純化する表現と透明な時間 |
ハンマースホイの絵画に初めて出合ったころ、たまたまジャック・デリダの「声と現象」 [2] を読んでいる途中であった。厳密に言えば、難しかったので再読していたのである。この本は、「フッサールの現象学における記号の問題入門」という副題が示すように、フッサールの「論理学」や「イデーン」における表現や記号の問題を批判的に論じたものである。デリダに興味があり、ついでにフッサール現象学も理解できるのではないかと、甘い期待で読み始めたのだが、現状は残念ながら「虻蜂取らず」のままである。 |
不純物の排除は、さらに徹底して、「心的体験の伝達あるいは表明に属するすべてのもの」を「指標作用の名のもとに、そこから除外する」 [6] 。ここでいう「指標」とは何だろう。「指標という概念を規定してきた、内世界的(ムンダーン)現実存在、自然性、可感性、経験性、連合等々の諸価値は、なるほどわれわれが予測する多くの媒介を通してではあるが、たぶんこの非-現前性の中に、その最終的統一性を見出すことになるのかもしれない。そして、この生き生きした現在の自己への非-現前性は、同時に〈他人との関係一般〉と〈時間化作用(タンポラリザシオン)の自己への関係〉とを特徴づけているのである」 [7] 。
表現から言述の指標作用を排除して残るものは、純粋な超越論的イデアの表現となるのであろうが、もちろん前述したように、絵画表現にそのまま適用できるわけではない。しかし、私たちが普通に考えている表現というものが多くの非本質的介在物をまとったものであること、それらを排除して真正の〈表現〉が成立するということは重要である。 |
【純化のプロセス】 その二つの心性の揺動の様子を見てみよう。図1では、テーブル、椅子、ピアノ、花台と花瓶、壁の絵、カーテンそして妻イーダらしい人物(後ろ姿であるが)までもが描かれている。すこし寂しい感じはするが、室内の道具立てはそろっている。
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これが、ハンマースホイによる〈他人との関係一般〉と〈時間化作用の自己への関係〉の表現空間における自己への非現前化へ志向する心性のもっと振れ幅が大きい絵であろう。 このようなハンマースホイ固有の絵が、私たちの心に惹起するものは何だろう。何もない寂しさ、孤独感、生活感のない暗さ、暗鬱な北欧の、あるいは北欧人の気分のようなものだろうか。 |
たとえば、この詩に描かれる「がらんどうの家」には椅子があり、まだ動いている「古風な柱時計」がある。だからこそ、「編物をしてゐる娘」、「暖爐に坐る黑猫」が想起されているのである。想起される時間の射程が短いのである。
がらんどうの部屋に、現在の生活で使っている道具を置いてみよう。時間はその道具にトラップされ、現在の生活の時間のみを表象するだろう。 ストランゲーゼ30番地の家は17世紀に建てられ、ハンマースホイは1898年から1909年までここに住んでいる [14]。図3や図4の部屋が描かれた時には、200年以上の生活の時間がそれらの部屋を過ぎていっているのである。何代もの、何家族もの生活の時間を全て見通すには、それぞれの生活に結びつくような事物があってはならない、ということが結果からの逆射として言うことができよう。 あかるいへやのなかに そして、累々と積み重ねられた時間は、その純化、その透明化が徹底されるにつれ、それぞれの部屋固有の積算された時間ばかりではなく、「どこの土地や因習にざわめくへや」につながるように、透明な時空の積み重ねのように変容していく。そこにもし動くものがあるとすれば、それは「へやの風」だけだ。 |
ハンマースホイの絵が、累積した透明な時間を私たちの心に惹起するとき、透明であるがゆえに、感受する私たちそれぞれの累積した生活時間の、あるいはまた、父祖からの累積した記憶の時間特有の色に染まった時間として、私たちの心に現前するだろう。それこそが、NHKのテレビ番組で小栗康平が「見る側の想像力を解放している」と評したことの本質だろうと思う。
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