ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <書 抜き書きメモ16>

ジュディス・バトラー
触発する言葉
 言語・権力・行為体
竹村和子訳、岩波書店、2004年

序章 言葉で人を傷つけること

トニ・モリスンは一九九三年にノーベル文学賞を受賞したときの講演で、とくに「表象の暴力」について話をした。彼女は「抑圧的な言葉は、暴力を表象するだけではないのです。それ自身が暴力なのです」と述べた。モリスンは一つの寓話をもち出して、そのなかで言語を「生き物」に譬えたが、この譬えは間違ったものでも、非現実的なものでもなく、言語についての真実を語っている。この寓話のなかで幼い子どもたちは悪ふざけをし、盲目の女に、自分たちの手のなかの鳥が生きているか死んでいるか当ててごらんと問うている。盲目の女は、この問いに答えるのを拒み、それをずらしてこう言う。「わからないわ……でもわかっていることは、それがあなたたちの手のなかにあることよ。それはあなたたちの手のなかにあるのよ」(The Nobel Lecture in Literature, 11)。(p. 11)

脅しは身体行為でもある言語行為なので、ある部分、すでにそれ自体の制御がきかないものである。モリスンはこの点を次のように指摘した。盲目の女は、子どもたちによってなされた暗黙の脅しを、鳥を握っている者の「手」に言及することによって、子どもたちに返してみせた。語る者の身体をあらわにして、脅した者が知らなかった事柄を暴いてみせる行為を、脅しという行為に対置させ、それによって、脅す者の発話行為を動かしているのが盲目性であることを示してみせた。つまり、脅す者が語ることですでに身体的に行動しているのなら、これ以上、何を身体レベルでやるのかという問いを示してみせたのである。(p. 20)

(……)たとえば「クイア(変態)」という語の価値が変わったことは、発話がべつのかたちで発話者に「返され」、当初の目的とは正反対の意味となって引用され、逆の効果を演じる可能性をもつことを示している。もっと一般的に言えば、そのような語彙のなかに潜む可変力こそ、個々の一連の発話行為ではなく、起源も目的も固定されず、固定されえない連綿とつづく意味づけなおしの儀式である言説がおこなう行為遂行性を特徴づけている。この意味で「行為」は瞬時の出来事ではなく、時間の地平をもつ繋がりであり、発話の瞬間を超えた反復の凝縮である。(p. 23)

(……)マリ・マツダの公式では、発話は社会の支配関係を単に反映しているだけでなく、発話が支配を演じることによって、社会構造を再就任させる手段ともなっている。この発話行為のモデルでは、憎悪発話は、その受け手を発言の瞬間に作りだすが、それは中傷を描写しているのでも、また結果として中傷を生産しているわけでもなく、その言葉を語っているときに、中傷が社会的従属を意味するような中傷のパフォーマンスになっているのである。(p. 29)

残念なことに、憎悪発話にかんする議論を政治的に利用することによって、人種的な中傷についてはその効果を過小評価し、性的中傷については、その中傷を可能にさせる領域を拡大する傾向が生まれていると思われる。ラップ・ミュージックに対する保守派からの攻撃のなかには、中傷表現に反対するフェミニズムの主張が巧みに取り込まれているように見える。というのも「良識」についての新しい規準によると、都市の暴力的状況を表現してはいけないことになっているからだ。同時に女に対する性的中傷は、人種の比喩で理解されているようである。なぜなら女の尊厳が危機にさらされるのは、産む/産まないについての権利を弱めたり、公的援助を広範囲に削減することによってではなく、主にアフリカ系アメリカ人の男性がうたう歌詞によってだとみなされるからである。(p. 36)

 

発話内行為的な発話は観衆の次元、すなわち「儀式」や「儀礼」の次元によって条件づけられるというオースティンの見方は、イデオロギーは「儀式」の形態をもち、儀式は「イデオロギー装置が現実化した存在」(“Ideology and Ideological State Apparatuses,168)だというアルチュセールの主張と呼応している。儀式が現実なのは、それが何かを生産する、つまりその「背後に」あると思われる信念を生産する、という意味においてである。(p. 39)

憎悪発話は、わたしたちがそもそも言語に対して被傷性をもっていることを明らかにする。つまり、わたしたちは名指されて存在しているものであり、何ものかであるためには〈他者〉からの名指しに依存しなければならないという意味で、言語に被傷性をもっていることが明らかとなる。〈他者〉に依存してはじめて「存在」できるということは――ヘーゲルの定理であり、フロイトの定理であるが――言語の次元でもう一度書きなおされなければならない。その理由は、承認が規制され、分配され、また否定される次元が、呼びかけという、それよりも大きな社会的儀式の一部をなしているからである。(p. 42)

フーコーが「言説は人生ではない。その時間は人の時間ではない」と述べたとき、彼は、言語のこの制御不可能性について語った。おそらくフーコーがここで言おうとしたことは、人の生を、人が語る言説に収斂させることはできない、つまりその生に息吹を与えた言説領域に収斂させることはできないということである。だがここで彼が強調しえなかったことは、言説の時間は、主体の時間と根本的に相容れないときですら、主体の語る時間を可能にさせていると言うことである。主体によって制御できない言語領域こそ、語る主体が行使しうる制御領域を存在させるための条件となる。発話の自律性が可能になるのは、語る主体の歴史をあらゆる方面で超えるような歴史性をもつ言語に、そもそもの始めから、その自律性が根本的に依存しているかぎりにおいてである。(p. 45)

主体が語る言語は慣習的な者であり、その意味で引用的なものである。中傷的な発話を制御しようとする法的試みは、あたかも発話者が発話の起源であるかのように、「発話者」を発話から分離して、有責の行為者(エージェンシー)と見なしがちである。これは発話者の責任を誤解したものである。発話者に責任があるのは、まさに発話が引用的な性質をもつためだ。発話者は、共同体の言語の偏向を新たに甦らせ、その種の発話をふたたび発信して、ふたたび活性化する。したがって責任は、反復としての発話に関係するもので、起源としての発話に関係するものではない。 (p. 61)

第一章 中傷発言、燃え広がる行為

オースティンの行為遂行性についての説明は、統治的主体を想定している。そこでは、語る人、および語ることでその内容を行為している人は、裁判官といった法の体現者に譬えられている。裁判官は宣告を与える。そして裁判官が正当な裁判官であり、また適切さという条件が満たされる限りにおいて、その宣告は行為となり、その行為によって、宣告は拘束力をもちはじめる。行為遂行的な発話を効果的に発する人は、疑いようのない権力に従ってそれをおこなう人と考えられている。(……)「人種」に対する権力や、さらにはジェンダーに対する権力は、そのような権力を語る「人」に先行しているにもかかわらず、語る人は、その権力を所有していると見られている。(p. 76)

 

第二章 刑罰のおだやかさ

「ある犯罪にかんして、適当した懲罰を見つけるということは、不利益の観念がいちじるしいので犯行の観念が最終的は魅力を失ってしまう、そうした不利益を見つけることである。戦い合うエネルギーの技術、相互に結びつく心象の技術、時間に挑戦する安定した諸関係の創出。」(p. 109)

「この表象=妨害は、機能するためには、いくつかの条件に従わなければならない。
[1] できるだけ恣意的でないこと。……犯罪と処罰の双方のつながりは最大限に無媒介なものである必要があるのである。…たとえばヴェルメイユの提案はこうである。公的な自由を濫用する者は、彼個人の自由を剥奪されるべし、法のもたらす恩恵や公職の特典を濫用する者は、その市民権を取りあげられるべし、また、罰金科料は、汚職や高利による金貸しにたいする処罰とし、没収は盗みにたいする、死刑は殺人にたいする、火あぶりの刑は放火にたいする、それぞれ処罰とすべし。……
[2] 犯罪を魅力的にする欲望を減少させて、刑罰を恐ろしいものとする利害関心を増大させること…、刑罰とそれの不利益という表象が、犯罪とそれの喜びについての表象にくらべて鮮烈であるようにすること。……
[3] [刑罰の]時間上の変調作業による効用。…情念の機構はもろいのだから、人々が情念を、それが正しい姿に戻るにつれて、同じやり方や同じ執拗さで拘束するのは望ましくない。しかも刑罰は、刑罰によって成果があがるに応じて緩和されるのが適切である。……
[4] 罪人は、懲罰が狙う数々の標的の一つにすぎない。懲罰は……罪人になる可能性のあるすべての人を対象とするのである。…各人がすべての人に伝える言説、それによって万人が犯罪を止めにする言説─犯罪というまやかしの利益のかわりに、人々の精神のなかに現れる正しい貨幣─を、そうした表徴(=妨害)は形づくるべきである。……公共土木事業には二つの事柄が含まれていて、それは受刑者の刑罰(苦役、でもある)による集団の利益と、人目につきやすく統御可能な懲罰の性格である。罪人はこうして二回つぐなうわけである、つまり、彼の提供する労役によって、そして彼のつくりだす表徴によって。……
[5] …広報活動の、学識に支えられた経済策……。……今では、見せしめの支えとなっているのは、公共道徳にかんする教訓・言説・判読できる表徴・舞台および絵画による表現である。懲罰の儀式を支援するようになるのは、もはや、君主権力の恐ろしい復活ではなくて、〈法典〉の再活性化であり、犯罪の観念と刑罰の観念とのあいだの絆の、集団による補強である。…

[6] ……犯罪についての伝統的な言説は社会のなかで逆転されるかもしれない。処罰についての再記号大系化がきちんと行われるならば、また葬送本位の[処罰の]儀式がしかるべくくりひろげられるならば、犯罪は一つの不祥事としてしか、悪人は社会生活を教えこまねばならぬ敵としてしか、現れることはできまい。」(p. 109-117)

「刑罰としての閉じ込めは多数の改革者によってはっきり批判されているのである。……それは費用がかかり、受刑者を無為にすごさせ、彼らの悪徳をつのらせるからだ。……今日のように拘禁が死刑と軽度の刑罰との、処罰の全中間領域をおおいつくすことができるという観念は、当時の改革者たちには即座に考えつきえない観念であった。」(p. 119)

《矯正施設》と改革者たちの方法
「その近似点。……《矯正施設(レフオレマトワール)》もやはり、ある犯罪の消滅ではなく、その再発防止を自らの機能とする。未来へふり向けられている、しかも犯行の再発をふせぐために整備されている仕掛けである。」(p. 129)
「改革者たちの方法。刑罰がもたらされる地点、刑罰が個人におよぶ場合の筋道は…さまざまの表象である。つまり、個人の利害の表象であって、個人の得失ならびに快不快にまつわる表象である。」(p. 130)
「矯正中心の刑罰制度の装置(ここでは《矯正施設》をさす)は、全然別のやり方で働いている。刑罰の適用地点は表象ではない、それは身体であり、時間であり、毎日の動作と行動であり、さらに精神、ただし習慣の座である範囲でのせいしんである。」(p. 131)
「要するに、双方の差異はこうである。処罰の都市か、あるいは強制権を中心とする制度か。にある。前者では、刑罰権力の作用は社会空間全体に広がっていて、情景・見せ物・表徴・言説としていたるところに現存する。……市民たちの精神の恒常的な再記号体系化を介して働きかける。後者には、処罰権力の緻密な作用がある。つまり、罪人の身体ならびに時間の入念な掌握であり、権威ならびに知にもとづく一つの体系による罪人の動作・行動の取締りである。…いわゆる司法権からと同じく社会体からも遊離するあの[処罰]権力による自立的な支配である。」(p. 132)

三つの処罰権力、権力技術論
    (処罰権力)   (処罰地点)   (罪人)
  1. 君主とその力──烙印、儀式──打負かされた敵
  2. 社会体   ── 表徴、表象──再規定の途上にある法的主体
  3. 管理装置 ── 痕跡、訓練──無媒介的な強制権に
                          服従せしめられる個人

第3部 規律・訓練

第一章 従順な身体

「ラ・メトリーの『人間=機械論』は、精神の唯物論的還元であると同時に訓育(ドレッサージュ)の一般理論でもあって、それらの立場の中心には、分析可能な身体へ操作可能な身体をむすびつける、《従順》の概念がひろくゆきわたっている。服従させうる、役立たせうる、つくり替えて完成させうる身体こそが、従順なのである。」(p. 142)

「ずっと以前から規律・訓練の方策は多数実在していた─修道院のなかに、軍隊のなかに、さらには仕事場のなかにも。だが規律・訓練が支配の一般方式になったのは十七世紀および十八世紀である。」(p. 143)

「規律・訓練(ディシプリーヌ)は、服従させられ訓練される身体を、《従順な》身体を造り出す。規律・訓練は(効用という経済的関係での)身体の力(フォルス)を増加し、(服従という政治的関係での)この同じ力を減少する。一言でいうならば、規律・訓練は身体の力(プーヴォワール)を解離させるのであって、一面では、その力を《素質(アプティチュード)》、《能力(カパシテ)》に化して、それらを増大しようと努める、が他方では、《体力(エネルジー)》ならびにそれから結果しうる《強さ(ピュイサンス)》を反転させて、それらを厳しい服従関係に化すのである。」(p. 143)

「規律・訓練がおこなう最初の処置は、空間への各個人の配分である。……
[1] しばしば規律・訓練は、閉鎖を、つまり他のすべての者には異質な、それじたいのために閉じられた場所の特定化を要求する。……放浪者および貧民の大いなる《閉じ込め》があったし(フーコー『狂気の歴史』に詳しい)、さらにまた、いっそう秘密な、だが老獪で効果的な別種の閉じ込めもあったのである。たとえば、私立学校(コレージュ)。……またたとえば、兵営。……
[2] (規律・訓練の)装置は、はるかに柔軟かつ巧妙なしかたで空間を再構成するのである。しかもまず、基本的な位置決定もしくは碁盤割りの原則にもとづいて。各個人にはその場所が定められ、しかもそれぞれの位置には一個人が置かれるのである。……規律・訓練を旨とする空間は、配分しなければならぬ身体ないし要素が存在するその数と同じだけの小部分へ分割される傾向をおびる。……
[3] 機能的の位置決定の準則が、建築述によって一般的には流用可能とされ幾多の用途に供されていた空間を、規律・訓練中心の諸施設では徐々に記号体系化使用とする。……その過程は病院のなかに、とりわけ陸軍および海軍の病院のなかに明瞭に現れている。……一八世紀末期に出現する工場では、個人への分化を旨とする碁盤割りの原則が複雑になる。個々人を、彼らをひとりひとりにして評定可能な空間のなかに配分することが重要であると同時に、さらにこの配分を、固有な要請を有する生産装置に連結することも重要である。……機械中心の産業のはじめには、われわれは生産過程の区分の背後に、それと同時に、生産力の個人分化的な文責を見出すのであって、この区分ならびに分析をしばしば明確にもたらしたのが、規律・訓練本位の空間の配分だったのである。
[4] 規律・訓練[の施設]では、基本的要素は相互に置き換えが可能で……基本単位は所属分野(支配の単位)でも場所(所在の単位)でもなくて序列である。」(p. 147-150)

「規律・訓練(ディシプリーヌ)は《独房》・《座席》・《序列》の組織化によって、複合的な空間を、つまり建築的なと同時に機能的で階層秩序的な空間をつくりだす。……その空間は個人別の小さい部分に分けられ、しかも操作的な諸関係をうちたてる。……個々人の服従を、さらに時間ならびに動作の最上の節約を確保する。」(p. 152)

  「活動の取締り
[1] 時間割……。その厳密な模範は、最初おそらくは修道院が暗示したにちがいない。その三つの主要な方策──拍子をつけた時間区分、所定の仕事の強制、反復のサイクルの規制──はたちまち学校や仕事場や施療院のなかで見出されるようになった。……
[2] 時間面での行為の磨きあげ。……行為は諸要素に分解され、身体の、手足の、関節の位置は規定され、一つ一つの動作には広がりと所要時間が指示されて、それらの順序が定められる。時間が身体不覚にしみわたるのである。それにともなって権力によるすべての綿密な取締りが。
[3] ……身体と身振りの相関化……。その取締りは、効果と速度の必要条件たる、或る身振りと身体の全面的な姿勢とのあいだの最良の関係を強制するのである。……正しい規律・訓練を授けられた身体こそが、最小限の身振りがもつ操作上の脈絡を形づくるのである。……
[4] 身体=客体の有機的配置。身体が、みずから取扱う客体のあいだに保持しなければならぬ諸関係の一つ一つは、規律・訓練によって規定される。それによって身体と客体のあいだに、配慮のゆきとどいた伝導装置のような組合せがつくりあげられる。……こうしたいわば義務と化した統辞法は、一八世紀の兵法理論家たちが《繰練(manœuvre)》と呼んでいた事柄なのである。……
[5] 尽きざる活用。伝統的な形式における時間使用を支えていた原理は、根本的には消極的であった。無為怠惰の拒否の原理である。……他方、規律・訓練のほうは、積極的な経済策を整備するのであって、時間の、しかも理論上はつねに増大してゆく活用という原理を立てる。つまり[時間の]使用というより尽きざる消費である。」(p. 154-158)

「こうした服従強制(臣民化、主体化でもある)の技術をとおして、新しい客体が組立てられようとしているのである。……その新しい客体とは、力を保持し持続の座である自然な身体であり、みずから秩序・時間・内的条件・構成要素をそなえる種別化された作業をいとなみうる身体である。身体は、新しい権力機構の標的となると同時に知の新しい形式の対象になる。思弁的な自然学の属する、というよりむしろ訓練に属する身体であり、動物精気が染みわたっている、というよりむしろ権力が操作する身体であり、効力ある訓育に属する身体なのであって、それは純理的機械論に属するのではなく、そこではその点からしても、いくつかの自然的要請ならびに機能的束縛が現れるようになる。」(p. 158)

「規律・訓練の方式によって、線型の時間が出現するわけで、その一刻一刻は相互に統合され、その時間は最終的な安定した地点へ向かって方向を定められる。要するに《進化発展(エヴオリュティフ)》の時間。ところで思い出しておく必要があるのは、同じ時期に、行政面と経済面の管理技術によって、系列化・方向設定・累積を中心としたタイプの社会的時間が出現していた点であって、つまりこれは《進歩発達(プログレ)》との関連で或る進化の発見である。他方、規律・訓練の技術は個人重視のもろもろの系列を出現せしめるわけで、つまりそれは《段階的形成(ジュネーズ)》との関連での或る進化の発見である。社会の進歩発達と個人の段階的形成という、一八世紀の此の二大《発見》こそは多分。権力の新たな諸技術と相関的であろうし、より正確に言えば、時間の管理と活用における、線分単位の分割や系列化や総合ならびに総体化などの新たな方法と相関的であるにちがいない。」(p. 163)

実際のところ、反復性や引用生とは、まさしく次のようなことではないか。つまりそれらは、行為遂行性を引用する主体を行為遂行性の起源――ただし後から作られた虚構的起源――として時間のなかに生みだす換喩の機能なのではないか。社会的な中傷言葉を発する主体は、中傷をもたらす長い繋がりによって起動させられている。主体は、その種の発言を引用することによって、つまり自分がその発言の起源となって行為することによって時系列のなかにおのれの位置を獲得する。だが主体-効果は、まさにその引用の帰結でもある。(p. 78)

もしも行為遂行性が暫定的に成功するなら(「成功」はつねに暫定的なものでしかないと言いたい)、その理由は、意図が発話行為を取りしきるのに成功したからではなくて、その行為がそれに先立つ行為を反響させ、そして先行する権威的な一連の実践を反復・引用することをつうじて、権威の力を自分のなかに蓄積したからにすぎない。それは単に、発話行為が実践のなかだけで起こっているのではなく、その行為自体が、儀式化された実践だということである。したがってここで意味されているのは、行為遂行性が「機能する」のは、ひとえに、それを起動させている構築的な慣習に頼るかぎりにおいてまたそのことを隠蔽しているかぎりにおいてだということである。(p. 81)

第二章 ポルノと検閲 ――行為遂行性の権力

(……) 統治的な行為遂行性を求める背景には、もはや統治的形態をもつ国家のなかに権力を限定しえないという政治状況があることだ。権力は、国家装置を形成している互いに相異なり相競う領域のすべてに、またさまざまな拡散的形態をとっている市民社会のなかに、散らばっており、そのような権力の起源を、その「発話者」である単一の主体や国家の統治的代弁者に、すんなりと疑いなく遡ることはできない。現代の権力関係は、多数の可能な場所から放散されていると述べたフーコーが正しいなら、権力はもはや統治的要素だけに限定されるものではない。(p. 122)

人種差別的な場面が単一の発話者や聞き手に還元されるとき、政治的に問題となるのは、危害の軌跡である。つまり発話者から、その言葉を聞いたりその言葉が向けられた人を精神的/身体的に構築することへと、危害が移動するさいの軌跡である。性差別と同様に、入念に作られた制度的な人種差別の構造も、発話の場面に突然に矮小化され、それによって発話は、それが発せられる以前の制度や言語使用の堆積ではなくなり、その発話自体が、名指しされる集団を従属化し、その従属化を維持する権力をもつものとなる。 (p. 125)

人種上の誹謗は、つねにここではないべつの場所から引用される。人はそうした誹謗を語ることによって、人種差別の合唱に和し、そして歴史的に伝達された人種差別の共同体に想像の中で参与する言語的機会を、その瞬間に作っていく。この意味で人種差別的な発話は、それが効力をもつために主体を必要としても(たしかに必要としているのだが)、主体とともに始まっているのではない。実際、人種差別的な発話は、そもそもそれが引用されたものでなければ、人種差別的な発話として行為することはできない。なぜなら、人種差別的な発話の暴力がその前例から引き出されていることを、わたしたちがすでに知っているからこそ、なぜその種の発話がそれほどに不快なのかがわかり、また将来もその種の発話が引き続いて引き合いに出されることに対して、強硬に抵抗しようと思うからである。(p. 126)

(アニタ・)ヒルが性的な言説を述べるとき、彼女はそれによって性的な存在となり、まさにそのように性的存在となることによって、もともと性的存在に無理やりさせられたときの行為が一種の中傷だと語ろうとする彼女の試みを、空洞化させる。結局彼女は、その性化作用を語ることによって、性化作用を身に帯び、助長し、生産することになる。彼女が語ることは、彼女が抵抗している性化作用を、積極的に流用することになる。ポルノにおいては、性化作用に対する抵抗が、必ず性化行為そのものとなる。ポルノ的なものであるかどうかは、まさにこのように性を流用する力があるか否かなのである。(p. 130)

ポルノはたいていの場合、さまざまな種類の転位をつうじて機能するが、そのような転位は、ポルノの領域を超える生命や力をもっている。だから考えなければならないことは、いままで述べてきたようなマッキノンの見方によると(わたしの説明は間違っていないと思うが)、ポルノの問題とは、発話行為で意図されていた意味を、ポルノが別の文脈に置いてしまうということである。つまり発話行為は「ノー」と言っているのに――あるいは「ノー」と言っていると思われるのに――その再文脈化によって「ノー」が「イエス」と受け取られ、読まれてしまう固有の逆転が生じることである。こうしてセクシュアリティへの抵抗が、セクシュアリティを肯定し再流通させる個々の現場となって、ふたたび立ち現れる。(p. 130)

(……) 普遍の基準は歴史的に分節化されるものとみなし、そのように歴史的に分節化された既存の普遍がいかに偏狭で排他的なのかを明るみにだすことこそ、普遍そのものの概念を拡張し、それに実態を与える試みの一つだと考えることが重要だろう。人種差別的な発話が、公民権賦与の普遍的範囲を取りしきっている現在の基準と、抗争を起こしていることは確かである。だがこうした発話とは異なり、有益な抗争を作りだすようなべつの種類の発話もあって、それらは、普遍そのものを継続的に練り上げるためにはきわめて重要であり、それらをあらかじめ排除する(フォアクローズ)のは間違いである。(p. 139)

問題は、意図が発話のなかでつねに適切に実現されるとか、発話が行為のなかで実現されると考えることは、理論的に言って意味をもたないだけでなく。意図と発話や、発話と行為がときに不連続な関係にあることを見抜くことこそ、政治の言語領域に対するオルタナティヴな観点を提示するということである。(……)そのような不連続を前提にしなければ、普遍概念を改定することなどできないのではないか。(p. 144)

次のようなフーコーの議論は馴染み深いものである。セクシュアリティの抑圧が主張されればされるほど、セクシュアリティについて多くのことが語られるようになり、ますますセクシュアリティは告白的な発話の題材となる。そうしてセクシュアリティは、予期しない言説を流用するようになる。精神分析の学説に従えば、抑圧的な「ノー」という言葉は、奇妙な形態の「イエス」に様変わりする(これは精神分析、とくに無意識のなかに否定はないというその主張とは矛盾しないテーゼである)。フーコーの説明は、表面的にはマッキノンの説明と皮肉にも似ているように見える。だがこの「ノー」は、マッキノンの見方では、同意を拒否して発せられるものだが、フーコーの場合は、われわれが推測するところ、そうでなければ「イエス」と言う性的主体に対して抑圧的な法が巧妙にはたらきかけているものである。ポルノにとってと同様に、フーコーにとっても、性的含意を否定しているはずの言葉が、新たな性化作用の現場や手段に――そのつもりもないのに、しかしかならず――なってしまう。セクシュアリティの抑圧であったはずのものが、じつは抑圧の性化作用となっているのである。(p. 146)

第三章 伝染する言葉 ――米軍の「同性愛」パラノイア

同性愛の発話を裁定しようとする米軍の最近の企てには、一連の修正がなされており、本書の執筆時においては、それが法廷で争われている。国防総省が最初に提出した規制案では、軍の人間は「同性愛者」という語を、自己の帰属表現や自己定義の一部として使うことが許されていない。その語自体は追放されていないが、自己定義に置いてのみ、使用が禁じられた。(p. 163)

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米軍、同性愛者入隊OK オバマ大統領 公約達成(朝日新聞、2011年7月24日付け)

 オバマ大統領は22日、米軍が9月20日から同性愛者を全面的に受け入れるとする声明を発表した。同性愛者は公然と軍務に就くことを禁じられてきたが、オバマ大統領はこうした規定を撤廃することを公約していた。
米軍は同性愛者の軍務を禁じているが、「差別的」との批判を受けて、1993年からは同性愛者であることを周囲に知られないことを条件に軍務を容認する「聞かない、言わない」という措置を取ってきた。
昨年12月、こうした措置の撤廃が米議会で決まり、国防総省が同性愛者受け入れの準備を進めていた。規定の撤廃に署名した大統領は声明で「米兵は自身が何者であるかを隠すことを強要されなくなる」とした。(ワシントン=望月洋嗣)
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軍はその職員に対して、一般市民に賦与されているある種の権利を保留しているが、まさにこの保留によって、一体何が市民権の範囲のなかには容易に根付かず、そこからたやすく放り出されるのかを検討することができる。この意味で軍の同性愛者たちのいる領域は、同じように市民権を剥奪されうる別の領域と重なり合っていると思われる。その領域とは、近年の移民法が指定している領域や、移民に対して市民権が保留されている領域であり、つまりは、さまざまな移民の位置(合法、非合法というだけでなく、合法性の程度でもある)にそって多様に市民権が保留されている領域である。この類比は、国家そのものが長引く「非常事態」――市民権の主張が大なり小なり永続的に保留されている事態――にあるという、ジョルジオ・アガンベンの最近のテーゼに関連して考察できるだろう。(p. 165)

同性愛のふるまいに対する近年の軍の規制では、同性愛者の自己定義はあきらかに伝染性をもち、人を不快にさせるふるまいであると解釈されている。「わたしは同性愛者です」という言葉は、単になにかを描写しているのではない。それはそれが描写している事柄をおこなっている(パフォーム)と考えられている。その場合それは、それを語る人を同性愛者として構築するだけでなく、その発話を、同性愛のふるまいとして構築するという意味である。(p. 167)

(……)もしも軍隊こそがパラノイア的解釈をほどこして、同性愛の発話を伝染的で人を不快にする行動だと――発話が示唆しているものを行為したり、構築するものだと――みなしていると言えるなら、この種の帰属表現がもつ行為遂行性と、それよりも広く同性愛の公認を求める運動がもつ明らかな行為遂行性――クイア政治の明白な目的――とを、どのように区別することができるのか。後者の運動では、カミングアウトやアクティングアウトは、同性愛者であることの文化的・政治的な意味の一部をなしている。つまり自分の欲望を語ったり、それを公的に表明することは、欲望自体にとって不可欠のものであり、そのような発話や表明なしに欲望を保持しておくことはできず、同性愛の言説実践は、同性愛それ自体と分離不可能なものとなっている。(p. 168)

行為遂行性と指示性のあいだのこの共約不可能性から引き出しうる政治的利点は、同性愛を権威によって作りあげることに制限を設け、そして「同性愛」や「ゲイ」や「クィア」といったシニフィアンや、その多数の関連語を、将来へ向けて言語的に開いていけることである。もしも同性愛という言葉になんの指示対象もないなら、効果的なゲイやレズビアンの政治は存在しなくなるのではないかという懸念がよく出されるが、その懸念を制して、そして懸念に反論して、私は次のように言いたい。すなわち、その言葉の最終的な指示対象が不在だということは、その言葉を、軍がそうだと思っているような行為遂行性から切り離しておくことができるということである。その言葉は、それが把捉しえない指示対象に向かうものである。さらに言えば、指示対象を把捉しえないということは、ラディカルな民主主義の抗争を言語的におこないうることが可能だということであり、その言葉を未来の再分節化に向けて開いておくことができるということである。(p. 169)

自己定義の表明を人を不快にさせる行動と見なす軍の解釈の前提には、その語を語ることは、公的言説におけるタブー侵犯であり、タブーの堰を切りひらき、欲望の表出を制御不可能にさせることだという見方がある。従ってタブー視されている欲望が自分のまえで語られたとき、その人は、その語が運んでくる欲望にすぐさま罹ってしまう。つまり、そのような人のまえでその語を語ることは、その人を語りえない欲望に巻き込んでしまうことになる。その語――その欲望――は、病気がうつると言われているのとまったく同じように、うつっていくのである。現在の軍の言説では、同性愛をタブー視する見方は、同性愛をエイズの伝染に結びつける恐怖によってますます強くなっているが、またこの恐怖があるために、同性愛者の自己宣言を伝染性の行為とみなす考え方が、ますます強くなっている。(p. 178)

フロイトによれば、良心の循環の特徴をなすみずからに課す命令が、遂行され、作動されるのは、まさにその命令が、それが禁じようとしているものの充足の現場となるがゆえである。言い換えれば、禁止は、禁じられる「欲動」や欲望を充足させる置換された現場となり、糾弾する法の名のもとに、本能が追体験される契機となる。(……)そしてこのずらされた欲望の充足が、法の適用によって経験されるがゆえに、禁止された欲望が出現するときはかならず、法の適用が再活性化され、強化される。禁止は、禁止される欲望を忘却することを求めない。逆に禁止は、禁止された欲望を再生産し、それがおこなう断念によって、まさに強化されるようになる。禁止された欲望は、その後も禁止そのものをとおして生き続ける。(p.183)

(……)軍隊にいる者が自分の罪を一掃し、自分の位置を確立しなおすときになされる断念は、禁止が同性愛の欲望を否定し、かつ容認する行為と同じなのである。厳密には、同性愛か語りえないのではなく、もっと一般化して言えば、その禁止を語るなかで保持されているのである。みずからを同性愛者と主張しつつ、その欲望にしたがって行為することはないと主張する場合、同性愛はその禁止をみずからに対しておこないながら、またそれをおこなうがゆえに、生き残る。興味深いことに、これはポール・リクールがかつて、地獄のような心の悪循環――欲望と禁止の悪循環――と述べたものである。そしておそらく軍の「規制」が、この禁止のもつ継続的な神学的力を強めるための文化的現場となっている。(p. 184)

事実考えなければならないことは、単に規制し封じ込めるべき問題として、軍が同性愛者に真っ向から立ち向かっているのではないということだ。軍は、同性愛者には自己帰属を表明する権力がないと主張しつつも、国家や国家がもつ呼びかけの権力を介して、同性愛者に、同性愛者という名称を与え、生命を吹き込み、それによって、この種の同性愛者という形象を積極的に生産している。軍隊という次元で国家が主張しているのは、同性愛を法が管理することである。 (p. 190)

ここでわたしが主張したいのは、同性愛の言説生産――同性愛について語り、書き、制度的に承認すること――は、それが語っている欲望とまったく同じものではないということだ。同性愛の言説装置は、同性愛という社会的現実を構築しているとはいえ、完全に構築しているわけではない。「カミングアウト」の宣言は、確かにある種の行為だが、それが言及している指示対象を、完全に構築してはいない。実際それは同性愛を言説化しているが言説に指示的意味を与えてはいない。(p. 194)

欲望をこのように指示可能なものの限界に置こうとするときに重要なのは、行為遂行性と指示性のギャップを閉じないこと、また同性愛の自己宣言によって、同性愛がその宣言と同一になるとは考えないことである。フーコーなら、そのような行為をとおして言説が性化されると主張するだろうが、この例においては、同性愛を脱-性化しているものが、まさに言説である。私の理解では、同性愛の言説生産をこのように説明することは、名称と名称が示すものを取り違えるという間違いをおかすことであって、指示対象を最終的に名づけることができないとしても、指示対象は、名付けうるものからはつねに離しておかなければならない。たとえ、いかなる名称もわたしたちの存在やわたしたちが行為するものの意味を、最終的に表現し尽くすことができないことを保証するためだけであるとしても。(p. 195)

第四章 見えない検閲と身体の生産 ――言説的行為体の未来-

精神分析によれば、この種の主体の開始は幼児期におこなわれるらしいが、このような発話との一次的関係――すなわち起源の「切断線」によってなされる主体の言語参入――がふたたび呼び起こされるのは、発話可能かどうかの問題が、もう一度主体の存続の条件になるような政治的生においてである。主体が存続するための「代価」は、完全には自我に同化しえない無意識が作りだされたり、言語のなかにけっして現前化できない「現実的なもの」が作りだされるということだけではない。主体が存続するための条件は、もっとも根本のところで主体を脅かしているものを予め排除していることである。したがって「切断線」は、この脅威を生産すると同時に、この脅威から身を守っている。 (p. 211)

だがラカン派の「切断線」がもつこの二面性は、かつて主体を起動させた構造というだけでなく、主体が生きるうえでの継続的な力学と考えるべきである。主体の理解可能性を制限する規則は、主体が生きている間中、主体を構造化しつづける。しかもこの構造化は、けっして完全なものではない。言語行為をつうじてみずからの位置を示すことによって、主体は生存可能となるが、この生存可能性をしかるべく保持できるのは、そのとき主体によって作られると同時に、主体がそれから身を守ろうともしている脅威――主体の解体という脅威――によってである。(p. 211)

生存と発話可能性の連関が示されているのは、同性愛者が軍隊に入るときに自己否定や改悛がおこなわれるときの発話においてである。その発話とは、わたしはあなたが怪しんでいるような者ではないと述べることだが、そのような者でないという位置が、まさに新しいわたしの位置であり、従ってそれは、わたしの否定、わたしの新しい自己定義によって確定される。あるいは、たとえばそれはサイディア・ハートマンが明らかにしたこと、つまり奴隷から市民へと解放されるためには、自分の労働力を売り渡さなければならないという状況――自分の価値を商品形態に変え、それによって新しい形態の主体化/隷属化を得るという状況――かもしれない。(p. 212)

ブルデューは社会制度を静的なものとみなしたので、社会変容の可能性を取りしきる反復の論理を把握できなかった。社会制度を間違って、曲げて引き合いに出すことも反復と見なせば、いかに社会制度の形態が変化や変更を経験しうるかを知ることができるし、また先行の正統性をもたない形で引き合いに出すことが、いかに既存の正統的形態に挑戦し、新たな形態の可能性へと切り拓く効果をもつかを知ることができる。ローザ・パークスがバスの前方に坐ったとき、彼女は南部の人種分離の慣習によって保障されていた先行的権利をもっていなかった。だが事前には権威づけられてない権利を主張することによって、彼女は自分の行為にある種の権威を付与し、既存の正統的慣例を転覆させる反乱のプロセスを開始したのである。 (p. 228)

興味深いことに、ブルデューが把握できなかった行為遂行性のこの種の反復の可能性は、オースティンに対するデリダの読みのなかでは、すでに論じられている。デリダにとって行為遂行的な力を引き出すのは、まさに脱文脈化であり、先行する文脈からの断絶と新しい文脈を得る能力である。実際彼が主張しているのは、行為遂行的なものが慣習的なものであるかぎり、それが機能するには、反復されなければならないということだ。しかしこの反復の前提には、慣習表現そのものは継続的文脈のなかで機能しつづけていること、すなわち、あえて付け加えれば慣習表現がつねになんらかの文脈のなかにあるとしても、特定の文脈に牽引されたものではないということがある。文脈がもつこの「非限定性」が意味しているのは、わたしたちがおこないうる文脈にかんする叙述はすべて、さらなる分脈化に晒されること、したがって分脈は一元的形態で与えられていないということのみである。(p. 228)

実際のところわたしが主張したいのは、攪乱的な再意味づけが可能になる場所を構成しているのは、支配的で「権威が与えられている」言説を収奪する可能性であるということだ。たとえば「自由」や「民主主義」を主張できる社会的権力を奪われてきた人々が、支配的言説からそれらの言葉を流用して、政治運動を結集させるために、この高度に充当された言葉を再活用し再意味づけするとき、そこに何が起こるのか。 (p. 244)

(……)行為遂行的な言説の効果は、それを発生させる権威的文脈を超え、その文脈を混乱させる。行為遂行性は、かならずしも発話の瞬間に戻って、そこに繋ぎとめられるものではない。それは、それが行使する力のなかに、身体のムネメ(個人の記憶と集団の記憶があわさったもの)の軌跡をもたらす。ここで唯一考察しなければならないことは、中傷的名称だといわれてきた歴史が、いかに身体化されているか、つまり、いかにそういった言葉が手足のなかに入り込み、身ぶりをつくり、背骨を曲げさせているかである。ここで唯一考察しなければならないことは、いかに人種やジェンダーにまつわる誹謗が、それを投げつけられた人の肉体のなかで、肉体として生き、班もしているか、そしていかにその誹謗が時をつうじて蓄積し、その歴史を偽り隠し、自然なものという見せかけをとり、「現実」と見なされるような思い込み(ドクサ)を形成し、限定しているかということである。 (p. 245)

行為遂行性はすでに確立された主体が使用する単一の行為ではなく、主体が広い範囲から呼びかけられて社会的存在になり、さまざまな広範囲の強力な呼びかけによって社会性のなかに入っていくときの、強力で先行的な方法の一つである。この意味で社会的な行為遂行性は、主体形成にとってだけでなく、主体の継続的な政治的抗争や再形成にとって、非常に重要な部分を占めている。行為遂行性は、単に儀式的な実践ではない。それは主体を形成し、定式化しなおすさいになされる有力な儀式なのである。(p. 247)

近代の政治言説についていえば、その基本的な言葉はすべて汚染されており、そういった言葉の使用は、これまで使われてきた抑圧の文脈をふたたび引き合いに出すことであると言うことも可能だろう。たとえばポール・ギルロイが指摘しているように、普遍性といった言葉は、女や有色人の排除を前提にしてきており、階級の境界を定めたり、強力な植民地主義の利益になるように作用してきた。だが彼が付け加えている重要なことは、そのような排除に抗する闘争は結局のところ、これまでとべつの未来を形成するために近代からそれらの言葉を再流用することに尽きるということだ。「自由」といった言葉は、それがけっして意味しなかったものを意味するようになるかもしれないし、その管轄圏からこれまで排除されてきた利害や主体を包含するまでになるかもしれない。(p. 248)

おそらく今後の課題は、近代の用語が、それによっ伝統的に排除されてきた人々を包摂するようになることであり、またそれがけっして容易ではないこと――このことは、この再包摂という政策を悩まし、不安定化させるだろうが――を知ることである。これは、現在の用語から排除されてきたものを単に同化させたり、順応させることではない。そうではなくて、現在ではまだ見ぬ未来を設定しているだけの近代性のなかに、差異や未知の感覚を導き入れることであり、慣習的な境界を取り締まろうとしている人々に、不安をもたらすことである。 (p. 249)

(2011/7/23)