エリザベス・ヤング=ブルーエル |
序章 [アーレントが]亡くなってからは、彼女を主題とした本や論文が何百となく出されている。そんな彼女が、the banality of evilという立った四つの単語によって、ニュースピーク〔世論操作のために用いる言葉。ジョージ・オーウェルが『一九八四年』で用いた造語〕のなかで生き長らえているのだ。…… アーレントが「悪の陳腐さ」という言葉で捕らえようとしたのは、アイヒマンのような人びとに本来備わった、思考を停止するという特殊な能力から生まれる種類の悪だった。その思考の欠如は、実際に周りの誰もが疑いを入れずにヒトラーの殺人命令と輝かしい千年王国の理想像にしたがったということによって、助長されていた。しかし、彼女の判断はもっと大きな振り子をもつものだった。というのも、彼女はこの〈無思考〉という言葉を何年も使い続けてきた。一九五八年の著作『人間の条件』で現代的な条件一般のもとでの生について書いた時、彼女はその語の定義を示していた。「思考の欠如――思慮のない無謀さ、絶望的な混乱状態、あるいはありふれて空虚なものになった《真理》を悦に入って繰り返すこと――は、わたしたちの時代の顕著な特徴の一つであるとわたしには思われる(『人間の条件』一六頁)」。(p. 5) 「暗い時代に」in finsteren Zeitenというのは、詩人ベルトルト・ブレヒトの言葉であった。悪い行いが存在し、新しい種類の悪行さえある。しかしそれらは暗さを作り上げているものではない。暗さが生じるのは、人々のあいだの開かれた明るい空間、人びとが姿を現わすことのできる公的な空間が避けられて使われなくなる時なのだ。つまり、暗さは公的領域や政治を忌み嫌う態度である。「歴史には公的領域が不明瞭になった時期が何度もありました。そんなとき、世界はあまりにも見通しがつかなくなるため、人びとが政治に求めるものは、自分たちの死活的な問題や個人的自由にとっての当然の配慮が示されること以上のものではなくなったのでした(『暗い時代の人々』一一頁)」。(p. 7) 新しさを見分ける作業のなかでアーレントの念頭にあった中心的な考えは、第一次世界大戦の後から一九五〇年代のソヴィエト連邦での「雪解け」までの時代は、人類の歴史における根本的な断絶を象徴しているということであった。〈以前〉と〈以後〉のあいだに深い溝が生じたのは、人々が集まって語りあい活動する――政治の――可能性そのものにたいする根本的な攻撃、すなわち人間の複数性にたいする攻撃が為された時であった。したがって、〈以後〉において――アーレントがそれによって言おうとしたのは、ナチズムとスターリニズム以後、あるいは第二次世界大戦とホロコースト以後ということだけではなく、人類を滅ぼしうる能力をもった兵器が出現した後ということでもある(……)。 (p. 10) |
新しい概念は堪えず新しい現実に適合したものにならなければならない。そうでなければ、思考を束縛するものにもなりうる。アーレントが思考や言葉に求めたのは、新しい世界に適していること、極り文句を執行させうること、考えなしに受け入れられた思想を拒否しうること、紋切り型の分析を打ち破りうること、嘘や官僚的まやかしを暴露しうること、そして、人々がプロパガンダによるイメージへの依存から脱するのを助けうることである。……[アーレントは]詩への才能と愛をもった思想家でありながら、詩人というよりもむしろ分析者で実践を重んじていた。そして、物事を構成要素に分解し、それらがどのように作用しているかを見せるために、区別し差異化するという手法をとった。 (p. 12) 自由な世界の知識人たちは、全体主義政権が対外的な敵や自国民に負わせた恐怖を、世界が「二度と!」被らないことを確実にしようと望んで、〈宥和政策〉という言葉に集中砲火を浴びせる。挑発に直面した差異の、開戦しないというどんな決断も、あるいは外交手段を追求するといういかなる決定も、宥和政策となり、イギリスの首相ネヴィル・チェンバレンが一九三八年にヒトラーの要求に屈したことになぞらえた。一九六〇年代初めの代々のアメリカ合衆国政府は、「ドミノ理論」という名の科学的に聞こえる理論に悲惨にも同意し、アメリカは、ソ連や中国、あるいは南ヴェトナムに倒れかかってアジア全土を共産主義の要塞にしようと待ち構えている先頭のドミノlead domino(北ヴェトナム)に譲歩すべきではないと述べた。(p. 13) ロマン派は、関係づけられた真の自己から、本物でも現実的でもない自己へと逃避し、内省に没頭するために未来に直面できず、感傷に没頭するために過去を見ることができない。「こうして魂の力と自律は確保される。確保されるが、承認を必要とする真実を犠牲にして。なぜなら、真実は、他の人間と共有された現実なしには、いっさいの意味を失うからだ (『ラーエル・ファルンハーゲン』一六頁)」(強調は筆者)。 1 『全体主義の起源』と二一世紀 生き残った人びとの回想録や戦後のニュルンベルグ裁判の記録を読んだ時、アーレントは強制収容所を、それまで自分が「人種帝国主義」と呼んでいたものを理解する鍵となる新事実として解釈した。彼女はこの着想を、「恥の要素――反ユダヤ主義、帝国主義、人種主義」と名づけたと名づけた草稿で展開しはじめる。その解釈に基づいて、彼女は本の軌道を「収容所伊予言う恥」へと移し変えた。収容所のなかでは、何の〈政治的〉目的もなしに人びとが支配され、威嚇され、権利や「権利をもつ権利」、つまり行為する力を奪われ、最終的には、すでに完全に貶められていた生を奪われる。彼女は拷問に焦点を合わせたが、今日わたしたちはそこから非常に多くのことを学ぶことができる。というのも拷問は今、アメリカの官僚によって政治的目的なるもののための合法的手段として――不安を抱かせるほどに――正当化されているからである。(p. 40) |
強制収容所は、暴政が歪んだものでも権威主義的独裁政権が極端になったものでもない先例のない統治形態を、特徴づける制度であった。全体主義国家では、あらゆる社会編成や階級編成を解体して「大衆社会」を生みだす政治運動に続いて、単独の指導者というよりも、むしろ他の党派を完全に破壊した一つの党が、絶対的権力を確立する。この新しい統治形態は、それを抑制する政治的反対派や伝統的なコミュニティをもたず、秘密警察やまさに強制収容所という全体的テロルの制度によって、生活のあらゆる面に手を伸ばすのである。アーレントは、それに匹敵する別の事例を発見することによって、この統治形態を一般的な用語で叙述することができるようになった。西側諸国で入手可能になりはじめたソ連からの資料――『月の暗黒面』The Dark Side of the Moonというタイトルの匿名の回想録もそのうちの一つであった――を通じて、アーレントは、スターリン体制もまた、全体的テロルの制度――KGB、粛清、強制労働収容所――によって特徴づけられるような、全体主義体制であると理解した。 (p. 41) Aアーレントは、ナチズムにおける自然のイデオロギー(とりわけ「自然の」人種)と、スターリニズムにおける歴史のイデオロギー(とりわけマルクス流の階級闘争と暴力革命に焦点を合わせたそれ)とを描写した。全体主義社会では、「支配の方法のより所となっているのは、人びとは何らかのより高次な歴史あるいは自然の諸力の機能に過ぎないのだから完全に制約可能な存在である、という想定なのだ(「宗教と政治」『アーレント政治思想集成2』二一三頁)」。 (p. 51) (……)アーレントは、複数の政党をもつほとんどの国で(たとえばアデナウアーの国民主義的なキリスト教政党のような)国民主義的な宗教政党があるということを認識していた。そしてたしかに一九五〇年代には何度も、イスラエルがユダヤ教の国家として創設されたということの危険性、あらゆる政治政党を実質的に多かれ少なかれユダヤ教の国民主義的な政党にしてしまうことの危険性を指摘した。しかしアーレントは、彼女の死後に私たちが目撃したこと、すなわち合衆国とソ連の冷戦によってもたらされていた政界秩序が一九八九年にベルリンの壁とともに崩壊した時に生じた、政治宗教の激増を予想していなかった。いわゆる原理主義は、さまざまな成立背景をもつが、つまるところキリスト教とイスラム教の逆用である。アーレントの言葉で言えば、それらはもはや真正な宗教ではなく、超国家的な政治的目的のために宗教を脚色したものであり、そのようなものとして、自然と歴史という二〇世紀中葉のイデオロギーとかなり似た機能を果たしている。(p. 53) アーレントの考えでは政治的判断は、世界に現れる事柄や人びとや出来事から始まり、、一般的な言明へと向かう。それは、カントの言葉で言えば「反省的に」展開するのであって「演繹的に」ではない。政治的判断は意見として表現されるのだ。しかし、(カントやヤスパースを除いては)意見を尊重する哲学者や宗教的イデオローグはいない。哲学者たちは、意見は絶対的な真理とは関係がないと言い、宗教的な人びとは(正真正銘宗教的な人びともイデオローグたちも)啓示された唯一の真理しか尊重しない。自由な政治的組織はその大小を問わず、意見の交換や討論や議論のための自由を守り、意見の権威の上に成り立っているが、その事実によってそれらの組織は、共通世界を超える権威を求める人びとにとっての呪いの対象となっている。こうした理由から、マックス・ヴェーバーは「宗教的戦士たちと議論することはできない」と簡潔に述べたのである。(p. 54) |
核抑止ドクトリンが頓挫し、核兵器が非超大国に拡散したことが背景となって、国境のないテロリズムの潮流が生まれ、政治における一般的な暴力化が進んだ。(……)究極的には他の人びとと地球を分かち合うことを意味する政治にたいする関与が、世界で少なければ少ないほど、暴力とテロリズムへの傾向は高まるということに、彼女は十分気づいていた。(p. 56) (統治上であれ宗教上であれ)イデオロギーの担い手による私的空間の侵害は、さまざまな種類の国家的道具立てのなかで、二つの重要な形をとる。第一に、イデオロギーを植えつけるために学校システムが使われる。合衆国では、学校のカリキュラムは、宗教教育の公的資金のためにロビー活動をおこなっているキリスト教布教者にとって重要な戦場となった。他方、住民の大半をイスラム教徒が占める世界の多くの地域では、宗教的な学校が唯一の認可された(そして男子のためだけの)学校である。二〇世紀半ばの全体主義の遺産がまだ生き長らえている地域では、帝国主義の歴史はいまだに誤って教えられている。宗教的イデオロギーの領域外の例をひとつあげるなら、日本では歴史の教科書が、挑戦の残忍な植民地化に終わった一八九〇年代の日本の帝国主義を否定している。同じ教科書は、一〇〇〇万と見積もられる民間人の死をもたらした第二次世界大戦中の日本による中国東北部への侵略を省略している。宗教的イデオロギーが君臨する国家では、とりわけ深刻なイデオロギー操作のもう一つの領域である婚姻と生殖の規制は、今では、劣っているというレッテルを貼られた集団を分離するためだけではなく、女性やマイノリティに対する管理を維持するために使われている。(p. 57) 一九世紀の海外帝国主義――アフリカ、中東、およびアジアの一部を植民地化したヨーロッパの諸国――は、それらの土地に彼ら自身のうちの余計な人びと、階層から脱落した群集(モッブ)を輸出した。そしてそのモッブたちを監督した典型的な植民地官僚は、モッブや植民地化された人びとを人間以下の存在として扱い、現地の法や慣習を踏みにじることを当たり前だと考えていた。アーレントは、このような帝国主義的方法がひるがえってヨーロッパの諸国家じたいを崩壊させ、諸国家はその方法を大陸帝国主義へともち込むことになったと論じた。事実、ドイツのロシヤも自身にとって不要な人びと、ユダヤ人や反体制派たちを送り出して植民地を作った。強制収容所と労働収容所の基本形は、南アフリカのホームランド〔アパルトヘイト政策にもとづく黒人居住区〕にあった。(p. 59) アーレントはまた、「すべてが許される」とする全体主義者たちにたいする闘いは、たとえば第二次世界大戦の連合軍が戦闘員と一般市民の区別を無視しはじめ、一九四五年にドイツと日本の非軍事的な諸都市を爆撃したように、容易に全体主義的方法へとひき込まれ売ることのも気づいていた。日本では、1日で十六万人が直接に殺されたと見積もられたが、アメリカではこの結果について――当時あるいはその後――国民的な議論は実際に行われなかった。二十年後に合衆国がヴェトナムで長期戦を戦うことになった時にはすでに、合衆国政府は、一般市民に爆弾を落としたりナパーム弾で攻撃したりすることを許容可能な行為と見なしていた。(p.60) |
一九九〇年代の半ば以来、さらに明らかになったことがある。全体主義と戦うために全体主義的な方法が採用されたことは、現在の世界秩序を促したが、なかでももっとも怖ろしいやり方は、冷戦の時期に合衆国が、ソ連の共産主義に対抗するための代理人としてイスラム原理主義者たちを支援した際に実践されたのだ。(……)合衆国によるアラブ超国家主義(それはワッハービズムというイデオロギーをもつ)への支援は、ムスリム同胞団を代理人として使って右翼的なアラブ国家のネットワークを生みだそうと勢いづいていた反動的なサウジ王国に集中していた。サウジアラビア人たちもまた、ナセル下のエジプトにたいする同胞団の暴力的な対抗を当てにしていた。ワシントンではナセルは革命的なナショナリストと見なされていて、ペルシャ湾岸における合衆国や英国の石油利害に真っ向から挑戦していた。(p. 61) 今世界中に相互に関わりをもつテロリスト支部や訓練プログラムがあるということは、新しい情報ではないし、世界貿易センターへの攻撃さえももちろん先例のないものではない。すでに一九九三年に攻撃はあった。その攻撃手段――爆薬を身につけた自爆――は新しいものではなく、ただ恐ろしく増強して、一人乗りのカミカゼではなく、一般市民がたくさん乗った航空機を巻き添えにするまでになったにすぎない。(p. 68) (……)アーレントにとって明らかだったのは、超国家主義の生み出したものが勝利を収めたということである。超国家主義は――連邦もしくは連合といった――制限国家を結合させたものではない。むしろそれは、制限立憲形態を解体し、人びとの無形の結束、すなわち徹底的に定義された〈民族〉または理論的に定義された世界的なプロレタリアート、または――私たちが今その潜在性を目にしているような――宗教的に定義された献身的民兵といったものに変えてしまう。超国家主義者や潜在的には全体主義的な運動に活気を与えるイデオロギーは、選挙された議会や法廷をとり除くことを要求し、総統の意志といったような漠然としたエネルギーをもつものをとり入れようとする。自称代理人たちによって表されるアッラーの意志は、ウサマ・ビンラディンや彼に類似する多くの者たちの自己表明の仕方なのだ。 (p. 75) マッカーシズムの時代とヴェトナム戦争の時期にアーレントが行ったように、彼女による超国家主義の基準をアメリカに当てはめるならば、ブッシュ政権が9・11以前にも市民的自由を蝕み、教会と国家の分離をなし崩しにする内政に従事していたということに注意を向けるべきだろう。それはどちらもアーレントが輪郭を描いていた全体主義の要素であるが、彼女によれば、そのような要素じたいは一度も全体主義にならなくても多くのコンテクストのなかで存在しうる。同様に、マッカーシー時代やヴェトナム戦争の時期に起こったように、全体主義の要素は全体主義との戦いのなかで生まれることもある。政府は、多くの解説者がいかにもアメリカ国民的な孤立主義だと誤解していた外交政策に、9・11以前にも関わっていた。こうしたことは、規定の条約や環境保護協定、そして国連の立場との協調関係からの撤退をともなっていた。 (p. 77) 合衆国の首脳部とテロリストのネットワークの首脳部が分かち合っている超国家的イデオロギーの要素は、全体化する、世界的・歴史的な善悪の二元論、東洋対西洋、「文明の衝突」という二元論において思考する傾向である。こうした二元論と並んで、精神的徳対精神的堕落、あるいは自由への権威主義的な憎悪対自由への愛という二項対立がもち出されるが、いずれもどちらの側が非難をしているかによる。 (p. 78) |
アーレントがはっきりと示したのは、植民地主義者が冷酷さという彼らの価値観を本国へと伝え返すように、一九世紀末の帝国主義がいかにして帝国主義者にはね返ったかということだった。しかし、私たちが理解しはじめたばかりなのは、民族集団や政治集団だけではなく子供や青年のような年齢層もふくむあらゆる種類の集団を「余計者」にしている搾取形態が、規範としていたるところでどのような結末を迎えるかということなのだ。こうした集団は市民としての彼らの権利を奪われているのではない。彼らは最初から法的な地位をもったことなど一度もないのだ。グローバリゼーションは、政治的プロセスの教育をふくむ教育分野などでは、たしかに先端的テクノロジーがもたらす有益な特性を分配しているし、人びとを互いに接触させ、人間にたいする感覚を高めるだろう。しかしそれはまた、アーレントが描いたゲットー化と帝国主義的な大虐殺の技術へと通じるような――アイヒマンのような生と死への無関心をともなう――心性のなかにあるということをほのめかしてもいるのである。 (p. 81) 2 『人間の条件』と重要である活動(アクション) アーレントによれば、西洋の政治的伝統のほとんど全体にわたって、「政治の本質は支配であり、主要な政治的情熱とは支配し統治する情熱である (『革命について』四三六頁)」と考えられてきた。支配者たちを打倒すると決めた大半の革命家たちでさえ、自分たちは活動のために道を空け、いわば活動を軛から解き放っているのだ、とは想像しない。彼らは異なる種類の支配を押しつけたいだけなのだ。(p. 90) 人間の自由がどのように経験され保存されたかを理解しようというアーレントの努力にとって重要な論点は、政治ついて考えたり政治を規定したりする際には、二つの根本的な類型があるということだ。一方では、政治とは統治であり、特定の人びと(一人であろうと二人であろうと多数であろうと)による脅しや暴力の使用を必要とするような他者の支配であると考えることができる。他方では、彼女がそうしたように、語り行為する存在として集まる時に人びとがもつ、権力の組織あるいは構成として、政治を考えることができる。 (p. 90) そこ[アーレントが提示した活動の哲学的分析]にあった考えは、活動はあらゆる人びとに開かれ、あらゆる多様性と複数性のなかにあるということだった。活動は(多くの状況では勇気を必要とするけれども)特別な才能を必要としない。なぜなら、それは誕生という人間の条件、生まれるという存在論的な条件から生じる(「そこに存在論的に根ざしている」)からである。つまり、活動は創始であり、その予想しがたいこと、あるいは新しさ、その予測不可能性によって特徴づけられる。活動は、はじまりあるいは創始として、ある人物が〈誰〉whoであるか――この〈誰〉は他のどの人物とも違っているが、すべての人物、潜在的には全人類に関係する――を明らかにする。 (p. 93) |
『革命について』のなかでアーレントが先見の明をもって記したように、近代世界では、マルクスにしたがう革命家たちも、革命を阻止することに身を捧げる反革命家たちも、のみで彫ることが石像彫刻作品に必要なように、暴力は政治に〈必要〉であると見なした。そしてこれは、彼らが活動を一種の制作と考え、「歴史を作ること」だと考えているからである。活動は制作とは違って予測不可能なのだから、それが必要とするのは、結果を達成するための技能でも、力でも、あるいは暴力の使用でもなく、未知のものに直面する勇気である。活動はリスクなのだ。 (p. 96) たいていの政治理論家、革命家、反革命家とは異なり、アーレントは権力を暴力手段の所有に依存するものとは考えなかった。それどころか、彼女によれば、人びとは権力をもたないか、あるいは権力を失った時に暴力に訴えるのである。 (p. 97) すでに暴力に訴えられている時、つまり現在の技術的条件のもとで優位な暴力手段をもつ者たちが〈勝つ〉という戦争状態に置いては、権力と暴力の区別は、とりわけ見きわめがたい。そのような〈勝利〉は、なおさらに暴力は権力なのだと人びとに信じこませる。しかし、現在の状況でそのような勝利が本当に意味しているのは、勝者は権力の欠如から暴力に訴えたのだということ、敵に対処する非暴力的方法――結束した同盟国を揃えることによって、敵陣営のなかの反対者にアピールすることによって、外交や世界の世論への影響によって、国際法廷に犯罪者をつき出すことによってなど――を見つける意思や能力がなかったということである。(……)アーレントの言い方では、もっとも耐久力のありそうな権力、行為者の人間性をもっともよく保存しうる権力は、非暴力的な活動から生じる権力である。というのも、非暴力的な活動は言論を必要とするからだ。非暴力中津道には、それに続く議論や礼儀をわきまえた意見の交換がともない、そしてそれらの意見は権力を刷新する手段となる。「結束や約束、連合や契約は、権力を存続させておく手段である(『革命について』二七〇頁)」。 (p. 98) (……)リヴァイアサンが衝撃と恐怖を与えようとするのは、ホッブスが自明の前提として受け入れた永続的戦争のなかで外部の敵にたいしてだけではない。リヴァイアサンは、自国のすべての市民を恐怖する状態に置き、その権力と暴力にさらし続けるのである。市民たちはそのリヴァイアサンを「地上で最強の国家」と見なす。もし、混合統治である共和国がこのような構想を採用するならば、共和国は主権によって正当化された暴政へと進むだろう。アーレントの見解からすれば、政府の役人によるこうした構想が支持されることほど、共和国に危機をはっきりと示している事態はなかった――つまり、ワシントンのシュトラウス派の新保守主義者のあいだで現在こうした構想が支持されていることは、軽視できるような事柄ではないのだ。マッカーシズムの時代の元共産主義シンパだったとするイデオローグですら、これほどあからさまに、意見の相違をおし殺し、敵との永遠の戦争を行うことを正当化したりはしなかった。(p. 102) 彼女によれば、現代的な闘争の場においては誰が行為者であるかを明らかにすることはできず、いかなる行いも偉大であるとは判断されない。それらは、殺す者がいれば殺される者もいるといった、無言のロボットの遭遇のようなものだ。完全爆撃と核爆撃は、同様の非人格化現象の全体主義的段階である。その展開は、明らかに全体主義の遺産として残ったものであり、もっと最近では、もっぱら非国家的なテロリスト集団による脅威と実践として流用されてきた。自爆戦士たちは、彼女の言葉で言えば、いかなるタイプの近代的兵士よりも徹底して〈誰〉であるかを明らかにしない者たちである。自爆戦士たちは、自分と他の人びとを破壊することをプログラミングされた、完全な暴力の道具――爆弾――である。そのような人たちは、小型無人飛行機に似た、まったく非人格化されて国家に使われる、衝撃と恐怖の爆撃手なのだ。(p. 103) |
(……)彼女は定義から始める。許しとは、行われ語られた行為や言葉をとり消す――くつがえす――人間的な能力である。あるいは、別の言い方を引用するなら許しは「活動から生じた避けがたい損傷にたいする必要な矯正策」である。許しは、活動そのものの可能性として、活動における「不可逆性という困難」、すなわち「自分が何を行っているかを知らなかった、そして知りえなかったにもかかわらず、行ったことをとり消すことはできない(『人間の条件』三七一頁)」という困難に立ち向かう活動から生じる。許しは過去の無数の出来事にとり組むのだが、その一方で、約束(あるいは契約や協定)を行い、それを守るという人間の能力は、活動の予測不可能性という問題にとり組み、そこである程度の保証をもたらすのである。 (p. 104) (……)許し約束する能力のためには、まったく異なった一連の指導原理が必要とされる。なぜなら、活動の領域は複数性の領域であり、自己の内部ではなく他の人びととの経験が、許すことと約束することのための道徳的環境を決定するからだ。他の人びととの関係を基礎としてこそ、自己は、「わたしとわたし自身」とのあいだの内的な許し約束する関係をもつことができるようになる。 (p. 106) アーレントの主張によれば、許しというイエスの概念は、ローマの公的権威に挑む「小さな結束した共同体」の経験を反映しており、本来的には政治的であった。それは、神によって許されることを願う前に、許しは人びとのあいだで実践されなければならないとイエスが教えた事実によって、裏づけられている。許しが必要である理由は、人びとが「自分たちが何を行っているかを知らないということである。すなわち、日常の行いは許し、あるいは解消を必要とする。知らずに行ったことから人びとを絶えず解き放つことによって、生き続けることを可能にするために」。(……) 「こうして自分たちが行うことから絶えず相互に開放されることをとおしてのみ、人間たちは自由な行為者であることができる。考えを変えてふたたび始めることが常に進んで為されることによってのみ、なにか新しいことを始めるにたる偉大な力を信頼することができる(『人間の条件』三七六頁)」。ここでの強調点は、〈相互の〉開放にある。(p. 108) 罰することの不可能性と許すことの不可能性はともに、「カント以来われわれが《根源悪》と呼んでいるあの犯罪の真の特徴である。その本性については、公的場面におけるそれらの希有な爆発[すなわち、ナチの犯罪]の一つにさらされたわれわれにさえ、ほとんど知られていない。われわれが知っているのは、人間の事柄の領域と人間の潜在力の限界を超えてしまっているのだということだけである。こうした領域や潜在力は、そうした犯罪が出現した時には、いつも根本から破壊されてしまう(『人間の条件』三一七頁)」。(p. 111) ヨハネス二三世もヨハネ・パウロ二世も、アーレントの死後、二〇世紀末に起こった許しへの現実的な政治的関心の高まりに大きな影響を与えた。もっとも、そのどちらもダライ・ラマほど政治的活動の中心に許しを置くことはしなかった。ダライ・ラマは、人民軍が五〇年以上チベットを暴力的に占領してきた中国の人びとにたいしてさえ、寛大な気遣いを見せている。一九八九年のノーベル平和賞受賞のスピーチで、彼は、中国の人びとが彼ら自身の文化大革命によって深い打撃を受けたことを認めた。その時期、中国の政府はチベット住民の六分の一を殺害し、チベットの宗教的および文化的な遺産を破壊していたのであった。ダライ・ラマは繰り返し、中国政府に五項目の和平案を結ぼうと申し入れ、対話と交渉を呼びかけてきた――が、いまだ成果を得てはいない。(p. 116) |
許しが過去の人間活動の予測不可能性からの〈解放〉releaseを与えるのにたいして、約束は、不可避的に未来に起こるような予測不可能性からの〈休息〉respite――「不確実性の大海に浮かぶ確かさの小島」――を与える。アーレントは。このような休息は二つの仕方で生じると考えていた。つまり約束は、「自分たちが明日どのような人間になるかをけっして保証できない(『人間の条件』三八一頁)」人びとの基本的な頼りなさにもかかわらず、信じることを可能にし、活動の結果についての(知識ではなくとも)希望を可能にする。自己支配や他者を支配することによって確かさを求めようとする人びとは、約束を大いに信用する人びとではない――あるいは人びとを大いに信じ、活動から多くを望むような人びとではない。(p. 134) 一九六八年八月の記憶は、ポーランドの[ヤツェク・]クーロンと仲間の学生たちが自分たちの状況を再評価する時の鍵となった。彼らは、ポーランド共産党(PCP)内の改革派を当てにしても無駄になり得るという教訓を手にしていた。しかし彼らが学んだことでもっとも重要な点は、共産主義政府――さらにはソ連――に対する暴力は明らかに不可能であり、むしろそれは抑圧を増大させるだろうということだった。暴力への反応はさらなる暴力――催涙ガス、戦車――となり、抑圧的な政権をさらに強化するだろう。クーロンの秘蔵っ子の一人アダム・ミフニクは、アーレントが論じたようにヨーロッパで知られた唯一のモデルであったフランス革命のモデルを拒否した『監獄からの手紙』Letters from Prisonでこの教訓を説明している。「現存のバスティーユ牢獄を襲撃するために暴力を使用することによって、我々ははからずも新しいバスティーユを建ててしまうのだ」。(これはアーレントの思想を表現した実践的で政治的な判断であった。「暴力の実践はすべての活動と同様に世界を変える。しかし、そこで最も起こりそうな変化は、さらに暴力的な世界への変化である(『暴力について』一六八頁)」。) ポーランドの学生たちによる暴力の拒否とともに、革命の歴史の新しい一章が開かれたのである。(p. 144) そして今――ほかならぬ今――ヨーロッパ人たちはそれぞれの国ごとに、すべてのヨーロッパ市民が投票する憲法を作成し批准するという偉大な課題に直面している。批准のプロセスは目下のところかなりの難題となっているが、その理由はとりわけ、東側に立ちはだかる全体主義のソ連がもはや存在せず、ヨーロッパ人たちを刺激して防衛上の連帯をうながすということがなくなったからだ。確かに多くのヨーロッパ人たちが恐れているのは、対西洋の向こう側に立ちはだかる超大国である。それが全体主義だからではなく、その国が相互の誓約に関心をもたず、主権を一方的に主張し、ホッブスのリヴァイアサンに類似するようになってきたからである。(政治的連合の土台を整えるために、まずはエネルギーと経済の統合モデルを適用される次の地域であるかもしれないラテンアメリカでは、アメリカ合衆国の経済的政治的独裁にたいする反対が共有されており、それが新しい世代の国民的指導者たちにラテンアメリカ連合を構想させることになった。) (p. 154) (……)学生たちは、戦後の年月においてドイツで持続していた嘘、すなわち(アーレントの要約を使えば)「ドイツ人たちはけっして真にナチではなかった」という嘘を許容しようとしなかった。したがって、彼らは「過去の克服」という未完のプロセスを前進させたのである。(……)政治的制度としては革新的なものではなかったが、学生の反乱は独裁制への漂流からドイツを救った。(……)真の左派政党である美登里の党の浮上に助けられて、一九六八年世代の指導者たちがローカルな州の政府を経て連邦の官職へと昇進し、一九九二年にはヨーロッパ連合で政治的役割を果たすことになった。(p. 160) |
そうしたかつての学生指導者の一人が、一九六八年にフランスから追放されてドイツで活動を続けることになる前には「赤いダニー」としてパリで知られていた、ダニエル・コーン=バンディだった。アーレントとブリュッヒャーが一九三〇年代にパリに亡命していたときの友人の息子であるコーン=バンディは、ドイツの政治家独裁の時期に、『全体主義の起源』を勉強していた。その理由を彼は後にインタヴューで語っている。「[一九七〇年代の初め]わたしは、共産主義と国民社会主義とを比較することに[ドイツ人たちのあいだで]抵抗があったということに当惑していました」。反共産主義的な左翼であったコーン=バンディにとって、そのふたつの全体主義が共有していたものについて嘘をつかないこと、共産主義がドイツの問題を解決するとは期待しないことは、重要だった。一九八四年にはコーン=バンディは緑の党に基盤をもち、結果としてヨーロッパ議会の緑の党の共同議長になり、今もまだその地位にある。(p. 160) 「新しい闘士たちは、無政府主義者、ニヒリスト、赤いファシスト、ナチなどとして、そしてそれよりもはるかに正当には「ラッダイト運動的な破壊者」として糾弾され、学生たちはそれと同じくらい意味のない「警察国家」とか「後期資本主義の潜伏的ファシスト」というスローガンで、そしてそれよりかなり正当な言い方としては、「消費社会」というスローガンで迎え撃った。彼らの行動は、ありとあらゆる社会的心理学的要因のせいにされてきた――アメリカでは寛大に育ちすぎたとか、ドイツや日本ではあまりに権威主義的であったことに対する爆発的な反動のせいだとか、東ヨーロッパでは自由の欠如、そして西ヨーロッパでは過剰な自由のせいだとか、フランスでは社会学を学んだ学生の壊滅的な失業率のせいだとか、合衆国ではあらゆる分野で職業があり余っているせいだとか――が、そのどれも局地的にはもっともらしく見えるが、学生の反乱がグローバルな現象であるという事実とは明らかに矛盾している。その運動の社会的な共通性を問うことは不可能だと思われるが、心理学的に見るとこの世代がどこでも、いちずな勇気、活動への驚くべき意志、そして同様に変化の可能性にたいする驚くべき信頼によって特徴づけられることは確かである。しかし、こうした特質は原因ではなく、世界中の大学でこのまったく予期せぬ展開をもたらしたのは何であるかを問うならば、いかなる先例も類似したものも存在しないという、最も明らかでおそらく最も有力な要因――技術の進歩が非常に多くの場合まっすぐに破滅に通じているという単純な事実、この世代に教えられ学ばれた学問は、自分たちが生みだした技術の破壊的な結果をとり消すことができないだけでなく、「戦争へと転換できないものなどない」という発展段階まで達したのだという単純な事実――を無視することは馬鹿げている。……ようするに、抵抗不可能な技術と機械の増殖は、特定の階級を失業という形で脅かしているどころか、あらゆる国民の、そしておそらく人類全体の生存を危険にさらしているのである。(『暴力について』一〇九頁)」 (p. 161) 高等な技術品を生産する科学者たちの多くもまた、自分たちの賃労働を行っている。そして彼らもまた、自分たちが何を行っているのかについて考えることが彼らの賃労働の一部だとは思っていない。アーレントの説明によれば、彼らが操作している「真理」は、数式によって説明し技術的に証明できる(すなわち技術の翻訳しうる)のだが、政治的言説や意見の交換を構成している種類の言葉で――すなわち、科学者たちが行い作ることができるものを人びとが議論するための言葉で――「概念的にあるいは明瞭に」語ることができない。彼女はそのことがもつ政治的意味を鋭く表現している。「もし知識(現代的な意味での技術的知識(ノウハウ))と思考が本当に永遠に袂を分かつということになれば、私たちは機会の奴隷というよりも、むしろ技術的知識の救いがたい奴隷になるだろう。それがいかに凶悪なものであろうと技術的に可能なからくりの言いなりになる、思考をもたない聖物になるだろう(『人間の条件』一三頁)」。 (p. 164) |
彼女が一九五〇年代と残りの人生でたしかに明らかにしたのは、現代では思考は、「生計を立てる」労働の心性からも科学的制作者のノウハウ思考からも分断されていて、活動の運命はその文脈のなかでこそ考察されなければならないということだった。とりわけ、非全体主義国家あるいは全体主義以後の国家で起こりうる種類の悪化――それらはすべて政治屋たちの独裁という方向での悪化だったが――は、彼女が「イメージ作り」image makingと呼んだもの、すなわち消費社会の商品生産技術(およびマーケティング)と、現代の科学技術の技術的知識における思考の欠如とが、政治生活にもち込まれるということを伴っていた。彼女によれば、堕落する共和国の政治屋たちは、自分たちの賃労働を行い、政治的な意志決定を、あたかも科学的計算もしくは理論の適用であるかのように扱ったのである。(p. 166) 彼女の長い議論によれば、全体主義のイデオロギーがテロルを要請したのは、友と敵の区別を強化し、それを私的生活および公的生活のあらゆる側面に広げることだった。しかし、イメージを維持することは、もっと陳腐なもの、すなわち広報、マディソン街〔広告代理店が集中する地域のこと〕の「隠れた説得力」、注意深く編曲された嘘を必要とした。テロルとイメージ宣伝に共通しているのは、それらが必然的に主義として嘘をともない、政治のなかに犯罪を侵入させてしまうということである。しかしイメージ宣伝は、独裁的な政治家たちによるゆるやかな全体主義である。彼らは、市民たちが権力とひきかえに得る安全と保護のイメージ(リヴァイアサンのイメージ)を宣伝することによって、そして嘘(それには多くの派生的嘘が続く)を土台としてそうしたイメージを築くことによって、国家を内側から掘り崩すのである。(p. 167) 3 『精神の生活』について考える アーレントが彼女の経験にもとづいて語ったように、判断は他の精神的能力のどれにもまして、他者との関係性のなかで行使されるものである。それは、物理的に、あるいは想像の中で他者を訪れ、彼らに相談し、彼らの観点から物事を見て、彼らと意見を交わし、彼らを説得し、(カントの魅力的な言葉で言えば)彼らを口説くことをふくんでいる。判断は世界のなかで意見として現れ、世界に存在する意見の複数性の加わり、またそれを反映する。精神的に、あるいは世界のなかで、あるいはその両方において、こうした種類のコミュニケーション経験、(カントの言葉で言えば)「拡張された思考の仕方」をもつことによって、人は主観性や他者の同伴のない理解の仕方を超えて、共通感覚として知られるものに到達することができる。(p. 180) |
全体主義を研究するなかで彼女が発見したのは、それが、モンテスキューの手引きのどの一般的なタイプにも適合しないということだった。さらに、全体主義は、あらゆる統治は一人の人間あるいは集団による他の人びとの支配をともなうという、通常うけ入れられている普遍性に合致しなかった。これは、先例のない「誰によるのでもない支配」、あらゆる政治生活を破壊した特定の統治形態、反政治的政治だった。(p. 190) 晩年になって、彼女はその才能を判断力そのものに用いて、ヴェトナム戦争の時期のアメリカ高官によるイメージ作りの問題点を指摘し、彼らを無思考であるだけでなく判断をしない無判断の人びととして描いた。彼らは判断しなかった。彼らは計算していた。彼らは誤った前提から演繹的に物事を進めた。彼女が目撃し考察していたのは、反省的に判断することを拒否し、普遍性あるいは理論(たとえばドミノ理論のようなもの)に依拠したいと望み、そして個別の事例が存在しないところでもそれらを進んで作り上げる、すなわち嘘をつくという彼らの態度であった。(p. 191) もし判断を行う審判者あるいは注視者がいなければ、制作者が作るものや活動する人が行うことは、けっして現れず、伝達可能なものになったり伝達されたりすることはないだろう。「注視者の判断は空間をつくり出し、その空間なしにはどのような対象もまったく現れない。個的領域は批評者や注視者によって構築される〔強調は筆者〕のであって、活動する人や制作者によってではない。批判者や注視者はすべての活動する人や制作者の中に存在する……注視者は複数性においてのみ存在する。注視者は活動に真紀子稀はしないが、いつも仲間の注視者たちに巻き込まれている。彼は天賦の才や独創性や新しさという能力を活動者と分かち合ってはいない。しかし彼らが共通にもっている能力は、判断力である(『精神の生活』第二部二八七頁)」。(p. 192) 「注視者は複数性においてのみ存在する」というアーレントの言葉は、実のところ判断とは公的幸福の一形態であるということのひとつの表現なのだ。(p. 195) |
現在の世界の出来事に私たちが出会う時、思考はそうした出来事に私たちを関連づけ、構想力を介してそれらの表象、あるいは「後からの思考」after-thoughtsをつくり出し、他の精神的な能力との協働に備える。意志は未来のための私たちの「器官」である。そして判断は、人びとのあらゆる判断や意見に私たちを結びつける。それらが形成され、私たちの、伝統、文書館、記憶の諸領域のなかに存在しているかぎりそうなのである。私たちはそこで人間の真価が示されている範例を見いだすのである。判断力は、法廷で裁判官が行うのと同じやり方で先例を用い、裁判官が法律の場合にそうするように、先例がなく、新しい法あるいは説明を必要としているものとは何かを特定する。(p. 204) (……)無思考性は内的な対話の欠如である。「その無言の交わりを知らない」(アイヒマンのような)人物は、起こりうる悪い行いに反対する声を聞かないし、それを聞くのをやめてしまっている。それによって彼らは悪行を行ったものと共存できる。(p. 207) (……)アウグスティヌスは、未来は再来するここであるという循環的時間の枠組みのなかでは思考しなかった。その反対に、彼が考えたのは、未来は〈私たちの精神のなかでのみ〉、私たちに到来する経験のなかでのみ存在する、ということだった。さらに彼が概念的に認識したのは、私たちがひとつの道と他の道のあいだで選択を行おうとし、どちらかの道を行くように自分自身に命じるとき、私たちは、心を不安にさせ調和を乱す経験をしているということだった。私たちは自身に命令するが、すぐさま、私は意志する(velle)というあり方とわたしは否と意志する(nolle)というあり方、つまり肯定と否定とを経験する。(……)そこで彼が考えたのは、葛藤は意志そのもののなかにあるのであって、精神と肉体のあいだにあるのではないということだった。意志におけるこのような葛藤が、自由の特徴である。(p. 210) ニーチェの逃避は、人間が「あらゆる価値を別様にうち立てる」ことができる「力への意志」をもっており、過去にたいする力を批判によって人間に〈精神的に〉獲得させることができると想像することだった。彼は活動の権力を否定し、実際に意志の狂気である妄想的な力への意志のほうを選んだ。アーレントの観点から言えば、ニーチェの力への意志は、活動にたいする哲学的な敵意の長い歴史における最も不条理な一章であり、世界から離別した孤独な精神的な生の主張によって、まったくの世界蔑視によって、活動の予測不可能性から逃れたいという欲望だった。(p. 213) |
ハイデガーの思考は、存在をその源とし、人間の運命を決定するものと見なすことによって、人びとが何らかの仕方で自分たちの運命を決めるということを否定した。あたかも意志が思考の敵であるかのように、彼の思考は決定的に意志から切り離されていた。ここでハイデガーは、ニーチェの力への意志を拒否していたが、それだけでなく意志そのものをまったく拒否した。彼にとっては、意志は破壊的な能力――支配への意志――でしかなかった。 「人間の諸権利という概念が意味をもつのは、それらが人間の条件、人間の共同社会に属することに依存する条件そのものにたいする権利なのだと再定義される場合でしかない。その権利は何らかの生来の人間の尊厳に存するものではけっしてない。そうした尊厳は、事実上de facto仲間の人びとによる保証がなければ存在しないだけではなく、長い歴史のなかで私たちが発明してきた究極的で尊大な神話なのだ。人権が実現されるのは、それらが新しい政治組織の前政治的な基礎となるときだけである。新しい法的構造の前法律的基礎、人類の歴史がその本質的な意味を引き出す前歴史的な基礎となるときだけである……」。(p. 119) (2011/8/30)
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