ジル・ドゥルーズ |
第1章 スピノザの生涯
謙虚も清貧も貞潔も、いまや〔生の縮減、自己抑制であるどころか〕ことのほか豊かな、過剰なまでの生、思惟そのものをとりこにし、他のいっさいの本能を従わせてしまうほど強力な生、の結果となるのであり、そのような生をスピノザは〈自然〉と呼んだのであった。スピノザのいう〈自然〉とは必要〔需要〕から出発してそのための手段や目的に応じて生きられる生ではなく、生産から、生産力から、もてる力能から出発して、その原因や結果に応じて生きられる生のことである。(p. 11) スピノザが明らかにしてみせるように、どんな社会でもそのかなめとされているのは服従であり、それ以外のなにものでもない。あやまちや功罪、善悪といった観念がもっぱら社会的なものであり、服従や不服従にかかわっているのもそのためだ。したがって最善の社会とは、思惟の力能に服従の義務を負わせず、それを国家の規範に従わせることは社会自身の利益のために差し控えて、ただ行動に関してのみ規範への遵守を求めるような、そんな社会だろう。(p. 12) どんな場合にも、彼は自身の目的と一国家や環境が目的としているものとを混同しなかった。彼は、思惟のうちに、あやまちはもちろん服従そのものからものがれてしまうような力をもとめ、善悪のかなたにある、賞罰・功罪とは無縁のまったく無垢な生のイメージをかかげていたからである。(p. 13) バルーフ・デ・スピノザは、一六三二年、アムステルダムのユダヤ人居住地区で、スペインないしポルトガル系の富裕な商人の家で生まれた。ユダヤ人学校で神学や商業を学び、一三の歳から、その後も勉学をつづけながら父の商館で働いた……。やがて彼をこのユダヤ人社会からも家業からも訣別させ、一六五六年のユダヤ教会破門にまで彼を導いた哲学的回心は、どのようにして起こったのだろう。(p. 14) スピノザは、思想が必ずしもひとびとに好まれないことを肝に銘じておくために、短刀で突かれて穴のあいたそのマントを手放さなかったという。哲学者が裁判でその生涯を終えることはけっしてまれではないが、破門と暗殺未遂をもって開始するというのはそうそうあることではない。カルヴァン派と共和派の二大党派のあいだで、当時のオランダの状況は次のようなものだった。カルヴァン派は、依然として独立闘争を題目に戦争政策を主張し、オランイェ家の政治的野心や中央集権国家の形成に結びついていた。これに対して、共和は派平和政策を主張し、〔連邦各州の自治にもとづく〕地方分権体制や自由主義的経済の発展と結びついていた。……ところが、ここで不思議とも思われるのは、なおも民衆はカルヴァン派やオランイェ家を支持し、不寛容や好戦的な題目を支持しつづけていることだった。(p. 22) |
こうした状況を考えれば、一六六五年スピノザが『エチカ』を一時中断して『神学・政治論』の執筆に取りかかったのも驚くにはあたらない。『神学・政治論』の中心に据えられた問題の一つは、なぜ民衆はこんなにも頑迷で理を悟ることができないのだろう、なぜ彼らは自身の隷属を誇りとするのだろう。なぜひとびとは隷属こそが自由であるかのように自身の隷属を「求めて」闘うのだろう、なぜ自由をたんにかちとるだけでなくそれを担うことがこれほどむずかしいのだろう、なぜ宗教は愛と喜びをよりどころとしながら、戦争や不寛容、悪意、憎しみ、悲しみ、悔恨の念をあおりたてるのだろう――ということだった。(p. 23) 一六七三年、プファルツ選帝侯から招聘を受けたハイデルベルク大学の哲学正教授の職も。彼の心を惹くことはできなかった。スピノザは、既成の価値観念を転倒し、ハンマーをもって哲学をするあの「在野の思想家」の系譜に属し、「講壇哲学者」(ライプニッツの讃辞にしたがえば、体制的な感情や公序良俗をそこなわないひとびと)に属していなかったのだ。(p.26) そうしたすべての問いに突き動かされて彼は『国家論』を執筆したが、この著作は未完に終わった。いみじくもその筆は民主制の章の初めまで書きすすめられたところで止まっている。一六七七年二月、おそらく肺結核がもとでスピノザは死んだ。(p.26) のちにヘーゲルはスピノザが否定的なものを知らず、その力を知らなかったと非難しているが、それこそはスピノザの栄誉、無垢のあかしであり、まさしく彼が発見したものだったのだ。彼は、否定的なものに蝕まれたこの世界のなかで、そうした死やひとびとの殺戮衝動を、善悪・正邪の規範それ自体を疑問とするに足るだけの十分な信頼を生そのものに対して、生のもつ力に対していだいていた。(p.28) これまで『エチカ』は、思惟のことばで――思惟のうえの展開として――読まれるべきか、それとも力能のうえの展開として読まれるべきか(たとえば「属性」は力能なのか、それとも概念なのか)が問題とされてきた。じっさいはただひとつ、〈生〉ということばがそこにはあるだけだ。生は思惟を包括するが、反対にまた思惟によってしか包括〔=把握〕されないからである。これは、生が思惟のうちにあるということではない。ただ思惟する者のみが、罪悪感も憎しみも知らない、高い力能の生をかちえ、ただ生のみが、思惟する者を開展〔=説明〕するということなのだ
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第2章 道徳(モラル)と生態の倫理(エチカ)のちがいについて
スピノザ哲学がそれゆえにスキャンダルを引き起こした一連のテーゼから出発しなければならない。この一連のテーゼは、「意識」、「価値観念」、「悲しみの受動感情」に対する三重の告発を含んでいる。これはニーチェとの大きな類似を示す三点でもある。じっさいそのためにスピノザは、すでにその生前から、唯物論者、反道徳者、無神論者として弾劾されていたのだった。(p. 32) I 意識に対する評価の切り下げ(〔意識本位ではなしに〕思惟を評価するために)――唯物論者スピノザ 身体をモデルにとりたまえというスピノザは、それによって何を言おうとしているのだろう。 原因の秩序とは、したがってそうした個々の構成関係すべての形成〔合一〕と解体〔分解〕の秩序であり、全自然がその無限の変様を通してとる秩序にほかならないのだ。だが私たちは、意識をそなえた私たち人間は、どこまでもそうした合一や分解の結果を手にしているにすぎない。ある体がこの私たちの身体と出会いそれとひとつに組み合わされるとき、ある観念がこの私たちの心と出会いそれとひとつに組み合わされるとき、私たちは喜びを覚え、また反対にそうした体や観念によってこの私たちの結構が脅かされるとき、悲しみを覚える。私たちは、みずからの身体に「起こること」、みずからの心に「起こること」しか、いいかえれば他のなんらかの体がこの私たちの身体のうえに、なんらかの観念がこの私たちの観念〔私たちの心〕のうえに引き起こす結果しか、手にすることができないような境遇に置かれているのだ。(p.36) |
意識は衝動の過程でいわば穿たれるのであり、私たちはそうした意識の「原因」をも同時に示すような実質的な欲望の定義に到達しなければならないのだ。ところですべてのものとは、身体や物体であれば延長において、心あるいは観念であれば思惟において、どこまでもそれが存在するかぎりその存在に固執し、それを保持しようとつづける。衝動とはまさにそうした個々すべてのものがとる自己存続の努力(コナトゥス)以外のなにものでもない。けれどもこの努力は、出会ったその対象に応じてさまざまに異なった行動に私たちを駆り立てるから、そのありようは、対象が私たちに引き起こす変様(アフェクチオ)によってそのつど決定されているといわなければならない。私たちのコナトゥスを決定するこうした触発による変様こそ、このコナトゥスに意識が生じる原因でなければならない。(p. 39)
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II いっさいの価値、とりわけ善悪に対する評価の切り下げ(〔道徳的善悪ではなしに〕「いい」「わるい」を評価するために)――反道徳者スピノザ ともあれ〔たとえ身体と毒が結合するような場合であっても〕つねにそこには、全自然の永遠の法則に従い、それぞれの秩序に応じて複合・合一をとげる各個の構成関係のすがたがある。そこには〈善〉も〈悪〉もない。〔場合に応じた個々の具体的な〕いい・わるいがあるだけだ。「善悪のかなたに〔……〕、とはいってもそれは〈いい〉〈わるい〉のかなたにということではない(ニーチェ『道徳の系譜』第一論文一七)」。〈いい〉とは、ある体がこの私たちの身体と直接的に構成関係の合一をみて、その力能の一部もしくは全部が私たち自身の力能を増大させるような、たとえばある食物〔糧となるもの〕と出会う場合のことである。私たちにとって〈わるい〉とは、ある体がこの私たちの身体の構成関係を分解し、その部分と結合はしても私たち自身の本質の対応するそれとは別の構成関係のもとにはいっていってしまうような、たとえば血液の組織を破壊する毒と出会う場合のことである。したがっていい・わるいは、第一にまずこの私たちにあうもの・あわないものという客体的な、しかしあくまでも相対的で部分的な意味をもっている。また、そこからいい・わるいはその第二の意味として、当の人間自身の生のふたつのタイプ、ふたつのありようを形容する主体的・様態的な意味を持つようになる。(p. 42) かくて〈エチカ〉〔生態の倫理〕が、〈モラル〉〔道徳〕にとって代わる。道徳的思考がつねに超越的な価値にてらして生のありようをとらえるのに対して、これはどこまでも内在的に生それ自体のありように則し、それをタイプとしてとらえる類型理解(タイポロジー)の方法である。道徳とは神の裁き〔判断〕であり、〈審判〉の体制のほかならないが、〈エチカ〉はこの審判の体制そのものをひっくりかえしてしまう。価値の対立(道徳的善悪)に、生のありようそれ自体の質的な差異(〈いい〉〈わるい〉)がとって代わるのである。こうした道徳的価値の錯覚は、意識の錯覚と軌を一にしている。そもそも意識は無知であり、原因や法則はもちろん各個の構成関係やその合一・形成についても何ひとつ知らず、ただその結果を待つこと、結果を手にすることに甘んじているために、まるで自然というものがわかっていない。(p.44) アダムの場合も、その問題の木の実と出会えば自分の身体がどうなるかという構成関係の法則を理解していないから、神のことばを禁止命令として受けとるのである。それどころかこの自然の法則(ロワ)さえ、これまであまりにも道徳的な法(ロワ)〔道徳律、掟〕と混同され、理解を危うくされてきただけに、スピノザも、私は自然の〈法則〔=法〕〉とはいうまい、ただもろもろの永遠の真理について語ろう、と述べているほどだ。(p. 45) 問題は、こうした道徳的もしくは社会的な法が私たちのなんら認識をもたらさず、何も理解させてくれないということだ。最悪の場合には、それは認識の形成そのものを妨げる(圧制者の法)。最善の場合でも、法はただたんに認識を準備し、それを可能ならしめるにすぎない(アブラハムの法・キリストの法)。この両極端の中間では一般に法は、その生のありようゆえに認識するだけの力をもたないひとびとのもとで、認識の不足を補う役割を果たしている(モーセの法)。だが、いずれにしても認識と道徳とでは、〈命令〉に対する〈服従〉の関係と〈認識されるもの〔真理〕〉に対する〈認識〉に関係とでは、そこに本性上のちがいがあることはおおうべくもない。(p. 46) 命令と理解されるべきこととを、服従と認識それ自体とを、〈存在〔(かく)ある〕〉と〈神の意志〉(Fiat)〔(かく)あれ〕とを混同してきた長い錯誤の歴史である。法は、どこまでも価値の善悪をめぐる対立を決定する超越的な権威であり、認識は、どこまでもありようの〈いい〉〈わるい〉をめぐる質的な差異を決定する内在的な力能なのである。(p. 47) スピノザはその全著作を通じて、たえず三種類の人物を告発しつづけている。悲しみの受動的感情にとらえられた人間、この悲しみの受動的感情を利用し、それを自己の権力基盤として必要としている人間、そして最後に、人間の条件や人間のそうした煩悩としての受動的感情一般を悲しむ人間(憤慨したり嘲笑したりするかもしれないが、その嘲笑自体にも毒が含まれている)である。奴隷〔隷属者〕と暴君〔圧制者〕と聖職者と……まさに三位一体となった道徳の精神。(p.47) |
「君主制の最大の秘密、最も深い関心事は、ひとびとを錯誤のうちに置き、恐怖心に宗教の美名を着せて彼らを抑えるのに利用し、彼らがあたかもそれが救いであるかのように自身の隷属をもとめて闘うようにさせるところにある(『神学・政治論』序文)」。悲しみの受動的感情は、際限ない欲望と内心の不安、貪欲と迷信がひとつに結びついた観念複合体にほかならないからだ。「あらゆる種類の迷信に最も激しくとらえられずにおかないのは、世俗的な幸福を最もあくことなく追い求めるひとびとである」。(p. 48) まさしくスピノザには「生」の哲学がある。文字どおりそれはこの私たちを生から切り離すいっさいのものを、私たちの意識の制約や錯覚と結びついて生に敵対するいっさいの超越的価値を告発しているからである。私たちの生は、善悪、功罪や、罪とその贖いといった概念によって毒されている(『エチカ』第一部付録)。生を毒するもの、それは憎しみであり、この憎しみが反転して自己のうえに向けられた罪責感である。……その徹底した分析は、希望のうちにさえ、安堵のうちにさえ、それを隷属的感情とするにたる悲しみの種子が含まれていることをえぐりだしてみせる(『エチカ』第四部定理四七備考)。(p. 49) 類や種による〔超越的規範に基づく〕とらえ方には、まだ「道徳的」な視点が含まれているのに対して、『エチカ』(Éthipue)とはまさにエトロジー(éthologie) 〔動物行動学、生態学〕であり、これは、どんな場合にもただ触発に対する変様能力から人間や動物をとらえようとする考え方に役立つのである。ところで、まさにこの人間についてのエトロジーの観点から、二種類の変様がまず区別されなければならない。能動(アクション)〔能動的変様〕と受動(パッション)〔受動的変様〕である。……その個体のもつ変様能力も、それがそうした能動的変様によって満たされると考えられるかぎりは、みずからはたらく力能〔能動の力能、活動力〕として、またそれが受動的変様によって満たされると考えられるかぎりは、はたらきを受ける力能〔受動の力能、感応力〕として現れてくる。(p. 50) 私たちが自身の体と適合・一致をみない外部の物体や身体と(すなわちその構成的関係が私たちのそれとはひとつに組み合わさらないような体と)出会ったときには、すべては、いわばその相手の体の力能がこの私たちの力能に敵対し、これに対してマイナスや固定化にはたらくかたちで進行する。すなわちこの場合、私たちの活動能力は減少するか疎外されるのであり、これに対応する受動〔受動的情動〕が悲しみの感情である。それとは逆に、私たちが自身の本性と適合・一致をみる体と出会い、その構成関係が私たちのそれとひとつに組み合わさるときは、いわば相手の体の力能がこの私たち自身の力能にプラスされるかたちとなる。そうした変様を私たちに引き起こす受動、これが喜びの感情であり、この場合には私たちの活動力能は増大するか促進されるのである。(p. 51) こうした触発=変様の全理論をとおして、悲しみの受動〔受動的情動〕とは何であるかがわかってくる。それがどんなかたちをとり、どんな理由にもとづくものであろうと、悲しみの受動は私たちの力能の最も低い度合を表わしている。私たちが最大限にみずからの能動的な活動能力から切り離された状態、最大限に自己疎外され、迷信的妄想や圧制者のまやかしにとらえられた状態である。(p. 52) 『エチカ』の実践的な問題は、まさに次のような三重のものとなるだろう。すなわちまず、いかにして最大限の喜びの受動に達するか、またさらにそこから自由で能動的な感情へ移行するか(自然において私たちの置かれた境遇からは、悪しき出会いや悲しみを余儀なくされているように見えるのに)という問題。この能動的な感情〔原因に関する〕は十全な観念からこそ生じるわけだが、ではいかにして十全な観念を形成するにいたるか(自然的条件からすれば、私たちは自身の身体や精神についても他のものについても、非十全な観念しかもてない運命にあるように見えるのに)という問題。そして最後にもう一つ、いかにしておのれ自身や神および他のすべてのものを自覚する――「自身を、神を、また他のすべてのものを、永遠の必然性によって意識する(sui et Dei et rerum aeterna quadam necessitate conscious)」(EV42備考)までになるか(私たちの意識は、分かちがたく錯覚と結びついているようにみえるのに)という問題である。(p. 54) |
第3章 悪についての手紙(ブレイエンベルフとの往復書簡)
ブレイエンベルフは一介の穀物ブローカーであり、その彼がスピノザに手紙を書いて悪の問題を提起する。最初はスピノザも文通の相手が真理探究の念に動かされていると信じるのだが、ほどなくこのブレイエンベルフという人物が、むしり論争を好み、自己の正しさを主張して人を裁かずにはいられない、哲学者というよりはカルヴァン派の素人神学者であることに気づく。(p. 55) 悪はなにものでもない〔なんの価値も力ももたない〕とする合理主義的なグランド・セオリーは、おそらく十七世紀には常套とされた考え方のひとつであり、それ自体としては特別なものではない。しかしそれをどうスピノザは根本的につくりかえてしまおうとするか、これがブレイエンベルフとの往復書簡で追求された問題だった。スピノザによれば、悪がなにものでもないのは、ただ〈善〉のみが存在し、それがすべての存在を支えているからではない。善もまた悪と同様なにものでもなく、〈存在〉そのものが善悪を越えているからである。(p. 56) スピノザは、悪はなにものでもないとする古典的なテーゼに、ある特殊な意味を与えたのだった。というのは、どんな場合にも、そこには複合・合一をとげる構成関係が必ずある(たとえば毒物と〔その毒と複合をとげて〕血液の諸部分がはいってゆくあらたな構成関係とのあいだでみられるように)からである。ただ、自然の秩序にしたがって複合・合一をとげる構成関係は、必ずしもある特定の構成関係との保存と一致するとはかぎらないというだけのことだ。その特定の構成関係は分解されてしまうことも、いいかえればもはや〔現実的諸部分によって〕具現されなくなってしまうこともある。まさにその意味において悪(それ自体としての悪)は存在せず、わるいもの(私にとってよくないもの)があるというにすぎない。(p. 61) オレステスはクリュタイムネストラを殺す。けれども彼女はすでに自分の夫、オレステスの父親であるアガメムノンを殺害していた。したがってオレステスの行為はまさに、しかも直接的にこのアガメムノンの像と、〔いまはもう存在していないが、まさにそれ自体としては〕永遠の真理であるアガメムノン特有の構成関係と結びつき、これとしかし、ネロがアグリッピナを殺す場合には、彼の行為は、それによって直接的に分解される〔その構成関係を破壊される〕当の母親アグリッピナ自身の像としか結びつかない。ネロが「防音、無慈悲、不孝の徒として」みずからを示したというのもそういう意味である。(p. 66) 自然あるいは神の視点からすれば、どんな場合にもそこには複合・合一をとげる構成関係が必ずあり、永遠の法則に従って複合・合一をとげる構成関係のほかにはなにも存在しないからである。まさしく観念は、それが十全な観念であれば必ず、最小限二つの体――この私自身のそれと相手のそれ――を、たがいの構成関係が合一をみるその相のもとにとらえている(「共通概念」)。これとは反対に、適合をみない体には十全な観念は存在しない。この私の体と適合しない体は、適合しないかぎり十全な観念の成立をみない、まさにその意味で、悪は、というかむしろ〈わるい〉ことは、非十全な観念のうちにしか存在しないのである(『エチカ』第四部定理六四)。(p. 67) |
本質に属するのは、常に一つの状態、いいかえれば一つの実在性、完全性であり、これは〔その個体の〕一定の力能や、触発に対する一定の変様能力を表現している。ところで誰かが邪悪である、あるいは不孝であるというのは、その人間のとる変様〔いいかえればどう彼が触発に応えるか、彼がなにをなしうるか〕に応じてのことではなく、彼のとらない変様に応じてのことである。目の視えない人は光の触発を受けても変様を起こすことができず、邪悪な人間は知性の光を受けても変様を起こすことができない。その人間が邪悪である、あるいは不孝であるといわれるのは、いま現に彼がもつ状態との関連ではなく、彼がもたないか、いまではもたなくなってしまった状態との関連においてのことなのだ。(p. 69) 本質は永遠である。ただし、この本質の永遠性はあとからおとずれるのではなく、持続における現実の存在と厳密に同時にあり、それと共存している。(p.74) 私たちは三つの構成要素をもつ。すなわち
私たちが〈わるい〉と呼ぶすべてのことは、まったく必然的ではあるが、しかし外からやってくる。偶発事の必然性である。死はどこまでも外からやってくるだけ岳に、なおのこと必然的なのだ。まず第一に、現実の存在にはある平均的な持続の長さ〔寿命〕というものがある。一つの構成関係があれば、その具現には平均的な持続時間があるということだ。しかしそれ以上に、いつなんどきそうした具現は、偶発的な出来事や外発的変様によって中断されてしまわないともかぎらない。そのような死の必然性が私たちに、死は私たち自身に内在すると思い込ませてしまうのである。けれども実際には、こうした破壊や分解はそれ自体としての私たちの構成関係にも、私たちの本質にもかかわっていない。(p. 76) ところでそうした変様は、私たちの構成の具現を抑え、害する場合もあれば(活動力能の減少としての悲しみ)、それを促進し、強化する場合もある(活動力能の増大としての喜び)。そしてこの後者の場合にのみ、そうした外発的ないし「受動的」な変様は、同時に能動的な変様をともないそれによって裏打ちされるのである。この能動的変様は、まさに私たち自身の活動力能に〈形相的に〉もとづいており、私たちの本質に内在し、私たちの本質をなしている。それは能動的な喜び、本質自身による本質の自己触発的な変様であって、本質の変様というその属格の〈の〉もいまや自立的、自己原因的なものに代わるのだ。……こうした内発的、免疫的な変様こそ、私たちがおのれ自身や他のすべてのもの、そして神を、内からの自覚をとおして永遠的、本質的に意識するようになるときに(第三種の認識、意識)とる姿なのである。(p.78) |
第4章 『エチカ』主要概念集 意識 (CONSCIENCE) 観念のもつ、無限に分化してゆく性質。すなわち観念の観念。事実すべての観念は、ある属性〔たとえば延長〕のうちに存在するなにかを表象しているが(その観念の対象上の実在)、その観念それ自身も、思惟属性のうちに存在するなにかであり(その観念の形相あるいは形相上の実在)、そのかぎりにおいてそれは、今度はその観念を〔対象上の実在として〕表象するもうひとつ別の観念の対象となるわけで、以下同様にしてそれがくりかえされる(EV21備考)。(p. 85) そこから、意識を特徴づける次の三つの性格も生まれてくる。
意識は、どっぷりと無意識の海に浸かっている。というのは
意識は、したがって当然この私たちのもつ、歪められ、損なわれた、非十全な観念の意識であり、二つの根本的な錯覚の源となる。
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永遠 (ÉTERRNITE) しかし様態も、その本質そのものはある永遠のかたち、永遠の相(species aeternitatis)を有している。(p. 90) 永遠な存在と(たとえ無際限でも)持続する存在のあいだには、本性上の相違があることに変わりはない。というのも、すべての存在する様態は一定の構成関係にもとづいて生まれ、死をむかえ、合一をとげ分解をとげるわけだが、〈持続〉は、様態がそうした構成関係を具現するにいたってはじめて、そのかぎりでいわれるにすぎないからである。この構成関係それ自体は。いわんやまたそれら個々の様態の本質は、永遠であり、持続において存在するのではない。(p. 91) 永遠の相(species aeternitatis)という表現のこの相(species)ということばは、つねに、ある概念ないしは意識を指し示している。永遠の相のもとに(sub species aeternitatis)しかじかの身体の本質を、あるいはものごとの真理を表現しているのは、つねに、ある観念なのである。……この相(species)ということばは、したがって、形相と観念、形相と考え方〔=概念の形成〕の双方を同時に意味し、この二つを分離することはできないのである。 開展〔=説明〕する-包含する (EXPLIQUER—IMPLIQUER) 包含(インプリカチオ)も、けっして開展(エクスプリカチオ)と反対のことではない。開展するからには包含もする、くりひろげるからにはうちに含みもする。自然におけるすべては、この二つの運動が共存して成り立っている。自然とは、まさにそうした開展と包含の織りなす、りょうしゃに共通の秩序なのである。(p.93) 開展と包含が分離してしまう場合はひとつしかない。それが非十全な観念の場合である。非十全な観念は、この私たちの理解する力能を包含してはいるが、それによって開展されはしない。この観念は私たちの外部にあるものの本性を含んでいるが、それを開展はしない(EII18備考)。(p. 93) じっさい、理解する〔=包括する・把握する〕ということ、これこそが開展と包含の二つの運動を根本で支え、それを解く鍵を与えている。実態はすべての属性を包括し(本性としてそなえ)、属性はすべても様態を包括して(内容として含んで)いる。開展と包含の同一性を詩のそこで支えているのは。この包括なのである。こうしてスピノザは、神を「コンプリカチオ」によって定義した中世・ルネサンス期の伝統を、そのまま取りなおす。神はいっさいのものを包摂しているが、同時にいっさいのものは、神を開展し、包含しているというのである。(p. 94) |
観念 (IDÉE) 思惟の一様態。思惟は、ほかにも〔感情や知性など〕さまざまな様態をとりうるが、観念は他のすべての先立つ第一の様態であり、それらからは区別される(EII公理3)。……観念はあるもの、ないしはある事態を表象しているが、感情(情動(アフエクトウス) )は、そうした状態の変動に応じて起こる、より大きなあるいはちいさな完全性への移行を含んでいるからである。したがって観念は感情に先立つと同時に、その本性も異にしている。(p.96) 私たちが、そのかぎられた知覚の自然的条件のもとで、ただひとつもつ観念は、私たちの身に起こることを、いいかえれば、他の体〔物体または身体〕が私たち自身の身体のうえにもたらすその結果――すなわちこの二つの体の混合物――を表象する観念であり、これは必然的に非十全な観念であらざるをえない(EII11、12、19、24、25、26、27…)。(p.96) 十全な観念は、……真の観念、神のうちにあると同じようにして私たちのうちにある観念である。……この私たちが何であり、他の個物が何であるかを、表象しているのである。いっさいのこうした十全な観念は、私たち自身の観念、神の観念、他のもろもろの個物の観念を三つの頂点とする、ひとまとまりの体系をかたちづくる(第三の認識)。いいかえれば、まず
非十全な観念は、いわば前提のない結論のようなものである(E28証明)。この観念は、形相上、私たちの理解する力能によっておのずから開展されるものではないし、質量のうえでも自身の原因を表現しておらず、他の諸観念との連結に到達するどころか、ただひたすら偶然的な出会いの秩序に従っているために、形相的にも質量的にも前提を欠き、そこから切り離されているからである。まさにその意味で、虚偽には形相がない、虚偽をそれ自体として形づくるような積極的なものは〔観念のうちには〕何もない(EII33)。(p. 100) だがしかし非十全な観念のうちには、なにか積極的なものがある。すなわちこうした非十全な観念は、私たちの理解する力能によっておのずから開展されるわけではないが、最も低い度合いのこの力能を含んではおり、その観念自身の原因を表現してはいないが、それを指示してはいるのだと(EII17備考)。(p. 101) 観念は、十全であれ非十全な観念であれ、つねになんらかの感情(情動(アフェクトゥス))の派生をともなっている。感情は、観念とは本性を異にするが、観念から、いわばそれを原因として生じるからである。従って十全・非十全という語は第一にまず観念を形容するが、第二に原因の形容にも用いられるのである(EIII定義1)。……十全な観念をもてば私たちは、私たちみずからがそこから生まれる感情の十全な原因とならずにはおかない。この感情は、したがってまた能動的である(EIII定義2)。(p.102)
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共通概念 (NOTIONS COMMUNES)
共通概念(EII37-40)という呼び名は、それがすべての人々の精神に共通だからではなく、まずはそれが身体または物体相互に共通ななにかを表すところからきている。すべての体に共通というのでもよいし(延長、運動と静止)、いくつかの体(わたし自身と他の最小限二つの体)に共通というのでもよい。その意味でこれは抽象的な観念ではまったくなしに、一般的な観念であり(それはいかなる個物の本質も構成しない――EII37)、及ぶ範囲に応じて、すなわちそれがすべての体にあてはまるか、いくつかの体にあてはまるにすぎないかに応じて、その一般性に大小のちがいがありうる(TTP7章)。(p. 102) 一般性の最も大きい共通概念を考えてみれば、どこで適合が終わり、どこで不適合が始まるか、どのレベルで「相違や対立」が形成されるかが、内側から見えてくることだろう(EII29)。(p. 104) 〈理性〉が以下に述べるような二通りの仕方で定義されるのもそのためであり、これは人間が生まれながらに理性的なのではないことを、いかにしてそうなるのかを、示している。〈理性〉とは、
原因(CAUSE) 「自己原因とは、その本質が存在を含むもの、いいかえればその本質が存在するとしか考えられないもののことである(EI定義1)」。スピノザはある意図をもって、こうして『エチカ』を自己原因の定義から始めている。自己原因という概念は、伝統的には、ある結果を生じさせるものとしての原因〔作用因〕とその結果との因果関係(この場合、原因はその結果とは当然区別される)からの類比によって、あくまでもその派生的な用法として、きわめて慎重に用いられてきた。……スピノザは、そうした伝統をくつがえして、自己原因こそがすべての原因-結果関係の原型であるとした。因果性の本義はそこにあり、それに尽きるというのである。(p. 111) 結果が原因から区別される場合には、そこにこの作用因的な関係が残っている。たとえば、神はすべてのものの原因であり〔第一のケース〕、またすべての存在する有限なものは、他の有限なものを、その存在と活動の原因としてもつ〔第二のケース〕のである。本質においても存在においても異なるとすれば、原因と結果〔神と万物〕のあいだには何の共通性もないということもできるだろう(EI17備考、EP64シュラー宛)。
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個体(INDIVIDU) ときにはこの用語は、思惟属性における観念と、特定の属性〔延長属性〕におけるその対象とが一体であることを示す(EII21備考)。しかしもっと一般的には、任意の属性において存在する様態が形づくる複雑な編制を、このことばは指し示している。(p. 115)
一個体〔存在する個体〕は、つねに無限に多くの外延的諸部分から――それらの部分が、一個の様態の個的・特異的な本質に、特有の構成関係のもとに帰属するかぎりにおいて――成り立っている(EII定理13以下)。これらの部分(再単純体〔構成素体〕corpora simplicissima)それ自身は……個体ではないが、その中の無限数がしかじかの様態の本質を特徴づけるしかじかの構成関係のもとにはいるとき、そのかぎりにおいて一個の存在する個体を形づくる。(p. 116) 様態のプロセスである個体形成は、スピノザによればつねに量的なものである。しかしそこには、大きく異なった二つの個体形成があることに注意しよう。一つは、単純かつ不可分、永遠な、強度的・内包的部分としての各個の力能の度の特異性によって規定される、本質の次元の個体形成である。いまひとつは、一定の運動と静止の構成関係を一時的に具現する外延的諸部分の分割可能な集合として規定され、存在の次元の個体形成である。(p. 117) 自然(NATURE) (実体としての、また原因としての)いわゆる能産的自然と、(結果としての、また様態としての)いわゆる所産的自然とは、互いの相互の内在性をきずなに結びついている。原因は、どこまでもそれ自身のうちにとどまりつつ産出し、また結果――産出されたもの――のほうも、原因のうちにとどまるからである(EI29備考)。(p. 119) 〈自然主義〉は以下の三つの形態の一義性を満たすものとして現れる。まず、属性の一義性。各属性は、能産的自然の神においても、所産的自然としての個々の様態においても、同じ形相のもとに、一方ではこの神の本質をなし、他方ではそれらすべての様態の本質を包容している。ついで、原因の一義性。所産的自然の起源としての〈万物の原因〉ということばは、神について、能産的自然の系譜としての〈自己原因〉と同じ意味で語られる。最後に、様相の一義性。所産的自然の秩序も、能産的自然の編制も、そのありようは〈必然〉のただ一語をもって形容される。(p. 119) 所産的自然の秩序という観念については、いくつかの意味を区別しなければならない。
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持続(DURÉE) ある始まりからの、存在の継続。〈持続〉は、存在する様態についていわれる。持続に始まりは含まれるが、終わりは含まれていない。というのも、様態〔有限な個々の身体や精神〕が作用因のはたらきで存在へと移行するとき、もはやその様態は、ただたんに属性のうちに含まれているばかりではなしに、持続する(EII8)、というよりむしろ持続しようとする――すなわち、存在に固執してそのままそれを保とうとするからだ。(p. 121) その存在するものの本質も、その存在を定立する作用因も、この持続に期限を与えることはできない(EII定義5の説明)。持続は、それ自体としては「存在の無際限な継続」であるのもそのためだ。持続の終わり、すなわち死は、その存在する様態の構成関係を分解してしまうような他の様態との出会いからやってくる(EIII8、IV39)。したがって、死と誕生〔終わりと始まり〕はけっして対称をなしているわけではない。(p. 121) 実体(SUBSTANCE) 「それ自身においてあり、それ自身によって考えられるもの、いいかえればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの」(EI定義3)。……スピノザは、同じ属性をもつ複数の実体の存在を不可能にしている。事実もし、そのような複数の実体が存在するとすれば、それらはなんらかの共通のものをもち、それをとおしてたがいに他によって理解されうることになってしまうだろう。(p. 122) 存在の観点からは、すべての属性に対してただひとつの実体しか存在しない(〔数詞としての〕「ひとつの」ということばは、ここでも不都合である)。数滴区別がけっして実在的な区別でないとすれば、逆にまた実在的区別もけっして数的な区別ではないからだ。実在的(形相的)には区別されるいっさいの属性も、したがって〔存在論的には〕ただひとつの――絶対的にひとつの――実体についていわれるのである。(p. 123) 社会(SOCIÉTÉ) 集団としての人間が、ひとりひとりの力能をひとつに合わせて、高次の力能をもつ一個の全体を形づくる状態〔共同社会(キウイタス)の状態、国家状態〕。この状態は、各人がつねに自分のそれより大きな、自分が破壊されてしまうような力に出会う危険にさらされている自然状態の弱さ無力さを払いのけてくれる。(p. 124) 人々のそうした合一つまり全体の形成は、共同社会の状態においては、なんらかの外発的秩序――希望と恐怖(自然状態にとどまることにたいする怖れ、そこから抜け出ることに対する希望――TTP第16章、TP第2章15、同6章1)という受動的な感情によって決定される秩序――にもとづいて成立をみるのである。理性状態においては、法とは永遠の真理、いいかえれば各人の力能の全面的な展開に向かう自然の法則である。共同社会の状態においては、法は、各人の力能を制限あるいは制約し、命令や禁止としてはたらき、全体の力能が個人の力能を越えて強大なものとなればなるほど、この傾向は強まる(TP第3章2)。これは、ひとえに服従と服従の根拠にかかわり、善と悪、正義と不正義、褒賞と懲罰を決める「道徳的な」法〔掟〕にほかならない(EIV37備考2)。(p. 125) |
自由(LIBERTÉ)
『エチカ』の全努力は、自由と意志との伝統的結びつきを断ち切ることにあった。意志のままに選択や創造さえなしうる能力としてとらえられるにせよ(無差別的自由)、規範に従っておのれを律しみずからそれを体現しうる能力としてとらえられるにせよ(啓蒙的自由)、自由といえば意志と結びつけて解されてきたのである。……スピノザの原則は、自由はけっして意志の特質ではない、「意志は自由な原因とは呼ばれえない」ということである。意志は、有限であろうと無限であろうと、あくまで〔思惟の〕一様態であり、他の原因によって決定されている。たとえその原因が思惟という属性のもとでの神の本性であっても変わりはない(EI32)。(p. 127) 知性も意志も神の本性ないし本質には属してはおらず、すべて存在するものは必然的に存在し、必然性以外の様相をもたないから、ただひとつ自由な原因といわれるべきなのは「自己の本性の必然性のみによって存在し、自己自身によってのみ作用へと決定される」原因〔自己原因〕である。……自由を自由たらしめているのは「内的な」必然性であり、「自己の」必然性である。人はけっしてその意志や、意志の則るべき規範によって自由なのではなく、その本質や、本質から生じるものによって自由なのである。(p.128) もろもろの有限様態のなかで最も大きな力能をもつ私たち人間は、みずから自身の活動力能を所有するにいたったとき、いいかえれば自身のコナトゥス〔自存力〕が十全な諸観念によって決定され、そこから能動的な情動、私たち自身の本質によっておのずから開展〔=説明〕される情動が生じてくるとき、自由となる。(p. 130) 精神と身体(ESPRIT ET CORPS/PARALLÉLISME) 身体は延長の一様態であり、精神は思惟の一様態である。個体が本質をもつように、その精神もまずは思惟のさまざまの様態のうちで最も基本的なもの、すなわち観念によって構成されている(EII公理3、II11)。いいかえれば精神とは、対応する身体の観念なのである。(p. 132) すべてのものは身体であると同時に精神、物であると同時に観念であり、まさにその意味ですべての個体は心を持つ(animata) (EII13備考)。観念の表象能力もそうした対応関係から派生してくるにすぎないのだ。(p. 133) スピノザにおいては、身体と精神、身体的諸現象と精神的諸現象のあいだには、ただたんに「秩序」の同一性(〔両者の生気の秩序・過程の〕同型性(isomorphie))があるだけではない……。両系列のあいだには、さらに〔それぞれの系列の現象の〕『連結』の同一性(平等性(isonomie)ないし等価性(équivalence))がある。いいかえれば延長と思惟、延長において起こることと思惟において起こることとは位格的にも対等であり、原理上の対等性をもつ。(p. 135) 存在論的並行(属性を異にするすべての様態はひとつの同じ様態的変様がとるもであること)は、すべての属性が(そこには思惟も含まれる)本質の諸形相として、またもろもろの存在力として対等であることをその根拠とし、認識論的並行はそれとはまったく別の対等性、(すべての属性を条件とする)形相上の存在する力能と(ただひとつ思惟属性を条件とする)観念対象上の思惟する力能とが対等であることを根拠としているからである。(p. 138) 並行論において思惟属性が他の属性に対し実際にもつそうした特権的性格と、心身間の見かけのうえでの断絶とを混同しないようにしよう。この断絶には二通りある。
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ここでまず、精神とはきわめて複雑な複合した観念であり、これら二つの断絶はその同じ部分に関するものではないことに注意しよう。第一の身体のモデルは、存在する身体を含んでいる観念としての精神について、ということはつまり想像ないし表象という名で括られる精神の可滅的な部分、いいかえればこの私たちのもつもろもろの変様の観念について、あてはまる。第二の純粋な精神のモデルは、それとは反対に、身体の本質を表現している観念としての精神について、ということはつまり知性と呼ばれる精神の永遠的な部分、いいかえれば神の観念や他のもろもろの個物の観念との内的な関係においてとらえられた私たち自身のありようとしての観念について、あてはまるものである。(p. 140) 絶対(ABSOLU)
属性(ATTRIBUT) 「知性が実体についてその本質をなしていると知覚するもの」(EI定義4)。属性は、知性によるとらえ方〔認識様式〕ではない。スピノザ哲学における知性は、存在するものしか知覚しないからだ。……すべての属性は、おのおの一定の本質を「表現」している(EI10備考1)。属性が必然的に知性と結びつくのは、属性が知性に存しているからではない。属性が表現的な性格を持ち、その表現内容が、それを「知覚」するなんらかの知性を必然的にともなっているからである。(p. 143) 属性は、すべて「それ自身によって、またそれ自身において考えられる」(EP2オルデンブルク宛)。いいかえれば、すべての属性は実在的に区別される。どの属性も、それが考えられるには他の属性も他のなにものも必要としないからである。したがってすべての属性は、どれもひとつの絶対に単純な実体的性質を表現している。どの属性も、質的もしくは形相的に(数的にではない)それぞれひとつの実体が対応しているといわなければならないのである。純粋に質的な、形相上の多様性。(p. 143) 私たちは二つの属性しか認識しないが、しかし属性は無限にあることを知ってもいる。私たちがそのうちの二つしか認識しないのは、無限なものとして私たちが考えることができるのは〈思惟〉と〈延長〉という二つの性質しかないからだ。精神であり、身体である私たちは、この二つの性質を自身の本質のうちに含んでいるのである(II1ならびに2)。(p. 144) すべての身体や物体は〈延長〉を含み〔様態のレベル〕、〈延長〉は神的実体の一属性をなしている〔実体のレベル〕が、どちらもこれは同じ形相のもとに〔一義的に〕そういわれるのだ。その意味では、神が「被造物」に含まれるすべての完全性を有するという場合も、神はこの完全性を、それが被造物自身においてもつのとは別の形相のもとに有しているのではない〔神(=実体)に置いても様態においても、完全性の意味は変わらない〕。こうしてスピノザは、いっさいの卓越性や多義性の概念、さらには類比の概念さえも(そうした概念に基づいて、神はこの完全性を〔被造物にとってのそれとは〕別の形相、いちだん上の形相…のもとに有するとされるのである)、徹底してこれを否定するにいたる。(p. 145)
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存在(EXISTENCE) 実体は自己原因である〔それみずからを原因とする〕から、その存在は、実体自身に本質のうちに含まれている。まさに実体の本質は、絶対に無限な存在する力能〔存在力〕なのである。したがってその本質と存在とのあいだには、肯定されるもの〔本質〕と、その肯定それ自体〔存在〕が区別されるかぎりにおける区別――思考上の区別があるにすぎない。(p. 146) その存在と本質とは、あくまでもただ様態的に区別されうるにすぎない。有限な様態にとって、存在するとは、
様態の本質は、対応するその様態が存在するといなとにかかわらず、その本質自身の、それ自体としての存在を同時にもっている。まさにその意味で、存在しない用からだ様態〔=いま現に持続していない、外延的諸部分をもたない様相〕も、単なる論理的可能性ではなしに、一個の強度的・内包的な部分、物理的実在をそなえた一個の度〔力能の度〕なのである。いうまでもなく、この本質と本質それ自身の存在との区別は、実在的なものではない。(p. 147) 卓越性(ÈMINENCE) もし三角形に口がきけたら、三角形は、神は卓越的に三角であるということだろう(EP56ボクセル宛)。スピノザが卓越性という概念を批判するのは、この概念が、神を一方では人間的な、擬人化さえした性格をもって定義しながら、同時にその特殊性を救おうとするさいの常套手段として持ち出されるからだ。(p. 148) スピノザからみれば、多義性も類比もひとつ穴のむじなであり、どちらに対しても彼は手きびしい告発をくわえている。神がそうした人間的諸性格を、ちがう意味でもとうと、私たちのそれに比した意味でもとうと、たいした変わりがあるわけではない。どちらにおいても属性の一義性が看過されているからである。(p. 148) 卓越性も、またこれにともなう多義性や類比も、ほんらい何も共通するものはないところで神と被造物のあいだに共通点を認め(本質上の混同)、共通の形相が存在するところではそれを否定する(超越的形相の錯覚)という二重のあやまちを犯している。存在そのものに亀裂を入れてしまうと同時に、本質のうえでは混同してその区別がつかなくなってしまうのである。(p. 149) 知性(無限知性、神の観念)(ENTENDEMENT [ENTENDEMENT INFINI, IDÈE DEDIEU]) 知性は、たとえ無限の知性であろうと、思惟という属性の一様態であるにすぎない(EI31)。その意味では知性も、意志と同様、神の本質を形づくるものではない。知性や意志を神の本質のうちにくわえる人々は、人間に使う述語をそのまま用い、擬人化さえして、神というものをとらえている。そこで彼らは、私たち人間のそれを越えた神的な知性に訴えなければ、その本質の相違を救うことができなくなる。(p. 150) |
無限知性〔神の知性〕という概念の真の身分は、以下の三つの命題をもって要約される。すなわち、
この三つの命題は、それぞれが別の角度から、可能的なものなど存在しないということ、可能的なものはすべて必然的であるということを明示している……。(p. 151) 私たちは神のすべてを認識するわけではない。私たちはただ、自身のありようそのものに含まれている二つの属性〔〈延長〉と〈思惟〉〕を認識するにすぎない。しかし、〔神のもつ〕この二つの属性について私たちが認識するすべてのことは絶対的に十全であり、十全な観念は、神のうちにあるがままに〔それと同じかたちで〕この私たちのうちにある。(p. 154) 抽象概念(ABSTRACTIONS) 肝心なのは、抽象的な概念と共通概念のちがい、スピノザが『エチカ』でうちたてたこの両者の本性上の相違である(EII40備考1)。(p. 155) 抽象的な観念は、対象が、それに応える私たちの変様能力を超えてしまい、私たちがその〈理解〉ではなく〈想像〉〔=像としての観念の形成〕に甘んじるとき、そこに生まれてくる。私たちはもはや、相合わさる互いの構成関係を理解しようとするのではなしに、ただ外在的な一つの標徴、私たちの想像力をとらえるさまざまな感覚的な形質を取り上げ、それを本質的な特徴に仕立てて、他は度外視するのである……。(p. 156) ある意味では、抽象は虚構を前提としている。抽象は、物事を表象像によって説明するところに(そして対象となる当の体の内的な本性を、その体がこの私たちの身体に与える外的な結果で置き換えるところに)成り立つからである。しかしある意味では、虚構もまた抽象を前提としている。虚構を作り上げているのは、連想の秩序や、ときにはまったく外的〔偶然的〕な変形の秩序にしたがって、つぎからつぎへと移る一連の抽象概念だからである(TR62-64……)。(p. 157) 虚構的な抽象概念にもいろいろな種類がある。第一にまず、クラス・種・類といった概念。……第二に、数。第三に超越的諸概念。……(存在-非存在、一-多、真-偽、善-悪、秩序-無秩序、完全性-不完全性、……)。(p. 157) 定義とは、ものそれ自体において(――他と対比してではなしに)とらえたときの識別特徴を述べるものである。しかもそこで述べられる区別は、本質にもとずく区別、そのもの自身に内在する区別でなければならない。まさにこの点でスピノザは、名目的定義と実質的定義の区分を一新している。(p. 162) 名目的定義は、抽象概念によって(類と種差――人間とは理性的な動物である)、あるいは諸特性によって(神とは無限に完全な存在である)、特質によって(園とは一つの同じ点から等距離にある点の奇跡である)くだされる定義である。したがってそれは、ものをまだその外からとらえた規定を抽出するところに成り立っている。(p.163)
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実質的定義は発生的な定義であり、そのものの原因、その発生の要素を述べるものである。……神が、原因というこのことばの完全な意味において自己原因であり、そのもろもろの属性が真の形相的な原因であるかぎり、神には発生的定義が適用されなければならないのだ。(p. 163) 証明は、定義からの必然的な帰結であり、少なくともこの定義されたものがもっているひとつの特質を、結論として導き出すものである。しかしその定義が、名目的であるかぎりは、どの定義からも、それぞれひとつの特質しか導き出すことができない。(p. 164) 特性(PROPRES) 本質からも、本質から生じるもの(特質propriétés、帰結、結果または効果)からも、同時に区別される。第一にまず、特性は本質ではない。特性はものがそれなしにはなり立たないようなものをなんら構成せず、なんらものを私たちに認識させもしないからだ。しかし特性は、本質と切り離すことはできない。特性は本質それ自身のとる様相だからである。(p. 165) スピノザは、神の三種類の特性を区別している(『短論文』I、2-7章)。神的本質の様相という第一の意味では、とくせいは、あるものは神のすべての属性についていわれ(自己原因、無限、永遠、必然、……)、あるものは特定の属性についていわれる(全知〔思惟属性〕、偏在〔延長属性〕)。第二の意味では、特性は、神をその産出物との関係において形容する(万物の原因、……)。第三の意味では、特性は、ただ単に私たちが神に擬している外在的な規定を指示するにすぎない。私たちは神の本性を理解していないためにそうしたかたちで神を想像するのであり、私たちにはこれが生活の規律や服従の原理としての役割を果たすのである(正義、慈愛、……)。(p. 166) 認識(三種の認識)(CONNAISSANCE, GENRES DE –) 認識とは、主体のおこなう作業ではない。観念が精神のうちに定立をみることである。……知性と意志の二つの要素をそこに区別するような、いっさいの分析的な認識のとらえ方をスピノザはしりぞける。認識とは、観念の自己定立、観念の「開展」すなわち発展であり、本質がおのずから特質のうちに、原因がおのずから結果のうちに開展をみる(EI公理4、I17)のと同じことなのだ。したがって……認識は、(1) 観念の重層化……としての意識からも、(2) 観念によるコナトゥスの決定としての情動からも、区別されることになる。(p. 168) 第一種の認識は、何よりもまず多義的な標徴――事物に関する非十全な認識を含んだ指示標徴、法則に関する非十全な認識を含んだ命令標徴――によって定義される。この第一種の認識は、あるがままでは十全な観念をもつにいたらない私たち人間の存在の自然的条件を表現しており、一連の非十全な観念の連鎖、そしてそこから生じる受動的感情-情動の連鎖がこれをかたちづくる。(p.168) 第二種の認識は共通概念によって定義される。共通概念とは、構成関係の合一・形成〔の認識〕であり、合一をみる構成関係のもとに個々の存在する様態間の出会いを秩序立てようとする〈理性〉の努力である。受動的情動は、この共通概念自身から生じる能動的な情動によって、ある場合には裏打ちされ、ある場合にはそれにとって代わられるのである。(p. 169) |
本質を私たちに認識させてくれるのは、第三種の認識である。そのときはもう属性も、すべての存在する様態に適用されうる共通な(すなわち一般的な)概念としてとらえられるのではなく、属性がその本質にも、そのまま共通する(すなわち一義的な)形相としてとらえられるのである(EV36備考)。(p. 169) 必然(NÉCESSAIRE) 〈必然〉とは、あるかぎりのもののただひとつの様相、存在の仕方である。およそあるものは、それ自身によってであれ〔実体〕、その原因によってであれ〔様態〕、あるかぎりは必然的なものとしてある。必然性は、したがって一義的なものの第三の形態(属性の一義性、原因の一義性につづく様相の一義性)をかたちづくる。(p. 171) 必然的なものとは、
偶然性も可能性も、それゆえただたんにこの私たちの無知を表現しているにすぎない。スピノザの批判はつぎの二点で頂点に達する。すなわち、この自然のうちには可能的なものなど何ひとつとしてない。いいかえれば、存在しない諸様態の本質は、立法者たる神的知性のうちに規範もしくは可能性としてあるのではない。これが第一点。この自然のうちには偶然的なものなど何ひとつとしてない。いいかえれば諸存在は、そうしようと思えば別の世界や別の法〔法則・律法〕も選択しえただろう君主のような神的意志のわざによって生み出されるのではない。これが第二点である。(p. 173) 否定(NÉGATION) スピノザの〈否定〉に関する理論(否定の根本的除去、否定の抽象性・虚構性)はどこまでも肯定的・積極的な区別(distinction)と否定的・消極的な限定(determination)とにちがいにもとづいている。あらゆる限定は否定である(EP50イェレス宛)。(p. 173) |
すべての欠如は否定であり、否定はなにものでもないということだ。否定的なものを除去するには、すべてのもの個々をそれに応じたタイプの無限のうちに帰してやるだけでよい(無限そのものは区別にたえないというのは、誤りである)。(p. 178) 標徴〔記号〕(SIGNE) 第一の意味では、標徴とはつねに結果の観念、ただしその原因からは切り離された条件のもとでとらえられた結果の観念である。……こうした標徴は指示標徴であり、混合の結果である。まずそれはこの私たち自身の身体の状態を指し示し、同時に副次的に外部の体の現前を指し示している。そうした指示のうえに慣習的記号の秩序はすでに多様性によって、いいかえればそれらの指示が連結的に形づくる連想連鎖の多様性によって特徴づけられている(EII18備考)。(p. 179) 第二の意味では、標徴とは原因そのもの、ただしその本性も理解されず結果との関係も理解されないままの条件のもとでとらえられた原因である。たとえば、神はアダムに、その木の実は……おまえには毒になろうと啓示したのだが、それを理解するだけの知性をもたなかったアダムには、結果は報いであり、原因は道徳的な法、いいかえればなにかをさせる、あるいはさせないようにするための命令や禁止にもとづく目的因と解されてしまう(EP19ブレイエンベルフ宛)。アダムは神が彼に標徴〔……せよという合図〕を与えたと思い込んだのだ。こうして道徳的思考は、法則というものに対する私たちの理解を根本から狂わせてしまう。というか、こうした道徳的な法というかたちでの法則のとらえ方が、原因や永遠的真理(各この構成関係の形成・解体)に対する真の理解を歪めてしまうのだ。(p. 180) 第三の意味では、標徴とは、そうした歪曲された原因の観念やまやかしの法則理解を外部から支えているものをいう。道徳的な法として解された原因は、そういった解釈やまがい物の啓示が神性であることを肯うなんらかの外的な徴証を必要とするからである。……第三種のこうした標徴は解釈標徴であり、盲信の結果である。(p. 181) スピノザは標徴という問題が出されるたびに、そのような標徴は存在しないと答えている(TR36、EI10備考1)。想像による解釈をうながす標徴ではあっても、生きた知性によって開展〔=説明〕されるべき表現ではないというのは、まさに非十全な観念の特性にほかならないのだ……。 |
変様〔触発=変様、変様状態〕、情動(AFFECTIONS,AFFECTS)
これまで、変様、変様状態(アフェクチオ[affectio])は概して直接、身体や物体について言われるが、情動(アフェクトゥス[affectus])は精神に関係しているといった指摘がなされてきた。しかしこの両者の真の相違は……、身体の変様やその観念がそれを触発した外部の体の本性を含むのに対して、情動の法は、その身体や精神のもつ活動力能の増大または現象を含んでいるところにある。アフェクチオは、触発された身体の状態を示し、したがってそれを触発した体の現前を必然的にともなうのに対して、アフェクトゥスは、ひとつの状態から他への移行を示し、この場合には相手の触発する体の側の相関的変異が考慮に入れられている。(p. 184) 「情動(アフェクトゥス)とは、その身体自身の活動力能がそれによって増大あるいは減少し、促進あるいは阻害されるような身体の変様をいう」(III定義3)。「心の受動と呼ばれる情動は、その観念の形成をとおして精神が、以前よりより大きいあるいは小さい自己の身体の存在力を定立する(……)ある種の混乱した観念である」(EIII情動の一般的定義)。(p. 184) 私たちの感情あるいは情動は、他の存在する諸様態との外的な出会いからそれが生じるかぎり、私たちを触発したその相手の体の本性によって、また私たちの状態のうちに混乱した像として含まれるその体の必然的に非十全な観念によって、おのずから開展〔=説明〕される。こうした情動は、私たちみずからを十全な原因として生まれてくるのではない以上、受動〔受動的情動〕である。……情動の観点からすれば、喜びと悲しみというこの二つの受動的情動の根本的な区別は、まったく別の受動的情動と能動的情動の区別へとさらに進むためのあくまでも準備段階でしかない。(p. 186) この私たちの本質と他の諸本質と神の本質との内的一致をしるす自己触発的な変様の観念(第三種の認識)であるとすれば、そこから生じる情動は、それそのものがまさに能動となる(EIII1)。(p. 187) |
方法(MÉTHODE)
本質(ESSENCE) 本質というからには、なにかの本質だが、本質とそのなにかとはたがいに相即の関係にあるというのである。伝統的な本質の定義につけ加えられたこの相即の規定から、三つのことが導かれる。
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属性は、本質を表現するからには、この本質が必然的に含んでいる存在を表現しないわけにはいかない……(EI20)。すべての属性は、〔実体が〕存在し・活動するための具体的なひとつひとつの力であり、本質とは、この〔実体のもつ〕絶対的に無限な、存在し・活動する力能そのものなのである。(p. 195) 各様態の本質そのものは、あくまでも単純であり〔部分には分かれず〕、永遠のものである〔持続のうちにあるのではない〕。にもかかわらずしかし、この本質個々と属性とのあいだには、またそれら個々相互のあいだには、本質そのものに内在する、これとは別のタイプの区別が存在している。各様態の本質、これは、論理的な可能性でもなければ、幾何学的な構造でもなく、〔神=実体の〕力能の部分、いいかえれば物理的な強度〔ある度合(高さ・大きさ)の力能〕である。(p. 196) 無限(INFINI) 『書簡集』第十二、マイエル宛の書簡は、三つの無限を区別している。すなわち、
様態(MODE) およそあるかぎりのものは、それ自身のうちにある(実体)か、他のもののうちにあるかのいずれかであり(EI公理1)、様態はこの二者択一の後者を形づくる。(p. 200) スピノザ哲学のもっとも重要なポイントの一つは、この実体-様態間の存在論的な関係が、本質-特質間の認識論的な関係、原因-結果間の自然的・物質的な関係と同一視されるところにある。〔スピノザにおいては〕原因-結果の関係は、内在性と切り離すことができず、この内在性によって原因はどこまでもそれ自身のうちにとどまりつつ〔外在的、超越的にはたらくことなく〕結果を産出するからである。(p. 200) |
スピノザは標徴という問題が出されるたびに、そのような標徴は存在しないと答えている(TR36、EI10備考1)。想像による解釈をうながす標徴ではあっても、生きた知性によって開展〔=説明〕されるべき表現ではないというのは、まさに非十全な観念の特性にほかならないのだ……。 反対にまた、本質-特質の関係も、力動性と切り離すことができない。この力動性によって、特質はどこまでも無限に多くの特質として現れるのであり、特質は、実体を開展〔=説明〕する知性によって導き出されるが、これも、この力動性によってそれが実体から産出されることなしにはありえない。(p. 200) これら二つの相〔内在性と力動性〕は、つぎの一点でひとつに結びついている。すなわち、様態は、存在においても本質においても実体とは異なるが、にもかかわらず同じこの属性――実体の本質をなしている属性――のうちに生み出されるのである。(p. 201) およそあるかぎりのもの(〈ある〉と述語されるもの)は、そのありようそのものは(実体と様態とでは)まったくちがっていても、(属性において)一義的に〈ある〉と言われる〔存在の一義性がつらぬかれる〕のである。(p. 201) 直接無限様態(思惟のそれは無限知性、延長のそれは運動と静止)。これはその原因ゆえに無限な様態であり、〔実体や属性のように〕本性によって無限なのではない。この無限は、現実的に無限な、無数の互いに他と切り離すことのできない部分を含んでいる……。間接無限様態、これは、延長については〔無限に多様に変化しながら全体としてはひとつの恒常性をもつ〕全宇宙の相(facies totius universi)、いいかえれば運動と静止に基づくすべての構成関係の総体のことである。個々の様態は、存在するかぎりはこの構成関係のもとに決定されるのである。(p. 202) 力能(PUISSANCE) 『エチカ』の根本的なポイントのひとつは、神について専制君主はおろか啓蒙君主的なそれさえ含めたいっさいの権力(ポテスタス)を否定しているところにある。これは、神は意志ではない――たとえその意志が立法者的な知性によって啓発されたものだろうと――からである。神は、知性にうちに可能的にものごとを抱懐し、意志によってそれを実現するのではない。……それゆえ神は、権力(ポテスタス[potestas])をもつのではなく、たんにその本質に等しい力能(ポテンチア[potentia])をもつにすぎない。この力能によって、神はその本質から生じるいっさいのもの原因となり、……神みずからの存在の、原因となるのである。(p. 203) すべての力能(ポテンチア)は〔可能態(ポテンチア)ではなしに〕現実態(アクトゥス)であり、現に活動中の力としてはたらいている。力能が現実態であるというこのことは、こう説明される。すなわち、すべての力能はどれほど触発に応じて変容しうるかという能力と不可分に結びついているが、この変容能力はそれを具現するもろもろに変様によって、たえず必然的に満たされているからである。(p.204) 神は二重の力能をもつ。絶対的な存在する力能と、絶対的な思惟する力能である。存在する力能はいっさいのものを産出する力能に通じ、思惟する力能、したがって自己を把握する力能は、産出されるいっさいのものを把握〔理解〕する力能に通じている。二つの力能は絶対者のいわば両側面である。この二つを、私たち人間の知る二つの無限な属性〔延長と思惟〕と混同しないようにしよう。明らかに、延長属性だけでこの存在する力能は尽くされはしない。……思惟属性……もそれ自身は、存在する力能に帰するそうした形相上の条件の一部をなす。(p. 205) |
ちょうど力能(ポテンチア)としての神の本質には、触発に応じて変容しうる能力(ポテスタス)が対応しているように、力能の度(コナトゥス)としての存在する様態の本質には、触発に応じて変容しうり力量(アプトゥス[aptus]=有能さの度合)が対応している。そういうわけで、第二の規定では、コナトゥスはそうした力量を維持し最大限にそれを発揮しようとする傾向であるとされる(IV38)。(p. 207) 一個の力量の度としての様態の本質は、その様態が存在し始めたときから、コナトゥスとして、いいかえれば存続しようとする努力もしくは傾向として規定されることになる。傾向とはいっても存在への移行のそれではなく、その存在を維持し確立しようとする傾向である。力能はどこまでも現実態であることをやめるわけではないからだ。(p. 208) 「自然のうちには、それよりももっと力能も大きくもっと強い他のものが存在しないようないかなる個物もありえない。どんなものにも、それを破壊しうるような他のもっと力能の大きいものが必ず存在する。」(EIV公理)。……死が不可避であるのも、けっして死が存在する様態に内在しているからではない。それどころか反対に、存在する様態が必然的に外部に向かって開かれているからであり、それが必然的にさまざまな受動を経験し、その存立基盤となる構成関係の部分に害を与えかねない他のもろもろの存在する様態に必然的に出会うからであり、特有の複合構成関係のもとにそれに帰属している外延的諸部分がたえず外部から規定され、触発されつづけるからである。(p. 209) このコナトゥスによって、存在する様態の権利が定義される。しかじかの触発による変様(対象の観念)に応じて、しかじかの情動(喜びや悲しみ、愛や憎悪……)のもとに、このわたしが自己の存在保持のためにするよう決定されるすべてのこと(自身に合わないもの・害になるものの除去、自身に役立つもの・合うものの保守)、これはすべてわたしの自然的権利である。この権利〔自然権〕はわたしの力能とまったく同一のものであり、いかなる種類の目的とも、いかなる義務の観念とも無縁である。コナトゥスは根本的な原理、第一動者であり、作用因であって木手金ではないからだ。(p. 213) 出会いを秩序立てるとは、他の諸様態のなかからみずからの本性に適い、みずからと合一するようなものと、それもまさにそれらが適合・合一を見る局面で、出会うようつとめるつことである。ところでそうした努力は、まさに〈共同社会〉の努力そのものであり、さらに根本的にいえば〈理性〉の努力である。……存分に達成された努力としてのコナトゥス、あるいは、自身に所有されるにいたった力能としての活動力能こそが(たとえ死によってそれがとだえることになろうと)、〈徳〉と呼ばれるのだ。したがって徳とはまさにコナトゥスそのもの、力能そのものであり、作用因にほかならない。(p. 215) 神の絶対的な力能が、存在し産出する力能と思惟し理解する力能の二重の力能であったのと同じように、個々の様態のもつ度合としての力能も二重である。まず、触発に対する変様の力量〔=有能さの度合〕。これは存在する様態、それもとくに身体に関していわれる。そして知覚し想像〔表象〕する力能。これは思惟属性においてとらえられた様態、つまり精神に関していわれる。「一身体が同時に多くのはたらきをなす、あるいははたらきを受けるうえで、他の身体より大きな力量をもてばもつほど、その精神もまた同時に多くのものごとを知覚するうえで他の精神より大きな力量をもつ」(EII13備考)。(p. 216) 全『エチカ』は、当為〔なすべきこと〕の理論である道徳(モラル)とは反対に、まさに力能〔なしうること〕の一理論として提示されているのである。(p. 217) |
第5章 スピノザの思想的発展(『知性改善論』の未完について)
『エチカ』では、実体の任意の属性から出発して、すべての属性から成る実体としての神に達している。できるかぎり早く彼は神に達しようとし、その最短コースをみずからつくりだすが、それでも九つの命題が必要とされるのである。また『知性改善論』においても彼は「できるかぎり早く」神の観念に達するために、任意の真の観念から出発していたのだ。(p.221) ここでは属性、あるいは〔その属性のよる〕質的形容を得た任意の実体が出発点の仮定としてとられているが、この属性は共通概念においてとらえられている。そこから出発して私たちは総合的な充足理由、すなわちすべての属性を包括し、すべてのものがそこから生じてくるようなただひとつの実体、あるいは神の観念にまで達するのである。(p.223) スピノザによれば、すべて存在するものはそれぞれ本質をもつが、同時にまた個々特有の構成関係をもち、この構成関係をとおしてそれらは存在において互いに他のものとひとつに組み合わさったり、分解をとげて他のものに姿を変えてゆく。共通概念とは、まさにそうした複数のもの相互のあいだに成り立つ構成関係の合一の観念である。(p. 224) まさに『エチカ』が共通概念の理論を練りあげるとき、共通概念は、そうした手順がどれほど多様なものであろうと、それらはうちに含むこの第二種の認識の整合性、十全性を保証しているのである。いかなるかたちをとろうと、そこでは「なんらかの実在する存在から出発して他の実在する存在へと」向かうことになるからである。(p. 228) ひとたび共通概念としての属性から出発すれば、いやでも本質の認識に導かれないわけにはいかない。そのみちすじはこうだ。共通概念は(それら自体は何の本質もかたちづくらないとはいえ)十全な観念であり、必然的に私たちを神の観念へと導く。ところがこの神の観念は、必然的に共通概念と結びついてはいるが、それそのものは共通概念ではない……。(p. 229) この私たちが自身の身体と適合する体と出会い、相手のその体が結果として私たちに喜びの変様を引き起こすときには、この喜び(私たち自身の活動能力の増大)は私たちにそうした自他双方の体の共通概念を形成しよう、いいかえれば両者の構成関係を合一させ、両者の構成上の統一を理解しようという気を起こさせてくれる。(p.230) 共通概念はひとつの〈術〉、『エチカ』そのものの教える術なのだ。〈いい〉出会いを組織立て、体験をとおして構成関係を合一させ、力能を育て、実験することである。(p. 232)
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第6章 スピノザと私たち
ひとつの体〔身体や物体〕をスピノザはどのように規定するか。スピノザはこれを同時に二つの仕方で規定しておる。すなわち、一方ではひとつの体は、たとえそれがどんなに小さくとも、つねに無限数の微粒子をもって成り立っている。……ひとつの体の個体性を規定しているのは、まず、こうした微粒子群のあいだに運動と静止、速さと遅さの複合関係〔構成関係〕なのである。他方また、ひとつの体は他の諸体を触発(アフェクテ)し、あるいはそれらによって触発される。ひとつの体をその個体性において規定しているのは、また、その体のもつこうした触発しあるいは触発される力〔変様能力〕なのである。(p. 237) 運動的な命題は私たちにいう。ひとつの体は微粒子間の運動と静止、速さと遅さの複合関係によって規定される、と。つまり、それはかたちやもろもろの機能によって規定されるのではない。全体の形状も、種に固有の形態も、諸々の器官機能も、微粒子間の速さと遅さの複合関係から決まってくるのであり、その逆ではない。(p. 238) 体についての第二の命題は私たちに、ひとつの体のもつ触発しまた触発される力を考えよと言う。ひとつの身体(またひとつの心)を、その形やもろもろの器官、機能から規定したり、これをなんらかの実体や主体として規定したりしないことだ。スピノザにとって、ひとつひとつの身体や心は、実体でもなければ主体でもなしに、様態であることをスピノザの読者なら誰でも知っている。(p. 239) スピノザよりずっと後になって、動物たちの世界を、それらのもつ情動群や触発しまた触発される力によって規定し、記述しようと試みる生物学者、博物学者たちが現れてくる。たとえばJ・フォン・ユクスキュルは哺乳動物の血を吸う生物、ダニについてこれをやってみせるだろう。彼はこの生物を三つの情動から規定する。まず光に反応する情動(木の枝の先端までよじ登る)、第二に嗅覚的な情動(哺乳動物が枝の下を通るときにその上に落下する)、第三に熱の反応する情動(毛がなく、熱の高い部位を探す)。広大な森に起こるさまざまなこと、そのすべてのなかにあってたった三つの情動から成り立っている世界。満腹してほどなく死んでゆくダニ、またきわめて長期間空腹のままでいられるダニ、この動物のもつ触発される力は、こうして最高の強度閾、最低の強度閾をもつ。動物であれ、人間であれ、その身体をそれがとりうる情動群から規定してゆくこうした研究にもとづいて、今日エトロギー〔éthologie=動物行動学、生態学〕と呼ばれるものは築かれてきた。(p. 240) スピノザの〈エチカ〉はモラル〔人間的道徳・倫理〕とは何の関係もない。彼はひとつのエトロジーとして、いいかえれば、そうした内在の平面のうえでさまざまの速さと遅さ、さまざまの触発し触発される力がとげる構成の問題としてこれをとらえているのである。だからこそ彼は真実叫びをあげて言うのだ。君たちは、良きにせよ悪しきにせよ、自分に何ができるか知ってはいない。君たちはひとつの身体、またひとつの心が、ある出会いにおいて、ある組み合いにおいて、ある結びつき合いにおいて、何をなしうるかをあらかじめ知りはしない、と。(p. 241) |
私たちは、スピノジストならば、なにかをその形やもろもろの器官、機能から規定したり、それを実体や主体として規定したりしないということだ。中世自然学の、または地理学の用語をかりていえば、経度(longitude)と緯度(latitude)とによって規定するのである。どんな体でもいい、一個の動物でも音響の体でも、ひとつの心や観念でも、言語学の試料体でも、ひとつの社会体でも集団でもいい。私たちは、ひとつの体を構成している微粒子群のあいだに成り立つ速さと遅さ、運動と静止の複合関係の総体を、その体の〈軽度〉と呼ぶ。ここにいう微粒子(群)は、この見地からして、それら自身は形をもたない要素(群)である。私たちはまた、各時点においてひとつの体を満たす情動の総体を、その体の〈緯度〉と呼ぶ。いいかえればそれは、無名の力(存在力、触発=変様能力)がとる強度状態の総体のことである。(p. 245) その契機が隠れている場合も含めて、なんらかの超越的契機に結びついているうえからの組織化はすべて、神学的プランと呼ばれてよい。それは一個の神が思し召す計画だけではない。深い自然の奥底の進化(論)的展開も、一社会における権力の組織形成もやはりそうなのだ。これは構造的なプランであることも発生プランであることもあり、また同時にその両方であることもあるが、いずれにせよつねに、なんらかの形態とその発展、主体とその形成にかかわっている。形態の発展と主体の形成、これはこの第一種のプランの本質的特徴である。つまりは組織化のプランであり、発展的展開のプランなのだ。(p. 246) これとは逆に、内在的プランは補足的なひとつの次元など備えていない。構成、複合のプロセスは、どこまでもそれ自体として、その所与をとおして、所与のなかでとらえられなければならないからだ。それは組織化のプランでも発展的展開のプランでもなく、構成の平面(プラン)なのである。色彩は第一のプランを指し示しているかもしれないが、音楽、沈黙〔間〕と音のつくりだすプロセスは、この第一のプランに属している。ここにはもうものの形はない。かたちをなしていない物質の微細な微粒子群のあいだに成り立つ速度の複合関係があるだけだ。ここにはもう主体はない。無名の力がとる、個体を構成する情動状態があるだけだ。ただ運動と静止しか、力動的な情動付加しかとどめないこの平面(プラン)は、それが私たちに知覚させるものと一緒に、それに応じて知覚されてゆくのである。平面がちがえばその上では私たちの生き方も、ものの考え方も、作品の書き方もちがってくる。(p. 247) スピノザは、彼以外には誰ひとりそんな真似ができたとは思われないような興味深いある特別の利点をもっている。スピノザは、きわめて精巧で体系的な、学識の深さをうかがわせる並外れた概念装置をそなえた哲学者であると同時に、それでいて、哲学を識らない者でも、これ以上ないほど直接に、予備知識なしに出会うことができ、そこから突然の啓示、「閃光」を受けとることのできるまれな存在であるからだ。(p. 248) |
訳者あとがき 鈴木雅大 「六八年五月」と呼ばれる〈事件〉から話を始めよう。……歴史を画したというより、むしろ「意味の闖入し」(ドゥルーズ)、何よりもまず歴史に回収・還元されることを拒んだ、ある意味では、だからこそ〈事件〉だった、〈事件〉でしかなかった、〈事件〉としか呼びようがなかった、すぐれて「反時代的(非歴史的)な(ニーチェ)、「現在性」(フーコー)に満ちていた事件。「六八年五月は純粋状態の生成変化が発現し、なだれ込んできた出来事だったのです」(『記号と事件』二八二頁、河出書房新社)。(p. 279) そもそもドゥルーズの本は――この六八年以前に書かれたオーソドックスな「哲学史」的著作ですら――、「本を箱のようなものと考え、箱だから内部があると思い込んで」(『記号と事件』十七頁、河出書房新社)読めるようにはできていない。換言すれば彼の本は、そこになにかがある、あるいはそれがなにかであると考えて、この「なにか」に――〈ある(étre)〉と言う動詞によってその主語や属詞としてとりおさえられる「なにか」に、それを還元することができるようには書かれていない。むしろこの透明な動詞の厚みを切り裂いて、そこに〈あいだ〉をひらき、それを〈あいだ〉にひらいて、そこを「なにかが流れる」(同二三六頁)ように、そこに「なにかが起こりうる」ようにするために書かれているのである。しいてそれをこの「ある」という動詞でおさえようとすれば、そこにあるのは〈事件〉であるというほかはないだろう。「〈事件〉は哲学の概念であり、〈ある(étre)〉と言う動詞と属詞とを失効させる力をもった唯一の概念だから」(同二三七頁)である。(p.280)
(2010/9/24) |