ハンナ・アーレント |
読者に 第二章 被告 第三章 ユダヤ人問題専門家 第四章 第一の解決――追放 第六章 最終的解決――殺戮 第八章 法を守る市民の義務 第十章 西ヨーロッパ――フランス、ベルギー、オランダ、デンマーク、 第十一章 バルカン――ユーゴスラヴィア、ブルガリア、ギリシャ、 第十二章 中央――ハンガリア、スロヴァキア――からの移送 第十三章 東方の殺戮センター 第十四章 証拠と承認 第十五章 判決、上告、処刑 彼は完全に冷静だった。いや、それどころか彼は完全にいつもと同じだった。彼の最後の言葉の奇怪なまでの馬鹿々々しさ以上に 徹底的にこのことを証明するものはない。彼はまず力をこめて自分がGottgläubigerであることを言明した。これは普通にナツィが使っていた言い方で、自分はクリスチャンではなく、死後の生を信じていないということを表明したのである。〔それについては、あきらかにずっと前から準備されていた絞首台の下での最後の言葉が確実に証明している。その言葉は陰惨な喜劇性を持っていた。「もうすこししたら、みなさん、どっちみちわれわれは皆再会するのです。それは人間の運命です。わたしは生きていたときGottgläubigだった。Gottgläubigのままわたしは死にます。」彼はGottgläubigkeitというナツィ的な表現を意識的に使ったが、ただこの表現がキリスト教と死後の生への信仰の拒否を意味していることは気がつかなかったのである。(独)〕「もうすこししたら、皆さん、われわれは皆再会するでしょう。それはすべての人間の運命です。ドイツ万歳、アルゼンチン万歳、オーストリア万歳! 〔この三つの国はわたしが最も緊密に結ばれていた国だった。(独)〕これらの国をわたしは忘れないだろう。」 死を眼前にしても彼は弔辞に用いられる極り文句を思出したのだ。絞首台の下で彼の記憶は彼を最後のぺてんにかけたのだ。彼は〈昂揚〉しており、これが自分自身の葬式であることを忘れたのである。
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エピローグ アイヒマン裁判で問題になったより広汎な論点のなかで最大のものは、悪をおこなう意図が犯罪の遂行には必要であるという、近代の法体系に共通する仮説だった。おそらくこの主観的要因を顧慮するということ以上に文明国の法律が誇とするものはなかったろう。この意図がない場合、精神異常をも含めてどんな理由によるにせよ善悪の弁別能力がそこなわれている場合には、われわれは犯罪はおこなわれていないと感じる。「大きな犯罪は自然を害い、そのため地球全体が報復を叫ぶ。悪は自然の調和を乱し、罰のみがその調和を回復することができる。不正を蒙った集団が罪人を罰するのは道徳的秩序に対する義務である」(ヨサル・ガルト)という命題をわれわれは拒否し、そのような主張を野蛮とみなす。にもかかわらず私は、アイヒマンがそもそも裁判に附されたのはまさにこの長い間忘れられていた命題にもとづいてであるということ、そしてこの命題こそ実は死刑を正当化する究極の理由であるということは否定できないと思う。 (p. 213) 「正義は単におこなわれねばならないだけでなく、目に見える形でおこなわなければならぬ」ということが真実であるならば、イェルサレムでおこなわれたことの正義は万人の目に見えるような形で現れてきたであろう、もし判事におおよそ次のような言葉で被告に呼びかける勇気があったとすれば。 「君は戦争中ユダヤ民族に対しておこなわれた犯罪が史上最大の罪であることを認め、そのなかで君が演じた役割を認めた。しかし君は、自分は決して賤しい動機から行動したのではない、誰かを殺したいという気持もなかったし、ユダヤ人を憎んでもいなかった。けれどもこうするよりほかはなかったし、自分に罪があるとは感じていないと言った。われわれはそれを信じることはまったく不可能ではないまでも困難であると思う。それほどたくさんではないが、この動機と良心の問題について君の主張を否定する、疑問を残さぬ証拠もいくつかある。君はまた、最終的解決において君の演じた役割は偶然的なものにすぎず、ほとんどどんな人間でも君の代りにやれた、それ故潜在的にはほとんどすべてのドイツ人が同罪であると言った。君がそこで言おうとしたことは、すべての、もしくはほとんどすべての人間が有罪である場合には有罪なものは一人もいないということだった。これは事実ごく普通の結論だが、われわれはこれを君に認めようとは思わない。そしてわれわれがそれに反対する理由がわからなければ、ソドムとゴモラの話を思い出してもらいたい。聖書にあるこの隣同士の二つの町は、そこに住む人びとがひとしく罪を犯したがために天からの火に焼きつくされたのだ。ついでに言うが、これは〈集団的罪責〉という最近はやりの観念とは何の関係もない。この観念に従えば、人々は自分のおこなったのではなくとも自分の名においておこなわれたこと――自分が参加もせず、そこから利益も得なかったことについて有罪である、もしくは罪責を感じるとされるのであるが。換言すれば、法の前での有罪と無罪は客観的な性質のものであって、たとい八千万のドイツ人が君と同じことをしたとしても、そのことは君にとって言い訳とはならなかったろう。
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あとがき 大体において彼は何が問題なのかをよく心得ており、法廷での最終陳述において、「〔ナツィ〕政府の命じた価値転換」について語っている。彼は愚かではなかった。完全な無思想生――これは愚かさとは決して同じではない――、それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ。このことが〈陳腐〉であり、それのみか滑稽であるとしても、またいかに努力してみてもアイヒマンから悪魔的な底の知れなさを引出すことは不可能だとしても、これは決してありふれたことではない。死に直面した人間が、しかも絞首台の下でこれまでいつも葬式の際に聞いて来た言葉のほか何も考えられず、しかもその〈高貴な言葉〉に心を奪われて自分の死という現実をすっかり忘れてしまうなどというようなことは、何としてもそうざらにあることではない。このような現実離反と無思想性は、人間の内に恐らくは潜んでいる悪の本能のすべてを挙げてかかったよりも猛威を逞しくすることがあるということ――これが事実イェルサレムにおいて学び得た教訓であった。(p. 221) 無思想性と悪のこの奇妙な 相互関連を検討することよりも一見複雑なように見えるが、実はそれよりはるかに単純なのは、実際ここで問題になっているのはいかなる罪か――しかもこの罪は先例のないものと万人が認めているのだが――という問題である。これまで知られていなかった罪を定義するためにわざわざ持ち出されたジェノサイドという概念も、、或る点までは適用可能であるが、それだけで十分だというわけには行かない。その理由は単に、民族全体の殺戮ということは先例のないことではないということだ。古代においてジェノサイドは一般的であったし、また植民と帝国主義の世紀には成功不成功の程度はさまざまだがこの種の試みの例はいくらでもある。〈行政的殺戮〉(administrative massacres)という言葉のほうが適切かもしれない。(……)この言葉は、こんな凶行は他民族あるいは他人種に対してのみおこなわれるとする謬見を取除く効能を持っている。ヒットラーが〈不治の病人〉の〈安楽死〉をもってその大量殺人の口火を切り、〈遺伝的欠陥のある〉ドイツ人(心臓および肺病患者)をかたづけることでその皆殺し計画を完了する意図をもっていたという周知の事実がある。しかしそのことは別としても、この種の殺害はいかなる集団にも適用できる、つまり選択の基準はもっぱらその時々の要因に応じてどうでも変るということはあきらかである。近い将来経済のオートメイション化が完成した曉には、知能指数が或るレヴェル以下の者をすべて殺してしまおうという誘惑に人間は駆られないものでもない。(p. 222)
(2011/8/31) |
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