ミシェル・フーコー |
第一部 身体刑 第一章 受刑者の身体 「以下に述べる研究は次の四つの一般規則にしたがっている。 [1] 処罰機構の研究を、もっぱら《抑圧的な》その効果のみに、もっぱら《制裁》の側面のみに、集中して行うのではなく、……処罰を複合的な社会機能として把握すること。 [2] 懲罰にたいして政治上の戦術という展望を取り入れること。 [3] 権力の技術論を、刑罰制度の人間化の、ならびに人間認識の原理に位置づけること。 [3] [近代]精神の…登場が、…司法の実際面への《科学的な》一つの知全体の組込みが、権力関係による身体自身の掌握手段の変化のもたらす結果ではないかを探求すること。」(p. 27-28) 「人々がわれわれに話しているその人間像、そして人々が解放しようと促しているその人間像こそは、すでにそれじたいにおいて、その人間像よりもはるかに深部で営まれる服従[=臣民]化の成果なのである。ある一つの《精神》がこの人間像に住みつき、それを実在までに高める、だが、この実在それじたいは、権力が身体にふるう支配のなかの一つの断片なのだ。ある政治解剖の成果にして道具たる精神、そして、身体の監獄たる精神。」(p. 34) 第一章 身体刑の華々しさ 第二部 処罰 「違法行為の経済策は、資本主義社会の発達につれて再構造化されきているのである。財産にかんする違法行為は、権利にかんする違法行為から切り離されてしまったのだ。……その理由は、一方では、民衆階級が最も近づきやすい違法行為とは、財産についてのそれ─所有権の暴力的な委譲─となるであろうし、他方、ブルジョア階級のほうは、権利についての違法行為を留保しておくであろうからである。」(p. 89) |
「刑罰制度を、すべての違法行為を排除するための、ではまったくなく、違法行為を差異に留意しつつ管理するための装置として把握しなければならない。」(p. 92) 「(処罰する)権力を強固にしようと彼らが試みるさいに用いられる記号=技術論(セミオ・テクニック)は、以下の五つないし六つの主要な規則を踏まえている。 「犯罪ならびに犯罪者に対する二つの客観化の流れが出てくる。一面では犯罪者は、万人の敵として示されるので、社会契約からはずされ、市民としての資格を喪失し、本姓的ないわば野蛮さの断片を保持しつつ突如として現れる。……将来こうした資格においてこそ、彼は科学による客観化と、それと相関する《治療》(処置、取扱い、でもある)に所属させられるだろう。他方、処罰する権力の成果を、内部から調整する必要上、規定されてくるのが、現実のであれ可能性としてのであれ、すべての犯罪者に対する介入の戦術である。つまり、犯罪防止の場の組織化であり、利害関心の計算であり、表象と表徴の[人々の心への]普及であり、確実さと真実を中心とする地平の設定であり、」ますます精緻となる、さまざまな変化する項(犯罪者の性格や思考形式、その他)への刑罰の順応である。」(p. 103) |
第二章 刑罰のおだやかさ
「ある犯罪にかんして、適当した懲罰を見つけるということは、不利益の観念がいちじるしいので犯行の観念が最終的は魅力を失ってしまう、そうした不利益を見つけることである。戦い合うエネルギーの技術、相互に結びつく心象の技術、時間に挑戦する安定した諸関係の創出。」(p. 109) 「この表象=妨害は、機能するためには、いくつかの条件に従わなければならない。 |
[6] ……犯罪についての伝統的な言説は社会のなかで逆転されるかもしれない。処罰についての再記号大系化がきちんと行われるならば、また葬送本位の[処罰の]儀式がしかるべくくりひろげられるならば、犯罪は一つの不祥事としてしか、悪人は社会生活を教えこまねばならぬ敵としてしか、現れることはできまい。」(p. 109-117) 「刑罰としての閉じ込めは多数の改革者によってはっきり批判されているのである。……それは費用がかかり、受刑者を無為にすごさせ、彼らの悪徳をつのらせるからだ。……今日のように拘禁が死刑と軽度の刑罰との、処罰の全中間領域をおおいつくすことができるという観念は、当時の改革者たちには即座に考えつきえない観念であった。」(p. 119) 《矯正施設》と改革者たちの方法 三つの処罰権力、権力技術論 |
第3部 規律・訓練
第一章 従順な身体 「ラ・メトリーの『人間=機械論』は、精神の唯物論的還元であると同時に訓育(ドレッサージュ)の一般理論でもあって、それらの立場の中心には、分析可能な身体へ操作可能な身体をむすびつける、《従順》の概念がひろくゆきわたっている。服従させうる、役立たせうる、つくり替えて完成させうる身体こそが、従順なのである。」(p. 142) 「ずっと以前から規律・訓練の方策は多数実在していた─修道院のなかに、軍隊のなかに、さらには仕事場のなかにも。だが規律・訓練が支配の一般方式になったのは十七世紀および十八世紀である。」(p. 143) 「規律・訓練(ディシプリーヌ)は、服従させられ訓練される身体を、《従順な》身体を造り出す。規律・訓練は(効用という経済的関係での)身体の力(フォルス)を増加し、(服従という政治的関係での)この同じ力を減少する。一言でいうならば、規律・訓練は身体の力(プーヴォワール)を解離させるのであって、一面では、その力を《素質(アプティチュード)》、《能力(カパシテ)》に化して、それらを増大しようと努める、が他方では、《体力(エネルジー)》ならびにそれから結果しうる《強さ(ピュイサンス)》を反転させて、それらを厳しい服従関係に化すのである。」(p. 143) 「規律・訓練がおこなう最初の処置は、空間への各個人の配分である。…… 「規律・訓練(ディシプリーヌ)は《独房》・《座席》・《序列》の組織化によって、複合的な空間を、つまり建築的なと同時に機能的で階層秩序的な空間をつくりだす。……その空間は個人別の小さい部分に分けられ、しかも操作的な諸関係をうちたてる。……個々人の服従を、さらに時間ならびに動作の最上の節約を確保する。」(p. 152) |
「活動の取締り」 「こうした服従強制(臣民化、主体化でもある)の技術をとおして、新しい客体が組立てられようとしているのである。……その新しい客体とは、力を保持し持続の座である自然な身体であり、みずから秩序・時間・内的条件・構成要素をそなえる種別化された作業をいとなみうる身体である。身体は、新しい権力機構の標的となると同時に知の新しい形式の対象になる。思弁的な自然学の属する、というよりむしろ訓練に属する身体であり、動物精気が染みわたっている、というよりむしろ権力が操作する身体であり、効力ある訓育に属する身体なのであって、それは純理的機械論に属するのではなく、そこではその点からしても、いくつかの自然的要請ならびに機能的束縛が現れるようになる。」(p. 158) 「規律・訓練の方式によって、線型の時間が出現するわけで、その一刻一刻は相互に統合され、その時間は最終的な安定した地点へ向かって方向を定められる。要するに《進化発展(エヴオリュティフ)》の時間。ところで思い出しておく必要があるのは、同じ時期に、行政面と経済面の管理技術によって、系列化・方向設定・累積を中心としたタイプの社会的時間が出現していた点であって、つまりこれは《進歩発達(プログレ)》との関連で或る進化の発見である。他方、規律・訓練の技術は個人重視のもろもろの系列を出現せしめるわけで、つまりそれは《段階的形成(ジュネーズ)》との関連での或る進化の発見である。社会の進歩発達と個人の段階的形成という、一八世紀の此の二大《発見》こそは多分。権力の新たな諸技術と相関的であろうし、より正確に言えば、時間の管理と活用における、線分単位の分割や系列化や総合ならびに総体化などの新たな方法と相関的であるにちがいない。」(p. 163) |
「さまざまな力の組立」 「規律・訓練は規制する身体をもとにして……四つの性格のそなわった個人性を造りだすのである。つまりそれは(空間配分の作用によって)独房的であり、(活動の記号体系化によって)有機的であり、(時間の累積によって)段階的形成を旨とし、(さまざまな力の組立によって)組合せを旨とする。しかもそのために規律・訓練は、四つの主要な技術を用いるのである。つまり、まず一覧表をつくりあげ、つぎに繰練(マヌーブル)を規定し、さらに訓練(エグゼルシス)を強制し、最後には、力の組合せを確保するため《戦術(タクティック)》を整える。《戦術》とは、持場の指定された身体、記号体系化された活動、養成された能力などを用いて仕組をつくりあげ、そこでは各種の力の所産をそれら力の計画的な組合せによって増大させる技法であって、こうした戦術は規律・訓練の実務の最高形式といってよいだろう。」(p. 169) 「規律・訓練的な権力の成功はおそらくは、つぎの単純な道具を用いた点に存しているに相違ない。つまり階層秩序的な視線、規格化をおこなう制裁、しかも自らに特定な方式での両者の組合わせたる試験。」 階層秩序的な監視
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規格化をおこなう制裁 試験 |
第三章 一望監視方式
「ベンサムの考えついた〈一望監視施設(パノプティコン)〉は、こうした組合せの建築学的な形象である。その原理はよく知られるとおりであって、周囲には円環状の建物、中心に塔を配して、塔には演習場にそれを取巻く建物の内側に面して大きい窓がいくつもつけられる(塔から内庭ごしに、周囲の建物のなかを監視するわけである)。周囲の建物は独房に区分けされ、そのひとつひとつが建物の奥行をそっくり占める。独房には窓が二つ、塔の窓に対応する位置に、内側に向かって一つあり、外側に面するもう一つの窓から光が独房を貫くようにさしこむ。それ故、中央の塔のなかに監視人を一名配置して、角独房内には狂人なり病者なり受刑者なり労働者なり生徒なりをひとりずつ閉じ込めるだけで充分である。周囲の建物の独房内に捕らえられている人間の小さな影が、はっきり光のなかに浮かびあがる姿を、逆光線の効果で塔から把握できるからである独房の檻の数と同じだけ、小さい舞台があると言いうるわけで、そこではそれぞれの役者はただひとりであり、完全に個人化され、たえず可視的である。……今や、可視性が一つの罠である。」(p. 202) 「〈一望監視施設〉は一般化が可能な一つの作用モデルとして理解されなければならない。人間の日常生活と権力との諸関係を規定する一つの方法として、である。」(p. 207) 「規律・訓練には、……二つのイメージがあるのだ。一方の極には封鎖としての規律・訓練が、つまり周辺部で確立される閉鎖的な仕組があり、しかもそれは、悪の阻止、情報伝達の遮断、時間の中断などの消極的機能を完全に目指すのである。反対の極には、一望監視方式をふくむ機構としての規律・訓練がある。すなわち、権力の行使をより速やかな、より軽快な、より有効なものにしつつ、それを改善しなければならない機能的な仕掛であり、来たるべき或る社会のための巧妙な強制権(コエルシション)の構想である。」(p. 210) 「《規律・訓練》は、或る施設とも或る装置とも同一視されえない。それは或る型の権力であり、その権力を行使するために道具・技術・方式・適用水準・標的をともなう或る様式である。規律・訓練は、権力の《物理学》ないしは《解剖学》であり、一つの技術論なのだ。」(p. 216) 「現代社会は見世物の社会ではなく監視の社会である。さまざまな形象の表面(うわべ)の陰で、われわれの身体は深部において攻囲されている。大規模な交換(物品の、商品の、意見の、貿易による、通信による)の背後では、役に立つ力を求める、精密で具体的な訓育[=調教]が追求され、情報伝達の経路は、知の累積および集中化の支えであり、記号[=表徴]の働きは、権力の、投錨にも等しい固定化を決める。」(p.217) 「法律体系が普遍的規範(ノルム)にもとづいて法的主体を規定するのに対して、[人々の]特色を示し、分類を行い、特定化する。ある尺度にそって配分し、ある規格(ノルム)の周りに分割し、個々人を相互にくらべて階層秩序化し、極端になると、その資格をうばいとり、相手を無効にする。」(p. 222) 「今日の刑罰制度の理想点とは無限の規律・訓練であろう。つまり終期のない質問[=尋問]であり、精密でいつもいっそう分析的な観察となって際限なく延ばされる調査[=証拠調べ]であり、けっして閉じられることのない調書の作成でもあり同時に検査[=試験]の激しい好奇心とからみあう打算的な穏便さあふれる刑罰でもある判断[=判決]であり、到達不可能な或る規格[=規範]と比べた逸脱の果てしない測定でもあり同時に無限にその規格へたどりつくように強制する漸近線的運動でもある方式[=訴訟手続]である。」(p. 226)
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第四部 監獄 第一章 「完全で厳密な制度」 「処罰の仰々しい装置の本質的部分たる監獄は、刑事司法の歴史のなかでの一つの重大な契機、つまり《人類》へのその接近をたしかに明示する。のみならず、新しい階級権力が発展させつつあった例の規律・訓練的な機構の歴史のなかでの一つの重大な契機、つまりそれら機構が司法制度をいわば植民地的に支配する契機をも明示するのである。」(p. 231) 「十八世紀から十九世紀への転換期に、新しい立法は処罰権力を社会の一般機能として、つまり社会の全成員に同じやり方で行使される機能、しかもそこでは個々の成因がひとしい扱い方で表される機能として規定する。だが、拘禁をこの上ない刑罰と化すことで、ある特定の型の権力に特有な支配方式を導入するわけである。《平等》を自称する裁判、自らを《自立的》たらしめたいと望みつつも、規律・訓練による服従強制のさまざまな不均斉によって攻囲される司法装置、それが「文明化社会の刑罰」たる監獄の誕生における状況全体である。」(p. 231) 「監獄は規律・訓練の徹底的な装置でなければならない。たとえば監獄は個人の身体的訓練・労働への適性・日常の行状・道徳的態度・性向など、個人のあらゆる側面に責任をもたなければならず、……最後に監獄は被拘禁者にたいして全面的ともいえる権力をふるうわけで、抑圧と懲罰の内的な機構をそなえる。つまり専制的な規律・訓練である。」(p. 235) 「この完全な《矯正施設》は、自由の単なる法律的剥奪とも全く異なる、しかも……表象作用の単なる仕組とも全く異なる、人間実在の再記号体系化を規定するのである。」(p. 235) 「監禁活動の第一目標とは、権力によって規制されないかもしくは階層秩序によって整えられないような一切の関係の解消によって実施される、強制権による個人化である。」(p. 238) 「刑罰上の労働の効用とは何か。利得ではなく、役立つ能力の養成でさえもなく、それは一つの権力関係を、うつろな一つの経済的形式を、個人の服従および或る生産装置へのそれの調整の一つの図式を構成することだ。」(p. 242) 「刑期というものは、判決の次元で決定的に定められる場合には矯正的な価値を失う恐れが生じる。刑期は犯罪の《交換価値》を測るべきではなくて、服役中の被拘禁者の《有益な》変容に適合すべきである。……正当な刑期は、したがって犯行とその情状によってのみならず、その刑罰が具体的に展開される刑罰の姿そのものに応じても変わらなければならない。(p. 242) 「刑罰の施行につれて刑罰を修正するそうしたすべての方式にかんして認めなければならないのは、司法上のそれぞれの審級がじかに権力をふるうことができない点である。もっぱら判決後にかぎって介入しうるような、しかも法律違反行為とは別のものをもっぱら対象にしうる、そうした措置である。したがって、拘禁管理者の不可欠な自立性であって、たとえば監視者、施設の長、所属の司祭、教育者のほうが処罰権の保有者に比べてこの矯正機能をはたす一層すぐれた性能をもつわけである。」(p. 244) 「監禁装置は次の三つの大きな図式を援用したわけだった。個人別の孤立化と階層秩序という政治的=道徳的な図式、強制労働に適用される力という経済的モデル、治療と規格化という技術的=医療モデル。それぞれ独房であり、仕事場であり、病院である。」(p. 245)
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「囚人は永続的に見張られうる者でなければならず、かつまた、囚人にかんして採取できるすべての評点は帳簿に記入されなければならないのである。〈一望監視施設(パノプティコン)〉という主題──監視と同時に観察、安全と同時に知、個人化と同時に全体化、孤立化と同時に透明化──は監獄にその実現の特権的な場を見出したわけである。」(p. 246) 「刑事司法の相関物は法律違反者(アンフラクトウル)であるけれども、しかし行刑装置の相関物はそれとは別の誰かである。ある生活史を形づくる単位であり、《危険有害性》の中核であり、ある異常の型を代表する者たる、非行者である。……監獄に閉じ込められた人間の身体は《非行者》という個人性によって、つまり懲罰装置そのものが刑罰の適用点として、また今日でもなお行刑学と呼ばれるものの客体としてつくりあげる、犯罪者のつまらぬ精神によって裏打ちされるという事態が生じたのである。監獄が非行者をつくりだすといわれる。」(p. 251) 「判決をくだすおりに認識し評定し診断し取扱わなければならないのは、この非行性という問題であり、刑法典に修正変更を加えるさいに考慮に入れる必要があるのは、今やこの問題、すなわちこの異常性、この逸脱、このひそかな危険、この病気、この生存形態である。この非行性とは、裁判に対する監獄側の復習である。」(p. 252) 第二章 違法行為と非行性「監獄のおかげで犯罪発生率が減少するわけではない。そんなに監獄を拡張したり増加したり変えたりできても、犯罪ならびに犯罪者の数は一定であるか、もっと困ったことに増加している。」(p. 264) 「監獄は、個人を矯正したうえで釈放するどころか、反対に住民のなかに危険な非行者を分散移転するわけである。」(p. 265) 「必ずといっていいほど監獄は非行者をつくりだす。そうなるのは、監獄が被拘禁者に行わせている生活様式のせいである。被拘禁者を独房のなかにひとりひとり入れておくにせよ、あるいは彼らには用途が不明な点では無益な労働を彼らに強制するにせよ、いずれにしてもそれは「社会における人間についての思索」をないがしろにしていて、「反自然的な、無益で危険な生活を創り出すことであり」、……人間に向けられている教育制度は、自然の願いに逆らった作用をかなりの点でその目的としていないだろうか [23 シャルル・リュカ『監獄の改革について』第一巻(1836)127および128ページ]。」(p. 265)
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「非行性=客体を組立てるこの過程は、さまざまな違法行為を分解して、そこから非行性を切離す政治的操作と合体している。この二つの機構のつなぎ目が監獄にほかならない。監獄のおかげで双方の機構は、永続的に相互に補強しあい、犯罪の背後に非行性を客体化し、さまざまな違法行為の動きのなかで非行性を強固不変なものにできる。監獄の成功は大きいので、一世紀半にわたるその《失敗》ののちも、あいかわらず監獄は存在し、同じ成果をあげていて、人々は監獄の廃止にはひどいためらいを覚えるのである。」(p. 275) 「一般的な諸原理、大がかりな法典、法律制度は、だがたしかにこう述べてきた、《法なし》には投獄は存在しない、資格を有する何らかの司法機関によって決定されない拘禁は存在しない……。ところが刑法外的な監禁の原理じたいは現実にはけっして放棄されなかった。」(p. 297) 「処罰機能の一般性は十八世紀には、種々の表象および表徴についての《観念的な》技術のなかに探し求められていたが、今やそれは各種の監禁装置の発展、拡散的だが緊密な、物質的で複合的なその骨組によって支えられる。その事態によっても、ある種の共通な意味されるもの(シニフィエ)(つまり逸脱とそれに対する規律・訓練)が、逸脱不正な行為のうちの最初の段階のものと、他方もろもろの犯罪のうちの最終のものとのあいだを流通している。」(p. 299) 「監獄が非行性を罰するのは真実ではあるが、本質的には非行性は、今度は監獄によって作り出される。監獄とは、一歩一歩たどられたこの階層秩序の自然な帰結にほかならないし、それの最高段階にすぎない。非行[=前科]者は制度上の一つの所産である。」(p. 301) 「監禁群島が社会体の深部に確保するのは、区別の微妙な違法行為をもとにした非行性の形成、非行性による違法行為の重ね合わせ、種別化される犯罪行為の位置づけである。」(p. 301) 「相対的には自立し独立した、かくも多くの《地方特有な》諸施設を包括する監禁網だとはいえ、その網目の一方の端から他方の端へ、大いなる司法モデルが《形式としての監獄》をとおして伝達される。たとえば規律・訓練上の施設の諸規則は法律を、そこでの処罰は判決や刑罰を、そこの監視は治安警察上のモデルを再生産していいわけであり、しかもこれら多様な諸施設すべてのうえに君臨する監獄は、それらにくらべると雑多でなく情状酌量ぬきの純粋な形式であり、それらにいわば国家的な保証をあたえている。」(p. 302) 「各所に存在する規律・訓練の装置に支えられ、監禁のあらゆる仕掛に拠っているこの規格化の権力は、現代社会の主要な諸機能の一つになっている。規格への合致(ノルマリテ)の裁定者[=裁判官]が現代社会ではいたる所に存在するのだ。われわれが住む社会は教授=裁定者の、医師=裁定者の、教育家=裁定者の、《社会事業家》=裁定者の社会であって、みんなの者が規格的なるものという普遍性を君臨させ、しかも各人は自分の持場に応じて身体・身振り・行動・攻囲・適性・成績をこの規格的なるもの(ノルマリティフ)に従属させる。形態が緊密であれ散漫であれ監禁網は、[社会への]組込み・配分・監視・監禁を旨とするその組織の点で、規格化推進の権力の、近代社会における大いなる支えとなってきたのである。」(p. 304) 「人間諸科学が形成されて、人々が認識する大変動の諸結果のすべてが認識の学(エピステメ)のなかに生じさせることができた理由は、それら諸科学をもたらしたのが権力上の種別的で新しい様式だからである。つまり身体の或る種の政治学、人間の蓄積を従順で有用なものにする或る種の方法だからである。この蓄積は権力上の諸関連のなかへの知の明確な諸関係の係り合いを要請していたし、服従強制と客体化を交錯させるための或る技術をよび求めていたし、個人化の新しい諸方式を必要としていたのである。人間諸科学を歴史的にみて存在可能にしたこの権力=知の骨組の一つを、監禁網が構成する。」(p. 304)
(2010/8/20) |