森達也 |
第一弾 要塞へと変貌する「終末の小部屋」――葛飾区小菅一丁目 でもこれだけは書いておきたい。素顔の広瀬憲一は、とても聡明で心優しい男だ。争いの絶えないこの世界をどうしたら変えられるのか、どうしたら人々が幸せに暮らせる世界を実現できるかを彼は考え続け、そしてオウムに入信し地下鉄にサリンを撒いた。結果としてその決断は明らかな過ちだった。彼の行為はもちろん重大な犯罪だ。でもその行為に至る意識には、人の命を奪いたいとか苦しみを与えたいとかの悪意は一片も介在していない。良かれと思う善意なのだ。(p. 20) 人は人を裁くとき、自分たちが帰属する共同体の規範と法という名の正義を規準に、その罪の重さを決めて刑を執行する。でも人を殺すのは悪意だけじゃない。むしろ善意や正義のほうが、後ろめたさを伴わないぶん大量に人を殺す。虐殺や戦争はそんなメカニズムで発動する。彼らは特別な男たちじゃない。僕自身であり、僕の父であり、僕の息子かもしれない。だからこそ戦争はこの世界から絶えない。だから僕は逡巡する。(p. 21) 客席に座る男たちの年齢層は様々だ。「もっと遅くなれば酔っ払いが多くなります」と土屋が言う。舞台上手のかぶりつきでは、大学を退官したばかりの教授といった雰囲気の初老の男性が、隣の土建屋の社長といった雰囲気の中年男と並んで、すぐ目の前で足を広げる彼女の股間を食い入るように見つめている。(p. 29) 阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件を契機にして日本社会に芽吹いた危機管理意識は、その後もずっと、この社会を内側から揺さぶり続け、少しずつ変えていった。見知らぬ他者への不安と恐怖は社会に拡散しながら飽和し、その帰結として犯罪を取り締まる各種法は改正され、厳罰化が進み、様々な形で警備は強化され、危機管理評論家なる肩書きがもてはやされ、警備会社や防犯グッズの会社は、我が世の春を迎えている。 チャタレイ裁判や四畳半襖の下張り事件などを引き合いにするまでもなく、性の領域は取り締まりの対象にされやすい。でも同時にこのリビドーは、ほうやきせいのりょういきから、なぜかいつもはみだしてしまう。従軍慰安婦論争も同様だ。彼女たちが強制されたのか自ら志願したのかの二点の対立がこの論争の常だけど、本当に必要不可欠な存在だったのかとの論点はなぜかない。アジアを開放するために聖戦に赴いたはずの兵士たちならば、一年や二年禁欲するくらいのストイシズムをなぜ保てなかったのかとの視点に、ぼくはこれまでお目にかかったことがない。 (p. 33) |
体内の免疫細胞による過激なセキュリティが発動し、本来は害などないスギ花粉を敵と勘違いすることで、花粉症は発現する。要するに誤爆による副作用だ。近年、この症状が増殖する背景には、杉ばかりを植えてきた戦後の植林政策の過ちに加え、社会の清潔度が上昇して雑菌が減ったことで、敵を失った免疫細胞が暴走しやすくなったとの説もある。これはまさしく冷戦後のアメリカだ。
提灯の裏に回る。「風神雷神」と大きく墨書されている。これが正式名称なのだろうか。ふと思いついて、前面に回りこみ、もう一度二つの木彫り像を眺める。なるほど、向かって右側の木彫り像は大きな袋を抱えており、左側は背中に、丸い輪にいくつもの太鼓(連鼓などと呼称されるらしい)を背負っている。要するに風神と雷神だ。でもならば、なぜ「雷門」との俗称が一般的になったのだろう。風神は忘れられた。ここにいるのに。(p. 61) 年間二百人。平均すればほぼ二日に一人、この東京のどこかで誰かが、この社会との関係を、自らが生きてきた証を、断ち切られながら、生命活動を中止する。誰も悲しまないし、誰も喜ばない。だって誰も知らないのだから。
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第五弾 彼らとを隔てる「存在しない一線」――世田谷区上北沢二丁目 では実際に、精神障害者による事件はどの程度なのか、統計を見れば明らかだが、触法精神障害者の精神障害者全体に示す割合は、一般人における犯罪者が発生する割合よりもはるかに低い。 かつて「放送禁止歌」をテーマとしてドキュメンタリーを作ったとき、人は無限の自由に絶えられないのだとつくづく実感した。放送禁止歌は言ってみれば、「禁忌の共同幻想」だ。ここから先は危険だとの表示は、ここから内側は安全だとの意味と同義でもある。その表示を目にして、やっと人は安心する。多少の制限がないと逆に不安になる。同様に人は、安全であることにも絶えられない。どこかに危険があるはずだと思いたくなる。このあいまいな不安に具体的なレッテルを貼ることができれば、人はもっと安心する。つまり仮想的だ。冷戦の頃は、ソ連や中国が、最近では、オウムに始まって北朝鮮の脅威、アルカイダのテロリストなどが、この仮想的のレッテルに使われる。
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第十弾 十万人の呻きは「六十一年目」に何を伝えた――墨田区横網二丁目 平成一六(二〇〇四)年に公開されたドキュメンタリー映画「フォッグ・オブ・ウォー」(監督エロール・モリス)は、ケネディとジョンソンという二人の大統領の下で国防長官を務めたロバート・S・マクナマラのインタビューによって構成される作品だ。「人間の本質は変えられない」とつぶやきながら、戦争漬けの自らの人生を赤裸々に語るマクナマラは、東京大空襲の作戦立案者の一人だったことをカメラの前で明かし、「いかに多くの人を効率的に殺傷するか」をテーマにした空爆だったと回想する。その時の彼の上官で作戦立案を命じた男の名は、カーチス・エマーソン・ルメイ。「俺たちは戦争で負ければ戦争犯罪人だ」とルメイが口にしたことを明かしながらマクナマラは、「勝ったからと言って許されるわけがない。我々は皆、戦争犯罪人だ」と苦悶する。このルメイの指示のもとに、東京大空襲の作戦は練り上げられ、実践された。 「十年後、二十年後のこの法要が心配ですね」 語り継ぐべきことは被虐だけではない。加虐についても僕たちは忘れてはいけない。これほどの惨事となった東京大空襲で米軍が投下した爆弾の総量は、日本軍が中国戦線で繰り返してきた重慶爆撃における全投下量の十パーセントでしかないとの試算もある。(p. 164) |
第十一弾 桜花舞い「生けるもの」の宴は続く――台東区上野公園九番地
第十三弾 夢想と時とが交錯する「不変の聖地」――文京区後楽一丁目
第十五弾 私たちは生きていく、「夥しい死」の先を――府中市多磨町四丁目 墓所は死んだ人のためではなく、生きている人のためにある。だからこそ残された人の都合が最優先され、生前のイメージが継承される。靖国を例に挙げるまでもなく、現世の価値や基準や評価などの雑念から解放されないのは、死んだ人たちではなく残された人たちの側なのだ。死者の本質は墓にはない。寺や神社にもないし、靖国だってもちろんない。そこに滞留しているのは、生きている人たちの思いや哀切、少しばかりのノスタルジーと愛憎、言い換えれば、残された側の勝手な都合なのだ。
(2011/8/31) |
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