機会をあたえられたならば(ここでは代表の問題を迂回することはできない)、そして連合のポリティクスをつうじてのプロレタリアートとの連帯への途上で(ここではマルクス主義的な主題が作動している)、かれらの置かれている状態を語り知ることができるという。そこでわたしたちとしてはいかの問いに立ち向かわなければならない。社会化された資本から遠く離れたところにある労働の国際的分業のもう一方の側では、はたして、初期の経済的テクストを代補する帝国主義的な法律と教育が発動する認識の暴力の圏域の内側および外側にあって、サバルタンは語ることができるのか、という問いがそれである。(p. 36)

アントニオ・グラムシが〔獄中ノート(一九二九-一九三五年)において〕おこなった「サバルタン諸階級(classi subaltern)〔従属的諸階級〕」についての考察は、マルクスの『ブリュメール一八日』においてはただそれだけを切り離して論じられていた立場としての階級(classi-position)と意識としての階級(classi-consciousness)の関係にまつわる議論をより一般的なコンテクストへと拡大したものとなっている。たぶんレーニン主義的知識人の前衛主義的な立場を批判しようとしたためであろう、グラムシはサバルタンがヘゲモニーをめざして展開する文化的および政治的な運動のなかで知識人のはたす役割に関心をよせている。このサバルタンの展開するヘゲモニーをめざしての運動こそは(真実の)ナラティヴとしての歴史の生産を規定するはずのものだった。(p.37)

検索可能な純粋な意識の形態なる物の存在をただそれを放逐するためにのみ信じ、ひいてはマルクスにおいては生産的な困惑の諸契機でありつづけていたものを閉め出してしまう、この種の「国際主義」的マルクス主義こそは、フーコーとドゥルーズがマルクス主義を拒絶するさいの対象となりうるものであると同時に『サバルタン・スタディーズ』グループの企てを動機づけている批判の源泉でもある。これら三者はいずれも意識の純粋な形態なるものが存在すると想定している点では一致している。ただ、フランスのシーンでは、シニフィアンの切り混ぜが見られる。そこでは「無意識」ないし「抑圧された主体」がひそかに「意識の純粋な形態」の空間を満たしているのだ。正統的な「国際主義」的知的マルクス主義においては、第一世界においてであろうと第三世界においてであろうと、意識の純粋な形態はひとつの観念論的な岩盤でありつづけている。そして、それは副次的な問題であるとして放逐されるやいなや、しばしば人種差別主義であるとか性差別主義であるといった評判をとることになるのである。『サバルタン・スタディーズ』グループの場合には、それはこれまでは気づかれずにいた自己表出の様式にしたがっての発展を必要としている。 (p. 46)

(……)女性という「像」を描くことについていえば、女性と沈黙との関係は女性たち自身によってたくらまれうる。そして人種と階級の面におけるもろもろの差異はそれのもとに包摂されてしまう。サバルタンの歴史記述はそういった所作がそもそも不可能とされているのだという事実に取り組まなくてはならない。帝国主義という限定された場面で発動される認識の暴力はおよそエピステーメーの可能性そのものである一般的な暴力の不完全なアレゴリーをわたしたちにあたえてくれるのである。 (p.50)

いうまでもなく、人間の労働は、それ自体として「安価」であったり「高価」であったりするわけではない。一連の労働関係の法律が欠如していること(あるいはそれらの実施に差別と不公平が見られること)、国家の形態が全体主義的であること(これは周辺地域での開発と近代化にはしばしばともないがちなことである)、そして労働者側の要求もなお最低限の生活水準を確保するためのものであることが、労働を安価なものにしているのだ。そして、この決定的な項目をそのままにしておくためには、買弁諸国の都市プロレタリアートは(階級のない社会の哲学として誇示されている)消費主義のイデオロギーに訓練されるようなことは断じてあってはならないのである。このイデオロギーは、なんのかのといっても結局のところ、フーコーが言及している連合のポリティクス(FD, 216)をつうじて買弁諸国の都市プロレタリアートのあいだに抵抗のための地盤を用意することにならざるをえないからである。消費主義のイデオロギーからの買弁諸国の都市プロレタリアートのこのような分離は、国際的な下請け現象が増殖するなかでますますきわだってきている。(p. 52)

いうまでもなく、ドゥルーズが語っているのは一九世紀の領土支配的帝国主義の遺産についてであるから、かれの言及はグローバル化する中心というよりは国民国家についてのものである。善意に充ちた第一世界がこのようなかたちで他者として第三世界を領有し書きこみ直そうというのが、今日アメリカ合州国の人文系諸科学の分野にあふれかえっている第三世界主義の基本的特徴にほかならないのである。
またフーコーのほうは、〔ドゥルーズの発言から示唆をえた〕地理的な非連続性ということに訴えながら、マルクス主義批判を続けている。「地理的な(地政学的な)非連続性」の真の目安になるのは、労働の国際的分業である。しかし、フーコーがこの言葉を用いるのは、搾取(剰余価値の抽出と占有――つまりはマルクス主義的分析の分野)と支配(「権力」研究)とを区別したうえで、後者のほうにこそ連合のポリティクスにもとづいた抵抗のためのより大きな潜勢力がそなわっているということを示唆するためである。フーコーが提示しているような「権力」思想(それは方法論的に権力なる主体を前提とする性質のものである)への一元論的かつ一体化した接近がなされうるのは、搾取の一定の段階においてである。というのも、地理的な非連続性についてのフーコーのとらえ方は地政学的にいって第一世界に特有のものだからである。ところが、このことをフーコーは認めることができないのだ。 (p. 56)

ヨーロッパ帝国主義の諸世紀についてのフーコーの卓抜な分析を読んでいると、まさにその分析自体があの異種混淆的な現象のミニチュア版を生産しているかのようにみえることが時々ある。空間の――ただし医者による管理、行政の――ただし精神病院での発達、周辺の――ただし精神異常者や囚人や子供にかんしての考察、等々。診療所、精神病院、監獄、大学――これらはすべて、帝国主義についてのより広いさまざまなナラティヴを読むことをあらかじめ封じてしまうための目隠しのアレゴリーのように思われてくるのだ(ドゥルーズとガタリにおける「脱領土化(déterritorialisation)」というものすごいモティーフにかんしても同様の議論を始めることができるだろう)。(p. 61)

(……)デリダは「脱構築(deconstruction)」が批判的なものにせよ政治的なものにせよ適切な実践へと導くことができるのかどうかという問題に立ち向かっている。問われなければならないのは、自民族中心主義的な主体があるひとつの他者を選択的に定義することで自己を確立してしまうのを避けるにはどうすればよいか、ということである。これは主体そのもののための企てではない。むしろ、善意に充ちた西洋知識人のための企てである。わたしたちのうちで、「主体」には歴史があり。わたしたちの歴史的現時点における第一世界の知の主体に課されている任務は「どうか」をつうじての第三世界の「認知」に抵抗し、これを批判することにある、と感じている者にとっては、これはきわめて重要な点である。 (p. 65)

(……)デリダは、言い表すことができず、それでいて超越的でもないという、パラドクシカルなありようをした何ものかを保存しぬこうとする、かれ自身の欲望がどんなにか力が弱くて傷つきやすいものであるかを明るみに出している。植民知的主体の生産を批判する作業のなかでは、このような言い表すことができず、それでいて超越的でもないような(「歴史的な」)場所は、サバルタン的主体によって備給される。(p. 68)

わたしにとってもっと重要なことは、デリダが、一人のヨーロッパの哲学者として、ヨーロッパ的主体には自民族中心主義にとっての周辺的な存在として他者を構成しようとする傾向があることを明確にするとともに、それをあらゆるロゴス中心主義的な努力、ひいてはまたあらゆるグラマトロジー的な努力を(というのも、この章の主要なテーゼは両者のあいだには共犯関係が存在しているということなのであるから)ともなった問題として位置づけていることである。これは一般的な問題ではなくて、あくまでヨーロッパの問題である。デリダが思考ないし知識の主体を格下げしようと絶望的なまでの試みをして、「思考とは……テクストの空白部分である」(OG「グラマトロジーについて」(一九六七年), 93)とまで述べているのは、まさにこの自民族中心主義のコンテクストの内部においてなのである。そして、思考がかりにテクストの空白部分であるのであってみれば、それはなおもテクストのなかに存在しているのであって、歴史の他者に引き渡されなければならないのである。(p. 69)

サバルタンは語ることができるのか。サバルタンの連続的な構築がおこなわれることにたいして警戒を怠らないためにエリートはなにをしなければならないのか。このコンテクストにおける問題点がもっともよくあらわれているのは「女性」についての問いではないかとおもわれる。いかにも、もしあなたが貧乏人で、黒人で、そして女性であれば、あなたがサバルタンであるとの規定を三様のしかたで手に入れることになる。しかしながら、この定式が第一世界のコンテクストからポストコロニアルのコンテクスト(これは第三世界のコンテクストとは同一ではない)に移されたならば、その途端に「黒人」または「有色」という要素は説得力を失ってしまう。資本主義的帝国主義の第一段階において植民地的主体構成がなされたとき、そこでは必然的に階層化もまた同時に起きていたのであって、「有色」という要素はすでにその段階で解放のためのシニフィアンとしては役にたたないものになってしまっていたのである。(p. 72)

サバルタンの女性という歴史的に沈黙させられてきた主体に(耳を傾けたり、代わって語るというよりは)語りかけるすべを学び知ろうと努めるなかで、ポストコロニアルの知識人はみずから学び知った女性であることの特権をわざと「忘れ去ってみる(unclear)」。このようにみずから学び知った特権をわざと忘れ去ってみるということはポストコロニアルの言説をそれが供給しうる最良の道具を用いて批判するすべを学び知るということをこそ意味しているのであって、ただたんに植民地化された者たちのいまは失われてしまった姿像を帝国主義的な歴史叙述に代置するという意味ではない。(p. 74)

わたしたちの企図している「忘れ去ってみること」には、その当のイデオロギー的形成作業を――もし必要ならば沈黙を測定することによって――研究の客体〔対象〕へと分節化するということが入っている。このようなわけであるから、〈サバルタンは語ることができるのか〉、それも〈サバルタンは女性として語ることができるのか〉という問いを前にして、歴史のなかでサバルタンに声をあたえようというわたしたちの努力は、フロイトがその言説を繰りひろげるなかであえて冒そうとした危険に二重に開かれていることになるだろう。これらのことを考慮した結果、わたしは「白人の男性たちが茶色い女性たちを茶色い男性たちから救いだしている」というセンテンスを「子供が叩かれている」というセンテンスについてのフロイトの諸研究のなかで出会われるのと変わらない精神でもって組み立ててみたのであった。(p. 78)

わたしはこれまで、女性の意識の、かくては女性の存在の、かくては女性の善き存在の、かくては善き女性の欲望の、かくては女性の欲望の、あるひとつの構築された対抗的ナラティヴについて書いてきた。この滑動は、サティー(sati)という語そのもののうちに書きこまれている割れ目のうちに見てとることができる。Satiはsatの女性形である。が、さと(sat)は男性形のどのようなジェンダーに特化された概念をも超越しており、人間的な普遍性のみならず、精神的な普遍性のなかへと高まり上がってくる。それは「有る」という動詞の現在分詞形である。そして、そのようなものとして、「存在している」ということだけでなく、真なるもの、善なるもの、正なるものを意味している。(……) この語の女性形である(sati)は、ただ単純に「良き妻」という意味である。(p. 104)

さて、いまや、寡婦の自己犠牲の儀式の固有名としてのサティー(sati/suttee)というのは、ちょうど「アメリカン・インディアン」という命名がコロンブスによる事実誤認を記録しているのと同じように、イギリス人による文法的取り違えを記録したものであるということを明らかにしておくべきときである。インド諸語ではこの語は「サティーの燃焼」を意味している。すなわち、このようにして夫に殉じて死ぬことによって、寡婦に定められているブラフマチャリヤへと退行して性的停止状態に入ることから脱却する、良き妻のことを意味している。このことは、状況がどんなにか人種-階級-ジェンダーの重層決定からなっているかを例証している。(……) 白人の男性たちは、茶色い女性たちを茶色い男性たちから救い出そうとしているのだと言いながら、そのような言いかたのもとで、実は言説的実践の内部にあって、良き妻であることと夫の火葬用の薪の上で自己を犠牲に供することとを絶対的に同一視することによって、それらの女性たちにいっそう大きなイデオロギー的強制を課す結果になっているのである。(p. 105)

 家父長制と帝国主義、主体の構築と客体の形成にはざまにあって、女性の像は、原初の無のなかへとではなくて、あるひとつの暴力的な往還のなかへと消え去っていく。その往還こそは伝統と近代化のはざまにあってとらえられた「第三世界の女性」の転位態にほかならないのである。 (p. 109)

わたしはデリダ的脱構築を利用するとともにそれを超えようと試みてきたが、それをフェミニズムそのものであるとして称えているわけではない。しかしながら、わたしが語ってきた問題構制のコンテクストにおいては、デリダの形態学のほうが、フーコーとドゥルーズの、より「政治的な」争点への直接的で実質的な関与――ドゥルーズの「女になる」ようにとの誘いかけ――よりも、はるかに実があり有用であるとわたしは認識している。(p. 115)

サバルタンは語ることができない。グローバル・ランドリー・リスト〔せかい各地の国際空港のホテルなどに置いてある選択可能品目を長々と列記した表〕に恭しく「女性」という項目を記載してみたところで、こんなものにはなんの値打ちもない。表象=代表(representation)の作用はいまだ衰えてはいない。女性知識人には知識人としてひとつの限定された任務が課せられているのであって、それを彼女は自分のものではないと麗々しく言い募って否認するようなことはすべきではないのである。(p. 116)

 

訳者あとがき

(……)『スピヴァク・リーダー』の編者ドンナ・ランドリーとジェラルド・マクリーンは、その序論のなかで、この批評家の仕事になんらかのサマリーをあたえることは「たえざる政治的-知的なグローバル・アクティヴィズム」として遂行され続けているところのものにまえもって解答を出してしまう危険を冒すことになりかねないとことわりながら、もし当面の必要上、「エンッセンシャル・スピヴァクなるもの(the essential Spivak)」を定式化しなければならないとすれば、さしあたっては最初の手がかりとして役立つかもしれないとして、つぎの四つのスローガンを挙げている。

第一、人は自分が学び知った特権がとりもなおさず自分にとっての損失でもあることを認識して、その学び知ったものを忘れ去ってみること。
第二、倫理とは知識の問題ではなく、関係性(極限のケースとしては関係性をもたない関係性も含めて)の呼びかけである。
第三、脱構築はいかなる種類の政治的綱領も見いだすことはできない。けれども、「労働者(the worker)」とか「女性(the woman)」といったようなマスター・ワードは現実のうちにはなんらの直示的な指示対象をも有していないと示唆することによって、脱構築は政治的安全装置の役割は果たす。
第四、人がそこに住まうことを欲せざるを得ない構造を執拗に批判しつづけるというのが、脱構築のスタンスである。(p. 138)

                                       (2011/9/11)