ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <書 抜き書きメモ15>

北田暁大
『責任と正義
――リベラリズムの居場所
勁草書房、2003年


          

なぜ今、リベラリズムなのか
  ――まえがきにかえて

自己決定権を称揚する倫理(学)理論が、近代ナショナリズムを下支えしてきた優生学の言説と節合し、数知れない「生きるに値しない生命」の主体的な消滅を促してきた(いる)こと、意志的選択と自己責任を短絡させるリベラリズムの論理が、選択を断念する適合的選好をインプラントされた主体の「弱さ」を無価値化する強者のイデオロギーとして機能してきた(いる)こと、あるいは抽象的な権利を前面化する法制度のなかで、「権利語(ライツトーク)」を操作しえない人びとの《声》が抑圧され続けてきた(いる)こと……いくらでも列挙することのできるこうした明白な罪科を承知したうえで、それでもなお。リベラリズムを価値理念として「真面目にとりあげる taking seriously」ことなど一体可能なのだろうか。 (p. ii)

ムフニヨレバ、ロールズに代表されるような現代の自由主義者は、(1)抽象化・脱文脈化された合理的主体像を前提としたうえで、(2)かかる合理的主体が合意しうる普遍的な原理を模索するという作業に専念しており、その結果、(3)政治的決定における具体的な社会的文脈(性・階級・人種・民族)の重層的なせめぎあい、「何ものにも還元不可能な敵対関係の性質」を見逃してしまっている。つまり、一見ラディカルに「個人の自由と人格の自律性」を希求しているように思われる現代リベラリズムは、その実、「政治的なるもの」(つまり(3))の対極にある、均質化・普遍化・抽象化を目指す「社会的なる」論理(つまり(1)と(2))に根深く毒されている、というわけである。 (p. vi)

(……)メタ言説=社会理論における「社会的なるもの」の肥大とは、次のような物の見方、知へのまなざしが一般化する事態を指している。すなわち、

[0-1] 世界に偏在するあらゆる出来事・事象(芸術・政治・法・経済・教育・学問・親密性……)は、特定の社会的・歴史的情況のなかでつねに文脈化されつつ、言説や相互行為を介して構築constructされている。非歴史的な説明変数を用いて物事を説明する言説の様式(=物語)は、「社会的諸関係にみられる従属の多種多様な形態」を隠匿するものとして、社会的・歴史的に相対化されなくてはならない。

フーコー流の系譜学・言説分析を援用した歴史研究や、構築主義的な科学論、反本質主義を掲げるフェミニズム/セクシュアリティ研究、批判法学以降のクリティカルな法理論……など、きわめて広範囲におよぶ[0-1]のような社会-認識論を共有していることは疑うべくもない。 (p. vii)

(……)「国家」「正義」「自由」「平等」「福祉」といった伝統的な政治(学)的カテゴリーを「社会的」文脈への配慮なしに語ること、つまり、「政治的なるもの」を「政治(学)的なる」理論用語によって語ることは、ほとんど不可能になりつつあるように見える(政治(学)的なるものの盲点化)。「国家」といえば、近代的なナショナリズムと密接な関係をもつ「国民国家」のことを、「自由」「平等」といえばナショナリスティックかつヘテロセクシュアルなマジョリティ男性にとっての「自由」「平等の」のことを、そして「福祉(社会)」「再配分(国家)」といえば、自己身体への主体的なコミットメントを制度化する牧人権力の自己表象のことを意味する。「国家」「正義」「自由」「平等」といった政治(学)的概念は、あくまで「社会的」文脈との相関において「脱構築」されるべき素材=対象なのであって、非歴史的かつ抽象的な哲学論議の対象になるようなものではありえないのだ。 (p. ix)

(……)《「社会的なるもの」の肥大/「政治的なるもの」の盲点化》と呼ばれるような事態の何が問題なのか? (……)ある種の文化左翼の文体が、制度化・期八mかされることによってもたらされかねない問題点を二つほど挙示しておきたい。
まず第一に、[0-1]のような社会-認識論(社会的文脈主義)があらゆる知の分野に浸透するにつれ、逆説的に「社会」という概念の「面倒くささ」をめぐる社会学的な反省が忘れ去られてしまうのではない、ということ。(……)「社会的文脈を考察する」と言えてしまうことの問題性――定義上無敵である知識社会学的思考の野蛮さに対する自己反省――をめぐる社会学の再帰的問いが看過されたまま、「社会的文脈主義contextualism」とでもいうべきものがあらゆる知の分野に広がっていく事態。留まることを知らない政治主義的な社会学帝国の拡大に、ある種の気味の悪さを感じ取っているのは、実はほかならぬ社会学者なのかもしれない。
そして第二に、「文化」「共有価値」「共同体」「関係性」……といった「社会(学)的」概念によっては説明することのできない八語り尽くすことのできない)価値の領域をあらためて考察していくという作業の持つ意味を、《「社会的なるもの」の肥大/「政治的なるもの」の盲点化》は見失わせかねない、ということ、である。この点にかんしても、一九九〇年代以降、社会-の-学たる社会学の内部から様々な問題提起がなされてきた。(p. xii)

 小文字の政治を抑圧しない、小文字の政治のための大文字の政治学、あるいはポスト・リベラリズム時代における可能なるリベラリズムの探求。タトエバアマルティア・センやマーサ・ヌスバウムといった人たちが精力的に展開しているようなそうした知のプロジェクトを、私はどこまでも肯定していきたいと思う。(p. xvii)


第一部 責任の社会理論
responsibility socialized

第一章 コミュニケーションのなかの責任と道徳

一 問題としての「コミュニケーション的行為の理論」ハーバーマス理論の再検討

[1]発語内行為の構造

ハーバーマス流の「言語行為」は《I tell you that F(p)》といった形で、F(p) that節に含み、話し手の人称性を、ground levelの発語内行為の高階に位置づけたものといえるだろう。そして、話し手が「正当な理由を持つ」ということは、自分の恣意に依拠するのではなく、聞き手もおそらく共有しているであろう第三者的な規範に依拠して発話していることが前提とされるということであるから、《I tell you that F(p)》のF(p) の発話主体は話してその人ではなく、抽象的な第三者である。(p. 9)

 [2]発語内行為はいかにして成立するのか

二 行為の同一性と責任 構成主義の行為理論

[1]コミュニケーションと行為

[2]共同の論理と協働の論理

……ルーマン的な「閉じられているがゆえに、開かれている」道徳の概念化は、まさしく《協働の合理性》を基調とした論理から導かれる帰結である。いわゆる、(1)近代におけるサブ・システムとしての自律化という事態も、(2)「意図せざる行為」のコミュニケーションにおける主題化という事態も、記述の《協働の合理性》においてコミュニケーションを理論化するまなざしから導出されているのだ。
一方のハーバーマス的な《共同の合理性》観は、行為をコミュニケーションにおいて構成されるものとみず、《発語内行為の接続=コミュニケーション的行為/発語媒介行為がひとつでも含まれる行為接続=戦略的行為》のアプリオリな区別を前提とするがゆえに、両者は外延的にも内包的にも重なってはならず、したがって双方の相互行為が世界的事態として現れる場所を実体的に峻別しなくてはならなくなる。そして、その実体的な場の区分こそが、ハーバーマスの用語法における「生活世界=社会統合の場/システム=システム統合の場」という区分図式にほかならない。(p. 30)

国家社会主義の破産が、経済システムに対する民主主義的の観点からの「政治的統合様式による制御」に起因するという、一九九〇年での彼(ハーバーマス)の時代診断は、まさしく民主主義的討議によってもたらされる道徳のシステムに対する自律性を謳うと同時に、道徳の領域としての生活世界がシステムへと恣意的に侵入することを戒めたものといえるだろう。以上のように対照させるなら、「閉じられているがゆえに開かれている」道徳の機能を見積もるルーマンと、「閉じられている範囲で開かれている」道徳の生活世界における実現を図るハーバーマスとで、いずれが現代という近代における「道徳」の位置を精確に評定しているのかは簡単には断言できないということが理解されるのだ。(p. 30)

第二章 構成主義的責任論とその限界

一 行為の責任・再考 構成主義的に「責任」を考える

[1]構成主義テーゼから「強い」責任理論へ

「強い」責任理論は、「それはわれわれの行為ではなく、意図せざる結果だ」と宣って、当該結果の生起を自らの行為として認めようとしない企業/資本家/男性たちの「言い逃れ」を――法と異なり――「一応」許容しない(……)。その意味で、行為(の解釈)が多文脈化する近代社会における責任のあり方に新たな視覚を提供するものといえるだろう(ただし、後の議論のために繰り返し注意を促しておくが、こうした「強い」責任理論が獲得する理論的成果は、魔女狩りの犠牲者たちの屍の上に積み上げられていることを忘れてはならない)。(p. 40)

[2]「強い」責任理論の存在証明

(……)「強い」責任理論と「弱い」責任理論とは、行為と出来事の存在論についての見解を違えていると考えることができる。行為=出来事の同一性について、「強い」理論は、特定の時空領域を占めるという外延的規準によって画定する存在論(外延的理論)に、「弱い」理論は、性質によって画定する存在論(性質理論)に、それぞれ親近性を有しているのである。(p. 45)

(……)少なくない社会学理論(や「結果的加重犯」というカテゴリーを重用する刑法学など)において、「弱い」責任理論-内包的理論が採用されている(きた)という学説史的事実に注意を促しておきたい。行為と行為の意図せざる結果との対照に理論的意味を見いだすギデンズや、行為の同一性を「行為者の投企」によって担保しようとするシュッツは言うに及ばず、第二章で取り上げたハーバーマスなどはある意味その典型といえるし、また格文法理論などに示唆を受けつつ行為の構造を類型化する宮台真司をはじめ、ウェーバー以来の社会学的行為理論の常道である類型論的な行為論を展開する(性質によって行為タイプをつぶさに分類する)論者は一括してその範疇に含めていいだろう。これらの論者たちの行為論は、基本的に第三者(あるいは行為当事者)の視点から行為の性質を特定化し、行為記述に含まれる出来事の範囲を画定しうる、つまり「行為者がなにをしたのか」は行為者もしくは行為理論を提供する理論家が判定しうるという確信のうえに成り立っている。(p. 45)

さて、我々はこのように、多くの社会学的行為論が同意するであろう「弱い」責任論-性質理論を拒絶し、「強い」責任理論-外延的理論にコミットする(……)。(p. 46)

二 ラディカルな責任のスタイル ポストモダン政治学との対話

[1]耳を傾ける責任 異議申し立て=行為記述の第1義性

世界の出来事のなかで「わたし」の行為を殊更に問題化し、その行為責任を問うてくる他者は、行為者の意図と《法》との「道徳的」でありつつも自己完結的でしかない関係に責任を限定することの限界を我々に教えてくれる。「わたし」は自分が「何をしたことになっているか」を、こうした他者の声なしに知ることはできないのだ。(p. 53)

「ポストモダン政治学」の言説群は、基本的には、「《法》の前で」の責任ある態度を指向する“善き”近代的主体の意図せざる暴力を指弾し、個別的かつ具体的な他者の声=異議申し立てに「対して」耳を傾ける倫理を唱導するものであるといっていいだろう(Benhabib[1986=1997])。もちろん、デリダが力説するように(Derrida[1994=1999:56])、こうした他者性を尊重する倫理は、けっして手放しに他者・マイノリティの立場を称揚し、《法》・《規準》の存在そのものを否定するものではありえない(《規準》がなくては我々は、いかなる行為にも踏み出すことができない)。むしろ、《法》や《規準》を遵守しようとする「善き」意志が避けがたく抱えこむ「固有の暴力」(Gilligan[1982=1986:178]) を、他者の声を傾聴することによって鋭く自覚しつつ、それでも何らかの行為遂行を決断していくという息苦しい態度こそが、「正義」としての脱構築が目指すものだ。(p. 54)

[2]聞かないことの責任 沈黙の政治学

近代リベラリズムの主体は、行為者による行為の定義権を――たとえばロックの加害原理などによって――担保する「弱い」責任理論の下で、やすんじて「強い責任主体」たりえていた。ウェーバーから丸山眞男にいたるまで繰り返し参照されてきた「結果責任を引き受ける強い自己」とは、あくまで結果の責任――「したこと」の意図せざる結果――を主体的に引き受ける自己なのであって、己で行為記述を画定する意志と特権を与えられていたといえるのである。しかしもし責任を、行為者が引き受けようが/引き受けまいが生じてしまうものとして捉えるなら、かかる「強い自己」は、勝手に自分の行為を記述し、その「意図せざる結果」への英雄的な対処のあり方に自己陶酔する、誠に身勝手-無責任な主体であるとはいえないだろうか。我々は「ポストモダニスト」同様、英雄的な決断主義に酔いしれる「モダン」な自己、およびその自己のあり方を理論的に支援する《「行為者中心主義的な行為理論」-「弱い責任理論」-「近代リベラリズム」》のトライアングルの欺瞞を、けっして野放しにしておくことはできない。(p. 60)

三 転回 強い責任理論は規範理論たりうるのか

[1]責任のインフレ問題

(……)私自身は「強い」理論がそれ自体として規範的主張たりうるとは考えていない。それは、倫理理論としては「弱すぎる」のである。
(……)「何をしたことになっているのか」の定義権を行為解釈者に委ねることによって、水銀をたれ流す企業の行為責任の剔出に成功した「強い」理論は、一方で、指を動かし料理をしただけで「世界の秩序を乱した」ことにされてしまう魔女たちの責任をも承認してしまうのであった。もちろん、こうした魔女たちの災難は、何も宗教的なコスモロジーによって因果関係の知が規定されていた時代特有のものとはいえない。「社会が階級闘争で引き裂かれれば、ユダヤ人が労働者を扇動したと言われ」、「金融危機が起これば、ユダヤ人が金融制度を陰謀でコントロールして危機を引き起こしたと言われ」(Connolly[1991=1998:189-190])続けてきた現代の「魔女」ユダヤ人のことを想起してもらえばよい。(……)魔女狩りを禁じ得ない責任理論の行き着く先は、無理やりにでも「悪い」出来事の原因を誰かの行為に見つけ出し、自らの行為の責任を安んじて免除する、壮大な無責任の体系とは言えないだろうか。(p. 63)

このような「強い」責任理論の倫理規範としての弱さについて、他者の責任や《声》の尊重を重視する「ポストモダン政治学」の論客はどのように応答するだろうか。かれらは、魔女狩りのような「言い掛かり」的な責任貴族とサヴァイヴァーの訴え(帰責)とを区別する何らかの《規準》、耳を傾けるべき行為記述とそうではない行為記述とを分別する手立てを持ち合わせているのだろうか。(p. 64)

まず第一に想定される回答は、「区別は可能か?」という、問いの構造そのものを脱臼させるもの、たとえば、「耳を傾けるべき行為記述と、そうではない行為記述とを区別する《規準》など存在しない。他なるものに種類などない。我々は絶対的・普遍的な《規準》のない状況の下で、それでも行為するために、どこかで《規準》を暫定的に採用し、他者の《声》を遮る決断をしなくてはならないのだ。我々は、この息苦しい決断の瞬間を耐えなくてはならないのである。」といったものだこれをデリダの見解であると言ってもさほど的を逸していないように思う。この実存主義的とも形容されうるような(1)「客観的な因果手続き」や「責任阻却のための客観的規準」などの《規準》による、《声》の選り分けをあくまで拒絶しつつ、(2)《規準》の相対化によって安直な相対主義的見解に陥ることを回避しようとするものであり、道徳的確信に満ちあふれた「強い自己」を想定した決断主義とは異なる、いわば怖ず怖ずとした決断主義を表明するものである。(p. 65)

怖ず怖ずとした決断は、『実存主義とは何か』のサルトルが描きだしたような状況設定(レジスタンスに参加するか。年老いた母親の元に残るか)ではたしかに感動的であり、倫理にかんして何事かを語っているかのように映る。しかい、それは我々があらかじめそうした状況を倫理的に重要であると認定しているからなのではなかろうか。すなわち、怖ず怖ずとした決断主義は、あらかじめ一般的に倫理的に重要とみなされている場面を事例として持ち出すからこそ、説得力を獲得しているように思われるのだ。だとすれば、それは倫理的な事象とそうでない事象とを区別する《規準》――《規準》は不可能であると言表しつつ――をあらかじめ密輸入していることになってしまう。そうでないのだとすれば、怖ず怖ずとした決断主義は、それ自体としては、なんら倫理的な主張を含意するものではなく、行為選択にさいして往々にして観察される主観的な心理葛藤をconstativeに記述したものにすぎなくなるだろう。そのとき、我々はそこから何らかの倫理的含意を汲みとりうるという淡い幻想を潔く払拭しなくてはならない。(p. 67)

(……)もう一つの「ポストモダン」的回答は、かなり率直に、聞くべき《声》/聞かなくてもいい《声》の区別を打ち立てるもの、すなわち、フーコーから示唆を受けた社会的権力という説明概念を加えることにより、権力の多/寡、もしくは有/無を測定し、それによって社会的マジョリティ/マイノリティという属性同定を実行するという方法である。(……)世界を解釈するうえで「正当」とされる語彙を持ち合わせていない後者(マイノリティ)の《声》の尊重を訴えかけることができる。(……)支配的なる知(因果関係についての知識)を振りかざす「魔女狩り」検察官の《声》は、「聞かれるべき」どころか、むしろマイノリティの側から異議を突きつけられるべきものなのである。
文化的他者論とでも呼ぶべきこうした議論は、「ポストモダン政治学」に与する多くの論者によって陰に陽に採用されており、罪や政治的権利の配分如何(客観的《規準》)によって権力関係を測定する「社会学的」分析や、政治的コンテクストに無関心な他者論などとは異なる第三の途を切り開く方法論として広くポピュラリティを獲得している。しかし、こうした一見説得的な議論にも、私は手放しで賛同することはできない。(p. 67)

権力者/被権力行使者区別を無効化するというフーコー的権力論は、結局、知の配分状況の認定をめぐって撤廃したはずの区別(と《規準》)を呼び戻し、論駁対照であったはずのマルクス主義的なイデオロギー論、あるいは知識社会学に「堕して」しまうのではなかろうか。(p. 68)

[2]「よりよき物象化」論は規範理論たりうるか


第二部 社会的なるものへの懐疑
skepticism on the social

第三章 Why be social? 私たちはなぜ責任をとる「べき」なのか?

一 事実/価値の二元論は失効したのか

[1]事実の価値非拘束性

[2]事実/価値の問題系と存在/当為の問題系の差分

あらゆる事実は価値に拘束されるという素朴な真実の確認から、「……すべき」という当為言明を差し控える論者に「科学主義者」とか「プチブル(!)」とかいったレッテルを貼り、かれらを批判のやり玉にあげるというやり方は、FV(事実/価値)の問題系とSS(存在/当為)の問題系とを混同した典型例にほかならない。ここにウェーバー殺しの真相がある。すなわち、事実言明の価値非拘束性(この非拘束政治体は客観的・間主観的に記述しうる。ウェーバーの価値分析を想起せよ)を承認したところで存在言明から「……すべし」という当為を導き出すことはできない、すなわち当為を語る倫理の領野は「価値分析」の彼岸にあるということ(価値自由)を憎々しいまでに明瞭に語ってしまったからこそ、マックス・ウェーバーは批判的社会学の父殺しの対象とならねばならなかったのである。彼を殺しておくことによって社会(科)学者は心おきなく「批判的」たりうるのだ。(p. 93)

 

二 存在/当為の「脱構築」を拒むもの

[1]サールの論証の〈当たり前さ〉について

[2]規範の他者/制度の他者

 

制度に内在する人は、すべき行為を「しない」ことはできるが、すべき行為をすべきという規範に従うべきかどうかを問うことはできない――制度とは「醒めることを禁じられた夢」(永井均)なのだ(……)。サール流の存在から当為導出の論証は、「夢から醒めないかぎり『である』から『べし』を導くことができる、そして制度は夢から覚めないことをも構成的ルール(……)として含む」という社会(学)的事実だったのである。それは《なぜ人を殺してはならないのか?》という少年の問いを、「事実殺してはならないから」と答えて済ます、人間的(humanistic)ではあるがどうにも非倫理的な態度を正当化することだろう。(p. 98)

三 社会(科)学は倫理を語りうるか

[1]社会(科)学とヒューム問題

(……)責任論に限らず、社会制度・社会規範一般にかかわる問いに定位する多くの社会学的言説(とりわけ「批判的」であることを標榜する良心的な社会学)は、強調点の違いこそあれ、基本的に「あらゆる事象は、人間の関係性の所産である」という関係性テーゼの事実確認をもとに、陰に陽に「関係性の所産にすぎないものを、実体化/物象化することはよくない」という疎外論スレスレの価値判断を自らの議論に挿入してしまっているように思われるのだもし前節までのわれわれの議論が正しいとすれば、そうした疎外論的な価値判断の密輸入は厳しく戒められなくてはならない。この密輸入の実例を、「歴史神学なき物象化論」「系譜学的相対化の戦略」に絞ってごく簡単に検討しておくこととしよう。(p. 105)

A 歴史神学なき物象化論

制度を構成するルール=史的唯物論の科学としての特権性を主張して反論を封じておけば――《規範の他者》に対して「ブルジョワ的」というレッテルを貼っておけば――すべてはうまくいく。だから、「マルクス主義は乗り越え不可能な哲学である」という言辞も、実はマルクス主義という議論空間=制度のおける文法的事実をいっているにすぎないのである。
こうした俗流マルクス主義の歴史神学は、いかにも一九世紀的な進化論的アヤうさを帯びてはいるのだが、ある意味一貫した形で《存在/当為》の問題をクリアするものと言える。翻って、二〇世紀的な視点からしていかがわしいものとしか映らない史的唯物論や歴史法則を捨象した「洗練された」マルクス主義、経済-社会理論としての野心を捨てて政治理論に自己限定したマルクス主義の方はどうであろうか(ここで私はルカーチ、グラムシカララクラウ&ムフにまでいたる「頽落」の系譜について考えている)。こうした歴史神学を欠いたマルクス主義は、掛け金=史的唯物論なしの投機、勝ちをあらかじめ定められたがゆえに得るところの少ない賭けのようなものではなかろうか。制度の構成的ルールをなす歴史法則の存在が、「存在と当為の(現実運動による)止揚」を担保し、未来における事実判断から現在のあり方の測定を可能にしていたのだとすれば、歴史法則なき物象化論なるものは、単なる疎外論――それは人間が本来あるべき姿を想定せざるをえないので、当為判断を不可避に持ち込む――と大差ない。(p. 107)

B 系譜学的相対化の戦略

(……)系譜学の方法は、本来あるべき社会状態を想定したり(疎外論)、自らの分析の価値中立性・客観性を前提したりする(客観主義)ことなく、自明化された真理が構成される動的プロセスを――安易な社会的要因など持ち出す(知識社会学)ことなく――そのものとして描くことにより、生活世界において自明とされている諸事象の当たり前さを相対化することを目的とする。自明とされている諸事象としては、「国民国家」「国語」「安全性」「セクシャリティ」などがとりざたされ、《近代社会における○○の誕生》といった形で議論が展開されることが多い。(p. 109)

(……)こうした系譜学は自らを貫徹するために、一つのきわめて重要な倫理的問い、すなわち《なぜ相対化するのか?》《相対化することは「よい」ことなのか?》という自己言及的な問いを封印しなくてはならないということである。もし、この問いに《そこの解体されるべき、「真理」があるから》と答えるなら、それは疎外論を密輸入した物象化論と大差なきものになってしまう。系譜学は「非歴史的に真であると思われている言明が、実は言説システムの所産であった」という事実を述べることはできるが、その事実を分析する行為自体について「いい」とも「悪い」ともいうことはできないのである。(p. 109)

 [2]社会学的思考の《現在》 他者の問いの隠蔽

社会学的な思考は、様々な形で――「故知非拘束論」「歴史神学の挿入」「相対化の戦略」――《「である」→「べし」》の導出を「解決」したのだと自らに言い聞かせてきた。しかしそれは、問題の「階希有」などではさらさらなくむしろ「隠蔽」「抑圧」であったこと――このことは関係性=制度の学としての社会学がいわば宿命的に引き受けざるをえない《原罪》として、まずはしっかりと自覚しておかなくてはならない。(p. 111)

おそらく、制度の学たる社会学は、「狂人」でも「悪人」でもない《制度の他者》が発する根源の問いを、自らの存在理由たる社会-制度を保護するために、右の三つの戦略(①関係論的・社会学的な規範理論、②歴史神学、③系譜学的相対化の戦略)などを携え、無意識のうちに聞き違えてきたのだ。ウェーバーの幽霊/ヒュームの亡霊に対する社会学による過剰なまでの否認行為は、まさしく精神分析的な意味での否認だったのである。(p. 114)

第四章 How to be (come) social? ささやかなリベラルたちの生

(……)(「原則姿隠し」の)徹底したギュゲスに見いだされる、(1)他者に対する透徹した無頓着さ(自己利益・対他者的欲求の欠如)、(2)長期的視点の欠如、といった性格は「結果的に道徳制度にコミットした方が、得をする」という自己利益に訴えかける契約論のレトリックを無効化してしまう(もちろん、対他者的な配慮を議論の前提とするカント的伝統にあっては、徹底したギュゲスなど疑似問題として一蹴されるのだが)。われわれの問題としている《制度の他者》とは、まさしくこうした徹底したギュゲスのような存在なのではなかろうか。「なぜ人を殺してはならないのか」という問いの意味がもし、「殺したいのに、なぜ殺してはならないのか」――欲求にもとづく規範の正当性の問い返し――というものであったならば、規範に従うことの長期的利益を持ち出し、彼/女の欲求に訴えかけて説得することもあるいは可能かもしれない。しかし、我々の《他者》は、そうした説得に応じる可能性のある不徹底なギュゲスではないのだ。(p. 124)

一 ギュゲスの指輪は存在しない?

[1]アイロニスト/理性主義者/自然主義者

アイロニストは、《制度の他者》の問いを「理性への反発」とも「自然本性への謀反」とも考えることはないだろう。アイロニストは《他者》を精神科や脳神経外科の病棟に押し込めようとはしまい。そのかわりに、彼/女は、その問いに答えがないこと、制度の《外部》を考えることの因果的無力さを強調し、答えを希求する《他者》の信念・欲求を変えるべく――転向・改宗の瞬間が訪れることを信じながら――ひたすらリベラルな態度・社会の利点を提示し続けるのである。(p. 131)

そうしたアイロニストの戦略は、《制度の他者》に対する説得となり得ているだろうか。いやむしろ、「なぜ人を殺してはならないのか」と問うた少年が、もしローティの本を読んだとしたなら、むしろ自分を説得しようとする大人が皆本気でないこと――自分の説得を所詮方便=レトリックにすぎないと思っていること――を知り、ますます猜疑心を深めるばかりなのではなかろうか。このことは、ローティの議論が基本的に、守るべきリベラルな理念をすでに携えた「大人向け」の処世訓にすぎないのではないかとの疑いを喚起する。(p. 132)

[2]アイロニカルな説得の不可能性

二 《制度の他者》から《規範の他者》へ 

[1]問いの伝達不可能性 解答され続けるが伝達されることのない問い

[2]《制度の他者》から《規範の他者》へ フリーライダーの頽落

思うに、「なぜ人を殺してはならないのか」と問う少年は、「どんな人も、殺人を犯すときにはためらってしまう。それが理性の事実なのだ(カント主義)」などと答える大人よりは、「君が殺されたら困るだろ、殺人禁止の制度ってけっこう役に立つぜ(ヒューム主義)」と答える大人の方に、ウサン臭さを感じないのではなかろうか。(p. 150)

三 《規範の他者》から《リベラル》へ 

[1]長期的視点の導入

[2]対称性の承認 《権利》の生成

(……)《リベラル》な主体とは、何らかの形で特定化される行為者の権利を自分ばかりではなく他人にも等しく認め、その権利の保護のために自らの「力」の行使の制限を受け入れるような主体、いわば自他の対称性を承認する主体である。ネーゲルの言い回しを借りるなら、普遍的(impartial)かつ非人称的(impersonal)な観点から自他の行為調整を行いうる人物ということができよう。(p. 163)

もし、《痛みにかんする知識と経験とが不即不離であり、それが分離されたような知識(たとえば「彼は今痛さを感じている」というような三人称報告)は、「本当の」痛みについての知識ではない(したがって、三人称報告しかできない他人は、私の痛みを知り得ない)》という私秘性テーゼが死んであるとするならば、我々は過去(や未来)の自分の痛みをその感覚経験なしに知る――想起・想像そのものが痛いわけではない――のだから、我々の過去(や未来)の痛みについての知も、他人の痛みについての知と同様、「本当の」知識ではないということになるだろう。ということは、私秘性テーゼにもとづき、自他の対称性を否定しようとする人は、未来・過去の自己と現在の(痛みを体験している)自己との対称性も否認しなくてはならないということになる。(……)結局のところ、痛みの経験可能性の非対称性に訴えかける議論は、われわれのいう自他の対称性に対して、何らの影響も与えることはないように思われる。(p. 168)

現在中心主義的な《規範の他者》は、他人に配慮する態度を「弱さ」の現れとして嘲笑する自信家であり、また、《自分の善(悪)=世界の善(悪)》である以上、他人が被る災厄を悪しき事態として捉えることのない超人であった。しかし、かくも奔放で根源的に自由であった《規範の他者》は、「長期的な自己利益を考慮せよ」という我々の悪魔的な囁きを受け入れた瞬間、実は、普遍的勝ち非人称的な視点から自他の行為調整を執り行いうる《リベラル》にまで身を堕していたのだ! (p. 171)

注意すべきは、以上のような行論の過程で、我々の契約論が多くの「交渉決裂者」を生み出してきたということ、そしてそうした決裂者たちを交渉のテーブルに縛りつけることは理性によっても物理的暴力によっても不可能だということである。交渉のテーブルにつくことのなかった真性の《制度の他者》、問いを控えることを選択した《制度の他者》、長期的な自己利益を求めることのない《規範の他者》――こうした交渉の過程で説得に応じなかった様々なギュゲスたちを、我々は、《リベラル》な論理空間における合理性の規準でもって裁断してはならない。(……)いかなる欲求をも持たない《制度の他者》は、欲求を持つにいたった人にとってのみ非合理な存在たりうるのであり、また、長期的視点を持たずいつも警察の厄介になる《規範の他者》も、第二の妥協を受け入れた人の視点にとってのみ、非合理な行為者となる。「合理的」という言葉は、妥協に応じ、堕落した《他者》に対して、道徳的なマジョリティが与える正のサンクションにすぎないのである。(p. 174)

我々の契約論は、合理性の意味を交渉のなかで事後的に構成しつつ、交渉のテーブルから離れた人があたかも非合理であったかのように見せかける《社会的なるもの》の本質的倒錯を、《リベラル》的態度の導出という装いのもとに逆照射したものといえるかもしれない。(p. 174)


第三部 リベラリズムとその外部
liberalism and its others

世界は、自己のみならず他者の存在を尊重し、自由とともに悪の回避をも希求する《リベラル》たちの楽園ではありえないのだ。(p. 180)

第五章 《リベラル》たちの社会と《自由主義》のあいだ

(……)それなりに人-間的なこうした《リベラル》たちが共在する世界は、はたしてローティが考えるようなリベラルな政治社会であると言うことはできるだろうか。つまり、《リベラル》たちの紡ぎ出す世界は、それ自体として自由主義的な政治社会であるといえるであろうか。もし、他者の痛みを感受する共感能力がそれ自体として正の善に対する優先を承認・実行する能力を意味しているのなら、我々はローティ-立岩的な賭けに乗って、余計な形而上学的探求を打ち切っても構わない。しかし当然のことながら、
[5-1] 普遍的な観察態度を採用し、自己を自己であるがゆえに尊重するという独断を断念する(共感的な態度をとること=《リベラル》であること)、
ということと、
[5-2] 他者と自己との行為調整を、自他が共有する公的なルールにもとづき執り行う(正義の執行=《自由主義者であること》)、
ということは、必ずしも重なり合うわけではない。(p. 183) 

一 《リベラル》たちのプロフィール 《自由主義者》との種差

[1]ルール準拠的態度

ルール準拠的な態度を採る《リベラル》は、必ずしも正を善に対して優先させるわけではないが、かれらの行為は、善さ・利益のみならず、行為の正しさを正当化する理由によっても動機づけられうる、つまり、《りべらる》とは、二重に動機づけられる存在なのだ(……)。善/悪のみならず正/不正という軸が挿入された世界。それこそが、ルール準拠的な態度を持つ《リベラル》たちの住まう世界なのである。(p. 194)

[2]理由の共同体

二 「自由主義」の条件 《リベラル》が《自由主義者》となるためには何が必要か

[1]自由原理と正当化原理

個人が自由に善を追求する権利をみとめる加害原理と、利害の衝突を調停する正当化原理。この二つの原理をすべての人が承認するような社会は、とりあえず「自由主義」的政治社会――行為者の自由を尊重する政治社会――だといっていいだろう。その社会においては、個人は各々他者に加害しないかぎりで自律的に善を追求する権利を持つのだが、他者に悪をもたらす行為をなす場合にはその他者も承認する(あるいは、理に適った形で拒絶することのできない)正当化理由を提示できなくてはならない。(p. 204)

(……)正当化の理由を提供する公的ルールが自然法という形でアプリオリに設定可能と考える論者(その代表者はホッブスやロックであろう)もいれば、「社会全体の幸福・善を最大化すべし」という功利主義の普遍的規則が公的理由を形成すると考える論者(その代表者はみるであろう。Mill[1859=1971:190-191]を参照)もいることだろう。また、社会の構成メンバー全員が共有しうる普遍的理由など存在せず、せいぜい局所的に流通する正当化理由を共有する共同体が複数存在するだけだ、と言い張る論者もいるかもしれない。しかしここでは、そうした正当化理由の内容・種差は問題ではない。自由主義的と形容されるような社会理論が最大公約数的に承認する加害原理は、その実効性(自由)を確保するために避け難く正当化原理による補完を必要とすること、正当化原理なき自由主義理論というものは存在しえないということ――さしあたり、この点を確認しておけばよい。(p. 205)

[2]正当化原理にコミットすることの奇特さ

(……) 《リベラル》が必ずしも正当化原理を承認するわけではないということになると、《リベラル》たちが住まう社会空間は、それ自体として「自由主義」的なものとはいえなくなる。先の疑念は杞憂ではなかったのだ。それでもなおかつ、《リベラル》たちの世界に自由主義的な倫理・政治を持ち込もうとするならば、C(「公的なルールにもとづく正しさゆえの善さ」)の優位化を可能にする(正当化原理を正当化する)何らかの契機=メディアが導入されなくてはならない(……)。この正当化原理を担保する何らかの契機、自由主義理論の外部から自由主義理論を支えている不可視の契機を、さしあたって《暴力》と呼んでおくこととしよう。いわゆるリベラリズムの思想は、この《暴力九という構成的外部に決定的に依存しながら、その依存の事実を隠蔽することによって、理論としての説得力を獲得している。そして実は、こうした外部の存在は、自由主義の理論家たちの多くが気づきながら、巧妙に見過ごしてきたものなのである。(p. 207)

三 「自由主義」を担保する《暴力》

――ここで問題となっているのは、公的ルールの優先性を指令するメタ・メールを、単に個々人の「好み」の対象としてしか捉えない《リベラル》たちの世界と、その普遍的・全域的な妥当性を主張する《自由主義者》とのあいだである。(……)《リベラル》と《自由主義者》のあいだの溝には、優先性ルールという一見自明な、しかし容易に根拠づけることのできない道徳原理が横たわっているのである。(p. 208)

[1]正当化原理の正当化 その1 ロールズ――原初の暴力

カントのように何らかの人間本性論から道徳原理を導出することを潔く断念するロールズの方法論は、本来、(1)結果的に肯定される特定の道徳原理(公正としての正義)を意味的に包含しない、道徳的な中立性を持つ原理選択方法を設定したうえで、(2)合理性と道理性を携えた主体が特定の原理を選択する道筋を描いていかなくてはならない。つまり、道徳的に中立な原理選択方法を設定する段階では、「公正としての正義」以外の道徳原理も選択可能でなくてはならない。しかし、サンデルによれば、ロールズによる始源状態の設定は、そもそも「公正としての正義」以外の道徳原理(たとえば共通善の尊重など)を当事者が選択できないように設えられてしまっているのだ。(p. 211)

[2]正当化原理の正当化 その2 ノージック――事実上の独占

『アナーキー・国家・ユートピア』におけるリバタリアン的な(最小)国家正当化論は、すでに古典的教養の範疇に入るものになっている(……)。「他人の生命・自由・財産を侵害してはならない」という自然法の制約範囲内で自由に善を追求する権利、およびそうした権利への侵害に対して防衛する権利を持つ、ロック的な自然状態にある人びとが、合理的な選択によって、何人の自然権をも侵害することなく、最小国家を形成するにいたる道筋(保護教会a→支配的保護教会b→超最小国家c→最小国家) を描き、また最小国家以上の拡大国家が道徳的に正当化されえないことを示す、というのがその大まかな粗筋である。(p. 217)

(……)ロールズとはだいぶ異なる形においてではあるけれども、ノージックもまた、それ自体根拠づけることのできない主体の物理的・意志的弱体化にコミットしてしまっている。私の見たところ、物理的な弱体化は、支配的保護教会から超最小国家への移行過程(b)に、そして意志的な弱体化は超最小国家から最小国家への移行過程(c)に、巧妙な形で織り込まれている。(p. 218)

A 物理的な弱体化 支配的保護教会から超最小国家への移行過程

暴力の形跡を自らの正義感から消し去ろうとしたロールズとは異なり、公的なルールを優先する規範空間=保護教会が全域的な作用権を確立する、つまり、正の善に対する優先性を支持する優先性ルールが全域性を持つためには、事実上の独占のようなある種の暴力によって担保される必要があることを、ノージックはかなり率直に認めているのだ。公的なルールは、それが倫理的に優れているから優先されるのではなく、それが公的であるから倫理的に優れているとみなされるのである(Nozick[1974=2000:172,187])。(p. 222)

B 意志的な弱体化 超最小国家から最小国家への移行過程

      *
以上、主としてロールズとノージックの議論に照準しつつ、自由主義的な社会理論が不可避に抱え込む《暴力》について考察――こうした議論のスタイルを「脱構築」と呼んでも構わない――を進めてきた。自由権の実行かを可能にする正当化原理および優先性ルールは、自由主義理論の外部に位置する構成的暴力によって担保されねばならない、つまり、相当に稀薄でしかない自由権ですら論証的(argumentative)に正当化することはできないのである。(……)リーガリズムに彩られた自由主義(ルール尊重主義)に浮かれて正義を振りかざす前に、まずはこうした「リベラリズムの臨界」を我々は十分に踏まえておく必要がある。(p. 226)

四 「自由主義」国家の不可能性?

(……)ある意味でアナーキズム的とも言える我々の議論は、自由主義的な社会理論に避け難くついてまわる根本問題を提起するものといえるだろう。すなわち――ある程度の道理性(他者の痛みへの共感能力)と合理性(長期的利益に配慮する傾向性)を備え持った主体(《リベラル》)全員が同意する、自由な政治社会において必要とされる最低限の自由権は、正当化原理・優先性ルールが全域的妥当性を持っていなければ成り立たないのだが、優先性ルールの遵守に社会のメンバー全員が動機づけられるなどということはありそうもない。自由権を実行化するために必要とされる自由主義的な政治社会は、「意志的な弱体化」を可能にする《暴力》によって担保されないかぎり、けっして規範的全域性を持ちえない、つまり国家とはなりえないのだ――と。(p. 228)

第六章 可能なるリベラリズムのために リベラリズムとその外部

そもそも政治哲学・社会哲学における理論とは、自由主義に限らず、どんなものであれ《原初の暴力》を内包せざるをえないものであろう。だから問題は、特定の政治理論が《原初の暴力》を含むかどうかと言うことではなく、その政治理論がどのようにして自らの《暴力》を認知・自覚・対処していくのかということにあるのではなかろうか。(p. 230)

一 リベラリズムのプロフィール 薄いがゆえに濃い

[1]リベラリズムのプロフィール その1 その「薄さ」をめぐって

『自由権+正当化原理』のリベラリズムは、原則として、それが普遍的視点から導き出され、当事者によって受容可能なものとして承認されうるものでありさえすれば個々の可能なる正当化理由に対して――超越的な視点から――優劣を指示したりすることはできない(というより、指示することはできない)。それは、一般に自由の侵害に対する正当化原理として認知されている功利主義的な原理、自己所有権論的な原理、あるいは能力主義的な原理とのあいだに、優劣関係・序列関係を見いだすことはないのだ。(p. 231)

近代リベラリズムの歴史とは、まさしく、それぞれが擁護する正当化理由の優先性をめぐる言説闘争であったといってよい。我々の「薄い」リベラリズムはこうした言説闘争の現場からいったん退却し、公的な行為選択にさいして、もろもろの正当化理由が――それが十分に普遍化されている場合には――平等な配慮を受けるべきこと(のみ)を強く要請する(特定の理由にもとづく選択肢が棄却された場合にはoverrideする理由の提示を、公的機関に対して求める権利を持つ)。もしシジウィックが言うように、具体的な正しい行為を導く指針となりえないかぎり倫理理論の名に値しないというのが真実ならば、たしかにここでいうリベラリズムはおおよそ倫理理論といえるようなシロモノではありえない。我々はそのことを素直に認めるからこそ、「薄い」という形容詞を冠しているのである。(p. 233)

[2]リベラリズムのプロフィール その2 その「濃さ」をめぐって

(……)積極的自由/消極的自由の区別を認めない我々のリベラリズムは――「我々の」と書いたがミルを踏襲した自由主義理論は本質的にそのようなものであると私は考えている――は、ラディカルな意味で再配分的な制度を指向することとなるだろう。我々のリベラリズムは「理に適った形で拒絶できない」理由に対する平等な配慮を強制する(理由の民主主義)。したがって、特定の実定的な公的ルールが理に適った反論にあった場合には、そのルールはいったん妥当性を却下され、いわゆる再配分を要請する理由づけをoverrideする理由を提示できないかぎり、何らかの形で改訂されなくてはならない。理に適った反論を突きつけられながら、理に適った反論を提示できない正当化原理がそれでもなお妥当性を保持する、などということはありえないのだ(……)。(p. 244)

 

二 リベラリズムは外部とどのような関係をもつのか 

(……)我々の「内容において薄く形式において濃い」リベラリズムは、あくまで、社会の構成メンバー全員が、(1)長期的利益を配慮する合理性と、(2)自他に降りかかる災厄=悪を回避する道理性を携えており(=《リベラル》である)、かつ、(3)他者と共有可能な公的理由=ルールを優先する態度を身につけている(=《自由主義者》である)、という相当に強い条件を満たしてはじめて実効性を獲得しうるものであった。裏返していえば、そうした強い条件を充足するリベラリズムは、我々の契約書にサインしていない多くの存在を「居ないこと」にすること(《原初の暴力》)のよってのみ、かろうじて成立しうるということだ。かかる《原初の暴力九という現在を踏まえたうえで、我々のリベラリズムを受容する社会の構成員たちは、非《自由主義者》たちとどのような政治的・倫理的関係をとり結ぶことができるであろうか。(p. 246)

[1]非《リベラル》たちとの関係 《自由主義者》のルールの適用可能性

(……)心神喪失者は我々と物理的な生活領域をともにしている。「別の世界に住んでいる」と思えるほどに理由体系が異なる他者を強引に自らの世界に引き込んでしまうこと、「別の世界に住んでいる」その他者を、我々=《自由主義者》が圧倒的多数を占める物理環境の下に押し込めてしまうことの罪を知っているからこそ、我々は心神喪失者に対して我々と同等の責任能力を要求することを断念するのではなかろうか。こうしたことは、「《自由主義者》=非《リベラル》」の関係性を「《自由主義者》=《自由主義者》」の関係性を持って理解するという投射的錯誤を正さないかぎり言えないだろう。投射的錯誤を正さないかぎり、我々はひとりの精神病患者が犯した悲劇的な事件のたびに、「加害者の人権ばかりが過度に尊重されている」という、あの情緒に訴えかけるがゆえにその危険性(論理的飛躍)が覆いかくされてしまう話(……)を聞かされ続けてしまうのである(もちろん被害者の二次被害については十分な検討がなされるべきではあるが、それは加害者に対する処罰の問題とリンクさせずに論じられねばならない)。(p. 251)

(……)権利を持つ/持たない(無権利)という対立軸の外部に位置する非権利的存在である事実は、かれらを無権利状態として扱うこと、通常の場合であればかれらに対する権利侵害と見なされる行為(たとえば傷害)を我々が実行する自由を持つということを正当化するものではありえない。たとえば、しばしば無権利者への加害の正当化に用いられる
[6-9] (1) 自由・権利を与えられるべき人間の構成条件は……である、
(2) xは……を持たない、
(3) ゆえにxは自由・権利を持たない、
という(ほとんどの近代国民国家が関与していたことがあきらかにされた優生政策から、現代におけるパーソン論にいたるまで自明視されている)推論が、無権利と非権利とを同一視する誤謬のうえに成り立っていることに注意しよう。
この悪魔的三段論法において問題とされるべきは、(2)と(3)のあいだにこっそりと挿入されている《(2)’ 属性……を持たない者は、その事実ゆえに自由・権利を持たない》という命題である。(2)’は、ある属性の有無(の記述)と自由・権利の有無(の記述)とのあいだに因果的あるいは論理的関係があることを主張するものであるが、それは新たな規範的含意を外挿するものにほかならない。むしろ我々は《(2)’’ 属性……を持たない者は、自由・権利を持つとも持たないともいえない》と言うべきであったはずだ。(p. 252)

我々はついつい、先の悪魔的三段論法([6-9])の妥当性を自明視したうえで、「かれら」に権利や責任が「ある」とか「ない」とか言ってしまうのだが、それは、《自由主義者》どうしの規範的関係性を、「《自由主義者》-《非リベラル》」の関係にまで持ち込んだ不適切なアナロジー=投射的錯誤にほかならない。《自由主義者》は、自らが地球上において大多数を占めているという事実の偶然性を真摯に受け止め、非《リベラル》たちとの共生がけっして容易に成し遂げられるプロジェクトではないこと、ときとして不公正とも映る特恵待遇――《自由主義者》たちのなかには、自由・権利の一方的贈与と責任の免除を不公正であるとして非難する人もいるだろう――を非《リベラル》たち=理由なき他者に対して与える必要があることを十分に認識しつつ、公的な行為選択におよばなければならないのである。(p. 254)

[2](補論) 贈与を受けるべき他者とは誰か 権利・合理性・尊厳

《贈与を受けるべき/受けざるべき存在》の差異づけは、《合理性を帰属しうる/しえない》とか《痛みを感じうる/感じない》といった差異=規準にではなく、《尊厳のある/ない》という差異=規準に照応する。ところが、《尊厳のある/ない》という差異は、まさしく根拠なく差異づけられる――つまり、他の属性に還元・翻訳することができない――という点にこそ、その本質的意味が見いだされるようなものであり、個々人による尊厳帰属の理由を普遍的・非人称的な観点から調整することは原理的に不可能なのであった。つまり、《リベラル》は、リベラルな権利を贈与する範囲の画定をリベラルな洋式に則って決定することができないのである。(p. 262)

神聖性を持つ宗教的な価値の内容をリベラルな政府が決定してはならないのと同様、政府は《贈与を受けるべき存在》の認定・承認を公的な次元で制度化してはならないし、原理的な次元では、尊厳を帰属する公的な基準をたてることができるなどと考えてはならない。人工中絶や尊厳死の問題をめぐって、そうした公的基準を立てることができると考える人は、尊厳という属性の持つ神聖性・超越性をあまりに軽視しているのではなかろうか。「とりあえず公的な宗教的教義を立てるべきだ」などと言うひとは、宗教的価値の持つ神聖性をまったく分かっていないと言われても仕方があるまい。尊厳の超越性・神聖性(「尊厳は、合理性のような他の一般的特性に還元できない」)、そして尊厳帰属に見られる徹底した一人称性(「一般的に無根拠であっても、私はその信仰を止めることはない」)といったものは、尊厳(帰属)というものを理解するさいにどのようにしても消去することのできない、いわば文法的な本質なのである。(p. 264)

[3]非自由主義的《リベラル》との関係 「テロリズム」への倫理学

(……)稲葉の議論もまたロールズの無知のヴェール論と同様、「物理的に弱いが、意志的に強い主体」の存在を見過ごすことによって説得力を獲得しているのだ。自らの私的ルールの失効に固執する「意志的に強い」独立人に対しては、支配的保護教会は、事後的な、したがってある意味《暴力》的な補償措置をもって全域性を仮構するしかないだろう。いかに独立人たちが合理的な行為者であろうとも、かれらが「意志的に強い」主体である――それは私の考えでは、独立人たることの分析的な要件である――かぎり、支配的保護教会は、ついに非暴力的な形でかれらを取り込むことはできない。「取り込めた」と思うとき、たぶん私たちは独立人の独立性か国家の全域性(非複数性)を無意識のうちに犠牲にしてしまっているのである。(p. 277)

(……)独立人の「私的なルールにもとづく正しさ」と、《自由主義者》の「公的なルールにもとづく正しさ」とが衝突しあうような社会空間における、両者のあり得べき関係である。結論を先に言っておけば次のようになる――こうした社会空間においては、《自由主義者》は意志の強い独立人に対して、《自由主義者》と同様の扱い(同様の権利を与え同様の手続きに則って責任を問う)をするであろうし、またそうすべきである、と。(p. 278)

(……)「自由主義の理念に則った手続き」とは、ある特定の公的行為は、普遍化不可能な私的理由に基づいて選択されてはならない、というものである。つまり、私的なルールに拘泥する「独立人」に対する処遇もまた、他の構成員と同様に私的な理由、たとえば考慮の対象となる行為主体の個体性に言及する「彼は独立人だから」といった理由にもとづいて決定されてはならない、ということだ。勉強をしたくないからといってその子どもから教育の権利を奪ってはならないのと同様、自由主義者は、他律的な生のあり方を拒絶する独立人から、もろもろの自由権(ノージック流の手続き的権利も含まれる)を正当な理由なく奪ってはならないのである。(p. 281)

ここで述べてきた非自由主義系《リベラル》に対する《自由主義者》のなすべき対応は、つまるところ「徹底して《自由主義者》と同様に扱う」というものである。つまり――第一に《自由主義者》は、国家への参入に同意していないからといって、公的なものの優先生ルールを認めないラディカルな「テロリスト」や「アナーキスト」に対し、自らの公的ルールを押しつけてはならないというわけではない(押しつけてよい、と積極的に言えるかどうかは分からないが)。第二にしかしその一方で、《自由主義者》は、かれらが国家という論理を承認しない「テロリスト」「アナーキスト」であるからといって、そのことを理由に差別的な取扱いをしては絶対にならない。たとえば適正な裁判を受ける権利や適法的な捜査によって逮捕される権利(?)といったものをかれらから剥奪してはならない。そうした差別的処遇を国益の名の下に正当化するとき、その「国家」はもはや唯一の公的機関であるという自負を捨て、私的な保護機関へと「堕して」しまっている。私的な保護機関へと「堕する」こと自体は、不合理でも非道徳的な選択でもないが、少なくとも《自由主義》的なもの――普遍的態度の貫徹を望む態度――ではありえない。《自由主義者》は、自らの目前の利益に反するようなことではあっても、「公的」たることへの自負、そして優先生ルールの普遍的な妥当性への信仰を捨て去ってはならないのである。 (p. 282)

《自由主義者》は公的ルールが「道徳的真理に近いから」それを擁護するのではなく、「公的であることを愛するがゆえに」それを尊重するのである。私的ではありたくないという根底的な欲求が、頑固な独立人や反《自由主義者》に対する寛容な態度、そして再配分的な政策を支持する「理由の民主主義」の受容へと導くのだ。《自由主義》を駆動させるこの根底的な欲求の存在を忘却し、またその忘却の事実すらも忘却したとき、《自由主義者》は《理性の帝国主義者》へと転態するだろう。たとえば湾岸戦争にさいして「必要な場合には軍事的な手段によってでも国連決議を遵守させることができるように国連の権威を高めるのが理想ではないだろうか」(Habermas[1991=1992:16])と宣った討議倫理学者のように。(p. 283)

外部が不在であるかのようにみなす《自由主義者》の帝国主義(外部に対する帝国主義)なしに、本章第一節で論じたラディカルな再配分制度への指向(内部におけるラディカルな福祉主義)を実現することはできない。拭いきれない《根源の暴力》の痕跡は、いつまでも霧消することなく、《自由主義者》たちの王国に影を落とし続けるだろう――「なぜ人を殺してはならないのか」という朴訥とした根源の問いを受け止めることからスタートした我々の(疑似)契約論は、かくして《自由主義》につきまとう本質的な不気味さを確認したところでひとまず終結する。(p. 284)
 

第四部 「社会的なるもの」の回帰 the return of the social

第七章 正義の居場所 社会の自由主義

何より、二〇〇一年九月十一日以降の情況が、正義を「社会制度の第一の徳」などとは考えない人びとが存在していること、リベラルとは程遠い挙動によってそれに応じようとする自称リベラル国家が実在していることを実証してしまっている(……)。「正義は社会制度の第一の徳である」――この美しい信念は、理論的にも経験的にもほとんど窒息してしまっているように思われる。(p. 293)

間違いなく、正義は「社会制度の第一の徳」などではないのだが、政治学的な言説空間における「社会」という概念を、別様に読み替えることによって、「現代の社会において機能的に要請される行為原理」――現代社会の分化状況に適合的な「責任のインフレ」の収束策――ぐらいの意味づけを与えることはできる、というのが私の考えだ。つまり、リベラリズムはその規範的・道徳的優位性によってではなく、現代社会における機能的な位置価によって、その「徳性」を担保されるのである。(p. 278) 

一 システム論によるリベラリズムの再定位 コミュニケーションとしての正義

[1]二つの「社会」概念

ここでルーマンが述べていることは、社会学的な思考に馴染んだ者であれば、システム理論への賛否如何と関わりなく、おおよそ同意しうるものと思われる。すなわち――国家とは、より包括性を持つ社会のなかに存在する一つの人為的制度、社会の歴史的変動と相俟ってそのあり方を変える社会的精度の一つにすぎず、それを、超歴史的・非時間的なロジックによって補足することはできない。つまり、公共的な政策決定機関でも、ルールの執行(association)でも、あるいは財の再配分を管理する機構でもよいが、ともかくも国家というものにかんする「唯一の定義」など存在しえないのであって、むしろ、我々は、各々の定義が人々によって承認・信憑される個別的な文化的・歴史的背景をこそ問題としなければならない。超歴史的な定義を提示することはそれ自体、特定の歴史的時点において国家という制度を実定化する行為・言説(社会学的分析の一次資料)にほかならないのだ、と。(p. 295)

A コミュニケーションとしての正義

(……)ルーマンは社会(システム)なるものを、何らかの形で外部観察者によって単位化されうるような「個人」「行為」「相互行為」の集積体とは考えてはいない。ある行為の記述の中にいるいかなる出来事への言及が含まれるのか――ある行為を、「指を動かす」「明かりをつける」「警告を与える」「空き巣狙いを殺す」のいずれかの記述によって特定化するのか――を決定するのは、あくまで行為を記述(し、その記述に応答)する当事者たちなのであって、外部観察者がそれを一意的に画定することはできない。当事者たちが世界のなかの出来事を行為として抽出・単位化し意味づけていく観察、その観察の提示、およびその提示に対する応答(理解) ……というプロセスの継続(の事実の総体)そのものが、コミュニケーション=(社会)システムなのである。(p. 297)

B 正義の機能的位置価

政治(哲)学的ディスクールの枠内においては、正義が実現する《場》の唯一性(国家の全域性)が確保されないかぎり、リベラルな正義の理念は失効せざるをえないのであった。しかしシステム論的な観点からすれば、「公的なルールの私的なルールに対する優先性を前提とし、正当化理由なく他者の自由を侵害することを禁止する」正義のコミュニケーションそのものは、当然のことながら、法治国家――政治システム途方システムの相互寄食的関係の現れ(Luhmann[1993]、馬場[2001:122])――の全域性が保証されなくとも十分に存立しうる。 (p. 299)

[2]《正義》とはどのようなコミュニケーションなのか

A 《システム》による責任処理様式

B 《道徳》による責任処理様式

ルーマンによれば、道徳とは、カントの定言命法に見られるような当為規則そのもの、あるいはかかる規則と特定の行為の関係を主題とする者ではなく、行為者を、全人格的存在として「尊敬する/軽蔑する」というコードのいずれかの項へと振り分けるプロセスであるという。つまり、特定の出来事に与えられる「よい/悪い」といった述語(プログラム)を用いつつ、「人格として尊敬する/しない」を確定していく、また逆に、「尊敬/軽蔑」の観察から「良い/悪い」を条件づけする「規則」を問い返していくプロセス自体が道徳コミュニケーション(以下、《道徳》と記す)なのである。 (p. 304)

(……)尊敬をめぐる道徳コミュニケーションにおいては、「行為」が――システムのように――コンテクストを通して責任を問われるのではなく、定義上「状況超越的」な人格性が「行為」を通して(行為を一つの資料として)判断されるわけで、その意味で《道徳》とはきわめて特異な帰責化のコミュニケーションといえるのである。 (p. 305)

まず《道徳》は、法・経済・教育・科学……といった形で行為状況(システム)が自律化していく(機能的分化を遂げた)近代社会においては、その機能を縮小して行かざるをえない。つまり、「超状況的」な人格性を問うという姿勢は、状況に関与する情報領域が自律-分化する社会においては、副次的なものとなっていくのである。我々はしばしば裁判官の「悪意」を読み取り、法的決定=判決に異議をさしはさむことがあるが、ある程度成熟した実定法の段階では、そうした試みが直接、法システム内部で処理される「法的決定の妥当性」や「法の妥当性」を揺るがすことは、ない。 (p. 305)

しかし一方で《道徳》は、状況を超越するというその性格ゆえに、状況内で処理される諸々の行為の帰責化に対して、独特の批判的位置を獲得することともなる。法/政治システムにおける正当な手続きに従った決定や、経済システムにおける不当でない支払い行為、科学システムにおける合理的になされた真/偽の判定――こうした各々のシステム内では適切な行為であり、殊更に出来事化され帰責性が問われることのない行為すらもが、「統制されざる道徳の繁茂uncontrolled moral flowering」(Luhmann[1994:35])のなかでは問題化されうるのである。かつて新しい社会運動と呼ばれた様々な社会的な訴えかけ=責任追及の言説空間は、そうした「自明性の問題化」を指向した言説の運動として捉えることができるだろう。(p. 306)

C 《正義》による責任処理様式

ある行為がある時点tにおいて実効性をもつ公的ルールに適っている、あるいは何らかの公的ルールによって正当化されうる場合であっても(……)、《正義》の行為空間からその行為の責任を問おうとする他者=観察者の「異議申し立て」「行為記述の変更要請」を排除することはできない(この点が、我々の議論とウォルツァーの正義論との決定的な相違である。Waltzer[1983=1999]を参照)。もしその他者の異議(他なる行為記述)が十分に普遍的な理由にもとづいたものであり、実定的な理由の普遍性を疑わしめるようなものであったとすれば、《正義》コミュニケーションの当事者は、何らかの形で実定的な公的理由の変更・訂正にとりくまなくてはならないのである。その変更・訂正の義務は、制度運営の効率性やコミュニケーション参与者の福祉の上昇といった理由によって免除されることはないだろう。(p. 311)

こうした理由の民主主義によって、《正義》は《システム》的責任処理に対し、ある種の批判的効果を持つこととなる。すなわち、
[7-6] 《正義》コミュニケーションにあっては、個々の機能システムに内備される公的ルールによって《行為(システムの内部)/行為の結果(システムの外部)》を区別する《システム》的な責任処理形式は、その妥当性をいったん留保される(《システム》において「隠蔽」されていた《行為/その結果》の本質的な区別不可能性を、普遍性要求という限定つきで「暴露」する)、
のである。経済合理的で合法的な企業の行為がもたらす「環境の悪化」は、経済システムや法システムにおいては付随的な「行為の結果」として記述され、いわば責任が外部化される――「行為の責任」ではなく「行為の結果に対する責任」が主題化される――わけだが、《正義》においては、そうした《行為/行為の結果》という区別=帰責の規準そのものが問題化されうる。(p. 313)

(……)《正義》による責任処理の様式は、乾ききった《システム》的な責任処理とウェットな《道徳》的責任処理とのあいだ(in-between)に位置するものと言うこともできるかもしれない。「等しきは等しく」といった正義の定式は、ほどほどの湿り気=「適度な複雑性」を世界にもたらす「システムの技術」(Luhmann[1965=1989:297])なのである。(p. 314) 

 

二 正義の居場所 

[1]《正義》の居場所 その1 適度な複雑性としての《正義》

まず「第一の考え方」は、あらゆる機能的に特化されたシステム的帰責様式に「適度な複雑性adäquate Komplexität」を持ち込むという《正義》の機能――前節で述べたところの《正義》の批判的機能――に着目し、《道徳》と同様、機能システム内における行為連接に外部性・多様性を持ち込む流動的メディア(das fkuide Medium)として正義を捉える、というものである。機能システムがテーマ毎に分化することは、過剰な責任のインフレ、行為接続の困難の上昇を適度に抑えるのに役立つが、その結果として、「不偏的であること」に対する我々の様々な直感を抑圧することにもなりかねない。《正義》は、そうした多様かつ他様な不偏性のあり方を開示し、システム内の――位相学的な全域性を持つ――公的ルールを問い返す作業を可能にするだろう。人々の善き生の構想が多元化し、不偏的な理由(不平等を正当化する理由)も一元的に捉えられなくなっている現代社会において、機能システムによる帰責を高次の不偏性の次元(=メタレベル)から反省するコミュニケーション=《正義》を整え、多元的な不偏性の現前に対処することは危急の課題である、というわけだ。(p. 315)

もちろん我々には、ハーバーマスのように、不偏性を指向するコミュニケーションを普遍的な語用論的能力によって基礎づけるなどという野心はないわけだが、とりあえず、非システム的領域の設定によってシステムへの抗いの可能性を模索するという点においては、ハーバーマスと同工の企図に動機づけられていたとはいえるだろう。高度にシステム分化が進展した近代社会においても、なお機能システムに包摂されない社会空間――「汲めども尽くせぬ合意形成の源eine unerschopfliche Ressource der Konsensbildung」――が存在しているはずだ、という信憑が「適度な複雑性」としての《正義》論、およびハーバーマスの社会診断に共有されているのである。(p. 318)

[2]《正義》の居場所 その2 足場なき寄食体としての《正義》

まず「第二の考え方」は、機能システムに構成的ノイズを送り込む「非システム的な生活世界」なる領域を無前提に想定することを禁じる。つまり、システムの硬直性に対する批判の賭金となるべき非システム的なコミュニケーション空間(《正義》、生活世界)を捜査的に設定することは禁じ手とされるのである。(p. 320)

ルーマンにあって「コミュニケーションの総体」という非常に簡素な定義を与えられる全体社会は、ごく常識的に考えるなら、《機能システム+非機能システム的なコミュニケーション》という単純な加法によって捕捉されるもの、つまり、機能システムに比して複雑性の高い非システム的な(「環境」に配せられる)領域と機能システムとを統合した幾何学的空間のごときものとして捉えられるように思われる(……)。こうした常識的な全体社会観、〈システム/環境〉の区別を通して捉えられた全体社会観こそが、非システム領域の存在を前提とする「適切な複雑性」としての《正義》論(第一の考え方)が採用する全体社会観にほかならない。(p. 321)

我々は、各々の機能システムが観察する個々の「環境」「全体社会」の同一性を確証する超越的審級が不可能であることを認めたうえで、各機能システムが提示する異なる全体社会像がせめぎあう表象の磁場のようなもの、その同一性を積極的には規定しえない対象として、全体社会を捉え返す必要があるのではなかろうか――これこそが、「全体社会の統一性は、諸機能システムの差異以外の何ものでもない」(Luhmann[1986=1992:178]、訳文は馬場[2001:155])と述べる「転回」以降の(いやそれ以前から堅持されている)ルーマンの見解であり、また、我々が言うところの「第二の考え方」が前提とする「システム-全体社会」関係である。(p. 321)

かくして「第二の考え方」において《正義》は、システム的帰責に異化作用を及ぼす「批判」の橋頭堡という位置づけを相対化され、法システムとのあいだに仮象されていた幸福な蜜月関係も禁じられてしまう。ではもはや我々は《正義》にいかなる居場所を与えることもできないのだろうか?――ここで、二つばかり、ありうべきオプションを考えておくこととしたい。(p. 323)

《道徳》コミュニケーションの内的契機としての《正義》

ルーマンの言う道徳コミュニケーションとは、いわば徳倫理的な善さ(悪さ)の判断、人格性に対して向けられる尊敬/軽蔑の差異化過程に照準したコミュニケーション形態なのであって、個々の人格性や意志の善さ/悪さとは無関連な「理由の不偏性」に焦点を当てる《正義》とはいわば水と油の関係にあるもののはずである。(p. 323)

《正義》は法システムと特別な内的関係を持たないのと同じように、《道徳》とも特別な内的関係を持っているわけではない。《道徳》は《道徳》なりの観点から「内部化された外部」としての《正義》を観察・利用する――人格の善さ/悪さの判定に際して、その人の振舞いの公正さを規準とする場合――のであって、《道徳》のなかの一プログラムとして正義論・構成原理があるのではない。(p. 326)

B 全生活領域に妥当する原理としての《正義》

(……)公式ルールはしばしば「等しきものを等しく扱いえているか」というメタ次元での不偏性チェックを受けることもあるだろう(芸術における白人中心主義的な評価基準への問い返し、「精密コード」習得者に有利な選抜制度の見直し、など)。その意味で、《正義》はあらゆるコミュニケーション領域に――潜在的な出現可能性を持つという意味において――遍在する「全社会的原理」とみなすことができるのである。しかし当然のことながら、個々の機能システムはそうした公的ルールの不偏性をつねに再帰的にチェックしているわけにはいかないし(行為接続の蓋然性が極度に低減してしまう)、そもそも「全社会的に不偏である」という特性は、各機能システムの公的ルールにとって他の価値に比して特別に重視されるべきものではないだろう(たとえば「安定的である」「効率的である」「時間節約になる」と言った特性が重視される場合もある)。(p. 326)

《正義》はあくまでどこかのシステムの内部において「外部」――内部化された外部として――として現出するのであって、かの加法を構成するロマン派的外部としてはどこにも位置しえないのだ。それは、法システムと特権的な関係を結ぶ非システム的「生活世界」という居場所を放棄するかわりに、もはや法システムにも道徳システムにも限定されない無限の遊動性を獲得する。《正義》とは、《道徳》とはまた異なった意味において、「どこにもないことによって、どこにでもある」ことができるような存在なのである。(p. 327)

       *
コミュニケーション総体としての社会そのものは、《正義》と機能的に等価な他の帰責方法論(システム的帰責・《道徳》的帰責)を必要とするし、また殊更に《正義》を優先・尊重する本質を持ち合わせているわけでもない。ただ、「高度に機能分化した社会だからこそ」あるいは、「高度に機能分化した社会であるにもかかわらず」、我々は事実として、《正義》を価値あるものとして信憑する習慣を手放すことはないだろう。その習慣の存続を願う私的な選好、不遜な欲望を、我々は通常リベラリズムと呼んでいるのである。(p. 330)

第四章

(27) 「他者の痛みを痛むことはできない」「『私は痛い』のような言明には、もしそれが誠実に発話されているのなら、訂正可能性がない」と言った、痛みの一人称性をめぐる議論の多くは、慣習的語法の自明性――「私が、痛みを痛むことのできない者が他者である」「訂正可能性がない言明が、一人称の感覚報告言明である」――に寄りかかった循環論法なのではないか、という疑いを私は持っている(……)。(p. 355)

第五章

(29) さらにはロールズ-ローティ流の「アメリカの伝統としてのリベラリズム」論の向こうをはって、「伝統としての共和主義」発掘に勤しむサンデルの姿には、ある種の痛ましさすら感じてしまう(Sandel[1996])。「アメリカの共同体的な伝統ってリベラリズムじゃん」とあっけらかんとロールズ-ローティに言われてしまい、狼狽するコミュニタリアンの《帰結》がそこにはある。(p. 364)

第六章

(54) ちなみに、自由主義の哲学的基礎づけの断念を謳い、自由主義を西洋近代――分けても合衆国――という社会的文脈のなかに埋め込んだローティが、《9・11》をめぐってどうにも不抜けた感想文しか書きえていないことを、我々は見逃してはならない(中山編[2002])。驚くべきことに、ローティにとって《9・11》とは、アメリカ内の「民主主義」的価値の危機を意味しているにすぎないのだ! 脱-哲学化した政治理論は、下手をすれば、《リベラル》ならざる人びととの関係を「真剣に考える」ことから逃避する言い分=理由を与えるプロパガンダとなってしまうのではなかろうか。(p. 379)

第七章

(22) こうした科学システムのあり方を「中立性の神話」と呼び難詰する人は往々にして、当然参照すべき真理理論を扱った文献に当たることもなく(きわめてマニアックな世界だから別に当たる必要はないのだが)、神秘性と至高性と絶対性とが交ざりあった奇妙奇天烈な《真理》イメージを持っていることが少なくない。それはそれで別様の「科学という神話」を構成することになってしまうのではなかろうか。社会学的な科学批判が、科学にかんする新たな神話を作り出してしまうという逆説。この点ルーマンは十分自覚的である(Luhmann[1990a])。(p. 384)

現実(主義)から遠く離れて
――あとがきにかえて

ホッブスの言う死を賭してリヴァイアサンに抵抗する個人、あるいは、たとえどれだけ物理的に弱体化されたとしても、意志的な弱体化を断固として拒み続ける独立人――おおよそ現実政治と接点を持たないはずの契約論の登場人物たちが、「事実上の独占」を謳歌する支配的保護教会=アメリカに、現実の世界をフィールドにして抵抗してみせる……。もちろん、悲劇の社会学的・国際政治学的背景を詳細に分節化していくことは可能だろう。しかい、そんなことよりも、ノージックの与太話が、愚直なまでに現実化されたという喜劇性こそが、私にとっては気になって仕方がなかった。あの事件によって失効を宣告されたのは、「現実に関連が薄い」と非難され続けてきた契約論的リベラリズムではなく、実は、契約論的思考を非現実的として嘲笑してきた現実主義の方だったのではなかろうか。(p. 390)

たとえば、保守的な論者が特異とする軍備増強を唱える現実主義(リアリズム)や、負荷なき自己概念を槍玉にあげ多元的な価値の闘争を主題化する左派陣営の社会-主義的な現実主義(アクチュアリズム)も、ともに。自らの価値(私的ルール)の貫徹のためには死をも厭わない独立人の存在を等閑視することによって成り立っていた。前者は、物理的暴力によって「意志的に強い」独立人を屈服させることができるというほとんど空想的な理論を採用しているし、また、左派的な現実主義にしても、つねに議論の照準を「他者性を感受しないマジョリティ」への批判に定めていたために、「他者性を感受しない」徹底したマイノリティ=独立人の存在を例外視する――「他者性の倫理」の外部に存在する他者についての考察を回避する――ことができていた。(p. 390)

もちろん私は「論理が倫理を規定する」とも「理論こそが情況を変えうる」とも思っていない。だが、解釈次第でどうにでもなる「現実」「情況」などというものに寄り掛かり、思想や理論のいわば物質性を軽視する怠惰(そのもっとも狡猾で尊敬すべき確信犯がリチャード・ローティである)に対しては、断固として抗い続けたいと思う。《9・11》という出来事が示してしまったのは、その怠惰がたんなる知的なものであるばかりか、実践的・倫理的な怠惰でもありうるという過酷な現実ではなかったか。「アメリカのアフガニスタン爆撃は、自由を守るための正当防衛である」という言説も、「テロリズムはアメリカの覇権主義的リベラリズムが産み落とした鬼っ子である」という言説も、ともに、「そもそもアメリカはリベラリズム国家なのか」「テロリズムのとの『戦争』は可能なのか」といった問いを等閑視してしまっている。見苦しいまでにグローバル(全域)化を希求する支配的保護教会としてのアメリカ合衆国――ノージックの空想的な筋書きのなかに現在のアメリカの姿を見いだすことこそがもっとも「現実的」であるような喜劇的状況に、今、私たちは立ち会っているのである。私はこの喜劇(=契約論的リアルの再演)を悲劇(=新しい戦争)としか読みとれない人たちの政治的感性というものを、どうしても信じることができない。(p. 393)


                                    (2011/7/20)